福岡:“おさんぽバッグ”(2013.12.21)

何処かを訪ねて、その記念になると同時に、地元へ戻ってからも愛用出来るような品物を入手…意外に嬉しく愉しいものだ…

↓福岡市博物館の売店でこんなモノを入手した…
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↑名付けて“おさんぽバッグ”である…

福岡市内の博物館や美術館に、城下町として起こった福岡の歴史を思わせる武士や兜、福岡タワーなどが可愛らしいデフォルメのイラストになって鏤められている。そして、さりげなく“FUKUOKA”のロゴが入る…全般が紺色で、白で配されたイラスト等が目立つが、それで居ながら落ち着いている…

“おさんぽバッグ”の名の如く、「一寸出る場面で、細かいモノを入れる」というような用途の布製バッグである。

やや大き目なモノと、私が入手した小さ目なモノとが売られていた。大き目なモノの方はやや生地が薄く、小さ目なモノの方はやや生地が厚めだった…「厚めな方が、丈夫で長持ち?」と考えて小さ目な方を入手した…

最近、これに細々したモノを入れて持ち歩く場面が多くなっている。大き過ぎないのが好い…A4版のクリアファイルがスッポリと入るか入らないかの小さ目なバッグではあるが、「帰宅途中に2リットル入ペットボトルのミネラルウォーターを求めた…」というような場合には、そのペットボトル1本がスッポリ収まる…小さ目ではありながらも小さ過ぎないのである…

福岡のグッズ…福岡から遠い北へやって来て、雪の中で活躍してくれている…

今日の日中は…以前に呉で求めたキャップを被り、過日サハリンで求めた防寒ジャンパーを着て、この福岡のバッグを持って歩いていた…“土産尽くし”で動いていた次第だ…

長崎の路面電車:街を行く301(2013.12.15)

“長崎”と聞けば、色々と思い浮かぶが、私は「あの年季が入った路面電車が街を行き交っている様子」をぼんやりと思い浮かべる…

↓その「“長崎”と聞けば思い浮かべるような光景」というのが、こういった感じのものである…
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↑イラスト調に纏めてみた…正しく「画のように思い浮かべる光景」なのである…

これから先、何度こういう様子を想い起こすことになるだろう…何度でも視に出掛けたい光景だ…

長崎の路面電車:1502(2013.12.15)

↓長崎で見掛けた路面電車だが…
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↑各地で見掛ける機会が多い車輛の雰囲気だ…

例えば…

↓札幌でも似たような感じの車輛を視掛ける…
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この長崎で見掛けた1502…、1993年から1997年にかけ製造された1500型の1輛で、現在は7輛が活躍中であるという…

「似ている!」と思った札幌の路面電車…この8500型は1985年に登場しているものだというが、或いは1980年代から1990年代に路面電車と言えば「こういうような雰囲気」が定番だったのかもしれない…

色々な年代の車輛が活躍する各地の路面電車だが…或いは登場した時代毎に「流行り」のような形状が在るのかもしれない…

鹿児島の路面電車:鹿児島中央駅前の1016(2013.12.16)

何時ものように静かな朝を迎えている…“前倒し”傾向な早起きで、<モカ・エチオピア>を淹れて個性的な味を愉しみながら、撮り溜まっている写真を眺めていた…

12月に旅をした際の写真だが、「あそこは雨で…」と直ぐに思い出すような場所での写真は相対的に少なく、「好天だった…」という場所の写真は相対的に多い…何ら特別なことではないのだが、「あそこは雨だった…」という場所の相対的に少ない写真を眺めていると、“積み残し”という感覚が拡がる…

「好き・嫌い」というモノに関しては、“理由”が在るような無いような感じなのだろうが…結局、“鹿児島”は「好き」な訪問先の一つとなっているのであろう…2011年12月に「行ってしまうぞ!」と鉄路で「稚内から枕崎まで」ということをやらかした復路、鹿児島中央駅で新聞の号外を配っていたあの時が最初で、“かごでん”に乗車してみたかった2012年12月、“でんでん”に乗車してみたかった2013年3月と繰り返して訪ねている…

2013年12月16日は、早朝の暗い長崎を発ち、諫早、島原と移動し、海を越えて熊本に辿り着いた時点で立ち止まろうとしたが…「ここから、どうしようか?」と熊本のフェリー乗場から熊本駅前へ向かう移動のバスで時刻表を眺めた時に視付けたのは、「八代へ出て肥薩おれんじ鉄道に乗車して川内に向かうと、乗換えて夕刻までに鹿児島」ということが出来るという事実だった…頭に浮かぶのは、夕刻なら岩肌が西日に照らし出され、早朝なら朝陽を背景に巨大な影が空に映える、街を見下ろす桜島が見える風景であり、気に入っている石橋記念公園の様子であり、故郷の街と港を見詰める東郷元帥の像であり、西郷隆盛像が在って公会堂の在る辺りの公園の様子であり、何となく賑わっている天文館辺りの様子であり、芝生敷きの軌道を行き交う路面電車だった…

そして鹿児島に着き、途中でネットを駆使して抑えた宿に向かうと…雨模様になった…

↓その鹿児島で、街に出ようと雨の中を歩み始めて、出くわしたのがこの1016である…
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↑「雨=水」というような安直な連想だが…水彩画風にしてみると、「雨の黄昏」の情感のようなものが巧く表現出来るような気がした…

鹿児島の1000型は、「今後の主流」になりそうな“超低床”の車輌を、「何とか国産で」ということで開発・製造されたモノだ…年末年始に札幌で出会った“A1201”の“兄”ということになる…或いは全国各地で活躍している「国産“超低床”という兄弟の長兄」とも言えるかもしれない…

この写真…視ていて愉しい反面、「もっと鹿児島の路面電車で動き回りたかった…」という“積み残し”感が拡がる…

今朝の2杯目となる<モカ・エチオピア>を啜りながら…天文館通停留所から商店街に入っていった辺りの、「鹿児島の粋人の密かな愉しみ」的な、或いは「旧き善き日本の喫茶店」という好いムードの老舗カフェの事等を思い出す…2013年12月は行けなかったのだ!!

長崎:孔子廟(2013.12.15)

2012年に長崎に初めて立寄り、後から「“積み残し”だったな…」と気になっていたモノの一つが孔子廟だ。

1893(明治26)年に、在日華人が清国政府の協力を得て建設したという長崎の孔子廟…かなり本格的な「中国の伝統」を伝える建物だと聞いていた。

場所は、グラバー園や大浦天主堂の近くでもある。路面電車の第5系統の終点・起点となる石橋停留所から徒歩圏内だ…

↓敷地の入口から入場すると、立派な門が在る…
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↑孔子廟の正式な門ということになるらしい…

そして門を潜ると…

↓こういう具合に“大成殿(たいせいでん)”という本殿が在る…
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↑ここに孔子が祀られている…

この孔子廟は、魔除けと慶びを表現するという朱色で彩られ、屋根は黄色だ…古来、中国では屋根の色は中に住む人の格に応じて決まった色を用いるようにしていたのだという。黄色というのは皇帝の色だという。この孔子廟は、大変に尊い孔子が居る場所ということで、黄色の屋根が選ばれていることになる。

孔子が鎮座する“大成殿”の周囲には多数の人物像が配されている。これは孔子の高弟達であるという。「72賢人」と呼ばれる、様々な活躍や挿話が伝えられる人物達だという。残念ながら…余り詳しくはないのだが…

この“大成殿”の奥に<中国歴代博物館>というものが在る。孔子に関することと、中国の歴代王朝のことを紹介した展示である。個人的に一寸注目したのは、入口辺りに長崎税関による“保税展示場”という許可が掲示されていたことである。中国など、外国のモノを一時的に展示できる場所で、展示品にそうした「期間を切って、展示向けに持ち込んだモノ」が在ることを窺わせる。具体的にどれがそれに該当するのか判らなかったが…

孔子は、古代中国の社会に在って、必ずしも恵まれた境涯でもなく、高い身分で在った訳ではないが、永く読み継がれる多くの言葉である『論語』を遺している人物で、“信仰”の対象にさえなっている…

↓それにしても、孔子廟の建物は随分見事に飾られている…
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↑中華文化圏の国々を訪ねた経験は無いが、何かこうした「如何にも!!」という装飾が施された立派なモノを視ると、そうした国々を疑似体験したような感じだ…

この長崎の孔子廟…とにかくも「見事…」を連呼しながら、詳しい知識が在るでもないながらも、存外に夢中になって視ていた…何か「不思議な力」が感じられるような気がする…

↓去り際に…龍が舞う屋根を見上げた…
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↑中華文化圏にルーツを有する人達も多く居るという長崎の地に在って、こうした華麗な装飾はそうした人達の矜持のようなものを呼び覚ますものなのかもしれないが、同時にこの“龍”は様々なモノが入り交じった長崎が平和に栄え続ける様を見守ってくれているような気もした…

この日は、神社やカトリックの教会にも立ち寄っていた。そしてこの中国の信仰に関連する孔子廟である…振り返ると、何か不思議な気もするが…或いは、こうした「色々なモノが混在している」のが「長崎らしさ」ということなのかもしれない…更に踏み込むと、色々な起源を有するモノが不思議に溶け合っているというのは、“日本文化”の特長の一つなのかもしれない…

>>長崎:鎮西大社諏訪神社(2013.12.15)

>>長崎:浦上天主堂(浦上教会)(2013.12.15)

2012年に初めて立ち寄り、何となく2013年にも立寄って、長崎では色々なモノに触れることが出来た。所詮は「俄か」であって恐縮だが、スッカリ“長崎ファン”になってしまったかもしれない…

福岡市博物館(2013.12.21)

福岡タワーが見える辺りに出て、少しキョロキョロと辺りを探して…

↓福岡市博物館の建物を見付けることが出来た…
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↑空が映り込む、硝子張り部分が多い建物だ…展示をしている場所、収蔵庫の他、色々な目的に使うスペースも備えている大きな建物である…

福岡市博物館は、従前からの資料館が手狭になっていたことを踏まえ、アジア太平洋博覧会(よかトピア)の開催に合わせて建てられた。建物は博覧会会期中にパビリオンとして利用され、その後1990年に博物館として整理されて開館し、今日に至っている。

ここは“金印”を所蔵していることで知られている博物館だ…“金印”というのは、高校の日本史の教科書、或いは小中学校の社会の教科書でも見た記憶が在るのだが、中国の王から「倭の王に封じる」というような意味合いで贈られたと考えられる、古代の印章である。金で出来ているから“金印”だ…

とりあえずこの“金印”が視たかったのだが、確り視てきた!!その「小ささ」に多少驚いた…何か、拡大した写真を教科書で視て覚えていて、「人の握り拳位は在る?」と勝手に思っていた…意外だった…

「印章」ということで考えると、「こんなもの…」なのかもしれない。官公署等の書類に押されている場合が在る角印の、小さ目な印象を受けるモノのような大きさだ…何か印章というよりも、「小さな金属塊」という感じもする。昔は金や銀の重量を測って、重量で貨幣価値を示していたそうだが、この金印はそうした「軽量して値を示すような仕組みの貨幣」のようにも見える。少し離れると、何となく「コインのような大きさ」にも思えた。或いはこういうような大きさの金の塊は、宝飾品を造る工房にでも在るのかもしれない…見付けた人は、「光っている?何?小さな金塊?!」というようなことで拾い上げたのであろうか?小さなモノながら、色々なことを想いながら視た…

この金印は、常設展示に踏み入って直ぐに在ったのだが、見学した常設展示は「福岡の歩み」が時系列に学ぶことが出来るようになっている。大変に興味深く見学した。

福岡は、古代から大陸との交流の舞台となっていた…中世にも博多が交易港として栄え、「日本初のチャイナタウン」と紹介されていたが、宋(日本の中世に中国に在った国の呼称)の商人達の中で博多に定住して活躍する人達も在ったのだという…戦国時代には、大名達の争いの舞台ともなったが、豊臣秀吉の時代に博多の町が現在の基礎になる型に整備されたという…そして幕藩体制の時期に城下町の福岡が整備され、博多と福岡が双子都市として歩み、明治以降の近代に向って行く…

こういうような経過が、豊富な収蔵品や解説図、ビデオ等で詳しく紹介されている。近代に至るまでの経過に関する展示も面白かったが、近代以降の展示にも街の雰囲気等を伝えるモノが色々と在って愉しめた。更に、戦後の経過を紹介した辺りでは、福岡が非常に盛り上がった“西鉄ライオンズ”も取上げられていて、レプリカか本物かは判然としなかったが、黄金時代の選手達のユニフォームが綺麗に並んで飾られていたコーナーも在った…

↓私が訪ねた際、館の入口を入ったホールには、“山笠”が飾られていた。
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↑その巨大さに驚く…弁慶と牛若丸の物語を題材にした人形が据えられていた…

福岡市博物館を訪ねると、様々な伝統、色々な経過を持っている福岡の歩みというものに、手軽に親しむことが叶う。なかなかに好い場所だ…

↓見学後に振り返った…
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↑新しい建物だが、なかなかに趣が在る…

この辺りは「アジア太平洋博覧会(よかトピア)を契機に整備が進んだ」と見受けられる地区だが、海岸部であり、広い歩道も整っていて散策するのが愉しい雰囲気も在る。何時かまた訪ねてみたい…

福岡タワー(2013.12.21)

12月20日は夜になって博多に至り、翌21日の午前中は福岡市内で過ごした。

偶々滞在した宿の建物の構造が、外の音が伝わり易い感じだったからかもしれないが、夜の間に「不意に強い雨が降る」音がした。そういう状況で朝を迎えて、「どんな様子か?」と戸外を窺うと…特段に雨は降っていなかった…

「これは僥倖である!!」と宿を出て街を歩き始めた…地下鉄と徒歩での移動である…

↓福岡タワーが見える辺りを歩いた…
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確か2011年にここを訪ねて展望室に上がった…

↓2011年に福岡に寄った際の画…
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1989年のアジア太平洋博覧会(通称:よかトピア)にあわせて建設されたとのことで、高さ234mだという…

実は…この福岡タワーを見上げながら「再訪しようか?」と思わないでもなかったが…未だ行っていなかった福岡市博物館を優先した…

青空の中に福岡タワーが佇んでいて美しい光景だが…暫くして昼近くになると、強めな雨が降り始め、遠くに雷鳴も聞こえるような状態になった…

佐世保(長崎県):“佐世保バーガー”(2013.12.19)

実はハンバーガーのようなモノは大好きである…ということで“佐世保バーガー”というような「音に聞こえたモノ」には興味津々である…

12月19日は、「九州に到達し、機会が設けられるなら是非訪ねよう」と少し前から密かに目論んでいた平戸へ向かうことを念頭に、平戸方面へ向かう松浦鉄道の始発に相当する佐世保を目指した。途中の肥前山口駅でノートパソコンを開き、佐世保で夜を明かす宿も駅の近くに確保した。そして佐世保に到着である…

佐世保で宿に入り、早速宿の人に尋ねたのは“佐世保バーガー”に関することである。到着したのは午後7時近く…一息入れて「午後8時辺りにでも訪ねて、店内で頂く」ということがしたかった…“佐世保バーガー”の店だが…やや距離が在ったり、午後6時閉店であったり、駅構内に店を出している所は「持ち帰り専用」だったりと、宿の人と話していてもなかなか条件に見合う場所が無い…「こんな所までやって来て…ダメなのか?!」と思い始めたが…

と…「ここへ来る途中、あっちの方に、妙に明るい一画を視掛けましたが、あの辺は?」と尋ねてみた…すると「あそこは繁華街で…そうだ!“ビッグマン”が在りますよ!」と、宿の方も思い出してくれた…

↓そんな経過で、少し歩いて辿り着いたのが“ビッグマン”という店だ…
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↑「街角のハンバーガー店」という好い雰囲気!!趣が在るというものだ…

佐世保駅近くの道路から、物凄く明るく見えた商店街辺りに、色々な種類の店が在る飲食店街が拡がっていた。店を開けたばかりという雰囲気の艶やかな方に「こんばんは…」と声を掛けられるような中で、辺りをぐるぐると巡りながら、終いにはその辺で客待ちをしていた年配のタクシーの運転手さんに尋ねてみるなどして、やや苦心して辿り着いた場所だった…薄暗かったので、鮮やかな店構えが見付け難かったのかもしれないが…

↓“佐世保バーガー”のイメージキャラクターがこれらしい…2003年に、かの『アンパンマン』のやなせたかし氏が、佐世保市からキャラクターの使用許可を求められた際、「それなら新しいキャラクターを!」と水兵服を身に着けたハンバーガー人間がデザインされたのだという…なかなか味わいが在るキャラクターだ…
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↑“佐世保バーガー”の店では、こういう具合のキャラクター入り看板を設えている場所も在るようだ…“認定”の店が用意するモノなのかもしれない…

“佐世保バーガー”とは何か?特定のハンバーガーを示すのではなく、佐世保市内の店で提供される「手作りで」「注文に応じて作り始める(作り置きをしない)」こだわりのハンバーガーの総称である。だから、店毎の色々なモノが在る…

佐世保は海軍基地の街で、大戦中は空襲を受けて被害も甚大であったが、占領期以降は米海軍の拠点が設けられていた。1950年頃から、“朝鮮特需”で経済が復興する中で、加えて米軍関係者を顧客にする店が起こる等、外食業も盛んになって行く…そんな中で米軍関係者から伝わったらしいハンバーガーというものが佐世保に登場したという。

この「佐世保のハンバーガー」というのは長く受け継がれていたが、1999年頃に旧軍港都市の交流というような場面で、佐世保のハンバーガー店が出店し、「そう言えば佐世保のハンバーガー…懐かしい…」と佐世保勤務経験を有する自衛隊関係者等の間で話題になったということが在ったらしい…

そうした経過を踏まえ、2001年頃からは佐世保市で「名物」的に宣伝するようになり、2007年には“認定制度”というものも設けられているという…

「手作りで」「注文に応じて作り始める(作り置きをしない)」ということなのだから…店舗で出来立てが頂きたかった…そんな細やかな願いが叶い、結局2つ頂いてしまった…

↓こういう“新作”と…
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↓こういう“伝統的”な感じのモノである…
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こちらのお店では、極端に大きいとか小さいということもなく、普通な「食べ易い」感じの、佳い材料で作った「らしい」ハンバーガーを愉しむことが出来た。

正直…その気になればあと数個は頂けたが…夜にハンバーガーのようなカロリーの高いモノを摂り過ぎるのは好くないかもしれない…

近年は、一口にハンバーガーと言っても色々なモノが在る。この佐世保で頂いたモノに「近いかな?」と思わせるモノも全く無い訳ではないと思う。しかし、佐世保在勤経験者が「懐かしいな…」と思い出すような存在感が在ること、そして「他所に先駆けて登場した可能性が高い」ということ等が“佐世保バーガー”の個性なのだと思う…

佐世保に関しては、平戸を訪ねようとした際の経由地として「夜到着、朝出発」ということをしてしまって、訪問から約1ヶ月を経て尚「後ろ髪を引かれる思い」が強く残っている…“佐世保バーガー”を再び頂くべく、そして“積み残し”という感が強い佐世保の様子に親しむべく、また訪ねてみたいと思う…

長崎:眼鏡橋(2013.12.15)

「長崎の代表的名所」と言えば、色々なモノが挙がり、また意見も分かれることであろうが、“眼鏡橋”はその「代表的な名所」の一つに数えることについて、大きな異論は出ないと思う。

↓2012年に初めて訪ねた長崎でも、眼鏡橋を視に行っていた…
>>長崎・眼鏡橋(2012.12.19-20)

12月15日…多少の曲折を経ながら辿り着いてから一夜明けた長崎で、路面電車の一日券を手に好天らしい朝の戸外に出て、とりあえず宿の近くのコンビニで求めた珈琲を啜りながら考えたのは…「先ず、眼鏡橋を視に…」ということだった…

大波止停留所から電車に乗り、築町停留所で乗換えて賑橋停留所へ向かう。長崎で一日を過ごして泊まり、翌朝に何処かへ向けて出発というような、急いだり慌てたりという必要が全くない状況だ…ゆったりと眼鏡橋を視に行った…

朝の早めな時間帯ではあったが…入替り立代りに、続々と旅行者のグループが現れた。或いは「有名」の証左でもある…

↓グループの人達が途切れた合間を視ながら写真を撮っていた…
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↑川面の近くに下りて視る…水面に橋の姿が映るのだが、正しく命名由来になっている“眼鏡”のような型になる…

1634年に初めて登場したという眼鏡橋である。琉球で視られた例を除くと、恐らく国内で初めての石造アーチ型橋ということになるらしい…

↓河岸から眼鏡橋の様子を望む…
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↑河岸が遊歩道或いは緑地風に整備されていて、なかなかに画になる…

少しずつ光が強くなる中で眼鏡橋を眺めていた…何回訪ねても、その都度毎に「画になる様」を見せてくれる…

柳川(福岡県):濠の在る風景(2013.12.19)

12月の旅は「風雨が強く、歩き回り悪い」という場面も多かった…

12月19日は朝から太宰府を訪ねたが、存外な風雨の強さであった…それでも…何となく柳川を目指した…そして柳川に至る手前辺りから、乗っていた西鉄電車の車窓は明るい感じになり、柳川駅前に出てみれば「晴れた!!」という感じになっていた…

「歩き回ってみようか…」と辿り着いた場所で、丁度天候が好転しているという事態は、大変に嬉しいものだった…

柳川では、古くからの街並みの一隅を占めているという「北原白秋生家」という場所を目指してみようと考え、駅辺りの観光案内所で地図を入手した。目指そうとした「北原白秋生家」は「50分?結構掛かりますよ…」ということだったが、2時間や3時間歩き回るには悪くない好天だったので、地図を頼りに歩き回った…

柳川は古くからの城下町で、鉄道が通ったのは時代が下ってからということであるため、古くからの街並みは駅からやや離れている。柳川に限らず、古くからの街ではよく見受けられる状況だが…

↓少し歩くと濠が見えた…
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↑所謂“川下り”―濠を行き交う遊覧ボート―の様子が見えた…「時代劇の小舟」そのものだ!船頭さんが竿で小舟を操っている…

城の防御施設であったモノ、城下町での輸送のための水路というようなモノが、近代以降も長くその姿を残している…“水郷”とも呼ばれる柳川に特徴的な濠というモノだ…

少し背が高いような、大き目な施設は濠から少々離れた場所に見受けられ、濠の周辺は多少新旧が入り混じっている住宅風な小ぶりな建物が並んでいる。そして、濠の周辺には様々な植栽も見受けられ、なかなかに美しい…

濠から多少離れた辺りの、幅が広い道路をぐんぐんと進む方が、目的の地点にとにかくも至ろうということなら便利と見受けられるが、景色が美しいことから、多少遠回りかもしれないとは思いながらも、敢えて濠の傍を歩くようにしていた。

↓濠の縁の樹に花が!!
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↑複雑に広がる濠には随所に小さな橋が架かっているのが、少し向こうを視ると判る…

何か「古くからの住宅街」風な、濠の縁に建物が見受けられる所も多いのだが、「公園の中の小川」という趣になっている箇所も見受けられた。

↓公園風な場所は、正しく「心地好い水辺」の趣だ…
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↑水辺に棲む鷺も翼を休めていて、“川下り”に使われている小舟が繋がれていた…

↓古くからの小さな橋、植栽が入り混じり、何とも名状し難い独特な風情を醸し出している箇所も見受けられた…
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↑非常に背が低い橋だ…

この非常に背が低い橋の辺りの雰囲気が面白く、暫く眺めていたが…“川下り”の小舟が、背の低い橋の向こうに現れた…

「小舟はどうする?」と思って視ていると…船頭さんは姿勢を低く、舟の上にしゃがみ込むようにして、小舟の先を橋の下に押し入れた…橋の下で、しゃがんでいる船頭さんは橋の裏面に掌を当てるようにして小舟の方向を整え、更に橋の裏面を掌で押すようにして、小舟を橋の下から出した。船頭さんはすうっと小舟の上に立ち、また竿を手に舟を操り始める…なかなかに素早い技だった…驚いてぼんやりとしてしまった…

この柳川の濠の在る風景…「風雨が強い場面が多かった中での好天」ということで殊更に記憶に残るのだが…余所には「在りそうで無い」という趣が忘れ難い…

知覧(鹿児島県):<ミュージアム知覧>と武家屋敷(2013.12.17)

↓鹿児島で「知覧を訪ねる」と言えば、ここは外せないと思うが…
>>知覧特攻平和会館

知覧は戦時のことを伝える他にも、「近世の薩摩」というような雰囲気をよく伝える地区が残る町である。

知覧は、中世には大きな城を擁していた要衝であったが、所謂“藩政”の近世には“麓”(ふもと)と呼び習わされた独特な集落が形成されていた。江戸時代、“一国一城”と言われるが、大名の領内で城や陣屋は「原則一箇所」ということになった…島津家の領国では戦国時代末期の拡張路線の経過が在って、武士身分の人達が余所よりも多く、地方の城を完全に廃止して領主の居館・政庁となった鹿児島城の城下に全てを吸収することが出来ない状況だった。そこで各地に“麓”と呼ばれることになる武士達の集落を築いた。

“麓”は城に準じるような型で、一帯の区画整備を行い、当該地域に住む武士達の住宅を建てているもので、鹿児島県内の各地にそうしたものが残っている。それらは“武家屋敷”と呼び習わされることになる。

↓こうした「知覧が辿った経過」については、この<ミュージアム知覧>に詳しい…
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↑この<ミュージアム知覧>で町の経過を勉強出来たお蔭で、風雨の中で多少苦心しながら、また酷く濡れながらの“武家屋敷”散策であったにも拘らず、それなりに楽しむことが出来た。

<ミュージアム知覧>は<知覧特攻平和会館>の隣である…料金的にかなりお得な“共通入場券”というモノも在る…

<知覧特攻平和会館>は「雨の平日」という条件ながら、それなりに来訪者が在ったのに対し、<ミュージアム知覧>は「貸切か?!」という具合であった…

折角“共通入場券”も在るのだが…私が視掛けた様子では…<知覧特攻平和会館>の入口で「そこには何が在りますか?」という来場者の問いに対し、「昔の農具等が在って」と答えていた。確かに昔の農具は在って、それはそれで目立っていたが、<ミュージアム知覧>では「“武家屋敷”として知られる街並みが造られる歩みのあらましなどを紹介する展示」が記憶に残る。そちらを前面に出すべきではなかろうか?ジオラマやビデオを駆使して、知覧の歩みが判り易く紹介されていたし、武士達が住んでいただけに刀剣や甲冑というような「らしい」モノも少し在った…“武家屋敷”は知覧の「素晴らしい見どころ」な訳で、<ミュージアム知覧>についても、それに絡めて紹介すべきだと思う。

<ミュージアム知覧>で少々予習し、“麓”と呼び習わされた地区へ、雨の中をゆっくり歩いて進んだ…

↓“麓”であった武家屋敷の地区は、街路に少し特徴が在る…
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↑「端から端」が「真っ直ぐ見通せない」ような型にデザインされているのだ…遠くに雨に煙る山が見えるのだが、路の先は行き止まりになっている…

「端から端」が「真っ直ぐ見通せない」ような型の路というのは、「防衛施設の一部でもある」という考え方で拓かれた城下町で見受けられるものであるが、この“麓”もそういう発想で築かれていることが判る。

こうした路の脇に武士達が住んでいた住宅が並ぶ。住宅は石垣や塀に囲われたように各戸毎に並ぶのだが、入口を入ってから「真っ直ぐに建物に入れない」ようになっている。石垣や塀の間の門を入ると、眼前に更に塀等が配されていて、「コ」の字や「己」の字のように動かなければ、建物の入口や庭の辺りに出られない…こういう構造…“城門”に見受けられるものである。攻め方の人数が一気に城内へ踏み込むことを避け、可能であれば門の周辺で攻め方の進行を妨げる攻撃を加えようという発想で築かれたモノだ…敵が町に押し寄せるような状況を想定し、各自が家に篭って抵抗することを想って築いたのであろう…

区画の整理の仕方、各住宅の建て方は全く「城下町をもその一部と考えている大きな城」のようであり、または「○○城のXX丸の中」という按配だ…“麓”とは、遺構を訪れる我々の眼には「城に準じたモノ」というように見えるが、これを築いた人達や、ここに住んでいた人達にとっては「城そのもの」であったことが伺える…

↓住宅であった場所の一部には見事な庭が伝えられ、それらを見学することが出来る…
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↑決して仰々しいお屋敷というのでもない、普通な住宅というように見える建物ながら、庭はなかなかに趣向を凝らしていた。

植え込みの型を何かに見立ててみる、例えば上記の写真では「鶴と亀」という“隠しテーマ”も在るようだ…こうした庭は“和風”な感じもするが、何か他地域の庭園に見られる雰囲気とは若干異なる“当地風”が感じられる。こうした庭園に見られるようなデザインにした樹だが、知覧では街路樹のデザインに採り入れている例も視掛けた…

↓空き地になっていた場所には四阿が設けられて休憩も出来た。雨だったので利用したが…
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↑周辺に紅く小さな紅葉が散っていた…雨に湿って、独特な趣である…更に「12月に視る濡れた落葉」というようなものは、12月半ば以降は積雪が半ば当然な地域から訪ねている眼には、少しエキゾチックなモノに映る…

なかなかに風雨が強く、やや苦心しながら一帯を視て回った…

↓雨が強く、足元が水浸しのような箇所も多かったが、各所で視た庭は何れも味わいが在った…
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↑敷地の外の、何か「南九州の山林」という趣が強い木々が“背景画”として組み入れられたような、この日の最後に視た庭園が記憶に残る…池には鯉が居て、写真には入っていない手前には、実を付けた“桜島小みかん”の樹も在った…「実っている柑橘類の樹」というのも、「遠く九州の地を訪ねている…」という感慨を呼び覚ましてくれる代物だ…

一口に「武家屋敷」とは言っても、それを伝えている地域毎に色々な特徴が在るものだ…知覧の、住んでいた人達にとっては「城そのもの」であったことを覗わせる「防衛機能を重視した計画に基づく町」であったモノ―「何世代かに亘って築いた?」という想像をさせてくれる程のモノ―も視たが、もっと「住機能」を重視したように見える島原のモノも面白かった。こうしたモノにはもっと触れてみたいと想う…

正直、「折角来たから…」と歩き回ったのだが、この武家屋敷の独特な趣の記憶と同じ程度に「ここは雨風で大変だった…」という記憶が強く残る…次の機会が在るか否かは判らないが、今度は好天の日に訪ねて、この独特な趣を満喫したいものだ…

鹿児島:<こむらさき>のラーメン(2013.12.17)

日頃は「腹空いた…」を連呼しているような傾向も在るのだが、旅に出ると、食事を摂るという営みがいい加減になってしまう。「気が向くままに動く」というような、休暇の時にはそうした傾向が際立つ…“朝食なし”ということで安価な宿に泊まってみたり、起き出して間もなくに戸外へ出て昼頃まで動き回っているとか、早朝5時頃の始発列車で動き始めてみたりというようなことを連発してしまう…食事は「いよいよ空腹になった時」ということになる…

鹿児島では、早朝から桜島を眺めに出てみたのだったが…雨が強く、全然視られなかった…それを残念に思ったが…それはそれとして、知覧を訪ねてみることにした。バスでの往復…復路は途中から路面電車ということにした。

鹿児島中央駅に戻ると、普通の昼食時間帯は終わっているような感じだった…鹿児島中央駅の駅ビルの地階に入り、食品スーパーを視付けた。知覧で樹に実が成っているのを視て興味を覚えた“桜島小みかん”を探してみると、手頃なモノが在った。

“桜島小みかん”を抱えて宿に引揚げようとしたが…酷く空腹だった…朝、「桜島が見えなかった…」と鹿児島中央駅辺りに戻って、知覧へ向かうバスが出る前にコンビニに入り、“枕崎鰹”なる握り飯を眼に留め、それを頂いたというだけで、他は水、茶、珈琲を頂いただけだった…そして風雨の中、距離にすると存外なものになりそうな程度に歩き回った…空腹を覚えない筈がない状態だ…

鹿児島中央駅の駅ビルの地階は、食品系の店、フードコート、各種飲食店が入居している…何気なく辺りを視て、フードコートの一画を視た。最初に眼に飛び込んだのは“長崎ちゃんぽん”の文字…申し訳ないが、前日に長崎・島原・熊本・八代を経て鹿児島にやって来ていて、長崎で“ちゃんぽん”は頂いた…「もう一捻り…」と思って辺りを伺うと…

↓こういうモノを!!
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↑鹿児島の老舗ラーメン店の支店だ!!

札幌ラーメンのような縮れた麺ではなく、細いうどんのようなスッキリした麺で、豚骨を基調にしたと思われるスープがなかなかに好い…この辺、南九州の味に縁深い福岡在住の友人は「“札幌ラーメン”の“味噌ラーメン”に何処と無く通じる」との感を抱いていると言うが、私も同感である…

鹿児島は「佳い肉が多く出回っている」ような感だが、具材としてチャーシューを刻んだモノが乗っている…この刻んだチャーシュー!!皿に山盛りにして、パクパクと頂きたくなるような感で、凄く美味い。そして、この店ではキャベツを入れているのだが、これがラーメンに凄く合う。

この店は、天文館地区で昭和20年代に起こった店で、永く営業を続けて親しまれている老舗である。その天文館地区の店の方も、2013年3月に寄った記憶が在る…駅ビルが出来た時、恐らく「鹿児島らしい味を供する店を是非!!」ということで、駅ビルを運営する会社との間で相談が在って出店したのだと推測するが…ここで出くわすことが出来て善かった!!

鹿児島中央駅の駅ビルだが、この老舗のラーメン店の他にも、名物のカキ氷“白くま”を供する店等も出店している。存外に好い場所だ…

実は私は“ラーメン党”という訳でもない。寧ろ“○○丼”というようなモノを好む部類だ…が、それでも時には「美味いラーメン」は好い。この時は、風雨の中を歩き回って「多少冷えた…」感じだったことも在り、熱いスープが心地好かったことを思い出す…

博多駅:JR九州のポスター(2013.12.14)

12月13日夜の新千歳・関西便欠航を受けた“仕切り直し”で、12月14日に福岡へ飛んだ…「博多駅に着いてから、込み合うエスカレーターに乗ったり、広い構内を歩き回る方が余程時間を要する…」と驚いてしまう程呆気なく、福岡空港から博多駅に着いた…

博多駅から長崎駅に向かうことにした…<九州ネットきっぷ>であれば、<2枚きっぷ>とか<4枚きっぷ>と呼ばれている往復券、回数券の「1枚分」と大差が無い料金で特急列車を利用可能なのだ。「博多の“指定休憩所”」と呼んでいるネットカフェから<九州ネットきっぷ>を手配した。

そんなことをやって博多駅へ向かった…乗車する予定の列車まで、多少の間は在ったが、九州の大きな駅では、個性的なデザインを前面に押し出したような個性的な車輌や、最近では少数派になっているように見える、独特な塗装を施した国鉄時代以来の車輌が行き交う様を視られるので、少し位の間は寧ろ好ましい位だ…

↓駅のホームでこんなモノを視掛けた…
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↑博多・佐世保間で活躍する783系、博多・長崎間で活躍する885系と、特急用車輌の大きなイラストだ…

これは<2枚きっぷ>とか<4枚きっぷ>と呼ばれている、往復券、回数券の告知をするポスターだ…「鉄道駅に鉄道会社が掲示するモノ」としては有り触れた…否、当然なモノかもしれないが、何となく眼に留まった…

何かこうやって使用車輌を前面に押し出した列車利用を呼び掛ける広告に触れると、“普通な主要都市間の特急列車”というモノが「乗ること自体に大きな意味ある体験」という次元の“豪華客船”か何かのような扱いをされているように思えた…こういう辺りに、関係者の皆さんの列車運行への矜持や愛着のようなものを感じる…

ここでは博多・佐世保間、博多・長崎間の列車のポスターだったが、各地でこの系譜ということになる色々なポスターを視掛けた…写真に撮ったのは、ここだけだったのだが…

結局、このポスターにある「博多→長崎」の885系に乗車した…あのレザー張のシートで、西へ向かう夕陽を追う様に進み、暗くなった長崎駅の行き止まりホームに到着したのは…愉しい体験であった…

平戸大橋(2013.12.20)

平戸が“島”で、九州側と橋で結ばれているということは、種々の資料を視て承知していた。とは言っても、漫然と「地図上の線」として承知していることと、大きな橋梁の実物を視ることとの間には隔たりが在るように思う。「地図上の線」としての橋は、何処にでも在りそうな「通過した時に橋であることが意識し悪いモノ」も「海上の大きな橋梁」も「同じような線」にしかならないからだ…

佐世保から松浦鉄道のディーゼルカーに揺られながら進んだ。車内に貼り出された停車駅案内を時々見ながら、目指すたびら平戸口駅が近付いて来たことに気付く。海が見え隠れする車窓になり、大きな橋を支える背が高い柱が見えた。赤く巨大なモノだった…

海岸部が平坦で、陸側が丘陵状に盛り上がっているような地形はよく在ると思うのだが、たびら平戸口駅はその丘陵状に少し高くなった辺りに在る駅だった。鉄路も、その少し小高くなった辺りに敷かれている感じだ。駅前でキョロキョロと様子を窺ったが、車窓に視た巨大な橋の一部は見えない…

「駅前にバスが現れるでもなく…」と辺りを歩き始めた際、とりあえず平戸大橋の姿が視たかった…海岸部の道路に出て、列車で来た辺りを遡るかのように歩いた。然程広くも無い道路だが、とりあえず車輛の往来が途切れ悪い感じであった…

↓やがて橋の姿が見えた!!鮮やかな朱色に塗られた吊り橋である…
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↑「船で渡る」以外に訪ね悪かった平戸を“陸続き”にする大きな橋だ…

この田平と平戸の間の海は「平戸瀬戸」と呼ばれるそうだが、「平戸瀬戸」を横断する橋の総延長は665mで、橋が結んでいる「平戸瀬戸」の上に相当する部分(中央径間)は465.4m在るという。橋桁の下の高さは30mに及ぶという…9階、10階のビルの屋上のような高さで、465.4mも海を横切っている訳だ…

この橋は1966年に長崎県が計画し、1969年に計画が国から建設計画が認可され、1973年に着工し、1977年に開通・供用となったそうだ。既に、開通以来35年以上になる訳だ…

平戸大橋を含む区間は、開通時(1977年)から2010年に「無料開放」となるまでは有料道路だったそうだ…

もう少し元気だったら―この平戸大橋の姿を視ていた時に田平天主堂を示す看板を視て向かい始め、往復7km程度を歩いて、或る程度エネルギーを使ってしまっていた…―橋に備えられた歩道を歩いてみるということもしたかもしれないが…結局、“平戸口桟橋”から“平戸桟橋”までのバスに乗って橋を往復した…橋に差し掛かった辺りで海が見え、大きな柱を始めとする橋の構造物が見え、見る見る間に平戸側の陸地が近付き、何時の間にか平戸の街中に至ってしまった…

↓平戸の“平戸桟橋”から少し歩いた辺りからも、平戸大橋は見える…
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↑海と陸との境目に巨大な柱が立てられ、車輛や歩行者が行き交う部分が吊られるという、構造の巨大さが、こちら側から見た場合の方がより強く感じられたような気がした…

こうした巨大な橋梁というようなものは、何処で何度視ても、各々に見応えが在る…平戸大橋…再会することが在れば、今度は朱色が映える青空の下であることを希望する…

田平天主堂(カトリック田平教会)(2013.12.20)

長崎県内では、現在の長崎市の一部ということになる地域や、九十九島や五島のような多くの島嶼が見受けられる地域等で、永い禁教の時代を挟んでいても、キリスト教の信仰が受け継がれて来た。明治期に入り、信教が自由となったと思われたものの、激しい弾圧が行われたという経過も在ったが、それでも信仰は受け継がれ、やがて広がった。

明治期以降、長崎県各地でキリスト教の信仰を受け継ぐ人達等が、祈りの場となる教会の建築を目指した。人々の想いが結実した、“天主堂”と呼び習わされることになる教会は各地に登場した。その一つが田平に在る…田平天主堂だ…

こうした「西海の天主堂」というような各地の教会建築について、太宰府の九州国立博物館で上映されていた「文化財紹介の映像プログラム」で視て感心していた翌日に田平に至り、そこで「田平天主堂→」という看板を偶々視掛けた…

こういう「タイムリーな発見」は行動に直結する…「昨日の映像で視た田平天主堂?行くぞ!!」と後先を考えずに歩き始めた…

“平戸の瀬戸”を渡る風がやや冷たく、「ひんやり感」が若干強いように思え、多少雲も多かったが、雨は降っていなかった。降雨にやや悩まされていた旅の中、「雨が降らなければ、歩くのは苦でもない…」と元気よく進み始めた。

当初…何やら丘陵状の地形になっている辺りを少しばかり上がって、少し進むとか、「一寸先の枝道を一本入って…」というような場所に田平天主堂が在るものだと勝手に思っていたが…「多分、数百メートル…もう10分近く矢印の方向に歩いたが?」と思い、何処かで案内看板を見落として見当違いの方向に進んでいるのかという不安も覚えたが…また「田平天主堂→」の看板が現れた…“2.1km”と距離が記されている…最初は“km”と在ったかもしれないが、“m”と視たか、或いは「タイムリーに興味深いモノへの道筋…これは好い!!」と気持ちが逸って距離表示を見落としてしまっていたようだ…

「要は…往復で1時間とか1時間半歩く…許容範囲か?例えば天候の好かった12月15日は長崎に居て、歩いた時間は相当なものだった筈で…大丈夫であろう…平戸だの田平だのと、“次の機会”は望めないかもしれない…行くぞ!!!」と考えて前進した…

進んだのは。丘陵の地形に沿うような、カーブを描いた緩やかな上り坂だった…周辺は、何かの畑や林が見受けられる…日が落ちてしまったら真っ暗になりそうな状態だ…バス停が在ったので、発着時刻を見てみたが…何やら1日に指折り数える程度の運行で、当分バスは動かない感であった…

何か、本当にこの道で好いものかと心細さを覚えた…そうしていると、風に流れる雲が割れ目を作り出し、割れ目から光が射し込む様が上空に見えた…「“御導き”というようなことか?」と思った…そのまま進めば、地元の農業高校らしいが、大きな建物やグランドという「学校らしい」モノが眼に留まり、何やらグランドでサッカーをやっている少年達が居た…正直、そこに至るまで2台か3台の車が通るのを視掛けた程度だったので、何か妙に安堵感のようなものを覚えた…そして!!「田平天主堂→」の看板が現れた…“900m”…近い!!

丘陵の地形に沿うような、カーブを描いた緩やかな上り坂という道を歩む歩調が少し早まった…もう少しで田平天主堂が…

↓思っていると、田平天主堂は堂々たる姿を現した…
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↑丹念に煉瓦が積み上げられた天主堂…「凄い…」と感嘆の声が漏れた…

田平の瀬戸山…明治期に入って、各地からこの地に移り住んだ人達が開墾を行っている…その各地から移り住んだ人達の中に、長崎県内各地のキリスト教を信仰する人達が在った。この信徒達の祈りの場となる教会が建築されることとなり、各地の教会建築で活躍した鉄川与助が、この田平での仕事を行うことになる…

鉄川与助とは、長崎県内で活動したド・ロ神父から教会建築のこと等を学んだという棟梁だ。現在も五島の各地に残る“天主堂”、そして田平天主堂や方々の教会建築を手掛けた人物だ。自身がキリスト教の熱心な信者ということではなかったそうだが、人々の熱い想いを受け止めるような立派な建築を多く遺している…

田平天主堂は1916年に着工し、1918年に完成した。地元の信徒達を指導した中田藤吉神父が中心となり、多くの人達の勤労奉仕も在ったという。田平天主堂は煉瓦造だが、煉瓦を接ぐ材料として石灰と赤土を混ぜた“アマカワ”を用いている。その“アマカワ”に使う石灰は、中田神父や信徒達が貝殻を集め―自分達で消費したモノを集めた他、近隣の街で回収したという…―てそれを焼いて造ったのだという。

↓鉄川与助が手掛けた煉瓦造の建物としては後期の作になるというが、“傑作”と言われているそうだ…なるほど、見蕩れてしまう建物だ…
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↑多くの人達が想いを込めて用意した“アマカワ”で、丹念に積まれた煉瓦を接いでいるのだが、瓦に十字架を入れるなど、細部も凝っている…

↓上空の風が強めであったのか、雲が流れて極短い間だが青空も覗いた…
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↑祭壇に相当する部分の裏側である…見事に「欧州諸国で見受けられる様式」が容れられている…

↓正面の鐘楼…
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↑非常に重厚だ…

管理事務所的な感じの休憩所が在り、流石に身体が冷えたので多少温まらせて頂いた…居合わせた係のおじさんと言葉を交わしたが、冬季にたびら平戸口駅から歩いてやって来るというのは珍しいらしい…私にしてみれば、汗をかき難い冬だから歩けたのであって、暑い夏季なら途中でダウンしてしまったことであろう…また近年は、観光バスが立寄る場面も増えているそうだ…

この田平天主堂は、公式には「カトリック田平教会」と言い、現在も信徒達の祈りの場として普通に機能している…丁度、そうした関係の催事と縁が薄い時間帯と曜日に折りよく御邪魔した型である…

一頻り見学した後、また平戸大橋が見えるような、バスの運行も多そうな辺りを目指して歩き始めた…

↓振り返ると、雲の切れ間から天主堂に光が降り注いでいる…
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この日は、何か「極々小さな巡礼の旅」でもしたかのような、不思議な気分だった…或いは微妙な昂揚感のようなものを感じた…更に言えば…「北の、地の果て」から「西海の地」に辿り着き、天主堂へ至る道を歩いた経験は、今般の旅の“ハイライト”だったかもしれない…

静かな丘陵に堂々と佇んでいた、巨大とまでは言い難いものの、十分に大きく、多くの人達が思いを込めて煉瓦を積み上げて接いだ天主堂に、薄暗い冬の空から光が差し込んだ様…これが忘れられない…

平戸(長崎県):アゴめし(2013.12.20)

平戸大橋を渡って平戸に上陸することを意図した日…たびら平戸口駅前で「バス…ここには余り来ないようだ…とりあえず…」と歩き始め、平戸大橋を遠望してみようとして進み、前日の九州国立博物館で観た紹介映像の故に関心を抱いていた田平天主堂への「→」を発見し、そこへ向かってしまった…結果的に往復で7km程度を歩き回る羽目になって、「とんでもない回り道」の末に平戸上陸を果たした…

何とか乗込んだバスで“平戸桟橋”という辺りに着いて、とりあえず「漸く着いた…」とぼんやりしてしまったが…観光案内所が眼に留まった…訪ねてみたかった“オランダ商館”への道順が判る地図を頂いたのだったが…既にピークと見られる時間帯を過ぎたランチタイムであったことから、直ぐ近くで食事が摂れる場所に関して、案内書のお兄さんに尋ねてみた…「何を召し上がりますかね?海のモノ…刺身なんかは?」ということになり、文字どおり眼前に見えていた場所を教えて頂いた…

平戸周辺は、地形の関係で複雑な潮流の海域で、色々な海の幸に恵まれているようだ。観光案内所で教えて頂いた店は、リーズナブルな価格帯で刺身や魚料理が頂ける場所だった…

そこで少し気になるメニューを視付けた…

↓刺身の盛り合わせに合わせて頼んでみた“気になるメニュー”だが…見掛けは特段に奇異ではない…
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↑このメニュー…「アゴめし」という…

「アゴめし」??“めし”は米飯のこととして、“アゴ”が判らない…実際、私の少し後にやって来た旅行中と見受けられる人達も「“アゴめし”??」と疑問の声を上げていた…

“アゴ”というのは“トビウオ”のことである。あの大きな胸鰭を広げて、海面近くを滑空するトビウオである…トビウオは、九州や日本海側の一部では“アゴ”の別名で呼ばれるのだそうだ…長崎県内等、九州の北西部辺りでは出汁の材料として“アゴ”が好まれているようだ。夏季が旬で、焼いたり揚げたり、または刺身で頂くらしい…

「アゴめし」は、この“アゴ”の出汁と身を入れた炊込みご飯だった…身の感じはサンマやイワシを想起させるような感じだった…

期せずして、非常に「当地らしい」感じのモノを頂いたのは忘れ難い…

佐賀:焼鳥(2013.12.21)

佐賀で「思い出の味」ということになる“親子丼”に出逢えるということで張り切ったが、肝心の店がやや込み合っていて、更に「もう直ぐ“帰国”なので軽く呑みたい…」等と思い、気になった焼鳥の店に入った。

小さな店だったが、忘年会と見受けられる人達のグループが奥の小上がりに何組も居た様子だった。一寸した人気店と見受けられた…“職人”というような風格が漂っていた店主氏が、若いスタッフ達に「X卓…○○に手が着いて数が減り始めたら次の△△を出す…その次は□□にする…」等と、自慢の料理を順次気持ち好く愉しめるような配慮が行き届いている感だった…なかなかに素敵だ!!

↓カウンター席に陣取って、何気なく眼に留まった…
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↑日本酒の箱だ…

“九州”と聞けば焼酎を想起するが、日本酒も各地で醸造されている。佐賀は“酒”と言えば寧ろ日本酒なのかもしれない…県内各地に日本酒の酒造蔵が多く在って、それらを巡っているファンも多いらしい…

↓“冬”は熱燗である…
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↑何となく「熱燗が合う!!」と思えた酒だった…

銘柄は<鍋島>というそうだ…佐賀は、鍋島家中による領国統治の中心となった政庁と領主の館を兼ねたモノということになる佐賀城の城下町だったのだ…こういう「如何にも“御当地”」な感じの酒が好い…

適当に幾つかの肴を頼んだが、何れもなかなかに好かった…出て来た端からどんどん平らげてしまった…

↓“なんこつ”は「名物」を謳う人気メニューだ…
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↑黒酢が掛かっている…程好い酸味と甘味とが、カリカリに焼き上がった“なんこつ”に合っていた…きっと、色々な工夫を重ねて行き着いたメニューなのだと思った。

↓やや驚いたのはこれだった…
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↑焼鳥としては定番な感じの“鶏皮”なのだが、「“鶏皮”とはこんなに美味いものか!?」と思い、思わず「もう一つ!!」と追加してしまった…

十分な厚みが在って、厚み部分が良質な脂質なのであろう…丁寧に串に巻いた表面がカリカリに香ばしく、噛んだ時に口に入る皮の裏が柔らかく、トロトロなのだ…秀逸だった…

恐らく、良質の肉がリーズナブルな価格で出回っているような地域故に、こうした「こんなに美味いものか!?」にも出逢えるのであろう…

また何時か、<鍋島>の杯を傾けながら、「こんなに美味いものか!?」と驚かされる場合さえ在る焼鳥を摘んでみたいものだ…

2012年に佐賀を歩き回って愉しかったので、実は2013年にも未だ寄っていなかった場所を訪れてみたいと考えていたが…結局、雨が強くなってきた福岡から追われるように出て、佐賀に夕方近くに着き、翌朝は早朝から吉野ヶ里歴史公園を訪ね、その足で福岡空港へ移動したために佐賀は殆ど歩き回っていない…これも“積み残し”だ…

佐賀:親子丼(2013.12.21)

「全く初めて」ということでもない「2回目以降」の訪問先で、「見覚えの在る場所」に至ると安堵感を覚える。私の場合、街中のような場所を歩き回る際は、気付かない間に看板や信号機や公共施設や商業施設等の「無数の目印」を記憶して、それを頼りに動き回る性分らしく、「見覚えが在る」に安堵する度合いが強いようだ…

そういう安堵感に加えて、「見覚えが在る」モノに関して“好感触”が残っている場合、それと再会したことを喜んでしまう…

↓佐賀駅の傍に在る場所だ…“駅前横丁”と称しているが、正しく佐賀駅の周辺である…
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↑小さなテナントビルというようなモノだと思う。数店の飲食店が入居している。時節柄“忘年会”関係と見受けられる人達の出入りも少し目立った…

2012年に「全く初めて」で佐賀に至った際、ここに立ち寄ったことを思い出した。そして…

↓「思い出の味」を求めてしまった…
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↑親子丼である!!

鹿児島県等、九州の南側ではなかなかにポピュラーなようだが、九州方面では“鶏刺”というものをよく見掛ける。鮮度の高い鶏肉を刺身にして、薬味や調味料と合わせて頂くというものである…

この親子丼は、その“鶏刺”に利用可能であるという鶏肉に、店主氏達の表現を借りると「ミディアムレア」で火を通して仕上げるものである。半ば“鶏刺”の表層近くに火が通っているので、何処となく「鰹のたたき」を想起させる面も在るのだが、食感の素晴らしい鶏肉が柔らかい卵に包まれ、出汁の中に浮かび、それが米飯と非常に合う…

九州というのは肉用家畜の肥育が盛んな土地である。故に鮮度の高い肉類がリーズナブルな価格で出回るのであろう…

親子丼…何も佐賀の名物料理というのでも何でもないと思う。駅の傍の、普通に地元の人が出入りする、店主氏達2人で切り盛りしていると見受けられる小さな居酒屋の当たり前なメニューだが…非常に愛おしい味だ!!

「翌日に福岡から飛行機…」というシチュエーション…或いは「この親子丼」を頂く可能性を求めて、「佐賀に前泊」というのも“在り”かもしれない…

鳥栖駅(佐賀県):813系電車(2013.12.19)

九州各県のJR線で活躍する様々な車輛に乗車したが、九州北部の“福岡都市圏”とでも言えるような地域では、編成が長めな「大都市近郊型」というタイプの電車を多く見掛けた…

↓そうした車輛の中、何となく記憶に残るのがこの813系だ…
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↑快速列車として運用されている事例が目に留まることが多かった。実際、自身でこの車輛に乗車した際も快速列車であった例ばかりだった…

振り返ると…2010年のことだった…下関のビルに設けられた展望室から北九州を望み、「こんなに近いなら…」と下関駅で門司行の列車に乗車してみた…北海道内の長めなトンネル区間―例えば、旭川から深川に向かう途中の区間や、旭川・富良野から帯広方面へ向かう場合の新得駅の手前辺りのような場所…―を思うと「余りに呆気ない…」ような感じで九州に上陸してしまった…関門海峡の海底トンネル区間を含めて7分間程度で上陸してしまったのだ…産れて初めての九州上陸をアッサリと達成した時、既に夜になっていた…「九州に至ってしまった?とりあえず…九州で最も大きな駅であるという博多に辿り着いてみるか?」と予備知識の無いままに、「博多の方角に行く列車は??どれに乗れば善い??」と何本かの列車で移動してみた。門司や小倉と博多との間が、何となく思っていた以上に遠いと感じたことが思い出される。その時に、やや要領を得ずに乗り込んだ列車に使用されていた、「見慣れない…否、視たことがない車輛?JR九州の車輛か?! 」と考えてキョロキョロしながら乗っていたのが、確かこの813系だったと思う…後に関連書籍に当たることになる、所謂“水戸岡デザイン”との邂逅でもあった…

その後、2012年、2013年の旅を通じて随分とJR九州の列車を利用させて頂き、色々な車輛も眼に馴染んだが、813系は「JR九州と出逢った」というような、何となく思い出に残る車輛だ…

この813系は、1994年に初登場して以降、細部の仕様が変更されてはいるが、2009年に至るまで順次増備されてきた経過が在るようだ。

基本的には3輛ユニットで動くようになっていて、一部は運用する区間の事情で2輛で動くようになっていたり、ワンマン運行に対応するようにしていたらしい。が、最近は「2輛ワンマン運行」の区間は増備された817系が活躍しているので、“福岡都市圏”を中心とした長編成の列車で見掛けることが多くなっているようだ…

↓大牟田・鳥栖間―西鉄からJRの乗換えが円滑に出来るということで、敢えて大牟田に出た経過が在った…―で乗車した際、近くの席が空いていたので、内装の写真も撮ってみた…
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↑セミクロスシートというようになっていて、1時間前後、またはそれ以上の乗車でも疲れ難い…シートに使う布地には色々なモノが在るようだが、この車輌では赤地に黒系の模様のモノが選ばれている…

この813系辺りから、例の“水戸岡デザイン”が前面に出ているようで、この車輛の外観にもそれが感じられる。基本的に金属色のボディーだが、JR九州のコーポレートカラーの赤に加えて黒が組み合わさった車体正面の感じは、華やかであると同時に力強い感じがする…

これからも、きっと出くわす都度毎に「全く初めて乗ったJR九州の車輛…」ということを思い出すであろう。加えて、それに様々な機会の様々な状況の思い出がどんどん重なって行くのだと思う…また出会ってみたい813系だ…

ところで…鳥栖駅で撮影した、記憶に残るJR九州の車輌の写真が色々と在るのだが…鳥栖駅は博多・熊本間を南北に結び、肥薩おれんじ鉄道になっている区間を挟んで鹿児島に至る鹿児島本線と、長崎方面へ延びる長崎本線とが交差する場所である関係上、何度か立寄って列車を乗換えた。2013年12月は、「長崎県内と、それ以外の地域を適宜往来」というような様相でもあったのだ…そうした意味で、何となく馴染んだのだが、実は駅前に出たものの強い雨のために、その辺を歩き回ることを断念したというような場面も在った…或いは、「後の日程」を気にして、敢えて駅前に出なかったという場面も在ったが…「鳥栖駅周辺の様子に親しむ」というのも、何となく“積み残し”という気分の事項である…

熊本フェリー <オーシャンアロー>(2013.12.16)

縁が薄い土地を訪ねてみて、少し変わった乗物を利用して移動をする…意外に愉しいことだと思う。

「島原から熊本へ船で渡った」という話し…航路に関して、知られていると言えば知られているものの、知らない方も存外に多いように見受けられる…

↓利用してみたのはこの航路だ…
>>熊本フェリー|長崎(島原・雲仙)と熊本を最短時間で結ぶ高速カーフェリー『オーシャンアロー』

「従前の約1時間を約30分に短縮した高速フェリー」というもの…強く興味を抱いた…と言うよりも、「とりあえず一度乗船してみなければならない」とまで思った。と言うのも、自身も港町の住人であり、フェリー航路というものに強い関心を寄せているからなのだが…

島原鉄道で島原外港駅まで向かい、静かな駅から海側へ3分も歩けばフェリーターミナルに着いてしまう。上記のサイトの熊本フェリーの窓口は直ぐに判り、切符を求めた。熊本のフェリー乗場から熊本駅までのバス乗車券もセットになった切符が在る。これが1100円だった。30分程度の乗船に加えて、バスは20分と少しを要する。妥当な料金…否、安価だと思った…(現在は100円値上げになったようだが、それでもリーズナブルな価格だと思う…)

早朝から動き回っていて、食事らしい食事も摂らずに居たので、ターミナル内でうどんを頂いた。九州の流儀のうどん…やや麺が柔らかいような感じがするのだが、それもなかなかに好い…

<オーシャンアロー>は静かにターミナルで待機中というのではなかった…熊本から到着して、直ぐに折り返すようになっていた。ということで、その雄姿はターミナルから見える岸壁には無かった…

↓暫く様子を視ていると、<オーシャンアロー>はスルスルと滑るように港に入って来て、手慣れた様子で接岸した。
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↑想像していた感じより大きいようにも、小さいようにも思えた…一寸「微妙な大きさ」という感じの船だった…

接岸して程なく、車載甲板の大きな扉が開き、埠頭に設けられている橋に沢山の車輛が吐き出された…そして待っていた多くの車輛が、積込車輛に割り当てられた待機所方向へ移動している…

そんな様子を視ていると、案内が在って乗船が始まった。長い通路に列になって待っていると、何かコンサート会場に入る場面や、スポーツの試合を観戦する場面のように、差し出した切符を係員が次々と集めて、係員に切符を渡した乗客が次々に船内に吸い込まれた。

船内は、ホテルのロビーや、古くから在る店舗面積が広い喫茶店のような、5人、6人が一寸したテーブルを囲んで座るような按配のラウンジ風な場所と、講演会を聴くホールのようにシートがずらりと並べられた場所とに大別出来た。

↓船の進行方向側には、別料金が必要な指定席のシートが並んでいた。
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↑船内は見る見る乗客で溢れたが、この指定席シートは空いていた…

結果として、熊本が近付くに連れて雲が少し多目になって行ったのだが、島原港は晴れて気持ちが良く、「私の基準」では寒いという程でもなかったので、外の様子が視易いデッキに陣取った…

↓カモメが沢山居た…
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↑カモメは“渡り鳥”で、こうして視られる時季も在れば、視られない時季も在るのだそうだ…

このカモメに関して…餌を撒いて大騒ぎと言う人達が大勢居て驚いた…単に「声が大きい」というだけなのかもしれないが…そうやって大騒ぎしていた人達の中にアジアの方々から来ている外国人グループが非常に目立っていた…日本語の話し声が殆ど聞こえない程だった…

カモメに餌を撒いて大騒ぎという状況下、船が動き出すと、島原半島の山々が見る見る遠ざかった…小さな船のように、“高速”が強く意識されるのでもない。稚内で利用したことがあるフェリーも含め、一般的なフェリーは15ノット程度の巡航速度であるというが、<オーシャンアロー>は30ノット程度であるらしい。船が或る程度大きいためか、「通常の倍程度」という速度は意識し悪い―高速道路を乗用車で走る時と、バスで走る時の、速度の感じ方の差に似ているのかもしれない…―ものだったが、「山の遠ざかり方」を視て速度を感じた…

外の様子を視ていて、船内の様子を覗いて、売店を冷かして、珈琲を一杯頂いてというようなことをしていた間に、熊本の沿岸、養殖漁業等をしていると見受けられる様子が見えて、直ぐに熊本に到着した…30分程度という時間など、あっという間に経ってしまう…

熊本に着いてみれば、ターミナルの通路と船を結ぶ扉が開き、正しく「催しが終わった後のホールの出口」という感で、次々と乗客がターミナルに出て行った…

↓熊本のターミナルの方が、船の全般的な雰囲気がよく見えるかもしれない…
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熊本では、島原と逆の向きに船が接岸していた。「車輛はどうやって出す?」と思えば…船の前側と後側の両方の扉が開閉可能なようだ。島原で車輛はトンネルに入るような要領で前進し、熊本に着いた時点でそのまま前進して上陸出来るということである…これは便利だ…

或る程度広い船で、何となく過ごす30分間…快適とか、快適でもないという次元ではなく、正しく「あっという間」であって些か驚いた…機会が在れば、また乗船してみたいものだ…

JR九州 キハ125(2013.12.20)

黄色の鉄道車輛…国によっては“警戒色”の黄色を好んで車輛の正面等に使用し、「接近時に目立つように」としている例も在るらしい…北海道内では例が思い浮かばないが、黄色い鉄道車輛というモノは、各地には存外に多いかもしれない…

↓たびら平戸口駅から松浦鉄道の列車に乗り、伊万里駅に到着後、道路を渡った正面のJR乗場に向かうと、黄色いディーゼルカーが乗客を迎えていた…
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↑このディーゼルカーは、伊万里駅に到着した列車がそのまま折り返すということで、やや長めに停車していた…

黄色のディーゼルカー…JR九州の“水戸岡デザイン”が容れられたように見える外観だ…

一瞬、以前に乗車したこともあったキハ200ではないかとも思ったが、少し様子が違った…キハ200は2輛ユニットで動くようになっている。眼前に在る車輛は1輛運行だ…1輛運行対応ということで、キハ220というのも在るが、それとも違う…

↓これはキハ125という車輛だ…
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↑前後2箇所の乗降用扉で、1輛でワンマン運行が可能なタイプのようだ…

ローカル線で用いていた車輛を更新しようということで、1993年に最初のモノが登場し、唐津と大分に配備されたという。2006年には大分の一部車両が唐津に移った。

現在JR九州では、「1輛でワンマン運行が可能なディーゼルカー」という車輛に関して、キハ220を標準仕様としているようで、唐津や大分で現在運用中のモノ以降、キハ125は製造されていないようだ。そうした意味で、やや希少な車輛に乗車出来たかもしれない。

車輛には「Y-DC125」というロゴが入っている。これは、"YELLOW ONE MAN DIESEL CAR"(黄色のワンマンディーゼルカー)というのを略して考えたロゴらしい…

このキハ125は、新潟鐵工所が地方鉄道向けに設計製作していた“NDCシリーズ”というモノの一つだという。島原鉄道のキハ2500は、これの“兄弟”に相当する。言われてみれば、やや外見も似ているかもしれない…この“NDCシリーズ”の“兄弟”は他にも方々で活躍しているそうだ…

この日は伊万里から唐津までこのキハ125に乗車し、唐津で福岡の地下鉄に直通している列車に乗り換えたのだった…通学の高校生が多めな時間帯の乗車だった…が、日が傾いてからの乗車で、沿線の様子は見え難かった…次の機会が在るなら…沿線の様子が判り易いような状況下で乗車してみたいものだ…

松浦鉄道 MR-600(2013.12.20)

松浦鉄道は、旧国鉄の“特定地方交通線”であり、廃止が検討されていたものを転換した第3セクターの鉄道である。沿線自治体等が出資している。1988年から松浦鉄道の列車が運行されている。

“西九州線”と呼ばれる松浦鉄道の路線は、“伊万里鉄道”を起源とする東側の有田・伊万里間、“佐世保軽便鉄道”を起源として“松浦線”として建設された伊万里・佐世保間から成り、93.8kmの区間だ…

「夜に着いて、朝に発つ」という型になり、若干未練が残った佐世保から松浦鉄道の列車に乗り、「日本最西端の駅」であるというたびら平戸口駅で下車して平戸市内で過ごした後、たびら平戸口駅から伊万里駅までの区間を乗車した。伊万里から有田は13kmであるそうだが、佐世保・たびら平戸口・伊万里でこの“西九州線”の大半に乗車出来たことになる…

↓佐世保駅で迎えてくれたのは、こういう車輛だった…
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↑1輛でワンマン運行のディーゼルカーだ…そしてここは、明確に“行き止まり式”な線路になっていた…

この“西九州線”だが…券を提示したり、運賃を支払ったりというようなことは、殆ど悉く「乗務員対応」になっているらしい…<旅名人の九州満喫きっぷ>を手にこの路線を利用しようとしていたが…佐世保駅で券にスタンプを押してくれる係員が見当たらないので、JRの改札に行ってスタンプを押してもらって、それから利用した…

↓「肥前 WEST LINER(ウェストライナー)」という愛称が付けられているそうだが、新しい感じの車輛だった…
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↑2006年から2011年で導入され、2007年から運行しているMR-600という型だ…現在21輛在るという…とりあえず…“新鋭”な車輌である…

何やら車輛の全面に丸いヘッドマークが付いて、地元の医院と見受けられる名前が在る…松浦鉄道では、こういうようなものも含めて、熱心に広告を募っている様子だ…

考えてみると、旧国鉄が廃止を検討した路線を3セクとして受け継いでから四半世紀を過ぎている…初期の頃に活躍した車輛は老朽化も目立ち始めていて、更新もされている…正しくこのMR-600は3セクの登場当初に活躍した車輛の入れ替えである訳だ…

↓車輛の横に、松浦鉄道のキャラクターである“マックスくん”が描かれていた…
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車輛の中は、ロングシートになっている箇所、4人掛けボックスになっている箇所、2人掛けボックスになっている箇所が在る。なかなかに利用し易い…が…車内に御手洗は無いように見受けられた…

12月の旅を振り返り…何か、随分と色々な場所に出向いては「1輛ワンマン運行のディーゼルカー」に乗車していたような…気がする…そして、それぞれが「何となく懐かしい」感で、若干の時間経過と共に色々な様子を思い出す…

島原鉄道 キハ2500(2013.12.16)

島原鉄道…「黄色いディーゼルカー」という印象が強い…

↓主流を占める…と言うより、この型の車輛しか見なかったような気もする…
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↑画は、島原駅から島原外港駅に向かおうとした際、反対側のホームに現れた諫早方面の列車を捉えたモノである…

この黄色いディーゼルカー…キハ2500と言う…

キハ2500は、老朽化していた車輛の置き換えということで1994年に初登場し、1997年、2000年に増備されたという。現在、島原鉄道の全ての列車がこのキハ2500で運行されているのだという…なるほど、「この型しか視なかった」という感じがした訳である…

ワンマン運行の列車が多数派を占めている状況と見受けられるが、各車輛は基本的に1輛運行出来るようになっているが、時々2輛連結の場合も在る。実際、諫早から島原に向かった際には、通勤・通学の時間帯でも在り、2輛連結で車掌が乗務していた。そしてその車掌が、車内での案内から、駅での乗降客への対応と一手にやっているようで、ホームを小走りに動き回っていた様子、何か一生懸命やっていて沿線の利用者の信頼と敬意を獲得しながら自信に溢れて活躍しているような様子が非常に記憶に残る…

↓車体には「島原の子守歌」を主題にしたイラストが入っている…何か、島原鉄道のマスコットマークという感じだ…このイラストは目立ち、南島原駅で見掛けた地元の幼稚園児による画の中でも、黄色い列車の車体にこのイラストらしいものが描き入れられていた程だ…
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↑画は島原外港駅で停車した車輛の脇で撮影したものである…

島原鉄道の黄色いディーゼルカーだが、黄色は「豊穣」を象徴するものらしい。そして青いラインが入っているが、これは「有明海」をイメージするそうだ…

諫早・島原間、島原・島原外港間と2回乗車したに過ぎないが、何か「妙に懐かしい」感じだ…或いは、多くの人が思い浮かべる「故郷のローカル線」というような空気感が、島原鉄道の列車には溢れているのかもしれない…

肥薩おれんじ鉄道 HSOR-100(2013.12.16)

「肥薩おれんじ鉄道」とは、八代・川内間の116.9kmのことで、嘗ての鹿児島本線の一部である。2004年の九州新幹線部分開業を契機に、この区間が“3セク”となった。

↓この肥薩おれんじ鉄道を走る車輛は、こんなディーゼルカーだ…2003年から準備された車輛とのことで、未だ新しく、綺麗な感じだった…
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↑八代駅で出発前に撮った画だ…基本的に1輛運行でワンマン運転となっているようだ…

「鹿児島本線の一部」であった八代・川内間は電化されている区間である。しかし、電車を走らせるとすれば、2輛をユニットとするモノを使用せざるを得ず、普段の輸送量に見合わなかったり、車輛の購入価格や整備維持費のことなどを色々と考慮して、この“HSOR-100”というディーゼルカーを導入したのだという。

八代・川内間の電化はそのまま残っていて、JR貨物が電化関係設備を管理しているそうだ。貨物列車は電気機関車が牽引して、この区間を走行している。JR貨物が肥薩おれんじ鉄道に線路の使用料を払う型になっているようだ。

↓車輛には、肥薩おれんじ鉄道のマークが大きく描かれている…
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↑この沿線…ミカンの類…柑橘類を名産としているような地域が連なっている…“おれんじ”…秀逸な命名かもしれない…

八代・川内間で乗車した写真の車輛は、標準的な塗装のもののようだ。“おれんじ”のイメージで橙色や緑なのだろうが…些か“JR東海風”と思えなくもなかった…この標準的な塗装の他、“イベント”的に変わった塗装を施すものや、ラッピング広告のものも在るらしい。

八代駅に列車が着く前、運転士はホームで待機していて、八代まで来た運転士と交代する。私が乗車した時は、女性の運転士だった。八代を発って、出水に至ると運転士が交代した。どうも、熊本県内は八代所属の乗務員、鹿児島県内は出水所属の乗務員という分担になっているようだ。

この肥薩おれんじ鉄道だが…沿線の高校生の通学等での利用が目立つ他、人口の少ない区間なので、利用者は少な目であるようだ。早朝から移動していた流れで乗車したため、時々居眠りもしながらの移動だったが…(八代駅で球磨焼酎と水を求め、多少呑んでいたということも在ったかもしれない…)ぼんやりしていて、不意に「貸切?!」と他の乗客が居ないかキョロキョロしてみるような場面も在った程に空いていた…

そんな状況で川内に至って、私自身を含めて指折り数える程度の乗客が下車した…私は川内から鹿児島中央に向かう列車に乗換えたが…以降の区間は、近隣で最大の都市である鹿児島の“生活圏”であるらしく、通学の生徒が多くなる時間帯であったことも手伝い、鹿児島中央まではかなり列車内が込み合っていた…肥薩おれんじ鉄道が多少気の毒に思えた…

肥薩おれんじ鉄道が走る区間は、車窓が美しいことで知られる区間である。海岸が素晴らしい!!その旨は、録音を流す車内放送でも言及―不知火海、東シナ海の紹介が在った…―されている。私が乗車した日は、天候が下り坂で「やや惜しい…」感じではあったのだが…

肥薩おれんじ鉄道は、常用する沿線住民が少な目でなかなか大変な中、「観光での利用の喚起」に力を注いでいると見受けられる…実際、「最近は厨房と食堂」という具合に改装した車輌を“おれんじ食堂”と称して運行して好評を博しているとも聞く…

私が乗車したのは、全く普通な列車だったが、使用されているディーゼルカーは新しいモノで快適であったし、使い易い御手洗が備えられていて、やや時間が長めの乗車も苦にならない…次の機会が在るのなら…「輝く海」を眺めながら乗車してみたいものだと、このディーゼルカーの写真を眺めている…

“長崎奉行所”(長崎歴史文化博物館)(2013.12.15)

豊かな歴史を誇る街には、街の歩みや、地元に伝えられている貴重な文物、更に“企画展”というようなことで普段は公開しないモノを展示したり、他所から借りて展示していたりということまでする博物館が設けられていることが多い。

長崎もまた豊かな歴史を誇る街で、立派な博物館が在る。それが「長崎歴史文化博物館」である。

江戸時代の長崎は、当時の政策の中で非常に限られていた「国外との窓口」の一つであった“出島”が在ってオランダ船が来航し、清国人が出入りしていた“唐人屋敷”も在って交易も行われていた。そうした重要地域で、幕府が直轄していた町なので、幕府は旗本達の中から選任した“長崎奉行”を送り込んで行政事務や貿易統制に係る事務等を進めていた。

その“長崎奉行”と、奉行に選任された旗本の家臣達と地元採用の人達から成る役人達が仕事をしていた役所が“長崎奉行所”である。実は「長崎歴史文化博物館」が建っているのは、その“長崎奉行所”が在った場所である…

↓博物館は非常に立派なモノであった。
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↑路面電車の停留所“桜町”から緩い坂道を上がるように進むと、石垣で囲まれた、古い城を思わせるようなモノが在り、それが博物館の建物である…

博物館は、常設展と企画展を別々な催しとして催行可能な構造になっていて、御買得な両方が観られる券も在る。

実は…「12月15日まで」ということで『対馬藩と朝鮮通信使』という企画展が開催される旨を聞き及んでいた…当初は…「17日に長崎?」と思っていたが、同日が月に一度の博物館休館の日であることを知り「では16日か18日に長崎?」と考えていた…しかし、往路の航空便が乱れて“仕切り直し”に及んだ結果、14日夕刻に長崎へ着き、15日に長崎に居たので、この企画展の最終日に確りと見学することが叶った…

既に終わってしまった企画展だが…なかなかに記憶に残るものだった。江戸時代を通じ、対馬は宗家の封土であった。通常、幕府が大名に封土を安堵する場合、「○○一円○万石」というような“石高”が入った書状が与えられるのだが、宗家に伝わるモノには「対馬一円」としかない。“石高”が無いのだ…対馬は広大な農地が在るでもなく、朝鮮半島等との交易利権のような権益が封土としての「得られるモノ」だった訳である。そうした状況の宗家が、朝鮮との交流の上で色々と活躍した経過等が詳しく紹介される展示だった。江戸時代の「測量家が沿岸等を歩き回って造った」という、北海道でも見受けられる、驚く程精確な地図が在る。その種の地図の、かなり大きな対馬のモノが飾られていたが、見入ってしまった。

企画展なので、長崎に在るモノの他に対馬や他の日本国内に在るモノ、更に韓国・釜山から借り受けていたモノも展示されていた。江戸時代の両国交流で活躍した人物の肖像画等である。秀逸だったのは、韓国の人形作家が創ったという、大変に華やかで大掛かりだったことが伝えられる“朝鮮通信使”の大行列を再現した作品だった。独特なデザインの帽子を被った正装の朝鮮関係者や、丁髷を結った行列に同行している日本の人達、騎乗している人、歩行している人、身軽な人、重そうなモノを運んでいる人と、一体毎に異なる按配で「行列に参加した人達の表情や雰囲気」を伝える数百体の人形で様子が再現されていた…

更に…韓国で制作された朝鮮通信使の歴史を児童生徒等に紹介する目的らしいビデオが会場の隅で上映されていた。全編韓国語―作中に“日本人”が一寸出るが、彼らも韓国語を話した…何処の国にも在る“吹き替え”な方式だった…―で日本語字幕が付けられていた。それによると…「約250年間、何度も大掛かりな使節団が訪ねるなどした友好的な隣国関係が続いたが、世界的にも類例が少ない偉業である」と朝鮮通信使のことを纏めていた。正しくそれである。江戸時代、朝鮮通信使がやって来ると、彼らが江戸へ向かう道筋の各地を中心に、現代風に言う一寸した“韓流ブーム”のようなものが見受けられたことも企画展では紹介されていた。

少し以前、稚内で<境界フォーラム>というような催しが在り、各地の皆さんがやって来たことが話題になった。その際、「遠く対馬や五島の皆さんも来たそうだ…」と話題になっていて、「対馬?どんな場所か?」と気になっていたが、思いがけず、大変に貴重なモノも含む対馬関連の展示を見学出来たことは非常に幸いだった…

この企画展の後、常設展を愉しんだ…

常設展は長崎という街の歩みが魅力的に語られているもので、なかなかに楽しめた。中にガイド役のおじさんが居て、旧い地図、最近の空撮写真が床に投射されるコーナーで、街の歩みを教えて頂いた。長崎は港町として起こったが、大規模な火災に見舞われて街の再興が図られた。その再興の際に築かれた街路が、今日の街の基礎になっているということだった。

この他、ガイドのおじさんは冬季に雪が降った場合のことを話題にしていた。長崎で雪が少し積もると、坂道で滑るので、軽微な物損事故が存外に発生してしまうのだという…そこで、薄い積雪がある程度気にならなくなる午後の時間帯に至るまで、車で出るのを遠慮するという考え方をする方も在るらしい。話してくれたおじさんもそうしているそうだ…

この降雪時の話しは、おじさんに「どちらから?」と尋ねられ、「北海道…」という話しになったことで出た話題だったが、この日の長崎は美しい好天だった…

↓庭の木…
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↑紅葉が残っている!!こういう様子を、何となく「エキゾチック」と感じてしまう…

常設展は、街の歩みに関する部分と、再現された長崎奉行所の部分とに大きく分かれる。長崎奉行所の部分には、長崎奉行所の役目等を紹介する展示が在るが…何と言っても「再現されている建物そのもの」が素晴らしい展示である。

↓正面入口であったらしい場所だ…
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↑関係者が忙しく出入りしていたことであろう…

↓屋根の感じが重厚だ…
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↓敷地入口の門へ至る階段が設えられていたのだろうか…
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>>長崎歴史文化博物館のウェブサイト

↓愉しく読んだ時代小説…
>>長崎奉行所 伊立重蔵 シリーズの各作品について

↓“長崎奉行”というものが判る一冊…
>>『長崎奉行 等身大の官僚群像』

とにかくも、この長崎歴史文化博物館は非常に愉しかった…早くも「非常に懐かしい」という感じがしている…

島原鉄道 島原駅(2013.12.16)

「長崎→島原→熊本→鹿児島」と九州西岸を南下する途中、船で島原半島から熊本へ渡る前に、少しだけ島原を歩き回ってみることにした…

長崎を発って諫早に至り、島原鉄道の列車に乗る…島原鉄道は1908年創業の私鉄である。雲仙の火山災害からの復旧を目指した経過の中で自治体の資本金が入ったが、この会社は所謂“3セク”ということではない…

島原鉄道の列車では、なかなかに好い車窓が愉しめる。諫早から島原方面に向かう場合、右手に山や田園、左手に海が見える…

↓諫早を発った時には薄暗かったが、次第に明るくなり、島原に着いた時には「朝らしい」雰囲気になっていた…
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↑島原駅は、島原外港へ向かう側、諫早へ向かう側と2本のホームが在る。ホームとの出入りをする場所には小さな踏切が在り、列車が行き交う際には警報が鳴って遮断機が作動している…そして、駅員さんが居る改札口が在る…

↓改札から駅前へ…
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↑駅前から島原城や、頂に雪を被った山が見える…

↓駅の入口に立つ像は、こういう感じだ…
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↑これは『島原の子守唄』のイメージの像だ…

『島原の子守唄』…「貧しいがゆえに南方へ送られていった娘たち(からゆきさん)の悲しみ、哀れさ、一方で「からゆきさん」をうらやむ貧しい農家の娘の心を描写したもの」とのことだ…“島原”の代表的なモノの一つと考えられているらしい…駅に像も在るが、これをキャラクター図案にしたものが、島原鉄道の車輌にも描かれている…

↓駅前から駅舎を眺める…暫し見入ってしまった…
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↑城門をイメージした建築で、1989年に完成したものだという。1階は駅で、島原鉄道の駅事務所と売店等が在ったが、2階は何処かの団体が入居、利用している様子だった…

城下町であった経過の在る街の“玄関”となる駅が、城門のイメージになっている…なかなかに好いと思った…

島原に縁が濃い訳ではない…が、列車の雰囲気や駅の感じに「少し懐かしいような気がするもの」を感じた…また、あの黄色いディーゼルカーに揺られて、訪ねてみたい場所だ…

博多駅:787系と883系(2013.12.18)

九州に滞在した期間、博多駅には何度か立寄ることとなった。九州では最大の鉄道駅で、何時立寄っても、何時も忙しそうだ…

九州最大の都市となっている福岡市だが、古くは城下町の福岡と、港を擁する商人町の博多の“双子都市”だった。近代になって、両者を合わせて福岡市ということになったが、主要な鉄道駅の名前として博多が残った。小学生位の頃…モノの本で鉄道駅の名前を見て地名を覚えていたので、私はここの市の名前が博多であると思っていた。ここは「福岡市博多区」とは言うが…

博多駅では、忙しそうに沢山の列車が発着している。構内に流れる案内も重なって聞こえることが頻繁に在る程だ…

博多駅から列車に乗る場合、多少ゆとりを持ってホームに入り「色々な車輌が行き交っている…」と発着する列車を眺めるのが面白かったが、到着した場面でも、自分が乗って来た車輌の他、行き交っている車輌をつい眺めてしまう…博多駅を行き交う車輌…美しいモノ、個性的な外観のモノが目立つ…何時の間にか「旧き善き」という趣の、国鉄時代からの車輌が少数派になっている感である…

日が上る前の鹿児島中央駅から北上し、日没辺りの時間帯に博多駅に到達した…

↓そしてこういう様子を視掛けた…
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↑博多は各地との間を結ぶ特急列車の始発・終着となっている場合が多く、到着して回送になる特急列車や、待機して乗客を迎えている特急列車が殆ど常時視られる…

JR九州では、4タイプの特急用電車を用いている。783系、787系、883系、885系である…

これらの中、783系は2012年に南宮崎・大分間で乗車した。885系は、2012年に佐賀・博多間、小倉・博多間、2013年に博多・長崎間で乗車した。

写真に写っている787系と883系…未だ乗車する機会を設けられていない…883系は博多・大分間が専らなようだが、787系は各地で走っていて、博多以外でも随分視掛けたのだが…

↓博多駅では、こういう具合に787系と883系が並んでいる場面を何度も視掛けた…
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↑何時か、これらの車輌にも乗車してみたいものだ…

12月18日は、色々な車輌に乗車し、同時に色々な車輌を視掛けた一日であった…

↓12月18日の画である…
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↑817系電車、キハ47やキハ220やキハ31というディーゼルカー、更に813系電車に乗車しているが…<いさぶろう>や<九州横断特急>、787系や883系を視ている。更に吉松駅で保存されているC55蒸気機関車も視た…上記にはそれらの鉄道車輌の他、駅周辺等の様子の画も在る…

旅に出て、何処かを訪ねてみた満足を得るのだが、同時に“積み残し”も非常に多く見出してしまう…そして「また何時か…」と、色々と画策する訳である…

西鉄 5000型(2013.12.19)

目に慣れない鉄道車輛を眺め、それらに乗車して知らない場所を訪ねる「初めて利用する路線の旅」というのは色々な意味で面白い…

九州を訪ねる場合の「定番な訪問先」という感の太宰府天満宮について、2010年の極短い上陸、2011年の枕崎到達、2012年の7県巡りと、過去の訪問で全く立寄っていないことから、「一寸寄っておこう」と思い立った。加えて、近くの九州国立博物館で丁度開催中の企画展が、大変に興味深い内容であることを偶々知り、「是非!!」という想いを高めていた…

太宰府天満宮や九州国立博物館を訪ねるには、西鉄の太宰府駅に向かうのが便利だ。太宰府駅に関しては、西鉄の天神大牟田線の二日市駅から「枝のような路線」が在って、二日市駅で乗換えると善い…

この「枝のような路線」…“太宰府線”と呼ばれるらしい。往路も復路も「ぼんやりしていた間に、列車は到着してしまった…」という印象だ…一寸確かめてみると…「西鉄二日市⇔西鉄五条⇔太宰府」という、地元の方に一寸申し訳ないが真ん中の「五条駅が余り記憶に残らない」ような感の2.4kmの区間なのだ。2.4㎞…歩けば結構な時間を要するが、電車であればあっという間に着く距離だ…

特急で二日市に着いてみると、太宰府線の乗換案内が在って、誘導に従って乗場へ向かうと…

↓こんな車輛が待っていた…
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↑見慣れない色…「アイスクリームに、こういうような緑系のモノが在ったような…“○○ミント”というような按配の…」と思っていたのだが、後からこの車体色は“アイスグリーン”と呼び習わされていることを知った…

アイスグリーンに赤いアクセントのライン…「この路線では、標準的な塗装なのか?」と思いながら、やや武骨な感もする車輛を眺めた。後に西鉄の列車を利用しながら、駅で見掛けた車輛は、このアイスグリーンが多かったのだが…

鉄道車輛というもの…基本的には“箱型”なものだが、デザインは色々である。初めて出くわしたモノの場合、何となく眺めるのも愉しい…このアイスグリーンの車輛を眺めていて、何か不思議に思った…最初は「何となく落ち着かない…」程度に思ったのだが、車輛の正面をよく見ると、左側は「平らな面の上に平らなガラス窓」なのだが、右側は「曲面がやや強めで、正面から横までの曲がりを帯びた大きめなガラス窓」になっている。左右が非対称だ…

↓少し不思議な印象を受けたが、この車輛に関してはこちらに情報が在る…
>>5000形|車両のご紹介|電車情報|西鉄くらしネット ─バス・電車情報やおすすめ情報─

正面が左右非対称だが、写真の右側である「側面側に窓が広がっている、曲がりのやや強い面の側」は運転台になっていて、視界を良くする工夫であるようだ…“デザイン”には“理由”が在るという訳だ…

↓正面は一寸個性的な感じだったが、横から見る分には「大都市部でよく見掛ける、ロングシートの電車」という按配で、特段に「?」と思って眺めるという程のことも無かった…
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↑乗降用の扉は3箇所…よく在る感じだ…

この5000型…初めてのモノが登場したのは1975年だという。既に随分経つ…上記の西鉄のウェブサイトによると「40編成136両保有」で、西鉄で最も数が多い車輛であるとのこと。沿線に住んでいる人達や、西鉄の列車を日常的に利用している人達が「電車」と聞いて真っ先に思い浮かべるのはこの車輛かもしれない…普通列車の他、込み合う時間帯には特急での運用も在るという。あの8000型はクロスシートで乗降扉が2箇所なので、込み合う時間帯のピークには、やや利用し難いかもしれない…

二日市…「2が付く日に市が催される」ということが地名の由来になっているようだ…各地に在る「X日市」という地名と同じだ…古くから栄えた太宰府に近い地域でも在り、少なくとも15世紀には“二日市”という地名が文書に現れており、明記こそされていないものの二日市辺りを指すと考えられる市の記録は相当に古くから在るようだ…

↓この二日市から「あっという間」という感で太宰府に着いた…
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↑随分短い乗車だったと思いながら、乗って来た車輛を視ると、既に行先表示が素早く切り替わっている…

この後、雨の中で太宰府地区を歩き回ることになったが…改札へ向かいながら、ふと思った…乗車していた二日市・太宰府間の電車は、両駅間を一日に何回往復するのであろうか?

旅に出て、こうした「地元私鉄の普通列車」のような、訪ねた地域の人達が日常的に利用する交通機関を利用してみる…愉しいものだ。

西鉄 8000型(2013.12.19)

九州で<旅名人の九州満喫きっぷ>を手にすると、有効期間の間に3日間、<青春18きっぷ>の要領でJRの普通列車に乗車可能である他、九州各地の鉄道(私鉄、3セク)の列車に乗車可能だ。これのお蔭で島原鉄道、肥薩おれんじ鉄道、松浦鉄道にも乗車したが、“西鉄”こと西日本鉄道(にしにっぽんてつどう)の列車にも乗車した。

早朝の鹿児島中央駅から肥薩線経由で北上して夕刻の博多駅に至り、中洲のカプセルホテルに泊まった…その夜は友人と会って愉しいひと時を過ごしたのだが、道順を聴いて中洲から天神まで歩いた。近い…食事を愉しんで別れる際、「あそこが西鉄の乗場」と教えてもらっていたのだが、早朝からそこを目掛けて歩いた…中洲のカプセルホテルを出る際、「とりあえず昨夜の雨は上がっているようですね…」と受付の方と言葉を交わしたのだったが、目指す辺りに辿り着こうかという頃に雨が降り始めた…

如何にも「○○駅でございます」というモノが建っているのでもない。繁華な天神の一画を占める商業ビルに、駅が組み込まれていて、鉄道の高架線の高さの広い場所が在るのである…一見すると「駅は何処ですか?」という感でもある…

↓個人的には馴染みが在るCDショップ―札幌にも支店が在って時々利用している黄色地に赤い文字のロゴが描かれた看板の店…―の看板を目印にしてビルに入ると、西鉄の列車に乗る場所への入口は直ぐに判った…
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↑「本当のピーク」ではないと思ったが、大勢の通勤や通学の人達等が忙しそうに行き交う時間帯だった…

<青春18きっぷ>の要領で利用する<旅名人の九州満喫きっぷ>は、使う日の最初の改札でスタンプを押してもらうことになっている。都市部に在ってはすっかり「当然化」している、ICカード乗車券が利用可能な自動改札が並んでいる脇に、駅員さんが詰めている場所が在り、そこで<旅名人の九州満喫きっぷ>を示して「西鉄 福岡」という文字が入ったスタンプを押してもらった。

朝の間に太宰府天満宮を訪ね、九州国立博物館を見学し、それ以降のことは「道すがらに、天候でも眺めながら決めよう」という程度の考えで「西鉄福岡(天神)駅」―西鉄の福岡駅だが、駅名を視掛ける場合、「福岡(天神)」という具合に括弧が付されている例が多かった…どうもそれを「正式呼称」としているらしい…―に入った…

太宰府天満宮を訪ねるには…二日市まで“特急”か“急行”で出て、そこで乗換えると直ぐに着くということだった…駅の中は…私自身の記憶の中では、東京の渋谷の東急東横線の乗場を思い出した。高くなっている所に、行き止まり式の線路が何本か敷かれていて、乗降するホームに人が溢れている様子だ…(渋谷の東横線の乗場は、最近様子が随分と変わったそうで、私が記憶している状況はもう見られないらしいが…)

↓発車案内の表示に従い、乗車すべき列車を見付けた…
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↑写真に写った瞬間は、行先表示を換えている途中だったのかもしれない…「特急 大牟田行」という列車だ…この車輛が、「自分が初めて視た西鉄の車輛」ということになる…先走って言えば、この車輛に何度か乗ることにもなった…また“特急”と言っても、「特急券を求める必要が無い」のが非常に善い…

この車輛は8000型と言うらしい…

>>8000形|車両のご紹介|電車情報|西鉄くらしネット ─バス・電車情報やおすすめ情報─

福岡では“よかトピア”と通称された1989年の「アジア太平洋博覧会」を契機に色々と新しいモノが登場しているようだが…この西鉄の新しい車輛も1988年から導入し始めて、1989年に運行開始となったようだ。6輛の固定編成で走る電車だ。

西鉄の特急用車輛は、最初のモノが“1000型”、次のモノが“2000型”でこれは3代目なのだが…1988年が、会社が前身の時代から数えて創業80年だったことから“8000型”としたようだ。因みに…現在、全く別の“3000型”という車輛も在るようだ…

西鉄の前身は「九州電気軌道」(九軌)という会社であったという。1908年に会社が起こり、1911年から列車を運行していた。他方、1902年に「太宰府馬車鉄道」、1910年には福岡市内の「福博電気軌道」が起こり、、1924年には「九州鉄道」(九鉄)(国有化された1887年設立の九州鉄道とは別)が福岡・久留米間で電車の運行を始めるなど、福岡での鉄道の発展が在った。1942年に至り、「九州電気軌道」、「福博電車」、「九州鉄道」、「博多湾鉄道汽船」(湾鉄)、「筑前参宮鉄道」の5社が合併して「西日本鉄道」が発足した。形式的には「九州電気軌道が他4社を吸収合併」ということだった。それを受け、西鉄では九州電気軌道が起こった1908年を創業年と位置付け、合併後に社名が決まった9月22日を設立記念日としているのだそうだ…

この日、太宰府までは雨だった…再び二日市に至って、8000型の特急に乗車したが、南下するに連れて晴れてきた…

↓柳川に至って晴天に恵まれた…晴天の中で視ると、この型は映える!!
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柳川駅の辺りに観光案内所が在る。柳川の地図を頂き、御世話になったのだが、柳川を離れる前にもう一度寄って、一寸尋ねてみた。「JRへの乗換が最も楽な駅」についてである。結局…西鉄の列車で移動中、乗換えに便利そうに見えた場所が無かったのだが…同じ駅名でも、「西鉄の駅」と「JRの駅」とが離れている例が意外に多い様子だ。この時に向かおうとしていた鳥栖―柳川から久留米に北上するのが善さそうだが、「西鉄の久留米」と「JRの久留米」は「タクシー移動?」程度に遠いらしい…―とは逆方向ながら、大牟田に出て乗換えるのが楽であることがハッキリした…

↓大牟田に到着…列車は直ぐに折り返して運転するようで「福岡(天神)」の行先表示に素早く変わっている…
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↑カーブを描いたホームになっている…幾つかの駅を利用したが、カーブを描いたホームが目立つような気がした…長い歩みの中、次第に列車編成が長くなって行って、ホームの延長を長くしてきた経過でも在るのだろうか?

この大牟田では、西鉄とJRと両社の改札口を潜るが、「X番ホームに着いた列車から、Y番ホームに来る列車へ」という感じで楽に乗換えが出来た…

初めて視た西鉄の車輛で、「福岡(天神)→二日市→柳川→大牟田」と何度も乗車した…思い出深いモノになった…

吉野ヶ里歴史公園(佐賀県)(2013.12.22)

佐賀県の東側、吉野ヶ里町と神崎市に跨る丘陵に「吉野ヶ里遺跡」が在り、遺跡と周辺が「吉野ヶ里歴史公園」として整備されている…

福岡空港から新千歳空港へ飛ぼうとしていたが、フライトの前夜は催事の関係で福岡の宿泊施設が込み合っていると見受けられたことから、一度訪ねて何となく馴染みの佐賀に宿泊し、午後のフライトに間に合うようにゆっくりと福岡空港を目指す計画を立てた…

そういうことになった時、「佐賀・博多間で面白そうな場所?」と調べ始め、吉野ヶ里遺跡に思い至った。その吉野ヶ里遺跡辺りが公園として整備されていて、公園の催事として早朝に熱気球を上げるというものが、私が佐賀・博多間を移動する予定の日に催されることを知った。

「熱気球を上げる場面を生で視る」という機会は無いので興味津々で催事を訪ね、大変に愉しいひと時を過ごした。カラフルな気球の下に、再現された古代の建築から成る村が見えた。催事の際には「立ち入りは御遠慮願います」ということだったが、「折角ここまで来たから…」と催事後に改めて正面の入口に廻って、中を見学することにしたのだ…

↓因みに熱気球の件は別途纏めたが…
>>吉野ヶ里歴史公園(佐賀県)の<ウィンターバルーンフェスタ>(2013.12.22)

↓ここに再現された建物は存外に数も多く、種類も様々で、本当に「時間を超えて古代の村へやって来た…」ような気分になれる…
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この場所は工場団地の開発計画が切っ掛けで埋蔵物調査が行われた結果、広範囲に色々なモノが在ることが判明し、1986年頃から発掘調査が行われていて、色々な発見が在ったようだ…1989年に至って大規模な集落の遺跡が発見され、1990年には史跡に、翌1991年には特別史跡に指定された…

採集、漁撈、狩猟を主体にした暮らしに農耕が入り込み、モノを蓄え易くなり、そうした営みが量的、質的に拡大しながら集落が形成され、集落が拡大して“クニ”というようなものになって行く…吉野ヶ里にはそうした古代人が何世代かに亘って積み上げたプロセスが在り、そして形成された“クニ”の姿を今日に伝えるモノが在るのである…

発掘が完了した遺跡は、博物館の野外展示のようになっていて、他方に発掘されたモノの開設をしている資料展示室も在り、なかなかに見応えが在った。

“クニ”というようなものが形成されていた訳だが…

↓この場所には堀や塀が築かれていたことを伝える遺構も在る…
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↑これは形成された“クニ”というようなものが周辺に幾つも在って、互いに相争う場面が在ったことから、「防衛的な施設の建設」が行われていたことを示している。この場所は「古代の城塞」という側面も在った訳だ…所謂“城”の御先祖様ということか…

“クニ”というようなものが形成されると、普通に農耕や採集、漁撈、狩猟に従事している人も在れば、祭祀を司る人や、“首長”というような立場の人やその家族、或いは“首長”を支える立場となる政治家や軍人というような感じの人達など、「様々な階層の人々が暮らす集落」という様相を帯びる。ここには、そうした住んでいたであろう人達の“階層”が推定出来るような発見も多いようだ…

↓広場が在る集落の脇に大振りな建物が在る「城の本丸」を思わせる一画が在り、その傍らに四角く土を盛り上げたモノが見受けられた…
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↑これは…墳墓である…所謂“古墳”の起こりのようなものだ…

↓墳墓の盛土が再現され、中は発掘された「墓の中」が視られるようになっている…
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↑何か、モノの本に在るような図解の中に足を踏み入れるような、不思議な気分だった…

大きな集落の遺跡が在れば、死者を埋葬した痕跡…墓地が見付かることは必然である。ここでも、大勢の人達が埋葬されていて、遺骨の状態も様々という「一般墓地」とでも言うようなモノも見付かっているようだが、中に入ることが出来るようにして紹介されている墳墓は、“首長”やその一族等、極限られた人達が埋葬されていたと見受けられる状況だったようだ…

↓当時の身分の在った人達は、“甕棺”と呼ばれている大きな甕に入れられて埋葬されたようだ…
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↑「墳墓の中」には色々な情報が得られる展示が在ったが、その一つがこの「再現した甕棺」である…

“甕棺”に関しては、他の博物館でも紹介されていたが、こうして「ズバリ!!」とどういう状態か判る展示は無かったので解り易かったのだが…これを視て、寧ろ「人間の身体がスッポリ収まるような大きな甕」を製造する「技術力の高さ」と「労力の集積」に想いが向いた。

私自身、陶芸のようなことをする訳でもないが、焼き物は大きなモノになれば綺麗に完成せずに割れてしまうリスクが高まる。また大きなものを焼き上げる窯を設えることも簡単ではなく、その窯で火力や焼き物を焼き上げる温度を管理するためにはノウハウの蓄積が要るし、労力もなかなかのものの筈だ…逆に言えば、ここを含めて大きな甕棺の痕跡が発見されている場所に在った“クニ”には、「高い技術力」で成し遂げられる、同時に「労力の集積」が不可欠な仕事を、「やりこなせる実力」が備わっていた証左かもしれない…

“城”の御先祖様のような防衛施設を備えた“クニ”…概ね2千年も昔の人々の暮らし…非常に興味深いものが在る場所だった…

↓ゆっくりと一つずつ見れば、相当に時間を要しそうな、広大な敷地に古代の村が再現されている…
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吉野ヶ里遺跡については、現在も発掘継続中という個所が残っているという。マダマダ新しい発見が色々と在るのかもしれない…ここも「また訪れてみたい…」と思わせるものが在る場所だ…

長崎の路面電車:1803(2013.12.15)

「長崎の路面電車」と聞くと、「永年頑張っている車輛が…」というようなことを思い浮かべるのだが…

↓存外に新しい感じの車輛も混じっている…「随分、新しそうな感じ?!」と注目した…
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↑手前の1803…奥の302とイメージが異なる…

奥の302のような車輛は、余所の路面電車では少々珍しいような感じもする…手前の1803のような車輛は、各地で似ている感じのモノを見掛ける…

この1803…長崎に3輛在るという1800型の1輛である…

角張った車体形状のこの型は、2000年12月に初登場している。最初の2輛は2000年12月に竣工し、写真の1803は2002年1月に竣工しているとのことだ…

最近の車輛は「超低床」を実現するために“連接”の構造となっているが、この1800型はそうした構造ではない。

路面電車は、色々な時代の車輛が現役で活躍中なので、眺めていると“博物館”でも見学しているような気分になることが在る…

長崎:鎮西大社諏訪神社(2013.12.15)

「長崎くんち」という有名な祭が在ると聞くが…これは「諏訪神社の例祭」なのだという…その諏訪神社に立ち寄ってみた…

↓諏訪神社というのは「鎮西大社と称えられる長崎の総氏神様」で「厄除け・縁結び・海上守護の神社」とのことだ…“海上守護”というのが「港町らしい」感じだ…
>>鎮西大社 諏訪神社|トップページ

↓諏訪神社に近付くと、とりあえずこんな具合だ…
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↑坂道に鳥居と石段が築かれている…神社の境内は坂の上のようだ…

↓上の方で一寸振り返るとこういう具合だ…
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↑坂が多い複雑な地形の中で色々な建物が建った、長崎の特徴が感じられる…

この日は早朝から動いていて、好天の下、未だ日が高くなり切らない時間帯に諏訪神社に至った。何やら人が大勢集まり、新年を迎える準備の作業を行っていた。そして、その様子を取材しようというテレビクルーも見掛けた…

↓神社の建物はこんな感じだ…
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↓何となく目が向いた…2014年の干支ということになる馬だ…
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↑これは「神馬像(しんめぞう)」というそうだ…

三菱重工業長崎造船所の前身である長崎製鉄所が、創業記念として神馬像を奉納した経過が在ったものの、戦時の金属製品供出で失われてしまっていたという。昭和天皇の在位60年を記念し、“平和祈念像”の作者である北村西望氏の作品が奉納されたものだという…当時、北村西望氏は102歳だったそうだ…因みに北村西望氏は島原出身とのこと…

何か「坂道を上がって、神馬に出会った…」というような感じだったが、晴れていて若干冷えた日に、こうした場所に立ち寄ってみるのは心地好いものだ…

長崎の路面電車:5002(2013.12.15)

幾つもの運行系統の電車がなかなか賑やかに行き交っている長崎の路面電車だが、5000型が現れると目立つ…何となく見掛けると、「あっ!あの“5000”が現れた…」と、一寸注目してしまう…

5000型は未だ2輛のみである他、数が多い全長が11mや12mの各車輛に対して、“連接式”で16mというのは目立つ。また、実際には他車種に比べて然程大きいのでもないようだが、運転時には良好な視界も確保出来ることであろう、正面の大きな1枚窓が在る形状は、実際よりも一回り大きく見える…

↓その2輛が活躍中の5000型の1輛、5002が現れた…
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↑他の電車よりも延長が長い分、存在がやや強く主張される感じがする…

5001の方には広告が無かったが、5002には広告が在る。長崎の菓子の広告だ…“おたくさ”と在る…確か、かのシーボルトが愛した女性が“たき”という名で、「おたきさん」が訛って、シーボルトは彼女を「おたくさ」と呼び、アジサイを紹介しようと綴ったモノの中で花に“おたくさ”という名を与えたという話しが在った…多分、そんな故事に因んで菓子の名を考えたのであろう…

長崎の路面電車は、大胆な広告塗装を比較的早く採り入れたそうだ。ただ、広告塗装の車輛ばかりが目立たないよう、「全体の4割以内」という自社基準で実施しているらしい。

各地で見受けられる“超低床”の電車だが、当初は“標準塗装”で、次第に広告が入るようになっていると見受けられる。5002はそういう経過だが、5001は未だ目立った大きな広告は入っていないように見える…

“超低床”の電車…長崎では未だ「多くの電車の中で少数」という感じで、やや目新しい印象なのだが、やがて目に馴染んで、色々な広告も入るようになってくることであろう。

知覧(鹿児島県):独特な街路樹(2013.12.17)

鹿児島には夕刻に入り、翌日を中心に行動し、翌々日の早朝に離れているのだが…鹿児島では強めな雨に降られた…「桜島が見えない」という程度の、なかなかに強い雨だった…

そうした中で知覧を訪ねた。往路は鹿児島中央駅前からのバスで、復路は谷山までバスに乗り、以降は路面電車を利用した。

知覧では…「風雨に抗って歩く」ということでエネルギーを費やしてしまった面も在るのだが…

↓街の通の様子が面白かった…
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↑特攻隊の基地が在った経過の在る街で、戦没者を慰霊する趣旨の灯篭が街路脇に並んでいるが、街路樹の形状が独特だ…

この松の木の感じ…「武家屋敷の庭」を想わせる…なかなかに個性的だ…県道なのか国道なのか確かめていないが、そこそこに交通量も在り―路線バスも通っていた…―、何か「町の主要な通の一つ」という趣では在ったが、雰囲気としては「何処の地域であっても、然程大規模でもない街で見掛ける道路」という感だった。しかし、個性的な街路樹を据えて、何か「当地らしさ」を演出しているような感で、なかなかに好かった…

こんな様子に感心しながら…沿道のコンビニで珈琲を頂いて適宜休みながら「風雨に抗って歩く」ことを続けていた…この日はかなり濡れた…

人吉(熊本県):12月に視る路上の落葉(2013.12.18)

「色彩豊かな国々」という感の九州方面を訪ね、年末年始を札幌・旭川で過ごしていたが、最近はその時に撮った写真を眺めて色々と思い出している…

12月18日は肥薩線を経由して鹿児島中央から博多まで北上してみた。鉄道を初めて敷設した時に、山間部を通すための独特な工夫を施した跡が残る個性的な路線を踏破することは愉しく、各種の個性的な車輛を視たり、乗車してみることは非常に面白かったのだが…途中の人吉で風雨が強く、余り街中を歩き回ることが叶わなかったことが“積み残し”である…

風雨に阻まれながらも、人吉の街を少し歩いた。古くからの歴史を誇る街ではよく見掛ける型だと思うが、鉄道駅が古くから栄えていた繁華な地区から少し離れた感じの場所に在る街だった。これは、鉄道敷設と駅建設が“後”なので起こることである。尤も、“後”から登場した駅の周辺が、かなり発展していて、一見すると「街で最も賑やか?」に見えるような按配の場所も多いとは思うが…

人吉には永い歴史を誇る神社や、城址も在り、街並みにも独特な趣が在ると聞いていたが、駅からそれらを訪ねるにはやや歩く…と言っても、私自身が苦にするような距離でもなかったが…風はともかく、雨がキツかった…

↓足元にこんなものを見付けた…
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↑辺りの木から落ちた葉が散らばっているというだけなのだが…暫し足を止めた…

辺りの木から葉が落ちて、風で散らかったというだけの様子ではあるが…何か「人為的に誰かが創ったアート」のようにも見えた…

見知らぬ街に至り、辺りの景観に加えて、足元も見ながら歩き回る…好いものだ…

長崎:浦上天主堂(浦上教会)(2013.12.15)

浦上天主堂に関しては、初めて長崎に立ち寄った際に“積み残し”というように思っていた面が在る。

↓そういう中、浦上天主堂を巡る物語を綴った一冊に出会い、大変興味深く読了した経過も在った…
>>『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』

「長崎を再訪した暁には…」と浦上天主堂を訪ねてみることを思い続けていたが、その長崎再訪が実現した中で自然と浦上天主堂に足を向けた。

上記の本にも詳しいが、浦上天主堂は原爆の爆心地となってしまったエリアに在る。原爆で破壊されてしまった天主堂は、その後再建されて現在に至っている…

爆心地となってしまったエリアには平和公園が設けられていて、爆心地と推定される地点も公園として整備されている。そのエリアに向かうには、路面電車の松山町停留所が便利だ。

電車を下りて、浦上天主堂への案内標識も見ながら歩く…

↓通の向こうに浦上天主堂が見え始める…
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↑好天に恵まれたこの日だったが、こうして視ると独特な存在感が在る…

↓浦上天主堂を見上げる…「教会らしい」感じの美しい形状だ…
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↑浦上天主堂の形状を視ていると、この日の空の色の感じとも相俟って、何となく南フランスやイタリア等を思わせる雰囲気が在った…

↓南フランスやイタリアのような雰囲気と思ったが、周囲に植えられた木が“和風”な感じで面白い…
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↑和風なモノ、洋風なモノなど色々と入り混じった辺りが、“文化の交差点”のようだった地域「らしい」ということなのだろう…

浦上天主堂は、1895年から1914年まで19年間も掛けて、多くの信者が煉瓦を1つずつ積み上げるようにして築かれたモノだった。永かった禁教の時代にも受け継がれてきた信仰の象徴であった訳だが…原爆で破壊されてしまった…原爆禍を伝えるものとして、ここには被災して焼け残ったマリア像の顔の部分が在る…マリア像が「無言で伝えるモノ」に、少し圧倒される…

そして浦上天主堂は、1958年に再建されている…1980年には、嘗ての煉瓦造の外観とする改修工事が施されているという…

ここには、かのローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が訪日の際に立ち寄った経過が在るという…

↓入口にヨハネ・パウロ2世の像が在った…
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↑名前を視る前に、ニュース映像で随分見掛けた記憶が在るので、直ぐにヨハネ・パウロ2世だと判った…よく出来た像だと思う…

ヨハネ・パウロ2世はポーランド出身で、母国ポーランドで色々と社会が揺れていた時代に教皇を務めていたことから、母国の情勢を巡って色々と行動していたことが報じられていたのを覚えている。それで、何となく風貌を覚えていて、像を視て直ぐ判ったのだが…

ヨハネ・パウロ2世が浦上天主堂に立ち寄ってミサを催したのは1981年2月だったというが、それを記念する像は翌年から設置されているという…

↓因みに、ヨハネ・パウロ2世については、こちらに詳しい…
>>『バチカン近現代史』

ここはなかなかに美しい場所だが、この街の永い歴史の中に生きた人達の様々な想いが渦巻いているような感もする場所だ。更に…ここは「平和への祈り」ということを意識する場所でも在る…

浦上天主堂の周辺…住所表示を視ると“平和町”となっていた。偶々寄ったコンビニが「平和町店」だったのだが…何となく<ピース>(平和)を求めてしまった…

長崎の路面電車:301(2013.12.15)

路面電車に関しては、「かなり年季が入っている…」と見受けられる車輛が未だ現役で活躍している様子を頻繁に見掛ける。そしてそれが面白い…

↓黄色味がやや濃いクリーム色と濃い緑のツートンカラー…長崎では「伝統的」な路面電車の塗装である…
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↑長崎に住んでいたとか、住んでいないにしても訪ねた経過が在れば、このツートンカラーの電車は「長崎だ!」という感じがする光景ではないだろうか?更に…全体を広告塗装というのではなく、広告が何箇所かに貼り付けられている外観も、少し懐かしいような感じがする…

写真の車輛…300型である…初登場は1953(昭和28)年とのことで、既に半世紀経っている…少し1950(昭和25)年に初登場している200型と同じ、全長11m、全幅2.26m、全高3.6mの寸法である。300型は10輛製造されたそうだ…1969(昭和44)年頃から順次ワンマン運行対応に改造が施され、1984(昭和59)年には冷房設置、方向幕の改良等が行われている。

この301…300型の最初の1輛だ…兄弟分の200型の中には、“引退”車輛も出始めているようだが、300型はマダマダ頑張っている…

↓信号で街中に停止している301である…
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↑何か、非常に街並みに溶け込んでいる感じだ…既に「街の景色の一部」のようだ…

この信号停止している301を視た時…何となく気になったのは、スクーターが街に多いということである。ここでも3台がトラックや301と共に信号待ちをしている…

スクーターのナンバープレートだが…通常は“○○市”というような登録場所を示す文字が上段で、下段には“△”と平仮名1文字を先頭に「XX-XX」と4桁の番号が与えられている。長崎では…この4桁の番号の箇所が「xxx-XX」という具合に“5桁”になっていた。きっと、スクーターがポピュラーで、登録台数が多い地域に特有なものなのであろう。以前に鹿児島でも同様の例を視た記憶が在る…坂道も多く、道が狭い個所も在る長崎では、スクーターはなかなかに快適な乗物かもしれない…風を切る冬季は多少寒いかもしれないが…と言うよりも、冬季の積雪が当然で、冬にスクーターが走る様を見慣れないので、上記写真の状況が、何か「エキゾチック…」に思えた…

長崎の路面電車だが、この301のように「半世紀…」の車輛も含め、全ての車輛でIC乗車券も利用可能だ。長崎の路面電車のIC乗車券…敢えて求めはしなかったが…

この301のような「伝統的」な感じの車輛…これからも永く「街の景色の一部」のように、活躍し続けて欲しいと思う…

福岡:水鏡天満宮(2013.12.18)

福岡の繁華街の一つに“天神”が在る。大変に賑やかな地区だ…更に“天神”という住所も存在する…

その繁華な地区を歩き回っていると…

↓何やら「喧噪の中に超然と静けさを湛える」という風情の場所が…一寸覗き込んでしまった…
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↑よく見ると、鳥居に“天満宮”とある…

“天満宮”?所謂「天神様」ではないのか?と妙に気になった…実際、鳥居の辺りで奥の方から通に出て来る学生服姿の若者も視掛けた。「学問の神様」で在る「天神様」だ…年が明ければ各学校の入学試験も忙しく開催されるという時季だけに、学生がここに立寄るのも頷ける話しだ…

偶々出くわしたこの神社…水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)と言うそうだ…

太宰府へ向かう菅原道真が博多に上陸した際、川の水面に映る自身のやつれた姿を視て悲しんだという故事が在り、それに因んだ「水鏡天神(すいきょうのてんじん)」或いは「容見天神(すがたみのてんじん)」と呼ばれた神社が設けられたのだそうだ。やがて福岡城と城下町が整備されていた時代に至り、現在の“天神”辺りが城の鬼門であったことから、1612年にここに「水鏡天神(すいきょうのてんじん)」或いは「容見天神(すがたみのてんじん)」と呼ばれた神社を移し、以降は「水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)」と呼ぶようになった。更に、辺りはこの神社に因んで“天神”と呼ばれるようになって行ったのである…

江戸時代、商業地区は専ら博多で、天神辺りは武家屋敷が多い地区だったそうだ。明治期に入って武家屋敷から人が少なくなってしまい、その跡が官公署等に利用されるようになり、昭和に入ってからは百貨店等も登場した。福岡は戦災も大きかった街だが、戦後の復興の中で天神は商業地域化していったのだという…

この日は友人に会うことになって、邂逅地点目掛けて何となく歩き回ったが…そんな中で偶然にも「地名の由来」となったものに出くわしたのは興味深かった…

それにしても…鳥居に刻まれた“皇紀”という字や“廿”という字…非常に深い伝統が在る場所であることを想わせる…

旭川・稚内間 “臨時快速”(2013.12.23)

稚内・札幌間の特急列車は旭川を経て札幌へ向かっていて、1日3本の列車が設定されている。その3本の中1本は、車輛の問題で「運休扱い」が続いている…

「1日3本」の中で「1本」が動かない…“1/3”である…少し“影響”が大きい…そこで「代替となる輸送ルート」ということで、「旭川・稚内間に、特急が動いていた時間帯に快速列車を運行して、旭川・札幌間は特急列車を利用」という案が浮上して運行が始まった。名付けて“臨時快速”である…

列車は基本的にキハ40を2輛連結したモノとするが、「空いている車輛」を用意する関係上、キハ40を改造した車輛が登場する場合も在るということだった…ただし、その改造した車輛(=鉄道ファンが喜ぶ珍しい車輛)が登場する日を特定することは難しいということであった…

“臨時快速”は、運休扱いになっている特急列車が動いているような時間帯、午後2時頃に旭川を発ち、午後6時過ぎに稚内に着くスケジュールである。この時間帯での運行で、“普通列車”の範疇に入るモノだ…

従前からの列車運行状況の中、「普通列車で稚内へ」ということを考えると、旭川から11時台、12時台の名寄行に乗ると、「その日の中で稚内に到着可能」な列車に接続が可能である。が、それに“14時”が加わったことになる。<青春18きっぷ>を手に、普通列車で移動をしようというようなことなら…“臨時快速”は「朗報」という面も在るかもしれない…

この日は、前日の空路運航が乱れた関係の“仕切り直し”ということで、羽田空港から新千歳空港への早朝のフライトを利用した。新千歳空港から札幌に出て、乗換えて岩見沢へ向かう辺りまでは普通列車の本数が多い。しかし、岩見沢・旭川間は、「特急列車ばかり」な区間になっている。この日の中で稚内へ戻ろうとすれば、何処かで別途に切符を求めて特急列車を利用せざるを得ないかもしれないと思っていたが、岩見沢で巧く旭川行の普通列車に乗ることが出来た。旭川では、“臨時快速”までに昼食を摂って一息入れるには十分な時間まで在った…

↓そして旭川駅で“臨時快速”に対面した…
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↑「赤い車輛!!」と少々驚いた…しかもディーゼルカーだ…現在、北海道内の鉄道で「赤い車輛」と言えば、あの711系電車位しか思い当たらない…

この赤いディーゼルカー…「キハ400 500番台」と言う…

“キハ400”とは、機関車で客車を牽引する型で運行していた急行列車をディーゼルカーに置き換えるため、1988年にキハ40に改造を施したものである。エンジンを換装し、冷暖房設備を施し、また一部に飲料の自販機も取り付ける改造を施した。

この改造を施した“キハ400”について、それまで運用していて老朽化した“お座敷列車”のディーゼルカーを置き換えるため、更に改造が施された。それが「キハ400 500番台」である。これの室内は、“お座敷”ということで、床面をかさ上げしてカーペット敷きとし、深さ30cmの掘り炬燵構造になっている。外装は赤基調のものになった。

列車は、名寄までの比較的利用者が多い区間の乗客も多く、存外に賑わっていた。そして私は…何となく「赤い車輛!!」と驚いた側…“お座敷列車”に乗車した…

“お座敷列車”だが…1時間位であれば、掘り炬燵に小さな座椅子というような場所も悪くはないが…約4時間乗りっ放しで移動という状況では、やや疲れる…

↓赤いディーゼルカーが稚内駅に到着…
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↑後尾側なので、跳ね上げた雪を多く被って、それが貼り付いている…「冬季の北海道を走る列車」という風情である…

↓前方は然程雪を被っていない…
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↑現在、北海道内で見掛けるキハ40の多くはこの塗装である…考えてみると…「これ」が名寄以北に姿を見せるのは、久々の出来事かもしれない…“キハ400”の急行が姿を消した2000年以来ではなかろうか?

↓これが車輛の側面に掲げられる“臨時快速”のボード…
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↑何か「如何にも“臨時”」という雰囲気の代物だ…

これから先、この“臨時快速”はどういう具合になるのか?詳しいことは知らない…が、<青春18きっぷ>等を手に普通列車での移動をする場合が在る私としては、“臨時快速”の存在を「悪くない」と思っている。正直なところ、旭川・稚内間に関しては、現在運休中の特急列車と、走行時間に大きな差が在るでもない。何故なら、本当の普通列車が停車する多くの駅を通過しているからである。宗谷線は、特急型車輛が性能を発揮して高速運転出来る区間が、実は名寄以南らしいのだから…

とにかくも…“臨時”な列車で、通常は団体旅行向け等に運用する車輛で移動…面白い経験ではある…

人吉駅(熊本県):赤い列車が集まっている様(2013.12.18)

早朝の鹿児島中央駅を出発し、隼人駅で乗換え、吉松駅で更に乗換えた。

吉松駅から赤いキハ220で人吉駅に着いてみれば…
(※キハ220は別途御紹介済み…)

↓赤い列車が3本集まる光景に出くわした!!
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↑各々に個性が在る3本の列車だが、何れも同系色で塗装が施されていて、なかなかに壮観だ!!

キハ220が到着した時点で、既にホームで待機していたのは…

↓<いさぶろう/しんぺい>だ…
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↑人吉から吉松へ向かう下り列車が<いさぶろう>で、吉松から人吉へむかう上り列車が<しんぺい>である。この人吉駅で待機している状態は<いさぶろう>である…

<いさぶろう>は、人吉・吉松間の鉄道が建設された当時の逓信大臣であった山縣伊三郎に因む命名で、<しんぺい>は同時代の鉄道院総裁であった後藤新平に因む命名とのことである。列車の愛称として、こうした人名が出て来ると、利用する時に「○○さん、乗せてもらいます…」、「無事に着きました。○○さん、ご苦労様…」というような感じにもなるだろうか?

こうして、昔活躍した方のファーストネームを平仮名にして列車の愛称にするというアイディア…日本国内では少し斬新ではなかろうか?欧州などでは、列車の愛称が人口に膾炙しているようにも思えないのだが、配布される列車の運行予定表等には、運行されている地域に縁が在る音楽家や作家のフルネームが冠せられているモノが在ったことを記憶している。

1996年から、人吉・吉松間でこの<いさぶろう/しんぺい>の愛称を冠した列車の運行を始めていて、2004年にこの列車の専用車を用意し、2009年からは現在も使用されているキハ47を改造したモノが投入されている。

JR九州では、この深みが在る赤を“古代漆色”と呼んでいるようだ。800系新幹線の白いボディーに引かれたラインの赤と同じ色とのことである。

やがて、もう1本列車が到着する…

↓<九州横断特急>だ…
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↑別府・大分から、列車名のとおりに九州を横断して熊本に至り、八代を経て人吉までやって来る列車だ…キハ220と並ぶと…初登場の時期が異なっている故のデザインの違いが面白い…

この<九州横断特急>は、2輛運行が基本になっているようだ。人吉に着いた列車は、折り返し、八代や熊本を経て大分・別府を目指す…

使用されている車輛はキハ185である。国鉄民営化の前の1986年に、四国地区向けに製造された車輛だった。当時の“急行”を“特急”としていくことを念頭に投入された車輛のようだ。輸送量に見合った、短めな編成を組んで運行することを考慮した車輛であるのだという。

JR四国の路線で活躍していたキハ185の一部について、JR四国が新型車輛を導入したために余剰となったことから、JR九州へ売却された。その車輛の一部が改装され、<九州横断特急>となっている次第だ…

人吉駅で「何時か乗車してみたい…」とも思う列車と、乗車してなかなか気に入ったキハ220の「3本の赤い列車」が集結した様子を視たのは、何となく嬉しかったが…この後、街へ出てみると風雨が強めで、余り動けなかった…自分の中で“積み残し”と呼んでいる「再訪希望」な気分が日々高まる…

鹿児島の路面電車:「日本最南端の電停」(2013.12.17)

鹿児島滞在中、知覧を訪ねた。鹿児島中央駅前からバスに乗って訪ねた。バスは鹿児島の市街を南下し、途中から西側の内陸に入って知覧に至った…

その知覧へ向かう往路、途中に“谷山駅前”というような、“谷山”という住所を冠した停留所を通り過ぎていることに気付いた。“谷山”…路面電車の終点・起点になっている場所の筈だ。それに気付いたので、復路では谷山でバスを下り、宿を取っていた鹿児島中央駅まで、路面電車を乗り継いで向かってみることにした…

JRの谷山駅と、路面電車の谷山停留所は少し離れている。谷山停留所を訪ねようと、やや雨が降っていた中で歩き回ったが…何やら方々で何かの工事をやっていて、やや見通しが悪く、多少迷いながら辿り着いた…

↓一寸した家のようなモノが停留所になっている…谷山の停留所は、2本の軌道がすっぽりと屋根で覆われる型になっているのだ…存外に大きい…
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↑ここに電車が着いて乗客が下り、逆方向に進む準備をして乗客を迎えている。

様子を暫く眺めていた。存外な頻度でここに電車が着いて、出発する前にまた別の電車が隣の軌道に着いて、ということが繰り返されていた…

↓入口辺りに「日本最南端の電停」という標柱が在る。
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↑この標柱は「電車100年」を記念する取組の一環として建てられたそうだ…

実は…郡元・谷山の間は、未だ乗車していなかった…この後、郡元まで電車に乗車して移動し、郡元で別系統に乗換えて鹿児島中央駅前へ向かった…

この日は、鹿児島市内も知覧もなかなかに風雨が強く、思う程には歩き回ったり写真を撮ったりということは出来なかった…実際…桜島が薄ぼんやりとした影として見えるか見えないかという状態であったことに、些か驚いていた…

この谷山が“日本最南端”ということは?札幌の何処かが“日本最北端”となる筈だ…そんなことを思った…

長崎の路面電車:5001(2013.12.15)

長崎では“一日券”を手に路面電車で市内を移動し、周辺を散々歩き回ったのだが…停留所で下車して目的地に至る前に、珈琲を売っているコンビニを見付けると、それを求めて店の前で珈琲を頂いて一息というのが、何時の間にか“定番化”した…

桜町停留所辺りで、その“定番化”した状況下で何気なく停留所の方を視ていた…

↓“超低床”の新型、5001が停留所に停車していた…
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↑長崎では、この5001は他の車輌に比べて大きく見える。独特な連結構造なので、古くからの車輌よりも延長は長くなるのだが、“形状”の故に一際大きく見えるのかもしれない…

よく視ると、小さな子ども達が居る親子連れが下車してきていた…考えてみると、「よっこいしょ」と上がる電車のステップは、小さな子どもにとって、多少大変だ。一緒に居る保護者が抱き抱えるようにして上がるという場面もよく見掛けるものである。“超低床”なら「下りるよ…」と小さな子どもの手を引いて、一緒に歩けば善い…

“低床”と言うのか、「乗降口の段差を排する」というのは路面電車に限らず、多くの新しい鉄道車輌に容れられている考え方のようだ。路面電車以外の新しめな車輌を運用する列車に乗車した場面でも、小さな子どもを連れた親子連れが居て、「ドアが開いたよ…大きく一歩だよ…」と母親が小さな子どもの手を引いて、一緒に歩いて下車する場面を視た。

それまで「乗降口の段差を排する」ということについて、然程意識しなかったような気がするが、小さな子どもも含めて「誰にでも優しい乗物」という考え方…大切なことかもしれない…

長崎は、「路面電車で気軽に出掛ける」という伝統が活き続けている感の街だが、こうした「小さな子どもにも優しい」車輌が増えると、更に親しまれる乗物となっていくことであろう…

長崎の路面電車:367(2013.12.15)

↓長崎の路面電車に乗車した際の感じが判る、車内から後方を展望した動画を纏めていた経過が在った…
>> ビデオ 長崎の路面電車―5系統の367(2013.12.15)

↓この動画の367を静止画で…
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↑石橋停留所に着いたところだ…

↓市内に巡らされた軌道上を行く様子…
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↑この後に乗車し、西浜町(にしのはままち)辺りから、画を撮り易い位置に陣取ることが叶い、撮影を行った訳である…

↓12月15日撮影の、路面電車と徒歩で巡る長崎と、路面電車そのものの画…
wakkanai097 - View my 'Photomatrix - DEC 15, 2013' set on Flickriver

現在、旭川に居るが…あの時の長崎の最低気温に“氷点下”という3文字を加えると、当地の最低気温になるような…そういう按配だ…早くも、冬の陽光が降り注いだ長崎が懐かしくなっている…

隼人駅(鹿児島県):通学ラッシュの頃(2013.12.18)

鹿児島中央駅を発ち、肥薩線経由でゆっくりと北上する予定で早朝から動いていた。

始発の列車に乗って、ぼんやりとしていた間に隼人駅に着いてしまった…うっかりと乗り過ごしそうになり、多少慌てた…

↓少し雨が降っていた暗い隼人駅…乗車しようとしていた吉松行までの中途半端な時間で、早朝の暗い時間帯で雨の中、何処かを訪ねるということもせずに駅辺りに居た…
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↑駅舎は…竹でカバーされている…、九州新幹線が新八代駅から鹿児島中央駅まで開通した際にリニューアルしたのだそうだ…

↓改札口には、ICカード乗車券に対応する機器も据えられている…
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↑ホームは3本在り、日豊本線と肥薩線が乗り入れている…

丁度、通学の高校生が多い時間帯でもあったのだが、雨であったことも手伝っていたと思うが「自宅から駅まで送る自動車」と見受けられるものが、殆ど切れ間が無い程に現れていた。続々と車が駅前に現れ、誰かが下りて車が去って行くという光景が見られた…結局、駅から学校の最寄り駅へは決まった列車で行き易いのだろうが、「駅まで」は多少不便なのかもしれない…

↓小さな駅のようだが、乗り換え駅でもあるので、宮崎・鹿児島中央間の特急列車が停車する…
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↑この787系電車…九州では随分見掛ける車輌だが…乗車したことはない…嘗ては九州を縦断する特急<つばめ>として登場し、新幹線の部分開業後には博多・新八代間の<リレーつばめ>として活躍し、現在では九州各地の特急列車として活躍中の車輌である…

↓ホームの端に在ったディーゼルカーが時間になると一寸前進し、定位置に着いて乗客を迎え始めた…未だ夜のような状況下、雨水に光が乱反射する…
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↑何か「古き善き…」という感の2輌連結のディーゼルカーだ…運転士1人のワンマン運行だった…

この隼人駅や沿線の幾つかの駅で高校生が沢山乗車した…彼らの多くが下車した霧島温泉駅では「こんなに沢山乗っていた!?」と驚く程だった…運転士は「高校生の皆さん、お急ぎ下さい…」等と言いながら、運転台から出口側に出て立ち、高校生達が見せる通学定期券を検めていた…

隼人駅を出ると…この地に鉄道が開通したような頃からの古色蒼然とした駅舎が残る駅にも停まりながら、次第に山深くなるような箇所を進んで行く…

鳥栖駅(佐賀県):817系電車3000番台(2013.12.22)

佐賀に泊まって、朝から福岡方面へ動いて空路北海道へ…そんな予定で動いていたのだが…

↓佐賀の吉野ヶ里歴史公園で愉しいひと時を過ごし、吉野ヶ里公園駅から乗車した鳥栖行の列車は、旅行期間を通じて随分親しんだ817系だった…
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↑扉横の“CT”マークが赤…長崎に所属する車輌だ…鹿児島のモノとは、ロゴマークが違う他、何らの違いは無いが…

鳥栖から博多…県境を跨ぐので、やや遠い感じがしないでもないが…鳥栖辺りは、佐賀県の領域が福岡県の領域に突き出たようになっていて、福岡県内である久留米や大牟田は鳥栖より南であり、鳥栖は博多からは相対的に近い…普通列車や快速で動く分には、鳥栖は小倉よりも博多に近い…今般はグルグルと辺りを動き回ってそんなことにも気付いた…

そういうことで、鳥栖から博多方面の快速か何かに乗車しようと思っていると、折り良く博多方面へ向かう門司港行の快速がやって来ることが判った…

↓現れた列車…
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↑馴染んでいるような、いないような…「微妙」な感じがする車輌だ…

これは817系の“3000番台”というモノである。吉野ヶ里公園・鳥栖間で乗車した列車と同型だが、一寸違う…

金属色剥き出しだったボディーには美しい白塗装が施され、正面の黒い部分もややデザインを代えている。2輌ではなく3輌のユニットで動き、中はロングシートである。博多近郊の、乗客が多い箇所に対応している訳である…扉横の“CT”ロゴは橙色で、南福岡の所属だ…2012年、2013年に登場したモノだという…写真は“V3006”であるから…2013年春に登場したばかりの“新車”だ…

この“新車”で博多に向かったのだった…

鹿児島中央駅:817系電車(2013.12.18)

出先で色々と動き回る際、頻繁に見掛ける型の鉄道車輌が在ると、勝手に「また会ったね…」という具合に親しみを覚える…

↓九州各地で、移動の都度にかなりの頻度で出くわした車輌がこのタイプである…
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↑金属色が剥き出しなボディーで、正面は黒くピカピカしていて鏡のようだ…凄く渋い…LEDランプでクッキリとオレンジ系の色で行先が表示されている…

これは817系電車だ。815系電車をベースに、各地の“ワンマン運行”も行う路線での運用も考慮し、2輌で運行するようにしたものだという。2001年から配備され、現在も増備が続いているようだ。2013年12月の九州では、長崎本線、鹿児島本線でこの型を随分と見掛けた…更に、鹿児島中央駅から乗車した写真の列車は日豊本線を走っている…

↓車内はこういう具合になっている。早朝の始発で、乗客が集まってくる前なので撮れた画だが…
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↑合板と革張り風なクッションを組み合わせた、美しく機能的なシートである…通勤通学の皆さん等で込み合う時間帯にはやや窮屈だが、2時間程度の移動でも疲れ難い佳いシートだった…

車体の側面、扉の辺りに“CT”というロゴマークが在る。“Commuter Train 817”という表現を略したロゴマークのようだ。「通勤向け列車817」ということか?

写真では、このロゴマークが青いが、これは鹿児島車輌センターに所属していることを示す。因みに赤は長崎、緑は熊本、黄色が直方、橙色が南福岡ということになっているのだという…

↓2013年12月18日撮影の画…
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美しく快適な列車が毎日の通勤通学の足に…そんな願いで登場した車輌のように思えるが、九州を訪ねて、これに出くわすと何となく嬉しくなる…

吉松駅(鹿児島県):C55 52(2013.12.18)

吉松駅は鹿児島県北部の姶良郡湧水町という場所に在る静かな駅だが、肥薩線(ひさつせん)と吉都線(きっとせん)の2路線が乗り入れている。

九州の南北を結ぶ鉄道の開設が目指されていた中、1903(明治36)年に鹿児島から北上する鉄路が延びて吉松駅が開業し、八代まで延びた後に人吉に至った鉄路が、山間部をスイッチバックにしたりループ線を取り入れるなどの工夫で1909(明治42)年に吉松と繋がった。これが“鹿児島本線”ということになった…

他方、1912(大正元)年、宮崎県の小林からの鉄路が吉松と繋がり、同年に小林から都城に延伸された鉄路は1916(大正5)年に宮崎と繋がった。当初は“宮崎本線”、後に九州東部を南北に結ぶ“日豊本線”ということになった…

吉松は“鹿児島本線”と“日豊本線”という、九州の西岸、東岸をそれぞれ南北に行き交う幹線鉄道の交差点ということになった。こうした「交通の要衝」となった吉松には、機関区や保線区が設置され、多くの関係者が暮らす町を形成した…

そうした町の歴史を伝えるモノが幾分保存されているのだが…乗車予定の人吉行までの時間的ゆとりが在ったことから、辺りを少し見ていた…

↓思わず見入ってしまったのが、このC55である!!
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↑駅の傍に屋根が設けられ、屋根の下に線路も敷いて在り、そこにC55が鎮座していた…

C55は1935(昭和10)年から1937(昭和12)年に計62輌が製造されている蒸気機関車だ…“1次型”、“2次型”、“3次型”と製造され、改良箇所が多岐に及んだ、当初は「C55 63」として着手されたモノが“C57”と新形式番号を名乗るようになっている。

C55は、200輌以上も製造されたC57よりも数が少ないことから、保存されている例は少なめである。梅小路蒸気機関車館、小樽市総合博物館、大分市の公園、そして吉松駅のみだという…

実は…稚内にも貴重な1輌が在ったのだが、屋外に永く置いていた間に風雪で傷んでしまい、「傷んだ大きな金属塊=大変に危険」という話しになり、取り壊されてしまった…動輪とプレートが残るのみである…そういう経過が在ることから、吉松でその姿を見掛けた時には「C55よ!!会いたかった!!」と懐かしい旧友、永く会っていない親類にでも再会したかのような気分になった…

保存例が多いC57は「動く」状態の機関車も各地で見ることが出来るのだが、C55も往時は、ポピュラーな機関車だったC57と「殆ど同じように扱える」ということで、殆ど全国各地―四国での運用例は無いらしい…―で見受けられたのだという…実際、稚内で急行列車を牽引していた例が知られているのと同様、鹿児島県内の吉松機関区でも活躍していた訳だ…

↓“パワー重視”の「動輪が4つ」在る“D型”ではなく、“速力重視”の「動輪が3つ」在る“C型”は大きく迫力の在る動輪が付いている…
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↑大きさは…以前に見ているC57のモノと変わりないが、スポークの型に仕上げられたC55の動輪は美しい!!

特段にこれを視ようと「目掛けて」吉松駅を訪れたのでもなく、肥薩線で北上する道すがらに見掛けたC55だった…「会えて好かった!!」と思っている。次の機会が何時か、それ以前に次の機会というものの有無さえ判らないが、このC55には何時までもここに留まり、吹雪の北海道から鹿児島の山間に至るまで、全国で活躍した機関車の勇姿を伝え続けて欲しいものだ…

旅の写真の“コレクション”について

写真を撮って整理したものは、ウェブ上のギャラリーで公開するが、多くは“コレクション”という型で纏めている。

>>wakkanai097's collections on Flickr

これは、撮影時期やテーマ、種類毎に“セット”と呼ばれる小さな纏まりを集めたモノである。

上記の“コレクション”に、2013年12月の旅で撮影したモノを加えた。未だ全体の整理が終了していない途中段階ではあるが、「行程の各日毎」という基準で集めた“セット”を集めてある。

↓こちらである…
>>Collection: Voyage:DEC 2013 (Kyushu island and some others) (incl. Photomatrix)

現在の時点では、日付が冠された“セット”が並んでいる。その“セット”をクリックすると、内容が開いて御覧頂ける…

↓大雑把に要約すれば、下記のような内容だ。日付をクリックして頂くと、各“セット”にリンクする…

>>12月13日
↑稚内を発ち、荒天に阻まれて新千歳空港行きを断念し、札幌で夜を明かした。

>>12月14日
↑前夜に搭乗予定であった関西空港へのフライトが欠航したことを踏まえて福岡へ飛んだ。福岡からJR九州の列車で長崎に至った。

>>12月15日
↑長崎で一日を過ごした。

>>12月16日
↑長崎から諫早へ向かい、島原鉄道で島原に出て、フェリーで熊本に渡り、JR九州と肥薩おれんじ鉄道を乗り継いで鹿児島に至った。

>>12月17日
↑鹿児島・知覧間を往復したが、主に鹿児島で過ごしていた。

>>12月18日
↑鹿児島を発ち、肥薩線廻りで北上し、人吉を経て博多に至った。友人と会って、楽しいひと時を過ごした。

>>12月19日
↑西鉄を利用して、大宰府や柳川を訪ねた後、大牟田、鳥栖を経て佐世保に至った。

>>12月20日
↑松浦鉄道でたびら平戸口に至り、田平天主堂までの往復約7kmを歩き通した後に平戸を訪ねた。松浦鉄道で伊万里に至った後、唐津を経て博多へ。

>>12月21日
↑福岡市内で過ごしていたが、昼頃から天候が荒天になり、宿泊予定の佐賀へ向かった。

>>12月22日
↑佐賀から吉野ヶ里歴史公園に至り、<ウィンターバルーンフェスタ>を愉しんでから遺跡を見学した。福岡から札幌へ飛ぶものの、空港の荒天で行き先変更を余儀なくされ、羽田空港に至る。翌早朝の東京・札幌便への振替ということにして、川崎に泊まった。

>>12月23日
↑予定より早く出発する臨時便に乗せて頂いた。新千歳空港到着後、札幌、岩見沢、旭川と順調に進み、車両関係の問題で運休措置が講じられている特急列車の代替となっている“臨時快速”で稚内へ。

というようなことだが…年末年始の“居候生活”の期間を利用し、写真は追加予定である…

長崎駅:始発列車が出発する頃(2013.12.16)

殆ど毎日利用する通勤や通学の列車が「利用駅の始発列車」ということになっている方も在るのかもしれないが、駅の長い一日が始まるような頃に出発するという機会は、私自身の場合は必ずしも多くはない。

長崎から南下をすることにした朝、5時台に宿を出て、歩いて長崎駅へ向かった…

↓長崎駅に着いてみれば、改札が始まる前だった…
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↑改札口から直進した辺りに885系電車が…朝一番の博多行<かもめ>となる筈の列車だ…

改札口周辺の掲示を視ると、長崎駅の改札は午前5時40分から開始とのこと…

「5時40分改札開始」と聞き、札幌駅を思い出した。あそこは「只今から改札を開始します」というアナウンスが構内に流れ、自動改札が動き始め、係員の居る出入口も開く…

そんな札幌駅風な状況を想像したが…長崎駅では特段にアナウンスが流れるのでもなく、何時の間にか改札口が開いていた…

前日に求めた<旅名人の九州満喫きっぷ>を手に、係員が居る場所から、スタンプを押印して頂いてからホームに出てみた…

↓885系の白い車体…暗い場所でも映える…
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↑列車の進行方向側に回ると、ライトが点いて、運転士が出発に備えていた…

↓青いディーゼルカー…これが長崎駅から1日の初めに発車する佐世保行の列車だ…
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私が乗車することにしていたのは…佐世保行、<かもめ>の次に出ることになる鳥栖行だった…列車は未だ姿を見せない…

行き止まり式ホームに列車が滑り込み、列車はそのまま逆の方向に動いて各々の行先を目指す仕組みの長崎駅…何となく、欧州の大都市に在るメインの大きな駅の雰囲気を思い起こさないでもない…

↓ライトが点った<かもめ>が停車中の左右に、佐世保方面の列車などで運用されている青いディーゼルカーが見えるが、画面右側の奥に色々な車輛が見える…車輛が待機したり、出発前の準備などを行うための引込線が多く設けられているのが判る…
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やがて、佐世保行が出発した辺りで…

↓乗車した鳥栖行がホームに現れた…
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↑確か…国鉄時代末期に製造されていたタイプの車輛だ…中はロングシートだった…

この鳥栖行…長崎駅ではロングシートの車内がガラガラに空いていたが…鳥栖が近付くに連れ、通勤・通学時間帯ということで、込み合って来るのであろう…

乗車して出発を待っていると…<かもめ>が博多を目指して発車した…それをゆっくり追うように、鳥栖行の列車は発車した…諫早で下車するつもりだった私は…「居眠りして寝過ごさないように…」と思いながら、マダマダ暗い車窓を見詰めていた…

振り返ってみれば…日が落ちてから長崎駅に到着し、夜景を愉しんだ後に<旅名人の九州満喫きっぷ>を求めに寄り、日が昇る前に長崎駅を発った…今回の長崎訪問では…日中の明るい時間帯の様子を視ていない…

南島原駅(長崎県)で見掛けた地元児童の画(2013.12.16)

<旅名人の九州満喫きっぷ>を手に真っ暗な早朝の長崎駅を発ち、諫早駅で島原鉄道に乗換えた…島原鉄道は、雲仙の火山災害からの復興のために自治体の出資を入れているというが、古くから地元で活動している私鉄である…“国鉄”であった経過が無い…

諫早から乗車した列車も、途中で擦れ違った列車も、殆どが黄色の塗装が施されたディーゼルカーが使用されていた…「黄色いディーゼルカーの島原鉄道」ということになっているのだろうと思った…

島原で一旦下車し、慌しく武家屋敷を眺め、フェリー乗船を意図してまた島原鉄道の列車、「黄色いディーゼルカー」で南下を始めた…

終点の島原外港駅の手前、南島原駅で掲示物を眼に留めた…

↓こういうものである…
Minami-Shimabara Station, Nagasaki Pref. on DEC 16, 2013.jpg
↑或いは典型的な感じさえする「幼稚園の図画」という画なのだが…何か見入ってしまった…

「黄色いディーゼルカー」に笑顔のお友達が沢山乗っているという図である…車輌には、やや不器用ながら、島原鉄道のマスコットと見受けられるキャラクターも描かれている…

この画を描いた子ども達の身近な所を毎日行き交っている「黄色いディーゼルカー」…みんなの笑顔を鉄路の向こうに運んでくれるモノ…そんなイメージが好ましい…

よく掲示を見れば、地域の職場等を見学する幼稚園の催事で、南島原駅が園児達を迎えた経過が在ったらしく、そのお礼という意図で制作された画のようだ。その画を乗客の眼に触れる場所に掲示した訳である。何か、地域の子ども達や、その家族を安全に運ぶ旅客鉄道の原点を想い起こし、乗客に笑顔になってもらおうとでもいうような、関係者の皆さんの強い意志のようなものも感じる…

通勤や通学の乗客で込み合っているような、2輌連結で運行している時間帯に乗車すると、無人駅主体と見受けられる路線なので、乗務している車掌が小走りにホームと車輌の間を動き回りながら、乗降客に対応し、安全確認をして扉を開閉しながら列車を動かしている。が、そういう忙しい時間帯を過ぎると、決して多くはない乗客が1輌だけでワンマン運行の「黄色いディーゼルカー」の乗り、沿線に海も山も見える風光明媚な路線をのんびりと行き交っている…

南島原駅で何となく児童の画が掲示されているのを眼に留めたが…何か「地域密着の地方交通」というものの“原点”を考えさせられた気がした…

帰って来てから然程時間は経っていないが…早くも「黄色いディーゼルカー」との再会を思い描きたくなる…