稚内駅が「端」ということになったのは、戦後のことで、稚内が「国境の街」となったのも同時で、敢えて言うが「僅かに」70年のことである。
ここまで視てきたように、稚内は樺太をも視野に入れた交易を行う場として拓かれて歩んで来た。そうした経過は「国境の街」としての経過よりも遥かに永い。「端」ではなく「交点」、「通過点」だったのである。
稚内が「交点」、「通過点」として最も大きく発展したのは、稚泊航路や稚斗航路の「運航前」から「運航後」である。
現在の南稚内駅が「稚内駅」として開設された1922(大正11)年、旅客数は年間で5万3229人であったと伝えられるが、稚泊航路や稚斗航路の「運航後」ということになる1924(大正14)年には24万7030人と、概ね5倍に及ぶ勢いで増えている。
1945(昭和20)年頃、樺太は40万人程度の人口を擁したと言われるが、稚内はそういう地域と日本国内の他地域とを結ぶ「経路上」に在り、「端」ではなかった。稚泊航路や稚斗航路の乗客等、多くの人々が行き交う場だった。
そしてそこが「国境」ということになって概ね半世紀が経ち、「国境」の向こう側の様子も変わって行った。
1990年代を迎えようとしていた頃のソ連では、地方が周辺諸外国との交流を進めることを推奨し、そういう地方の一つであったサハリンは北海道等、日本との交流を目指し始めた。北海道でもサハリンのそうした動きを歓迎し、善隣関係から始まって、両国の両地域が色々な意味で利益を得られるということが望まれた。
そうした中、サハリン側も北海道側も、「決定的な問題」に行き当たる。両地域が隣接し、距離そのものが近く、それを「善し」として善隣関係の強化と、様々な分野の交流拡大を幾ら唱えてみても、当時は「両地域を直接に結び、誰でも利用可能な交通路」というものが皆無だったのだ。
簡単に往来出来ないのだから、「善隣」と言っても、遠い彼方の国どうしで往来するのと「移動に要する時間」が変わらないことになり、各分野での交流の可能性を幾ら強調してもリアリティーが欠ける状況だった。
やがてソ連がロシア連邦に体制を変え、日ロ両国で交通路を拓く話し合いが持たれ、「稚内・コルサコフ航路」が1995(平成7)年から運航を始めた。
この状況に関して、当時は航路の「開設」と一般には言われたが、稚内では「開設」とは余り言わなかった。「半世紀の沈黙を破って海峡に航路が還って来た」という意味を込め「復活」と言っていた。
「稚内・コルサコフ航路」が「開設」の際に稚内で用いられた「復活」という語には、「当然そうあるべき状態に復した」という含意が在るように思える。「稚内」という場所は、「樺太との間を結ぶ交通路の上」に在るのが、古くからの「当然そうあるべき状態」であると、地元では考えられているということになる。
日本国内の他地域から稚内を目指す場合、「この先に街が在るのだろうか?」と思えてしまうような空間を越えて稚内の市街に至ることになるのだが、稚内は古くから「海の彼方」との結び付きの中に存在し続けていた地域であり、「この先」どころか、稚内の海岸の先に多彩な可能性を秘めているのである。
とりあえず「日本の北の端の方」であり、「境界」である稚内を訪ねてみることは、広大な海と大地に刻まれた豊かな歴史を体感するということに他ならない筈だ。
【連載】『稚内―サハリンに向き合う街の歴史散歩』XI
現在の稚内港は、戦後の半世紀程度の期間を通じて相当に広く埋め立て等を進めて現状になっているが、1920年代から1940年代頃まで、大き目な船の離発着は専ら北埠頭で行われていた。稚泊航路も稚斗航路も、船は北埠頭で発着していた。
「屋蓋式防波堤」が築かれる以前、この埠頭は強風に晒され、更に浪が高い日には「ザッブーン!」と高波が襲い掛かるような状況で、旅客や貨物を扱うには大変に危険な状態でも在った。そこで「屋根でも付けるか?」というお話しになったようだ。
こんな所で「屋根でも付けるか?」とは言ってみても、どのようにすれば善いのか、少し考えてしまう。当時、現在の北海道開発局の前身ということになる役所に職を得たばかりの若きエンジニアが導き出した答えは「コンクリートのアーチ型橋梁を建設する技術の応用」であった。
大正時代頃から、コンクリートが各種の建設により広く用いられるようになって来ていた。各地での橋梁建設にも利用され「人や車輛に加えて路面電車も通行する橋」を築く際、コンクリートでアーチを造る橋が建設されている。筆者自身の見聞の範囲で、現在でも半ばは「技術発展を伝える貴重な史料」という意味も込めて、大切に利用され続けている例として、京都の七条大橋が「大正時代頃のコンクリートのアーチ橋梁」の判り易い例になると思われる。
「アーチ橋梁」は、架橋する川を横断するように、想定する道路の幅に合わせて型枠を設けてアーチ型を造る。稚内の「屋蓋式防波堤」の場合は、アーチを半分に切った型の型枠を、「屋根の幅」に相当する延長427メートルに亘って築き、コンクリートの重さでアーチの半分の型の長い屋根が崩れないように太く頑丈な柱の列を組み合わせることにしたのだ。
「屋蓋式防波堤」は、樺太との間を往来する連絡船の発着場所として利用され続けたが、1945(昭和20)年に航路が休止を余儀なくされた後には、石炭を保管する場所等となっていた。1970年代頃になると、創建時にコンクリートの中に海の砂を入れていたことから、やや傷みが目立つ状態になっていた。
1978(昭和53)年、「屋蓋式防波堤」は再建され、「稚内港北防波堤ドーム」と命名され、「親水護岸」という、人々が集まって憩いの場として行く方向性の中で、言わば「稚内港の歴史を内外に伝えるモニュメント」となって行った。
往時の「屋蓋式防波堤」と、現在の「稚内港北防波堤ドーム」との、外見上の最も大きな違いは、柱に据えられたランプの有無である。現在、夜間から早朝にはランプが灯ってなかなかに美しい景観を創り出しているが、往時の「屋蓋式防波堤」の柱にはランプは据えられていなかった。
この稚内港北防波堤ドームの傍には「稚泊航路記念碑」が据えられている。1923(大正12)年から1945(昭和20)年の航路の歴史を伝えるものである。記念碑の脇には、宗谷本線で活躍した経過も在るC55蒸気機関車の49号機の動輪が在る。
嘗て、動輪が据えられた辺りにC55蒸気機関車49号機「そのもの」が据えられていたが、「金属の塊」である蒸気機関車が、海辺で風雪に晒されていて、結局金属が傷んで「少し危ない」ということになり、あえなく解体の憂き目に遭ってしまった。C55は保存されている数が少なく、少し貴重とも見受けられるものだったので、少々残念な話題でもある。
稚内港北防波堤ドームの前に世界地図が刻まれた場所が在る。これは地元の方の間でも然程知られていない。
地図には、稚内市とも御縁が在る街の名前が出ている。サハリンに関してはネベリスク、コルサコフの地名がロシア語で刻まれている。
それぞれ稚斗航路、稚泊航路という歴史的な繋がりも在るのが、ネベリスクは1972(昭和47)年から、コルサコフは1991(平成3)年から、それぞれ稚内市との間で友好都市交流を続けている。広場を整備した1990年代には未だ友好都市提携をしていなかったが、サハリンに関して、他に稚内市はユジノサハリンスクとも友好都市交流を続けている。友好都市提携は2001(平成13)年である。
「屋蓋式防波堤」が築かれる以前、この埠頭は強風に晒され、更に浪が高い日には「ザッブーン!」と高波が襲い掛かるような状況で、旅客や貨物を扱うには大変に危険な状態でも在った。そこで「屋根でも付けるか?」というお話しになったようだ。
こんな所で「屋根でも付けるか?」とは言ってみても、どのようにすれば善いのか、少し考えてしまう。当時、現在の北海道開発局の前身ということになる役所に職を得たばかりの若きエンジニアが導き出した答えは「コンクリートのアーチ型橋梁を建設する技術の応用」であった。
大正時代頃から、コンクリートが各種の建設により広く用いられるようになって来ていた。各地での橋梁建設にも利用され「人や車輛に加えて路面電車も通行する橋」を築く際、コンクリートでアーチを造る橋が建設されている。筆者自身の見聞の範囲で、現在でも半ばは「技術発展を伝える貴重な史料」という意味も込めて、大切に利用され続けている例として、京都の七条大橋が「大正時代頃のコンクリートのアーチ橋梁」の判り易い例になると思われる。
「アーチ橋梁」は、架橋する川を横断するように、想定する道路の幅に合わせて型枠を設けてアーチ型を造る。稚内の「屋蓋式防波堤」の場合は、アーチを半分に切った型の型枠を、「屋根の幅」に相当する延長427メートルに亘って築き、コンクリートの重さでアーチの半分の型の長い屋根が崩れないように太く頑丈な柱の列を組み合わせることにしたのだ。
「屋蓋式防波堤」は、樺太との間を往来する連絡船の発着場所として利用され続けたが、1945(昭和20)年に航路が休止を余儀なくされた後には、石炭を保管する場所等となっていた。1970年代頃になると、創建時にコンクリートの中に海の砂を入れていたことから、やや傷みが目立つ状態になっていた。
1978(昭和53)年、「屋蓋式防波堤」は再建され、「稚内港北防波堤ドーム」と命名され、「親水護岸」という、人々が集まって憩いの場として行く方向性の中で、言わば「稚内港の歴史を内外に伝えるモニュメント」となって行った。
往時の「屋蓋式防波堤」と、現在の「稚内港北防波堤ドーム」との、外見上の最も大きな違いは、柱に据えられたランプの有無である。現在、夜間から早朝にはランプが灯ってなかなかに美しい景観を創り出しているが、往時の「屋蓋式防波堤」の柱にはランプは据えられていなかった。
この稚内港北防波堤ドームの傍には「稚泊航路記念碑」が据えられている。1923(大正12)年から1945(昭和20)年の航路の歴史を伝えるものである。記念碑の脇には、宗谷本線で活躍した経過も在るC55蒸気機関車の49号機の動輪が在る。
嘗て、動輪が据えられた辺りにC55蒸気機関車49号機「そのもの」が据えられていたが、「金属の塊」である蒸気機関車が、海辺で風雪に晒されていて、結局金属が傷んで「少し危ない」ということになり、あえなく解体の憂き目に遭ってしまった。C55は保存されている数が少なく、少し貴重とも見受けられるものだったので、少々残念な話題でもある。
稚内港北防波堤ドームの前に世界地図が刻まれた場所が在る。これは地元の方の間でも然程知られていない。
地図には、稚内市とも御縁が在る街の名前が出ている。サハリンに関してはネベリスク、コルサコフの地名がロシア語で刻まれている。
それぞれ稚斗航路、稚泊航路という歴史的な繋がりも在るのが、ネベリスクは1972(昭和47)年から、コルサコフは1991(平成3)年から、それぞれ稚内市との間で友好都市交流を続けている。広場を整備した1990年代には未だ友好都市提携をしていなかったが、サハリンに関して、他に稚内市はユジノサハリンスクとも友好都市交流を続けている。友好都市提携は2001(平成13)年である。
【連載】『稚内―サハリンに向き合う街の歴史散歩』X
宗谷方面を巡ってみると、交易のための場所として宗谷場所が拓かれ、ロシアとの摩擦で注目を受けた経過、海域が諸外国に紹介される契機となった出来事、日露戦争や第2次大戦のような、この辺りの国境が変化した出来事の片鱗を偲ぶことが出来る。
そこから稚内の市街地に入ってみると、稚内が「端」ではなく、「交通結節点」または「人やモノが交差する地点」として歩んでいたことを示す痕跡に出会える。
稚内と他地域とを結ぶ交通網の整備が本格化するのは、南樺太が日本領となって連絡の必然性が生じていて、加えて北海道内での鉄道建設や道路建設が盛んになっていた1920年代のことである。鉄路は、既に廃線となっている天北線、現在も稼働している宗谷線の順に稚内に至った経過である。
宗谷線の起点・終点となっている現在の稚内駅前に立てば、広場になっている辺りに、現在の駅舎となる以前に線路が在ったとされる辺りにエンドレールが据えられていて、来訪者が記念撮影を行う人気ポイントになっている。そのエンドレールの辺りから、広場の地面に線路をイメージした筋が見受けられる。その筋が続く先に眼を向ければ、稚内市内で最高層の建築の一つと目される大きなホテルのビルが見え、ビルの影に柱状のモノが並ぶ不思議な構造物が見える。
この「柱状のモノが並ぶ不思議な構造物」が「稚内港北防波堤ドーム」である。「稚内港北防波堤ドーム」は、創建時には「屋蓋式防波堤」(おくがいしきぼうはてい)と呼ばれていた。
1931(昭和6)年から1936(昭和11)年の5年間の工期で竣工した「屋蓋式防波堤」は延長が427メートルで、柱が70本設けられている。柱の前の、現在は道路になっている辺りに鉄路が敷設されて列車が往来し、乗客は柱の向こうの屋根の下に乗降していた。そしてこの、現在は北埠頭と呼ばれている場所で発着した、樺太との間を結ぶ連絡船を利用したのである。
1923(大正12)年に稚内と現在のコルサコフ、当時の大泊との間を結ぶ稚泊航路が、翌1924(大正13)年に現在のネベリスク、当時の本斗との間を結ぶ稚斗航路が相次いで運航を始めた。
そこから稚内の市街地に入ってみると、稚内が「端」ではなく、「交通結節点」または「人やモノが交差する地点」として歩んでいたことを示す痕跡に出会える。
稚内と他地域とを結ぶ交通網の整備が本格化するのは、南樺太が日本領となって連絡の必然性が生じていて、加えて北海道内での鉄道建設や道路建設が盛んになっていた1920年代のことである。鉄路は、既に廃線となっている天北線、現在も稼働している宗谷線の順に稚内に至った経過である。
宗谷線の起点・終点となっている現在の稚内駅前に立てば、広場になっている辺りに、現在の駅舎となる以前に線路が在ったとされる辺りにエンドレールが据えられていて、来訪者が記念撮影を行う人気ポイントになっている。そのエンドレールの辺りから、広場の地面に線路をイメージした筋が見受けられる。その筋が続く先に眼を向ければ、稚内市内で最高層の建築の一つと目される大きなホテルのビルが見え、ビルの影に柱状のモノが並ぶ不思議な構造物が見える。
この「柱状のモノが並ぶ不思議な構造物」が「稚内港北防波堤ドーム」である。「稚内港北防波堤ドーム」は、創建時には「屋蓋式防波堤」(おくがいしきぼうはてい)と呼ばれていた。
1931(昭和6)年から1936(昭和11)年の5年間の工期で竣工した「屋蓋式防波堤」は延長が427メートルで、柱が70本設けられている。柱の前の、現在は道路になっている辺りに鉄路が敷設されて列車が往来し、乗客は柱の向こうの屋根の下に乗降していた。そしてこの、現在は北埠頭と呼ばれている場所で発着した、樺太との間を結ぶ連絡船を利用したのである。
1923(大正12)年に稚内と現在のコルサコフ、当時の大泊との間を結ぶ稚泊航路が、翌1924(大正13)年に現在のネベリスク、当時の本斗との間を結ぶ稚斗航路が相次いで運航を始めた。
【連載】『稚内―サハリンに向き合う街の歴史散歩』IX
第2次大戦に関連して、米軍潜水艦と日本軍との交戦というような事件の他にも、稚内には「戦時」を伝える場所が在る。その場所は、宗谷岬周辺から市内側を目指して進み、稚内空港の近くへ移動しなければならない。
稚内空港の近くから少し内陸に入った辺りに、「旧海軍通信所」と呼び習わされている施設が在る。残念ながら少し傷んだ建物と、一部修繕が施された建物が混在するが、古い煉瓦造の建物が一帯に見受けられる。
「旧海軍通信所」は、正しくは「旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所」と言う。施設は1931(昭和6)年に新設された。平屋の送信所庁舎・隊舎、木柱から順次鉄塔のアンンテナがそそり立つ施設が丘の樹木の中に目立たぬように建設された。1941(昭和16)年に至り、煉瓦造の庁舎や隊舎が完成し、隊員の数も増やされるなど、体制の充実が図られたのだという。
往時は「何やら軍の施設で兵隊や将校が出入りしている」という以上のことは、部外者には何も判らなかった訳だが、戦後になって重要なことが明かされた。
この「大湊海軍通信隊稚内派遣隊幕別送信所」は、海軍の最高首脳と結び付いた送受信基地であり、重要な情報の中継を行った経過が在る。
かの「真珠湾攻撃」の際、択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)で待機中であった南雲忠一中将が率いる第一航空艦隊に対し、「ニイタカヤマノボレ ヒトフタマルハチ」という通信を中継していた。更に、少し前に『硫黄島からの手紙』という映画が在ったが、あの映画の主要な舞台となった硫黄島で、日本軍の指揮を執って米軍に対して抗戦を続けていた栗林中将が1945(昭和20)年3月17日に送った「決別電報」を中継した経過が在る。
戦後、稚内では米軍が活動していた経過が在るが、この「旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所」では、1947(昭和22)年から1962(昭和37)年まで米軍が活動していた。1973(昭和48)年までは、そのまま防衛庁が管理していた。2006(平成18)年、国から稚内市が有償譲渡を受けて今日に至っている。
稚内空港の近くから少し内陸に入った辺りに、「旧海軍通信所」と呼び習わされている施設が在る。残念ながら少し傷んだ建物と、一部修繕が施された建物が混在するが、古い煉瓦造の建物が一帯に見受けられる。
「旧海軍通信所」は、正しくは「旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所」と言う。施設は1931(昭和6)年に新設された。平屋の送信所庁舎・隊舎、木柱から順次鉄塔のアンンテナがそそり立つ施設が丘の樹木の中に目立たぬように建設された。1941(昭和16)年に至り、煉瓦造の庁舎や隊舎が完成し、隊員の数も増やされるなど、体制の充実が図られたのだという。
往時は「何やら軍の施設で兵隊や将校が出入りしている」という以上のことは、部外者には何も判らなかった訳だが、戦後になって重要なことが明かされた。
この「大湊海軍通信隊稚内派遣隊幕別送信所」は、海軍の最高首脳と結び付いた送受信基地であり、重要な情報の中継を行った経過が在る。
かの「真珠湾攻撃」の際、択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)で待機中であった南雲忠一中将が率いる第一航空艦隊に対し、「ニイタカヤマノボレ ヒトフタマルハチ」という通信を中継していた。更に、少し前に『硫黄島からの手紙』という映画が在ったが、あの映画の主要な舞台となった硫黄島で、日本軍の指揮を執って米軍に対して抗戦を続けていた栗林中将が1945(昭和20)年3月17日に送った「決別電報」を中継した経過が在る。
戦後、稚内では米軍が活動していた経過が在るが、この「旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所」では、1947(昭和22)年から1962(昭和37)年まで米軍が活動していた。1973(昭和48)年までは、そのまま防衛庁が管理していた。2006(平成18)年、国から稚内市が有償譲渡を受けて今日に至っている。
【連載】『稚内―サハリンに向き合う街の歴史散歩』VIII
ラペルーズの記念碑が海峡を見詰め続けていることを取上げたが、この宗谷岬平和公園には、本当に「海峡を見詰め続ける」というような活動が行われた痕跡も残っている。
文字どおり「海峡を見詰める」という位置に、石造の小さな塔のようなものが据えられ、上に上るための階段も設けられているのが眼に留まる。この施設が「旧海軍望楼跡」で、日露戦争の歴史を伝えるものである。
日露戦争当時、「バルチック艦隊来襲」という話しが在った。欧州から、アフリカを廻ってインド洋に出て、南側から日本近海へ北上してウラジオストクに向かうと考えられていた。
その大筋に対し、目的地のウラジオストクが近付いた辺りの行動に関しては、①対馬辺りから日本海に侵入、②太平洋側から津軽海峡に入って日本海側に進む、③大きく北海道の東側を迂回して宗谷海峡に入って日本海側に進む、という可能性が考えられた。そのため、来襲する艦隊が「③」の動きを見せた場合に動向を観測して電信で連絡する目的で、宗谷岬に望楼を設けたのだった。
バルチック艦隊は、サンクトペテルブルグに近いクロンシュタット軍港から、バルト海、北海を経て大西洋を南下し、南アフリカの喜望峰を巡り、マダガスカル島で後発の増援艦隊を長い期間待つ等し、インド洋を越えて日本近海を伺う長旅をしている。複雑な国際情勢下、バルチック艦隊は様々な干渉を受け、途中の石炭等の補給で苦労していた。そのため、日本との決戦に備えるべくウラジオストクを目指すには、「最短コース」の対馬沖通過以外に考え悪く、実際にそのような針路を進んだ。日本の連合艦隊側でも「最短コース以外は難しそうだ」と考えて対馬沖での戦いに備えており、実際に対馬沖で戦うこととなった。
宗谷岬の望楼では、バルチック艦隊の姿を視ることは無く、後に「日本海海戦」の一件が、ここで寒風に晒されていた関係者にもたらされたことであろう。望楼は、戦いに備えながら、結局戦闘には至らなかったという史実を伝えるが、少し下った時代には海峡で戦闘が行われた経過も在り、望楼の傍にはそういう史実を伝えるモニュメントも設けられている。
海峡で戦闘が行われたのは、日露戦争の時代から40年程後の第2次大戦下のことである。
第2次大戦下、米海軍の潜水艦が宗谷海峡に展開し、「通商破壊作戦」を実施していた。軍の艦船の他、各種の輸送船等も撃沈してしまう行動であった。往時の日本海軍では、潜水艦は「艦隊行動の補助」というような、他国ではやや例が少ない運用が目立ったようだが、この時代には「潜水艦の運用」と言えば、この種の「通商破壊作戦」が普通であった。
当時、稚内港に船が待機して洋上を巡回し、敵艦発見時には交戦もしていたが、大沼を基地として水上飛行機を飛ばしての巡回、必要な場合には交戦という行動も在った。
この時代の潜水艦というものは、海上で殆どの時間「ボート」として航行していて、攻撃作戦の場面や、敵方に発見されて追われる羽目に陥った際に「急速潜航」するというものであった。当時の潜水艦は、通常の船舶同様にディーゼルエンジンで航行することが基本で、潜航時にはバッテリーとモーターを利用した。バッテリーの稼働可能時間が短めであったことも在って、「殆ど常時、“ボート”として海上を航行」という型で運用されていた。任務航海の期間の大半を、海中で身を潜める、現代の原子力潜水艦のような艦とは大きくイメージが異なっている。
宗谷海峡に展開した米海軍の潜水艦として、<ワフー>号―wahoo=サバ科の魚、カマスサワラ。米海軍は長く、潜水艦に海洋生物の名を付けていた。比較的近年の原潜では、都市名や州の名を付けている。― は大きな戦果を挙げており、米海軍部内でも高い評価を受けていた。1943年10月、大沼から巡回に出た水上飛行機が同艦を発見し、海上の船も発見海域に急行した。上空からの爆雷投下を含む攻撃で、<ワフー>号は沈没してしまった。
1990年代に至り、この<ワフー>号に乗艦していた人達の一族等、関係者が稚内を訪ね、稚内在住の旧海軍関係者等と交流を持っている。1995年から、関係者による調査も行われており、そうした経過から、<ワフー>号が沈んだ戦いを伝えるモニュメントの製作という話しが持ち上がり、宗谷岬平和公園内に設置された。
文字どおり「海峡を見詰める」という位置に、石造の小さな塔のようなものが据えられ、上に上るための階段も設けられているのが眼に留まる。この施設が「旧海軍望楼跡」で、日露戦争の歴史を伝えるものである。
日露戦争当時、「バルチック艦隊来襲」という話しが在った。欧州から、アフリカを廻ってインド洋に出て、南側から日本近海へ北上してウラジオストクに向かうと考えられていた。
その大筋に対し、目的地のウラジオストクが近付いた辺りの行動に関しては、①対馬辺りから日本海に侵入、②太平洋側から津軽海峡に入って日本海側に進む、③大きく北海道の東側を迂回して宗谷海峡に入って日本海側に進む、という可能性が考えられた。そのため、来襲する艦隊が「③」の動きを見せた場合に動向を観測して電信で連絡する目的で、宗谷岬に望楼を設けたのだった。
バルチック艦隊は、サンクトペテルブルグに近いクロンシュタット軍港から、バルト海、北海を経て大西洋を南下し、南アフリカの喜望峰を巡り、マダガスカル島で後発の増援艦隊を長い期間待つ等し、インド洋を越えて日本近海を伺う長旅をしている。複雑な国際情勢下、バルチック艦隊は様々な干渉を受け、途中の石炭等の補給で苦労していた。そのため、日本との決戦に備えるべくウラジオストクを目指すには、「最短コース」の対馬沖通過以外に考え悪く、実際にそのような針路を進んだ。日本の連合艦隊側でも「最短コース以外は難しそうだ」と考えて対馬沖での戦いに備えており、実際に対馬沖で戦うこととなった。
宗谷岬の望楼では、バルチック艦隊の姿を視ることは無く、後に「日本海海戦」の一件が、ここで寒風に晒されていた関係者にもたらされたことであろう。望楼は、戦いに備えながら、結局戦闘には至らなかったという史実を伝えるが、少し下った時代には海峡で戦闘が行われた経過も在り、望楼の傍にはそういう史実を伝えるモニュメントも設けられている。
海峡で戦闘が行われたのは、日露戦争の時代から40年程後の第2次大戦下のことである。
第2次大戦下、米海軍の潜水艦が宗谷海峡に展開し、「通商破壊作戦」を実施していた。軍の艦船の他、各種の輸送船等も撃沈してしまう行動であった。往時の日本海軍では、潜水艦は「艦隊行動の補助」というような、他国ではやや例が少ない運用が目立ったようだが、この時代には「潜水艦の運用」と言えば、この種の「通商破壊作戦」が普通であった。
当時、稚内港に船が待機して洋上を巡回し、敵艦発見時には交戦もしていたが、大沼を基地として水上飛行機を飛ばしての巡回、必要な場合には交戦という行動も在った。
この時代の潜水艦というものは、海上で殆どの時間「ボート」として航行していて、攻撃作戦の場面や、敵方に発見されて追われる羽目に陥った際に「急速潜航」するというものであった。当時の潜水艦は、通常の船舶同様にディーゼルエンジンで航行することが基本で、潜航時にはバッテリーとモーターを利用した。バッテリーの稼働可能時間が短めであったことも在って、「殆ど常時、“ボート”として海上を航行」という型で運用されていた。任務航海の期間の大半を、海中で身を潜める、現代の原子力潜水艦のような艦とは大きくイメージが異なっている。
宗谷海峡に展開した米海軍の潜水艦として、<ワフー>号―wahoo=サバ科の魚、カマスサワラ。米海軍は長く、潜水艦に海洋生物の名を付けていた。比較的近年の原潜では、都市名や州の名を付けている。― は大きな戦果を挙げており、米海軍部内でも高い評価を受けていた。1943年10月、大沼から巡回に出た水上飛行機が同艦を発見し、海上の船も発見海域に急行した。上空からの爆雷投下を含む攻撃で、<ワフー>号は沈没してしまった。
1990年代に至り、この<ワフー>号に乗艦していた人達の一族等、関係者が稚内を訪ね、稚内在住の旧海軍関係者等と交流を持っている。1995年から、関係者による調査も行われており、そうした経過から、<ワフー>号が沈んだ戦いを伝えるモニュメントの製作という話しが持ち上がり、宗谷岬平和公園内に設置された。
【連載】『稚内―サハリンに向き合う街の歴史散歩』VII
宗谷公園の脇に、宗谷丘陵へ通じる細い道が在る。大型バスは進入不可能な細い道だ。バイクや乗用車、マイクロバス位までなら入ることも出来るのだが。この場所は「徒歩」を基本として宗谷丘陵を観るように整備された「フットパス」と呼ばれる小路で、ホタテの貝殻を砕いた真っ白に見える材料が敷き詰められている。
稚内市内で「最も知られた名所」ということになると思われる宗谷岬の手前で、内陸側に入って丘陵を眺めるという営みだが、「他所では余り御目に掛からないような光景を眺めて楽しむ」という意味では、海岸の国道をストレートに進んで宗谷岬を訪ねるよりも、余程見応えが在る筈である。
宗谷丘陵は、山火事で樹木が多く損なわれた経過の故に、氷河によって削られて形成されたという「周氷河地形」の様子が判り易い型で視られる貴重な場所だ。現在は道路から見える場所の広大な部分が牧草地―約1179ヘクタールの牧場が設けられていて、約2300頭の牛が肥育されている。潮風を受けた牧草を食む肉牛「宗谷黒牛」が出荷されている。―として利用されており、少し離れた辺りに風力発電の大きな風車が林立する様は「何処かの遠い国の光景」とか「誰かの夢の中」という感で、圧倒されてしまう。
この宗谷丘陵に設けられた道路を抜け、眼下に「最北端」のモニュメントや、そこに立寄る人達が見える辺りの高台が「宗谷岬平和公園」となっている。園内には地域の歴史を伝えるモニュメントが幾つか見受けられる。
稚内の近海やサハリンの周辺は、比較的「遅く」まで、詳しいことが多くの国々に必ずしも知られていなかった経過が在る地域だ。「サハリン」というものが、半島なのか島なのかということも永く判然としないままになっていて、間宮林蔵がそれを確かめたことが知られる。その他方ロシアでは、極東各地で活動をしたロシア海軍の軍人で、最終階級が提督であったゲンナージー・ネヴェリスコイがそれを詳しくロシア本国に報告している故事を以て、島であることを確かめたと理解している。
宗谷岬を訪ね、そういうことを想い起しながら、気象条件が好ければ見えるサハリンの島影を望むのだが、外国では眼前の「宗谷海峡」はそのように呼ばれていない。
例えば、外国の地図帳の索引で、“S”の項目で「宗谷海峡」を探しても見付からず、「海峡が消える筈がない?」と不審に思えば、多くの外国語で「宗谷海峡」という呼称が一般的ではないことを学ぶことになる。諸外国では、この海峡は「ラペルーズ海峡」として知られている。これは、欧州諸国にこの近海の情報をもたらしたのが、フランス人の航海家であったラペルーズだからである。外国の地図帳の索引で、サハリンの島影を望む宗谷岬が在る海域を探す場合、“L”の項目で「ラペルーズ海峡」を探す必要が在る。
ラペルーズは、1787年に「ラペルーズ海峡」と呼ばれることとなる「宗谷海峡」を通過している。自身の名が地図に残った訳だが、彼はこの近海の幾つかの箇所に、探検に参加した者、または貢献した関係者の名前を付けている。サハリン沖のモネロン島、サハリン南端のクリリオン岬、サハリンの対岸の大陸のデカストリというようなものが、そうした事例に相当する。
ラペルーズが「ラペルーズ海峡」と呼ばれることとなる「宗谷海峡」を通過した1787年の少し後、フランス革命が発生している。フランス革命の時期と言えば、日本では芝居にもなって人気が在る少女漫画の『ベルサイユのばら』が知られる。漫画の主人公である「男装の麗人」ことオスカルは「マリー・アントワネット姫の警護役」という役目の人物として登場し、揺れ動いた時代の中を生きて行く様が描かれる。このマリー・アントワネット姫が嫁いでいたのが、フランス国王ルイ16世だった。このルイ16世がラペルーズと関連が深い人物である。
ルイ16世は海軍(艦隊)の強化や、遠い地域への探検隊の派遣等に力を入れていたといい、ラペルーズはルイ16世の命を受けて、世界周航の旅に出ているのだ。
ラペルーズは1785年8月にフランスのブレスト港を出航した。50トンクラスのフリゲート艦2隻という船団で出ている。南米のチリ、ハワイ、アラスカを巡り、サハリン近海、千島列島を経て、1787年9月にカムチャッカに至った。カムチャッカで一人が下船し、約一年掛かりでシベリアを横断し、欧州に探検の報告をもたらしている。やがて現在「仏領ポリネシア」として知られている海域等を巡って、1788年にオーストラリア周辺に至ったが、そこで探検隊は消息を絶ってしまっている。
ラペルーズはフランスのアルビ出身である。アルビは「画家ロートレックの故郷」として美術ファンに知られているが、現地では「郷土の輩出した史上の有名人」としてはラペルーズがより有名と見受けられる。街の入口辺りに、ラペルーズの大きな銅像も在る。
このアルビに「ラペルーズの足跡を訪ねる」というような活動をしている方達が在り、稚内へやって来ている。そうした人達との間で交流をしている人達も稚内には在って、そのような縁から「海峡通過」から220年ということになる2007年、アルビから贈られたプレートを添え、宗谷岬平和公園内に記念碑が設けられた。ラペルーズのポートレートとフランス語の刻まれたプレートは、丘の上から海峡を見詰め続けている。
稚内市内で「最も知られた名所」ということになると思われる宗谷岬の手前で、内陸側に入って丘陵を眺めるという営みだが、「他所では余り御目に掛からないような光景を眺めて楽しむ」という意味では、海岸の国道をストレートに進んで宗谷岬を訪ねるよりも、余程見応えが在る筈である。
宗谷丘陵は、山火事で樹木が多く損なわれた経過の故に、氷河によって削られて形成されたという「周氷河地形」の様子が判り易い型で視られる貴重な場所だ。現在は道路から見える場所の広大な部分が牧草地―約1179ヘクタールの牧場が設けられていて、約2300頭の牛が肥育されている。潮風を受けた牧草を食む肉牛「宗谷黒牛」が出荷されている。―として利用されており、少し離れた辺りに風力発電の大きな風車が林立する様は「何処かの遠い国の光景」とか「誰かの夢の中」という感で、圧倒されてしまう。
この宗谷丘陵に設けられた道路を抜け、眼下に「最北端」のモニュメントや、そこに立寄る人達が見える辺りの高台が「宗谷岬平和公園」となっている。園内には地域の歴史を伝えるモニュメントが幾つか見受けられる。
稚内の近海やサハリンの周辺は、比較的「遅く」まで、詳しいことが多くの国々に必ずしも知られていなかった経過が在る地域だ。「サハリン」というものが、半島なのか島なのかということも永く判然としないままになっていて、間宮林蔵がそれを確かめたことが知られる。その他方ロシアでは、極東各地で活動をしたロシア海軍の軍人で、最終階級が提督であったゲンナージー・ネヴェリスコイがそれを詳しくロシア本国に報告している故事を以て、島であることを確かめたと理解している。
宗谷岬を訪ね、そういうことを想い起しながら、気象条件が好ければ見えるサハリンの島影を望むのだが、外国では眼前の「宗谷海峡」はそのように呼ばれていない。
例えば、外国の地図帳の索引で、“S”の項目で「宗谷海峡」を探しても見付からず、「海峡が消える筈がない?」と不審に思えば、多くの外国語で「宗谷海峡」という呼称が一般的ではないことを学ぶことになる。諸外国では、この海峡は「ラペルーズ海峡」として知られている。これは、欧州諸国にこの近海の情報をもたらしたのが、フランス人の航海家であったラペルーズだからである。外国の地図帳の索引で、サハリンの島影を望む宗谷岬が在る海域を探す場合、“L”の項目で「ラペルーズ海峡」を探す必要が在る。
ラペルーズは、1787年に「ラペルーズ海峡」と呼ばれることとなる「宗谷海峡」を通過している。自身の名が地図に残った訳だが、彼はこの近海の幾つかの箇所に、探検に参加した者、または貢献した関係者の名前を付けている。サハリン沖のモネロン島、サハリン南端のクリリオン岬、サハリンの対岸の大陸のデカストリというようなものが、そうした事例に相当する。
ラペルーズが「ラペルーズ海峡」と呼ばれることとなる「宗谷海峡」を通過した1787年の少し後、フランス革命が発生している。フランス革命の時期と言えば、日本では芝居にもなって人気が在る少女漫画の『ベルサイユのばら』が知られる。漫画の主人公である「男装の麗人」ことオスカルは「マリー・アントワネット姫の警護役」という役目の人物として登場し、揺れ動いた時代の中を生きて行く様が描かれる。このマリー・アントワネット姫が嫁いでいたのが、フランス国王ルイ16世だった。このルイ16世がラペルーズと関連が深い人物である。
ルイ16世は海軍(艦隊)の強化や、遠い地域への探検隊の派遣等に力を入れていたといい、ラペルーズはルイ16世の命を受けて、世界周航の旅に出ているのだ。
ラペルーズは1785年8月にフランスのブレスト港を出航した。50トンクラスのフリゲート艦2隻という船団で出ている。南米のチリ、ハワイ、アラスカを巡り、サハリン近海、千島列島を経て、1787年9月にカムチャッカに至った。カムチャッカで一人が下船し、約一年掛かりでシベリアを横断し、欧州に探検の報告をもたらしている。やがて現在「仏領ポリネシア」として知られている海域等を巡って、1788年にオーストラリア周辺に至ったが、そこで探検隊は消息を絶ってしまっている。
ラペルーズはフランスのアルビ出身である。アルビは「画家ロートレックの故郷」として美術ファンに知られているが、現地では「郷土の輩出した史上の有名人」としてはラペルーズがより有名と見受けられる。街の入口辺りに、ラペルーズの大きな銅像も在る。
このアルビに「ラペルーズの足跡を訪ねる」というような活動をしている方達が在り、稚内へやって来ている。そうした人達との間で交流をしている人達も稚内には在って、そのような縁から「海峡通過」から220年ということになる2007年、アルビから贈られたプレートを添え、宗谷岬平和公園内に記念碑が設けられた。ラペルーズのポートレートとフランス語の刻まれたプレートは、丘の上から海峡を見詰め続けている。
【連載】『稚内―サハリンに向き合う街の歴史散歩』VI
珈琲豆を象った「津軽藩兵詰合記念碑」から更に進むと、小ぶりな石柱が並んでいる場所が在る。これは各地から北方警固で宗谷にやって来た人達の中、当地で他界した皆さんを葬ったと伝えられる墓地である。数が多めなのは会津松平家中の武士達であることから、「会津藩士の墓」と呼び習わされている。そして、ここには会津若松の老舗蔵の日本酒が供えられている場合さえ見受けられる。
1808年、会津松平家は「望んで」武士達を北方警固に差し向けた経過が在る。江戸幕府の第三代将軍、徳川家光の異母弟である保科正之が興した会津松平家は「飽くまでも幕府のために力を尽くすこと」を「家訓」としており、「北方警固」はそれを実現する好機であると捉え、同時に当時の新しい考え方であった「長沼流兵学」を基礎とする軍事演習を重ねていたことも在り、武威発揚の機会とも捉え、幕府が派遣人員について「人数500程」としたものを「動員・派遣可能な人員の殆ど全て」とも目される1500名以上を派遣することとしたのだった。
会津の武士達は宗谷に入って、ここを「本陣」とし、一部は利尻島へ、更に別の一部は樺太へも渡っている。宗谷、利尻島、樺太の何れでも、ロシア側との交戦等の状況は発生していない。が、「北方警固」の武士達は、慣れない気候や栄養状態―日頃口にしていた生鮮品、野菜類が極端に不足―等により、体調を崩す者が多く、死亡した者も在る。そうした死者を弔うべく、墓所が設けられたのである。
1808年頃の宗谷は、恐らくは日頃の交易や漁業等に携わる人達の数を、遥かに上回るような数の武士達が溢れ、独特な活気を醸し出していたことであろうが、そんな頃に間違いなく宗谷に居た筈の重要人物が在る。間宮林蔵である。
北方警固という取組が行われる契機となってしまったフヴォストフによる襲撃の一つである択捉島での事件の際、間宮林蔵は択捉島に在って測量の仕事等を行っていたという。フヴォストフは、艦載の大砲を使用して襲撃を敢行しており、番所に居合わせた幕府関係者等はその火力に圧倒されてしまい、為す術が無い状況だった。間宮林蔵は、そうした状況であったことを「不面目である」と感じ、宗谷に移る中で樺太の踏査を思い立ったとも言われる。樺太は、島なのか半島なのか、未だ判らなかったので、それを確かめようとしたのだ。
間宮林蔵は、1808年には松田伝十郎と連れ立って、1809年には単独で樺太を踏査したという。1808年の探検では、厳冬期が近付くことを警戒し、島の北西部の海峡を目視可能な地点に至らずに引揚げたが、それを悔いて再度単独で出発した1809年にはそれを確かめたことに加え、現地住民に同行してアムール川を遡り、大陸にも足跡を記している。
1808年の宗谷で、会津松平家の武士達が多数入って来た傍らで、間宮林蔵は松田伝十郎と共に樺太探検の構想を話し合っていたかもしれない。そういう、「ほぼ間違いなく足跡を残した」と見受けられる宗谷場所の一部であった宗谷公園には、間宮林蔵の「顕彰碑」が在る。
「会津藩士の墓」と呼び習わされている辺りの脇に古い池が在り―夏季には池の蓮が美しい花を見せてくれる。―、その脇の小さな坂を上った辺りに、間宮林蔵の小さく可愛らしい胸像が据えられている。それが「間宮林蔵顕彰碑」である。
宗谷公園という場所は、「名所」と言う程に多くの来訪者を迎えている訳でもない場所かもしれないし、市内や近在に住んでいても訪れる機会が少ないかもしれない。しかし、ここは「海から拓けた」というこの地域の「歴史の息遣い」というようなものが感じられる場所である。
17世紀から19世紀に相当する江戸時代は、「丁髷と刀の時代」ということで、何か酷く現代とは様子が異なるように想像するものであると思われるが、当時は技術的な可能性が或る程度限定されていたにも拘らず、「何となく想像する」以上に全国を結ぶ物流網、遠隔地同士の商取引の仕組み等が発展していた側面も在る。
宗谷場所もこうした物流網に組み込まれていた。現在は宗谷公園になっている辺りというのは、往時に在っては、日本列島の日本海側を行き交い、樺太にまで延びていた、江戸時代の「海のハイウェイ」の「サービスエリア」のような性質を帯びていたのであろう。
1808年、会津松平家は「望んで」武士達を北方警固に差し向けた経過が在る。江戸幕府の第三代将軍、徳川家光の異母弟である保科正之が興した会津松平家は「飽くまでも幕府のために力を尽くすこと」を「家訓」としており、「北方警固」はそれを実現する好機であると捉え、同時に当時の新しい考え方であった「長沼流兵学」を基礎とする軍事演習を重ねていたことも在り、武威発揚の機会とも捉え、幕府が派遣人員について「人数500程」としたものを「動員・派遣可能な人員の殆ど全て」とも目される1500名以上を派遣することとしたのだった。
会津の武士達は宗谷に入って、ここを「本陣」とし、一部は利尻島へ、更に別の一部は樺太へも渡っている。宗谷、利尻島、樺太の何れでも、ロシア側との交戦等の状況は発生していない。が、「北方警固」の武士達は、慣れない気候や栄養状態―日頃口にしていた生鮮品、野菜類が極端に不足―等により、体調を崩す者が多く、死亡した者も在る。そうした死者を弔うべく、墓所が設けられたのである。
1808年頃の宗谷は、恐らくは日頃の交易や漁業等に携わる人達の数を、遥かに上回るような数の武士達が溢れ、独特な活気を醸し出していたことであろうが、そんな頃に間違いなく宗谷に居た筈の重要人物が在る。間宮林蔵である。
北方警固という取組が行われる契機となってしまったフヴォストフによる襲撃の一つである択捉島での事件の際、間宮林蔵は択捉島に在って測量の仕事等を行っていたという。フヴォストフは、艦載の大砲を使用して襲撃を敢行しており、番所に居合わせた幕府関係者等はその火力に圧倒されてしまい、為す術が無い状況だった。間宮林蔵は、そうした状況であったことを「不面目である」と感じ、宗谷に移る中で樺太の踏査を思い立ったとも言われる。樺太は、島なのか半島なのか、未だ判らなかったので、それを確かめようとしたのだ。
間宮林蔵は、1808年には松田伝十郎と連れ立って、1809年には単独で樺太を踏査したという。1808年の探検では、厳冬期が近付くことを警戒し、島の北西部の海峡を目視可能な地点に至らずに引揚げたが、それを悔いて再度単独で出発した1809年にはそれを確かめたことに加え、現地住民に同行してアムール川を遡り、大陸にも足跡を記している。
1808年の宗谷で、会津松平家の武士達が多数入って来た傍らで、間宮林蔵は松田伝十郎と共に樺太探検の構想を話し合っていたかもしれない。そういう、「ほぼ間違いなく足跡を残した」と見受けられる宗谷場所の一部であった宗谷公園には、間宮林蔵の「顕彰碑」が在る。
「会津藩士の墓」と呼び習わされている辺りの脇に古い池が在り―夏季には池の蓮が美しい花を見せてくれる。―、その脇の小さな坂を上った辺りに、間宮林蔵の小さく可愛らしい胸像が据えられている。それが「間宮林蔵顕彰碑」である。
宗谷公園という場所は、「名所」と言う程に多くの来訪者を迎えている訳でもない場所かもしれないし、市内や近在に住んでいても訪れる機会が少ないかもしれない。しかし、ここは「海から拓けた」というこの地域の「歴史の息遣い」というようなものが感じられる場所である。
17世紀から19世紀に相当する江戸時代は、「丁髷と刀の時代」ということで、何か酷く現代とは様子が異なるように想像するものであると思われるが、当時は技術的な可能性が或る程度限定されていたにも拘らず、「何となく想像する」以上に全国を結ぶ物流網、遠隔地同士の商取引の仕組み等が発展していた側面も在る。
宗谷場所もこうした物流網に組み込まれていた。現在は宗谷公園になっている辺りというのは、往時に在っては、日本列島の日本海側を行き交い、樺太にまで延びていた、江戸時代の「海のハイウェイ」の「サービスエリア」のような性質を帯びていたのであろう。
【連載】『稚内―サハリンに向き合う街の歴史散歩』V
稚内市内で「最も知られた名所」ということになると思われる宗谷岬は、稚内駅や南稚内駅が近いような市街から40キロメートル程度の場所だ。限られた本数の路線バスであれ、自家用車やバイク等であれ、市街の南東側で網走まで延びる国道238号に入り、稚内空港が見える辺りを通り過ぎ、小一時間も走れば宗谷岬である。夏季には方々からの来訪者が溢れているような場所である。
その宗谷岬の「手前」ということになる辺り、来訪者が多いでもない宗谷地区が在る。海岸に延びる道路に面して、宗谷漁業協同組合の事務所等が見える辺りから、陸側に入り込むと郵便局が在って、「宗谷公園」という案内が見え、直ぐにその宗谷公園に到着する。
宗谷公園は、然程広いようでもない緑の区画が在って「地方都市で多々見受けられる一寸した緑地」という雰囲気の場所だが、実はこの宗谷公園が「宗谷場所」と呼ばれていた、「現在の稚内の市域で、最も古い時期からの記録が残っている地区」の一部に相当するのだ。
宗谷公園の敷地に入る辺りに、長めなドライブの際には有難い御手洗が設置されていて、その直ぐ傍に二本の鳥居が設けられた古い神社が在る。「宗谷厳島神社」である。二本の鳥居の柱には各々「文政六年」(1823年)、「天保六年」(1835年)と刻まれている。「人が設けた」と明らかに判るモノとしては、多分稚内市内で最も古いと見受けられる代物であろう。
文政年間や天保年間というのは、「江戸時代風のモノ」とでも聞けば、何となく思い浮かべるような習俗や文物が一定程度成熟していた時代に相当する。そして、天保年間というのは時代劇『遠山の金さん』のモデルであるとされる遠山景元が江戸の町奉行を務めていた時期に相当する。更に、その父である遠山景晋(かげみち)は長崎で幕府の代表としてかのレザノフの応対をした経過が在り、加えて「西蝦夷地検分」と称して北海道に足跡を残しており、1806年には宗谷にもやって来た経過が在る。
時代劇ヒーローとして御馴染である「金さん」のモデルと言われる人物の父である遠山景晋が宗谷に足跡を残した後、1807年、1808年には津軽家、会津松平家が各々家中の武士達を北方警固ということで宗谷に派遣している。
宗谷公園には、この北方警固の事跡を伝えるモニュメントが二つ在る。
「宗谷厳島神社」から公園内を進むと、大きな楕円形の真中に筋が刻まれたような、不思議な型をした記念碑が見える。この型は珈琲豆を象ったもので、記念碑は「津軽藩兵詰合記念碑」というもので、青森県弘前市内にお住まいの珈琲店の方が発案し、多くの方の募金等も在って建立されている。
江戸時代、珈琲は長崎の出島に居たオランダ等のヨーロッパ人、彼らと交流が在った極々限られた日本人が口にしただけであると見受けられるのだが、これが薬効の在る「薬湯」と見做され、北方警固のために津軽から宗谷にやって来た武士達が口にしていたと伝えられる。これが、「長崎の出島に関わりが在った極々一部の人達を除く日本人」ということでは、「日本初?」かもしれないというお話しだ。
レザノフ来航の後のロシアとの摩擦を受けた北方警固の後、1850年代にも主に奥州(東北地方)各地の武士が未だ「蝦夷地」と呼ばれていた北海道に「北方警固」と称して派遣されている。津軽の武士達が珈琲を口にしたのは、この1850年代のことと考えられている。
1807年の初めての北方警固で、津軽の武士達が派遣された時、慣れない気候や栄養状態が原因で体調を崩し、亡くなった方も目立ったようだが、その時期には、珈琲豆は宗谷に届かなかった。そうしたことも踏まえ、「日本で初めての珈琲?」という意味に加え、「珈琲を口にせずに亡くなった皆さんを悼む」という意味も込め、記念碑は珈琲豆を象ったのだという。
尤も、この種の「初めて」には「諸説」が在り、長崎の出島関係のようなことでもない、「特殊な立場にない人達」として初めて珈琲を口にしたのは、或いは「1854年に初めて開港し、欧米人が現れた箱館(函館)の人達」であった可能性も在る。函館ではそういう話しを聞く。が、「宗谷にやって来た津軽の武士達」は、「滞在中の日常の中、一定の習慣として珈琲を頂いた」という意味では、確かに「日本初」な事例になるかもしれない。
その宗谷岬の「手前」ということになる辺り、来訪者が多いでもない宗谷地区が在る。海岸に延びる道路に面して、宗谷漁業協同組合の事務所等が見える辺りから、陸側に入り込むと郵便局が在って、「宗谷公園」という案内が見え、直ぐにその宗谷公園に到着する。
宗谷公園は、然程広いようでもない緑の区画が在って「地方都市で多々見受けられる一寸した緑地」という雰囲気の場所だが、実はこの宗谷公園が「宗谷場所」と呼ばれていた、「現在の稚内の市域で、最も古い時期からの記録が残っている地区」の一部に相当するのだ。
宗谷公園の敷地に入る辺りに、長めなドライブの際には有難い御手洗が設置されていて、その直ぐ傍に二本の鳥居が設けられた古い神社が在る。「宗谷厳島神社」である。二本の鳥居の柱には各々「文政六年」(1823年)、「天保六年」(1835年)と刻まれている。「人が設けた」と明らかに判るモノとしては、多分稚内市内で最も古いと見受けられる代物であろう。
文政年間や天保年間というのは、「江戸時代風のモノ」とでも聞けば、何となく思い浮かべるような習俗や文物が一定程度成熟していた時代に相当する。そして、天保年間というのは時代劇『遠山の金さん』のモデルであるとされる遠山景元が江戸の町奉行を務めていた時期に相当する。更に、その父である遠山景晋(かげみち)は長崎で幕府の代表としてかのレザノフの応対をした経過が在り、加えて「西蝦夷地検分」と称して北海道に足跡を残しており、1806年には宗谷にもやって来た経過が在る。
時代劇ヒーローとして御馴染である「金さん」のモデルと言われる人物の父である遠山景晋が宗谷に足跡を残した後、1807年、1808年には津軽家、会津松平家が各々家中の武士達を北方警固ということで宗谷に派遣している。
宗谷公園には、この北方警固の事跡を伝えるモニュメントが二つ在る。
「宗谷厳島神社」から公園内を進むと、大きな楕円形の真中に筋が刻まれたような、不思議な型をした記念碑が見える。この型は珈琲豆を象ったもので、記念碑は「津軽藩兵詰合記念碑」というもので、青森県弘前市内にお住まいの珈琲店の方が発案し、多くの方の募金等も在って建立されている。
江戸時代、珈琲は長崎の出島に居たオランダ等のヨーロッパ人、彼らと交流が在った極々限られた日本人が口にしただけであると見受けられるのだが、これが薬効の在る「薬湯」と見做され、北方警固のために津軽から宗谷にやって来た武士達が口にしていたと伝えられる。これが、「長崎の出島に関わりが在った極々一部の人達を除く日本人」ということでは、「日本初?」かもしれないというお話しだ。
レザノフ来航の後のロシアとの摩擦を受けた北方警固の後、1850年代にも主に奥州(東北地方)各地の武士が未だ「蝦夷地」と呼ばれていた北海道に「北方警固」と称して派遣されている。津軽の武士達が珈琲を口にしたのは、この1850年代のことと考えられている。
1807年の初めての北方警固で、津軽の武士達が派遣された時、慣れない気候や栄養状態が原因で体調を崩し、亡くなった方も目立ったようだが、その時期には、珈琲豆は宗谷に届かなかった。そうしたことも踏まえ、「日本で初めての珈琲?」という意味に加え、「珈琲を口にせずに亡くなった皆さんを悼む」という意味も込め、記念碑は珈琲豆を象ったのだという。
尤も、この種の「初めて」には「諸説」が在り、長崎の出島関係のようなことでもない、「特殊な立場にない人達」として初めて珈琲を口にしたのは、或いは「1854年に初めて開港し、欧米人が現れた箱館(函館)の人達」であった可能性も在る。函館ではそういう話しを聞く。が、「宗谷にやって来た津軽の武士達」は、「滞在中の日常の中、一定の習慣として珈琲を頂いた」という意味では、確かに「日本初」な事例になるかもしれない。
【連載】『稚内―サハリンに向き合う街の歴史散歩』IV
現在の稚内の市域で、最も古い時期からの記録が残っている、換言すると最も早く拓けたと考えられるのは宗谷である。稚内に関して、「誰かが書き記したモノを手掛かりに過去を知ろうとする」という意味合いでの「歴史」を考えると、古い時期から交易に関連して言及が見受けられることも在るのであろうが、判り易い型で「歴史の頁」に姿を現すのは「ロシア関連事案」と言って差し支えないと見受けられる。
所謂「江戸時代」の概ね二世紀半の時代は「鎖国」であったと思われている。しかし、実際にはよく知られた長崎の出島等での交易に加え、対馬と朝鮮半島の接点、薩摩の島津家が実効支配していたとされる琉球王国を経た中国との接点、蝦夷地の権益を握った松前家が交易したアイヌを介する中国等との接点というように、「少し開かれた窓」も確かに存在はしていた。
江戸幕府は国内に新しい宗教系勢力が台頭することを避け、交易で大きな利益を挙げる勢力が台頭することを忌避すべく「少し開かれた窓」を幾分残すに留める政策を採っていたが、時代が下り、18世紀後半ともなれば諸外国の影が日本近海に見受けられるようになって行く。
そうした「影」の代表的な存在がロシアだった。18世紀後半の日本の知識人の中にも、ロシアへの注目、警戒を説く人達も見受けられた。が、明確にロシアの存在が日本の前に突付けられる契機となったのは、1792年に船の遭難でロシアに漂着した大黒屋光太夫らが、アダム・ラクスマンが指揮を執ったロシアの船で送り届けられて帰国した一件だった。
永く「船」は、大量のモノ、重量物を一気に運ぶことが出来、最も速い輸送手段であった。大黒屋光太夫は、伊勢から江戸へ御用米を運ぶ仕事を請け負って出航したが、嵐に遭って針路を失ってしまい、漂流した。
江戸時代の船は、沿岸部の陸地が見えるような海域を往来することを専らとしていたもので、外洋に押し流されてしまうような事態に陥ると、海流に流されるばかりということになってしまったのだ。
そして大黒屋光太夫達はロシアに漂着し、ロシア国内で波乱に満ちた経過を歩むのだが、彼らはそうした中で収容された建物の柱や家具に日本語の文字が刻まれていた等の「彼らより先に日本人が居た痕跡」を見付けて驚いたと伝えられている。外洋の航海が困難な船で沿岸を進む中、漂流という事態が発生してロシアに漂着と言う前例が幾つか在ったのである。
大黒屋光太夫達より以前のロシアへの漂着者の中、「ゴンザ」という人物が少し知られている。ゴンザは薩摩の見習い水夫だったらしい。薩摩から大坂を目指して出航し、針路を失って漂流し、ロシアに辿り着いた。遭難時は十代前半で、二十代前半までロシアに在って、ロシアで没したと伝えられるゴンザだが、非常に若かったことから異国の環境に適応してロシア語も覚え、「史上初の露日辞書」を作ったと伝えられている。
ゴンザによる「史上初の露日辞書」の中で「愛」を意味する「любовь」(リュボーフィ)という語について、「よかこと」としているらしい。ロシアの人達が初めて知った日本語が「鹿児島弁」であったという意外に過ぎる話しである。が、それよりも、余りに若かったゴンザは「よかこと」がどういうものか知る機会が在ったのか否かということも気に掛かる。
話しを戻す。大黒屋光太夫を送り届けたロシア側は、日本との間で通商関係を拓くこと等を強く望み、その意図を伝えたが、日本の政府である江戸幕府はそれを拒んだ。そして「長崎への入港を認める」という意味の信牌(しんぱい)をラクスマンに授け、ラクスマンは引揚げた。
1804四年になると、ラクスマンがロシアへ持ち帰った信牌を携えたニコライ・レザノフが長崎に来航した。レザノフは「ロシア皇帝の親書を携えた正式な使者」である自身が、日本側が発給した信牌を持参した上で来たのであるとし、通商関係の樹立を強く求めたのだが、幕府は半年近くに亘って彼らを出島に半ば軟禁のような状況で放置するような対応に終始し、1805年に至って長崎奉行所でレザノフの示す要求を幕府が容れない旨が伝えられると、侮蔑的な対応を受けたとの憤りを胸に引揚げた。
この一件は、レザノフの部下であるニコライ・フヴォストフが樺太や択捉等で番所や村落を襲撃する事件や、それを受けて幕府が武士団を送り出した北方警固や、1811年に発生したゴローニン事件等の引鉄となったとも言える。
稚内が歴史の頁に判り易い型で姿を見せるのは、こんな「ロシアの影」が見え隠れしていた時期である。宗谷に北方警固の武士達がやって来たのである。そして、彼らが足跡を残した場所は、現在でも訪ねることが出来る。
所謂「江戸時代」の概ね二世紀半の時代は「鎖国」であったと思われている。しかし、実際にはよく知られた長崎の出島等での交易に加え、対馬と朝鮮半島の接点、薩摩の島津家が実効支配していたとされる琉球王国を経た中国との接点、蝦夷地の権益を握った松前家が交易したアイヌを介する中国等との接点というように、「少し開かれた窓」も確かに存在はしていた。
江戸幕府は国内に新しい宗教系勢力が台頭することを避け、交易で大きな利益を挙げる勢力が台頭することを忌避すべく「少し開かれた窓」を幾分残すに留める政策を採っていたが、時代が下り、18世紀後半ともなれば諸外国の影が日本近海に見受けられるようになって行く。
そうした「影」の代表的な存在がロシアだった。18世紀後半の日本の知識人の中にも、ロシアへの注目、警戒を説く人達も見受けられた。が、明確にロシアの存在が日本の前に突付けられる契機となったのは、1792年に船の遭難でロシアに漂着した大黒屋光太夫らが、アダム・ラクスマンが指揮を執ったロシアの船で送り届けられて帰国した一件だった。
永く「船」は、大量のモノ、重量物を一気に運ぶことが出来、最も速い輸送手段であった。大黒屋光太夫は、伊勢から江戸へ御用米を運ぶ仕事を請け負って出航したが、嵐に遭って針路を失ってしまい、漂流した。
江戸時代の船は、沿岸部の陸地が見えるような海域を往来することを専らとしていたもので、外洋に押し流されてしまうような事態に陥ると、海流に流されるばかりということになってしまったのだ。
そして大黒屋光太夫達はロシアに漂着し、ロシア国内で波乱に満ちた経過を歩むのだが、彼らはそうした中で収容された建物の柱や家具に日本語の文字が刻まれていた等の「彼らより先に日本人が居た痕跡」を見付けて驚いたと伝えられている。外洋の航海が困難な船で沿岸を進む中、漂流という事態が発生してロシアに漂着と言う前例が幾つか在ったのである。
大黒屋光太夫達より以前のロシアへの漂着者の中、「ゴンザ」という人物が少し知られている。ゴンザは薩摩の見習い水夫だったらしい。薩摩から大坂を目指して出航し、針路を失って漂流し、ロシアに辿り着いた。遭難時は十代前半で、二十代前半までロシアに在って、ロシアで没したと伝えられるゴンザだが、非常に若かったことから異国の環境に適応してロシア語も覚え、「史上初の露日辞書」を作ったと伝えられている。
ゴンザによる「史上初の露日辞書」の中で「愛」を意味する「любовь」(リュボーフィ)という語について、「よかこと」としているらしい。ロシアの人達が初めて知った日本語が「鹿児島弁」であったという意外に過ぎる話しである。が、それよりも、余りに若かったゴンザは「よかこと」がどういうものか知る機会が在ったのか否かということも気に掛かる。
話しを戻す。大黒屋光太夫を送り届けたロシア側は、日本との間で通商関係を拓くこと等を強く望み、その意図を伝えたが、日本の政府である江戸幕府はそれを拒んだ。そして「長崎への入港を認める」という意味の信牌(しんぱい)をラクスマンに授け、ラクスマンは引揚げた。
1804四年になると、ラクスマンがロシアへ持ち帰った信牌を携えたニコライ・レザノフが長崎に来航した。レザノフは「ロシア皇帝の親書を携えた正式な使者」である自身が、日本側が発給した信牌を持参した上で来たのであるとし、通商関係の樹立を強く求めたのだが、幕府は半年近くに亘って彼らを出島に半ば軟禁のような状況で放置するような対応に終始し、1805年に至って長崎奉行所でレザノフの示す要求を幕府が容れない旨が伝えられると、侮蔑的な対応を受けたとの憤りを胸に引揚げた。
この一件は、レザノフの部下であるニコライ・フヴォストフが樺太や択捉等で番所や村落を襲撃する事件や、それを受けて幕府が武士団を送り出した北方警固や、1811年に発生したゴローニン事件等の引鉄となったとも言える。
稚内が歴史の頁に判り易い型で姿を見せるのは、こんな「ロシアの影」が見え隠れしていた時期である。宗谷に北方警固の武士達がやって来たのである。そして、彼らが足跡を残した場所は、現在でも訪ねることが出来る。
【連載】『稚内―サハリンに向き合う街の歴史散歩』III
稚内という地域は、古い時代に海路での往来を通じて拓けたという経過も在り、陸続きの北海道内各地との間も、少し距離が在る。
鉄道の距離で言って、稚内・札幌間は約396キロメートル、稚内・旭川間は約259キロメートル、稚内・函館間は約715キロメートルだ。比較対象として思い浮かぶのは、東京・名古屋間(約366キロメートル)、博多・鹿児島中央間(約289キロメートル)、東京・新青森間(約714キロメートル)というような「新幹線が往来しているような区間」ばかりという状況だ。何か「北海道」の「途轍もなさ」というものに思い至る。
この北海道には、稚内市を含めて35の市が点在している。市と市との間には幾つもの町村が在る。「稚内市の隣りになる市」というのは何処であろうか?
オホーツク海岸を約210キロメートル南下すれば紋別市が在る。日本海岸を約190キロメートル南下すれば留萌市が在る。そして内陸の道を約170キロメートル南下すれば名寄市が在る。
稚内市は北海道の北端部を占めるので、北海道内に在っては、何れにしても南下した所に「隣りの市」が在るのだが、眼を「逆側」に少し転じてみると、紋別市、留萌市、名寄市の何れよりも近い「隣りの市」が存在する。
宗谷海峡を北上する稚内・コルサコフ航路は、稚内港とコルサコフ港との間、約158キロメートルを結んで運航されるのだが、この航路で辿り着くコルサコフ市が、実は稚内市にとって「最も近い隣りの市」ということになってしまう。
更に言ってしまえば、稚内から海峡越しに「見える」場合も在るサハリン島の南端部、クリリオン岬周辺は「宗谷岬から43キロメートル程度」だが、あの辺りはネベリスク市が管轄する地域となっているので、そういう意味でネベリスク市を「最も近い隣りの市」と言ってしまうことさえ出来るかもしれない。
鉄道の距離で言って、稚内・札幌間は約396キロメートル、稚内・旭川間は約259キロメートル、稚内・函館間は約715キロメートルだ。比較対象として思い浮かぶのは、東京・名古屋間(約366キロメートル)、博多・鹿児島中央間(約289キロメートル)、東京・新青森間(約714キロメートル)というような「新幹線が往来しているような区間」ばかりという状況だ。何か「北海道」の「途轍もなさ」というものに思い至る。
この北海道には、稚内市を含めて35の市が点在している。市と市との間には幾つもの町村が在る。「稚内市の隣りになる市」というのは何処であろうか?
オホーツク海岸を約210キロメートル南下すれば紋別市が在る。日本海岸を約190キロメートル南下すれば留萌市が在る。そして内陸の道を約170キロメートル南下すれば名寄市が在る。
稚内市は北海道の北端部を占めるので、北海道内に在っては、何れにしても南下した所に「隣りの市」が在るのだが、眼を「逆側」に少し転じてみると、紋別市、留萌市、名寄市の何れよりも近い「隣りの市」が存在する。
宗谷海峡を北上する稚内・コルサコフ航路は、稚内港とコルサコフ港との間、約158キロメートルを結んで運航されるのだが、この航路で辿り着くコルサコフ市が、実は稚内市にとって「最も近い隣りの市」ということになってしまう。
更に言ってしまえば、稚内から海峡越しに「見える」場合も在るサハリン島の南端部、クリリオン岬周辺は「宗谷岬から43キロメートル程度」だが、あの辺りはネベリスク市が管轄する地域となっているので、そういう意味でネベリスク市を「最も近い隣りの市」と言ってしまうことさえ出来るかもしれない。
【連載】『稚内―サハリンに向き合う街の歴史散歩』II
稚内は海岸部に、北海道内の都市としては相対的に早い時期から拓けた地域ではあるが、内陸に主に酪農を営んでいる農村部が在り、広大な牧草地が広がる光景が見られる。
この稚内市の市域は、「北海道」という島の北端部を占めており、海岸線だけで延長が90キロメートルに及び、東西に約38キロメートル、南北に40キロメートル弱の範囲に拡がっている。面積は約761平方キロメートルに及ぶ。
稚内と他地域とを結ぶ交通だが、「この先に街が在るのだろうか?」というようなことを考えてしまう道路や鉄路を行く都市間バスや列車の他、空路が在る。1960年から供用された稚内空港は、滑走路の延長が為され、2,200メートルの滑走路を擁しており、新千歳空港との間に二往復、羽田空港との間に一往復(夏季のみ二往復)の定期便が就航している。他、近年では各地の空港との間を往来するチャーター便の運航も話題になっている。
2時間に満たない時間で羽田空港との間を往来可能な稚内である。羽田空港は東京二十三区の域内に在るのだが、東京二十三区の面積は約627平方キロメートルであり、稚内市より狭い。
東京二十三区は稚内市より狭いとは言え、目的地を目掛けて移動をする際には交通が煩雑である。稚内のような場所から羽田空港に着いた場合、モノレールの浜松町駅や、京浜急行が発着する品川駅というような「山手線の駅」に出て、山手線を目安に東京都内を動くという事例が多くなる。
山手線の駅は、何れの駅も稚内駅で朝6時から夜11時までの乗降客の数に比肩するような人数の乗客が、「一本の列車が発着する都度」に出入りしているようにさえ見える。乗客を多く収容出来るロングシート内装の車輛を10輛連ねた山手線の列車なら、一本の列車が駅に到着して発車する場面で、例えば「150人下車で200人乗車」というのも頻繁なことであろう。
そんな山手線で最も乗降客が少ないのは、2010年頃の資料で、鶯谷駅なのだそうだ。鶯谷駅は乗換が出来ない場所なので乗降客が少ないそうだが、それでも一日に4万6千人が乗降しているという。
これに対して、稚内市の人口は3万6千人である。稚内市とは「東京二十三区より広い地域に、鶯谷駅の一日の乗降客より少ない人々が住む」ということになる。
約761平方キロメートルという広大な市域のようなことを論じる場合「東京ドーム○個相当」というような表現を用いる。東京ドームは5ヘクタール弱である。優勝は逃しても比較的善戦している感も在るプロ野球のファイターズの御蔭で、北海道民にはもう少し馴染みが在る札幌ドームは5ヘクタールを少し超えるそうだ。何れにしてもドーム球場は「5ヘクタール程度」で、稚内市の市域は「15,218個相当」となる。
このドーム球場で、例えば「札幌ドームに稚内市民全員を御招待」というようなことをしたとして、乳幼児からお年寄りまで全て漏らさずに集めても、4万人以上を収容する札幌ドームでは「一割程度の空席」ということになってしまう。
この稚内市の市域は、「北海道」という島の北端部を占めており、海岸線だけで延長が90キロメートルに及び、東西に約38キロメートル、南北に40キロメートル弱の範囲に拡がっている。面積は約761平方キロメートルに及ぶ。
稚内と他地域とを結ぶ交通だが、「この先に街が在るのだろうか?」というようなことを考えてしまう道路や鉄路を行く都市間バスや列車の他、空路が在る。1960年から供用された稚内空港は、滑走路の延長が為され、2,200メートルの滑走路を擁しており、新千歳空港との間に二往復、羽田空港との間に一往復(夏季のみ二往復)の定期便が就航している。他、近年では各地の空港との間を往来するチャーター便の運航も話題になっている。
2時間に満たない時間で羽田空港との間を往来可能な稚内である。羽田空港は東京二十三区の域内に在るのだが、東京二十三区の面積は約627平方キロメートルであり、稚内市より狭い。
東京二十三区は稚内市より狭いとは言え、目的地を目掛けて移動をする際には交通が煩雑である。稚内のような場所から羽田空港に着いた場合、モノレールの浜松町駅や、京浜急行が発着する品川駅というような「山手線の駅」に出て、山手線を目安に東京都内を動くという事例が多くなる。
山手線の駅は、何れの駅も稚内駅で朝6時から夜11時までの乗降客の数に比肩するような人数の乗客が、「一本の列車が発着する都度」に出入りしているようにさえ見える。乗客を多く収容出来るロングシート内装の車輛を10輛連ねた山手線の列車なら、一本の列車が駅に到着して発車する場面で、例えば「150人下車で200人乗車」というのも頻繁なことであろう。
そんな山手線で最も乗降客が少ないのは、2010年頃の資料で、鶯谷駅なのだそうだ。鶯谷駅は乗換が出来ない場所なので乗降客が少ないそうだが、それでも一日に4万6千人が乗降しているという。
これに対して、稚内市の人口は3万6千人である。稚内市とは「東京二十三区より広い地域に、鶯谷駅の一日の乗降客より少ない人々が住む」ということになる。
約761平方キロメートルという広大な市域のようなことを論じる場合「東京ドーム○個相当」というような表現を用いる。東京ドームは5ヘクタール弱である。優勝は逃しても比較的善戦している感も在るプロ野球のファイターズの御蔭で、北海道民にはもう少し馴染みが在る札幌ドームは5ヘクタールを少し超えるそうだ。何れにしてもドーム球場は「5ヘクタール程度」で、稚内市の市域は「15,218個相当」となる。
このドーム球場で、例えば「札幌ドームに稚内市民全員を御招待」というようなことをしたとして、乳幼児からお年寄りまで全て漏らさずに集めても、4万人以上を収容する札幌ドームでは「一割程度の空席」ということになってしまう。
【連載】『稚内―サハリンに向き合う街の歴史散歩』I
「この先に街が在るのだろうか?」
他地域から稚内を陸路で目指し、車中で居眠りでもしていて不意に眼を開け、車窓を覗く時、何度となく往来している筈であるにも拘らず、頭の中で反芻される表現である。
稚内へ向かう移動と言えば、山林や、広大な牧草地が広がるばかりな場所、列車であれば一部に大河の岸の「随分な難工事だったのであろう」と想像するような区間も通るのだが、街らしいものが拡がっている様が、一向に見当たらない場所ばかりを進む。日没後や冬季の早朝に至っては「灯りらしい灯り」さえも見えない場所ばかりなのだ。
稚内と他の地域との間に関して、陸路での往来が容易となったのは、恐らく1920年代に鉄路が開通した頃以降の、永い歴史の尺度では「極々最近」と呼ばなければならないような時期からであろう。
19世紀に在って、「自らの歩幅」を物差しに、沿岸を隈なく歩き回って精緻な地図を作製した人達の活躍が在ったことが伝えられている。稚内の歴史に関連する展示が観られる『北方記念館』にも、そうやって作成された北海道地図の写しが展示されている。
雲が流れるばかりのような上空から、人工衛星にカメラを搭載して大地を鳥瞰するというような術が在るでもないような19世紀という時代に、海岸線を隈なく歩き回ったというだけで、今日の地図と大きな差が在るとも思えないような、精緻な地図が出来上がっていたということに驚かされる展示なのであるが、それ以上に驚くことが在る。現在では稚内よりも遥かに人口規模の大きな街が拡がっている辺りが、「未踏」、または「調査困難」を示す「白紙」の状態になっているのである。
稚内へ向かう際に、「この先に街が在るのだろうか?」と考えるのは、そういう史実を思うとやや不自然かもしれない。実は稚内は、北海道内では比較的早くから人々の足跡が在る地域なのである。逆に稚内を離れて、他地域へ向かう場合にこそ「この先に街が在るのだろうか?」ということになる筈であろう。
現在では「交通網のハブ」という様相の各地が地図上で「白紙」であったような時期、人々は「海路」で現在の稚内市に相当する地域と他地域との間を往来していた。
稚内の眼前に広がる宗谷海峡は、言わば「国境の海」であるが、明確にそのような存在となったのは第2次大戦後のことで、永い歴史の尺度では「極々最近」に過ぎない。眼前の海は、稚内と他地域を結び付ける存在であり、稚内はその海に育まれた歴史を有する地域なのである。
他地域から稚内を陸路で目指し、車中で居眠りでもしていて不意に眼を開け、車窓を覗く時、何度となく往来している筈であるにも拘らず、頭の中で反芻される表現である。
稚内へ向かう移動と言えば、山林や、広大な牧草地が広がるばかりな場所、列車であれば一部に大河の岸の「随分な難工事だったのであろう」と想像するような区間も通るのだが、街らしいものが拡がっている様が、一向に見当たらない場所ばかりを進む。日没後や冬季の早朝に至っては「灯りらしい灯り」さえも見えない場所ばかりなのだ。
稚内と他の地域との間に関して、陸路での往来が容易となったのは、恐らく1920年代に鉄路が開通した頃以降の、永い歴史の尺度では「極々最近」と呼ばなければならないような時期からであろう。
19世紀に在って、「自らの歩幅」を物差しに、沿岸を隈なく歩き回って精緻な地図を作製した人達の活躍が在ったことが伝えられている。稚内の歴史に関連する展示が観られる『北方記念館』にも、そうやって作成された北海道地図の写しが展示されている。
雲が流れるばかりのような上空から、人工衛星にカメラを搭載して大地を鳥瞰するというような術が在るでもないような19世紀という時代に、海岸線を隈なく歩き回ったというだけで、今日の地図と大きな差が在るとも思えないような、精緻な地図が出来上がっていたということに驚かされる展示なのであるが、それ以上に驚くことが在る。現在では稚内よりも遥かに人口規模の大きな街が拡がっている辺りが、「未踏」、または「調査困難」を示す「白紙」の状態になっているのである。
稚内へ向かう際に、「この先に街が在るのだろうか?」と考えるのは、そういう史実を思うとやや不自然かもしれない。実は稚内は、北海道内では比較的早くから人々の足跡が在る地域なのである。逆に稚内を離れて、他地域へ向かう場合にこそ「この先に街が在るのだろうか?」ということになる筈であろう。
現在では「交通網のハブ」という様相の各地が地図上で「白紙」であったような時期、人々は「海路」で現在の稚内市に相当する地域と他地域との間を往来していた。
稚内の眼前に広がる宗谷海峡は、言わば「国境の海」であるが、明確にそのような存在となったのは第2次大戦後のことで、永い歴史の尺度では「極々最近」に過ぎない。眼前の海は、稚内と他地域を結び付ける存在であり、稚内はその海に育まれた歴史を有する地域なのである。
【連載】『稚内―サハリンに向き合う街の歴史散歩』について
依頼を受けて「或る原稿」を綴ることが決まった時…「体裁の好い言い方」をすると「構想を練り上げる」目的で、「俗な言い方」をすれば「ネタを上げ連ねる」目的で、想定の紙幅等を度外視し、勝手気侭に原稿を綴ってみたということが在った…
結果的に「或る原稿」は、その「勝手気侭に綴ったモノ」を凝縮、整理し、2回に亘って“試作版”を綴り、2回目の方を“採用”ということにして、校正等のプロセスを経て、送り出すことになった…
そういう経過を辿ったのだが…「勝手気侭に綴ったモノ」は“試作”に対して、「開発段階の“実験機”」のような存在の代物になる。普通は「何時の間にか廃棄」に終始する…
不意に…「或る原稿」に纏わる作業から半年程度を経て、この“実験機”的な「勝手気侭に綴ったモノ」が出て来て眼に触れた…“採用”ということにしたモノの倍を超えるような文字数の代物になってしまっているが…「紙幅の制約が無いのなら、これもこれとして悪くない」というような気がして来た…
内容は…“国境観光”、“ボーダーツーリズム”の関係で「稚内」を語ったものである…
「稚内」は、鉄道の終点、道路の終点、北海道の北端なので、何となく「到達!!万歳!!」という雰囲気が色濃く、「この地に展開した物語=歴史」には然程注目されていないような気もする…
そういう訳で…「実は稚内が“端”ということになったのは、“永い歴史の尺度”で考えれば“僅か”ということになってしまう、この70年程」であって、「稚内」は「海のネットワーク」の“中継点”、“交差点”であった経過の方が余程永いのだ…
こういうような「稚内の歴史散歩」というのが、本稿の内容となる…【連載】として、順次このブログに掲載する…
結果的に「或る原稿」は、その「勝手気侭に綴ったモノ」を凝縮、整理し、2回に亘って“試作版”を綴り、2回目の方を“採用”ということにして、校正等のプロセスを経て、送り出すことになった…
そういう経過を辿ったのだが…「勝手気侭に綴ったモノ」は“試作”に対して、「開発段階の“実験機”」のような存在の代物になる。普通は「何時の間にか廃棄」に終始する…
不意に…「或る原稿」に纏わる作業から半年程度を経て、この“実験機”的な「勝手気侭に綴ったモノ」が出て来て眼に触れた…“採用”ということにしたモノの倍を超えるような文字数の代物になってしまっているが…「紙幅の制約が無いのなら、これもこれとして悪くない」というような気がして来た…
内容は…“国境観光”、“ボーダーツーリズム”の関係で「稚内」を語ったものである…
「稚内」は、鉄道の終点、道路の終点、北海道の北端なので、何となく「到達!!万歳!!」という雰囲気が色濃く、「この地に展開した物語=歴史」には然程注目されていないような気もする…
そういう訳で…「実は稚内が“端”ということになったのは、“永い歴史の尺度”で考えれば“僅か”ということになってしまう、この70年程」であって、「稚内」は「海のネットワーク」の“中継点”、“交差点”であった経過の方が余程永いのだ…
こういうような「稚内の歴史散歩」というのが、本稿の内容となる…【連載】として、順次このブログに掲載する…