最近は「凍っている道路」を動き回っていて、意図せずに足首や膝に“負荷”を余計に掛けているような気がしている。随分以前に不注意で負傷した経過が在る右の足首が、殊に疼く…
そうした中で夕刻に至り、「無事に一日が暮れる」という段になると…“茶代わり”に“藷焼酎”(最近読んだ山頭火の文章の表現を借りる…)を頂いてみるのが好い…今日は<明月ほまれ>を頂いている…
↓“明月ブランド”の焼酎が生まれている宮崎県えびの市加久藤地区に在る、えびの駅に列車で到着したところの画…水彩画風にしてみた…
↑「見慣れた形状」の故に「鉄道車輌らしい!」と思える“40系ファミリー”のディーゼルカーがえびの駅に着いた場面だ…「白(薄めなアイボリー色)に青いライン」というのは、JR九州が発足した辺りで採用した標準的な車輌塗装色らしいが、「期せずして」(だと思うが…)雪景色も似合う…
この日は未だ暗い宮崎駅から始発列車で発ち、都城駅で乗換えた。都城駅周辺で「えっ?雪がチラチラ…」という感じであったが、えびの駅へ通じる吉都線を写真のディーゼルカーが進み、明るくなるに連れて車窓に雪景色が見受けられるようになった…えびの市の手前…高原町(“高原”は「たかはる」と読む…)や小林市も雪景色で、辺りでは最も大きな街らしい小林市の小林駅で下車して行った通学中の高校生の一部は「雪…ヤバい…外に出たくない…」等と友人同士で言葉を交わしていた…確かに「好ましくない状況の惹起」という、我々の世代でも理解可能な“ヤバい”かもしれない…
↓「九州地方の駅」と言うよりも…「東北地方の駅」という感じがした…
↓「JRえびの駅」という駅舎―大正時代のモノだそうだ…―正面の看板に在る“JR”マークが赤…間違いなく九州である…
このえびの駅を起点に歩き始め…田圃の真中のような場所で、終いに多少心細くなりながら歩き回り…結局「2駅分」も都城寄りに歩いた…
↓復路はえびの飯野駅で乗車である…同じ列車に乗り込んだ若い人が、歯をカタカタさせて震えていたのが記憶に残っているが…雪の降り方が少し派手になって来た…
「宮崎県で雪景色に遭遇か…」と思いながら都城駅の方向に進めば…小林駅周辺で既に積雪は少なくなっていて、高原駅辺りでは晴天の碧い空が拡がり、益々積雪は少なかった…
そんな様子を…「リアルな写真以上に“記憶の中”の雰囲気に近い」とも思える水彩画風の画を眺めながら想い起こす…そして、このえびのからやって来た焼酎のグラスを傾ける…悪くない…
「宮崎県えびの市の降雪」の様を水彩画風に…(2014.12.17撮影)
既に2月に入っているが…最近は“12月”を思い出す頻度が増えている…
2月と言えば…プロ野球チームがシーズン前のキャンプを行う。宮崎県と言えば…その種の催事が催されるような地域だが…温暖な沿岸部に対して、山側では雪も降る…
↓えびのの田園で雪が降り頻っている様子…こんな場所で「歩いている人間は自身のみ?」と感じながら、湿った雪を被りながら歩き回っていたのだが…この時に眼に留めて撮った画を、何となく視る機会が最近は増えた…
↑水彩画風に纏めてみたが…「視ていて感じた風景」は、寧ろこういう感じだったかもしれない…
この辺りは、戦国時代には“真幸院”と呼び習わされ、薩摩・大隅の島津家と日向の伊東家が争った最前線だったようだ…当時から“穀倉”で、山の麓に水田が広がっていたらしい…そうした雰囲気が受継がれているようにも見受けられる…
山際に農家と思しき住宅が見受けられ、田圃が拡がる様…北海道内でもこの種の雰囲気は無くはないが、何か東北地方の風景のようでもある…しかし!!ここは九州南部の宮崎県内である…
↓この風景!!鮮烈な印象を残してくれた…
↑勿論、より普通な写真も在るが「記憶の中の光景」としては、この水彩画風がしっくりとする…
打ち捨てられた訳でもなく、偶々田圃の脇に置いて在っただけなのだと思うが、オレンジ色のトラクターが、辺りの「雪の白」という中で妙に映える…雪を被った田の上に点在する黒い影はカラスだ…
「雪のえびの」と「繰り返さなくても…」とお叱りを受けてしまうかもしれない…私にとって“えびの”と言えば「雪!!」だ…12月に九州を訪ねて、えびので雪に降られて、「歩いている人間は自身のみ?」という寂寥感の中で「どうしようもない私が歩いている」などと山頭火の句を思い出した様子が忘れられないのだ…“宮崎県”と言うと、プロ野球のキャンプというようなことの御蔭で「温暖な地方!」と思い込んでいただけに、そこで「雪!」というのが殊更に鮮烈なのだ…えびのへ向かった列車の中、通学の高校生達が「雪…やばい…」と話し合っていたが、そんな様子も、早くも懐かしい…
そしてそんな様子を想い起こしながら、えびので造られている“明月ブランド”の焼酎を頂いている昨今だ…
2月と言えば…プロ野球チームがシーズン前のキャンプを行う。宮崎県と言えば…その種の催事が催されるような地域だが…温暖な沿岸部に対して、山側では雪も降る…
↓えびのの田園で雪が降り頻っている様子…こんな場所で「歩いている人間は自身のみ?」と感じながら、湿った雪を被りながら歩き回っていたのだが…この時に眼に留めて撮った画を、何となく視る機会が最近は増えた…
↑水彩画風に纏めてみたが…「視ていて感じた風景」は、寧ろこういう感じだったかもしれない…
この辺りは、戦国時代には“真幸院”と呼び習わされ、薩摩・大隅の島津家と日向の伊東家が争った最前線だったようだ…当時から“穀倉”で、山の麓に水田が広がっていたらしい…そうした雰囲気が受継がれているようにも見受けられる…
山際に農家と思しき住宅が見受けられ、田圃が拡がる様…北海道内でもこの種の雰囲気は無くはないが、何か東北地方の風景のようでもある…しかし!!ここは九州南部の宮崎県内である…
↓この風景!!鮮烈な印象を残してくれた…
↑勿論、より普通な写真も在るが「記憶の中の光景」としては、この水彩画風がしっくりとする…
打ち捨てられた訳でもなく、偶々田圃の脇に置いて在っただけなのだと思うが、オレンジ色のトラクターが、辺りの「雪の白」という中で妙に映える…雪を被った田の上に点在する黒い影はカラスだ…
「雪のえびの」と「繰り返さなくても…」とお叱りを受けてしまうかもしれない…私にとって“えびの”と言えば「雪!!」だ…12月に九州を訪ねて、えびので雪に降られて、「歩いている人間は自身のみ?」という寂寥感の中で「どうしようもない私が歩いている」などと山頭火の句を思い出した様子が忘れられないのだ…“宮崎県”と言うと、プロ野球のキャンプというようなことの御蔭で「温暖な地方!」と思い込んでいただけに、そこで「雪!」というのが殊更に鮮烈なのだ…えびのへ向かった列車の中、通学の高校生達が「雪…やばい…」と話し合っていたが、そんな様子も、早くも懐かしい…
そしてそんな様子を想い起こしながら、えびので造られている“明月ブランド”の焼酎を頂いている昨今だ…
札幌:時計台(2014.12.15)(※水彩画風)
札幌の時計台…近くを通り掛る機会が多いような、少ないようなという感じだが…写真を撮る機会は、考えてみると然程多くはないかもしれない…
↓そんなことを不意に思い出した…
↑2014年12月15日…「実質的に旅行に出発」ということになった日の早朝…前夜に泊まった宿から一寸出て、辺りを歩き回った中で、何となく写真を撮っていた…
この辺り…車輌も歩行者も多い…こういう早朝のような静かな時間帯の感じ…「或いは貴重」という気がしないでもない…
↓思い付いて“水彩画風”の画を創ってみた…
↑時計台の画は、何か「こういうの」が妙に似合う気がする…
↓そんなことを不意に思い出した…
↑2014年12月15日…「実質的に旅行に出発」ということになった日の早朝…前夜に泊まった宿から一寸出て、辺りを歩き回った中で、何となく写真を撮っていた…
この辺り…車輌も歩行者も多い…こういう早朝のような静かな時間帯の感じ…「或いは貴重」という気がしないでもない…
↓思い付いて“水彩画風”の画を創ってみた…
↑時計台の画は、何か「こういうの」が妙に似合う気がする…
鹿児島の路面電車:黄昏の鹿児島駅前停留所に並ぶ603、1014、507をペン画風、絵画風に…(2014.12.18撮影)
路面電車を「面白い!」と思う理由の一つに「様々な年代の車輌が一様に軌道を行き交っている様を眺めるのが愉しい」ということが在ると私は考えている…
その「様々な年代の車輌が一様に軌道を行き交っている様を眺めるのが愉しい」という意味で、「鹿児島の路面電車」は「還暦!?」な車輌から「21世紀の都市交通!!」という感の超低床型車輌まで、色々な車輌に出くわすことが出来て面白い…
↓鹿児島駅前停留所…“フォーク状”に3本の軌道が並び、到着した電車が一息入れてから折り返している場所だ…
↑車輌形状が判り易いペン画風にしてみた…
中央の1014は“1000型”の1輌である。「国産」としては最初期に相当する、21世紀に突入する辺りに登場した超低床型車輌だ。行先表示は電光で文字を示す方式で、辺りが薄暗い黄昏の時間帯なので、光が強めに見えてペン画の線が少々潰れてしまっている…
右の507、左の603は各々「半世紀超」の長期に亘って活躍している車輌だ…603の“600型”が最初の例らしいが、正面の「3枚窓」の形状が特徴的だ。なかなか風情の在る形状である…
↓色が判り易い絵画風にしてみた…
↑紫に染まる夕空の中、灯りを点して停車中の各車…なかなかに好い眺めだ…
この時は…西日を受ける桜島を眺めた後にここへやって来て、鹿児島市役所本庁舎前の公園で噴水やイルミネーションを眺め…屋台村で夕食を楽しみながら呑んで宿に戻ったのだった…
時間が経つ程に記憶が薄れて行くという一面も在るのだろうが…こうした「記憶に残る風景」は、時間が経つ程に思い出す頻度が高まる…
その「様々な年代の車輌が一様に軌道を行き交っている様を眺めるのが愉しい」という意味で、「鹿児島の路面電車」は「還暦!?」な車輌から「21世紀の都市交通!!」という感の超低床型車輌まで、色々な車輌に出くわすことが出来て面白い…
↓鹿児島駅前停留所…“フォーク状”に3本の軌道が並び、到着した電車が一息入れてから折り返している場所だ…
↑車輌形状が判り易いペン画風にしてみた…
中央の1014は“1000型”の1輌である。「国産」としては最初期に相当する、21世紀に突入する辺りに登場した超低床型車輌だ。行先表示は電光で文字を示す方式で、辺りが薄暗い黄昏の時間帯なので、光が強めに見えてペン画の線が少々潰れてしまっている…
右の507、左の603は各々「半世紀超」の長期に亘って活躍している車輌だ…603の“600型”が最初の例らしいが、正面の「3枚窓」の形状が特徴的だ。なかなか風情の在る形状である…
↓色が判り易い絵画風にしてみた…
↑紫に染まる夕空の中、灯りを点して停車中の各車…なかなかに好い眺めだ…
この時は…西日を受ける桜島を眺めた後にここへやって来て、鹿児島市役所本庁舎前の公園で噴水やイルミネーションを眺め…屋台村で夕食を楽しみながら呑んで宿に戻ったのだった…
時間が経つ程に記憶が薄れて行くという一面も在るのだろうが…こうした「記憶に残る風景」は、時間が経つ程に思い出す頻度が高まる…
大畑駅(おこばえき)に停車中の<しんぺい>をペン画風、絵画風に(2014.12.19撮影)
↓気に入っている焼酎、宮崎県えびの市の<明月>のコマーシャル映像である…
↑加久藤の“金松法然”の話し、種田山頭火がえびの市内で焼酎を飲んだ旨が綴られている話しの各バージョンの後、<いさぶろう/しんぺい>の車輌が真幸駅(まさきえき)―えびの市内に在る駅―に入るシーン、車内の様子が在るバージョンが収録されている…
こういう映像を視ると、自分で乗車した<しんぺい>が酷く懐かしくなる!!
↓鹿児島県の吉松駅を発ってから、終点である熊本県の人吉駅に入る手前、ループ線とスイッチバック線が在る大畑駅に<しんぺい>は停車する…
↑“40系ファミリー”の、目に馴染んでいるが故に「鉄道車輌らしい!」感じがする<しんぺい>の形状が好いので、形状が判り易いペン画風にしてみた…
↓形状も好いが、“色”も好きなので、色が判り易い絵画風にもしてみた…
↑冬の陽光は傾くのが早く、既に空の色合いは微妙で、<しんぺい>の赤い車体の色も独特な趣を帯びている…
「鉄道が敷設されている」という事実自体を“産業遺産”、“文化遺産”と捉え、それを紹介して向き合うような企画の<いさぶろう/しんぺい>の運行…凄く愉しい旅だった…是非、何時かこの<しんぺい>と再会したい!!!
↑加久藤の“金松法然”の話し、種田山頭火がえびの市内で焼酎を飲んだ旨が綴られている話しの各バージョンの後、<いさぶろう/しんぺい>の車輌が真幸駅(まさきえき)―えびの市内に在る駅―に入るシーン、車内の様子が在るバージョンが収録されている…
こういう映像を視ると、自分で乗車した<しんぺい>が酷く懐かしくなる!!
↓鹿児島県の吉松駅を発ってから、終点である熊本県の人吉駅に入る手前、ループ線とスイッチバック線が在る大畑駅に<しんぺい>は停車する…
↑“40系ファミリー”の、目に馴染んでいるが故に「鉄道車輌らしい!」感じがする<しんぺい>の形状が好いので、形状が判り易いペン画風にしてみた…
↓形状も好いが、“色”も好きなので、色が判り易い絵画風にもしてみた…
↑冬の陽光は傾くのが早く、既に空の色合いは微妙で、<しんぺい>の赤い車体の色も独特な趣を帯びている…
「鉄道が敷設されている」という事実自体を“産業遺産”、“文化遺産”と捉え、それを紹介して向き合うような企画の<いさぶろう/しんぺい>の運行…凄く愉しい旅だった…是非、何時かこの<しんぺい>と再会したい!!!
鹿児島:「仙巌園から望む冠雪した桜島」を絵画風に…(2014.12.18撮影)
「(例年より)少ない」と言っても、とりあえず確りと積雪が見られ、雪景色が“当然”な稚内のような地域では、「冬季の雪が在る画」と言っても「だからどうした?」というような話しだが…
鹿児島のような、積雪が「シーズンに何回か?」という感じで、雪景色が“稀”とか“異状(?)”というような地域では、「雪が在る画」と言えば「何だって?!」と画を見てみたくなるかもしれない…
↓鹿児島の仙巌園から望んだ桜島である。
↑次第に蒼天が輝きを増し、複雑な形状で桜島の周囲を漂う雲の隙間に光が差し込み、山頂側が雪で染まっている桜島が「舞台のセット」か何かのように映える!手前の海、錦江湾も輝いている…
この日は「好いなぁ…」と足を停めて桜島を望む場面が何度在ったか?!辺りの景色を愛でながら歩き回ることは好きだが、「この日の鹿児島」程度に「足を停めて…」というようなことをすることも稀だ…こんな素晴らしい風景に出逢える街…「ファンになった!!」と公言したい感じだ…或いは、これ程の光景を見て「好かった!!」という思い出―恐らく「永年に亘って、殆ど毎日、桜島の在る風景を視ている」と思われる、城山で売店を営んでいらっしゃる方が「12月の雪は珍しい」としていた…言葉を交わした際、鹿児島に至った経路に話題が及ぶと、「福岡方面へ向かった急行列車」の記憶を持ち出された…“急行列車”というのは「相当古い話し」なので、かなり永く辺りの様子を視てきたことが覗え「本当に“稀”な光景に出くわした!」との想いを強くした…―が出来ると、「再訪!!」を誓わずには居られなくなる…
画を絵画風に加工したが…「地方の金融機関等で配る、営業地域の名勝の絵画を入れた1年モノのカレンダー」(稚内では、利尻富士を題材にした絵画を使って、その種のモノを作って配布している例が見受けられる…)にでも在りそうな感じだ…「写真でカレンダー」というのは手軽に出来るので、機会が在れば、本当に作ってしまうかもしれないが…
彼の地のローカルニュースでは、そろそろ“早春”という様子を伝える話題も散見するようになると思われるが…当地は未だ厳冬期…こんな画を眺めながら彼の地を思い出す場面が益々増えそうだ…
鹿児島のような、積雪が「シーズンに何回か?」という感じで、雪景色が“稀”とか“異状(?)”というような地域では、「雪が在る画」と言えば「何だって?!」と画を見てみたくなるかもしれない…
↓鹿児島の仙巌園から望んだ桜島である。
↑次第に蒼天が輝きを増し、複雑な形状で桜島の周囲を漂う雲の隙間に光が差し込み、山頂側が雪で染まっている桜島が「舞台のセット」か何かのように映える!手前の海、錦江湾も輝いている…
この日は「好いなぁ…」と足を停めて桜島を望む場面が何度在ったか?!辺りの景色を愛でながら歩き回ることは好きだが、「この日の鹿児島」程度に「足を停めて…」というようなことをすることも稀だ…こんな素晴らしい風景に出逢える街…「ファンになった!!」と公言したい感じだ…或いは、これ程の光景を見て「好かった!!」という思い出―恐らく「永年に亘って、殆ど毎日、桜島の在る風景を視ている」と思われる、城山で売店を営んでいらっしゃる方が「12月の雪は珍しい」としていた…言葉を交わした際、鹿児島に至った経路に話題が及ぶと、「福岡方面へ向かった急行列車」の記憶を持ち出された…“急行列車”というのは「相当古い話し」なので、かなり永く辺りの様子を視てきたことが覗え「本当に“稀”な光景に出くわした!」との想いを強くした…―が出来ると、「再訪!!」を誓わずには居られなくなる…
画を絵画風に加工したが…「地方の金融機関等で配る、営業地域の名勝の絵画を入れた1年モノのカレンダー」(稚内では、利尻富士を題材にした絵画を使って、その種のモノを作って配布している例が見受けられる…)にでも在りそうな感じだ…「写真でカレンダー」というのは手軽に出来るので、機会が在れば、本当に作ってしまうかもしれないが…
彼の地のローカルニュースでは、そろそろ“早春”という様子を伝える話題も散見するようになると思われるが…当地は未だ厳冬期…こんな画を眺めながら彼の地を思い出す場面が益々増えそうだ…
鹿児島:「西田橋と桜島」の眺望を絵画風に…(2014.12.18撮影)
極々最近に至っても「そう言えば…今年、2015年に年が改まって、初めて会いましたね…今年もよろしく…」という挨拶を交わす例が無い訳でもない…が、既に1月の終盤である…
「実際の時間」は1月終盤ながら…「気分の時間」は“年明け”辺りであるような…或いは、私自身は“12月下旬”辺りで停まっているかのように感じる場合さえ在る…“12月下旬”辺りに、強く記憶に残る風景に出くわす場面が多く在ったことから、それを回顧している場面が多い故でもあることはハッキリしているが…
↓西田橋と桜島だ…「強く記憶に残る風景」の一つだ…
↑“絵画風”にしてみた…
「12月に冠雪した桜島」という「やや珍しい」らしい状況に魅せられ、その眺望を追うように動き回っていた。天候が時間に連れて好転し、天空の蒼が輝きを増す中、冠雪している山頂付近も眩しくなって来た…
西田橋は、鹿児島の城下から他地域へ延びる街道に続く“重要橋梁”だったモノだ。天保年間に築かれた石橋が永く使われていたのだが、水害でこの種の石橋が喪われた事態を受け、色々と議論は在ったらしいが、公園内に移築された…結果的に、「鹿児島の幕末期辺りからの歴史」を想起させる石橋の背景に桜島が見えるという景観が登場した訳だ…
西田橋に興味を覚えて見に行って以来…「銭湯の壁に在る画?」という感じもしないではない眺望が気に入っていたのだが…今般出くわした眺望は殊更に好い!!
大変に気に入ったこの画を絵画風に仕上げて…オフィスのパソコン端末の画面で“壁紙”として利用している…(“壁紙”は気分転換に時々切り換えるのだが…)
この画は「最近、最も気に入った画の一つ」ということになる…
「実際の時間」は1月終盤ながら…「気分の時間」は“年明け”辺りであるような…或いは、私自身は“12月下旬”辺りで停まっているかのように感じる場合さえ在る…“12月下旬”辺りに、強く記憶に残る風景に出くわす場面が多く在ったことから、それを回顧している場面が多い故でもあることはハッキリしているが…
↓西田橋と桜島だ…「強く記憶に残る風景」の一つだ…
↑“絵画風”にしてみた…
「12月に冠雪した桜島」という「やや珍しい」らしい状況に魅せられ、その眺望を追うように動き回っていた。天候が時間に連れて好転し、天空の蒼が輝きを増す中、冠雪している山頂付近も眩しくなって来た…
西田橋は、鹿児島の城下から他地域へ延びる街道に続く“重要橋梁”だったモノだ。天保年間に築かれた石橋が永く使われていたのだが、水害でこの種の石橋が喪われた事態を受け、色々と議論は在ったらしいが、公園内に移築された…結果的に、「鹿児島の幕末期辺りからの歴史」を想起させる石橋の背景に桜島が見えるという景観が登場した訳だ…
西田橋に興味を覚えて見に行って以来…「銭湯の壁に在る画?」という感じもしないではない眺望が気に入っていたのだが…今般出くわした眺望は殊更に好い!!
大変に気に入ったこの画を絵画風に仕上げて…オフィスのパソコン端末の画面で“壁紙”として利用している…(“壁紙”は気分転換に時々切り換えるのだが…)
この画は「最近、最も気に入った画の一つ」ということになる…
<Robert's Coffee 福岡大名>(2014.12.21)
「フィンランド発祥のコーヒーショップが、日本国内に“第1号店”を」という話しを聞いていた。場所が福岡…「何となく気になる」という按配だった…
“東廻り”で九州を殆ど一周するような型で福岡に至り、福岡の代表的な繁華街である天神地区で友人と会って愉しい一時を過ごした訳だが…その際に「天神地区の大名町という住所に…」とこの「フィンランド発祥のコーヒーショップが、日本国内に“第1号店”」という一件を話題にした。
実は友人と会う前に天神地区に至り、この「フィンランド発祥のコーヒーショップが、日本国内に“第1号店”」という場所を探そうとしたが…既に暗く、雨も降っていて歩き回り悪かったので、探せなかった…
友人は、実は天神地区在勤で辺りの様子に明るい。住所を確かめて…一緒に歩いて「この辺りの筈…」と場所を探し当てた…
↓1本入った通に在る建物の2階に入居していた!
↑写真では切れているが、画面右側に「77.7」と大きな数字が見えた。地元のコミュニティーFMの隣だった…
↓“フィンランド”と言えば…「ムーミン!」ということで、通に面した階段の上り口にムーミンの看板が在って迎えてくれる…
同行した友人と「ここで珈琲を頂くという展開は…想定していなかった…」と笑いながら、ムーミンに迎えられて店内に…
↓創業者であるロバート・パウリグのサインをロゴ化した図案のカップで珈琲が出て来る…
店内は…“欧州的デザイン”と言うのか、落ち着いた感じで、立寄った時は何かの集まりの帰りのように見受けられるグループが珈琲を愉しんでいる様子や、1人で、数人でという他の人達の出入りも在った。「日曜日の夜」という状況下、物凄く混んでいた訳でもなく、ゆったりと出来た…
↓創業者であるロバート・パウリグはヘルシンキ市長を務めた経過が在ることから、“メイヤーズブレンド”(市長のブレンド)と銘打って、店内用カップにも見受けられたサインをパッケージに入れた珈琲も店内で販売していた…
↑写真そのものは、翌日に旭川の宿で撮ったが…
可能であれば“豆”が欲しかったが、コーヒーメーカーで使う等の使途で挽いてあるモノのみの販売だった…
つまらないことだが…粉状の珈琲を保管するのに適当な容器が拙宅に見当たらなかった…暫く袋の封を切らずに保管し、先日容器を入手したので、その容器に入れて珈琲を保管することにし、拙宅でドリップしてみた。「欧州の流儀」とでも言うのか、確り濃い感じもする他方で、彼の地の人達のように「1日に何杯も…」ということをしても大丈夫そうな、存外にアッサリした感じのバランスが好ましいと思った。このところは…拙宅の珈琲は、この“メイヤーズブレンド”だ…
「フィンランド発祥のコーヒーショップが、日本国内に“第1号店”」というのを聞いたのは何時だったか?とにかく気になっていたので、実際に立寄ることが叶って善かった…
それにしても…「遠くフィンランドで焙煎されて挽かれた珈琲が福岡にやって来て、福岡で求めて稚内へ持ち帰って淹れている」という状況…一寸面白い…
“東廻り”で九州を殆ど一周するような型で福岡に至り、福岡の代表的な繁華街である天神地区で友人と会って愉しい一時を過ごした訳だが…その際に「天神地区の大名町という住所に…」とこの「フィンランド発祥のコーヒーショップが、日本国内に“第1号店”」という一件を話題にした。
実は友人と会う前に天神地区に至り、この「フィンランド発祥のコーヒーショップが、日本国内に“第1号店”」という場所を探そうとしたが…既に暗く、雨も降っていて歩き回り悪かったので、探せなかった…
友人は、実は天神地区在勤で辺りの様子に明るい。住所を確かめて…一緒に歩いて「この辺りの筈…」と場所を探し当てた…
↓1本入った通に在る建物の2階に入居していた!
↑写真では切れているが、画面右側に「77.7」と大きな数字が見えた。地元のコミュニティーFMの隣だった…
↓“フィンランド”と言えば…「ムーミン!」ということで、通に面した階段の上り口にムーミンの看板が在って迎えてくれる…
同行した友人と「ここで珈琲を頂くという展開は…想定していなかった…」と笑いながら、ムーミンに迎えられて店内に…
↓創業者であるロバート・パウリグのサインをロゴ化した図案のカップで珈琲が出て来る…
店内は…“欧州的デザイン”と言うのか、落ち着いた感じで、立寄った時は何かの集まりの帰りのように見受けられるグループが珈琲を愉しんでいる様子や、1人で、数人でという他の人達の出入りも在った。「日曜日の夜」という状況下、物凄く混んでいた訳でもなく、ゆったりと出来た…
↓創業者であるロバート・パウリグはヘルシンキ市長を務めた経過が在ることから、“メイヤーズブレンド”(市長のブレンド)と銘打って、店内用カップにも見受けられたサインをパッケージに入れた珈琲も店内で販売していた…
↑写真そのものは、翌日に旭川の宿で撮ったが…
可能であれば“豆”が欲しかったが、コーヒーメーカーで使う等の使途で挽いてあるモノのみの販売だった…
つまらないことだが…粉状の珈琲を保管するのに適当な容器が拙宅に見当たらなかった…暫く袋の封を切らずに保管し、先日容器を入手したので、その容器に入れて珈琲を保管することにし、拙宅でドリップしてみた。「欧州の流儀」とでも言うのか、確り濃い感じもする他方で、彼の地の人達のように「1日に何杯も…」ということをしても大丈夫そうな、存外にアッサリした感じのバランスが好ましいと思った。このところは…拙宅の珈琲は、この“メイヤーズブレンド”だ…
「フィンランド発祥のコーヒーショップが、日本国内に“第1号店”」というのを聞いたのは何時だったか?とにかく気になっていたので、実際に立寄ることが叶って善かった…
それにしても…「遠くフィンランドで焙煎されて挽かれた珈琲が福岡にやって来て、福岡で求めて稚内へ持ち帰って淹れている」という状況…一寸面白い…
鹿児島中央駅に停車中の新幹線をイラスト風に…(2014.12.19撮影)
「単純な事」であろうが、「新幹線が通っていない(序に予定も無い…)地域」に住んでいるので、何か“新幹線”と言うと「凄く特別!!」な感じがする。「航空機で移動」というよりも、「新幹線で移動」という状況の方が、自身の感じ方としては「特別!!」という感じが強い…
「新幹線沿線の住民」にとっては…新幹線も「所詮は交通手段」に過ぎないのかもしれないが…私にとっては、何か「特別!!」なのだ…古くは…高校の修学旅行で、全く初めて京都・東京間で乗車し、進学を目論んで東京に乗込んだ際には「終焉間際の青函連絡船」で津軽海峡を越え、盛岡に出て東北新幹線に乗車して上野駅の地下に到着した…その後も…何となく数えられる範囲でしか乗車機会を設けられていない…最も長く新幹線に乗車したのは…関西方面に出た復路、予定していた特急<日本海>が北陸・東北の雪でアッサリと運休したことから、京都・東京・新青森と乗り継いで移動した場面だった…
↓そういう具合に、勝手に新幹線に思い入れを持っているので、鹿児島中央駅で新幹線の列車を鳥瞰出来る場所を視付けた際には非常に嬉しかった…
>>鹿児島中央駅の新幹線ホームを鳥瞰出来る喫煙コーナー(2014.12.19)
http://mirage-hdr.269g.net/article/18815769.html
鹿児島中央駅に発着する新幹線…2011年12月に博多から到着…2012年12月に熊本から到着…乗車したのはこの2回だ…
↓現在、九州新幹線で遭遇機会が多いのは…“鉛筆画”風のイラストにしてみたが、<N700系>だ…
↑前身の<700系>はすこし「のっぺり」した感じだが、<N700系>は少しメリハリが在る形状のように思う…
N700系は、東海道新幹線や山陽新幹線で運用するために2007年に登場したが、九州新幹線での運用を念頭に改装を行った型となる“7000番台”、“8000番台”が博多・鹿児島中央間、或いは山陽新幹線乗入れで新大阪・鹿児島中央間を走っている。東海道・山陽新幹線の「最大16輛編成」に対応し難い区間が在ることから「8輛編成」とし、勾配がキツい区間を走るためにモーターを増強してあるのが、この“7000番台”、“8000番台”の特徴だ…
内装に関しても、“7000番台”、“8000番台”では、嘗てJR西日本が新大阪・博多間の一部列車で導入して好評だった「2列+2列」の指定席を採用している。(新幹線は一般に「2列+3列」だ…)
↓この日は好天で、(勝手にそう呼んでいるが…)“青磁色”の車体がなかなかに映える…
九州を訪ねた際、普通列車での移動や、<はやとの風>、<しんぺい>のような列車での移動を優先し、新幹線を行程に入れ損なった…“次”が何時か、それが在るのか否かも判らないが、もし機会が在れば、今度はこの美しい列車にきっと乗りたい!!
「新幹線沿線の住民」にとっては…新幹線も「所詮は交通手段」に過ぎないのかもしれないが…私にとっては、何か「特別!!」なのだ…古くは…高校の修学旅行で、全く初めて京都・東京間で乗車し、進学を目論んで東京に乗込んだ際には「終焉間際の青函連絡船」で津軽海峡を越え、盛岡に出て東北新幹線に乗車して上野駅の地下に到着した…その後も…何となく数えられる範囲でしか乗車機会を設けられていない…最も長く新幹線に乗車したのは…関西方面に出た復路、予定していた特急<日本海>が北陸・東北の雪でアッサリと運休したことから、京都・東京・新青森と乗り継いで移動した場面だった…
↓そういう具合に、勝手に新幹線に思い入れを持っているので、鹿児島中央駅で新幹線の列車を鳥瞰出来る場所を視付けた際には非常に嬉しかった…
>>鹿児島中央駅の新幹線ホームを鳥瞰出来る喫煙コーナー(2014.12.19)
http://mirage-hdr.269g.net/article/18815769.html
鹿児島中央駅に発着する新幹線…2011年12月に博多から到着…2012年12月に熊本から到着…乗車したのはこの2回だ…
↓現在、九州新幹線で遭遇機会が多いのは…“鉛筆画”風のイラストにしてみたが、<N700系>だ…
↑前身の<700系>はすこし「のっぺり」した感じだが、<N700系>は少しメリハリが在る形状のように思う…
N700系は、東海道新幹線や山陽新幹線で運用するために2007年に登場したが、九州新幹線での運用を念頭に改装を行った型となる“7000番台”、“8000番台”が博多・鹿児島中央間、或いは山陽新幹線乗入れで新大阪・鹿児島中央間を走っている。東海道・山陽新幹線の「最大16輛編成」に対応し難い区間が在ることから「8輛編成」とし、勾配がキツい区間を走るためにモーターを増強してあるのが、この“7000番台”、“8000番台”の特徴だ…
内装に関しても、“7000番台”、“8000番台”では、嘗てJR西日本が新大阪・博多間の一部列車で導入して好評だった「2列+2列」の指定席を採用している。(新幹線は一般に「2列+3列」だ…)
↓この日は好天で、(勝手にそう呼んでいるが…)“青磁色”の車体がなかなかに映える…
九州を訪ねた際、普通列車での移動や、<はやとの風>、<しんぺい>のような列車での移動を優先し、新幹線を行程に入れ損なった…“次”が何時か、それが在るのか否かも判らないが、もし機会が在れば、今度はこの美しい列車にきっと乗りたい!!
鹿児島の路面電車:鹿児島中央駅前停留所に停車中の「現役最古参」“501”を“ペン画”風、“油彩画”風に…(2014.12.19撮影)
鹿児島を訪ねると、「街を行き交う路面電車」を視て、「またこの街へ…」という“安堵感”と言うのか、縁が深いでもないにも拘らず感じてしまう“懐かしさのようなもの”を覚えることを禁じ得ない。
↓「形状の面白さ」が際立つように、“ペン画”風にしてみたのだが、“501”である。視る都度に「好い形…」と思うのがこの型だ…
↑鹿児島中央駅に向かう際に乗車し、下車後に撮影した画からのモノだ…
2014年12月に鹿児島に立寄った際には、何度かこの“501”を見掛けた…
鹿児島の路面電車では「“超低床”デザインの21世紀型の車輛」、「80年代から90年代に登場している、各地でも見掛ける雰囲気の車輛」、「半世紀程度頑張っているような古参の車輛」が見受けられ、そうした様々な時代の車輛が同じ次元であの“芝生敷き軌道”を行き交っていて、それを眺めるのが愉しい。
“501”は1955年に登場した“500型”に分類される車輛だ…
1955年、鹿児島市交通局では老朽化していた各車を順次新しいモノに替えることを目指していて、そうした中で2ヶ年に亘って計15輛の“500型”を新造した。
1960年代後半になって路面電車のワンマン運行も行われるようになっていた中、1969年に“500型”各車にはワンマン運行対応の改造が施された。その際、正面の外観が後発の“600型”に準じた、現在の「三枚窓」になったそうだ。
1980年代になると、各車には冷房が設置されるようになり、1999年から2001年には「可能な範囲でのバリアフリー対応」ということでステップの改造が施されたという。
2002年になって「“超低床”デザインの21世紀型の車輛」(=1000型)が登場し、“500型”は順次廃車され始めた…
過去の事故で破損して廃車となったモノも在るが、15輛在った同型車の中、現在活躍中なのは5輛である。5輛の中の1輛“512”は、“芝生敷き軌道”のメンテナンスを行う専用車に改造された。現在、乗客を運んでいる“500型”は、この“501”の他に“504”、“507”、“508”が在って、計4輛である。
↓現在、鹿児島の路面電車の“標準塗色”なのは、このオレンジと緑の塗り分けに白線である…
↑この色…なかなかに好いので、色が判る“油彩画”風にしてみた…「昔の国電」に在った“湘南色”を思わせるが…「鹿児島の蒼空!!」にこのオレンジと緑が映える!!
半世紀以上の間、鹿児島の街を走り続けている路面電車“501”である…軌道の様子や、車窓に映る街並みや、街を行き交う人達の様子は変わっていることであろうが…変わらずに走り続けている…これからも活躍を続けて欲しいものだ…
↓「形状の面白さ」が際立つように、“ペン画”風にしてみたのだが、“501”である。視る都度に「好い形…」と思うのがこの型だ…
↑鹿児島中央駅に向かう際に乗車し、下車後に撮影した画からのモノだ…
2014年12月に鹿児島に立寄った際には、何度かこの“501”を見掛けた…
鹿児島の路面電車では「“超低床”デザインの21世紀型の車輛」、「80年代から90年代に登場している、各地でも見掛ける雰囲気の車輛」、「半世紀程度頑張っているような古参の車輛」が見受けられ、そうした様々な時代の車輛が同じ次元であの“芝生敷き軌道”を行き交っていて、それを眺めるのが愉しい。
“501”は1955年に登場した“500型”に分類される車輛だ…
1955年、鹿児島市交通局では老朽化していた各車を順次新しいモノに替えることを目指していて、そうした中で2ヶ年に亘って計15輛の“500型”を新造した。
1960年代後半になって路面電車のワンマン運行も行われるようになっていた中、1969年に“500型”各車にはワンマン運行対応の改造が施された。その際、正面の外観が後発の“600型”に準じた、現在の「三枚窓」になったそうだ。
1980年代になると、各車には冷房が設置されるようになり、1999年から2001年には「可能な範囲でのバリアフリー対応」ということでステップの改造が施されたという。
2002年になって「“超低床”デザインの21世紀型の車輛」(=1000型)が登場し、“500型”は順次廃車され始めた…
過去の事故で破損して廃車となったモノも在るが、15輛在った同型車の中、現在活躍中なのは5輛である。5輛の中の1輛“512”は、“芝生敷き軌道”のメンテナンスを行う専用車に改造された。現在、乗客を運んでいる“500型”は、この“501”の他に“504”、“507”、“508”が在って、計4輛である。
↓現在、鹿児島の路面電車の“標準塗色”なのは、このオレンジと緑の塗り分けに白線である…
↑この色…なかなかに好いので、色が判る“油彩画”風にしてみた…「昔の国電」に在った“湘南色”を思わせるが…「鹿児島の蒼空!!」にこのオレンジと緑が映える!!
半世紀以上の間、鹿児島の街を走り続けている路面電車“501”である…軌道の様子や、車窓に映る街並みや、街を行き交う人達の様子は変わっていることであろうが…変わらずに走り続けている…これからも活躍を続けて欲しいものだ…
西都城駅&鹿児島中央駅:817系電車(2014.12.17)
宮崎駅の直ぐ傍の宿に泊まった翌朝…“始発列車”で行動を開始した…
宮崎・都城・えびの、えびの飯野・都城、都城・西都城と列車で動いたが…どういう訳か何れの区間でも“40系ファミリー”のディーゼルカーだった…
西都城駅で、鹿児島中央駅を目指そうと列車に乗ったが…
↓817系電車が現れた…
↑「漸く出逢った…」というように感じた…
この817系電車…基本的に2輌運行のようだ…宮崎県、鹿児島県、長崎県、佐賀県で視掛けることが多い…“3000番台”という新しいモノは仕様が少し違い、3輌のユニットになっていて、福岡県方面で時々視掛ける…
宮崎県、鹿児島県、長崎県、佐賀県で視掛ける2輌運行の817系電車…基本的に「運転士のみが乗務」という“ワンマン”体制で走っていることが殆どだ…
この数年の数回に及ぶ九州訪問を通じて、この817系電車には随分と乗車した。「九州を列車で旅する」とでも聞けば、この817系電車の、正面が黒い外見と、黒い革張り風クッションを付けた木のベンチ風な椅子の内装、地元の老若男女が乗っている車内、街や田園や山並み、或いは柑橘が実る木が見える車窓を想い起こす。私の中では、817系電車は「(勝手な想いながら)九州の現行の鉄道の象徴」のようにさえ思える存在だ…
西都城を出ると、列車は山間のような場所をゆっくりと進む…隼人駅で、都城駅で視掛けた<ななつ星in九州>が停車中なのを車窓に視た…(後で調べると、<ななつ星in九州>は通常は宮崎駅や南宮崎駅に停車するようで、都城駅停車は期間限定だったようだ…或る意味「貴重な様子」を視たことになる…)列車が国分駅に至ると…車内は急激に乗客で賑わい始めるので多少驚く…国分から鹿児島中央は「大都市・鹿児島の近郊」という具合なのだろう…
↓列車は鹿児島中央駅に着いた…
↓電化されている区間の普通列車に関しては、この817系電車が主力化しているように見受けられる…
↑こうやって複数の817系電車が居合わせる場面も、鹿児島中央駅ではよく視掛ける感じだ…
この日…「えびのの雪」で驚いたが…都城や鹿児島でも、天候が好かった他方で風が冷たかった…更に…鹿児島中央駅に至る手前で、山頂部が雲で隠れていたが、桜島が見え「冠雪?」という様子だった。それが気になって、翌日は桜島を眺めに出て「素晴らしい!!」ということになったのだった…
この宮崎から鹿児島に動いていた日から1ヶ月を経てしまったが…817系電車が妙に懐かしい…
宮崎・都城・えびの、えびの飯野・都城、都城・西都城と列車で動いたが…どういう訳か何れの区間でも“40系ファミリー”のディーゼルカーだった…
西都城駅で、鹿児島中央駅を目指そうと列車に乗ったが…
↓817系電車が現れた…
↑「漸く出逢った…」というように感じた…
この817系電車…基本的に2輌運行のようだ…宮崎県、鹿児島県、長崎県、佐賀県で視掛けることが多い…“3000番台”という新しいモノは仕様が少し違い、3輌のユニットになっていて、福岡県方面で時々視掛ける…
宮崎県、鹿児島県、長崎県、佐賀県で視掛ける2輌運行の817系電車…基本的に「運転士のみが乗務」という“ワンマン”体制で走っていることが殆どだ…
この数年の数回に及ぶ九州訪問を通じて、この817系電車には随分と乗車した。「九州を列車で旅する」とでも聞けば、この817系電車の、正面が黒い外見と、黒い革張り風クッションを付けた木のベンチ風な椅子の内装、地元の老若男女が乗っている車内、街や田園や山並み、或いは柑橘が実る木が見える車窓を想い起こす。私の中では、817系電車は「(勝手な想いながら)九州の現行の鉄道の象徴」のようにさえ思える存在だ…
西都城を出ると、列車は山間のような場所をゆっくりと進む…隼人駅で、都城駅で視掛けた<ななつ星in九州>が停車中なのを車窓に視た…(後で調べると、<ななつ星in九州>は通常は宮崎駅や南宮崎駅に停車するようで、都城駅停車は期間限定だったようだ…或る意味「貴重な様子」を視たことになる…)列車が国分駅に至ると…車内は急激に乗客で賑わい始めるので多少驚く…国分から鹿児島中央は「大都市・鹿児島の近郊」という具合なのだろう…
↓列車は鹿児島中央駅に着いた…
↓電化されている区間の普通列車に関しては、この817系電車が主力化しているように見受けられる…
↑こうやって複数の817系電車が居合わせる場面も、鹿児島中央駅ではよく視掛ける感じだ…
この日…「えびのの雪」で驚いたが…都城や鹿児島でも、天候が好かった他方で風が冷たかった…更に…鹿児島中央駅に至る手前で、山頂部が雲で隠れていたが、桜島が見え「冠雪?」という様子だった。それが気になって、翌日は桜島を眺めに出て「素晴らしい!!」ということになったのだった…
この宮崎から鹿児島に動いていた日から1ヶ月を経てしまったが…817系電車が妙に懐かしい…
福岡土産:博多織のネクタイ(黒田官兵衛・長政親子の兜の柄)(2014.12.22)
博多駅周辺から福岡空港を目指す場合…地下鉄に乗ってしまえば直ぐに着く…博多駅周辺で、色々なモノが在る駅の構内に入り込んで、地下鉄の乗場に至るまでの方が、余程時間やエネルギーを使うと思える程だ…
「直ぐに着く」空港なので、張り切って余り早く出掛けても搭乗までの時間を持て余してしまうが…空港ビル内で土産売場を眺めるというようなことをするのも愉しい…早朝や夜間というのではなく、土産売場の店舗が普通に営業しているような時間帯なので、一寸覗いてみようと思っていた…
↓土産売場で眼に留めて入手したのはこれだ!!
↑写真そのものは、福岡空港から新千歳空港に飛び、列車を乗り継いで至った旭川の宿で撮ったものだが…
土産売場の一隅に、福岡の伝統工芸を活かしたグッズを扱っている店が在ったのだが、そこに「博多織ネクタイ」というものが在った。
色々な種類のネクタイが在った中、「一寸視てくれ!!」とばかりに私の眼線を奪ったのが写真のモノだった…
一見すると「やや華やか目に見える、抽象的な図案を組み合わせたモノ」のようだが…赤一色に見えるのは黒田官兵衛の兜で、黄色の大きな角状の飾りが目立つモノと、板状のモノを折り曲げて造型したようなグレーのモノは黒田長政の兜だと思った…
「城下町・福岡」の礎を築いたとされる両武将の兜…大河ドラマ関係で彼らが話題になっている、或いは観光振興の素材としていることから登場した柄であろうが…「当地らしさ」が溢れていて気に入った。また、戦国時代末期辺りの武将達が自分達の武威を誇示しようと工夫した華々しい兜のデザインはなかなかに面白いモノが多い…それをネクタイのような日用品に入れるというアイディアが好い。
店員さんに価格を尋ねれば「予算の範囲」と言える額…求めようと決めたが、その時に「これ…黒田官兵衛・長政父子の兜をデザインした柄ですよね?」と尋ねてみた。店員さんの顔に“驚き”が浮かんだ。「判って頂ける方…いらっしゃらないんです…」という返答…恐らく「これは何ですか?」と尋ねられて「大河ドラマで話題の、福岡に縁が在る黒田官兵衛と息子の黒田長政が愛用したとされる兜の図案を入れて…」と説明するのが、店員さんの“何時ものパターン”であったのであろう。私の問いは、それを破ったのだと思う。
地元の伝統工芸を活かしたグッズで、地元に縁が深い題材の図案という「当地らしさ」と「サムライのデザイン」の面白さという絶妙な組み合わせ!!素晴らしい土産を入手出来たと大満足だ…他方…北の果ての拙宅に持ち帰ったこのネクタイ…未だ“出陣”していない…
「直ぐに着く」空港なので、張り切って余り早く出掛けても搭乗までの時間を持て余してしまうが…空港ビル内で土産売場を眺めるというようなことをするのも愉しい…早朝や夜間というのではなく、土産売場の店舗が普通に営業しているような時間帯なので、一寸覗いてみようと思っていた…
↓土産売場で眼に留めて入手したのはこれだ!!
↑写真そのものは、福岡空港から新千歳空港に飛び、列車を乗り継いで至った旭川の宿で撮ったものだが…
土産売場の一隅に、福岡の伝統工芸を活かしたグッズを扱っている店が在ったのだが、そこに「博多織ネクタイ」というものが在った。
色々な種類のネクタイが在った中、「一寸視てくれ!!」とばかりに私の眼線を奪ったのが写真のモノだった…
一見すると「やや華やか目に見える、抽象的な図案を組み合わせたモノ」のようだが…赤一色に見えるのは黒田官兵衛の兜で、黄色の大きな角状の飾りが目立つモノと、板状のモノを折り曲げて造型したようなグレーのモノは黒田長政の兜だと思った…
「城下町・福岡」の礎を築いたとされる両武将の兜…大河ドラマ関係で彼らが話題になっている、或いは観光振興の素材としていることから登場した柄であろうが…「当地らしさ」が溢れていて気に入った。また、戦国時代末期辺りの武将達が自分達の武威を誇示しようと工夫した華々しい兜のデザインはなかなかに面白いモノが多い…それをネクタイのような日用品に入れるというアイディアが好い。
店員さんに価格を尋ねれば「予算の範囲」と言える額…求めようと決めたが、その時に「これ…黒田官兵衛・長政父子の兜をデザインした柄ですよね?」と尋ねてみた。店員さんの顔に“驚き”が浮かんだ。「判って頂ける方…いらっしゃらないんです…」という返答…恐らく「これは何ですか?」と尋ねられて「大河ドラマで話題の、福岡に縁が在る黒田官兵衛と息子の黒田長政が愛用したとされる兜の図案を入れて…」と説明するのが、店員さんの“何時ものパターン”であったのであろう。私の問いは、それを破ったのだと思う。
地元の伝統工芸を活かしたグッズで、地元に縁が深い題材の図案という「当地らしさ」と「サムライのデザイン」の面白さという絶妙な組み合わせ!!素晴らしい土産を入手出来たと大満足だ…他方…北の果ての拙宅に持ち帰ったこのネクタイ…未だ“出陣”していない…
711系電車を水彩画風に…(2014.12.22撮影)
711系電車が、初めて登場したのは1967(昭和42)年というから…48年も前である…現在も走り続けている電車だ…
1980(昭和55)年に千歳線の電化に際して、この型の車輛は増備されているという。或いは、現在も活躍している711系はその頃に登場したモノかもしれない…それでも35年にもなる…
↓岩見沢駅に停車中の711系電車を跨線橋から鳥瞰した様子だ…これは、福岡空港から新千歳空港に着いた後、新千歳空港、札幌を経て旭川へ向かった際に出くわした光景だ…
↑何か「北海道の電車」という感じがする、冬季に特有な「雪塗れ状態」だ…
711系は、札幌を起点に千歳線方面、小樽方面、岩見沢方面では見掛ける機会が少なくなっていた…何となく「岩見沢・旭川間で出くわす車輛」というイメージになっていたのだが…このところ、この「岩見沢・旭川間」に関しても721系が登場するようになって来ている。故に、この画のように「岩見沢駅で見掛ける旭川行の711系」というのは、少々珍しい感じになって来た…
来る3月でこの711系は引退してしまうらしい…少し寂しくなる…
>>旭川駅の721系電車(2014.12.27)
1980(昭和55)年に千歳線の電化に際して、この型の車輛は増備されているという。或いは、現在も活躍している711系はその頃に登場したモノかもしれない…それでも35年にもなる…
↓岩見沢駅に停車中の711系電車を跨線橋から鳥瞰した様子だ…これは、福岡空港から新千歳空港に着いた後、新千歳空港、札幌を経て旭川へ向かった際に出くわした光景だ…
↑何か「北海道の電車」という感じがする、冬季に特有な「雪塗れ状態」だ…
711系は、札幌を起点に千歳線方面、小樽方面、岩見沢方面では見掛ける機会が少なくなっていた…何となく「岩見沢・旭川間で出くわす車輛」というイメージになっていたのだが…このところ、この「岩見沢・旭川間」に関しても721系が登場するようになって来ている。故に、この画のように「岩見沢駅で見掛ける旭川行の711系」というのは、少々珍しい感じになって来た…
来る3月でこの711系は引退してしまうらしい…少し寂しくなる…
>>旭川駅の721系電車(2014.12.27)
臼杵の街(2014.12.16)
中津・杵築、杵築・大分、大分・臼杵と列車を乗り継いだが、乗車した車輛は何れも815系電車で、何れも2輛運行の列車だった。
↓臼杵駅の時刻表…大分辺りとの往来が日常的に盛んであると見え、特急列車も多いが「真っ赤な文字の区間」というようにはなっていない…
↑ただ…南下する普通列車は何れも“佐伯行”だ…あの「佐伯・延岡」の「普通列車=1日3往復のみ」を想い起こす…
大分県の日豊本線沿線だけに限っても、「幾ら時間が在っても足りない」と思われる程度に、色々な興味深そうな場所が在るように見受けられた。そうした中、「どの道、列車を乗換えるために下車することに…」という事由も在り、臼杵の街に出てみようと思い立った。
↓臼杵駅前に出てみれば…大きな石仏が据えられていて、一寸驚いた…
↑駅前の石仏はレプリカである…
臼杵辺りには「臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)」というモノが在って、よく知られているという。寧ろ「臼杵石仏」と通称されているようだが…
“磨崖仏”(まがいぶつ)というのは、「自然の岸壁や岩に彫り込まれた仏像」のことだ。仏師が工房で造る仏像は、安置したい場所に運ぶことが出来るが、“磨崖仏”は「動かせない」ということになる…
臼杵磨崖仏に関しては、どういう経過で造られたのか、仔細は判らないらしいが、仏像の様式により、平安時代後期から鎌倉時代初め頃のモノではないかと考えられているらしい。所謂“修験道”に通じて行くことになるのであろうが、仏教の中で、「山岳での修行」を重視するような考え方が在って、そうした中から山中に磨崖仏を設けるようなことも行われたのかもしれない…
駅前に在るレプリカの磨崖仏は大日如来であるが、臼杵の山中には多数の磨崖仏が伝わっているそうだ…現地へ向かうのなら…本数がやや少ない感じもするバスを利用するか、レンタル自転車ということになりそうだが…
レプリカの大日如来が据えられた駅前から街に向かって歩いてみる…
臼杵は城下町だったというが…
↓臼杵城の城址が在る…
↑少し険しい岩山のような感じの場所に城が築かれているように見える…街中の平坦な場所に、岩山が不意に突き出たようだ…
臼杵城…最初は“丹生島城”と呼ばれたそうだが、かの大友宗麟が築いたのだという。
大友家の本拠地であったのは、現在の大分市に相当する豊後府内で、そこに城館が在った。戦国期には本拠地の他に幾つか城等を構えていた。“丹生島城”もその一つであったが、1576(天正4)年に大友宗麟が家督を息子の大友義統に譲ることにし、“二元政治”的なことを始めたのだったが、その際に“丹生島城”に移っている。
城址を視て、「少し険しい岩山のような感じの場所」と思ったのだが、ここは「干潟に突き出た島」だったという…“島”であったのであれば、「少し険しい岩山のような感じの場所」と見えたのも納得出来るというものである。周囲が海で、海を堀にしたような、簡単には攻め寄せられない城だったことになる…実際、最晩年の大友宗麟が、この城で島津勢を迎え撃って寄せ付けなかったということも在ったそうだ…
かの大友宗麟がこの城を主な居城とした後、大友家は「耳川の戦い」で島津家に敗れ、以降衰退して行く…豊臣政権下で大友家は改易となってしまい、関ヶ原合戦当時に臼杵城を本拠地としていた太田一吉も、石田三成との交誼から西軍方となっていたので改易された。そこに、稲葉貞通が5万石で臼杵に封じられた。以降、この稲葉家が明治維新までこの地を知行することになる。因みに…江戸時代に“稲葉家”と言えば、老中を輩出した譜代大名が知られるが、臼杵の稲葉家は別な系統で、外様大名だった。
干潟に突き出た島だった臼杵の城であるが、1887(明治20)年に周囲が埋め立てられたそうだ…故に、平坦な場所に城になっていた岩山が突き出ているように見えるのだ…
↓城址は、現在は公園である…
↓城から然程遠くない辺りには、城下町の面影を色濃く伝える地域も在る…
↑なかなかに趣が在る…
↓写真がやや撮り悪かったが…三重塔を擁する旧い寺も見受けられた…
この城下町の面影を色濃く伝える地域…金融機関の支店のようなものが入居した建物も、外見を「和風から突出しない」ように工夫するなど、「街並みを大切にしている」様子が伺えた。
↓街の一画に「歴史の町 臼杵」という看板も在った…
臼杵は、四国との間のフェリーが発着している港を擁する街でもある。今般はその港まで足を延ばす時間は設けられなかったが…
街を歩いた際の起点にした臼杵の駅に戻ってみれば、佐伯行の列車が待機中だったので、とりあえず飛び乗って「日豊本線の南下」を継続した。臼杵も、また何時か寄ってみたい感じの場所だった…
↓臼杵駅の時刻表…大分辺りとの往来が日常的に盛んであると見え、特急列車も多いが「真っ赤な文字の区間」というようにはなっていない…
↑ただ…南下する普通列車は何れも“佐伯行”だ…あの「佐伯・延岡」の「普通列車=1日3往復のみ」を想い起こす…
大分県の日豊本線沿線だけに限っても、「幾ら時間が在っても足りない」と思われる程度に、色々な興味深そうな場所が在るように見受けられた。そうした中、「どの道、列車を乗換えるために下車することに…」という事由も在り、臼杵の街に出てみようと思い立った。
↓臼杵駅前に出てみれば…大きな石仏が据えられていて、一寸驚いた…
↑駅前の石仏はレプリカである…
臼杵辺りには「臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)」というモノが在って、よく知られているという。寧ろ「臼杵石仏」と通称されているようだが…
“磨崖仏”(まがいぶつ)というのは、「自然の岸壁や岩に彫り込まれた仏像」のことだ。仏師が工房で造る仏像は、安置したい場所に運ぶことが出来るが、“磨崖仏”は「動かせない」ということになる…
臼杵磨崖仏に関しては、どういう経過で造られたのか、仔細は判らないらしいが、仏像の様式により、平安時代後期から鎌倉時代初め頃のモノではないかと考えられているらしい。所謂“修験道”に通じて行くことになるのであろうが、仏教の中で、「山岳での修行」を重視するような考え方が在って、そうした中から山中に磨崖仏を設けるようなことも行われたのかもしれない…
駅前に在るレプリカの磨崖仏は大日如来であるが、臼杵の山中には多数の磨崖仏が伝わっているそうだ…現地へ向かうのなら…本数がやや少ない感じもするバスを利用するか、レンタル自転車ということになりそうだが…
レプリカの大日如来が据えられた駅前から街に向かって歩いてみる…
臼杵は城下町だったというが…
↓臼杵城の城址が在る…
↑少し険しい岩山のような感じの場所に城が築かれているように見える…街中の平坦な場所に、岩山が不意に突き出たようだ…
臼杵城…最初は“丹生島城”と呼ばれたそうだが、かの大友宗麟が築いたのだという。
大友家の本拠地であったのは、現在の大分市に相当する豊後府内で、そこに城館が在った。戦国期には本拠地の他に幾つか城等を構えていた。“丹生島城”もその一つであったが、1576(天正4)年に大友宗麟が家督を息子の大友義統に譲ることにし、“二元政治”的なことを始めたのだったが、その際に“丹生島城”に移っている。
城址を視て、「少し険しい岩山のような感じの場所」と思ったのだが、ここは「干潟に突き出た島」だったという…“島”であったのであれば、「少し険しい岩山のような感じの場所」と見えたのも納得出来るというものである。周囲が海で、海を堀にしたような、簡単には攻め寄せられない城だったことになる…実際、最晩年の大友宗麟が、この城で島津勢を迎え撃って寄せ付けなかったということも在ったそうだ…
かの大友宗麟がこの城を主な居城とした後、大友家は「耳川の戦い」で島津家に敗れ、以降衰退して行く…豊臣政権下で大友家は改易となってしまい、関ヶ原合戦当時に臼杵城を本拠地としていた太田一吉も、石田三成との交誼から西軍方となっていたので改易された。そこに、稲葉貞通が5万石で臼杵に封じられた。以降、この稲葉家が明治維新までこの地を知行することになる。因みに…江戸時代に“稲葉家”と言えば、老中を輩出した譜代大名が知られるが、臼杵の稲葉家は別な系統で、外様大名だった。
干潟に突き出た島だった臼杵の城であるが、1887(明治20)年に周囲が埋め立てられたそうだ…故に、平坦な場所に城になっていた岩山が突き出ているように見えるのだ…
↓城址は、現在は公園である…
↓城から然程遠くない辺りには、城下町の面影を色濃く伝える地域も在る…
↑なかなかに趣が在る…
↓写真がやや撮り悪かったが…三重塔を擁する旧い寺も見受けられた…
この城下町の面影を色濃く伝える地域…金融機関の支店のようなものが入居した建物も、外見を「和風から突出しない」ように工夫するなど、「街並みを大切にしている」様子が伺えた。
↓街の一画に「歴史の町 臼杵」という看板も在った…
臼杵は、四国との間のフェリーが発着している港を擁する街でもある。今般はその港まで足を延ばす時間は設けられなかったが…
街を歩いた際の起点にした臼杵の駅に戻ってみれば、佐伯行の列車が待機中だったので、とりあえず飛び乗って「日豊本線の南下」を継続した。臼杵も、また何時か寄ってみたい感じの場所だった…
杵築の街(2014.12.16)
2013年12月に九州を訪ねた折には、福岡空港到着後に博多駅に出て、<かもめ>に乗車して長崎へ向かった。“西回り”である…
そういうことを記憶していたので、2014年12月に九州を訪ねた折には、福岡空港到着後に博多駅に出て、小倉方面への普通列車で動き始めた。“東回り”である…
“東回り”で何となく動き始めて、「<青春18きっぷ>を手に、普通列車で日豊本線を南下」ということを思い立ち、12月16日は早朝の小倉駅から出発した。
小倉から中津で道草して辿り着いたのは杵築だ…
↓杵築駅も、何か昔風な駅舎である。大分・博多間の特急列車と、普通列車が停車している。列車が着く都度に、存外な人の出入りも見受けられる…
↑九州方面では、12月半ば辺りから門松を飾るものなのだろうか?この駅でも門松を見掛けたが、他にも何箇所かで出くわした。門松…北海道内でも見掛けるモノと、微妙にデザインが異なるような気もした…
“杵築”と書いて「きつき」と読む。古くは“木付”と書いたそうだ…同じく「きつき」と読む。
辺りは豊後の大名だった大友家の縁者でもあった木付家が領していた。大友義統が1593(文禄2)年に豊臣秀吉によって改易されてしまうと、木付家も辺りの知行地を失ってしまった…
関ヶ原合戦後、豊後は細川家の知行地となるが、細川家が肥後に移った後の1632(寛永9)年、豊後には小笠原忠真が封じられて小倉上に入り、その弟の小笠原忠知が4万石の大名に取り立てられて“木付”に入る。
1645(正保2)年に小笠原忠知が三河に移り、豊後高田から松平英親が3万2千石の大名として“木付”に入る。以降、この松平家が明治維新までこの地を知行地としていた。
江戸時代の大名は、“代替わり”をする際に、代々受け継いでいる知行地の権利を認める旨を記した“朱印状”という文書を幕府から受けることになっていた。1712(正徳2)年に松平家が朱印状を受けた際、朱印状に「杵築」と記された。“木付”としていた以上、“杵築”は誤りである。そこで「如何致しましょうや?」という話しになり…「以降は“杵築”と致すが好い」ということになった。爾来、この地の地名は“杵築”とした訳だ…
「誤記が転じて、その字を使うことにしてしまった」という、一寸面白い挿話を思い出しながら、杵築駅前から歩き始めた。杵築に着いた辺りで、俄かに晴れた空が拡がり始め、心地好い感じでもあったのだ…
駅周辺には杵築の城下町方面への道筋が判るような標識類は見当たらなかったが、何となく駅前の案内図を視て進み始めた。何となく眼が合った近所のおじさんに「城下町…こちらの方角ですよね?」と問えば…「そうや…真っ直ぐや…」とおじさんは言う…「ありがとうございます」とまた進み始めると…「かなりあるで!!」とおじさんの声が背中側から聞こえた…
大分県辺りの方…私の耳には「若干“関西”風」と聞こえる抑揚と言葉の使い方で話しをされるようだ…おじさんの口調を思い出しながら「真っ直ぐや…」の道筋を進んだ。20分やそこらであれば、別段に苦にせずに歩いてしまおうと思っていたが…20分近く歩いた辺りで「杵築市街 3㎞」という標識を見付けて驚いた。「夜まで日豊本線を南下して」という思惑の中、この距離を歩き切るというのでは、時間が無い…するとバス停が在った…数分待つと、市街側へ向かうバスが現れることが判った…
↓バスで市街に至った。そして杵築城址を目指し、城址に至った…
↓城址辺りは公園になっていて、なかなか美しい…紅葉した木も在った…
城址辺りに至ると…「強風が時々吹き抜ける中で、若干強めなにわか雨」という、些か妙に思える天候状態が断続するようになった…上着にフードが在ったことを思い出し、それを引っ張り出して頭に被るなどしてやり過ごした…
杵築の城下町は少し独特だ。城の傍に丘陵状の地形が並んでいる。2つの丘陵の上の側が武家屋敷で、谷に相当する辺りに商家等が集まるという具合に城下町が築かれている。“サンドイッチ状”とでも言うような構造だ…
↓時々「強風が時々吹き抜ける中で、若干強めなにわか雨」という状態に付き合いながら、「坂の町」を歩き回ってみた…
↓坂の上に相当する部分に、「如何にも…」という具合の武家屋敷が見受けられた…
↓衣装に身を包んだ俳優が一寸動き回れば…そのまま時代モノの映画やドラマの一場面が出来上がりという感じの箇所が多く見受けられる…
↓眼前に下り坂で、下り切った辺りから上り坂が見える。“サンドイッチ状”に街が開けている様子が判る…
↓商家等が在ったエリアには「伊能忠敬の足跡」を伝える石柱が在る建物も見受けられた…
杵築の市街から駅まではタクシーで戻った。タクシーの運転手さんによれば、市街・駅の距離は5㎞程度ということだった…
今般は、「強風が時々吹き抜ける中で、若干強めなにわか雨」という状態に多少の苦戦も強いられたが、なかなかに個性的な街並みが記憶に残る杵築である。
そういうことを記憶していたので、2014年12月に九州を訪ねた折には、福岡空港到着後に博多駅に出て、小倉方面への普通列車で動き始めた。“東回り”である…
“東回り”で何となく動き始めて、「<青春18きっぷ>を手に、普通列車で日豊本線を南下」ということを思い立ち、12月16日は早朝の小倉駅から出発した。
小倉から中津で道草して辿り着いたのは杵築だ…
↓杵築駅も、何か昔風な駅舎である。大分・博多間の特急列車と、普通列車が停車している。列車が着く都度に、存外な人の出入りも見受けられる…
↑九州方面では、12月半ば辺りから門松を飾るものなのだろうか?この駅でも門松を見掛けたが、他にも何箇所かで出くわした。門松…北海道内でも見掛けるモノと、微妙にデザインが異なるような気もした…
“杵築”と書いて「きつき」と読む。古くは“木付”と書いたそうだ…同じく「きつき」と読む。
辺りは豊後の大名だった大友家の縁者でもあった木付家が領していた。大友義統が1593(文禄2)年に豊臣秀吉によって改易されてしまうと、木付家も辺りの知行地を失ってしまった…
関ヶ原合戦後、豊後は細川家の知行地となるが、細川家が肥後に移った後の1632(寛永9)年、豊後には小笠原忠真が封じられて小倉上に入り、その弟の小笠原忠知が4万石の大名に取り立てられて“木付”に入る。
1645(正保2)年に小笠原忠知が三河に移り、豊後高田から松平英親が3万2千石の大名として“木付”に入る。以降、この松平家が明治維新までこの地を知行地としていた。
江戸時代の大名は、“代替わり”をする際に、代々受け継いでいる知行地の権利を認める旨を記した“朱印状”という文書を幕府から受けることになっていた。1712(正徳2)年に松平家が朱印状を受けた際、朱印状に「杵築」と記された。“木付”としていた以上、“杵築”は誤りである。そこで「如何致しましょうや?」という話しになり…「以降は“杵築”と致すが好い」ということになった。爾来、この地の地名は“杵築”とした訳だ…
「誤記が転じて、その字を使うことにしてしまった」という、一寸面白い挿話を思い出しながら、杵築駅前から歩き始めた。杵築に着いた辺りで、俄かに晴れた空が拡がり始め、心地好い感じでもあったのだ…
駅周辺には杵築の城下町方面への道筋が判るような標識類は見当たらなかったが、何となく駅前の案内図を視て進み始めた。何となく眼が合った近所のおじさんに「城下町…こちらの方角ですよね?」と問えば…「そうや…真っ直ぐや…」とおじさんは言う…「ありがとうございます」とまた進み始めると…「かなりあるで!!」とおじさんの声が背中側から聞こえた…
大分県辺りの方…私の耳には「若干“関西”風」と聞こえる抑揚と言葉の使い方で話しをされるようだ…おじさんの口調を思い出しながら「真っ直ぐや…」の道筋を進んだ。20分やそこらであれば、別段に苦にせずに歩いてしまおうと思っていたが…20分近く歩いた辺りで「杵築市街 3㎞」という標識を見付けて驚いた。「夜まで日豊本線を南下して」という思惑の中、この距離を歩き切るというのでは、時間が無い…するとバス停が在った…数分待つと、市街側へ向かうバスが現れることが判った…
↓バスで市街に至った。そして杵築城址を目指し、城址に至った…
↓城址辺りは公園になっていて、なかなか美しい…紅葉した木も在った…
城址辺りに至ると…「強風が時々吹き抜ける中で、若干強めなにわか雨」という、些か妙に思える天候状態が断続するようになった…上着にフードが在ったことを思い出し、それを引っ張り出して頭に被るなどしてやり過ごした…
杵築の城下町は少し独特だ。城の傍に丘陵状の地形が並んでいる。2つの丘陵の上の側が武家屋敷で、谷に相当する辺りに商家等が集まるという具合に城下町が築かれている。“サンドイッチ状”とでも言うような構造だ…
↓時々「強風が時々吹き抜ける中で、若干強めなにわか雨」という状態に付き合いながら、「坂の町」を歩き回ってみた…
↓坂の上に相当する部分に、「如何にも…」という具合の武家屋敷が見受けられた…
↓衣装に身を包んだ俳優が一寸動き回れば…そのまま時代モノの映画やドラマの一場面が出来上がりという感じの箇所が多く見受けられる…
↓眼前に下り坂で、下り切った辺りから上り坂が見える。“サンドイッチ状”に街が開けている様子が判る…
↓商家等が在ったエリアには「伊能忠敬の足跡」を伝える石柱が在る建物も見受けられた…
杵築の市街から駅まではタクシーで戻った。タクシーの運転手さんによれば、市街・駅の距離は5㎞程度ということだった…
今般は、「強風が時々吹き抜ける中で、若干強めなにわか雨」という状態に多少の苦戦も強いられたが、なかなかに個性的な街並みが記憶に残る杵築である。
「12月の旅」の画で創った最初のフォトブック―“赤本”&“青本”
12月30日に札幌で思い立って発注したのだが…「12月の旅」の画で創るフォトブックが出来上がった!!
↓こういう具合になった…
“赤本”…右側は<はやとの風>と<しんぺい>をテーマにしたモノだ。「そこに鉄道が敷かれている」という事実自体を“産業遺産”、“文化遺産”として扱い、独特な改装を施した「旧くて新しい感じ」な車輌を運行し、熱心に説明をしてくれる客室乗務員が乗っている…「軌道上を行く定期観光バス」な趣で、各駅でも少し停まって様子が視られる…何か「一寸した“時間旅行”」という感さえする…そんな様子を纏めた…
“青本”…左側は鹿児島がテーマだ。何と言っても「桜島の眺め」を多いに愉しんだのだったが、その満喫した眺めの他、仙巌園の様子や、「お気に入り!」である路面電車の様子の画を収録してある…
こういうような「テーマを少し絞ったフォトブック」はこれまでに作ってみたことは無かった…こういうのも好い感じだ!!画はパソコンの画面で散々視ているが、こうした“印刷物”にしてみると、また違った趣なのが好い…
↓こういう具合になった…
“赤本”…右側は<はやとの風>と<しんぺい>をテーマにしたモノだ。「そこに鉄道が敷かれている」という事実自体を“産業遺産”、“文化遺産”として扱い、独特な改装を施した「旧くて新しい感じ」な車輌を運行し、熱心に説明をしてくれる客室乗務員が乗っている…「軌道上を行く定期観光バス」な趣で、各駅でも少し停まって様子が視られる…何か「一寸した“時間旅行”」という感さえする…そんな様子を纏めた…
“青本”…左側は鹿児島がテーマだ。何と言っても「桜島の眺め」を多いに愉しんだのだったが、その満喫した眺めの他、仙巌園の様子や、「お気に入り!」である路面電車の様子の画を収録してある…
こういうような「テーマを少し絞ったフォトブック」はこれまでに作ってみたことは無かった…こういうのも好い感じだ!!画はパソコンの画面で散々視ているが、こうした“印刷物”にしてみると、また違った趣なのが好い…
下関:みもすそ川公園に在る「長州の大砲」(レプリカ)(2014.12.15)
↓「海の底の県境」を歩いて越え、下関に上陸を果たした…
>>関門人道(2014.12.15)
下関側の出口の辺りで、地元の方と言葉を交わし、関門人道の下関側出入口辺りにバス停が在って、バスが発着する他に客待ちのタクシーが時々見受けられるということを知った。
門司側に歩いて引き返して、門司側の関門人道出入口から門司港駅まで歩くのは、やや遠い。またタクシーは通りそうもないような雰囲気の場所だ…小倉駅近くの宿へ引揚げるとすれば…下関駅へ向かって列車に乗るのが手っ取り早そうだ…
そう思いながら関門人道の出口を出ると…丁度乗客が乗降中のバスが停まっていた。バス停だ。バスに駆け寄った。「下関駅に行きますか?」と運転士さんに尋ねると…「反対の車線ですよ…」ということなので、「ありがとうございます」とバスから離れて見送り、道路を渡った。
停留所はアッサリ見付かった。“御裳川”という名前…「みもすそがわ」と読むようだ。路線の案内が掲出されていて、それによると以前に立寄った覚えが在る赤間神宮や唐戸辺りを通って、下関駅へ向かう路線が在るようだった。時刻表を視ると…十数分の待ち時間が在った。一息入れながら、辺りの様子を眺めていれば直ぐだ…
↓そして辺りを伺い、一寸ビックリである…正直…「うわっ!」と驚きの声が漏れた…
↑関門海峡を睨む大砲が並んでいる…江戸時代風な大砲だ…
下関…“長州”である…幕末期…「攘夷の決行」を叫び、下関近辺で外国船に砲撃を加えて、その後に四国連合艦隊による報復攻撃を受けて砲台を潰されたという出来事が在った筈だが…そんな史実を思い出した。
気になったので調べてみると…この御裳川辺りは、幕末期に砲台が設置されていた場所に相当するそうだ。それに因み、長州が用いた大砲のレプリカを5門並べたのだという…
下関は、日本海、瀬戸内海、九州東海岸と「海域が交差する」場所である。現在でも、関門橋の高い橋桁の下を「存外に大きい?!」と注目したくなる船舶が航行しているが…この辺りに砲台が据えられたような時代にも、大小様々な船が賑々しく行き交っていたのだと想像する…
江戸時代の250年間余りというのは、「国内の流通網が、現代の人達が想像する以上に発展した」という側面を持つ時期でもある。考えてみると…宗谷の昆布が日本海を縦断し、この下関から瀬戸内海に入って、関西方面で消費されていたというようなことさえ在ったのだから…
商業や流通の充分な発達を踏まえ、長州辺りは重商主義的な経済運営を図っていたと見受けられる地域だ。そういう現実的な目線と、やや激越な“攘夷論”とが交差して、下関に砲台を築くということになったのであろう…(実は“攘夷”と一口に言っても、「外国船や外国人を追い払え」というような発想ばかりではなく、「不利な通商条約の改善を目指す」というような考え方についても、往時は“攘夷”という表現をしたらしいが…)
↓既に暗い、やや遅めになって来た時間帯にこんな大砲を視ると…何か辺りの時間が逆流して、幕末期の場面―「攘夷決行!!」と気勢を挙げる武士達…そこに襲い掛かる外国艦隊の砲撃…小舟で現れる上陸部隊…というような様子…―でも現れそうな気がしないでもない…
↑現在では…砲台のような物騒なモノとは縁が薄い、橋やトンネルで本州・九州間を移動する他、多くの船も行き交っている海域が大砲の向こうに拡がっている…
大砲を眺めながら、バスを待っていて気付いたが…この辺りで見える関門橋は、午後9時になると橋を照らしていたライトを消灯してしまうようだ…橋が消灯になった頃、下関駅へ向かうバスが登場し、それに乗って下関駅へ向かったのだった…
↓下関駅到着時の画だが、これが御裳川から乗車したバスだ…
↑他地域でバスに乗車すると時々思う。稚内や札幌、または旭川で視掛けるようなバスと同じようなモノが在る他方、「少し小ぶりな車輌?」というのも存外な頻度で視掛ける。この下関のバスは、「少し小ぶり?」という感じだった。乗客も多く、車内が暗く揺れていたので写真は撮らなかったが、シートの布地は「“ふく”のイラストが入った可愛らしいモノ」であった…
何気なく「歩ける?行くぞ!!討ち込め!!!」と元気よく歩いた“関門人道”だったが、この「長州の大砲」と偶々出くわしたのは面白かった…
>>関門人道(2014.12.15)
下関側の出口の辺りで、地元の方と言葉を交わし、関門人道の下関側出入口辺りにバス停が在って、バスが発着する他に客待ちのタクシーが時々見受けられるということを知った。
門司側に歩いて引き返して、門司側の関門人道出入口から門司港駅まで歩くのは、やや遠い。またタクシーは通りそうもないような雰囲気の場所だ…小倉駅近くの宿へ引揚げるとすれば…下関駅へ向かって列車に乗るのが手っ取り早そうだ…
そう思いながら関門人道の出口を出ると…丁度乗客が乗降中のバスが停まっていた。バス停だ。バスに駆け寄った。「下関駅に行きますか?」と運転士さんに尋ねると…「反対の車線ですよ…」ということなので、「ありがとうございます」とバスから離れて見送り、道路を渡った。
停留所はアッサリ見付かった。“御裳川”という名前…「みもすそがわ」と読むようだ。路線の案内が掲出されていて、それによると以前に立寄った覚えが在る赤間神宮や唐戸辺りを通って、下関駅へ向かう路線が在るようだった。時刻表を視ると…十数分の待ち時間が在った。一息入れながら、辺りの様子を眺めていれば直ぐだ…
↓そして辺りを伺い、一寸ビックリである…正直…「うわっ!」と驚きの声が漏れた…
↑関門海峡を睨む大砲が並んでいる…江戸時代風な大砲だ…
下関…“長州”である…幕末期…「攘夷の決行」を叫び、下関近辺で外国船に砲撃を加えて、その後に四国連合艦隊による報復攻撃を受けて砲台を潰されたという出来事が在った筈だが…そんな史実を思い出した。
気になったので調べてみると…この御裳川辺りは、幕末期に砲台が設置されていた場所に相当するそうだ。それに因み、長州が用いた大砲のレプリカを5門並べたのだという…
下関は、日本海、瀬戸内海、九州東海岸と「海域が交差する」場所である。現在でも、関門橋の高い橋桁の下を「存外に大きい?!」と注目したくなる船舶が航行しているが…この辺りに砲台が据えられたような時代にも、大小様々な船が賑々しく行き交っていたのだと想像する…
江戸時代の250年間余りというのは、「国内の流通網が、現代の人達が想像する以上に発展した」という側面を持つ時期でもある。考えてみると…宗谷の昆布が日本海を縦断し、この下関から瀬戸内海に入って、関西方面で消費されていたというようなことさえ在ったのだから…
商業や流通の充分な発達を踏まえ、長州辺りは重商主義的な経済運営を図っていたと見受けられる地域だ。そういう現実的な目線と、やや激越な“攘夷論”とが交差して、下関に砲台を築くということになったのであろう…(実は“攘夷”と一口に言っても、「外国船や外国人を追い払え」というような発想ばかりではなく、「不利な通商条約の改善を目指す」というような考え方についても、往時は“攘夷”という表現をしたらしいが…)
↓既に暗い、やや遅めになって来た時間帯にこんな大砲を視ると…何か辺りの時間が逆流して、幕末期の場面―「攘夷決行!!」と気勢を挙げる武士達…そこに襲い掛かる外国艦隊の砲撃…小舟で現れる上陸部隊…というような様子…―でも現れそうな気がしないでもない…
↑現在では…砲台のような物騒なモノとは縁が薄い、橋やトンネルで本州・九州間を移動する他、多くの船も行き交っている海域が大砲の向こうに拡がっている…
大砲を眺めながら、バスを待っていて気付いたが…この辺りで見える関門橋は、午後9時になると橋を照らしていたライトを消灯してしまうようだ…橋が消灯になった頃、下関駅へ向かうバスが登場し、それに乗って下関駅へ向かったのだった…
↓下関駅到着時の画だが、これが御裳川から乗車したバスだ…
↑他地域でバスに乗車すると時々思う。稚内や札幌、または旭川で視掛けるようなバスと同じようなモノが在る他方、「少し小ぶりな車輌?」というのも存外な頻度で視掛ける。この下関のバスは、「少し小ぶり?」という感じだった。乗客も多く、車内が暗く揺れていたので写真は撮らなかったが、シートの布地は「“ふく”のイラストが入った可愛らしいモノ」であった…
何気なく「歩ける?行くぞ!!討ち込め!!!」と元気よく歩いた“関門人道”だったが、この「長州の大砲」と偶々出くわしたのは面白かった…
<しんぺい>の様子を水彩画風に…(2014.12.19撮影)
1月は「年末年始の休業」の中で始まり、直ぐに「成人の日関係の連休」が入るので、少し時間が経つのが速い感じがする月である。12月に九州へ飛んでから、早くも1ヶ月弱だ…
こうした中で<しんぺい>を思い出す頻度が高くなっている気がする…
↓<はやとの風>で吉松駅に着けば、<しんぺい>が待機している…
↓全国各地で活躍した(または活躍中の)“40系ファミリー”を改装した、「旧くて新しい」感じの車輌が用いられる<しんぺい>…内装は「立派なレトロ」という按配である…
↓「山を上る」具合に走り始める<しんぺい>は、スイッチバック線を擁する真幸駅に入る…
↓最も標高が高い矢岳駅に至る…この日は前々日辺りに雪が降っていて、積雪が残っていた…
↓「ループ線の中のスイッチバック線」という独特な構造の上に在る大畑駅に至れば、終点の人吉駅は近い…
<しんぺい>が走る路線…山間の鉄道なので、スイッチバック線やループ線というような工夫で、急勾配の中で機関車が上り下りし易い工夫が施されている。同時に、大変な難工事で開通させたトンネル区間も多い。そんな路線が「そこに在るという事実自体」を“産業遺産”、“文化遺産”に見立てて紹介し、向き合いながら進む…
永い経過の中、沿線各駅の周辺は集落らしい集落が近くに見当たらない雰囲気になってしまっている。しかし、各駅に停まると…嘗て駅で繰り広げられていたであろう人々のドラマや、条件の厳しい経路で必死に機関車を動かした人達の苦心ぶりや、駅で機関車に給水・給炭をしながら関係者が一息入れている様子などがぼんやりと思い浮かぶようだった…何か…「旧くて新しい」感じの車輌が進む先に、時空を超えた世界が拡がっている…そういう感さえ覚えた。
↓やがて列車は人吉駅に着く…人吉駅では…熊本駅まで乗車した<九州横断特急>が待機中だった…
最近はこの<しんぺい>を思い出す頻度が高まっている…“次”が何時になるのか、そもそも在るのか否かさえ不明確だが…何時か再会したい列車である…写真を“水彩画風”に加工してみたが…正しく「画のように」、頭の中に<しんぺい>の記憶が留まる…
こうした中で<しんぺい>を思い出す頻度が高くなっている気がする…
↓<はやとの風>で吉松駅に着けば、<しんぺい>が待機している…
↓全国各地で活躍した(または活躍中の)“40系ファミリー”を改装した、「旧くて新しい」感じの車輌が用いられる<しんぺい>…内装は「立派なレトロ」という按配である…
↓「山を上る」具合に走り始める<しんぺい>は、スイッチバック線を擁する真幸駅に入る…
↓最も標高が高い矢岳駅に至る…この日は前々日辺りに雪が降っていて、積雪が残っていた…
↓「ループ線の中のスイッチバック線」という独特な構造の上に在る大畑駅に至れば、終点の人吉駅は近い…
<しんぺい>が走る路線…山間の鉄道なので、スイッチバック線やループ線というような工夫で、急勾配の中で機関車が上り下りし易い工夫が施されている。同時に、大変な難工事で開通させたトンネル区間も多い。そんな路線が「そこに在るという事実自体」を“産業遺産”、“文化遺産”に見立てて紹介し、向き合いながら進む…
永い経過の中、沿線各駅の周辺は集落らしい集落が近くに見当たらない雰囲気になってしまっている。しかし、各駅に停まると…嘗て駅で繰り広げられていたであろう人々のドラマや、条件の厳しい経路で必死に機関車を動かした人達の苦心ぶりや、駅で機関車に給水・給炭をしながら関係者が一息入れている様子などがぼんやりと思い浮かぶようだった…何か…「旧くて新しい」感じの車輌が進む先に、時空を超えた世界が拡がっている…そういう感さえ覚えた。
↓やがて列車は人吉駅に着く…人吉駅では…熊本駅まで乗車した<九州横断特急>が待機中だった…
最近はこの<しんぺい>を思い出す頻度が高まっている…“次”が何時になるのか、そもそも在るのか否かさえ不明確だが…何時か再会したい列車である…写真を“水彩画風”に加工してみたが…正しく「画のように」、頭の中に<しんぺい>の記憶が留まる…
鹿児島:仙巌園(せんがんえん)と桜島の眺望(2014.12.18)
前々日、前日と“始発”やそれに近い時間帯の列車に乗るということから1日の活動を始めていて、「多少ゆったり…」と考えていた朝だった…
前日に鹿児島へ到着した際、桜島は山頂部が雲で見え難い状態であった他方、「冠雪?」と思わせる様子も覗いていた。それが気になっていたので、何となく城山へ出掛けてみた…
↓そこで「12月としてはやや珍しい…」という、桜島が冠雪していた様を視た…
>>鹿児島:城山から冠雪した桜島を望む(2014.12.18)
これに心動かされ、この日は鹿児島で「桜島の眺望を愛でる」ということに半ば終始してしまうことになった…
城山の後…向かった先は“仙巌園”(せんがんえん)であった…
仙巌園というのは、歴代の島津侯が別邸として用いていた場所である。“磯庭園”とも呼ばれているようだが、浜辺に在って、眼前の錦江湾を池に、桜島を築山に見立てた、大胆な借景をした美しい庭園が在り、これが素晴らしい!初めて鹿児島に寄った2011年にここを訪れていたが、なかなか「記憶に残る」場所である。
1658(万治元)年に島津光久が造園したのが仙巌園の起こりで、以降の歴代の島津侯が手を入れている。幕末期には、かの島津斉彬侯がこの辺りで“集成館”と称して製鉄所、ガラス工場、紡績工場等を起こしたことも知られている。因みにこの“集成館”と称して建てられた建物の1棟が残っていて、島津家所蔵の史料等を展示している資料館(「尚古集成館」)になっている。今般はそちらも後から見学したが…
仙巌園に関しては、1888(明治21)年から島津公爵家が邸宅として用いていたが、島津忠義公爵が他界した後、公爵一家は東京に移住して住民は居なくなった。1949(昭和24)年に華族制度が廃止され、仙巌園は鹿児島市で管理していた。1957(昭和32)年に島津家に返還され、現在は島津興業が管理している。
↓仙巌園の入口では、別途紹介したが、厳しい甲冑が来場者を迎えてくれる…
>>鹿児島・仙巌園:島津義弘公着用甲冑(複製)(2014.12.18)
↓瓦の一部に家紋を施したモノ―如何にも「大名に縁の…」という感―で葺かれている屋根を備えた立派な門が在る…
↓こちらは錫を瓦状に細工したモノで屋根を葺いている…
「ほんの触り」だけでも、なかなかの勢威を誇った有力大名に関連する邸宅という雰囲気が滲む…
↓歴代の島津侯が滞在した筈の御殿…
↓海側を視れば、直ぐに冠雪した桜島の姿が眼に飛び込む…
↓陸側には小高くなっている箇所が多く、庭園や建築群の向こうに、海と桜島との眺望が開ける…
↓建築群の屋根と、相当に古そうな、大きな松の木の向こうに海と桜島…この場所「らしい」感じがした…
↓桜島の眺望が開けない箇所も、なかなかに趣深い…
↓12月の半ばを過ぎて、こんなに綺麗な紅葉が見られる場所も…
↓銀杏の落葉も好かった…
↓“望遠”で桜島の冠雪している部分に迫ってみた…
とにかくも、この日はこんな仙巌園で美しい眺望を愉しみ、大満足だった!!
前日に鹿児島へ到着した際、桜島は山頂部が雲で見え難い状態であった他方、「冠雪?」と思わせる様子も覗いていた。それが気になっていたので、何となく城山へ出掛けてみた…
↓そこで「12月としてはやや珍しい…」という、桜島が冠雪していた様を視た…
>>鹿児島:城山から冠雪した桜島を望む(2014.12.18)
これに心動かされ、この日は鹿児島で「桜島の眺望を愛でる」ということに半ば終始してしまうことになった…
城山の後…向かった先は“仙巌園”(せんがんえん)であった…
仙巌園というのは、歴代の島津侯が別邸として用いていた場所である。“磯庭園”とも呼ばれているようだが、浜辺に在って、眼前の錦江湾を池に、桜島を築山に見立てた、大胆な借景をした美しい庭園が在り、これが素晴らしい!初めて鹿児島に寄った2011年にここを訪れていたが、なかなか「記憶に残る」場所である。
1658(万治元)年に島津光久が造園したのが仙巌園の起こりで、以降の歴代の島津侯が手を入れている。幕末期には、かの島津斉彬侯がこの辺りで“集成館”と称して製鉄所、ガラス工場、紡績工場等を起こしたことも知られている。因みにこの“集成館”と称して建てられた建物の1棟が残っていて、島津家所蔵の史料等を展示している資料館(「尚古集成館」)になっている。今般はそちらも後から見学したが…
仙巌園に関しては、1888(明治21)年から島津公爵家が邸宅として用いていたが、島津忠義公爵が他界した後、公爵一家は東京に移住して住民は居なくなった。1949(昭和24)年に華族制度が廃止され、仙巌園は鹿児島市で管理していた。1957(昭和32)年に島津家に返還され、現在は島津興業が管理している。
↓仙巌園の入口では、別途紹介したが、厳しい甲冑が来場者を迎えてくれる…
>>鹿児島・仙巌園:島津義弘公着用甲冑(複製)(2014.12.18)
↓瓦の一部に家紋を施したモノ―如何にも「大名に縁の…」という感―で葺かれている屋根を備えた立派な門が在る…
↓こちらは錫を瓦状に細工したモノで屋根を葺いている…
「ほんの触り」だけでも、なかなかの勢威を誇った有力大名に関連する邸宅という雰囲気が滲む…
↓歴代の島津侯が滞在した筈の御殿…
↓海側を視れば、直ぐに冠雪した桜島の姿が眼に飛び込む…
↓陸側には小高くなっている箇所が多く、庭園や建築群の向こうに、海と桜島との眺望が開ける…
↓建築群の屋根と、相当に古そうな、大きな松の木の向こうに海と桜島…この場所「らしい」感じがした…
↓桜島の眺望が開けない箇所も、なかなかに趣深い…
↓12月の半ばを過ぎて、こんなに綺麗な紅葉が見られる場所も…
↓銀杏の落葉も好かった…
↓“望遠”で桜島の冠雪している部分に迫ってみた…
とにかくも、この日はこんな仙巌園で美しい眺望を愉しみ、大満足だった!!
大隅横川駅の<はやとの風>を水彩画風に…(2014.12.19撮影)
大変に「思い出深い存在」となった<はやとの風>だが…
↓こういう具合の“水彩画風”な処理が似合う画だ…
↑時々、記憶の中に沸き起こるのは…寧ろ「こんな感じ」な画かもしれない…
早くも「何時か、また…」等と考えてしまっている…
↓こういう具合の“水彩画風”な処理が似合う画だ…
↑時々、記憶の中に沸き起こるのは…寧ろ「こんな感じ」な画かもしれない…
早くも「何時か、また…」等と考えてしまっている…
鹿児島の路面電車:いづろ通停留所の612(2014.12.18)
ドルフィンポートの辺りで、西日を受けていた桜島を眺め、路面電車のいづろ通停留所辺りを目指して歩く…
↓こんな光景が眼に飛び込んで来る…
日没前の時間帯…黄金色に輝く空を背景に、少しずつ街に灯が入って来るのだが、そんな時間帯の雰囲気は艶かしく麗しい…
何か、街の一角が「黄色みの強いセピア色」に染まるかのようだ…そういう色合いに、600型のレトロなデザインが妙に似合う…この型の電車…1959年に初登場したモノ…“612”は1960年製造だそうだ…既に半世紀以上に亘って、この街を走っている…
こういう風景が…凄く好い!!
↓こんな光景が眼に飛び込んで来る…
日没前の時間帯…黄金色に輝く空を背景に、少しずつ街に灯が入って来るのだが、そんな時間帯の雰囲気は艶かしく麗しい…
何か、街の一角が「黄色みの強いセピア色」に染まるかのようだ…そういう色合いに、600型のレトロなデザインが妙に似合う…この型の電車…1959年に初登場したモノ…“612”は1960年製造だそうだ…既に半世紀以上に亘って、この街を走っている…
こういう風景が…凄く好い!!
長崎:<観光丸>(2014.12.20)
「長崎に泊まった」というのは…計3回経験しているが…偶々3回共に同じ宿だった…2回目と3回目に関しては、1回目が悪くなかったことから、「あそこはどうか?」と見れば空きが在ったので利用を決めたということになるが…
宿は路面電車の大波止停留所に近い。直ぐ傍が各種の客船も発着している場所で、海岸の景色が好ましい場所だ。近くにコンビニが在る等、利便性も好く、長崎駅に至近でもないものの「徒歩可能」な距離でもある…
この宿に落ち着いて一息入れた後、「近くの“長崎県美術館”の屋上からの眺望が好いらしい」という話しを思い出し、陽が傾いた中で散策に出た…
↓“長崎県美術館”への道すがら、こんなものを眼に留めた…
帆船?見てのとおり、帆を張る柱が聳え立つ船であるが…“外輪”らしきモノが舷側に…こういう“外輪”が在るような、「蒸気機関を備えた帆船」と言えば…「幕末期辺りの船」である…
この船…<観光丸>である…これは「観光向けの船だから」ということで名付けられたのではない!!本当に「国の光を観る」という古い言葉から取って幕末期に名付けられた名である…(因みに今日用いられる“観光”という語の語源は「国の光を観る」だというが…)
1850年にオランダで建造に着手された船が1853年に完成し、2年後にオランダ国王のウィレム3世が幕府の13代将軍の徳川家定に贈られた。幕府では1856年に船を<観光丸>と命名した。船は主に長崎に開かれた“海軍伝習所”で練習艦として使われていた。
“海軍伝習所”の閉鎖後、<観光丸>は佐賀鍋島家に委託され、佐賀の“三重津海軍所”で運用されていた。1868(明治元)年に政府所管となって、1876年に除籍解体となった…
オランダ生まれで、幕末期に活躍した多くの人達との縁も在る<観光丸>…1987年になって復元船が登場した。長崎港で視たのは、その復元船である…船はハウステンボスを運営する会社の所有だが、現在は長崎港で港内クルーズに用いられていることが多いようだ…この時は、運航と関係のない日の夕方という感じで、辺りはひっそりしていたが…
この<観光丸>…全長65.8m、全幅14.5m、喫水4.2mで総トン数353tとのことだ。高いマストは32m在るそうだ…
↓黄昏の長崎に幕末期の姿を伝える船…何か凄く好い!!
つい先日読了した小説に登場の、旧幕府海軍関係者も、<観光丸>で航海術や船のメカニズムを学んだ訳だ…この<観光丸>は、幕末モノのテレビドラマ等にも“出演”した経過が在るようだ…
“次”が何時になるのか、それ以前にその有無さえ判然としないが…乗ってみたい!!
宿は路面電車の大波止停留所に近い。直ぐ傍が各種の客船も発着している場所で、海岸の景色が好ましい場所だ。近くにコンビニが在る等、利便性も好く、長崎駅に至近でもないものの「徒歩可能」な距離でもある…
この宿に落ち着いて一息入れた後、「近くの“長崎県美術館”の屋上からの眺望が好いらしい」という話しを思い出し、陽が傾いた中で散策に出た…
↓“長崎県美術館”への道すがら、こんなものを眼に留めた…
帆船?見てのとおり、帆を張る柱が聳え立つ船であるが…“外輪”らしきモノが舷側に…こういう“外輪”が在るような、「蒸気機関を備えた帆船」と言えば…「幕末期辺りの船」である…
この船…<観光丸>である…これは「観光向けの船だから」ということで名付けられたのではない!!本当に「国の光を観る」という古い言葉から取って幕末期に名付けられた名である…(因みに今日用いられる“観光”という語の語源は「国の光を観る」だというが…)
1850年にオランダで建造に着手された船が1853年に完成し、2年後にオランダ国王のウィレム3世が幕府の13代将軍の徳川家定に贈られた。幕府では1856年に船を<観光丸>と命名した。船は主に長崎に開かれた“海軍伝習所”で練習艦として使われていた。
“海軍伝習所”の閉鎖後、<観光丸>は佐賀鍋島家に委託され、佐賀の“三重津海軍所”で運用されていた。1868(明治元)年に政府所管となって、1876年に除籍解体となった…
オランダ生まれで、幕末期に活躍した多くの人達との縁も在る<観光丸>…1987年になって復元船が登場した。長崎港で視たのは、その復元船である…船はハウステンボスを運営する会社の所有だが、現在は長崎港で港内クルーズに用いられていることが多いようだ…この時は、運航と関係のない日の夕方という感じで、辺りはひっそりしていたが…
この<観光丸>…全長65.8m、全幅14.5m、喫水4.2mで総トン数353tとのことだ。高いマストは32m在るそうだ…
↓黄昏の長崎に幕末期の姿を伝える船…何か凄く好い!!
つい先日読了した小説に登場の、旧幕府海軍関係者も、<観光丸>で航海術や船のメカニズムを学んだ訳だ…この<観光丸>は、幕末モノのテレビドラマ等にも“出演”した経過が在るようだ…
“次”が何時になるのか、それ以前にその有無さえ判然としないが…乗ってみたい!!
2014年12月14日から12月23日に使った切符
↓旅から戻ると、「使った切符」を纏めて、写真に撮っておきたくなる…
↑大概は…旅から戻った後に何となく寄る近所の喫茶店のテーブルで撮るが…
<青春18きっぷ>のようなものは、何らの面倒もなく、そのまま持って帰ることが出来るが…その限りでもないモノは、駅で駅員さんに「記念に持ち帰りたい…」と申し出て、“無効”とか“乗車記念”というようなスタンプを押してもらって持ち帰る…
今般は…札幌駅で<青春18きっぷ>を求めた…それを手に列車で新千歳空港に向かい、空路で福岡に飛んで、福岡空港から博多まで地下鉄で出た後、早速に博多・小倉、小倉・門司港、下関・小倉と使用した…
2日目は…小倉・中津、中津・杵築、杵築・大分、大分・臼杵、臼杵・佐伯、佐伯・延岡・宮崎と使用…
3日目は…宮崎・都城・えびの、えびの飯野・都城、都城・西都城、西都城・鹿児島中央と使用…
以降は福岡空港から新千歳空港に戻ってからの使用…新千歳空港・札幌・岩見沢・旭川で使用…
最終日の5日目は旭川・稚内で使用した…
何か“中抜け”な感じだが…北海道内と九州とで、存分に使用した感じである…<青春18きっぷ>で着いた駅で改札を出る際、駅員さんが居る駅では“下車印”をお願いする。辿り着いた駅名が残って記念になる…今般は、日豊本線沿線の駅名が見える他方に、北海道内の何となく馴染んだ駅名が見えるのが面白い…
鹿児島から佐賀、長崎、福岡に関してはJR九州の“ネットきっぷ”を使用した。精確には“ネット予約”とすべきかもしれない。と言うのも、佐賀・長崎、長崎・博多は“ネットきっぷ”と呼ばれる企画料金が適用されているようだが、鹿児島中央・佐賀に関しては“ネット予約”というだけのようだ…
“ネット予約”の御蔭で、<はやとの風>、<しんぺい>、<九州横断特急>という各列車に乗車出来て、乗車券そのものは割安な「鹿児島中央・佐賀」の“通し”で求めて、熊本・鳥栖を普通列車で移動後、鳥栖・佐賀は自由席特急券で<かもめ>に乗車したのだった…
“ネットきっぷ”に関しては「<かもめ>の往復」のようなものだが、往路は787系、復路は885系と違う種類の車輌だったのが愉しかった…
今後も…こういう具合に「使った切符を持ち帰る」ということは続けてしまいそうである…
↑大概は…旅から戻った後に何となく寄る近所の喫茶店のテーブルで撮るが…
<青春18きっぷ>のようなものは、何らの面倒もなく、そのまま持って帰ることが出来るが…その限りでもないモノは、駅で駅員さんに「記念に持ち帰りたい…」と申し出て、“無効”とか“乗車記念”というようなスタンプを押してもらって持ち帰る…
今般は…札幌駅で<青春18きっぷ>を求めた…それを手に列車で新千歳空港に向かい、空路で福岡に飛んで、福岡空港から博多まで地下鉄で出た後、早速に博多・小倉、小倉・門司港、下関・小倉と使用した…
2日目は…小倉・中津、中津・杵築、杵築・大分、大分・臼杵、臼杵・佐伯、佐伯・延岡・宮崎と使用…
3日目は…宮崎・都城・えびの、えびの飯野・都城、都城・西都城、西都城・鹿児島中央と使用…
以降は福岡空港から新千歳空港に戻ってからの使用…新千歳空港・札幌・岩見沢・旭川で使用…
最終日の5日目は旭川・稚内で使用した…
何か“中抜け”な感じだが…北海道内と九州とで、存分に使用した感じである…<青春18きっぷ>で着いた駅で改札を出る際、駅員さんが居る駅では“下車印”をお願いする。辿り着いた駅名が残って記念になる…今般は、日豊本線沿線の駅名が見える他方に、北海道内の何となく馴染んだ駅名が見えるのが面白い…
鹿児島から佐賀、長崎、福岡に関してはJR九州の“ネットきっぷ”を使用した。精確には“ネット予約”とすべきかもしれない。と言うのも、佐賀・長崎、長崎・博多は“ネットきっぷ”と呼ばれる企画料金が適用されているようだが、鹿児島中央・佐賀に関しては“ネット予約”というだけのようだ…
“ネット予約”の御蔭で、<はやとの風>、<しんぺい>、<九州横断特急>という各列車に乗車出来て、乗車券そのものは割安な「鹿児島中央・佐賀」の“通し”で求めて、熊本・鳥栖を普通列車で移動後、鳥栖・佐賀は自由席特急券で<かもめ>に乗車したのだった…
“ネットきっぷ”に関しては「<かもめ>の往復」のようなものだが、往路は787系、復路は885系と違う種類の車輌だったのが愉しかった…
今後も…こういう具合に「使った切符を持ち帰る」ということは続けてしまいそうである…
モノクロ写真で振り返る2014年12月14日から12月23日
愛用のP7700で、「一寸ダイヤルを回す」だけで使用出来る“クリエイティブモノクローム”という設定で撮影出来るモノクロ写真が「なかなかに好い」と思ったのは2014年6月頃のことだった…
↓爾来、そのモノクロ写真を時々撮って愉しんでいる…
>>Collection: MONOCHROME
2014年12月14日から12月23日の期間にも、モノクロ写真は色々と撮ってみた…
↓期間中のモノクロ写真を一纏めにしてある…
>>MONOCHROME - Trip between DEC 14 and 23, 2014 - an album on Flickr
写真は、撮ると片っ端から整理し、順次ウェブギャラリーに出している。
旅に出て写真を撮った場合、「自身が誰よりも撮った写真を視たい」と言うべきか、とにかく「視たくて我慢が出来ない」という感じになって、旅の途中の深夜や早朝等にも片っ端から整理するのだが…必ずしも「時系列やテーマ別に整頓」ということはしない…
他方で…「テーマ別や時系列で視易い型に纏めたい」とも思うのだが…敢えて大きなエネルギーも使わず終いな場合も多い…
今般の2014年12月14日から12月23日の期間に関して、極力写真点数を抑えて、「一寸経過を振り返る」ような按配で纏めてみたいと思い立った…
↓12月14日に稚内から都市間バスで出発した…
↓12月14日は札幌に泊まった…
↓12月15日は“東京乗継”で福岡に飛んだ…
↓12月15日は関門橋を高台から眺め…
↓12月15日は海底トンネルを歩くという場面も在った…
↓12月15日は歩いて下関に上陸してしまった…
↓12月16日は小倉から日豊本線の列車に乗って中津に向かった…
↓12月16日は杵築に寄った…
↓12月16日は夜までに宮崎に至り、12月17日早朝には慌しく出発した…
↓12月17日午前中のえびのは雪…
↓12月17日は逃げるように雪のえびのを離れ…
↓12月17日は都城で<ななつ星in九州>を眺め…
↓12月17日は鹿児島に至った…
↓12月18日は桜島の眺望の美しさに歓喜していた…
↓12月18日に視た桜島の冠雪は、時季としては珍しいものということだった…
↓12月18日は桜島の眺望を一日中追い掛けていたような一日だった…
↓12月19日は好天だった…
↓12月19日は<はやとの風>に乗車…
↓12月19日は<しんぺい>、<九州横断特急>に乗り継いで、佐賀に至った…
↓12月20日は長崎へ向かった…
↓12月20日は長崎で過ごした…
↓12月21日は福岡へ移動…夜は友人と愉しい時間を過ごした…
↓12月22日は福岡空港から新千歳空港へ真っ直ぐ飛んだ…
↓12月22日は旭川に至った…
↓12月23日は旭川から宗谷線を北上した…
↓12月23日…稚内に無事戻った…
「正しい休日」の一環として、ポートサービスセンターに足を運び、コインランドリーの“出来上がり待ち”な中、何点かの気に入ったモノクロ写真をふと思い出し…極力写真点数を抑えて「一寸経過を振り返る」ということを何となく思い付いた…“茶代わり”の<明月>のお湯割りを頂きながらの作業だったが…なかなかに多彩な場所に立寄って、随分と動き回っている…
↓爾来、そのモノクロ写真を時々撮って愉しんでいる…
>>Collection: MONOCHROME
2014年12月14日から12月23日の期間にも、モノクロ写真は色々と撮ってみた…
↓期間中のモノクロ写真を一纏めにしてある…
>>MONOCHROME - Trip between DEC 14 and 23, 2014 - an album on Flickr
写真は、撮ると片っ端から整理し、順次ウェブギャラリーに出している。
旅に出て写真を撮った場合、「自身が誰よりも撮った写真を視たい」と言うべきか、とにかく「視たくて我慢が出来ない」という感じになって、旅の途中の深夜や早朝等にも片っ端から整理するのだが…必ずしも「時系列やテーマ別に整頓」ということはしない…
他方で…「テーマ別や時系列で視易い型に纏めたい」とも思うのだが…敢えて大きなエネルギーも使わず終いな場合も多い…
今般の2014年12月14日から12月23日の期間に関して、極力写真点数を抑えて、「一寸経過を振り返る」ような按配で纏めてみたいと思い立った…
↓12月14日に稚内から都市間バスで出発した…
↓12月14日は札幌に泊まった…
↓12月15日は“東京乗継”で福岡に飛んだ…
↓12月15日は関門橋を高台から眺め…
↓12月15日は海底トンネルを歩くという場面も在った…
↓12月15日は歩いて下関に上陸してしまった…
↓12月16日は小倉から日豊本線の列車に乗って中津に向かった…
↓12月16日は杵築に寄った…
↓12月16日は夜までに宮崎に至り、12月17日早朝には慌しく出発した…
↓12月17日午前中のえびのは雪…
↓12月17日は逃げるように雪のえびのを離れ…
↓12月17日は都城で<ななつ星in九州>を眺め…
↓12月17日は鹿児島に至った…
↓12月18日は桜島の眺望の美しさに歓喜していた…
↓12月18日に視た桜島の冠雪は、時季としては珍しいものということだった…
↓12月18日は桜島の眺望を一日中追い掛けていたような一日だった…
↓12月19日は好天だった…
↓12月19日は<はやとの風>に乗車…
↓12月19日は<しんぺい>、<九州横断特急>に乗り継いで、佐賀に至った…
↓12月20日は長崎へ向かった…
↓12月20日は長崎で過ごした…
↓12月21日は福岡へ移動…夜は友人と愉しい時間を過ごした…
↓12月22日は福岡空港から新千歳空港へ真っ直ぐ飛んだ…
↓12月22日は旭川に至った…
↓12月23日は旭川から宗谷線を北上した…
↓12月23日…稚内に無事戻った…
「正しい休日」の一環として、ポートサービスセンターに足を運び、コインランドリーの“出来上がり待ち”な中、何点かの気に入ったモノクロ写真をふと思い出し…極力写真点数を抑えて「一寸経過を振り返る」ということを何となく思い付いた…“茶代わり”の<明月>のお湯割りを頂きながらの作業だったが…なかなかに多彩な場所に立寄って、随分と動き回っている…
島津義弘公着用甲冑(複製)のモノクロ写真から…(2014.12.18撮影)
↓気に入ってしまった写真を“油彩画風”にしてみた…
↑何か…「戦国スペクタクル!!」というような映画のポスターか何かのような、何とも言い難い味わいに…素敵だ!!
↑何か…「戦国スペクタクル!!」というような映画のポスターか何かのような、何とも言い難い味わいに…素敵だ!!
大分の“とり天”(2014.12.16)
あれは2012年12月だった…
前年の「全行程を鉄路で稚内から枕崎へ到達」という出来事の後、「九州の好い所を知らないまま…」というのが“微妙に不満”で方々を巡ってみることにした途中だった…大分市内在勤・在住の友人と連絡が着き、大分市内で昼食を頂く運びになった…先方は「大分“らしい”何か…」ということで、“とり天”を出す店に案内してくれたのだった…
爾来…“とり天”は記憶に留まり続けた…
要は「鶏肉の揚げ物」であるが…ポピュラーな“唐揚”のように「下味を着けて、粉を着けて揚げる」のではなく、「天麩羅の要領でスッキリと鶏肉を揚げて、調味料を着けて頂く」という“とり天”…大分市や別府市等でポピュラーな“郷土の味”らしい…
この“とり天”を頂く機会…設け損なっていたのだが…今般「日豊本線を南下」の途中に、それを設けることが叶った!!
↓大分駅構内の店で「とり天定食」というメニューを視付けた!!
↑つゆを入れる小鉢が在るが…そちらに“かぼす”(大分でポピュラーな柑橘のようだ…)の入ったポン酢を入れて、そこに“とり天”を着けて頂く…
↓鶏肉のどの部位なのか…柔らかく揚がっていて、美味かった!!
この店…「米飯はお代わり可」とのことだったので…当然のように頂いた…
実は大分に入る前に道草した杵築で、「妙に風が強い中での、意外に激しいにわか雨」というものに当たり、何か「日豊本線の南下…挫折か?」というムードにもなったのだが…“とり天”を頂いて「元気百倍!!」と、勇んでホームに駆け上がり―大分駅は高架になっている…―、「更に南下だ!!」と臼杵へ向かったのだった…
“とり天”…決して「特殊な料理」とも思えないが…何故か「大分の料理」だ…これが時折恋しくなるが…私のような暮らし振りで、独自に工夫をして揚げ物をするのは、後片付けで「自殺行為的な苦難」が発生しそうなので、敢えて挑もうとも思わないが…また、これを頂くためだけでも構わないので大分に寄りたい…実際…今般はこれを頂くためだけに大分駅で下車したが…(苦笑)
前年の「全行程を鉄路で稚内から枕崎へ到達」という出来事の後、「九州の好い所を知らないまま…」というのが“微妙に不満”で方々を巡ってみることにした途中だった…大分市内在勤・在住の友人と連絡が着き、大分市内で昼食を頂く運びになった…先方は「大分“らしい”何か…」ということで、“とり天”を出す店に案内してくれたのだった…
爾来…“とり天”は記憶に留まり続けた…
要は「鶏肉の揚げ物」であるが…ポピュラーな“唐揚”のように「下味を着けて、粉を着けて揚げる」のではなく、「天麩羅の要領でスッキリと鶏肉を揚げて、調味料を着けて頂く」という“とり天”…大分市や別府市等でポピュラーな“郷土の味”らしい…
この“とり天”を頂く機会…設け損なっていたのだが…今般「日豊本線を南下」の途中に、それを設けることが叶った!!
↓大分駅構内の店で「とり天定食」というメニューを視付けた!!
↑つゆを入れる小鉢が在るが…そちらに“かぼす”(大分でポピュラーな柑橘のようだ…)の入ったポン酢を入れて、そこに“とり天”を着けて頂く…
↓鶏肉のどの部位なのか…柔らかく揚がっていて、美味かった!!
この店…「米飯はお代わり可」とのことだったので…当然のように頂いた…
実は大分に入る前に道草した杵築で、「妙に風が強い中での、意外に激しいにわか雨」というものに当たり、何か「日豊本線の南下…挫折か?」というムードにもなったのだが…“とり天”を頂いて「元気百倍!!」と、勇んでホームに駆け上がり―大分駅は高架になっている…―、「更に南下だ!!」と臼杵へ向かったのだった…
“とり天”…決して「特殊な料理」とも思えないが…何故か「大分の料理」だ…これが時折恋しくなるが…私のような暮らし振りで、独自に工夫をして揚げ物をするのは、後片付けで「自殺行為的な苦難」が発生しそうなので、敢えて挑もうとも思わないが…また、これを頂くためだけでも構わないので大分に寄りたい…実際…今般はこれを頂くためだけに大分駅で下車したが…(苦笑)
佐伯駅&延岡駅:臼杵からやって来て延岡へ向かったキハ220(2014.12.16)
「<青春18きっぷ>を手に普通列車で旅を…」というようなことを考える場合…最近は、私は「真っ赤な文字の区間」と勝手に呼んでいるが、駅に掲出の時刻表に赤い文字で記される特急列車ばかりが目に留まり、「普通列車が少な目」または「極端に少ない」と思われる区間に存外な頻度で出くわす…
勿論、「最初から列車運行本数そのものが限定的」という区間も在るが、そういうのとは少し異なるのが、この「真っ赤な文字の区間」である…何気なく時刻表に目を落とす分には、朝から夜まで「1時間に1本?2本?3本の時間帯も?」というような、「普通な頻度」で列車が走っているように見えるが…<青春18きっぷ>のようなもので利用可能な“普通列車”ということでチェックすると…「何故だ!?」ということになってしまう…
小倉から鹿児島までの日豊本線に関して、その「真っ赤な文字の区間」という現象が「最も極端」なのは…大分県南東部の佐伯駅と、宮崎県北東部の延岡駅との間である…
↓臼杵からの列車で佐伯に着いた。臼杵の街を少し歩き、駅に戻ってみれば待機していた列車だった…キハ220は、先行したキハ200をベースに、“1輛運行”が可能なように、車輛の両側に運転台を据えるようにした型だ…
↑赤いキハ220…臼杵・佐伯間は電化された区間だが、“1輛運行”の輸送力が妥当と考えられているのか、この車輛が走っていた。実は前年にもキハ220を見掛け、乗車をした機会も在ったのだが、今般のモノは車体正面のデザインが少し異なっているモノだった…
この日は…「日豊本線を南下して、行ける所まで…」というように考えていたのだが…「真っ赤な文字の区間」という現象が「最も極端」な佐伯・延岡間で、“本数限定”の列車を巧く捕まえなければ、思うように進めない…
↓佐伯駅に掲出の時刻表をチェック…
↑時刻表の左半分…「正しく真っ赤な文字」だ…
この佐伯駅の時刻表…真ん中に“○時”と時間帯が記され、右側は大分、小倉、博多方面の列車の発車時刻が、左側は延岡、宮崎方面の列車の発車時刻が各々記されている…
右側に関しては緑色の文字が目立つ。これは「この時刻の大分までの特急列車で発つと、大分で博多行に接続・乗換が便利」という意味のようだ。右側の赤い文字は、列車本数は少ないものの「宮崎・大分・博多」と長い距離の運行となっている特急列車だ。そして黒い文字は、大分方面との間を往来している普通列車である。
左側…「真っ赤!」なのだが、これは悉く「宮崎方面への特急列車」である。列車の運行頻度そのものは、「地方の、そこそこの規模の街の駅?こんな感じ?」という具合なのだが…一瞬「全部、特急列車なのか?!」と思ってしまう。目を凝らすと…黒い文字の普通列車が朝に1本、夕刻に2本の計3本在ることが判る…普通列車は「1日3本」だけだ…
この時、これを視て「“17時14分”というのに乗車すると…延岡に至ってから乗換えて、午後9時前に宮崎に至ることが叶う」と考えた。更に、夜は「宮崎泊」として翌早朝から活動しようとも思った…
乗車することに決めた列車まで…1時間半弱であったろうか…少し間が在った…駅周辺を何となく歩き、少し古そうな喫茶店が在ったので、そこで一息入れた…
喫茶店の店主氏によれば…佐伯・延岡間の小さな駅に、「正しく“県境”」に相当する地区が在り、そこから佐伯に通学している高校生で「必ず“19時33分”で帰宅」という例が在るのだそうだ…私はその1本前に乗車するが…普通列車はとにかく本数が少ない…
佐伯に至るまで、鉄道や道路の開通以前は「寧ろ船で移動?」と見える地形の車窓を視ながら来たことを話題にすれば、以前に当時80代以上の高齢者と話しをした時、「子どもの時分に船で…」という話題が出ていたこと等を教えてくれた…また佐伯駅周辺は市街からやや外れるらしい…確かにひっそりした感じではあったが…
そういうような話しを聴き、珈琲を頂き、喫茶店の席でノートパソコンを開いて宮崎の宿を予約し、かなり日が傾いた感じの佐伯駅に向かった…
↓「“17時14分”の南延岡行の普通列車が3番乗場」という案内だったので行ってみる…「見覚えが?」と少し首を傾げた…“佐伯”だった行先表示は“南延岡”に切り替わっているが…同じ“キハ220-205”である!!
↑臼杵から乗車して来たキハ220…到着以来、ここで待機し続けていて、改めて南延岡行の列車として佐伯から出発することになる…臼杵・佐伯間がこのキハ220であったのは、実は「車輛を送り込む」という意図だったことが判った…乗車してみれば、臼杵から乗った際の席には先客が在ったので、他の席に陣取ったが…中も全く同じだ…
方向が逆ということにはなるが、以前に延岡・佐伯間を特急列車で通り過ぎたことが在る…
延岡・佐伯間を通過したのは、南宮崎・大分間で特急列車を利用した場面でのことで、陽が傾いてから特急列車で北上し、延岡停車の随分以前に車窓は暗くなってしまっていた。列車が延岡を発車すると、車内に「次の停車駅 佐伯」という掲示が出て、その“次”までが妙に長い…南宮崎・延岡間は、駅間が短く思えただけに、少し妙な感じがした。
夜間に特急列車に乗車していて駅を通過する場面…大概は…暗い窓に自身の姿や車内が映り、その向こうに「駅そのものの灯りが見える」、「駅周辺の様々な灯りが見える」のが普通であると思う。南宮崎・大分間で特急列車を利用した場面でも、宮崎県内、大分県内各地で、通過駅でも「駅周辺の様々な灯りが見える」感じで、駅周辺が“田園”のような感じにしても、「駅そのものの灯り」は見える場合が多かった…
しかし…延岡・佐伯間の場合…「駅周辺の様々な灯り」、「駅そのものの灯り」というようなものが…「判らない」状況で、真っ暗な中を列車が進んでいたのである…或いは…「本当の“山の中”、または崖の下のような沿岸で、山肌と海の間のような場所に鉄路が敷かれている?」とさえ思ったが…地図で視てもそれには該当しない…更に駅も在る…
↓佐伯駅で見掛けたキハ220にも、「途中の主な駅」というようなものが掲出されている…
キハ220が佐伯駅を発つ辺りでは、未だ真っ暗でもなかったが、列車が進むに連れて辺りは直ぐに暗くなった。暗い中、キハ220がライトを煌々と灯し、エンジン音も高らかに進む…
キハ220は“ワンマン運行”だった…何かの用事で移動中と見受けられる人と、通学の高校生、他に私自身を含む旅行者風の乗客が何名かという「些かの空席を残す…」ような按配の車内で、各駅で停車して幾分の乗降が在った…そして判った…佐伯・延岡間は、「日豊本線の沿線」ではありながら、状況が「限られた列車が静かに発着するローカル線」のようになっているのだ。無人駅ばかりで「駅そのものの灯り」が極々慎ましい…“ワンマン運行”で、下車する乗客は運転士に定期券を確認してもらったり、運賃を確かめてお金を運賃箱に入れる等している…この佐伯・延岡間の各駅は山間や田園の中の小さな駅、それも無人駅ばかりなので、「夜間に特急列車で通過」の場面では「とりあえず真っ暗な…」というようにしか視えなかったのだ…
「あの時の疑問は氷解した…」と思いながら乗車していると、列車は延岡に近付いた…宮崎へ向かう列車への乗換は、南延岡でも可能だが、始発の延岡から乗込んでしまう方が好いかもしれないと、延岡で下車した…
↓延岡に着けば、スッカリと「夜!」という按配だ…
佐伯・延岡間…九州東海岸を貫く幹線の一隅でありながら、何かひっそりと「1日3往復」走っている、非常に“ローカル”な味わいの列車が視られる区間だ…
先のことは判らないが…“次”が在るなら、延岡で夜を明かし、延岡・佐伯の、朝の時間帯の普通列車に乗ってみるのも一興かもしれない…
それにしても…「日豊本線を普通列車で縦断」という話しは余り聞かないのだが…原因は、この佐伯・延岡間の普通列車が「1日3往復」、それも朝と夕方なので、利用機会が限定されてしまうということだと、経験してみてよく判った…
勿論、「最初から列車運行本数そのものが限定的」という区間も在るが、そういうのとは少し異なるのが、この「真っ赤な文字の区間」である…何気なく時刻表に目を落とす分には、朝から夜まで「1時間に1本?2本?3本の時間帯も?」というような、「普通な頻度」で列車が走っているように見えるが…<青春18きっぷ>のようなもので利用可能な“普通列車”ということでチェックすると…「何故だ!?」ということになってしまう…
小倉から鹿児島までの日豊本線に関して、その「真っ赤な文字の区間」という現象が「最も極端」なのは…大分県南東部の佐伯駅と、宮崎県北東部の延岡駅との間である…
↓臼杵からの列車で佐伯に着いた。臼杵の街を少し歩き、駅に戻ってみれば待機していた列車だった…キハ220は、先行したキハ200をベースに、“1輛運行”が可能なように、車輛の両側に運転台を据えるようにした型だ…
↑赤いキハ220…臼杵・佐伯間は電化された区間だが、“1輛運行”の輸送力が妥当と考えられているのか、この車輛が走っていた。実は前年にもキハ220を見掛け、乗車をした機会も在ったのだが、今般のモノは車体正面のデザインが少し異なっているモノだった…
この日は…「日豊本線を南下して、行ける所まで…」というように考えていたのだが…「真っ赤な文字の区間」という現象が「最も極端」な佐伯・延岡間で、“本数限定”の列車を巧く捕まえなければ、思うように進めない…
↓佐伯駅に掲出の時刻表をチェック…
↑時刻表の左半分…「正しく真っ赤な文字」だ…
この佐伯駅の時刻表…真ん中に“○時”と時間帯が記され、右側は大分、小倉、博多方面の列車の発車時刻が、左側は延岡、宮崎方面の列車の発車時刻が各々記されている…
右側に関しては緑色の文字が目立つ。これは「この時刻の大分までの特急列車で発つと、大分で博多行に接続・乗換が便利」という意味のようだ。右側の赤い文字は、列車本数は少ないものの「宮崎・大分・博多」と長い距離の運行となっている特急列車だ。そして黒い文字は、大分方面との間を往来している普通列車である。
左側…「真っ赤!」なのだが、これは悉く「宮崎方面への特急列車」である。列車の運行頻度そのものは、「地方の、そこそこの規模の街の駅?こんな感じ?」という具合なのだが…一瞬「全部、特急列車なのか?!」と思ってしまう。目を凝らすと…黒い文字の普通列車が朝に1本、夕刻に2本の計3本在ることが判る…普通列車は「1日3本」だけだ…
この時、これを視て「“17時14分”というのに乗車すると…延岡に至ってから乗換えて、午後9時前に宮崎に至ることが叶う」と考えた。更に、夜は「宮崎泊」として翌早朝から活動しようとも思った…
乗車することに決めた列車まで…1時間半弱であったろうか…少し間が在った…駅周辺を何となく歩き、少し古そうな喫茶店が在ったので、そこで一息入れた…
喫茶店の店主氏によれば…佐伯・延岡間の小さな駅に、「正しく“県境”」に相当する地区が在り、そこから佐伯に通学している高校生で「必ず“19時33分”で帰宅」という例が在るのだそうだ…私はその1本前に乗車するが…普通列車はとにかく本数が少ない…
佐伯に至るまで、鉄道や道路の開通以前は「寧ろ船で移動?」と見える地形の車窓を視ながら来たことを話題にすれば、以前に当時80代以上の高齢者と話しをした時、「子どもの時分に船で…」という話題が出ていたこと等を教えてくれた…また佐伯駅周辺は市街からやや外れるらしい…確かにひっそりした感じではあったが…
そういうような話しを聴き、珈琲を頂き、喫茶店の席でノートパソコンを開いて宮崎の宿を予約し、かなり日が傾いた感じの佐伯駅に向かった…
↓「“17時14分”の南延岡行の普通列車が3番乗場」という案内だったので行ってみる…「見覚えが?」と少し首を傾げた…“佐伯”だった行先表示は“南延岡”に切り替わっているが…同じ“キハ220-205”である!!
↑臼杵から乗車して来たキハ220…到着以来、ここで待機し続けていて、改めて南延岡行の列車として佐伯から出発することになる…臼杵・佐伯間がこのキハ220であったのは、実は「車輛を送り込む」という意図だったことが判った…乗車してみれば、臼杵から乗った際の席には先客が在ったので、他の席に陣取ったが…中も全く同じだ…
方向が逆ということにはなるが、以前に延岡・佐伯間を特急列車で通り過ぎたことが在る…
延岡・佐伯間を通過したのは、南宮崎・大分間で特急列車を利用した場面でのことで、陽が傾いてから特急列車で北上し、延岡停車の随分以前に車窓は暗くなってしまっていた。列車が延岡を発車すると、車内に「次の停車駅 佐伯」という掲示が出て、その“次”までが妙に長い…南宮崎・延岡間は、駅間が短く思えただけに、少し妙な感じがした。
夜間に特急列車に乗車していて駅を通過する場面…大概は…暗い窓に自身の姿や車内が映り、その向こうに「駅そのものの灯りが見える」、「駅周辺の様々な灯りが見える」のが普通であると思う。南宮崎・大分間で特急列車を利用した場面でも、宮崎県内、大分県内各地で、通過駅でも「駅周辺の様々な灯りが見える」感じで、駅周辺が“田園”のような感じにしても、「駅そのものの灯り」は見える場合が多かった…
しかし…延岡・佐伯間の場合…「駅周辺の様々な灯り」、「駅そのものの灯り」というようなものが…「判らない」状況で、真っ暗な中を列車が進んでいたのである…或いは…「本当の“山の中”、または崖の下のような沿岸で、山肌と海の間のような場所に鉄路が敷かれている?」とさえ思ったが…地図で視てもそれには該当しない…更に駅も在る…
↓佐伯駅で見掛けたキハ220にも、「途中の主な駅」というようなものが掲出されている…
キハ220が佐伯駅を発つ辺りでは、未だ真っ暗でもなかったが、列車が進むに連れて辺りは直ぐに暗くなった。暗い中、キハ220がライトを煌々と灯し、エンジン音も高らかに進む…
キハ220は“ワンマン運行”だった…何かの用事で移動中と見受けられる人と、通学の高校生、他に私自身を含む旅行者風の乗客が何名かという「些かの空席を残す…」ような按配の車内で、各駅で停車して幾分の乗降が在った…そして判った…佐伯・延岡間は、「日豊本線の沿線」ではありながら、状況が「限られた列車が静かに発着するローカル線」のようになっているのだ。無人駅ばかりで「駅そのものの灯り」が極々慎ましい…“ワンマン運行”で、下車する乗客は運転士に定期券を確認してもらったり、運賃を確かめてお金を運賃箱に入れる等している…この佐伯・延岡間の各駅は山間や田園の中の小さな駅、それも無人駅ばかりなので、「夜間に特急列車で通過」の場面では「とりあえず真っ暗な…」というようにしか視えなかったのだ…
「あの時の疑問は氷解した…」と思いながら乗車していると、列車は延岡に近付いた…宮崎へ向かう列車への乗換は、南延岡でも可能だが、始発の延岡から乗込んでしまう方が好いかもしれないと、延岡で下車した…
↓延岡に着けば、スッカリと「夜!」という按配だ…
佐伯・延岡間…九州東海岸を貫く幹線の一隅でありながら、何かひっそりと「1日3往復」走っている、非常に“ローカル”な味わいの列車が視られる区間だ…
先のことは判らないが…“次”が在るなら、延岡で夜を明かし、延岡・佐伯の、朝の時間帯の普通列車に乗ってみるのも一興かもしれない…
それにしても…「日豊本線を普通列車で縦断」という話しは余り聞かないのだが…原因は、この佐伯・延岡間の普通列車が「1日3往復」、それも朝と夕方なので、利用機会が限定されてしまうということだと、経験してみてよく判った…
小倉駅&中津駅:811系電車(2014.12.16)
↓早朝の小倉駅に、「正面の白」が鮮やかな車輛が登場した…“中津”と行先表示が掲出されている…
↑福岡県内等で見掛ける機会が多い車輛のように思う…
この「正面の白」が鮮やかな車輛…811系電車だ。
811系電車は、福岡・北九州圏での快速列車増発、旧車輛からの入替を目指して1989年から1993年に製造された車輛だ。4両編成が基本で、28編成製造されたそうだ。全車が南福岡の車輛基地に所属しているという…なるほど、「主に福岡県内で見掛ける…」ということになる筈だ…
811系のボディーはステンレスで、車体は基本的に金属色のままになっていて、側面に赤と青の帯が配されてる。正面は白い塗装が施されている。ここはステンレスではない鋼材で出来ているようだ。過去には、この白い部分に別な色の塗装を施した広告仕様も存在したらしいが…視た記憶は無い…
↓乗客の少なめな早朝なので車内の画も撮ってみた…
↑クロスシートで、進行方向が変わると、座席の背もたれを動かして方向転換が出来る。各地の鉄道車輛で多く見受けられるような方式だ…さりげなく…画面右側奥の席に、私のバッグが写っている…これは新千歳空港に向かう場面で、持っていたバッグが“ショルダーバッグ”として使えない状態に壊れてしまったことを受けて、急遽空港内の店で求めたモノだ…「今般の旅の“思い出の品”」ということになる…
この811系…基本の4両編成、または1輛抜いた3両編成、更にこれらを組み合わせて、もう少し長い編成で運用されるようになっているようだ。この時は…4両編成だったと記憶する…
冬の遅い夜明けの中、列車が小倉駅を発つと、途中で乗客が入れ替わりながら南下する。「やや早めな通勤・通学」という雰囲気だった…
“県境”に該当する短い区間では、小倉以降長く眼に留まっていた制服姿の高校生が何となく視えなくなる…県境を越える通学は稀なのであろう…
↓列車が中津駅に到着した…
↑乗って着いた列車の車輛を何となく眺めるのが好きなのだが…この車輛は直ぐに“折り返し運転”のようだ。既に“門司港”という行先表示が掲出されている…
福岡・北九州圏…実は「何となく思う以上に広い」と思う。「列車で一寸…」と思うと、存外に乗車時間は長くなるが…そういう場面で登場する811系…なかなかに快適だと思う。
振り返ってみれば…小倉から「日豊本線縦断」に出発する前日、福岡空港で九州上陸を果たし、地下鉄で博多駅に向かい、博多駅の改札を潜ってホームに出てみれば待機中だったので思わず飛び乗った小倉方面への普通列車…これが811系だった…或いは「九州上陸後、最初に乗る可能性が在る、博多を軸に周辺を走っているJR車輛」として、この811系を記憶に留めたい感じだ…
↑福岡県内等で見掛ける機会が多い車輛のように思う…
この「正面の白」が鮮やかな車輛…811系電車だ。
811系電車は、福岡・北九州圏での快速列車増発、旧車輛からの入替を目指して1989年から1993年に製造された車輛だ。4両編成が基本で、28編成製造されたそうだ。全車が南福岡の車輛基地に所属しているという…なるほど、「主に福岡県内で見掛ける…」ということになる筈だ…
811系のボディーはステンレスで、車体は基本的に金属色のままになっていて、側面に赤と青の帯が配されてる。正面は白い塗装が施されている。ここはステンレスではない鋼材で出来ているようだ。過去には、この白い部分に別な色の塗装を施した広告仕様も存在したらしいが…視た記憶は無い…
↓乗客の少なめな早朝なので車内の画も撮ってみた…
↑クロスシートで、進行方向が変わると、座席の背もたれを動かして方向転換が出来る。各地の鉄道車輛で多く見受けられるような方式だ…さりげなく…画面右側奥の席に、私のバッグが写っている…これは新千歳空港に向かう場面で、持っていたバッグが“ショルダーバッグ”として使えない状態に壊れてしまったことを受けて、急遽空港内の店で求めたモノだ…「今般の旅の“思い出の品”」ということになる…
この811系…基本の4両編成、または1輛抜いた3両編成、更にこれらを組み合わせて、もう少し長い編成で運用されるようになっているようだ。この時は…4両編成だったと記憶する…
冬の遅い夜明けの中、列車が小倉駅を発つと、途中で乗客が入れ替わりながら南下する。「やや早めな通勤・通学」という雰囲気だった…
“県境”に該当する短い区間では、小倉以降長く眼に留まっていた制服姿の高校生が何となく視えなくなる…県境を越える通学は稀なのであろう…
↓列車が中津駅に到着した…
↑乗って着いた列車の車輛を何となく眺めるのが好きなのだが…この車輛は直ぐに“折り返し運転”のようだ。既に“門司港”という行先表示が掲出されている…
福岡・北九州圏…実は「何となく思う以上に広い」と思う。「列車で一寸…」と思うと、存外に乗車時間は長くなるが…そういう場面で登場する811系…なかなかに快適だと思う。
振り返ってみれば…小倉から「日豊本線縦断」に出発する前日、福岡空港で九州上陸を果たし、地下鉄で博多駅に向かい、博多駅の改札を潜ってホームに出てみれば待機中だったので思わず飛び乗った小倉方面への普通列車…これが811系だった…或いは「九州上陸後、最初に乗る可能性が在る、博多を軸に周辺を走っているJR車輛」として、この811系を記憶に留めたい感じだ…
中津城(2014.12.16)
立寄る先に“○○城”というようなモノが在ることに気付くと、「時代モノ好き」としては少々気に掛かる…これまでにも“○○城”というような場所については、色々と訪ねてみた経過が在る…
日豊本線の沿線には、その“○○城”という場所が多々在ることに気付く…福岡県北東部沿岸から大分県の沿岸部に“○○城”というものがずらりと並んでいるようにも見える…
現在では、自動車が行き交う道路も在れば、今般の旅で利用した日豊本線も在って、福岡県北東部沿岸から大分県の沿岸部は往来も容易だ。しかし…実際にゆっくりと車窓を眺めながら日豊本線を動いてみて思ったが…大分県の沿岸部各地は「深く入り込んだ入江に山が迫る」ような地形の場所が連続していて、城が設けられた町と町との間を往来するような場合には「寧ろ船を出す」というような具合で、城の設けられた辺りからは、そこから内陸側に在った各集落との間で人やモノが盛んに往来していたというような状態だったのかもしれない…現在では“大分県”で一纏まりだが、嘗ては豊前国の一部と豊後国であった訳で、各国内の郡に関しても、交通事情で相互の繋がりは想像以上に薄かったのかもしれない…
色々と思うところは在ったが…小倉から列車に乗って、日豊本線の南下を始めると…或いは最初に現れる、多少目立つ“○○城”は中津城ということになる。加えて…小倉からの列車に関しては“中津行”も存外に目に付く…私が乗車した列車もその“中津行”であった…中津で、一寸駅を離れて、城を眺めに行ってみるというのも、「日豊本線を南下する途中の道草」としては、なかなかに好いように思えた…
中津駅から歩いて、何となく見掛ける案内図等を頼りに、中津城に至った…
↓「大きい!」というイメージではないが、何か美しい型の建物が目に留まる…
中津城というのは…1587(天正15)年に豊前国内の知行地を豊臣秀吉から与えられた黒田官兵衛(孝高)が、翌1588(天正16)年に、交通の便が良い河口部であり、知行地の中心辺りに相当するということで中津に築き始めた城が起源ということになる…
黒田家が福岡へ移った後、細川家が豊前に知行地を与えられ、中津城は細川家が手を入れている。やがて細川家が熊本に移ると、小笠原家が中津城に入り、与えられた一帯の知行地を治める。1717(享保2)年に至り、小笠原家に代って奥平家が中津城に入った。以降、明治維新まで、中津城は奥平家の居城となる…
↓最も目立つ建物だが…これは1964(昭和39)年に建てられた模擬天守とのこと…
↑辺りに櫓が設けられていたことは確かなようだが、中津城に天守閣が在ったか否かかは定かではないようだ…
城に関しては、天守閣のように壮麗な建物が目を引くのだが…実は“城”としては「防衛陣地としての構造」(“縄張り”と呼ばれる全体の配置や、地形を利用するか、石垣のようなものを築く等している「侵入する敵への備え」)がより重要であり、また「領主が居る場所」である以上、“領主の公館”であって「領内の治世を司る仕事が行われる政庁」という機能を担った、“御殿”と呼び習わされたモノの方が重要かもしれない…
↓そんなことも思うのだが…この模擬天守…なかなかに美しい…
中津城は、堀に海水が引き込まれているらしい…恐らく、海の干満で堀の水量も変わるのだと想像する…
↓立ち寄った際には「やや堀の水量が少ない?」とも思ったが…堀と石垣が設けられていて、石垣の上に建物が在ると、凄く「城らしい」感じだ…
↓設置された自販機に、城の写真が使われているのが面白いと思った…
↑「未だ早朝」という時間帯に立寄ったので、模擬天守の建物内に設けられた資料館のオープン前で、資料館に立寄ることは叶わなかった…
最近は「“大河ドラマ”縁の…」という観光振興宣伝が定番化、常態化しているように思えるが、その一環でもある「黒田官兵衛縁の…」というような宣伝は、中津でも随分と見掛けた…
中津城の跡は、明治期以降は行政関係の庁舎として利用されたり、学校関係の建物として利用されたり、西南戦争の時期に戦災に遭うというような色々なことが在った様子だ…
一つ記憶に留めたいのは…美しい模擬天守が見える辺りに通じる街路に、「嘗ては城内の一画で、重臣の屋敷の門であった」という場所が在って、その“門”が地元小学校の校門になっていたことだ…
大勢の小学生が登校するような時間帯に辺りを動き回っていて、撮り悪かったので門の写真は撮っていないが…「ここの小学生…酷く立派な門を潜って毎日登校しているな…」と様子を眺めながら「駅の側へ引揚げよう…」と進んで行くと…「おはようございます!」と元気に挨拶をしてくれる小学生諸君と次々に擦違った。言われれば…思わず「おはようございます!」を返す訳だが…そんな道筋には、地元のおじさんやおばさんが、紺色のユニフォームに身を固めて、“交通安全指導”というようなことで横断歩道辺りに立って、登校する小学生達と挨拶を交わしながら様子を見守っていた。
旅先で偶々見掛けた小学校近所の様子…小学生達の登校風景だったが…地元のおじさんやおばさんが見守る中、私自身のような「通りすがった人」に挨拶の声を掛けるような小学生達…という様子に出くわした…「何となく温かい感じがする街だ…」というように思った…
そんな街で、街の歴史を伝える城址…記憶に留めたい…
日豊本線の沿線には、その“○○城”という場所が多々在ることに気付く…福岡県北東部沿岸から大分県の沿岸部に“○○城”というものがずらりと並んでいるようにも見える…
現在では、自動車が行き交う道路も在れば、今般の旅で利用した日豊本線も在って、福岡県北東部沿岸から大分県の沿岸部は往来も容易だ。しかし…実際にゆっくりと車窓を眺めながら日豊本線を動いてみて思ったが…大分県の沿岸部各地は「深く入り込んだ入江に山が迫る」ような地形の場所が連続していて、城が設けられた町と町との間を往来するような場合には「寧ろ船を出す」というような具合で、城の設けられた辺りからは、そこから内陸側に在った各集落との間で人やモノが盛んに往来していたというような状態だったのかもしれない…現在では“大分県”で一纏まりだが、嘗ては豊前国の一部と豊後国であった訳で、各国内の郡に関しても、交通事情で相互の繋がりは想像以上に薄かったのかもしれない…
色々と思うところは在ったが…小倉から列車に乗って、日豊本線の南下を始めると…或いは最初に現れる、多少目立つ“○○城”は中津城ということになる。加えて…小倉からの列車に関しては“中津行”も存外に目に付く…私が乗車した列車もその“中津行”であった…中津で、一寸駅を離れて、城を眺めに行ってみるというのも、「日豊本線を南下する途中の道草」としては、なかなかに好いように思えた…
中津駅から歩いて、何となく見掛ける案内図等を頼りに、中津城に至った…
↓「大きい!」というイメージではないが、何か美しい型の建物が目に留まる…
中津城というのは…1587(天正15)年に豊前国内の知行地を豊臣秀吉から与えられた黒田官兵衛(孝高)が、翌1588(天正16)年に、交通の便が良い河口部であり、知行地の中心辺りに相当するということで中津に築き始めた城が起源ということになる…
黒田家が福岡へ移った後、細川家が豊前に知行地を与えられ、中津城は細川家が手を入れている。やがて細川家が熊本に移ると、小笠原家が中津城に入り、与えられた一帯の知行地を治める。1717(享保2)年に至り、小笠原家に代って奥平家が中津城に入った。以降、明治維新まで、中津城は奥平家の居城となる…
↓最も目立つ建物だが…これは1964(昭和39)年に建てられた模擬天守とのこと…
↑辺りに櫓が設けられていたことは確かなようだが、中津城に天守閣が在ったか否かかは定かではないようだ…
城に関しては、天守閣のように壮麗な建物が目を引くのだが…実は“城”としては「防衛陣地としての構造」(“縄張り”と呼ばれる全体の配置や、地形を利用するか、石垣のようなものを築く等している「侵入する敵への備え」)がより重要であり、また「領主が居る場所」である以上、“領主の公館”であって「領内の治世を司る仕事が行われる政庁」という機能を担った、“御殿”と呼び習わされたモノの方が重要かもしれない…
↓そんなことも思うのだが…この模擬天守…なかなかに美しい…
中津城は、堀に海水が引き込まれているらしい…恐らく、海の干満で堀の水量も変わるのだと想像する…
↓立ち寄った際には「やや堀の水量が少ない?」とも思ったが…堀と石垣が設けられていて、石垣の上に建物が在ると、凄く「城らしい」感じだ…
↓設置された自販機に、城の写真が使われているのが面白いと思った…
↑「未だ早朝」という時間帯に立寄ったので、模擬天守の建物内に設けられた資料館のオープン前で、資料館に立寄ることは叶わなかった…
最近は「“大河ドラマ”縁の…」という観光振興宣伝が定番化、常態化しているように思えるが、その一環でもある「黒田官兵衛縁の…」というような宣伝は、中津でも随分と見掛けた…
中津城の跡は、明治期以降は行政関係の庁舎として利用されたり、学校関係の建物として利用されたり、西南戦争の時期に戦災に遭うというような色々なことが在った様子だ…
一つ記憶に留めたいのは…美しい模擬天守が見える辺りに通じる街路に、「嘗ては城内の一画で、重臣の屋敷の門であった」という場所が在って、その“門”が地元小学校の校門になっていたことだ…
大勢の小学生が登校するような時間帯に辺りを動き回っていて、撮り悪かったので門の写真は撮っていないが…「ここの小学生…酷く立派な門を潜って毎日登校しているな…」と様子を眺めながら「駅の側へ引揚げよう…」と進んで行くと…「おはようございます!」と元気に挨拶をしてくれる小学生諸君と次々に擦違った。言われれば…思わず「おはようございます!」を返す訳だが…そんな道筋には、地元のおじさんやおばさんが、紺色のユニフォームに身を固めて、“交通安全指導”というようなことで横断歩道辺りに立って、登校する小学生達と挨拶を交わしながら様子を見守っていた。
旅先で偶々見掛けた小学校近所の様子…小学生達の登校風景だったが…地元のおじさんやおばさんが見守る中、私自身のような「通りすがった人」に挨拶の声を掛けるような小学生達…という様子に出くわした…「何となく温かい感じがする街だ…」というように思った…
そんな街で、街の歴史を伝える城址…記憶に留めたい…
中津:合元寺(ごうがんじ)(2014.12.16)
「赤い壁の寺」と言われても…「?」という感じである。
“寺”と聞けば、思い浮かべるのは白い漆喰の壁や塀であったり、木造で材料の木材由来の色の壁面が見える建物である。「赤い壁」と言われても、「どういうモノか?」という具合だ。
神社関係で、朱色を建物や鳥居に用いている例は幾らでも在る。しかしあれは朱色で在って、「赤い壁」というような表現は耳目に触れ悪い…
↓中津に立寄り、「赤い壁」と言う以外に適切な表現が見当たらない寺が本当に在ったのを視た…
↑「普通は白い漆喰」と思われるような壁を、正しく「赤く塗り込め」ている…“赤”と呼ぶ以外に、表現が思い浮かばない…一寸驚いてしまった…
「日豊本線を普通列車で南下して、行ける場所まで…」という思いで<青春18きっぷ>を手に、早朝の小倉駅を発った。やや薄暗い中、通学の高校生が多く見受けられた列車で県境を越えて中津に至った。小倉・中津間に限ったことでもないが、何度か通学時間帯の列車に乗り合わせて気付いた…市町村の境目を越えた通学は珍しくないようだが…「県境を越えた通学」と見受けられる光景は稀だった…小倉からの列車では、「福岡県内」で制服姿の高校生の乗降が何箇所かで見受けられたが、県境を跨いで中津駅に向かう区間ではそうした乗客の姿が途切れたのだ…
そんな様子で中津に着いた…中津は江戸時代には城下町であった場所で、その種の街にはよく在るが、古くからの市街から「やや歩く」必要が在るような辺りに鉄道駅が設けられている。中津城へ向かってみようと、駅からゆっくりと歩き始めて暫く行くと…この「赤い壁の寺」としか表現出来ない寺が在った…余所では視たことのない独特なモノで、少々驚いた…
↓この「赤い壁の寺」…合元寺という寺だ…
↑「赤い壁」は類例が無いモノなので…寺の名称を刻んだ標柱にわざわざ“赤壁”と刻んである…或いは“赤壁寺”というような“通り名”になっているのであろう…
合元寺は浄土宗の寺で、1587(天正15)年に黒田官兵衛(孝高)がこの地を知行するようになって移って来たことに合わせて、旧領の姫路から移って来た空誉上人が開いたという。
黒田家による統治について、旧来からの勢力は必ずしも協力的ではなかった中、1589(天正17)年、この辺りの元領主で求心力が在った人物であった宇都宮鎮房を、黒田家が中津城内で謀殺するという事件が在った。事件当時、宇都宮鎮房に従って中津に来ていた家臣達は近くの合元寺に拠って抵抗したが、結局は討ち果たされてしまった…
この騒動の後…合元寺の白い壁には、宇都宮鎮房謀殺を巡る事件で怨念を残して死んだ者達の返り血が着いた…その赤い染みが、何度白く塗り直しても浮かんでしまう状況だった…そこで何時しか、壁を赤く塗るようになったのだという…
↓この赤…恐らく、何度も何度も、最近に至るまで塗り重ねているように見受けられた…
↑所謂“天下統一”という流れで、「天下人が重臣に知行地を与え…」ということで黒田家が入った後も「根強い抵抗勢力が在った」が故に起こった事件…そうした古い事を伝える筈の“赤壁”なのだが…何か「斬新!!」とか「前衛的!?」とも見えてしまう…或いは「凄く和風なデザインに鮮烈な赤の塗装」というようなデザインが面白いかもしれない等、埒も無いことを考えながら眺めてしまった…
↓やや赤い色が褪せているように見えた箇所も…
↑塀の内側の建物も、一部は確り“赤壁”なのだ…どうも関係者が普段の寺の活動を行ったり、或いは住んでいる気配が在るのだが…「真っ赤な壁の建物の中に居る」というのは、どういう気分なのか?
「赤い壁の寺」と言われてもよく理解出来なかったが…正しく「百聞は一見に如かず」で、立寄って視てよく判った…或いは…これを一寸視てみるだけのことで、中津に寄るのも面白いかもしれない…それ位「珍しいモノ」というように思えた…
“寺”と聞けば、思い浮かべるのは白い漆喰の壁や塀であったり、木造で材料の木材由来の色の壁面が見える建物である。「赤い壁」と言われても、「どういうモノか?」という具合だ。
神社関係で、朱色を建物や鳥居に用いている例は幾らでも在る。しかしあれは朱色で在って、「赤い壁」というような表現は耳目に触れ悪い…
↓中津に立寄り、「赤い壁」と言う以外に適切な表現が見当たらない寺が本当に在ったのを視た…
↑「普通は白い漆喰」と思われるような壁を、正しく「赤く塗り込め」ている…“赤”と呼ぶ以外に、表現が思い浮かばない…一寸驚いてしまった…
「日豊本線を普通列車で南下して、行ける場所まで…」という思いで<青春18きっぷ>を手に、早朝の小倉駅を発った。やや薄暗い中、通学の高校生が多く見受けられた列車で県境を越えて中津に至った。小倉・中津間に限ったことでもないが、何度か通学時間帯の列車に乗り合わせて気付いた…市町村の境目を越えた通学は珍しくないようだが…「県境を越えた通学」と見受けられる光景は稀だった…小倉からの列車では、「福岡県内」で制服姿の高校生の乗降が何箇所かで見受けられたが、県境を跨いで中津駅に向かう区間ではそうした乗客の姿が途切れたのだ…
そんな様子で中津に着いた…中津は江戸時代には城下町であった場所で、その種の街にはよく在るが、古くからの市街から「やや歩く」必要が在るような辺りに鉄道駅が設けられている。中津城へ向かってみようと、駅からゆっくりと歩き始めて暫く行くと…この「赤い壁の寺」としか表現出来ない寺が在った…余所では視たことのない独特なモノで、少々驚いた…
↓この「赤い壁の寺」…合元寺という寺だ…
↑「赤い壁」は類例が無いモノなので…寺の名称を刻んだ標柱にわざわざ“赤壁”と刻んである…或いは“赤壁寺”というような“通り名”になっているのであろう…
合元寺は浄土宗の寺で、1587(天正15)年に黒田官兵衛(孝高)がこの地を知行するようになって移って来たことに合わせて、旧領の姫路から移って来た空誉上人が開いたという。
黒田家による統治について、旧来からの勢力は必ずしも協力的ではなかった中、1589(天正17)年、この辺りの元領主で求心力が在った人物であった宇都宮鎮房を、黒田家が中津城内で謀殺するという事件が在った。事件当時、宇都宮鎮房に従って中津に来ていた家臣達は近くの合元寺に拠って抵抗したが、結局は討ち果たされてしまった…
この騒動の後…合元寺の白い壁には、宇都宮鎮房謀殺を巡る事件で怨念を残して死んだ者達の返り血が着いた…その赤い染みが、何度白く塗り直しても浮かんでしまう状況だった…そこで何時しか、壁を赤く塗るようになったのだという…
↓この赤…恐らく、何度も何度も、最近に至るまで塗り重ねているように見受けられた…
↑所謂“天下統一”という流れで、「天下人が重臣に知行地を与え…」ということで黒田家が入った後も「根強い抵抗勢力が在った」が故に起こった事件…そうした古い事を伝える筈の“赤壁”なのだが…何か「斬新!!」とか「前衛的!?」とも見えてしまう…或いは「凄く和風なデザインに鮮烈な赤の塗装」というようなデザインが面白いかもしれない等、埒も無いことを考えながら眺めてしまった…
↓やや赤い色が褪せているように見えた箇所も…
↑塀の内側の建物も、一部は確り“赤壁”なのだ…どうも関係者が普段の寺の活動を行ったり、或いは住んでいる気配が在るのだが…「真っ赤な壁の建物の中に居る」というのは、どういう気分なのか?
「赤い壁の寺」と言われてもよく理解出来なかったが…正しく「百聞は一見に如かず」で、立寄って視てよく判った…或いは…これを一寸視てみるだけのことで、中津に寄るのも面白いかもしれない…それ位「珍しいモノ」というように思えた…
杵築駅:815系電車(2014.12.16)
出掛けた先で動き回る中、「何となく眼に馴染む」という具合になる乗物が幾つか登場するように思う。
例えば、九州を訪ねてJRの普通列車を何度も利用すると、「あそこでも…そこでも…ここでも出くわして乗車した…」という車輛が幾分現れ、それが記憶に残る…これまでは、そういうモノとして817系電車が記憶に残っていて、「九州で何となく頻繁に出くわす鉄道車輛」として817系が直ぐに頭に浮かんだ…
今般、その817系の他…
↓815系が「何となく眼に馴染む」という具合になった。
↑雲が多めであったものが、不意に日差しが眩しくなった杵築駅での画を取り上げたい…車体が輝くような具合に見えたのが好かった…
815系電車…1999年に初登場したそうだ…熊本地区、大分地区で主に使用されているのだという…今般、正しく大分県内(日豊本線)と熊本県内から福岡県南部に掛けて(鹿児島本線)でこの815系電車に乗る機会が在った。
815系電車は、やや前後は在るものの、近い時期に登場している813系電車や817系電車との相互連結運転も可能であるということだが…今般乗車した815系電車は、何れも2輛運行のものだった。駅で切符を購入して、改札を受けて、乗車後に駅員に切符を渡すというような、「有人駅で乗降」ということであっても、列車そのものについては「車掌が居ない」型で、「運転士だけが乗務」という“ワンマン運行”をしていた区間が多く見受けられたが…815系はそういう区間での活躍が多かった。
↓ステンレスの銀色の車体だが、車体の正面側と扉とは赤―JR九州のカラー―で、これがなかなかに好い!!
↑正面の行先表示の感じや、車輛形式を入れている辺りの感じは、所謂“水戸岡デザイン”である…
この815系電車だが、内部はロングシート…「多数の乗客が乗る」ことを想定したデザインだ…ここでは杵築駅の画を使っていて、この時は午前中の中途半端な時間で空いていたのだが…杵築から大分に向かった際の815系では、別府から大分の辺りでは存外に車内が込み合ったし、熊本辺りでは夕方の“通勤・通学”の時間帯に乗車して込み合っていて、内装がロングシートであることに納得した…2輛編成の場合、少し大きな街と近郊を結ぶ区間であれば、時間帯によっては多少車内が窮屈になることもある。そんな場面では、ロングシートが好ましい…
↓杵築を離れようとした頃…雲が多くなって来た…
↑こうしたフラットな光でも、「銀と赤」はなかなかに好い…
電化区間で、電車を用いている場合に関して、九州では「JR時代以降の車輛」が多くなっている。そうした中、この815系も頻繁に見掛けた…
例えば、九州を訪ねてJRの普通列車を何度も利用すると、「あそこでも…そこでも…ここでも出くわして乗車した…」という車輛が幾分現れ、それが記憶に残る…これまでは、そういうモノとして817系電車が記憶に残っていて、「九州で何となく頻繁に出くわす鉄道車輛」として817系が直ぐに頭に浮かんだ…
今般、その817系の他…
↓815系が「何となく眼に馴染む」という具合になった。
↑雲が多めであったものが、不意に日差しが眩しくなった杵築駅での画を取り上げたい…車体が輝くような具合に見えたのが好かった…
815系電車…1999年に初登場したそうだ…熊本地区、大分地区で主に使用されているのだという…今般、正しく大分県内(日豊本線)と熊本県内から福岡県南部に掛けて(鹿児島本線)でこの815系電車に乗る機会が在った。
815系電車は、やや前後は在るものの、近い時期に登場している813系電車や817系電車との相互連結運転も可能であるということだが…今般乗車した815系電車は、何れも2輛運行のものだった。駅で切符を購入して、改札を受けて、乗車後に駅員に切符を渡すというような、「有人駅で乗降」ということであっても、列車そのものについては「車掌が居ない」型で、「運転士だけが乗務」という“ワンマン運行”をしていた区間が多く見受けられたが…815系はそういう区間での活躍が多かった。
↓ステンレスの銀色の車体だが、車体の正面側と扉とは赤―JR九州のカラー―で、これがなかなかに好い!!
↑正面の行先表示の感じや、車輛形式を入れている辺りの感じは、所謂“水戸岡デザイン”である…
この815系電車だが、内部はロングシート…「多数の乗客が乗る」ことを想定したデザインだ…ここでは杵築駅の画を使っていて、この時は午前中の中途半端な時間で空いていたのだが…杵築から大分に向かった際の815系では、別府から大分の辺りでは存外に車内が込み合ったし、熊本辺りでは夕方の“通勤・通学”の時間帯に乗車して込み合っていて、内装がロングシートであることに納得した…2輛編成の場合、少し大きな街と近郊を結ぶ区間であれば、時間帯によっては多少車内が窮屈になることもある。そんな場面では、ロングシートが好ましい…
↓杵築を離れようとした頃…雲が多くなって来た…
↑こうしたフラットな光でも、「銀と赤」はなかなかに好い…
電化区間で、電車を用いている場合に関して、九州では「JR時代以降の車輛」が多くなっている。そうした中、この815系も頻繁に見掛けた…
人吉・熊本間で乗車した<九州横断特急>(2014.12.19)
「列車での移動」に際しては、「純粋に用事で移動」という場合の「可能な限り早く確実に動く」という基本的な要素が不可欠である他方、「“純粋”な用事でもない、お楽しみな旅行での移動」というような場面では、「より快適に」とか「(天候条件にもよろうが)美しい車窓でも楽しみながら動く」というような要素も大切なように思う。私の場合…「純粋に用事で移動」という場合でさえも、「美しい車窓でも楽しみ…」と考えてしまう傾向や、「車内販売の珈琲が!アイスクリームが!」と楽しみにしてしまうことも在るのだが…
JR九州の幾つかの列車に関しては、「可能な限り早く確実に動く」という基本的なことに加え、「より快適に」ということや「美しい車窓を愉しみながら移動」という点に配意をした列車が運行されているように思う。
<九州横断特急>…何となく大袈裟なような、豪快な命名の列車が在る…別府や大分と、人吉や熊本との間を、途中に阿蘇の高原を通過しながら結ぶ列車である。文字どおりに九州を東西に横断しながら運行されている…
「鹿児島から佐賀へ北上」と考えた時、<はやとの風>、<しんぺい>に乗車して、人吉から先でこの<九州横断特急>に乗車して熊本に移動することを思い立った…「人吉から先へ進む場合」の“接続”が、そういう具合に設定されているということも在るが…
<しんぺい>が人吉駅に到着した。「そこに鉄路が敷かれている」という事実“自体”を或る種の産業遺産、文化遺産として紹介し、向き合うような<しんぺい>という列車での移動が、思った以上に愉しかったという余韻に浸りながらホームに立つと、次に乗車する<九州横断特急>が発車に向けて待機していた…
↓赤いディーゼルカーが、夕闇が近付く人吉駅で並んでいる…
↑人吉駅では、跨線橋ではなく“構内踏切”でホーム間を移動するようになっているので、こんなアングルで車輌を視られる…
<九州横断特急>は、JR九州のカラーである赤い塗装が施されたディーゼルカーだ。キハ185系という型で、国鉄時代最末期の1986年に登場した。四国で活躍している車輛だが、JR四国が新型車両を導入して余剰が生じた他方、JR九州で旧型車の入替を検討していたという事情が生じ、一部がJR四国からJR九州へ売却された。現在では、このキハ185系は四国と九州で視られる。
このキハ185系だが…同時期に初登場して、現在も北海道内で視られるキハ183系500番台・1500番台―手近な辺りでは、稚内・札幌間の<サロベツ>に使用されている車輛がそのキハ183…―と雰囲気が非常に似ている。が、JR九州で見受けられるモノは「2輛運行」が可能なように改装されている。また、阿蘇の高原のような山岳路線で運用するために、エンジンを増設してパワーアップしているそうだ…
↓この<九州横断特急>…車輛の正面をよく視ると…“ワンマン”という表示が掲出されている…
“ワンマン”…基本的に「運転士1名が乗務して運行する」という意味だ…今時の列車…車掌が乗務していても「次は○○」というような停車案内は録音が流れる仕組みになっているので、ローカル線の無人駅のように「運転士に確認して運賃を支払う(運転席脇の箱にお金を入れる)、または切符や定期券を確認してもらう」という場面でも無ければ“ワンマン”は然程意識しないようにも思うが…
この“ワンマン”の<九州横断特急>だが、乗車する分にはその“ワンマン”を殆ど意識しなかった。と言うのも、車内販売等の乗客サービスを行う女性の客室乗務員が乗務していて、何処かの駅に着く手前では、車掌がやるような具合に「御乗換え列車の御案内を致します。○○行普通列車はX時X分、△番乗り場…」というアナウンスをしている。更に車掌が行う要領で車内検札も在る…一瞬…「女性の車掌が珈琲も売っているのか?」という感じさえした…
ところで…JR九州では「○番線」とか「○番ホーム」という言い方は聞かない…専ら「○番乗場」という言い方をするようだ…駅構内でのアナウンスでも、列車内の案内でも、これは共通しているように見受けられた。「判り易さ」に「こだわり」を持っているのであろう…
方々の鉄道を利用して、案内に不満を抱いた場面は殆ど思い当らないが…一つ「あのな?!」と思ったことが在った。在る駅で「上り特急列車」とか「下り普通列車」というような“上り”、“下り”だけで「○○方面」とか「○○行」を言わない案内を流していたことが在った。初めて入り込んだ地域だったので、“上り”、“下り”だけでは「どっちへ進むんだ?!」という状況であった…しかも…その時は、何やら事故の影響とやらでダイヤが乱れた状態がなかなか復旧せず、「苦戦しながら移動中」という状況だったのだ。掲出してある時刻表を視ても、どの列車が話題になっているのか推量することも不可能である。ここは、例えば「上り、○○方面の特急列車」とでも案内して頂かないと、判らない…
<九州横断特急>も、車内で「乗車記念カード」を配っている。水戸岡デザイナーのイラストが入った、美しいカードだ…
↓<九州横断特急>、<しんぺい>、<はやとの風>と3枚揃うと、なかなかに好い…
人吉・熊本間では、球磨川の車窓が好いのだが…既に夕刻なので、直ぐに暗くなってしまい、大変残念ながら車窓は然程楽しめなかった…
↓やがて列車は熊本駅に到着する…
熊本…九州屈指の大都市と言える…“政令指定都市”である…大きな建物も見える中に2輛運行の列車が停まっている…
<九州横断特急>は人吉・熊本間と以降の区間では運転方向が変わる。この後、乗って来た時には後尾だった側が先頭になって、熊本から先へ向かう乗客を乗せた<九州横断特急>は街の灯りに向かって去って行った…
旅に出て戻ってみると…歩んだ行程の好さを想い起して懐かしむということの反面…「もう少しここで時間を費やすべきだったのでは?」とか、「このコースを通るべきだったのでは?」というような、“反省以上・後悔未満”とでも呼ぶべきものが込み上がる場合が在る。<九州横断特急>は、今般の旅から戻った後の“反省以上・後悔未満”かもしれない。或いは大分県内から鹿児島への南下コースに<九州横断特急>を採り入れるという選択も在ったかもしれない。またはもう少し早い時間帯に乗車するようにして、もう少し車窓を愉しむ術も在ったかもしれない。更に…初めて訪れた際に熊本城で酷い雨に当たってずぶ濡れになって以来、何処と無く「熊本に冷淡ではないか?」という状態なので、熊本でもう少々ゆっくりすることも出来た筈である…
色々な思いが在るが…<九州横断特急>も、少し興味が在った列車で、乗車が叶って好かった…他方、“次”が在れば、大分県・熊本県のルートを文字どおりに“横断”してみたいとも思う。
JR九州の幾つかの列車に関しては、「可能な限り早く確実に動く」という基本的なことに加え、「より快適に」ということや「美しい車窓を愉しみながら移動」という点に配意をした列車が運行されているように思う。
<九州横断特急>…何となく大袈裟なような、豪快な命名の列車が在る…別府や大分と、人吉や熊本との間を、途中に阿蘇の高原を通過しながら結ぶ列車である。文字どおりに九州を東西に横断しながら運行されている…
「鹿児島から佐賀へ北上」と考えた時、<はやとの風>、<しんぺい>に乗車して、人吉から先でこの<九州横断特急>に乗車して熊本に移動することを思い立った…「人吉から先へ進む場合」の“接続”が、そういう具合に設定されているということも在るが…
<しんぺい>が人吉駅に到着した。「そこに鉄路が敷かれている」という事実“自体”を或る種の産業遺産、文化遺産として紹介し、向き合うような<しんぺい>という列車での移動が、思った以上に愉しかったという余韻に浸りながらホームに立つと、次に乗車する<九州横断特急>が発車に向けて待機していた…
↓赤いディーゼルカーが、夕闇が近付く人吉駅で並んでいる…
↑人吉駅では、跨線橋ではなく“構内踏切”でホーム間を移動するようになっているので、こんなアングルで車輌を視られる…
<九州横断特急>は、JR九州のカラーである赤い塗装が施されたディーゼルカーだ。キハ185系という型で、国鉄時代最末期の1986年に登場した。四国で活躍している車輛だが、JR四国が新型車両を導入して余剰が生じた他方、JR九州で旧型車の入替を検討していたという事情が生じ、一部がJR四国からJR九州へ売却された。現在では、このキハ185系は四国と九州で視られる。
このキハ185系だが…同時期に初登場して、現在も北海道内で視られるキハ183系500番台・1500番台―手近な辺りでは、稚内・札幌間の<サロベツ>に使用されている車輛がそのキハ183…―と雰囲気が非常に似ている。が、JR九州で見受けられるモノは「2輛運行」が可能なように改装されている。また、阿蘇の高原のような山岳路線で運用するために、エンジンを増設してパワーアップしているそうだ…
↓この<九州横断特急>…車輛の正面をよく視ると…“ワンマン”という表示が掲出されている…
“ワンマン”…基本的に「運転士1名が乗務して運行する」という意味だ…今時の列車…車掌が乗務していても「次は○○」というような停車案内は録音が流れる仕組みになっているので、ローカル線の無人駅のように「運転士に確認して運賃を支払う(運転席脇の箱にお金を入れる)、または切符や定期券を確認してもらう」という場面でも無ければ“ワンマン”は然程意識しないようにも思うが…
この“ワンマン”の<九州横断特急>だが、乗車する分にはその“ワンマン”を殆ど意識しなかった。と言うのも、車内販売等の乗客サービスを行う女性の客室乗務員が乗務していて、何処かの駅に着く手前では、車掌がやるような具合に「御乗換え列車の御案内を致します。○○行普通列車はX時X分、△番乗り場…」というアナウンスをしている。更に車掌が行う要領で車内検札も在る…一瞬…「女性の車掌が珈琲も売っているのか?」という感じさえした…
ところで…JR九州では「○番線」とか「○番ホーム」という言い方は聞かない…専ら「○番乗場」という言い方をするようだ…駅構内でのアナウンスでも、列車内の案内でも、これは共通しているように見受けられた。「判り易さ」に「こだわり」を持っているのであろう…
方々の鉄道を利用して、案内に不満を抱いた場面は殆ど思い当らないが…一つ「あのな?!」と思ったことが在った。在る駅で「上り特急列車」とか「下り普通列車」というような“上り”、“下り”だけで「○○方面」とか「○○行」を言わない案内を流していたことが在った。初めて入り込んだ地域だったので、“上り”、“下り”だけでは「どっちへ進むんだ?!」という状況であった…しかも…その時は、何やら事故の影響とやらでダイヤが乱れた状態がなかなか復旧せず、「苦戦しながら移動中」という状況だったのだ。掲出してある時刻表を視ても、どの列車が話題になっているのか推量することも不可能である。ここは、例えば「上り、○○方面の特急列車」とでも案内して頂かないと、判らない…
<九州横断特急>も、車内で「乗車記念カード」を配っている。水戸岡デザイナーのイラストが入った、美しいカードだ…
↓<九州横断特急>、<しんぺい>、<はやとの風>と3枚揃うと、なかなかに好い…
人吉・熊本間では、球磨川の車窓が好いのだが…既に夕刻なので、直ぐに暗くなってしまい、大変残念ながら車窓は然程楽しめなかった…
↓やがて列車は熊本駅に到着する…
熊本…九州屈指の大都市と言える…“政令指定都市”である…大きな建物も見える中に2輛運行の列車が停まっている…
<九州横断特急>は人吉・熊本間と以降の区間では運転方向が変わる。この後、乗って来た時には後尾だった側が先頭になって、熊本から先へ向かう乗客を乗せた<九州横断特急>は街の灯りに向かって去って行った…
旅に出て戻ってみると…歩んだ行程の好さを想い起して懐かしむということの反面…「もう少しここで時間を費やすべきだったのでは?」とか、「このコースを通るべきだったのでは?」というような、“反省以上・後悔未満”とでも呼ぶべきものが込み上がる場合が在る。<九州横断特急>は、今般の旅から戻った後の“反省以上・後悔未満”かもしれない。或いは大分県内から鹿児島への南下コースに<九州横断特急>を採り入れるという選択も在ったかもしれない。またはもう少し早い時間帯に乗車するようにして、もう少し車窓を愉しむ術も在ったかもしれない。更に…初めて訪れた際に熊本城で酷い雨に当たってずぶ濡れになって以来、何処と無く「熊本に冷淡ではないか?」という状態なので、熊本でもう少々ゆっくりすることも出来た筈である…
色々な思いが在るが…<九州横断特急>も、少し興味が在った列車で、乗車が叶って好かった…他方、“次”が在れば、大分県・熊本県のルートを文字どおりに“横断”してみたいとも思う。
<しんぺい>が停まる矢岳駅(2014.12.19)
吉松から人吉までの区間…何か独特な雰囲気が在る…
嘗てこの地域に鉄道を通す計画が持ち上がった時、「沿岸部は戦時に艦砲射撃等の攻撃を受けてしまう危惧が在るので、内陸を通る経路が好い」という話しが在ったらしく、現在は“肥薩おれんじ鉄道”になっている部分を含む熊本県から鹿児島県にかけての沿岸部ではなく、内陸側の肥薩線のルートの方が先に鉄道が敷かれたそうだ…
そういう「山間に鉄道を敷設」という状況であった故に、急過ぎる勾配では機関車が上ることが叶わないということでループ状に線路を敷設したり、スイッチバック方式を採り入れたりと工夫を重ねており、また難工事を経たトンネル区間も多く在る…そういうような区間は、考えてみれば少数派である。普通は「ここなら工事が容易である」という場所に鉄道を敷設するであろうし、そういう場所こそ古くから町が点在していて交通機関への需要も見込める筈なのだから…
以前に普通列車で肥薩線のこの区間を通った際にも、独特な雰囲気の車窓を愉しんだが、<しんぺい>は「ここは!」という地点で敢えて停車するような、大変に嬉しいこともしてくれるので、より一層楽しむことが叶う移動となった。
↓吉松側からであれば、矢岳駅の手前にあたる位置で、2分間程度だと思うが、<しんぺい>は停車する…
↑霧島山系の連山と、えびの市の京町温泉辺りであるという街が手前に見えるこの光景!!なかなかに見事だ!!
<しんぺい>は「峠を上ってから下る」ような具合に進むが、吉松からはどんどん標高が高い方へ進んで行く…
↓矢岳駅が、最も標高が高い辺りとなる…標高は536.9mだそうだ…
↑<しんぺい>に乗車の前々日、えびので酷く雪が降っていたことが記憶に新しかったが、標高が高めな矢岳駅辺りも積雪がかなり残っていた…
↓<しんぺい>の赤い車輛が、雪の白さに非常に映えた!!
↑宮崎県、鹿児島県、熊本県は“温暖”なイメージではあるが、県境の山間部は存外に寒く、雪も降り積もる…とは言っても「冬の間、常時」ということでもない…そうした意味で「雪の矢岳駅に赤い<しんぺい>が停車」という様子は、「少し珍しい」ということになるかもしれない…
矢岳駅の周辺…非常に不便な場所だが、鉄道開通後は集落が拡大していた時期も在ったという。しかし、こちらの経路を通る列車が少なくなる中で、次第に過疎化が進んだという。集落には小学校も在ったというが…現在では休校扱いだという…
「赤い車輛が白い雪に映える…」と、様子に見惚れている間に列車が発車する時間が迫った…窓辺の積雪を眺めながら、更に進んだ…ここからは「峠を下る」というように進む…
嘗てこの地域に鉄道を通す計画が持ち上がった時、「沿岸部は戦時に艦砲射撃等の攻撃を受けてしまう危惧が在るので、内陸を通る経路が好い」という話しが在ったらしく、現在は“肥薩おれんじ鉄道”になっている部分を含む熊本県から鹿児島県にかけての沿岸部ではなく、内陸側の肥薩線のルートの方が先に鉄道が敷かれたそうだ…
そういう「山間に鉄道を敷設」という状況であった故に、急過ぎる勾配では機関車が上ることが叶わないということでループ状に線路を敷設したり、スイッチバック方式を採り入れたりと工夫を重ねており、また難工事を経たトンネル区間も多く在る…そういうような区間は、考えてみれば少数派である。普通は「ここなら工事が容易である」という場所に鉄道を敷設するであろうし、そういう場所こそ古くから町が点在していて交通機関への需要も見込める筈なのだから…
以前に普通列車で肥薩線のこの区間を通った際にも、独特な雰囲気の車窓を愉しんだが、<しんぺい>は「ここは!」という地点で敢えて停車するような、大変に嬉しいこともしてくれるので、より一層楽しむことが叶う移動となった。
↓吉松側からであれば、矢岳駅の手前にあたる位置で、2分間程度だと思うが、<しんぺい>は停車する…
↑霧島山系の連山と、えびの市の京町温泉辺りであるという街が手前に見えるこの光景!!なかなかに見事だ!!
<しんぺい>は「峠を上ってから下る」ような具合に進むが、吉松からはどんどん標高が高い方へ進んで行く…
↓矢岳駅が、最も標高が高い辺りとなる…標高は536.9mだそうだ…
↑<しんぺい>に乗車の前々日、えびので酷く雪が降っていたことが記憶に新しかったが、標高が高めな矢岳駅辺りも積雪がかなり残っていた…
↓<しんぺい>の赤い車輛が、雪の白さに非常に映えた!!
↑宮崎県、鹿児島県、熊本県は“温暖”なイメージではあるが、県境の山間部は存外に寒く、雪も降り積もる…とは言っても「冬の間、常時」ということでもない…そうした意味で「雪の矢岳駅に赤い<しんぺい>が停車」という様子は、「少し珍しい」ということになるかもしれない…
矢岳駅の周辺…非常に不便な場所だが、鉄道開通後は集落が拡大していた時期も在ったという。しかし、こちらの経路を通る列車が少なくなる中で、次第に過疎化が進んだという。集落には小学校も在ったというが…現在では休校扱いだという…
「赤い車輛が白い雪に映える…」と、様子に見惚れている間に列車が発車する時間が迫った…窓辺の積雪を眺めながら、更に進んだ…ここからは「峠を下る」というように進む…
<しんぺい>が停まる真幸駅(2014.12.19)
“真幸”は「まさき」と読む。「真の幸せ」ということに通じるので、人気が在るらしい…<しんぺい>が吉松駅を発って、最初に停車するのが真幸駅だ…
↓赤い車輌が、こういう場所に在ると、何か凄く画になる!!
<しんぺい>は、沿線の各駅で少し停車時間を設けて、駅の様子等を眺めることも出来るようになっている。こういうのが、なかなかに嬉しい!!
真幸駅は、肥薩線の中では唯一「宮崎県内」になる駅である。1911年に開設されたそうだが、現在の吉都線が開通して宮崎県内で鉄道駅が開設されたのは1912年のことなので、真幸駅は「宮崎県で最初の鉄道駅」ということになる…
↓駅舎は、そんな「県内初の鉄道駅」として登場した当時の面影を伝えるものだ…
↓発着列車の案内は…“利便”よりも“雰囲気”を重視した感じのモノが掲示されていた…
↑駅周辺は「林の中」のような様相で、平均乗降客は「数名」という次元らしい…「1日5往復」の発着で、2往復は<いさぶろう/しんぺい>だ…
真幸駅は、険しい山に敷かれた線路の途中で、スイッチバック運転を行う場所になる。そのため、嘗てこの辺りを走っていた急行や特急も、乗降扱いの無い場合も含めて必ず停車した駅だという…
↓真幸駅のホームには「幸せの鐘」というものも設置されている…
この真幸駅…周囲に集落という程のものも無い、正しく“産業遺産”そのものである…一度は通り過ぎている場所を再訪した型だが、強い印象が残った…
↓赤い車輌が、こういう場所に在ると、何か凄く画になる!!
<しんぺい>は、沿線の各駅で少し停車時間を設けて、駅の様子等を眺めることも出来るようになっている。こういうのが、なかなかに嬉しい!!
真幸駅は、肥薩線の中では唯一「宮崎県内」になる駅である。1911年に開設されたそうだが、現在の吉都線が開通して宮崎県内で鉄道駅が開設されたのは1912年のことなので、真幸駅は「宮崎県で最初の鉄道駅」ということになる…
↓駅舎は、そんな「県内初の鉄道駅」として登場した当時の面影を伝えるものだ…
↓発着列車の案内は…“利便”よりも“雰囲気”を重視した感じのモノが掲示されていた…
↑駅周辺は「林の中」のような様相で、平均乗降客は「数名」という次元らしい…「1日5往復」の発着で、2往復は<いさぶろう/しんぺい>だ…
真幸駅は、険しい山に敷かれた線路の途中で、スイッチバック運転を行う場所になる。そのため、嘗てこの辺りを走っていた急行や特急も、乗降扱いの無い場合も含めて必ず停車した駅だという…
↓真幸駅のホームには「幸せの鐘」というものも設置されている…
この真幸駅…周囲に集落という程のものも無い、正しく“産業遺産”そのものである…一度は通り過ぎている場所を再訪した型だが、強い印象が残った…
長崎の路面電車:長崎駅前停留所の305(2014.12.20)
初めて長崎を訪ねた時は、長崎駅の正面入口から反対側に在るバスターミナルに、すっかりと暗くなってから到着した。「とりあえず長崎駅へ…」と思うと、何やら大きな歩道橋を渡るようになっていた。ゆっくりと歩道橋を上ると、歩道橋の下でライトが歩道橋側に近付いて来て、何か音が聞こえる。路面電車だった…
長崎駅前の歩道橋が、路面電車の軌道の上になっていて、“跨線橋”のような様相になっている。歩道橋から電車の停留所へ下りて、電車に乗るような按配だ…
“初めて”の時にそういうことが在って、「長崎=到着すると路面電車が迎えてくれる場所」というような感じ方をしている。そして“初めて”はバスで着いたが…以降は列車で長崎駅に着いている…駅に着いたにしても、歩道橋が“跨線橋”のような様相を呈している長崎駅前停留所の辺りで、現れる路面電車を視る、というのが「長崎に着いて最初のアクション」である…
今般…「とりあえず、何処へ向かおうか…」と鹿児島から佐賀まで北上―<はやとの風>や<しんぺい>に乗車した愉しい移動だった!!―し、色々と考えてから長崎に寄ることにした。結局…「長崎=到着すると路面電車が迎えてくれる場所」というのが妙に気に入っているということで…「折角、九州に上陸した以上、長崎を一寸視なければ…」という感覚が在るのであろう…
小雨模様…或いは、「少しだけ強い?」という具合の雨だったが、特段に街の交通や人の往来に支障が在るでもない中、「とりあえず路面電車で移動して、ランチでも…」と思い付き、“1日券”を入手した。
↓「長崎の路面電車」とでも聞けば思い浮かべるような雰囲気の車輛が、長崎駅前停留所に登場した…
↑傘を手にした少年が運転士さんの居る側に駆け寄り、「乗せてよ!」とアピールしたが、扉を閉めて少し動き始めたところだったので、「次の電車に…」という意味で運転士さんが首を振っているという場面が見受けられた…何か「日常に路面電車が深く根差した街」という感じもした場面だった…「次の電車」だが…然程待たずともやって来る…
長崎では「永年に亘って活躍」という車輛が大切に使用されている感じだ。停留所で見掛けた“305”…この300番台の車輛は、1950年に登場した200型と殆ど同一のモノで、1953年に“301”から“310”の10輛が製造された中の1輛ということになる。既に60年を超える期間、長崎の街で活躍していることになる…
300型については、実質的に同型の200型と合わせると計26輛が製造され、これまでに2輛が退いているということで、現在でも24輛が活躍中ということになる…ということは…見掛ける頻度も高くなる筈で、「“長崎の路面電車”とでも聞けば思い浮かべるような」という感じ方も、誇張ということでもない…更に思うのだが…1950年代辺りには、戦災から街が立ち直り、輸送需要も増えていて、長崎電気軌道でも「新車製造」に力を注いでいたのであろう…
↓“305”が向かうのと反対側へ進む電車に乗車しようと歩道橋から停留所に下りていたが…この辺りは信号が多く、頻繁に変わるので、“305”は今一度、信号で停車していた…
↑これまでに「写真に撮っていない角度!」と妙に喜んでこの様子を眺めた…
今般は、長崎での時間がやや短く、然程多くの路面電車の画は撮っていないのだが…この“305”のようなモノに出くわすと…「“長崎の路面電車”を視た」という、高い満足感が得られるような気がする…
長崎駅前の歩道橋が、路面電車の軌道の上になっていて、“跨線橋”のような様相になっている。歩道橋から電車の停留所へ下りて、電車に乗るような按配だ…
“初めて”の時にそういうことが在って、「長崎=到着すると路面電車が迎えてくれる場所」というような感じ方をしている。そして“初めて”はバスで着いたが…以降は列車で長崎駅に着いている…駅に着いたにしても、歩道橋が“跨線橋”のような様相を呈している長崎駅前停留所の辺りで、現れる路面電車を視る、というのが「長崎に着いて最初のアクション」である…
今般…「とりあえず、何処へ向かおうか…」と鹿児島から佐賀まで北上―<はやとの風>や<しんぺい>に乗車した愉しい移動だった!!―し、色々と考えてから長崎に寄ることにした。結局…「長崎=到着すると路面電車が迎えてくれる場所」というのが妙に気に入っているということで…「折角、九州に上陸した以上、長崎を一寸視なければ…」という感覚が在るのであろう…
小雨模様…或いは、「少しだけ強い?」という具合の雨だったが、特段に街の交通や人の往来に支障が在るでもない中、「とりあえず路面電車で移動して、ランチでも…」と思い付き、“1日券”を入手した。
↓「長崎の路面電車」とでも聞けば思い浮かべるような雰囲気の車輛が、長崎駅前停留所に登場した…
↑傘を手にした少年が運転士さんの居る側に駆け寄り、「乗せてよ!」とアピールしたが、扉を閉めて少し動き始めたところだったので、「次の電車に…」という意味で運転士さんが首を振っているという場面が見受けられた…何か「日常に路面電車が深く根差した街」という感じもした場面だった…「次の電車」だが…然程待たずともやって来る…
長崎では「永年に亘って活躍」という車輛が大切に使用されている感じだ。停留所で見掛けた“305”…この300番台の車輛は、1950年に登場した200型と殆ど同一のモノで、1953年に“301”から“310”の10輛が製造された中の1輛ということになる。既に60年を超える期間、長崎の街で活躍していることになる…
300型については、実質的に同型の200型と合わせると計26輛が製造され、これまでに2輛が退いているということで、現在でも24輛が活躍中ということになる…ということは…見掛ける頻度も高くなる筈で、「“長崎の路面電車”とでも聞けば思い浮かべるような」という感じ方も、誇張ということでもない…更に思うのだが…1950年代辺りには、戦災から街が立ち直り、輸送需要も増えていて、長崎電気軌道でも「新車製造」に力を注いでいたのであろう…
↓“305”が向かうのと反対側へ進む電車に乗車しようと歩道橋から停留所に下りていたが…この辺りは信号が多く、頻繁に変わるので、“305”は今一度、信号で停車していた…
↑これまでに「写真に撮っていない角度!」と妙に喜んでこの様子を眺めた…
今般は、長崎での時間がやや短く、然程多くの路面電車の画は撮っていないのだが…この“305”のようなモノに出くわすと…「“長崎の路面電車”を視た」という、高い満足感が得られるような気がする…
鹿児島の路面電車:黄昏の鹿児島駅前停留所に並んだ9501、1014、507(2014.12.18)
「路面電車好き」としては、鹿児島駅前停留所に一寸立寄り、近くのコンビニで飲み物―珈琲、ミネラルウォーター…場合によって<さくらじま>や<黒白波>のペット容器―を求めて、「電車を眺めながら一息…」というのが好い…
鹿児島の2つの運行系統の路面電車は、何れもこの鹿児島駅前停留所到着後に折り返すようになっている。故に、この場所には結構な頻度で「電車が通ります」の警告が鳴って電車が忙しく発着する様子が見られる…
早朝にはやや雲が多い感じで、次第に天候が好転したこの日…黄昏の時間帯には「夕暮れの紫」というような空が麗しかった…
↓画面左の1番ホームから、右の3番ホームにまで、3輌の電車が並ぶ…
↑各々、次の発射の際の行先表示を掲げて待機している。
鹿児島駅前停留所からであれば…“1系統”は高見馬場停留所で左折し、交通局前辺りを経て、郡元から更に谷山へ向かう。“2系統”は真っ直ぐ鹿児島中央駅前停留所に進み、そこから郡元に至る。原則的に“1系統”は青い方向幕、“2系統”は赤い方向幕なのだが…「電光掲示方式」の新しい車輌は、文字をよく見なければならない…
左の1番ホームに停車中の9501…全国各地で見受けられるような、この20年程に登場しているようなタイプだ。右の3番ホームに停車中の507は…「半世紀を超えて活躍中」というタイプである。真ん中の1014は、所謂“超低床”のモノで、2000年頃から活躍する、この種のモノの“国産”としては最初の頃のモノとなる型だ…
こういう具合に、「20年程の車輌」、「半世紀超えの車輌」、「21世紀の車輌」が各々に活躍しているというのが面白い…
因みに「21世紀の車輌」ということになる1000型…なかなかの“優れもの”だ。この時、近くに車椅子を利用している方が在った。誰かが介助しているでもなく、1人で動いていた。何やら電車を待っているように見えたその方…向かう先を通ると見受けられる1000型の姿を見掛けると、車椅子ですうっと電車に近寄って、特段に誰かの介助も受けずにすうっと乗車していた。「電車に乗る」というよりも「エレベータに入る」という具合だ…
「市内の交通手段」として路面電車が一定の大きな存在感を持っているように見受けられる鹿児島だが、写真の1014の同型等、所謂“超低床”の配置に努めている…それが「誰でも利用し易い」モノであることを実感する場面に出くわしたということになる…
それにしても…様々な世代の車輌が「夕暮れの紫」な空の下で並ぶ様は美しい…
鹿児島の2つの運行系統の路面電車は、何れもこの鹿児島駅前停留所到着後に折り返すようになっている。故に、この場所には結構な頻度で「電車が通ります」の警告が鳴って電車が忙しく発着する様子が見られる…
早朝にはやや雲が多い感じで、次第に天候が好転したこの日…黄昏の時間帯には「夕暮れの紫」というような空が麗しかった…
↓画面左の1番ホームから、右の3番ホームにまで、3輌の電車が並ぶ…
↑各々、次の発射の際の行先表示を掲げて待機している。
鹿児島駅前停留所からであれば…“1系統”は高見馬場停留所で左折し、交通局前辺りを経て、郡元から更に谷山へ向かう。“2系統”は真っ直ぐ鹿児島中央駅前停留所に進み、そこから郡元に至る。原則的に“1系統”は青い方向幕、“2系統”は赤い方向幕なのだが…「電光掲示方式」の新しい車輌は、文字をよく見なければならない…
左の1番ホームに停車中の9501…全国各地で見受けられるような、この20年程に登場しているようなタイプだ。右の3番ホームに停車中の507は…「半世紀を超えて活躍中」というタイプである。真ん中の1014は、所謂“超低床”のモノで、2000年頃から活躍する、この種のモノの“国産”としては最初の頃のモノとなる型だ…
こういう具合に、「20年程の車輌」、「半世紀超えの車輌」、「21世紀の車輌」が各々に活躍しているというのが面白い…
因みに「21世紀の車輌」ということになる1000型…なかなかの“優れもの”だ。この時、近くに車椅子を利用している方が在った。誰かが介助しているでもなく、1人で動いていた。何やら電車を待っているように見えたその方…向かう先を通ると見受けられる1000型の姿を見掛けると、車椅子ですうっと電車に近寄って、特段に誰かの介助も受けずにすうっと乗車していた。「電車に乗る」というよりも「エレベータに入る」という具合だ…
「市内の交通手段」として路面電車が一定の大きな存在感を持っているように見受けられる鹿児島だが、写真の1014の同型等、所謂“超低床”の配置に努めている…それが「誰でも利用し易い」モノであることを実感する場面に出くわしたということになる…
それにしても…様々な世代の車輌が「夕暮れの紫」な空の下で並ぶ様は美しい…
鹿児島の路面電車:鹿児島中央駅前停留所周辺の9515(2014.12.18)
「鹿児島に着く」と言えば…空港からのバスにせよ、県内外他地域からのバスにせよ、新幹線にせよ、在来線の列車にせよ「鹿児島中央駅に到着」というイメージが強いかもしれない…その鹿児島中央駅に着いた後の移動では、路面電車は使い易い…交通量が多めな駅周辺の道路を横断することなく、駅前広場に2本の軌道と乗降場が寄り添っているので、駅の出口から真っ直ぐ停留所に向かうと乗車可能だ…
その鹿児島中央駅前停留所…路面電車を眺めるのも、乗車することも好きな私にとって「鹿児島のお気に入り」となっている…
↓その鹿児島中央駅前停留所辺りで見られる光景だ…
この時は…<屋台村>での夕食を愉しむ前に、申し込んであった翌日の列車の券―<はやとの風>、<しんぺい>、<九州横断特急>を乗り継ぐプラン…―を引き取ろうと鹿児島中央駅に向かったのだったが…その際に思わずカメラを向けた…美しい!!
鹿児島の路面電車は、火山灰性の材料で造ったパネルを軌道に貼り付けて芝生を植えている…「緑の絨毯のような軌道を、新旧様々な車輌が行き交う」という、なかなか美しい光景が見られるのだが…この時の光加減は、何か「芝生の絨毯の上に、赤い電車が浮かんでいる」かのようだ…奥の商業施設の壁面に<さつま白波>の広告看板というのも、また好い!!
丁度「入換え時期」だったようだが…本来、この鹿児島中央駅前停留所辺りの軌道脇は美しい花壇で彩られている…
その鹿児島中央駅前停留所…路面電車を眺めるのも、乗車することも好きな私にとって「鹿児島のお気に入り」となっている…
↓その鹿児島中央駅前停留所辺りで見られる光景だ…
この時は…<屋台村>での夕食を愉しむ前に、申し込んであった翌日の列車の券―<はやとの風>、<しんぺい>、<九州横断特急>を乗り継ぐプラン…―を引き取ろうと鹿児島中央駅に向かったのだったが…その際に思わずカメラを向けた…美しい!!
鹿児島の路面電車は、火山灰性の材料で造ったパネルを軌道に貼り付けて芝生を植えている…「緑の絨毯のような軌道を、新旧様々な車輌が行き交う」という、なかなか美しい光景が見られるのだが…この時の光加減は、何か「芝生の絨毯の上に、赤い電車が浮かんでいる」かのようだ…奥の商業施設の壁面に<さつま白波>の広告看板というのも、また好い!!
丁度「入換え時期」だったようだが…本来、この鹿児島中央駅前停留所辺りの軌道脇は美しい花壇で彩られている…
門司:電気機関車 EF30 1(2014.12.15)
関門橋の眺望を愉しみ、暗い夜道で高台から海岸に下りた時…広場風になった和布刈公園の一部が眼に留まった…
↓近付いてみれば、こんなモノが現れた…
↑関門トンネルで活躍していた古い電気機関車だ…照明の具合のために、何か「トンネルの中」で出くわしたような気分になった…
EF30という機関車…1960年に登場したそうだ…下関側からトンネルまでは直流電化で、九州側は1961年から交流電化となった。下関・門司間で活動する機関車として、交直両用である車輌…更にトンネルの勾配でも貨物列車が牽引可能なパワーを持つ車輌が求められ、このEF30が登場した。合計22輌が製造されているという。
海水の湿気で金属部が錆びる危惧が在る関門トンネルを活動フィールドとする機関車だけに、ステンレス版の車体となっているEF30である…
この和布刈公園の“1号機”は、僚機に先駆けて製造された“先行試作”の機関車らしい…この“1号機”は1978年に引退していて、他のEF30も1987年までに全て引退している…
和布刈公園の“1号機”は、登場した1960年代に使用していたような客車と共に、活躍していた海峡を眺めながら、静かに地元の歴史を伝え続けていた…
↓近付いてみれば、こんなモノが現れた…
↑関門トンネルで活躍していた古い電気機関車だ…照明の具合のために、何か「トンネルの中」で出くわしたような気分になった…
EF30という機関車…1960年に登場したそうだ…下関側からトンネルまでは直流電化で、九州側は1961年から交流電化となった。下関・門司間で活動する機関車として、交直両用である車輌…更にトンネルの勾配でも貨物列車が牽引可能なパワーを持つ車輌が求められ、このEF30が登場した。合計22輌が製造されているという。
海水の湿気で金属部が錆びる危惧が在る関門トンネルを活動フィールドとする機関車だけに、ステンレス版の車体となっているEF30である…
この和布刈公園の“1号機”は、僚機に先駆けて製造された“先行試作”の機関車らしい…この“1号機”は1978年に引退していて、他のEF30も1987年までに全て引退している…
和布刈公園の“1号機”は、登場した1960年代に使用していたような客車と共に、活躍していた海峡を眺めながら、静かに地元の歴史を伝え続けていた…
長崎駅:787系電車(2014.12.20)
「九州の旅」等と聞けば…「美しいデザインの車輌で運行される列車に乗って…」というようなことを思い浮かべる…
そうした“評判”が高まった契機となったのは…水戸岡デザイナーの声望を高めることにもなった、特急列車用の787系電車であろう。
787系電車は、登場当初は北九州から鹿児島までを縦断する特急<つばめ>に投入され、やがて九州新幹線部分開業後は博多・新八代を連絡する<リレーつばめ>として運用され、九州新幹線前線開業後には各地の特急列車として運用されている…
「各地の特急列車として運用」なので、「そのうち乗車機会も?」と思っていたが、なかなか出くわさなかった…今般!佐賀・長崎の移動でこれに乗車出来た!!
↓乗車して、指定席に掛ける…渋い椅子だ…
↓JR九州の車内販売をやっている列車で見掛けるコーヒー…これを一寸楽しみにしている…
↑「九州7県を結ぶ各列車」というイメージなのだろうが、「7羽のツバメ」のマークのカップが好い…(自宅やオフィスで使うようなマグカップで、このマークが入ったモノでも在れば…「入手!!」したいところだ…)
↓目的の長崎駅に到着…
↓“行き止まり式”な長崎駅は、列車の写真が撮り易い…
↓小雨模様だった長崎駅であったが…このメタリックグレーの車輌…雨も似合う…
少々短めな滞在とはなっても…「何となく気に入っているから、寄ってみたい…」と足を伸ばした長崎へ、「気になっていた…」車輌の列車で向かったというのは、何か凄く嬉しかった…
そうした“評判”が高まった契機となったのは…水戸岡デザイナーの声望を高めることにもなった、特急列車用の787系電車であろう。
787系電車は、登場当初は北九州から鹿児島までを縦断する特急<つばめ>に投入され、やがて九州新幹線部分開業後は博多・新八代を連絡する<リレーつばめ>として運用され、九州新幹線前線開業後には各地の特急列車として運用されている…
「各地の特急列車として運用」なので、「そのうち乗車機会も?」と思っていたが、なかなか出くわさなかった…今般!佐賀・長崎の移動でこれに乗車出来た!!
↓乗車して、指定席に掛ける…渋い椅子だ…
↓JR九州の車内販売をやっている列車で見掛けるコーヒー…これを一寸楽しみにしている…
↑「九州7県を結ぶ各列車」というイメージなのだろうが、「7羽のツバメ」のマークのカップが好い…(自宅やオフィスで使うようなマグカップで、このマークが入ったモノでも在れば…「入手!!」したいところだ…)
↓目的の長崎駅に到着…
↓“行き止まり式”な長崎駅は、列車の写真が撮り易い…
↓小雨模様だった長崎駅であったが…このメタリックグレーの車輌…雨も似合う…
少々短めな滞在とはなっても…「何となく気に入っているから、寄ってみたい…」と足を伸ばした長崎へ、「気になっていた…」車輌の列車で向かったというのは、何か凄く嬉しかった…
長崎:眼鏡橋(2014.12.20)
佐賀から長崎へ移動し、“移動手段”を確保すべく路面電車の“1日券”を入手して動き始めた。昼食を愉しんでいた間に天候が好転した…
↓辿り着いたのは眼鏡橋である…
“眼鏡橋”…石造アーチ型橋梁の一般名詞でもあるが、この長崎の古い橋を即座に思い出す名でもある…
1634(寛永11)年に初登場し、1648(慶安元)年に破損して修復され、以降長く修復されながら使用されている。1982(昭和57)年の水害では深刻な被害は受けたものの、流失は免れているという…
↓雨が多少続いた後なのか、川の水量が多い感じがした…
↓中学生か高校生と見受けられるグループが、何やら写真でも撮ろうと川の方に下りている様子が見えた…
眼鏡橋辺りは、老若男女がそれぞれに愉しんでいるという風情が好い…更に“日本語以外”の話し声が聞こえている場合も少なくない…
何か非常に「長崎らしい」或いは「“長崎”と聞けば思い出す」ような感じの場所だ…
↓辿り着いたのは眼鏡橋である…
“眼鏡橋”…石造アーチ型橋梁の一般名詞でもあるが、この長崎の古い橋を即座に思い出す名でもある…
1634(寛永11)年に初登場し、1648(慶安元)年に破損して修復され、以降長く修復されながら使用されている。1982(昭和57)年の水害では深刻な被害は受けたものの、流失は免れているという…
↓雨が多少続いた後なのか、川の水量が多い感じがした…
↓中学生か高校生と見受けられるグループが、何やら写真でも撮ろうと川の方に下りている様子が見えた…
眼鏡橋辺りは、老若男女がそれぞれに愉しんでいるという風情が好い…更に“日本語以外”の話し声が聞こえている場合も少なくない…
何か非常に「長崎らしい」或いは「“長崎”と聞けば思い出す」ような感じの場所だ…
門司:100型電車(2014.12.15)
夜の門司港駅に到着し、辺りを歩き始めた…
↓路面電車が現れて、一寸驚いて足を停めた…
この電車…100型という、西鉄が運用していた車輌だそうだ…1940年に初登場し、1962年に現在の姿に改造されているのだという。1971年には自動ドア化されている。1985年に“西鉄北九州線”の一部廃止を受けて、この100型は引退したそうだ…
↓何か、妙に味わいが在る…
↑或いは、こういう夜に出くわしたことで、「より強い印象」を与えてくれたのかもしれない…
“西鉄北九州線”はなかなかに隆盛を誇った鉄路であったということだが、1970年代以降はやや退潮し、代替道路の開設や、国鉄の列車が充実したこと等を踏まえて順次路線の廃止が進んだという経過のようだ…
100型電車…これは概ね「往時の姿」の塗装になっていると見受けられるが、この門司港の現在の場所では、2010年から展示されているそうだ…
↓路面電車が現れて、一寸驚いて足を停めた…
この電車…100型という、西鉄が運用していた車輌だそうだ…1940年に初登場し、1962年に現在の姿に改造されているのだという。1971年には自動ドア化されている。1985年に“西鉄北九州線”の一部廃止を受けて、この100型は引退したそうだ…
↓何か、妙に味わいが在る…
↑或いは、こういう夜に出くわしたことで、「より強い印象」を与えてくれたのかもしれない…
“西鉄北九州線”はなかなかに隆盛を誇った鉄路であったということだが、1970年代以降はやや退潮し、代替道路の開設や、国鉄の列車が充実したこと等を踏まえて順次路線の廃止が進んだという経過のようだ…
100型電車…これは概ね「往時の姿」の塗装になっていると見受けられるが、この門司港の現在の場所では、2010年から展示されているそうだ…
鹿児島・仙巌園:島津義弘公着用甲冑(複製)(2014.12.18)
↓鹿児島中央駅前からこんなバスに乗る…これは鹿児島市営交通の“1日券”で利用可能なバスだ…
↑市内の主な名所を楽に回ることが出来るこのバス…私にとっては「鹿児島のお気に入り」でもある…
何気なくバスに乗り、城山で眺めた「桜島が冠雪している様」が素晴らしく、「今日はこの絶景を愛でて、夕方は屋台村でゆっくりしよう…」というように考えた…
城山で言葉を交わした売店を営んでいる方によれば、「12月に冠雪するのはやや珍しい」ということでもあり、「であれば…“桜島が浮かぶ風景を愛でる”という島津侯の想いで築かれたという<仙巌園>辺りを訪ねるのが善さそうだ…」と考え、城山で再びバスに乗車した…
島津家の別邸でもあった仙巌園…錦江湾を池に、桜島を築山に見立てた、庭園と建築群…加えて<尚古集成館>という資料館も在る。直ぐ傍の海岸も、なかなかに風景が好い…
そこをバスで訪ねると…
↓入口でこういう厳しいモノが来場者を迎えてくれる…
↑入場券を求めて入る辺りに鎮座している…
↓少し引くと、こういう感じだ…
↑島津義弘公が着用したという甲冑の複製である…(戸外に置いて在るので、“本物”とは考え悪いが…“本物”なら、資料館のような場所の屋内で厳重に管理する筈だ…)
島津義弘(1535-1619)?戦国時代末期、弟達(歳久、家久)と共に兄の義久を助けて活躍した武将である。色々な挿話が伝わる人物だ…
後年、兄の義久に後継者が無かったことから、息子の忠恒を兄の養子とした。忠恒は徳川幕府体制下での“薩摩藩”を興したことになるが、彼は同名の叔父が在るにも拘らず、「徳川家康の偏諱を賜る」ということで家久を名乗るようになっている。
こういう具合に「“薩摩藩”を興した家久」の実父であることから、島津義弘の事跡等は当主だった島津義久の事跡以上に喧伝されている面も在るのかもしれない…
島津義弘の即席だが、現在の鹿児島県内に留まらず、“真幸院”と呼ばれていた現在の宮崎県えびの市辺りにも残っている。勢力拡大を図っていた彼の時代、島津義弘はその先頭に立っていた感が在る…また、“対豊臣政権”の問題で、色々と苦労をした人物でもあり…更に…関ヶ原合戦の挿話も有名だ…
そういう色々な事情で…「昔の島津家の武将」とでも言えば、真っ先に名が挙がるような存在感を持つのが、島津義弘だ…
↓この甲冑とは…2回目の対面となった…
今回は好天に恵まれ―「好天!!」と視て訪ねるような場所かもしれないが…―た中で仙巌園を訪ね、何か鮮烈な印象が残った…
↑市内の主な名所を楽に回ることが出来るこのバス…私にとっては「鹿児島のお気に入り」でもある…
何気なくバスに乗り、城山で眺めた「桜島が冠雪している様」が素晴らしく、「今日はこの絶景を愛でて、夕方は屋台村でゆっくりしよう…」というように考えた…
城山で言葉を交わした売店を営んでいる方によれば、「12月に冠雪するのはやや珍しい」ということでもあり、「であれば…“桜島が浮かぶ風景を愛でる”という島津侯の想いで築かれたという<仙巌園>辺りを訪ねるのが善さそうだ…」と考え、城山で再びバスに乗車した…
島津家の別邸でもあった仙巌園…錦江湾を池に、桜島を築山に見立てた、庭園と建築群…加えて<尚古集成館>という資料館も在る。直ぐ傍の海岸も、なかなかに風景が好い…
そこをバスで訪ねると…
↓入口でこういう厳しいモノが来場者を迎えてくれる…
↑入場券を求めて入る辺りに鎮座している…
↓少し引くと、こういう感じだ…
↑島津義弘公が着用したという甲冑の複製である…(戸外に置いて在るので、“本物”とは考え悪いが…“本物”なら、資料館のような場所の屋内で厳重に管理する筈だ…)
島津義弘(1535-1619)?戦国時代末期、弟達(歳久、家久)と共に兄の義久を助けて活躍した武将である。色々な挿話が伝わる人物だ…
後年、兄の義久に後継者が無かったことから、息子の忠恒を兄の養子とした。忠恒は徳川幕府体制下での“薩摩藩”を興したことになるが、彼は同名の叔父が在るにも拘らず、「徳川家康の偏諱を賜る」ということで家久を名乗るようになっている。
こういう具合に「“薩摩藩”を興した家久」の実父であることから、島津義弘の事跡等は当主だった島津義久の事跡以上に喧伝されている面も在るのかもしれない…
島津義弘の即席だが、現在の鹿児島県内に留まらず、“真幸院”と呼ばれていた現在の宮崎県えびの市辺りにも残っている。勢力拡大を図っていた彼の時代、島津義弘はその先頭に立っていた感が在る…また、“対豊臣政権”の問題で、色々と苦労をした人物でもあり…更に…関ヶ原合戦の挿話も有名だ…
そういう色々な事情で…「昔の島津家の武将」とでも言えば、真っ先に名が挙がるような存在感を持つのが、島津義弘だ…
↓この甲冑とは…2回目の対面となった…
今回は好天に恵まれ―「好天!!」と視て訪ねるような場所かもしれないが…―た中で仙巌園を訪ね、何か鮮烈な印象が残った…
小倉駅:“メーテル”(2014.12.15)
前年同時期に「旅行初日のフライトが雪で欠航」という経験をしたので…「初日に着く予定の場所辺りで、宿の予約やら何やらをしても、無駄骨の場合も…」と思いながら進んだが、今般は順調に福岡空港に着き、地下鉄で博多駅に着いてJRのホームに出てみれば、直ぐに小倉方面へ向かう普通列車に乗ることが出来た…車中でノートパソコンを広げ、小倉駅近くに宿を取った…
小倉駅に着くと…
↓これに会いたい!!
↑“新幹線口”に在る…北九州市は『銀河鉄道999』の松本零士の出身地であるので、こんなモノが設けられている…
何か「メーテル!小倉の駅に着いたね!」という、“漫画やテレビシリーズのアニメそのまま”な姿で脇に佇む鉄郎の声が聞こえてきそうだ…
↓メーテルの方は、「こういう背格好の女性…居るかもしれないな…」という感じに纏まっている。顔は“漫画やテレビシリーズのアニメそのまま”な感じだが…
↑或いは…ロシアや北欧の女性で「こういう感じ」な方が在るかもしれない…
大きな駅の周辺にオブジェを据えるという例は色々と在ると思うが…作中世界で“宇宙船”を“列車”と呼んでいて、着陸する様々な天体を“駅”と呼んでいる『銀河鉄道999』の劇中人物のオブジェ…秀逸である!!
小倉駅に着くと…
↓これに会いたい!!
↑“新幹線口”に在る…北九州市は『銀河鉄道999』の松本零士の出身地であるので、こんなモノが設けられている…
何か「メーテル!小倉の駅に着いたね!」という、“漫画やテレビシリーズのアニメそのまま”な姿で脇に佇む鉄郎の声が聞こえてきそうだ…
↓メーテルの方は、「こういう背格好の女性…居るかもしれないな…」という感じに纏まっている。顔は“漫画やテレビシリーズのアニメそのまま”な感じだが…
↑或いは…ロシアや北欧の女性で「こういう感じ」な方が在るかもしれない…
大きな駅の周辺にオブジェを据えるという例は色々と在ると思うが…作中世界で“宇宙船”を“列車”と呼んでいて、着陸する様々な天体を“駅”と呼んでいる『銀河鉄道999』の劇中人物のオブジェ…秀逸である!!
関門人道(2014.12.15)
門司港駅から歩いて、暗い夜道に多少の苦戦もしながら、和布刈(めかり)という高台に上がって関門橋の眺望を愉しんだ…暗がりに、デジカメを手に単独行…正しく「寒い国から来た男」(=不審なスパイ?)というようにも思えて、何やら妙に可笑しかった…
高台から下りながら歩いていて「往路はこんな場所を通ったか?」というエリアに入り込んでしまい…
↓暫く進めばこんなものに出くわした…
何やらエレベーターが付いている…公衆トイレも在るが「単なるトイレ」とは明らかに異なる…
↓エレベーターで地下に…
↑「歩行可能な海底トンネル」が関門海峡に設けられている!!
↓「この先は長州じゃ!!討ち込め!!」とばかりに、トンネル内を進んでみた…
以前、札幌都心部に在る商業施設の、荷物の搬入等を行う地下部分にお邪魔したことが在った。何かここは、そうした「大きな施設の地下」という雰囲気だった…緩やかな下り、やがて緩やかな上りで門司・下関を結んでいる通路だ…
何やら車輌が通行しているトンネルから発していると思しき不思議な音も聞こえている。少し驚くのは、門司や下関に住む人達と見受けられる、トレーニングウェアー姿の皆さんが多く見受けられたことだ。延長800m弱のトンネル…ジョギングやウォーキングに好適と受け止められているようだ…
↓トンネルの中間点辺りであろう…「海の底の徒歩で渡ることが出来る県境」というモノである…
↓「県境」を踏み越えて振り返ってみた…
関門海峡は“源平合戦”の古戦場でもある。源義経ら源氏の将兵と、平家陣営が船を繰り出して戦った場所だ…
2014年には俳優・菅原文太の訃報を耳にして、随分熱心に観ていた記憶の在る『武蔵坊弁慶』というテレビドラマを思い出していたところだった。源頼朝役だった菅原文太は関門海峡の戦いの場面には居なかったが…
その場面では、平家陣営随一の勇将、平知盛が洋上で主人公の弁慶が乗る船と対峙し、勝敗が決したことから降伏を促そうとする弁慶に対して「武蔵坊弁慶!!さらばじゃ!!」と知盛は錨を抱えて入水自殺してしまう…好敵手の悲壮な最期に弁慶は「知盛よ!!」と絶叫する…
こういう「男達の戦い」の脇で、平家の衰亡で世を儚んだ陣営の関係者が続々と入水自殺してしまう悲しい場面が在る…平家の隆盛をもたらすことになった、未だ少年であった前帝に女官が言う。「海の底は浄土にござります。参りましょう…」とである…
関門海峡のトンネルの中、思い出していたのはそんな場面だった。「海の底は浄土にござります」ではなかった…「海の底は県境にござります」であった…
↓振り返ると…「この先が鎮西じゃ!!進め!!」という具合になる、反対側の入口だ…
↓下関側の出入口辺りにはバス停が在る…
↑ここからバスで下関駅に向かい、この日の宿を押さえた九州側の小倉に引き上げた…
「源平合戦の古戦場の海底を、歩いて渡っている」等と考えていたが…下関駅へ向かう途中に“壇ノ浦”という名前の停留所も在った…
“帰国”後、山口県や福岡県と縁が在る方と話した際、関門人道が面白かった旨を話題にしたところ、「行ったことが無い!?」と驚かれた…そんなものかもしれないが…この「海の底の徒歩で渡ることが出来る県境」…類例も思い当たらない、なかなかに興味深い場所だ…
高台から下りながら歩いていて「往路はこんな場所を通ったか?」というエリアに入り込んでしまい…
↓暫く進めばこんなものに出くわした…
何やらエレベーターが付いている…公衆トイレも在るが「単なるトイレ」とは明らかに異なる…
↓エレベーターで地下に…
↑「歩行可能な海底トンネル」が関門海峡に設けられている!!
↓「この先は長州じゃ!!討ち込め!!」とばかりに、トンネル内を進んでみた…
以前、札幌都心部に在る商業施設の、荷物の搬入等を行う地下部分にお邪魔したことが在った。何かここは、そうした「大きな施設の地下」という雰囲気だった…緩やかな下り、やがて緩やかな上りで門司・下関を結んでいる通路だ…
何やら車輌が通行しているトンネルから発していると思しき不思議な音も聞こえている。少し驚くのは、門司や下関に住む人達と見受けられる、トレーニングウェアー姿の皆さんが多く見受けられたことだ。延長800m弱のトンネル…ジョギングやウォーキングに好適と受け止められているようだ…
↓トンネルの中間点辺りであろう…「海の底の徒歩で渡ることが出来る県境」というモノである…
↓「県境」を踏み越えて振り返ってみた…
関門海峡は“源平合戦”の古戦場でもある。源義経ら源氏の将兵と、平家陣営が船を繰り出して戦った場所だ…
2014年には俳優・菅原文太の訃報を耳にして、随分熱心に観ていた記憶の在る『武蔵坊弁慶』というテレビドラマを思い出していたところだった。源頼朝役だった菅原文太は関門海峡の戦いの場面には居なかったが…
その場面では、平家陣営随一の勇将、平知盛が洋上で主人公の弁慶が乗る船と対峙し、勝敗が決したことから降伏を促そうとする弁慶に対して「武蔵坊弁慶!!さらばじゃ!!」と知盛は錨を抱えて入水自殺してしまう…好敵手の悲壮な最期に弁慶は「知盛よ!!」と絶叫する…
こういう「男達の戦い」の脇で、平家の衰亡で世を儚んだ陣営の関係者が続々と入水自殺してしまう悲しい場面が在る…平家の隆盛をもたらすことになった、未だ少年であった前帝に女官が言う。「海の底は浄土にござります。参りましょう…」とである…
関門海峡のトンネルの中、思い出していたのはそんな場面だった。「海の底は浄土にござります」ではなかった…「海の底は県境にござります」であった…
↓振り返ると…「この先が鎮西じゃ!!進め!!」という具合になる、反対側の入口だ…
↓下関側の出入口辺りにはバス停が在る…
↑ここからバスで下関駅に向かい、この日の宿を押さえた九州側の小倉に引き上げた…
「源平合戦の古戦場の海底を、歩いて渡っている」等と考えていたが…下関駅へ向かう途中に“壇ノ浦”という名前の停留所も在った…
“帰国”後、山口県や福岡県と縁が在る方と話した際、関門人道が面白かった旨を話題にしたところ、「行ったことが無い!?」と驚かれた…そんなものかもしれないが…この「海の底の徒歩で渡ることが出来る県境」…類例も思い当たらない、なかなかに興味深い場所だ…
博多駅周辺で視たJR九州広告 「決めなきゃ、ダメ?」(2014.12.2
福岡空港へ向かうべく、博多駅へ向かって歩いていた中、大きな広告看板に眼を留めた…
↓こういうモノと…
↓こういうモノだ…
九州域内で列車を利用して旅行…九州で最も人口が多いのは福岡圏であろうし、他地域から九州に着く場合も博多を起点に動く場合が多いであろうから、こうした広告は福岡圏を中心に展開しているのだと想像する…
それにしても「決めなきゃ、ダメ?」というのは、なかなかに秀逸なコピーのように思う…
「決めなきゃ、ダメ?」と言われれば…それは“単純疑問”のようにも思えるが、同時に「両方にしてしまっては拙いのか?!」という“反語”のようにも、「これは難問だ…」という“含意”が滲むようにも思える…
今般…大分県と鹿児島県とでは、私は鹿児島県で過ごした時間が長かったが…日豊本線の列車で、道草しながら縦断の大分県も好かった…
「決めなきゃ、ダメ?」…旅行先に関して、私は常々発している問いだ…
ところで…この広告看板のモデルを務めている女優がなかなかに好い…
↓こういうモノと…
↓こういうモノだ…
九州域内で列車を利用して旅行…九州で最も人口が多いのは福岡圏であろうし、他地域から九州に着く場合も博多を起点に動く場合が多いであろうから、こうした広告は福岡圏を中心に展開しているのだと想像する…
それにしても「決めなきゃ、ダメ?」というのは、なかなかに秀逸なコピーのように思う…
「決めなきゃ、ダメ?」と言われれば…それは“単純疑問”のようにも思えるが、同時に「両方にしてしまっては拙いのか?!」という“反語”のようにも、「これは難問だ…」という“含意”が滲むようにも思える…
今般…大分県と鹿児島県とでは、私は鹿児島県で過ごした時間が長かったが…日豊本線の列車で、道草しながら縦断の大分県も好かった…
「決めなきゃ、ダメ?」…旅行先に関して、私は常々発している問いだ…
ところで…この広告看板のモデルを務めている女優がなかなかに好い…
都城駅に停車中の<ななつ星in九州>(2014.12.17)
雪のえびのを発ち、列車は東側へ向かった。小林や高原(たかはる)というような、朝には積雪が見受けられた地域で、既に積雪は無く、空も晴れていた…宮崎県というのは、日南海岸の側、都城辺りのような少し内陸、えびののような山側と“三層”の気象状況なのかと思った。宮崎・都城・えびの間は鉄道の距離で102kmも在る…気象状況が多少異なっても、不自然でもない訳だが…
↓列車が都城駅に着いた。素晴らしい晴天!!ただ…時々吹き抜ける風がひどく冷たかった…
↑左手…少し不思議な列車が停車中だ…
↓停車中だったのはこれだ!!
↑2013年の登場以来話題の<ななつ星in九州>である!!
↓「機関車が長い編成の客車を牽引」という列車自体が「やや珍しい?」存在になっている昨今…こういう眺めはなかなかに壮観だ!
<ななつ星in九州>そのものは、昨年12月に長崎駅に停車中の様子を視た。あの時は辺りが暗く、「発車直前」という状況下、勇壮な出発を見送っただけだったが…今回は都城停車を半ば終え、隼人へ向けて出発する準備中で、素晴らしい好天の下だった。少しゆっくりと車輌を眺める暇が在った。なかなかに幸運だ!!
↓実に美しい機関車だ!!
↑電化されていない区間に入る場合も在り得るので、ディーゼル機関車が用いられている…
↓これは12月27日に旭川駅で視掛けた、JR貨物が運用しているディーゼル機関車だ…
↑<ななつ星in九州>の“専用機”は、この機関車を改装したモノである…
↓<ななつ星in九州>の“専用機”は、正しく「ピカピカ!」だ…
↑旭川で、更に札幌周辺でも視掛けるJR貨物が運用しているディーゼル機関車と「同じモノ??」という感じだ…
↓ピカピカの機関車が、ピカピカの客車を牽引している…
↓車内からは「通り過ぎた軌道」が見える展望窓だ…これはJR九州が手掛ける「展望の素晴らしさ」を謳う他列車にも在ったデザインのように思うが…こういうのは好さそうだ!!
↑恐らくこの辺りはラウンジ風な内装なのであろう…美味い珈琲のカップや、九州各地の銘酒のグラスを傾けながら、こんな場所に座って旅をしてみたいものだ…
↓ランチのために西都城駅へ移動しようとすれば、反対側から<ななつ星in九州>が見えた…
↑何らかのサービスの準備なのか、制服姿の凛々しいスタッフの皆さんが働いている様子が、窓から少々見え隠れしていた…
↓停車している場面に出くわして、「憧れの目線」を注ぐばかりの<ななつ星in九州>だ…
この列車…大変に話題になっているが…或いは「途轍もなく“九州”を“イメージアップ”した」と言えるのかもしれない…或いは「既に“投資分”位の“プライスレスな功績”を挙げている」という一面さえ在るかもしれない…
結局、日本国内で新幹線以外の“旧国鉄”の軌道であれば、<ななつ星in九州>は殆ど何処にでも乗入れは可能かもしれない。登場当初、「方々に乗入れて…」というようなコメントも耳にした記憶が在るが…私はそういうのは「野暮の骨頂」だと思う。「JR九州が誇る列車」は、「九州に視に行く」、「九州に乗りに行く」ものだと思う…
それにしても…<ななつ星in九州>は「視掛けるだけで、少し幸福な気分に…」という存在だ…
↓列車が都城駅に着いた。素晴らしい晴天!!ただ…時々吹き抜ける風がひどく冷たかった…
↑左手…少し不思議な列車が停車中だ…
↓停車中だったのはこれだ!!
↑2013年の登場以来話題の<ななつ星in九州>である!!
↓「機関車が長い編成の客車を牽引」という列車自体が「やや珍しい?」存在になっている昨今…こういう眺めはなかなかに壮観だ!
<ななつ星in九州>そのものは、昨年12月に長崎駅に停車中の様子を視た。あの時は辺りが暗く、「発車直前」という状況下、勇壮な出発を見送っただけだったが…今回は都城停車を半ば終え、隼人へ向けて出発する準備中で、素晴らしい好天の下だった。少しゆっくりと車輌を眺める暇が在った。なかなかに幸運だ!!
↓実に美しい機関車だ!!
↑電化されていない区間に入る場合も在り得るので、ディーゼル機関車が用いられている…
↓これは12月27日に旭川駅で視掛けた、JR貨物が運用しているディーゼル機関車だ…
↑<ななつ星in九州>の“専用機”は、この機関車を改装したモノである…
↓<ななつ星in九州>の“専用機”は、正しく「ピカピカ!」だ…
↑旭川で、更に札幌周辺でも視掛けるJR貨物が運用しているディーゼル機関車と「同じモノ??」という感じだ…
↓ピカピカの機関車が、ピカピカの客車を牽引している…
↓車内からは「通り過ぎた軌道」が見える展望窓だ…これはJR九州が手掛ける「展望の素晴らしさ」を謳う他列車にも在ったデザインのように思うが…こういうのは好さそうだ!!
↑恐らくこの辺りはラウンジ風な内装なのであろう…美味い珈琲のカップや、九州各地の銘酒のグラスを傾けながら、こんな場所に座って旅をしてみたいものだ…
↓ランチのために西都城駅へ移動しようとすれば、反対側から<ななつ星in九州>が見えた…
↑何らかのサービスの準備なのか、制服姿の凛々しいスタッフの皆さんが働いている様子が、窓から少々見え隠れしていた…
↓停車している場面に出くわして、「憧れの目線」を注ぐばかりの<ななつ星in九州>だ…
この列車…大変に話題になっているが…或いは「途轍もなく“九州”を“イメージアップ”した」と言えるのかもしれない…或いは「既に“投資分”位の“プライスレスな功績”を挙げている」という一面さえ在るかもしれない…
結局、日本国内で新幹線以外の“旧国鉄”の軌道であれば、<ななつ星in九州>は殆ど何処にでも乗入れは可能かもしれない。登場当初、「方々に乗入れて…」というようなコメントも耳にした記憶が在るが…私はそういうのは「野暮の骨頂」だと思う。「JR九州が誇る列車」は、「九州に視に行く」、「九州に乗りに行く」ものだと思う…
それにしても…<ななつ星in九州>は「視掛けるだけで、少し幸福な気分に…」という存在だ…
宮崎県えびの市の雪景色(2014.12.17)
「旅に出て写真を撮る」のか「写真を撮りに旅に出る」のかが判らないような按配で、旅から戻ると暫くは「写真の整理」で明け暮れる…実際にそういう行動を取っていなくても、頭の中が写真のことで一杯になってしまう…
今般、「12月の九州」に関しては「寒波を運んで来たか?!」と福岡在住の友人に冷やかされるような状況が在ったのだが、馴染んだ場所、過去に立寄った場所、未知の場所を問わず「寒波の故に現れた光景」とも出くわす経験をした…
“宮崎県”と聞けば…「温暖な地域」というイメージが強い。北海道では“厳冬期”の真っ只中で、“雪まつり”のような「雪と氷の祭典」ということをやっているような時季、彼の地では「プロ野球チームのキャンプ」が行われていたりする。北海道が「氷点下の気温で吹雪も在る」というような時季に、「外で走り回ったり、投げ込みや打撃練習や守備練習をすることが出来る」という訳である…北海道でも、野球をやっている人達が体力維持・強化を念頭に戸外を歩いたり、走ったり、高校のチームで見受けられるようだが、近所で除雪作業を手伝って身体を動かすという例は在る…しかし、氷点下気温や吹雪も在るような場所で、白球を手にした練習は困難なのだ…
そんな宮崎県の中を暗い早朝から動き回った…
↓宮崎駅から鹿児島方面へ向かう始発列車に乗って都城駅に着くと、吉都線の列車が待機している…
↑入れ替わりに通学の高校生が乗降する列車だ…全国で活躍する“40系ファミリー”のディーゼルカーで運行されている列車だ…
暗い車窓を見詰めていたが…何やら「雪?」というモノがチラチラとして、沿線に若干の積雪も見受けられた…
列車は都城から西方の山の中へ進む…明るくなるに連れて「雪景色の中を行く」感じになって来て驚いた…近くに乗車していた高校生が「雪…やばい…」と言っていた…ここで言う“やばい”は、最近の若者が用いる「“凄い”こと全般を形容」というのではなく「好ましくないと見受けられる状況の惹起」という“私の世代”にも判り易い意味合いであろう…「雪…やばい…外に出たくないな…」と言いながら、近くに居た高校生は下車して行った…
↓えびの駅に着いた…
↓“赤”の“JRマーク”は“九州”なのだが…何か「東北地方某所?」という趣も在る…
↑えびの駅は1912(大正元)年に“加久藤駅”として開業し、1990(平成2)年に現在の名称に改称したそうだ。大正時代の開業当時の雰囲気を伝える建物だ…
↓「えびのに寄ってみよう…」と思い付いたのは、この地で蒸留されているという<明月>が美味かったからに他ならない…
↑こうして看板を見付けると嬉しい!!
↓辺りを歩き始めたが…雪が降り頻る…
↓荒涼とした雰囲気だ…
↑正しく「田んぼの真ん中」のような場所で、「徒歩で動いているのは自身のみ…」というような状態で、何ら“目印”も無いような場所を歩き回っていた…
↓雪に覆われた田にカラスが…
↑寂寥感が募る光景だ…
凡そ「“宮崎県”と聞いて思い起こす」風景ではない…この時は、「来る21日に知事選」ということで、“宮崎県知事候補”のポスターが貼られた掲示板も見掛けたので、「間違いなく宮崎県内」な筈だが…
↓こんな様子を見ると、「間違いない!!宮崎県だ!!」と不思議な安堵感を覚える…
↑他方…雪が「似合わない!!」感じの木だ…
↓「更に凄い!」と思ったのはこれだ…
↑「柑橘類が木に実っている」という様子は「九州!!」という感じで、見掛けると嬉しいのだが…「柑橘類が実っている木に雪」というのは、「異様?!」に思えた…
↓一部、“ワンメーター”の区間はタクシーに乗せて頂いたが…結局、えびの駅からえびの飯野駅まで、降り頻る雪の中で2駅間を2時間も歩いた…
↑「どうしようもない私が歩いている」とは、えびの辺りに立寄った経過も在るという種田山頭火の句だと言うが…正しくその「どうしようもない私が歩いている」という気分だった…
↓列車の運行状況はこういう感じ…
↑「10時19分の都城行」を逃すと、更に2時間待ち…乗車することにした…
↓この列車で、雪が降り頻ったえびのを後にした…
↑私がホームに出た後、何人かの人が列車を利用すべく現れたが…近くに居た方は、歯をガタガタ鳴らして震えていた…
或いは「貴重な経験」をする結果となったえびの訪問である…
今般、「12月の九州」に関しては「寒波を運んで来たか?!」と福岡在住の友人に冷やかされるような状況が在ったのだが、馴染んだ場所、過去に立寄った場所、未知の場所を問わず「寒波の故に現れた光景」とも出くわす経験をした…
“宮崎県”と聞けば…「温暖な地域」というイメージが強い。北海道では“厳冬期”の真っ只中で、“雪まつり”のような「雪と氷の祭典」ということをやっているような時季、彼の地では「プロ野球チームのキャンプ」が行われていたりする。北海道が「氷点下の気温で吹雪も在る」というような時季に、「外で走り回ったり、投げ込みや打撃練習や守備練習をすることが出来る」という訳である…北海道でも、野球をやっている人達が体力維持・強化を念頭に戸外を歩いたり、走ったり、高校のチームで見受けられるようだが、近所で除雪作業を手伝って身体を動かすという例は在る…しかし、氷点下気温や吹雪も在るような場所で、白球を手にした練習は困難なのだ…
そんな宮崎県の中を暗い早朝から動き回った…
↓宮崎駅から鹿児島方面へ向かう始発列車に乗って都城駅に着くと、吉都線の列車が待機している…
↑入れ替わりに通学の高校生が乗降する列車だ…全国で活躍する“40系ファミリー”のディーゼルカーで運行されている列車だ…
暗い車窓を見詰めていたが…何やら「雪?」というモノがチラチラとして、沿線に若干の積雪も見受けられた…
列車は都城から西方の山の中へ進む…明るくなるに連れて「雪景色の中を行く」感じになって来て驚いた…近くに乗車していた高校生が「雪…やばい…」と言っていた…ここで言う“やばい”は、最近の若者が用いる「“凄い”こと全般を形容」というのではなく「好ましくないと見受けられる状況の惹起」という“私の世代”にも判り易い意味合いであろう…「雪…やばい…外に出たくないな…」と言いながら、近くに居た高校生は下車して行った…
↓えびの駅に着いた…
↓“赤”の“JRマーク”は“九州”なのだが…何か「東北地方某所?」という趣も在る…
↑えびの駅は1912(大正元)年に“加久藤駅”として開業し、1990(平成2)年に現在の名称に改称したそうだ。大正時代の開業当時の雰囲気を伝える建物だ…
↓「えびのに寄ってみよう…」と思い付いたのは、この地で蒸留されているという<明月>が美味かったからに他ならない…
↑こうして看板を見付けると嬉しい!!
↓辺りを歩き始めたが…雪が降り頻る…
↓荒涼とした雰囲気だ…
↑正しく「田んぼの真ん中」のような場所で、「徒歩で動いているのは自身のみ…」というような状態で、何ら“目印”も無いような場所を歩き回っていた…
↓雪に覆われた田にカラスが…
↑寂寥感が募る光景だ…
凡そ「“宮崎県”と聞いて思い起こす」風景ではない…この時は、「来る21日に知事選」ということで、“宮崎県知事候補”のポスターが貼られた掲示板も見掛けたので、「間違いなく宮崎県内」な筈だが…
↓こんな様子を見ると、「間違いない!!宮崎県だ!!」と不思議な安堵感を覚える…
↑他方…雪が「似合わない!!」感じの木だ…
↓「更に凄い!」と思ったのはこれだ…
↑「柑橘類が木に実っている」という様子は「九州!!」という感じで、見掛けると嬉しいのだが…「柑橘類が実っている木に雪」というのは、「異様?!」に思えた…
↓一部、“ワンメーター”の区間はタクシーに乗せて頂いたが…結局、えびの駅からえびの飯野駅まで、降り頻る雪の中で2駅間を2時間も歩いた…
↑「どうしようもない私が歩いている」とは、えびの辺りに立寄った経過も在るという種田山頭火の句だと言うが…正しくその「どうしようもない私が歩いている」という気分だった…
↓列車の運行状況はこういう感じ…
↑「10時19分の都城行」を逃すと、更に2時間待ち…乗車することにした…
↓この列車で、雪が降り頻ったえびのを後にした…
↑私がホームに出た後、何人かの人が列車を利用すべく現れたが…近くに居た方は、歯をガタガタ鳴らして震えていた…
或いは「貴重な経験」をする結果となったえびの訪問である…
「都城焼き肉三昧舟盛り御膳」(2014.12.17)
大分県をゆっくりと抜けて宮崎県に入り、宮崎駅近くに泊まった翌朝…暗い間から動き始め、都城からえびのへ出向き、えびので酷い雪に降られて驚き、丁度「ランチには好適…」と思えるような時間帯に都城に引揚げて来た…
鹿児島へ南下すると、前々日夕刻に門司港にも至っていて、前日は小倉を起点としていることから「日豊本線を普通列車で踏破」という、「だからどうした?」という記録を達成出来ることになる…
↓そんなことを思いながらも、「空きっ腹では動けない…」と「都城でのランチ」ということで思い出していたものがこれだ…
>>肉の都・都城「都城焼き肉三昧舟盛り御膳」【宮崎県 都城市 新・ご当地グルメ】
旅に出ると…とにかくも動き回ってみることや、気に入った風景に出くわして写真を撮ることや、面白そうな資料館の類を見学することに一生懸命で、食事を疎かにしがちなのだが…時には「訪ねた場所らしい」ものを愉しみたい…
“新・ご当地グルメ”というようなモノは、「何時の間にかやっていない…」というのも実は多いような気がするのだが…都城の「都城焼き肉三昧舟盛り御膳」というものは「知る人ぞ知る」という具合で存外に好評と見受けられる…
都城は鶏肉、豚肉、牛肉の何れもの産出額が日本一で、言わば「肉の都」なのだそうだ。私の目線では、“九州”自体が「肉用家畜の肥育が非常に盛んな“畜産王国”」というようにも思え、「肉料理が得意な土地柄」と勝手に思っているのだが…その九州に在って、都城は格別に肉生産が盛んだというのだ…
そこでこの「都城焼き肉三昧舟盛り御膳」というものをやることにしたのだそうだが…上記サイトに在る「出している店」の情報を何となく視ると…西都城駅近くのホテル―都城では「地元の老舗!!」としてお馴染みなようだ…―が、「列車で動き回って、都城で食事を摂る際に…」ということでは利用し易いように見受けられた…
西都城駅から鹿児島中央駅まで、<青春18きっぷ>を手に普通列車で移動しようとすると…多少、列車の本数は限定的なので、西都城駅に着いた際、駅員さんに時刻を尋ねてみて、「次」と「次の次」の列車の時刻を頭に入れて、件の老舗ホテルを探した。何階建てかは確かめなかったが、少しだけ背が高い建物で、西都城駅を出て蒸気機関車の動輪が飾られている辺りへ歩を進めると看板が見えた…
↓館内に足を踏み入れて、一寸視ると直ぐにこの看板に出くわす…
なるほど、地元の老舗ホテルだ。何処と無く“歴史”を想像させるロビーの雰囲気だった…館内では地元企業の皆さんが参画していると見受けられる団体の集まりが開催中であったり、「夕刻の準備」と見受けられる、何かの団体の忘年会会場を示す掲示が在った。そんな中で「ホテルのフロント!!」という風な場所にスタッフの皆さんが居たので、眼にした看板を示しながら「都城焼き肉三昧舟盛り御膳」について尋ねてみた…「確かめて参ります!」と一人が奥に引っ込み、程無く現れると「出来ます。20分程度準備に要するので、お待ち頂くことになりますが…」と言う。私は一向に構わない。ロビーのソファーに陣取って待つことにした…
「次」または「次の次」の普通列車で鹿児島へ向かうことにしたので、ロビーでノートパソコンを広げて鹿児島の宿を押さえていると…何やらホテル従業員がお茶を出してくれた。有難かった…
やがて…「準備が出来ました!」と呼ばれたので、ロビーの在る1階奥に在る、色々な用途に使うと見受けられるスペースに行ってみた…「こちらへどうぞ…」と通された席で…
↓「うわっ!」と驚いた…
↑本当に“舟盛り”に鶏、豚、牛の肉!!3種類のタレ…画面からはみ出ているが、旅館・ホテルの朝食等で米飯を供する御櫃が「ドン!!」と置かれている…
これ…「本当に1600円!?」と一寸驚く…
↓「焼き肉三昧」とロゴが入った小さな火鉢…誂えたのか?これに火を入れてくれた…
↑早速、これに順次肉を載せる…
↓火が通って来た!!ガツガツと頂いた…
↑柔らかい、宮崎県産の生肉…好い!!
或いはこれは…「昼間から多少贅沢な気分で“肉の都”と言うべき街のモノを一寸試してみる」という主旨で、本当は「もっと佳い各種の肉」が在るのだとも思ったが…意外に満足度は高かった!!
結局のところ…都城は停車中であった<ななつ星in九州>をゆっくり眺めて、この「都城焼き肉三昧舟盛り御膳」を頂いたというだけだったのだが…「好天に寒風」という、あの日に特有な状態と共に、何となく「忘れ難いモノ」を残してくれたような気がする…
鹿児島へ南下すると、前々日夕刻に門司港にも至っていて、前日は小倉を起点としていることから「日豊本線を普通列車で踏破」という、「だからどうした?」という記録を達成出来ることになる…
↓そんなことを思いながらも、「空きっ腹では動けない…」と「都城でのランチ」ということで思い出していたものがこれだ…
>>肉の都・都城「都城焼き肉三昧舟盛り御膳」【宮崎県 都城市 新・ご当地グルメ】
旅に出ると…とにかくも動き回ってみることや、気に入った風景に出くわして写真を撮ることや、面白そうな資料館の類を見学することに一生懸命で、食事を疎かにしがちなのだが…時には「訪ねた場所らしい」ものを愉しみたい…
“新・ご当地グルメ”というようなモノは、「何時の間にかやっていない…」というのも実は多いような気がするのだが…都城の「都城焼き肉三昧舟盛り御膳」というものは「知る人ぞ知る」という具合で存外に好評と見受けられる…
都城は鶏肉、豚肉、牛肉の何れもの産出額が日本一で、言わば「肉の都」なのだそうだ。私の目線では、“九州”自体が「肉用家畜の肥育が非常に盛んな“畜産王国”」というようにも思え、「肉料理が得意な土地柄」と勝手に思っているのだが…その九州に在って、都城は格別に肉生産が盛んだというのだ…
そこでこの「都城焼き肉三昧舟盛り御膳」というものをやることにしたのだそうだが…上記サイトに在る「出している店」の情報を何となく視ると…西都城駅近くのホテル―都城では「地元の老舗!!」としてお馴染みなようだ…―が、「列車で動き回って、都城で食事を摂る際に…」ということでは利用し易いように見受けられた…
西都城駅から鹿児島中央駅まで、<青春18きっぷ>を手に普通列車で移動しようとすると…多少、列車の本数は限定的なので、西都城駅に着いた際、駅員さんに時刻を尋ねてみて、「次」と「次の次」の列車の時刻を頭に入れて、件の老舗ホテルを探した。何階建てかは確かめなかったが、少しだけ背が高い建物で、西都城駅を出て蒸気機関車の動輪が飾られている辺りへ歩を進めると看板が見えた…
↓館内に足を踏み入れて、一寸視ると直ぐにこの看板に出くわす…
なるほど、地元の老舗ホテルだ。何処と無く“歴史”を想像させるロビーの雰囲気だった…館内では地元企業の皆さんが参画していると見受けられる団体の集まりが開催中であったり、「夕刻の準備」と見受けられる、何かの団体の忘年会会場を示す掲示が在った。そんな中で「ホテルのフロント!!」という風な場所にスタッフの皆さんが居たので、眼にした看板を示しながら「都城焼き肉三昧舟盛り御膳」について尋ねてみた…「確かめて参ります!」と一人が奥に引っ込み、程無く現れると「出来ます。20分程度準備に要するので、お待ち頂くことになりますが…」と言う。私は一向に構わない。ロビーのソファーに陣取って待つことにした…
「次」または「次の次」の普通列車で鹿児島へ向かうことにしたので、ロビーでノートパソコンを広げて鹿児島の宿を押さえていると…何やらホテル従業員がお茶を出してくれた。有難かった…
やがて…「準備が出来ました!」と呼ばれたので、ロビーの在る1階奥に在る、色々な用途に使うと見受けられるスペースに行ってみた…「こちらへどうぞ…」と通された席で…
↓「うわっ!」と驚いた…
↑本当に“舟盛り”に鶏、豚、牛の肉!!3種類のタレ…画面からはみ出ているが、旅館・ホテルの朝食等で米飯を供する御櫃が「ドン!!」と置かれている…
これ…「本当に1600円!?」と一寸驚く…
↓「焼き肉三昧」とロゴが入った小さな火鉢…誂えたのか?これに火を入れてくれた…
↑早速、これに順次肉を載せる…
↓火が通って来た!!ガツガツと頂いた…
↑柔らかい、宮崎県産の生肉…好い!!
或いはこれは…「昼間から多少贅沢な気分で“肉の都”と言うべき街のモノを一寸試してみる」という主旨で、本当は「もっと佳い各種の肉」が在るのだとも思ったが…意外に満足度は高かった!!
結局のところ…都城は停車中であった<ななつ星in九州>をゆっくり眺めて、この「都城焼き肉三昧舟盛り御膳」を頂いたというだけだったのだが…「好天に寒風」という、あの日に特有な状態と共に、何となく「忘れ難いモノ」を残してくれたような気がする…
上空から:首都圏へ南下するANA058―工業地域と富士山(2014.12.15)
頻繁に飛行機に乗る訳でもないので、「上空からの眺め」が良好な場合には、少し心躍るものが在る。個人的な希望を言えば…「どの辺りを飛行中」とか、「右側の○○な型のモノが△△」というような情報が、もう少し判ると嬉しいが…
12月15日、「札幌・東京+東京・福岡」と、如何にも「航空会社の看板路線」という雰囲気の2本のフライトを乗り継いだ。何れのフライトも人気が高い路線で、何やら込み合った感じの機内ではあったが…早めに予約をした段階で、窓側の席、それも主翼に視界を妨げられない後方を押えてあったので、比較的好天な中で機窓を愉しんだ…
↓着陸に向けて高度を下げる旨が伝えられ、次第に「下界の様子」が見え易くなるが…羽田へ向かう場合、「遠くに富士山」という場合も少なくない…
↑画面の手前が恐らく千葉県か茨城県で、東京湾が霞み、遠くが西側で富士山が見えている…
↓東京湾を回り込むように羽田空港に近付いているのであろうが、手前に見えるのは千葉県内の工業地域であろう…
↑画面の真中より少し上辺りの港に、「丸く大きな専用容器」を連ねた“LNG船”と思われるモノが見える!!或いは、「サハリンから東京湾に到着の船」かもしれないと注目した…
↓更に高度が下がった…画面奥の富士山の手前には、横浜辺りと思われる高層建築が見えている…
↑画面真中辺り…巨大なタンカーが東京湾内の埠頭に入ろうとしているのであろう。巨体を取り囲むようにタグボートが何隻も集まって、慎重に誘導している様子が覗える…
こうして北海道から南下して来た飛行機は無事に羽田空港に下りた…私は空港内を少し動き、直ぐに福岡へ飛んだので、眼下に眺めた首都圏に入ることは無かった…
12月15日、「札幌・東京+東京・福岡」と、如何にも「航空会社の看板路線」という雰囲気の2本のフライトを乗り継いだ。何れのフライトも人気が高い路線で、何やら込み合った感じの機内ではあったが…早めに予約をした段階で、窓側の席、それも主翼に視界を妨げられない後方を押えてあったので、比較的好天な中で機窓を愉しんだ…
↓着陸に向けて高度を下げる旨が伝えられ、次第に「下界の様子」が見え易くなるが…羽田へ向かう場合、「遠くに富士山」という場合も少なくない…
↑画面の手前が恐らく千葉県か茨城県で、東京湾が霞み、遠くが西側で富士山が見えている…
↓東京湾を回り込むように羽田空港に近付いているのであろうが、手前に見えるのは千葉県内の工業地域であろう…
↑画面の真中より少し上辺りの港に、「丸く大きな専用容器」を連ねた“LNG船”と思われるモノが見える!!或いは、「サハリンから東京湾に到着の船」かもしれないと注目した…
↓更に高度が下がった…画面奥の富士山の手前には、横浜辺りと思われる高層建築が見えている…
↑画面真中辺り…巨大なタンカーが東京湾内の埠頭に入ろうとしているのであろう。巨体を取り囲むようにタグボートが何隻も集まって、慎重に誘導している様子が覗える…
こうして北海道から南下して来た飛行機は無事に羽田空港に下りた…私は空港内を少し動き、直ぐに福岡へ飛んだので、眼下に眺めた首都圏に入ることは無かった…
恒例の“フォトブック”に着手(2014.12.30)
去る12月14日から23日の「旅の写真」に加えて、年末年始休業にも写真を撮っているので、それらを精力的に整理しながら過ごす昨今である。
2010年頃から、「思い出深い写真を多数撮った場合」等に“フォトブック”を作成するようになった。
↓こういうサービスだ…

↑気に入った写真のデータを送り込み、エディターで好みに合わせて編集すると、“写真集”や“グラフ雑誌”のようなモノが手軽に出来る…
私のように、「旅の記念」というような使い方にも有効だが、例えば「子どもの誕生日に成長記録を兼ねた記念」というような使い方にも好適で、知人に御紹介して御好評を頂いたということも在った…
このフォトブックだが…膨大な写真を使うと、写真の準備に時間を要し過ぎると同時に、非常に分厚いモノになってしまい、かと言って写真を“厳選”しようにも、なかなかに苦しい場合も在る…また、この種のモノは「記憶が新鮮な間」に作ってしまって、後からゆっくりと眺めるのが好いというモノでもあるので、写真整理を急ぎたい…急いでも、自ずと限度は在るのだが…
今般、初めて「“旅”の中から“テーマ”を選んで、“分冊”的に順次制作」という手法を取ることにした…
“テーマ”の“第1弾”となるが、2つ選んだ…
1つ目は「<はやとの風>と<しんぺい>」である。
<はやとの風>と<しんぺい>とは、JR九州が肥薩線で運行する“観光列車”である。今般はこの2本の列車で「鹿児島中央→吉松→人吉」を移動し、序に<九州横断特急>で熊本に至った。熊本に向かう<九州横断特急>は車窓も直ぐに暗くなってしまい、「また別の機会にゆったり…」という思いを残すに終始した感だが、<はやとの風>と<しんぺい>は「満喫!!」という感じであった…
肥薩線は、本数が限られた普通の列車で通過したことが一度在ったが、“観光列車”はその何倍も愉しい。鉄道開通当時の趣を現代に伝えるような駅に数分停車して写真が撮れたり、苦心して工夫した鉄路を通した区間の説明を受けながら途中駅の停車時間に辺りを眺めたりと、「鉄路を行く“定期観光バス”」という趣であった。先人が苦心して開通させ、永く運行を続けている「鉄道そのもの」、「そこに鉄道が敷かれているという事実自体」を“産業遺産”、“文化遺産”と捉え、地元の人達や私自身を含めた来訪者に詳しく紹介してくれる列車…素晴らしい!!
<はやとの風>と<しんぺい>は、国鉄時代に大量に製造されて、現在でも方々で活躍中の“40系”ディーゼルカーをベースにして“大改装”を施した車輌で運行されている列車だが、「旧くて新しい」ような「渋い!!」感じの車輌である。その車輌が、静かな駅に佇む様子等を纏めた。
>><はやとの風>と<しんぺい>に乗車した12月19日の画はこちら…
2つ目は「鹿児島」である。
自身の意識の中では「九州との邂逅」を経験することになったのは鹿児島であるような感である。初めて辿り着き、好天に恵まれた市内を動き回って愉しかったことから気になり始め、路面電車のファンになり、<かごでん>に魅了され、<でんでん>の件で心動かされ、何となく「嵌った」感じだ…
この鹿児島に関して、2013年は「風雨の中で立寄った」感であったが、今般は好天に恵まれた場面が多かった。「県内を動き回ろうか?」と考えながら休んだが、起き出した朝に「桜島の風景?」と思い付いて市内を少し動いたところ…「素晴らしい!!」光景に出会うことが叶った…
その「桜島の風景」や、気に入っている路面電車等の画を纏めてみた…「こんなに素晴らしい風景!!」と嬉しくなってしまう…
>>鹿児島に着いた様子を含む12月17日の画はこちら…
>>鹿児島で過ごした12月18日の画はこちら…
>><はやとの風>で発つまでの12月19日の画はこちら…
こうした2つの“テーマ”で2冊の“フォトブック”を発注した…恐らく、1月半ばまでに拙宅に届くであろうが、「各々が目下“世界に1冊”」なモノを見るのが楽しみだ!!
2010年頃から、「思い出深い写真を多数撮った場合」等に“フォトブック”を作成するようになった。
↓こういうサービスだ…
↑気に入った写真のデータを送り込み、エディターで好みに合わせて編集すると、“写真集”や“グラフ雑誌”のようなモノが手軽に出来る…
私のように、「旅の記念」というような使い方にも有効だが、例えば「子どもの誕生日に成長記録を兼ねた記念」というような使い方にも好適で、知人に御紹介して御好評を頂いたということも在った…
このフォトブックだが…膨大な写真を使うと、写真の準備に時間を要し過ぎると同時に、非常に分厚いモノになってしまい、かと言って写真を“厳選”しようにも、なかなかに苦しい場合も在る…また、この種のモノは「記憶が新鮮な間」に作ってしまって、後からゆっくりと眺めるのが好いというモノでもあるので、写真整理を急ぎたい…急いでも、自ずと限度は在るのだが…
今般、初めて「“旅”の中から“テーマ”を選んで、“分冊”的に順次制作」という手法を取ることにした…
“テーマ”の“第1弾”となるが、2つ選んだ…
1つ目は「<はやとの風>と<しんぺい>」である。
<はやとの風>と<しんぺい>とは、JR九州が肥薩線で運行する“観光列車”である。今般はこの2本の列車で「鹿児島中央→吉松→人吉」を移動し、序に<九州横断特急>で熊本に至った。熊本に向かう<九州横断特急>は車窓も直ぐに暗くなってしまい、「また別の機会にゆったり…」という思いを残すに終始した感だが、<はやとの風>と<しんぺい>は「満喫!!」という感じであった…
肥薩線は、本数が限られた普通の列車で通過したことが一度在ったが、“観光列車”はその何倍も愉しい。鉄道開通当時の趣を現代に伝えるような駅に数分停車して写真が撮れたり、苦心して工夫した鉄路を通した区間の説明を受けながら途中駅の停車時間に辺りを眺めたりと、「鉄路を行く“定期観光バス”」という趣であった。先人が苦心して開通させ、永く運行を続けている「鉄道そのもの」、「そこに鉄道が敷かれているという事実自体」を“産業遺産”、“文化遺産”と捉え、地元の人達や私自身を含めた来訪者に詳しく紹介してくれる列車…素晴らしい!!
<はやとの風>と<しんぺい>は、国鉄時代に大量に製造されて、現在でも方々で活躍中の“40系”ディーゼルカーをベースにして“大改装”を施した車輌で運行されている列車だが、「旧くて新しい」ような「渋い!!」感じの車輌である。その車輌が、静かな駅に佇む様子等を纏めた。
>><はやとの風>と<しんぺい>に乗車した12月19日の画はこちら…
2つ目は「鹿児島」である。
自身の意識の中では「九州との邂逅」を経験することになったのは鹿児島であるような感である。初めて辿り着き、好天に恵まれた市内を動き回って愉しかったことから気になり始め、路面電車のファンになり、<かごでん>に魅了され、<でんでん>の件で心動かされ、何となく「嵌った」感じだ…
この鹿児島に関して、2013年は「風雨の中で立寄った」感であったが、今般は好天に恵まれた場面が多かった。「県内を動き回ろうか?」と考えながら休んだが、起き出した朝に「桜島の風景?」と思い付いて市内を少し動いたところ…「素晴らしい!!」光景に出会うことが叶った…
その「桜島の風景」や、気に入っている路面電車等の画を纏めてみた…「こんなに素晴らしい風景!!」と嬉しくなってしまう…
>>鹿児島に着いた様子を含む12月17日の画はこちら…
>>鹿児島で過ごした12月18日の画はこちら…
>><はやとの風>で発つまでの12月19日の画はこちら…
こうした2つの“テーマ”で2冊の“フォトブック”を発注した…恐らく、1月半ばまでに拙宅に届くであろうが、「各々が目下“世界に1冊”」なモノを見るのが楽しみだ!!