長崎平和公園(2012.12.20)

長崎市内を動き回るのに便利な路面電車の“一日券”は、ホテルのフロント等で売られている。これを事前に求めておけば、500円で朝から晩まで動き回ることが出来る…

12月19日にこの“一日券”を多用し、12月20日も滞在したホテルから去る前にフロントで“一日券”を求めた。“一日券”には路線図が在って、主な名所のイラストが最寄停留所に示されていて、ハッキリ言えば「とりあえず電車の“一日券”を求めて、図を視ながら殆ど一日中、市内巡りをして愉しむことも出来る」状態だ…私自身、それに近い状況であった訳だが…

その“一日券”の路線図を視ていて、遠い記憶が呼覚まされた…小学生の頃、担任の先生が「九州の長崎へ行って来た…」というような話しをしていて、有名な平和公園の像の写真を見せてくれたような…そんなことが在った気がした…確か、先生は全国研究発表会か何かで出掛けたというような話しをしていたように記憶しているが確かではない…

そういうことが在った御陰で「長崎の原爆」に関する事項が記憶に残り、その後も色々なモノを眼に留めると何となく読んでいた…1945年当時、米軍は2方式の爆弾を用意した。その中の1つは広島で使用された…これに関しては、広島を初めて訪ねた折りに資料館を詳しく見て来た…もう一つの爆弾…ハッキリ言えば、一つ使った時点で「日本の戦争継続の意図を粉砕」というような目的は達せられた筈だが…「別な方式のモノを試用」という意図が在ったのか、或いは目的が達せられていないということになったのか、2つ目の爆弾は上空へ…そして、当初の投下予定地域の天候が不良であったことから、爆弾は長崎に投下されてしまったのだった…

その爆心地周辺が、戦災犠牲者を悼むと同時に、平和を祈る公園として整備されている訳で、私はそこを訪ねておきたかった。例の“一日券”の路線図にも有名な像のイラストが在って、公園が示されているのだが…最寄りの停留所がよく判らない。複数の場所から行くことが出来そうである。長崎の路面電車は停留所間の距離が短めで、何処かへ行く場合「A停留所またはB停留所、更にC停留所も可」というケースが多い。平和公園もそうだと思ったが、とりあえずホテルの方に尋ねてみた。松山町(まつやままち)の停留所が最寄と確認した…思わず口を突いたのは「長崎に初めて来たからには、平和公園に在るあの有名な像を視てから帰らなければ…」という言だったが…ホテルの方は笑って送り出してくれた…

電車に乗車したのは大波止(おおはと)という停留所だった。海が見える辺りになる。そこから、1日動き回って多少馴染んだ各停留所が並ぶ、存外に交通量が多い国道を進む。「道路の上に線路」が在る“併用軌道”が大半だが、一部区間では「線路のみ」の“専用軌道”になっている。電車は「寧ろ住宅街」というような辺りに入って行き、やがて目指していた松山町に着いた。電車の線路の辺りから道路を渡ると、階段とエスカレーターが備えられた、小高くなった公園の入口に至った。

↓冬の北海道は雪と低温で管理がままならないことから公園の噴水は停止してしまう。そんな土地からここを訪ねると、「豊富な水量で小さな虹が掛かる噴水」に圧倒される…そして小さな虹を視て、この地に込められた“祈り”のようなものを感じる…
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↓素晴らしい青空の下、噴水の向こうにあの有名な像が鎮座している。
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↑「右手は原爆を示し、左手は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」という意図が込められた像だという。原爆から10年を経た1955年に完成したそうだ。

↓像の手前の水面に、像の姿が映り込んでいる…
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現在は公園になっている辺りだが、往時は刑務所が在り、職員と収監されていた人達は…全員が原爆の犠牲になったようだ…広場の隅に往時の辺りの住宅地図を再現した掲示が在ったが、普通の民家が集まった地区に刑務所が在ったというような様子であった…

↓小高くなった辺りを降りて、少しだけ進むと、往時の“爆心地”にモニュメントが建てられていた…
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小高くなった、有名な像が在る辺りから降りた“爆心地”周辺も公園風に整備されている…

↓傷付いた、または力尽きた子どもを抱えて悲嘆に暮れる女性の像が在った…
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↑「被爆50年」のモニュメントで、「住宅地への爆撃」となった原爆で、女性、子ども、高齢者の犠牲が目立ったという事実を忘れないようにしようというメッセージが込められているという…

↓平和公園を含む長崎を中心とした12月20日の画…
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昨年12月の旅の記憶に関して、ランダムに書き綴ってきたのだが、この平和公園のような「戦禍の記憶」を伝える場所に立ち寄ると、過酷な状況を乗り越えた先人の努力に敬意を表したくなると同時に、何の心配もなく気侭に歩き回ることが出来る“平和”に感謝しなければならないという気持ちになる…

こうした“平和”な状況の中、色々な土地に立ち寄り、様々なことを考え、また学ぶことも出来たように思う…

長崎・上野彦馬生誕地(2012.12.19)

冬の朝はなかなか明るくならないが、その辺の事情は北国の稚内であっても、西の長崎であっても大差が無い…

前日の夜に長崎に到着し、一夜を明かして早朝から動き始めた。コンビニで珈琲を求めて啜り、その日の運行が始まったばかりの路面電車で移動した。「時間帯の割には?」と思える程度に多くの乗客が居た電車は、寧ろ“夜”のような街並みを走っていた。

電車を下りて、有名な眼鏡橋を視に行こうと歩き始めた。電車は存外に多くの乗客を乗せて動いているが、未だ行き交う車や通行人は多くない静かな街並みを行き、電車の停留所に在る周辺図で見当を付けた辺りをゆっくりと目指す。

やがて川が在って橋が架かっている、眼鏡橋の辺りに着いた。「この辺りだ!」と周囲を視る。

↓すると、こんなものが…
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見覚えが在る“坂本龍馬”と、「誰だった?」と咄嗟には思い浮かばなかった人物が…よく見ると、“上野彦馬”と在る…

暫し考えて思い出した。「有名な坂本龍馬の肖像写真を撮影した写真師」が上野彦馬であることを思い出した。“史上の人物”としては「屈指の人気者」で在る坂本龍馬との関わりで、上野彦馬の生誕地を示す記念碑に、上野彦馬自身の像と並んで坂本龍馬像が登場した訳である。坂本龍馬は有名な写真のポーズだ…

長崎は、かの坂本龍馬が活動した街で、彼の足跡を訪ねて市内を巡るというのも、長崎ではなかなかに人気が在るコースらしい。という訳で、「彼の有名な写真を撮った人に縁の…」と眼鏡橋の近くにこの碑も登場したのだろう…

この碑を視てから、私は眼鏡橋を視て愉しんだのだったが、偶々出くわした上野彦馬という人物に一寸興味を覚えた。

肖像写真が残って、それが少し知られた人物であると…「写っている人物」は話題になることが多いが、「撮影者」は「名前が出る場合も在る」という位であろうか。“写真”というものが日本国内で撮影されているのは、江戸時代の終わり頃で、“普及”という次元になるには相当の時間を要した訳だ。坂本龍馬のような、幕末期に活躍した人達辺りから、その姿が写真に残っているのだが、「それを撮影」ということであれば、「日本史上では最初期の写真撮影者」ということになる。

上野彦馬は天保9(1838)年生まれで、明治37(1904)に逝去しているそうだ。

上野彦馬は、オランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする医学伝習所に学んだ折りに写真の事を知ったようで、、文久2(1862)年には江戸に出ていて、同年中に長崎に戻って“上野撮影局”という「日本最初の写真館の一つ」を開業したのだという。幕末期には長崎で様々な人物の撮影を手掛けることになった。

明治時代になってからも、上野彦馬は写真家として活動を続けている。彼は西南戦争を取材して写真を撮影したことから、「日本初の戦場カメラマン」とも言われるようだ。

全くの偶然で、なかなか興味深い人物の存在を思い起こすことになった…それにしても…「日本で最初の方」に写真を手掛けた上野彦馬のような人達は「銅像を暗い早朝に、カメラ手持ちで手軽に撮影出来るようになり、撮った画は現像しなくても視られる」という状況を想像しなかったことであろう…

アルバム『見慣れぬ路の果ての見知らぬ街へ… DEC 14 - DEC 24, 2012』が完成した!!

デジカメを多用するようになってから、何時の間にか長い時間が経った。デジカメは「現像プリント」を度外視してどんどん撮り、気に入った画を何らかの型で保存することが出来るのが好いと思う。

近年は、「毎度」という訳でもないが、旅行に出て撮った写真の中から気に入ったモノを選びアルバムを作っている。“フォトブック”というサービスで、色々なモノが在る…

↓私が時々利用するのはこれだ…
楽天写真館:フォトブック

当初は…恐らく「一生、自分のモノとして手にする機会は訪れない」と思われる“八セルブラッド”のような「正方形の写真」が撮れると、愛用し始めたばかりだったS95でその“正方形”を散々撮り、「気に入ったモノをプリントにしたいが…“長方形”が基本のプリントをするには不具合なデータをどうするか…」と考えた中で利用し始めたのだが…これがなかなかに好かった…

↓今回のモノ!!出来上がった!!
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↑写真を280点以上利用し、かなり“増ページ”した代物で…目下、世界に一冊だ!!

↓1ページに最大9枚の画を入れる構成を利用し、「賑やかな紙面」を作ってみた…
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↑視るもの、聞くものが尽く面白く、方々を駆け回った雰囲気が思い出される…

↓視たものの“経時変化”が判るような紙面も作った…
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↑これは40分間程度、「本気で寒い…」と思った長崎の稲佐山山頂で夕景を眺めた時の写真だ…

↓何も考えずに気に入った画を載せた紙面も作っている…
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この一冊で…稚内を経って新千歳空港に至って大阪に飛び、新幹線で入った熊本から、鹿児島、宮崎、大分、長崎、佐賀、福岡の各県を巡って下関に道草し、福岡空港から北海道へ引揚げ、旭川を経て稚内に戻るまで…の足跡を振り返ることが出来る…

こういうモノ…「次なる旅…」という想いを膨らませてしまう代物だ…

楽天写真館:フォトブック

追伸

↓最近作った他のフォトブック…
>>『音の惑星』 on the web...: 『鉄路3,174km 稚内・枕崎 DEC 15-23, 2011』完成!!
>>『音の惑星』 on the web...: 目下、「世界に一冊」!! フォトブック『APR 28 - MAY 03, 2012』完成!!

旧門司税関(2012.12.22)

門司港駅周辺の門司港地区には、貿易港として栄えた歴史を伝える様々な建物が残っている。

↓旧門司税関の建物も、そうしたものの一つだ…
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↑貿易関連の事務を取扱った役所の庁舎だっただけに、「港を見渡す」ような塩梅の場所に佇んでいる。創建当時には無かったであろう関門橋が背後に覗く…

↓陸の側…入口側はこういう感じ…
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1909(明治42)年に門司税関が設けられ、1912(明治45)年に庁舎が建てられたという。昭和の初め頃まで、ここが庁舎として利用されていたという。利用されていた期間は20年間程度ということになるだろうか?

税関の官制が成立してから、九州の税関は“長崎税関”の下に各港の支署が設けられていたようだが、1909年に門司の支署が独立した。九州北部で興った各種の産業が盛んになり、港の貨物扱いが大きく伸びていた様子が伺える話しだ。そうした状況を背景に、門司港地区に様々な建物が登場し、それが現在も伝えられて親しまれている訳である…

1927(昭和2)年に、別な庁舎が完成して引っ越し始めたということだが、1928(昭和3)年には「税関の官制を廃止して海運局に統合」という出来事が在ったらしい。そのまま戦時下を経て、1946(昭和21)年から税関が再開され、門司税関は九州の各支署を管轄する税関となった。その後、1953(昭和28)年に至って長崎税関が独立したとのことだが、所謂“戦後復興”で各地の産業が甦り、港での貨物扱いも増えた様子が伺える。

現在の門司税関は九州の東側(長崎税関管轄地を除く福岡県、唐津市や伊万里市等佐賀県の一部、長崎県の対馬市や壱岐市、大分県、宮崎県)と山口県を管轄区域としていて、“門司港湾合同庁舎”を本拠地に、各地に支署や出張所を設けて活動中だ…

門司港の旧い庁舎だが…1994(平成6)年に北九州市によって、往時の姿をより良く伝える現在の姿に改修したらしい…現在は催し物会場、休憩所、展示スペース、展望スペース等として利用されているようだ。

歴史的な建物が多く残る門司港地区の中で、この旧門司税関は一際趣が在るように思った…

鹿児島中央駅(2012.12.17)

例えば“みかん冷蔵倉庫”というような地元の北海道では聞いたことがない―北海道で柑橘類の栽培は…少なくとも農業として採算が取れるような規模では不可能であるように見受けられるのだから…―ような看板が見えることも在る、見慣れない車窓を眺め、暗くなって何も見えずに退屈してしまったり、何となく居眠りをしながら列車等で旅をするのは愉しい。正しく「見慣れぬ路の果ての見知らぬ街」を巡るような旅である。

そんな様子を“アルバム”に整理しようと思い立ち、編集作業を始めた時、“表紙”に採用したのは…

↓早朝の鹿児島中央駅の写真だった…
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↑愛用のS95で強引に“手持ち撮影”してしまった写真だが…なかなかに気に入っている。

拙宅の最寄駅ということになる稚内駅は、白い外壁の建物である。そこを発って、辿り着いた先の駅が黒い外壁…何か「遠い国へ…」というような感慨が沸き起こる…

「宮崎県、大分県方面へ北上…」と思い立ち、早朝の“始発”というような列車を利用することにした。鹿児島中央駅は「賑やかな場所」というイメージだが、そんな早朝の時間帯はひっそりしている。九州新幹線の起点・終点になることから「新たなデザインで改装された」という駅だが、「忙しい一日に向けて目覚め始める」という時間帯の雰囲気が好い…

私が未だ小学生だった頃になるであろうか?当時の国鉄が運行していた寝台特急…通称“ブルートレイン”が大変に注目されていたことが在った。色々な列車を紹介する本等が出回っていて、随分と目を通した。その中では「東京・西鹿児島」という運行の列車が「最長距離の列車」ということで紹介されていた。

実は…鹿児島を初めて訪ねた際…より正確には…枕崎を目指した2011年12月、深夜帯に入ろうかという時間に鹿児島中央駅に到着した時だったが…ふと「小学生の頃に本に出ていた“西鹿児島”という駅は何処なのだろうか?」と思ったのだった…実は“西鹿児島駅”が改名され、現在の“鹿児島中央駅”になっている。程なく「そう言えば!!」と思い出したが…

この駅だが…1913年に初めて“武駅”(たけえき)として設置され、1927年に“西鹿児島駅”に改名された。1970年代以降、特急などの優等列車は西鹿児島駅発着ということになった。故に“ブルートレイン”が注目された頃、発着駅として“西鹿児島”が紹介されていたのだ。1996年には現在の駅舎に建て替えられ、2004年の新幹線開通を機に“鹿児島中央駅”に改名された。

という訳で、“鹿児島中央駅”という名前になってから10年足らずなので、「中央駅」という通称の他、現在でも「西駅」という旧称が人の口の端に上ることも在るようだ…

この黒い駅舎だが…1996年に登場した時は赤い駅舎だった…これは2010年に改装され、現在の黒になったそうだ…更に…この鹿児島中央駅は、JR九州の駅としては、博多駅、小倉駅に次いで乗降客が多い駅らしい…

また何時か、辿り着いてみたい駅だ…

“九州ネットきっぷ”が好かった!!

昨年12月に訪ねた九州で、南宮崎・大分間、佐賀・博多間、小倉・博多間で特急列車を利用した。これらを利用する際の乗車券等は“九州ネットきっぷ”というサービスで求めた。

↓これがその“九州ネットきっぷ”…窓口、または専用端末で発券される…
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↑通常は改札で回収されるが…「記念に欲しい!!」と申し出ると、係りの人がスタンプを押してくれて、それを持ち帰ることが出来る…余り行かない地域を訪ねた際には、よくやっている…

北海道でも“Rきっぷ”、“Sきっぷ”等と呼ぶ「設定された区間の往復割引切符」が在るが、九州でも“2枚きっぷ”、“4枚きっぷ”と呼ぶその種のモノが在る。“九州ネットきっぷ”だが、これはこうした「設定された区間の往復割引切符」の「半額程度」のような料金で「片道のみ」で求めることが出来る。これが、「AとBとを往復」ということではなく「A→B→C→D→…」と「方々を巡る」ように旅をしていた中では大変に有難かった!!

北海道の“Rきっぷ”、“Sきっぷ”等は「普通に乗車券と特急券を片道づつ求めた場合」よりもかなり安い。が、それを「片道分だけ」求めることは出来ない。九州の“2枚きっぷ”、“4枚きっぷ”も同じようにかなり安いが、原則「往復のみ」だ。それが、“九州ネットきっぷ”になると「片道可」になる。

恐らくこの“九州ネットきっぷ”は、他の交通機関との競争が激しい区間の“梃子入れ”であろうし、必ずしも競争が激しいでもない区間に関しては「需要の掘り起こし」でこういうサービスをしているのであろうと想像した。

例えば…小倉・博多間…これを利用した日は休日だったのだが、小倉駅で「休日限定で新幹線の小倉・博多往復がお得!!」というようなものが売られていた…これは「往復のみ」だったので黙殺していたが…そんな中で駅の掲示を視れば…「小倉・博多 4枚きっぷ 5,200円(1回1,300円)」というのが在った…こうした中だが、“九州ネットきっぷ”の小倉・博多間は特急列車の自由席に乗車出来て1,400円だった…同じ条件の普通の切符は2,250円だそうだ…この時は「博多から空港に行って北海道へ…」という予定で、小倉・博多間の片道を1回で用事が足りるのだから…“九州ネットきっぷ”が最も好適であった…

“九州ネットきっぷ”は「片道可」である他、「乗車当日の申込可」である。そして支払いに利用するカードに関しても「“系列カード”に限る」というような拘束が無い。私の視点では「現時点で最良の、この種のサービス」である。

↓詳しくはJR九州のサイトのページで…
>>購入できるきっぷ | とっトク。いつでも!どこでも!JR九州インターネット列車予約

昨年12月に九州を訪ねる直前にこのサービスに気付き、利用可能なように無料の会員登録というのを出発前にしておいた。そして普通列車の本数がかなり限定される、宮崎・大分間―延岡・佐伯間の列車が殊に少ない…―を移動しようとした中、特急列車に乗車しようと思った場面で、この“九州ネットきっぷ”を初めて利用した。宮崎・大分間は1万円で“2枚きっぷ”が設定されているようだが…“九州ネットきっぷ”で「片道5千円」だった。これは有難いと思った。

これが切っ掛けで、佐賀・博多間、小倉・博多間でも利用してみたのだった…大分で友人と昼食を共にした際、この“九州ネットきっぷ”の話しをしたところ友人は「それは知らなかった」ということだった。多分、未だ新しいサービスなのであろう…

この種のサービス…JR各社で色々と在るようだが…「片道可」、「乗車当日まで申込可」、「支払いは“系列カード”に限るというような拘束が無い」というような、私の視点で有難い条件を全て備えているのは…この“九州ネットきっぷ”位かもしれない…

何時かまた…このサービスも利用して各地を訪ねたいものだ…

桜島の眺望(2012.12.16)

大阪で、熊本で、続けざまに雨に降られて、雨の中を歩き回って酷く濡れた状態で夕刻の鹿児島に着いた。屋台村で言葉を交わした方に「明日は朝陽が観られると善いですね…多分大丈夫でしょう…」と言って頂いて、それに力を得て宿に引き揚げ、備え付けのコインランドリーで酷く濡れた上着等を洗って乾かした…

前夜に確り洗って乾かした上着を引っ掛け、暗い間から動き始めた。路面電車に乗り込み「次はいづろ、いづろ通です」(単純に停留所名を繰り返さないのが鹿児島の流儀…)のアナウンスを聴き、下車して“ドルフィンポート”を目指した…

↓暁の海に桜島!!大変気に入っている光景に出会うことが出来た!!
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↑この山が秘める“力”が分けてもらえるような…そんな気にさえなってしまう光景だ…

“ドルフィンポート”というのは、港を望む辺りの商業施設のことで、正確には「フェリー等が発着している辺りに整備された緑地」に行くと言うべきなのかもしれないが…この場所は初めて鹿児島に至った2011年12月に知った場所で、あの時は枕崎を往復して鹿児島に着き、「日没も近いのか?」と直ぐに目指したので、私にとっては「鹿児島と初対面した場所」というような趣さえ在る場所だ…

どなたかが「“良い眺め”(いいながめ)と記憶すると善い」と仰っていたが、桜島は標高1,117メートルだそうだ…鹿児島の市街から見ると東側に位置する…故に鹿児島に居れば、朝陽はこの桜島から降り注ぐことになる…

この日は午後から若干雲が多めになってしまったのだが…朝の様は素晴らしかった!!

叶うものなら…色々な季節の、色々な時間帯の桜島を眺めてみたいものである…

追伸

↓2011年にも出会っている桜島…
>>鹿児島 桜島の眺望(2011.12.19-20)
>>鹿児島 仙巌園(2011.12.20)

熊本の路面電車(2012.12.15)

何となく路面電車が好きなのだが…九州で路面電車と言えば、長崎電気軌道、熊本市交通局、鹿児島市交通局のものが知られていて、筑豊電気鉄道という会社の列車が路面電車タイプの車輛で運行されているらしい…

昨年12月に九州を訪ねた折り、長崎電気軌道、熊本市交通局、鹿児島市交通局の各路面電車にとりあえず乗車した。鹿児島と長崎では路面電車に随分お世話になった…しかし熊本は…「とりあえず乗車」という塩梅である…

熊本駅の新幹線と反対側、在来線の駅の前は、駅の出入口から真っ直ぐ進んでそのまま屋根の在る停留所に入ることが出来るようなデザインになっていた。ここから路面電車に乗車出来る…

↓熊本の路面電車は、熊本駅前に待機して、沢山の乗客を乗せて出発する…
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熊本の路面電車も、駅の観光案内所等で“一日券”が売られていて、気軽に利用出来るのだが…結局、熊本駅と熊本城を往復しただけだった…

熊本の路面電車…次々に大きく曲がって、「場所を選ぶ」かのように軌道が敷かれていて、何か次々と進行方向が変わっていたような気がしたが…「街の新旧の市街を大きく回って走っている」という印象を抱いた…

熊本の路面電車は、近年各地で目立つようになった低床式の新車輛の導入が余所より早い等、なかなか積極的な運営が為されているらしい…

新旧様々な車輛が見受けられるというのは、余所と同じだ…

↓やや旧い感じの車両に広告塗装!!こういう感じ!!存外に好きだ…
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結果的に「九州7県に足跡!!」という旅行をしてみたが…強めな雨で、方々歩き回るのを諦め、早々に鹿児島を目指したということで、熊本に関しては「やや印象が薄い」感を免れない…そして…路面電車にも「もう少々乗りたかった」感じである…

「敢えて」とか「故意に」というつもりは無いのだが…旅行に出ると何となく、今般の熊本のような「何か心残り…」というような事柄が発生してしまう…或いは、そうした「何か心残り…」というようなことが、時間を掛けて熟成し、「次なる旅」へ誘うのかもしれない。2011年には、「稚内から枕崎までの全行程を列車で」ということを成し遂げて満足した他方、「縁が薄かった九州に関して、福岡と鹿児島しか視ていない?」という“心残り”を感じ、それが時間を掛けて熟成し、結局「九州7県に足跡!!」ということになったのだ…

追伸

因みに「日本全国の路面電車」ということになると、上述の長崎、熊本、鹿児島も含めて以下の19らしい…(ウィキペディア参照) 

・札幌市交通局 - 一条線、山鼻西線、山鼻線(札幌市(実質的には一直線であり単一路線として1系統のみ運行されている。)
・函館市企業局交通部 - 本線、湯の川線、宝来・谷地頭線、大森線(函館市)
・東京都交通局 - 荒川線(東京都)
・東京急行電鉄 - 世田谷線(東京都)(ただし併用軌道区間はほとんど存在せず、大半が専用軌道である。)
・豊橋鉄道 - 東田本線(豊橋市)(線名は一つしかないが、実際は途中の井原から分岐する支線があり、終点の異なる2系統が交互に運行されている。)
・富山地方鉄道 - 市内軌道線本線、支線、安野屋線、呉羽線、富山都心線(富山市)(2010年に新規開業した富山都心線をのぞく各線は実質的には一直線であり単一路線として運行されている。)
・富山ライトレール - 富山港線(富山市)
・万葉線 - 高岡軌道線(高岡市・射水市)
・福井鉄道 - 福武線(併用軌道は福井市内のみ)
・京阪電気鉄道 - 京津線、石山坂本線(併用軌道は大津市内のみ)(京津線は、全長64mの鉄道線用車両を使用して京都市営地下鉄東西線に乗り入れている。日本で唯一の地下鉄に乗り入れる軌道線。)
・京福電気鉄道 - 嵐山本線、北野線(京都市)
・阪堺電気軌道 - 阪堺線、上町線(大阪市・堺市)
・岡山電気軌道 - 東山本線、清輝橋線(岡山市)
・広島電鉄 - 本線、宇品線、江波線、白島線、皆実線、横川線(広島市)
・土佐電気鉄道 - 伊野線、桟橋線、後免線(高知市・南国市・いの町)
・伊予鉄道 - 城南線、大手町線、花園線、本町線(松山市)
・長崎電気軌道 - 本線、赤迫支線、桜町支線、大浦支線、蛍茶屋支線(長崎市)
・熊本市交通局 - 幹線、水前寺線、健軍線、上熊本線、田崎線(熊本市)
・鹿児島市交通局 - 第一期線、第二期線、唐湊線、谷山線(鹿児島市)

近年「乗車した!!」と言える程度に乗車したのは…札幌、函館、嵐電(京福)、阪堺、長崎、鹿児島である…

「一寸乗った…」というのは…岡山、広島、熊本である…京阪もほんの少しだけ乗車した…

「かなり以前に乗車したことが…」ということなら東京の都電も乗車している…

或いは…ここに在るような路面電車に乗ることを目的に「全国路面電車巡り」というようなことをするのも面白いかもしれない…

飫肥・豫章館(2012.12.17)

北海道に居ると「九州は凄く温かいのであろう…」と想像する。12月に九州各地を巡った際、日中の最高気温は概ね10℃前後で、日が沈む辺りや早朝は5℃や3℃という場面も在ったようだが、「凄く温かいという程でもない」という状態だった。とは言え、「多少風が冷たい…」という程度で、「歩き回って汗ばむ訳でもなく、悪くない…」程度に思っていた。「本気で寒い」と感じたのは、日没辺りに上った長崎の稲佐山の山頂位なものだった…あの時は3℃程度に気温が落ちてきた中、標高300m以上で吹曝しだったので「体感は氷点下?」という状態に陥り、多少キツいものも在ったが…

そういう状態ではあるが、「九州は凄く温かいのであろう…」と想像する範囲を超えて温かかった場所も在った…宮崎県の飫肥である…

宮崎県という場所は、九州出身の方、九州各県で言葉を交わした方、その他九州各地の様子を知る方が「あそこは温かい…」と一様に口を揃えるような場所である。

宮崎から日南海岸に沿うように、時々内陸側にも入りながら延びる日南線の列車で飫肥を往復した。宮崎を発った時には多少雲が目立ったが、次第に天候が好転してくるような状況であった…然程の厚着はしていなかったのだが、静かな飫肥の街を歩いていて「多少暑い…」と思えて、上着を脱いで「半袖Tシャツの上に薄い長袖シャツ」というような、冬季であれば「屋内に居る場面」のような服装で歩き回ったが、それで汗ばむ程になった…列車本数が少なめな日南線の南宮崎行を逃したくないと速足で歩いた後には、結構な汗もかいた…あの時は飫肥駅の駅員さんも上着を脱いでワイシャツ姿だった位だ…多分15℃前後…否、20℃近くになっていたのかもしれない…氷点下で積雪も多々在るような地域から訪ねた身には驚くべき状態だった…

飫肥は、そういう「非常に温かかった場所」として記憶に残るのだが、同時になかなか雰囲気の好い小さな城下町であったことも記憶に残る…「地方の小規模な城下町」ということでは、飫肥は各地のそうした場所の中では、「大変に佳い型でその雰囲気を伝える場所である」と言って差し支えないであろう。

薩摩・大隅の島津家と争った日向の伊東家が拠点を置いていた飫肥は、豊臣政権期以降、伊東家の知行地の中心となった。伊東家は飫肥の城を所謂“近世城郭”と呼ばれるスタイルのモノにして城下町も整備した。そして江戸時代を通じて飫肥は伊東家の城が在る城下町だった。

飫肥はその城下町の面影を伝えるものが、然程広くは無い領域に多々残っていて、同時に“城下町”という雰囲気を大事にする街並みの整備が為されている…

そんな城下町の中心で在る城の側に近付くと、なかなかに雰囲気の在る建物が散見するのだが…「向こうに見えるのが城門??」という辺りに、なかなかに風格が在る旧い邸宅が見える…

そのなかなかに雰囲気の在る邸宅…それが豫章館(よしょうかん)である…

↓「何だろう??」と、思わず覗いてしまいたくなるような感じの入口である…
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1869年(明治2)年の“版籍奉還”後、各地の大名は“知藩事”ということになった。飫肥で“知藩事”となった伊東祐帰(すけより)が飫肥城から城下の屋敷に移り住んだが、その屋敷が豫章館である。

豫章館は飫肥城の門を出て直ぐの場所に在る。庭の北側に大きな楠(予章木)が在ったことから、豫章館と名付けられたという。“楠”は古くは“樟”と書いたそうだ…

↓一見すると簡素な感じだが、丁寧な造作の「上級な人達が暮らした場所」という風格が在る…
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↓建物の周辺も、「手入れに手間が掛かりそう…」と見える“枯山水”風を基調に纏められていた…
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1871(明治4)年には“廃藩置県”が実施され、各地の“知藩事”は“華族”ということになり、原則的に東京に住むことになった。豫章館が「知藩事の邸」だったのは、極短い期間であったことになる。

宮崎駅(2012.12.17)

未だ暗い鹿児島中央駅から817系電車に乗って北上した…途中、朝早くの仕事や、交通の関係でこの列車を選んだと見受けられる何かの用事で出掛けている人、「学生服に野球帽」というような沿線の高校でスポーツ系の活動に勤しんでいると見受けられる若者がパラパラと乗り降りしているような長閑な状態が続いていた…その間、次第に明るくなる車窓をのんびりと視ていたが、都城辺りでかなり明るくなってからは様子が変わった。空席が目立っていたものが、座席は全て埋まり、立っている人達も多くなった…

そんな通勤・通学の様子を視ながら辿り着いたのが宮崎駅である…随分大勢の人達が出入りしていて賑わっていたが、「一寸、御手洗いを拝借…」等と駅でゆっくりしていた間に、大勢の人達は既に散ってしまっていて、存外に静かな駅になっていた…

↓宮崎駅の出入口はこんな感じになっていた…
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北海道のように、相対的に歴史が新しい地域では、鉄道の主要駅は「街の真ん中」のような場所になっている例が多いように思う。が、九州各地を含めて、鉄道が街にやって来た時点で、「古くからの繁華な市街の端」になるような場所に駅が開設されている事例も多い。そういう地域では、駅周辺は「新興の市街」という趣であったり、「街を代表するような様々なモノからやや離れている」という様子である。

宮崎駅に着いてみて…ここは「鉄道が街にやって来た時点で、“古くからの繁華な市街の端”になるような場所に駅が開設されている」例の典型かもしれないと思った。駅前に立ってみて、「新興の市街」としての賑わいという程のものも感じ難かった。バスやタクシーが行き交う場所の他、何やら広場のような広い敷地が目立った…そして、そこに植えられていた植物だが、「北国から辿り着いた」私の眼には若干の驚きだった…「アメリカ製のテレビドラマで見る、フロリダのマイアミにでも在るような…」という「温暖な土地柄でなければ育たない」と見受けられる種類ばかりなのだ…

↓駅の構造物以上に、植えられている木が目立つ感じがした…
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↑或いは、駅は他所でも視掛けるような感じだったので印象が弱く、植えられている木の印象が強かったのかもしれない…

宮崎駅は、高架線の上に4本のホームが据えられていて、高架の下に相当する部分が建物になっていて、駅事務所、券売場、売店、喫茶コーナー等々が入居している。外側は高架線の駅のテリトリーに相当する部分を覆う“壁”のようなものが据えられている。

高架部分を天蓋のようなものが覆っている訳でもない。各ホームに雨を凌ぐ屋根は据えられているのだが…4本のホームだが、所謂“島式”という形状で2面である。概ね、南側へ向かう列車が発着する2本と、北側へ向かう列車が発着する2本に分かれている。この2面のホームを下りた場所に各々改札口が在る。列車を利用する際には、「○○行は?」と発車するホームを確認して改札を潜ることになる。北海道内の帯広駅がこれと同じ方式であったことを思い出した…

↓流石は宮崎県の県庁所在地!!宮崎県を代表する銘柄の焼酎が駅構内で売られていた…
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↑静かなホームでぼんやりと、乗る列車がやって来るのを待つ…そういう光景が妙に好い…

正直なところ…「この駅は改装工事の最中か?」と思った。そして…“壁”のデザインが、何となく近隣の“立体駐車場”の“続き”のようにも見えた…この宮崎駅は、街を線路が分断するような型になっていたことから推進した高架の完成を受けて1993年に現在の型になったのだという…

↓何か「南国に特有な木々の中で静かに乗客を迎えてくれる駅」という感じがする…
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今回は…この駅から日南線の列車に乗り込んで飫肥へ向かい、飫肥から引揚げて南宮崎に着いて、南宮崎から大分へ移動したということで、余りこの駅の周辺を視る機会は無かったが…何か「不思議な印象」が残る駅であった…

長崎・シーボルト記念館(2012.12.19)

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト…何か興味が湧く人物である…19世紀の出島にやって来た医師で、後年は寧ろ博物学者として知られた人物ということになる…

長崎を訪ねた時、このシーボルトに因むモノを視るか、縁の場所を訪ねてみたいと思ったのだが…その双方を満たしてくれる場所の情報を得た。「シーボルト記念館」である。

シーボルト記念館は1989年にオープンした長崎市が運営する施設である。シーボルトの歩みや事績を伝える展示が観られる記念館が、彼が活動していた“鳴滝塾”跡地に隣接して建っている。「シーボルト記念館を訪ねる」ことにより、彼の歩みに関する展示に触れると同時に、彼が活動していた場所の跡にも立ち寄ることが出来る訳だ。

長崎市内で色々な場所を訪ねる際には、イラスト地図が入っている路面電車の一日乗車券が非常に有難い。(そして“500円”なのが重ねて有難い…)その一日乗車券を駆使して“新中川町”(しんなかがわまち)という停留所を目指す。長崎の路面電車は、存外に交通量が多い道路に敷設された軌道を往来しているのだが、新中川町停留所からシーボルト記念館を示す案内標識に従って歩き始めると「車がすれ違うのもギリギリ」というような細い路地が入り組んだ住宅街に入る。多分10分弱だと思うが、シーボルト記念館までは存外に歩く。

「もう少し先なのか?」等と思いながら細い路地を進むと、住宅に貼り付けられた住所表示に“鳴滝”の文字が見える。シーボルトの“鳴滝塾”の名前の由来となっている地名が、現在も住所として残っていることが判った。

やがて…シーボルトの胸像がひっそりと佇む“鳴滝塾”の跡に至る…シーボルトは、当時の日本の医師や、科学技術に関心を寄せる人達が渇望していた欧州の知識をこの“鳴滝塾”に集った彼らに伝えた。そして医師として、病人や負傷者の治療にも協力した。更に彼は、ここで多くの人達から日本に関する情報や資料を得ていた。シーボルトが活動していた頃には、家屋も在って、人の往来も盛んであったのだろうが…

↓現在では「静かな住宅街の一隅を占める空地」という以上の形容が難しい感じになっている。
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↓上記の標柱の他、シーボルトの胸像も在る…
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↑これはシーボルトの晩年の風貌をモデルにした像だ…

跡地に在るシーボルトの胸像は、本来のモノが戦時中の「金属製品供出」で損なわれてしまったことから、残っていた石膏型を利用して戦後に再現されたものだという。

その像を眺めながら考えたのは、“鳴滝塾”の場所がぼんやりと思っていた、或いは勝手に想像していた以上に“出島”からの距離が在ったということだ。“出島”から“鳴滝塾”跡地を路面電車で動くと、何となく「昔からの長崎の町を殆ど端から端に横切る」ような感じがした…

↓その“鳴滝塾”跡地を見下ろすような隣接地に、シーボルトが生まれたドイツのヴュルツブルグや、日本を去ることになった後に住んだというオランダの諸都市を思わせるような、煉瓦積み風外観の記念館が佇んでいる…
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「外国人を顕彰する公立の記念館」というものは余り例が無いらしく、この“長崎市立”の記念館は、その種のモノとして最初の例らしい。とは言え、「往時のシーボルトの活動」は「長崎の地元の歴史の大切な一部」である。それを“市立”の施設で伝えることに、何らの違和感も無い…

これまでに読了した様々な物語に登場したシーボルトや、シーボルトの周辺の人々のことを想い起こしながら、静かな住宅街に佇む胸像を見詰め、なかなかに要領良く纏められた記念館の展示を見学したのだった…立ち寄ることが叶って善かったと思う…

>>シーボルト記念館(Siebold Memorial Museum)

小倉・常盤橋(長崎街道起点)(2012.12.22)

小倉駅から小倉城方面に向かい、周辺を歩いていると「長崎街道起点」なる表示を見掛けた…

「長崎街道?」と興味が湧いたので、近くに足を運んでみる…

↓「江戸時代風」の姿になった橋が在った!!
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↑これが小倉の常盤橋である…

「長崎街道」とは、江戸時代に長崎との往来を確保するために整備されたもので、小倉・長崎間の25宿、57里(228km)の道程である…

↓常盤橋の辺りに説明の掲示が在って、「長崎街道」が紹介されている…
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↑九州の古くからの地名には不慣れで、どういう場所なのかも不案内な場所が多いのだが…「こういう経路で、昔の人は長崎と他の地域との間を往来したのか…」と図面を見入ってしまった…

一寸、ルートを調べてみた…

小倉常盤橋(福岡県北九州市小倉北区室町) - 起点

黒崎宿(福岡県北九州市八幡西区黒崎)

木屋瀬(こやのせ)宿(福岡県北九州市八幡西区)

飯塚宿(福岡県飯塚市)

内野宿(福岡県飯塚市)

山家(やまえ)宿(福岡県筑紫野市)

原田(はるだ)宿(福岡県筑紫野市)

田代宿(佐賀県鳥栖市)

轟木(とどろき)宿(佐賀県鳥栖市)

中原(なかばる)宿(佐賀県三養基郡みやき町)

神埼宿(佐賀県神埼市)

境原(さかいばる)宿(佐賀県神埼市)

佐賀宿(佐賀県佐賀市)

牛津宿(佐賀県小城市)

小田宿(佐賀県杵島郡江北町)

北方宿(佐賀県武雄市)

塚崎(柄崎)宿(佐賀県武雄市)

嬉野宿(佐賀県嬉野市)

彼杵(そのぎ)宿(長崎県東彼杵郡東彼杵町)

松原宿(長崎県大村市)

大村宿(長崎県大村市)

永昌(えいしょう)宿(長崎県諫早市)

矢上宿(長崎県長崎市)

日見宿(長崎県長崎市)

長崎(長崎県長崎市) - 終点

私自身も「長崎から小倉」を移動したが…私の場合は長崎・佐賀間の普通列車、佐賀・博多間の特急<かもめ>、博多・小倉間の普通列車という経路を通っていて、「長崎街道」を迂回した型で動いている…少なくとも「長崎→佐賀→小倉」の“三宿”は通っていて、3箇所共に宿を取って短いながらも滞在した訳だが…

参勤交代の大名、長崎出島のオランダ商館関係者、幕末期に活躍した色々な人達が往来した街道の起点だった場所に立ったというのは、とにかくも非常に興味深かった…

江戸時代に“長崎”は特殊な存在であったかもしれないが、明治期以降も重要な港町であったことに変わりはなく、例えば郵便制度が出来た際には長崎へ向かう郵便物はこの「長崎街道」を通ったそうだ…

↓そうした故事を意識して、この小倉の常盤橋近くに在る小さな郵便局に「明治時代の初めての郵便ポスト」を意識したデザインのポストが設置されている。
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↓こういうような考え方も在るらしい…
>>長崎街道 ~長崎街道を活かした地域づくり~
↑例えば“ポスト”はこういうような「長崎街道を活かした」という考え方で登場したモノの典型例であろう…それの善し悪しはどうでもいい…「そこに先人の足跡…」と近隣の何気ない場所に“浪漫”が感じられるという状況は羨ましい気がする…

この小倉の常盤橋…「ふらりと立ち寄って、気に入った」という場所である…

鹿児島の醤油?!

“醤油”という調味料…「日本人は“調味料”と言えば、とりあえず醤油だ」という話しを聞いたような気もするが、調味料の“代表選手”、“万能選手”のように広く醤油を利用していることに思い当たらざるを得ない…

そんな醤油は、色々な地域で醸造されていて、きっと地域毎に「好みの差異」が在って、それが反映されていることであろう…そんなことは「頭の中で何となく」という次元で判っていたつもりだが、実際には「全く意識しない」状況だった…“醤油”は何処まで行っても“醤油”でそれ以上でも以下でもない…

「ところが!?」である…鹿児島へ行ってみて少々驚いた…

夕食に寄った店で「醤油…大丈夫ですよね…」と尋ねられたのが“驚いた”切っ掛けだった…私は訪ねた先―地元でも“居候場所”でも同じことだが…―で食事に寄れば、出て来たその土地で“普通”なものを普通に頂くだけのことで、「こうじゃなくてはいけない」というのは、幾分の例外―極めて限定的なものである…―を除けば殆ど気にしない…問い掛けられたことで「“差異”を気に掛ける方も在る」ということに気付かされたのである…

鹿児島の醤油は“甘い”と言われる…最初に「醤油…大丈夫ですよね…」と尋ねられた店でも、他の店でも、確かにやや甘かった。しかし、それが頂いた料理にはなかなかに合っていて、特段に違和感は無かった…「この醤油でなければいけない!!」という拘りが在るでもないので、言われなければ、多分気にしなかったかもしれない…

聞けば…東京方面等、他地域への出張が多い鹿児島の方の中には、容器に「鹿児島の醤油」を入れて持ち歩くという方も見受けられるのだとか…あたかも「少し長く外国へ行く」ような感じである…また鹿児島の方の中にも、ポピュラーな“濃い口”に対し、“薄口”や他地域で一般的な醤油を指す“辛口”をより好むという方も在るようだ…

これまで「違う醤油」というものを意識したことなど無かったが…鹿児島での一寸した経験のお蔭で、少々気になるようになった…

↓そんな訳で、鹿児島から醤油を取り寄せてみた…



鹿児島限定甘めの醤油 迫醸造 出光(デコー)醤油 光こいくち 1000ml

↑何となくラベルに眼を通してみると…確かに“甘味”が加えられている…

これを近所の店の惣菜コーナーで求めた揚げ物を頂く場面や、ハムや肉を焼いて頂く際に一寸試してみたのだが…「なるほど一味違う!!」という按配になった…非常に面白い!!

当分の間は「鹿児島風」の味が拙宅でも楽しめそうな感である…

稚内にまで現れた“くまモン”(2013.01)

熊本県のキャラクター“くまモン”が大人気であることは聞き及んでいた…

熊本で、実に多彩な“くまモン”のグッズを視掛けたのだが…その後、鹿児島、宮崎、大分、長崎、佐賀、福岡…九州の何処へ行っても“くまモン”を視掛けた…

自他共に認める「九州の玄関」というような位置にある博多駅や福岡空港に止まらず、随分方々に“くまモン”が居て驚いた…

長崎の喫茶店でこの“くまモン”を視掛けた際、「熊本から出張?お土産ですか?」と店のおばさんに話し掛けると「長崎でも売ってますよ!!」というお話し…今や「何処にでも居るのが当然…」というようなお話しである…

そして…

↓稚内の副港市場にまで…
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余りに驚いたので、九州では敢えて何かを求めた訳でもなかったが…入手してしまった…「北海道出張だモン」とのこと…

>>くまモンオフィシャルサイト

下関・ふく刺しぶっかけ丼(2012.12.22)

小倉駅で列車に乗ると、例えるなら「札幌の地下鉄で“新さっぽろ”から“大通”へ向かう」ような感じの乗車時間で、列車は海の底を潜って下関に着いてしまう…

幅が狭い海峡の底にトンネルを掘っている訳だから、「市内の地下鉄」のような乗車時間で県境を越え、海を越えると言って愕くには値しないことなのかもしれない…

小倉で思い付いて下関を訪ねてみた…何やら工事中だった駅周辺からバスに乗り、港の方に出てみた。住民や来訪者が散策するように整備された港の一隅を歩き回った…

“下関”と聞くと、かの“関釜フェリー”のようなものも活躍していて、何となく「貿易港」というイメージを抱くのだが、ここはなかなかに大きな「漁港」でもある…

「漁港」としての下関…様々な海産物が集まる地域ということになる。故に住民や来訪者に向けて、海産物を活かした料理を提供するような場所が目立った。それらを何となく眺めていたが…私自身も、“海産物!!”というイメージの地域に住んでいて、見掛けるモノに関して格段に珍しいとも思わなかったのだが…

↓これを見掛けた時には、思わず足を止め、20秒程度じっと凝視してしまった…
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“下関”と言えば「河豚(フグ)」だ!!これは「“海産物!!”というイメージの地域」(=北海道・稚内)に住んでいても、余り馴染みが無い…下関を訪ねた思い出に、河豚(フグ)を頂いてみるのは大変に結構なことと思えた…一般的に河豚(フグ)は若干高価だが、私が見付けたのは手頃な価格帯のメニューだ…そして私は「○○丼」というような、「ご飯に具材を載せたモノ」が大好きであったりもする…「是非頂かなければ!!」と暖簾を潜ったのだった…

↓下関ではマンホールの蓋にまで河豚(フグ)がデザインされている…この河豚(フグ)は「山口県の県魚」なのだそうだ…
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更に…乗客が多かったので写真こそ撮らなかったが、路線バスのシートの布地に河豚(フグ)があしらわれていたモノも視掛けた…方々に河豚(フグ)が見受けられる下関だった…

下関など西日本では、河豚(フグ)の事を濁らずに「ふく」と呼ぶ場合が多いようで、「ふく料理」というような看板も下関では見掛けた…序に、門司港等の北九州市内でも見受けられたが…これは、フグが「不遇」に繋がり、フクが「福」につながるからなど諸説が在るがはっきりしないようだ。私が思わず足を止めた店でも「ふく刺しぶっかけ丼」と濁らない方の表記を用いていた…

↓頂いてみた「ふく刺しぶっかけ丼」…
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↑淡白な“ふく”と酸味を帯びたタレが合う!!実に佳かった!!「あと2杯位は食べられそうだ…」と思った程である…

「下関の“ふく”を頂いた!!」と満たされた感じで歩き始めると…対岸の門司港へ渡るボートが出ている場所に至り、「どの道、宿を取った小倉に向かうことになるから…」という事由も在って、同時に「面白そう!!」とボートに乗って門司港へ向かったのだった…

小倉駅・かしわうどん(2012.12.22)

博多から早朝の列車で出発し、小倉駅に着いてみると「朝早くから、そこそこにお客さん…」と見受けられるスタンドがホーム上で営業していた…

↓スタンドには「かしわうどん」の看板が見受けられた…
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「“かしわうどん”とは?」という好奇心が湧き上がった…朝にうどんを一杯…“朝食”には好適かもしれない…

↓こういう具合に出て来た…
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↑「なかなか美味そうだ…」という視掛けに違わず、これがなかなかに佳かった!!!

“かしわ”とは…鶏肉の肉そぼろのことらしい…これが柔らかいうどんと、なかなかに相性が良い!!スッキリした感じながら、ハッキリした鶏出汁のスープがまた非常に好い!!どうもこの“かしわうどん”というものは、小倉を含めて九州北部では非常にポピュラーなモノらしい…

大変に美味しく、そして瞬く間に頂いたのだが…“常連”らしい方が、何やら“回数券”のようなものを求めている様子を見掛けた…根強いファンに支えられていると見受けられる…確かに、この味で350円という手頃な価格であって、直ぐ近所や頻繁に通り掛かる場所で売っているのであれば…“回数券”を求めて通ってみたくもなるであろう…

こういう「駅のホームのスタンド」というようなもの…何となく好きだ…

鹿児島で視掛けたEF81 303(2012.12.16)

鹿児島では仙巌園周辺から、石橋記念公園を経て、鹿児島駅辺りまで歩いた…振り返ると「存外な距離」を歩いたことになるが、沖の桜島を眺め、“ぢゃんぼ餅”を頂き、興味深い石橋と“記念館”を視てという状況で鹿児島駅周辺に至ったので、「路面電車で中央駅傍のホテルに引揚げるためにあの停留所へ…」と最後は歩調が速まり、然程苦でもなかった…生憎、雲が多くなって行ったが、雨に降られなかったのは幸いだった…

その鹿児島駅の周辺だが、JR貨物が基地にしていると見受けられる広いスペースが見られた。何やら貨車や機関車が散見した。そんな様子を遠くに望みながら進んだのだが、何やら「不思議な色?」と思える車輌に気付いた…

貨車の場合、様々な色のコンテナを載せていることも在り、時には「何だろう?少し目立つ…」というものに出くわす可能性も在る…しかし機関車の場合は、或る程度決まった色になる…確か、国鉄時代は直流電化区間は青基調で、交流電化区間は赤基調で電気機関車を塗装していた筈で、“JR化”以降も基本は変わっていなかった筈だ…だから交流電化の九州で、貨物列車の牽引に使用される電気機関車を視掛けるとすれば、赤基調の筈だ…

しかし私が気付いたその車輌は、遠目に「電気機関車?」という型をしていたにも拘らず、何やら「鈍い金属色」に見えた…

私は「正体」を探ろうと、辺りの様子を伺った…何やら駐車場になっている場所と、件の不思議な車輌の見える場所との間には低い金網フェンスが在る程度で、一寸様子を視て不思議な車輌の「正体」を知るには問題が少なそうだった…

↓近付いてみて、眼前に在ったのはこれである…
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↑電気機関車だった…EF81の303号機である…

EF81は“直流区間”、“交流50Hz区間”、“交流60Hz区間”と日本国内の鉄道の電化区間―異なる3方式で順次電化が進められた…―で採用されている各方式に対応し、長距離の列車を牽引して活躍出来る電気機関車である。例えば日本海縦貫ルートでは、途中で“交流50Hz区間”、“交流60Hz区間”が切り替わるのだが、この機関車はその変化に対応してそのまま走り続けることが出来るのである。昨年の1月末に乗車した青森・大阪の夜行列車<日本海>を牽引していたのはこのEF81型だった…

↓因みにこれが青森駅で待機している<日本海>牽引のEF81である…
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EF81は、1968年から1979年まで製造された機関車であるが、“JR化”の後になる1989年と1991年、“後継機”登場が遅れていたことからJR貨物が若干の追加製造を行ったという。現在では“後継機”に入れ替えられ始めているようだが、既に少数派となった長距離の客車による旅客列車の牽引、貨物列車の牽引に現在でも大いに活躍している機関車だ。

303号機である…これは「湿気の多い関門トンネルで、主に本州と九州とを往来する旅客列車の牽引に運用する」という意図の下、4輌だけ製造されたという代物の中の1輌だ…ステンレスの車体で、無塗装の金属色が目立つ特徴である…

この「300番台」だが、関門海峡から他所に転出した2輌が、ステンレスのボディーに赤系の塗装を施された…それは後に関門海峡に還ってもそのままになった。そうした事情で、この「剥き出しの金属色」の機関車は2輌しか無いらしいのだが…その中の1輌を間近で視ることが出来た!!

嘗ては、東京から本州を縦断して下関にやって来た客車に繋がれて、客車を九州に送り届ける役目を専らにしていたこの機関車だが、現在は各地に赴いて貨物列車を牽引している…私が視掛けた303号機…本州方面から鹿児島まで、重い貨物列車を牽引して来て、引揚げるまでの束の間、待機していたのであろう…

門司港の“焼きカレー”(2012.12.22)

門司港駅…文字通りに北九州の港に設けられた駅で、嘗ては本州方面から航送されてくる鉄道車輌や船で到着した乗客を迎え入れ、逆に本州方面へ車輌や乗客を送り出した駅である。九州の鉄道の“零哩”(=起点)となっている地点だった…この辺りは、鉄道の拠点であっただけではなく、海運の拠点でもあり、色々なモノが残っている…

碌な計画も無しに九州に上陸した際、訳も判らずに立ち寄り、酷い雨に見舞われたので駅を眺めてから“帰国”の航空便のことを慮って本州方面へ引揚げたということが在ったのだが…小倉を拠点に周辺を動き回ろうとした今回に関しては、天候もまずまずであったことから門司港駅周辺を歩き回る機会を設けることが出来た…

門司港駅周辺を動き回っていたのだが…“焼きカレー”という文字を随分と頻繁に視掛けた…

“焼きカレー”?門司港地域の“名物料理”らしい…多分、小倉に押さえた宿に着いてからは「日中の“動き過ぎ”で草臥れて動けない…」であろうから、その“焼きカレー”なるものを「遅めの昼食?早過ぎる夕食?」な時間帯に試食しておくのも善いかもしれないと思い始めた…

門司港駅周辺を含む北九州市では条例が在って、何処でも勝手に煙草を点ける訳にも行かないので、コンビニの前の灰皿の辺りに佇み、一息入れながら「“焼きカレー”なる見知らぬ料理を頂いてみようか…」と思案してから歩き始めた…

↓すると何やら妙なモノが飾られていたのに出くわした…
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↑旧い建物が残る門司港辺りには妙に似合いそうな、旧い車輌だ…

写真等を撮り、何気なく車輌を眺めていると、そこはカフェの真ん前で、カフェでは“焼きカレー”を出しているらしいことが判った…「遅めの昼食?早過ぎる夕食?」な時間帯であった…休日ながら、店は然程混んでいなかった…好都合である…

↓そして頂いた“焼きカレー”である!!
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店毎に各々の流儀が在るようだが…この店では、アジア諸国のスパイスを色々と使って工夫したという辛口ルーをライスに載せ、それにチーズを振掛けてグラタンのようにオーブンで焼いている。これは多分、普通にカレーライスとして頂いても「連日ランチ!!」に堪える美味いカレーだと思うが、「焼く」ことで香ばしさが増していて、グラタンのような食感が不思議な味覚を醸し出していた…ガツガツと勢いよく頂いてしまった…

全く初めての食感で、愉しく美味しく頂いた“焼きカレー”である…どうもこれは、何処かの喫茶店で、残ったカレーライスをオーブンで温める…「焼く」ことをして賄いにしたところ、「“メニュー”にしても善いのでは?!」ということになり、それがなかなかに好評を博したところから門司港地区で一定程度普及したらしい…言ってみれば「ほんの一手間」なのだが…これが意外に佳いモノを産出す…

この“焼きカレー”を頂いた店を立ち去る際、店の皆さんと言葉を交わした…「北海道!?明日お帰り?!あんなに寒そうな場所へ?」と同情された…私も、些かそのように思わないでもなかったが…帰ってみれば雪が酷く増えていて、その後も雪の多さが非常に際立った感じになることを、あの門司港の長閑な状況では想像だにしなかった…

“どトンコツ”を謳う博多ラーメン(2012.12.23)

或いは「稚内以外では潰しが利かない…」というような状況であっても、「札幌育ち」の私としては、“ラーメン”と聞けば第一義的に「札幌の流儀」であり、第二義的には随分以前に他界した伯母が営んでいた小さな町の食堂で供されていたような「旧き善き北海道の塩ラーメン」である。その他は「何処かの地域の郷土料理」というような認識になってしまう…

かなり古い話しだが…東京で「札幌の流儀」を謳うラーメン店に入り、「なるほど、これは!!」という味噌ラーメンが出て来ながら、「札幌の流儀」では不可欠な“南蛮”と呼び習わす一味唐辛子が置いていない状況、そして他の客が味噌ラーメンにコショウを振っている様を視て、どういうものか著しく気分を害したことが在った…爾来、「不慣れな地域でのラーメン」は避けていたかもしれない…殆ど四半世紀も経って、こうしてネタにするのだから…私の「当時の憤激」の“大きさ”を想像して頂けると思う…近年になって漸く「何処かの地域の郷土料理」というような認識で「各地のラーメン」をそれなりに楽しめるようになってきたことに気付いている…

福岡で、古くからの友人と会って昼食を愉しむという段取りになっていた。「好き、嫌いを超越した、“福岡!!”なモノ…」と“どトンコツ”を謳うラーメン店に案内してくれた。悪くない趣向だ…

↓こんな店構えで、博多駅から福岡空港に向かう途中に在る…
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福岡空港…これは結構「愕くべき存在」だ…繁華な博多から「直ぐ!!」なのだ…福岡は、“札幌”のように九州という島で最大の都市であり、総人口も似たようなものであろうし、各種の交通機関のハブで、周辺の多くの市や町が“通勤・通学圏”になっているという状況も似ているかもしれないが、「空港と都心の近さ」では圧倒的だ…稚内も「車で20分程度で空港」と「かなり便利」ではあるが…福岡もそういう次元で空港が在る…しかも、冬季には打てない野球チームの打率位の割合で欠航する、指折り数えるような航空便が発着する稚内空港とは「全く次元が異なる!!」ような、自他共に認める「九州の玄関」という大空港である…

その福岡空港と博多駅との間に在る伝統の店…ファイターズの好敵手であるホークスの選手やコーチ、或いは監督や球団関係者の残した記念品が入口辺りに飾られていたりする…また知っている、よく知らない含めて、数え切れない程の芸能人のサイン色紙も壁一面に溢れていた…

↓「全部乗せ」というモノを頂いた…これが存外に好かった!!
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友人によれば「創業以来の数十年のエキスが…」という濃厚なスープが身体に沁みる…或いは“味噌ラーメン”に通じるものが在るかもしれない…

チャーシューや味付き玉子等も、永年愛されているモノだけに、なかなかに完成された味わいだ…実は、あの味付き玉子が早くも多少懐かしい感じさえする…

「博多の流儀」では“替え玉”なるものが在る。これを初めて経験した。スープをいきなり全部頂いてしまわずに少々残し、“替え玉”として小皿に入った麺を追加して注文する。その麺をスープに浸して、「一寸余分に頂く…」という仕掛けである。悪くない…

この麺だが…多分茹でる前も真っ直ぐな、「極細い生パスタ」のような麺なのだと思う。正しく「微妙に芯を残す、“アルデンテ”の細いパスタ」のような食感だ。“替え玉”ということで追加してみたくなるのも頷ける…

「微妙に芯を残す、“アルデンテ”の細いパスタ」のような食感…「硬めな麺」ということになるのだが、博多ではこの“硬め”に「拘り」も在るようだ…陣取った席から見える辺りに「バリカタ、ハリガネ、コナオトシという商品は在りません」というような貼紙が在った。友人に尋ねると、この“バリカタ”、“ハリガネ”、“コナオトシ”というのは極々硬く麺を茹でるようにという符牒なのだそうだ…伝統を誇る老舗だけに、「自信を持っている加減でラーメンの麺を提供」ということで、こうしたリクエストを断っているのであろう…こういうようなリクエストをせずとも、「微妙に芯を残す、“アルデンテ”の細いパスタ」のような食感の、充分に「美味い硬めな麺」が味わえた…

或いは、友人のお蔭で「博多の流儀のラーメン」の“典型”に近いモノに出会えたかもしれない…なかなかに興味深い経験だった…

長崎・出島(2012.12.19)

“長崎”と聞けば、「ちゃんぽん」を思い浮かべる他、何となく「出島」を思い浮かべる。江戸時代の概ね250年間に亘り、オランダとの交易が行われていた場所である。

この出島は、扇型をした文字どおりの“島”で、街への出入口は“島”に架けられた橋だけだったという。が、明治時代以降、港や街の開発の中で周辺が埋め立てられてしまい、“島”という体裁は失われ、地名だけが残っていた…

長崎の案内には、長崎でポピュラーな路面電車の路線図が紹介されていることが多いように思うが、何気なく見てみると“出島”という停留所も在る。「どういう場所なのだろう?」と興味が湧く…

↓実は最近、出島が登場する時代モノの小説を愉しく読んだ…
>>『出島買います―長崎奉行所秘録伊立重蔵事件帖』

この小説の背景として出て来る話しで、それは史実でもあるのだが、交易に携わるオランダ人を住まわせるために埋立を行って出島を造ることになった時、長崎の富裕な商人達から出資を募り、出資者となった商人達は“株”を手にした。オランダ人達は出島の借地料、出島に建てられていた建物の家賃を幕府に収めることになっていて、そうした収入から“株”を持っている人達に毎年配当が在ったのだという。この“株”は、概ね最初の出資者達の家で代々受け継がれたようだ…

小説の方は、この“株”に関して、存在が知られていなかった「もう一牧」というものが出て来て、それを手にしたという江戸の札差―現代風に言えば金融業者のような感じか…―が、息の掛かった色々な連中を引き連れて長崎にやって来る。長崎奉行所に勤める主人公達は、この「もう一枚」の謎や、江戸から乗り込んだ悪者の陰謀を打ち砕こうと奮戦することになる…

更に…

↓上記の小説のシリーズということになるこの作品には、出島の“オランダ正月”やら、中の倉庫の様子というような描写も在る…
>>『砂糖相場の罠―長崎奉行所秘録伊立重蔵事件帖』

やや諄くなったが…出島に関しては「最早“小説”の作中世界だけのモノ」と思いながら、長崎市内を路面電車で巡り、何気なく“出島”という停留所で電車を下りてみた…そして驚いた!!

↓停留所の傍に、出島に在ったという門―小舟を着けて荷物の積み下ろしをする場所であったそうだが…―が建っていたのだ…
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↓「19世紀前半」な雰囲気が再現されている…
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↓中の様子も一部再現されている…
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↓明治期の建物が再現されている場所も在った…
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この出島…思わず結構な時間を費やしてしまい「長崎にもう少し滞在!!」と決める切っ掛けとなった…

↓長崎市によるサイト…
>>甦る出島

大分・とり天(2012.12.18)

大分では友人とランチをいただく相談になったのだが、“とり天”というものを試すことにした。

↓一見すると“唐揚”のようだが「唐揚とは違います」という代物である…
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味付けした鶏肉に、天麩羅の衣を着けて揚げる…天麩羅の衣の「フワッとした感じ」と鶏肉の「歯応え」が組み合わさった感が絶妙である。なかなかに気に入った!!

レモンが添えられているが、それはいきなり“とり天”にかけるのではない。“天つゆ”に加えるのである。“とり天”は“天つゆ”を点けて頂く…

北海道では…“唐揚”をどういう訳か“ざんぎ”等と呼ぶ…それはそれで広く親しまれているが…この“とり天”とは明らかに違う…

こうした“地元代表”を教えてくれた大分の友人には深く感謝せねばなるまい…

大分・ポルトガルとの交流に関連するモニュメント(2012.12.18)

「九州7県巡り」という旅程の中、「“緩急”の“緩”」という具合にゆったりした日程になった大分だったが…

大分の街を歩き始めると…

↓こういう不思議なモニュメントを視付けた…
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16世紀の帆船が、白と蒼の南欧風タイルの台座に?これはポルトガルのアベイロ市との姉妹都市交流に関連したモニュメントなのだそうだ…

>>[大分市]《姉妹都市》アベイロ市 Aveiro

ポルトガルのタイルが持ち込まれて、このモニュメントに利用されたということだが…大分は“キリシタン大名”として知られる大友宗麟が本拠地にしていた場所で、彼の国との古い交流の経過が在る。それを踏まえての姉妹都市交流だそうだ…

↓こんなものも在る…
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↑かのフランシスコ・ザビエルが訪れて活動したことを伝えるモニュメントだ…ザビエルの像の背後に、彼が辿った長い航跡が記されていた…

その直ぐ近く…

↓思わず見入ってしまったのがこれ…
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↑「時代劇の子役」のような子ども達が大きく口を開けている…傍らには…「異国の宣教師様」がヴァイオリンを…

これは「西洋音楽発祥」のモニュメントだという…ここで、宣教師達が地元の人達に欧州流の音楽を紹介したのが、「日本に於ける西洋音楽の事始」と考えられているのだという…なるほど、この像のように「異国の宣教師様」が子ども達に歌でも指導していたのかもしれない…

大分…「日本と西洋との邂逅」という歴史を有する土地である…

熊本城(2012.12.15)

結果的に「九州7県巡り」をしてしまったが…最初に降り立ったのは熊本だった…

北海道から大阪へ飛んで夜を明かし、朝の大阪で強めな雨に降られた…濡れるのを嫌って地下鉄駅等が在る通路に入り、大阪の都心部と新大阪駅とを往来する際に何度か利用したことが在る路線の駅であったことに気付き、何気なく電車に乗り込んで新大阪駅に至ってみると…新大阪から鹿児島中央駅直通で停車駅も少ない<みずほ>が小一時間後に出るのが判り、乗り込んでしまったのだった…

そうやって着いた熊本…熊本では「壮大な城」として知られる熊本城を視たかった!!

熊本城に着いてみれば、曇天ではあったが雨は降っていなかった…

↓最初に目を奪われるのは、天然の岩山よりも急峻な感さえ抱くような巨大な石垣である…
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大阪や名古屋の城に築かれた石垣も視ていて…あちらはより大きな石も用いたものだが…少し「広々とした場所に築いた構造物」という感じがして、“威圧感”は然程でもないように思っていた…

↓熊本城は、敷地の広さ目一杯に、丹念に高々と石を積み上げた石垣が幾重にも複雑に組み合わせられているように見える…
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↑正しく「難攻不落!!不滅の要塞!!」というイメージだ…

この熊本城は、かの加藤清正が築き、江戸時代には細川家の居城となった。ここで戦われた実戦…明治時代に入ってからの“西南戦争”だ…

政府側が熊本城を拠点としていたため、鹿児島から北上した西郷軍がここを攻めた訳だが…ここに「刀や槍を手にした敵兵」が潜んでいて、そこに突入するというだけでも、相当な度胸が要るように見受けられるが…当時は大砲や、現在も使われている歩兵用の銃と殺傷能力に大差が在るとも思えない銃が沢山在って、場合によってはガトリング銃のようなとんでもない迷惑なモノも在ったのである。そこで「突入!!」と戦いに望んだ訳だ…

「熊本城…なるほど、とんでもなく手強い要塞だ…」等と考えて石垣を見上げていたのだが…雨が降り始めた…

降り始めた雨…全く勢いが弱まらない…かなり酷く濡れてしまった…

この熊本城で、幾つかのモノを見学したが、秀逸だったのは“御殿”である。“御殿”というのは、城主の居館であり、領地の治世に関する事務を行う政庁であり、賓客の接待をする場であり、その外色々な機能を負っていた建物である。領地を治める大名の家中を「地方の行政府」に見立てるのであれば、“御殿”は「行政府の本庁舎」である。更に領主の「公館」で、賓客に対応する「迎賓館」で、家中の公式行事を行う場合さえ在るので「多目的ホール」でさえあったことになる。熊本城では城の400年を記念する事業として、この“御殿”を再現していて、これがなかなかに見応えがある。

↓中に一際豪華な部屋が設えられている…
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↑“貴賓室”というようなものだったようだ…

↓角を削ったような形状の天井…これはかなり手が込んでいる…
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これはかの加藤清正が、「場合によっては恩義の在る豊臣秀吉の遺児、豊臣秀頼を迎える可能性も…」という意図で造らせたものかもしれないという説が在るらしい場所だという…

↓こちらは「熊本のシンボル」のようになっている天守閣である…
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↑雨で写真が撮り悪かったが、御殿の窓から撮ったものだ。中に居た係のおじさんが「密かなお勧め撮影場所」として来場者に耳打ちしていた場所だが…私は彼が指摘するのを待つまでもなく、ここを視付けて写真を撮っていた。おじさんは「色々な場所に行っていて…こういう建物をよく知っとる…」と言っていた…

↓大阪・熊本・鹿児島と動き回り、大阪と熊本でやや強めな雨に降られて難儀した12月15日の画…
wakkanai097 - View my 'Photomatrix - DEC 15, 2012' set on Flickriver

「九州7県巡り」の中、雨で余り動き回らず、滞在も短かったことから、熊本はやや印象が薄くなってしまった。何時か、多少ゆっくりと訪ねてみたいものである…

鹿児島の菓子:かるかん(2012.12.23)

以前、稚内の喫茶店で「全国縦断の旅に出るために稚内入りした」という方と言葉を交わしたことが在った。その方は「九州方面が好く…到達するのが愉しみ…」と話していた。当時、私は九州に関しては「辛うじて上陸」という次元で、余り様子を知らなかったので「そんなものか?」と思っていた…

そういう次元であったのだが、一昨年の「枕崎到達」に際しての福岡・鹿児島の寄り道、昨年の「7県巡り」を通じて、「各々の伝統と、それに裏打ちされた各々の雰囲気」を有する多様な地域が連なる九州の魅力の一端を知るに及び、言葉を交わした方の言う意味が少し判ったような気がしている…

昨年12月23日、福岡空港から“帰国”の際、「九州の菓子でも…」と売店を覗いた。ターミナルビルの場合、“売店”と言うより「一寸したショッピングモール」と言う方が妥当かもしれないが…新千歳空港では北海道内各地の様々なモノが求められるのと同様、福岡空港にも九州各地の様々なモノが溢れている…

↓眼に留めて入手したのはこういう代物であった…
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↓箱を開けるとこういう具合である…
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これは鹿児島の菓子で“かるかん”と言う…

製造・販売を手掛ける会社のサイトによれば…「三百三十有余年薩摩伝統の味。きめ細かな眩しい程の白い生地、山芋の仄かな香と自然な甘さは際立った上品な味わいです」とのことである…

一人で全部を試食するのはやや多いので…知人への土産として、一緒に頂いた…

↓こういう按配に切って頂く…
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何か「少し歯応えの在る“蒸しパン”」というような趣であった…材料の芋に由来する仄かな甘みが心地好い…実に美味い!!

恐らくは…身分の高い人達が嗜んだ経過も在るような、由緒正しい菓子なのであろう…こういうような“伝統”に出会えるのも、九州を訪ねてみる大きな楽しみなのかもしれない…

小倉駅の「鉄郎とメーテル」(2012.12.23)

「鉄道車輌や駅周辺のオブジェ」というものは、国内外を問わず“写真好き”を捉えて離さない…拙作に関して、国内外で閲覧されているFlickrに公開すると、この種の写真には国内外から一定の反響が寄せられることも在る…

↓下記はそうしたものの一つだ…小倉駅の“新幹線口”(永く寧ろ“北口”と呼ばれていたようだ…)に在る…
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私の世代なら、かなり広く親しまれているキャラクターだと思う。かの『銀河鉄道999』の鉄郎とメーテルである。

アニメで彼らが未だ様子を視ていない新しい星の駅に着いた時「○○駅に着いたね…」というような鉄郎の台詞が在るのだが…初めてこれを視た時、「メーテル!!小倉駅に着いたね!!」と未だ視ぬ街への期待を込めた鉄郎の台詞が聞こえたような気がした…

更に…小倉駅を離れる場面でこれを視た時には…「君も出発するんだね…」と鉄郎に声を掛けられたような気がした…

『銀河鉄道999』の世界では、大宇宙の様々な天体を結ぶ航路が“銀河鉄道”と称されていて、宇宙船は列車を模した型で実際に“列車”と呼ばれている。中でも“999”は、昔の日本の急行・特急のような外観である。“列車”の先頭は蒸気機関車の“C62”そのものの形状である…駅から煙を吐いて発進する“999”はどんどん速度を上げ、汽笛を鳴らしながら走り、やがて空に向かって延びる急勾配を駆け上がり、暗い夜空の彼方の宇宙へ飛んで行く…

この『銀河鉄道999』…鉄郎は“永遠の命”というものを手に入れる旅に出ようと999乗車を目論み、メーテルに導かれて乗車する…旅の途上で鉄郎が色々な経験をして、“人生”について、“幸せ”について考えるというようなストーリーだ…

そういう大宇宙の鉄路を旅している「鉄郎とメーテル」が小倉駅で旅人を迎え、また見送っている…「駅前のオブジェ」として、これ程「気が利いている!!」モノも他に例が無いのではないかと思う…

この「鉄郎とメーテル」が小倉駅に在るのは…『銀河鉄道999』の作者である松本零士が、小倉駅の在る北九州市出身であるからだ…

↓「鉄郎とメーテル」のオブジェ…メーテルの方は、顔がアニメや漫画そのものではあるものの、「細身の女性で、こういうような背格好の人…居そうだな…」というバランスでベンチに静かに座っている…鉄郎は?漫画そのものを立体化していて、何となく不思議な感じがする…
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「見慣れぬ路の果ての見知らぬ街」へ至るような旅が好きだ…“鉄郎”程に波乱万丈な旅をするでもないのだが…一人で勝手に旅に出るのは善いが…“メーテル”は…居ない…

博多駅(2012.12.21)

九州最大の鉄道駅…博多駅…九州最大の都市、福岡のメインとなる駅である…東京・名古屋・大阪からやって来る、或いはそちらへ向かう東海道・山陽新幹線が、また熊本や鹿児島へ向かう九州新幹線が発着する他、近郊から遠方まで九州各地へ向かう列車が往来している…

この博多駅は、昨年の九州新幹線の全通を機会に、大型商業施設を備えた駅ビルも整備したのだが…

↓12月のイルミネーションは華やかだ…
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↓昨年も思ったが…
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↑「日本一華やか」と言っても過言ではないかもしれない…

実はこの博多駅については、利用した各列車の乗場と、若干の土産売場に、“水戸岡展”の会場しか視ていない状況だ…何れゆっくりと視てみたい場所である…

長崎の路面電車(2012.12.18-20)

大分の老舗百貨店“トキハ”の前から「長崎県営バス」に乗車し、終点の“長崎駅前”に着いた。文字どおり「見慣れぬ路の果ての見知らぬ街」で辺りは既に「子どもは寝る時間」の暗さだった。時季である故に、イルミネーションも見えたが、他に各種の広告看板や街灯の光に信号機のランプ、更に行き交う車のライトが見える…

バスが着いたのは“ターミナル”のビルで、“駅”は存外に交通量が多い、なかなかに幅の広い道路の向こうだった…禁煙の車中から出て、煙草を点け、辺りを眺めると「とりあえず駅の辺りに近寄るには、歩道橋を渡ってみるしかない」と理解出来た…

そして煙草を消してから歩道橋に上がった…「ゴォー…ガタッ…ゴォー…」という独特な走行音が聞こえ、眼下を駆けるランプの強めな光が近付く…路面電車だ…

「シュー…」というブレーキ音がして走行音と混ざり合い、やがて電車は減速し、歩道橋の下に停車した…乗客が下車する…彼らは停留所の端部に繋がった階段を上がり始めた…歩道橋が「駅の跨線橋」のような状態になっていた…

↓長崎駅前で初めて視た路面電車…
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という具合に、長崎に着いた瞬間に路面電車と出くわした。そして、長崎滞在を通じて、この路面電車と付き合うことになった。

長崎の電車は“長崎電気軌道”という民間会社によって運行されている。1914年に会社が設立され、1915年から電車の運行を続けている。

長崎の電車は、何となく“レトロ”な感じがする。1960年代辺りに導入された車輛の数が多めで、現在でも主流を占めているようだ。

↓こういう具合のモノが多い…塗装はクリーム色と緑の2色が“標準”らしい…
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↓運転士が乗っていなかった方の運転台を撮影してみた…何か旧い感じだ…
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他方で、もう少し時代が下った車輛や、最近流行の低床式の車輛も見受けられる。低床式の車輛は未だ数が少なめであるようで、見掛けると「おぉ!?」と思わず注目してしまう…

↓“新型”の車輌が現れると、なかなかに目立つ…
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車内では次に停車する停留所を告げるアナウンスの合間に料金の案内が在る。これを聞いていると…「大人120円、子どもさんは60円です。釣銭が無いように御用意願います」と言っていた。“子どもさん”と“さん”が付いた…これがやや独特なように思えた…この料金は一律である。運転系統の始まりから終わりまで乗り通しても、1停留所の乗車でも同じだ。「日本一安価」な料金かもしれない…

現金の他、ICカードの乗車券も在る。広く普及している様子だった。これに関してだが、お金をカードに入れることを“積増”と言っていた。何年も前に東京方面に出て“PASMO”を初めて利用した際、駅に据えられた機械でお金を入れることを“チャージ”と言っていた。が、ここでは“積増”だ…「カードに積み立ててある電車の運賃に供するお金を増やす」のだから“積増”ということであろうか…他にもこういう言い方をしている地域が在るのかもしれないが、初めて出くわした…

この“積増”だが、運転士席の脇にある運賃箱・両替機と一体化された機械で行う。運行中、進行方向の運転士の脇だけではなく、後ろの機械も利用可能で、それを使って“積増”をやっている人達を何度も見掛けた…

↓こういう機械が車内に2台据えられている…
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この路面電車に関しては、“長崎電気軌道”が出資している商業施設の一隅に“資料館”が設けられていて、戦災や自然災害も潜り抜け、永い間街の人々の暮らしに役立ってきた経過が判るようになっている…

↓これがその資料館の入口である…
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長崎の電車は「安価な料金で気軽に利用して街の中を動き回る」ためには好適だ。今回は随分とお世話になった…

長崎の「“食べる”ミルクセーキ」(2012.12.19)

↓「どんなことをして作るのか?」と暫し考え込んでしまった…
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↑これが「長崎の流儀」のミルクセーキだという…

卵黄、ミルク、甘味料が加わった“ミルクセーキ”そのものな味なのだが…「ジェラート?」という具合に仕上がっている…

「不思議なモノだ…」と眺めながらも、スプーンで掬いながら頂いている間に…「美味い!!あと2つ位は行ける…」等と味に魅了されてしまっていることに気付き、「流石に“おかわり”も?」と苦笑いしてしまう…甘過ぎず、爽やかだ!!暑い時季なら…涼を求めて“おかわり”してしまったかもしれないが…

↓12月19日の長崎の画…
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佐賀城本丸歴史館(2012.12.21)

何日間かの旅から戻ってみると、何時も「あそこでもう少し時間を費やしても善かった筈だが…」などと振り返ってしまう。私には、多少「忙しく動き回り過ぎる」傾向が在るかもしれない…

今般の旅では「今回、とりあえず行っておかないと、“次”は何時か?或いは“次”というものが在るのか否か…」などと考えながら動き回り、何時しか「九州7県全てに足跡を!!」というようなことになってしまっていた…

そういう文脈で佐賀に立ち寄った…だからと言って、「とりあえず足跡」というだけでもない!!佐賀には、訪ねてみたかった場所が在ったのだ!!

その一つが、佐賀城の本丸である…

当日は、早朝に戸外に出ると小雨が降り始めたが、結局のところ午後に佐賀から離れる辺りまでしとしとと雨が降り続いた…佐賀駅のコンビニで思わず傘を求めてしまった…(その傘は、その後「福岡・札幌」の機内、新千歳空港・旭川・稚内の列車の中に確り持ち込まれた…佐賀で求めた傘は確り拙宅に持ち帰った…)

↓駅の辺りから…15分前後は歩く距離であろうか?他の場所にも寄りながら、佐賀城に着いたが、古くから残る門が迎えてくれる…
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佐賀というのは、北に玄海、南に有明海を擁する佐賀県の内陸、県のテリトリーの真ん中辺りを占めている。「平野の真ん中」のような感じだが、ここに“平城”と呼ばれる佐賀城が在る…

佐賀城は、戦国期に肥前で大きな勢力を持っていた龍造寺家が利用していた拠点の後に、今日の佐賀県の大半を領地とした鍋島家が入って築いた城だった。結局、幕末期までの永い期間、佐賀城は鍋島家の当主の居城で在り続け、その城下町であった佐賀は、明治期以降も佐賀県の行政の中心ということになった。

佐賀城だが、鍋島家が最初に築いた建築群は18世紀に消失してしまっていて、二の丸に当主の居館、政庁を兼ねた御殿が建てられていた。この御殿が1835年に消失してしまった…それを受け、本丸に当主の居館、政庁を兼ねた御殿が新たに建設された。ここが、明治期以降になっても色々と活躍していくことになる、幕末期の佐賀の人達が動いていた場所ということになる。

現在、“歴史館”となっている佐賀城本丸の建物は、幕末期の御殿を再現したものである。残念ながら全部が再現されているのではないのだが…“歴史館”は、その幕末期の人達が動いていた建物を再現した場所を利用して、鍋島家の指導下で「余所に先駆けて」色々なことに取り組んだ経過や背景、佐賀が輩出した明治期に活躍した人達のことなどが判るような展示がされている。

↓未だ再建されて日が浅いようだが…この建物の前に立つと幕末期へ時間旅行でもしているような気分になれる…
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佐賀の鍋島家は、幕府の命で“長崎警固”という役目に就いていた。交代で長崎に進駐し、有事に備えるという任務が在り、それを担っていた大名達の一画を占めていたのだ。そうした中、当時は未知のものであった「欧州流の技術」に触れる機会が在り、「余所に先駆けて」色々なことに取り組むこととなるのである。そうした状況を紹介する展示を視たが、偶々長崎を視た後にそうしたものに触れたことから、その印象が強いものになった…

↓今風に言えば“オフィス”に相当する場所、家中の催事を行う“ホール”に相当する場所、高位の人達の“控え室”のような場所、“キッチン”等色々な機能を持つ部分を順次建てたらしく、建物は色々なモノを寄せ集めたような感じがした…
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↑何気なく視ていると「大きな寺」というような感じもしないではない…

この他、この佐賀城の資料館には“北海道人”として見逃せない展示が在る…島義勇に関係する事項だ…

何処でも小学校で「郷土の歴史」というようなことを習う…最近の様子は知らないが、少なくとも札幌で過ごした小学生の頃―酷く昔のことだが…―、何やら“副読本”が在って、札幌の街の起こりについて習った…そこには“島判官”という人物の古色蒼然たる写真が在って「北海道開拓の中心的な街とすべく札幌の街を建設する計画に関わった功労者」として紹介されている。この「島判官」が島義勇で、佐賀の人である。

正直なところ、小学生の頃に副読本で視た「島判官」が佐賀の人で在ることを知ったのは比較的近年のことだ…この人は、佐賀では幕末期から明治期に活躍した“賢人”に数えられてはいるものの、地元でも然程知名度は高くない様子だ…勝手な想像だが…鍋島侯が明治政府の中で「蝦夷地開拓の責任者」というようなことになり…鍋島侯は「誰ぞ、善き者に差配させよ…誰ぞ居らぬか?」と元の家中の士を思い出し、箱館を訪ねた経験が在ったという島が居たことに気付き、「その方を蝦夷地へ差し向ける故、善きに計らえ…」というようなことにでもしたのであろう…

その島義勇に関係した資料館の展示…「南が上、北が下」の形で描かれた、樺太、北海道、千島列島の地図である…“館内資料展示撮影禁止”なので写真は撮っていないが、私にとってはかなりインパクトが在った…

“城”と言えば、天守閣や櫓のような高い建物が目立って、見栄えもして、人気もあるのかもしれない。が、ハッキリ言えば、それらの建物は「優先度が高い施設なのか?」という存在である…実は“城”で最も大切なのは“戦時”に用いることが基底に在る以上「防衛拠点」、「要塞」としての“縄張り”と呼ばれる施設配置が何よりも重要であり、また江戸時代のような“平時”ということであれば「当主の居館」、「政庁」、「賓客の接待」というような機能を負うことになる“御殿”と呼び習わされた建物の方が余程重要なのである。

佐賀城は、その大切な“御殿”を、それも「幕末期の様子」を巧く再現している。なかなかに好かった…

↓読んだことのある佐賀関係の本…

>>『幕末維新と佐賀藩』
=江藤新平等のことを解説している新書…

>>『円を創った男』
=明治初期の大隈重信の活躍を扱った小説…

>>『酔って候』
=4人の大名を各々の主人公に据えた4編が収められていて、1編が鍋島侯を主人公としている…

佐賀を含み、九州各県や山口県辺りでは「近代化遺産」と呼ばれる、幕末期から明治期に当時の最新技術を採り入れて殖産興業を目指した痕跡を“世界遺産”にしようという動きも在るそうだ。佐賀には船の修理や造船に供する目的で建設された「初めてのドック」の跡も在るという。そんな場所など、佐賀に関しては「更に行ってみたい」場所が色々と出て来そうだ…

↓佐賀城を含む12月21日の画…
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鹿児島・石橋記念公園(2012.12.16)

鹿児島市内の周遊に便利な“シティービュー”というバスに乗っていると、「石橋記念公園」という停留所の案内が在る。

何の知識も無いままにこの「石橋記念公園」等と聞くと、「何かで立派な事績が在る石橋某さんという人が居て、その関係か…或いは石橋某さんという人が整備していた御屋敷の庭園のような場所が公園化されているか…」等と思ってしまったが…それはトンチンカンな話しだ…

「石橋記念公園」とは、文字どおり「石造の橋の歴史を伝える公園」である…

鹿児島市の中心を流れる 甲突川(こうつきがわ) には、かつて上流から 玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋 の5つの大きな石橋が架かり、「甲突川の五石橋」として親しまれていたという。

この「甲突川の五石橋」は1840年代に相次いで建設された。かの調所広郷が貯めた資金が投下されたらしい。岩永三五郎という石工が肥後から招聘され、その指導下で工事が進められたという。

1990年代に至るまで、橋は現役で利用され続けていたが、1993年の水害で新上橋と武之橋が流失してしまい、他の3つも被害を受けてしまった。堅牢な石造の橋も、150年を経て川を巡る状況が変化してしまっている中で、水害に敵わなかった…

やがて橋は新たなものを架けることにして、3つの石橋は別な場所に移して、文化遺産として後世に伝えることに決した。その「文化遺産として石橋を後世に伝える」ための場所が「石橋記念公園」である…

今般、私は磯海水浴場の辺りからゆっくりと歩いてこの石橋記念公園に向かった。公園に着いてみれば、近隣の小学生位の子ども達が遊んでいたり、もっと幼い子ども達とそれを見守る親達が居たり、近所に住んでいるか勤務しているらしい人達が足早に通り抜けたりと、「街の一隅の公園」として活用されている感じだ…座って休む場所も在り、また御手洗いや飲料の自販機も据えられていて、歩き回る途中に寄ってみるにも好適である…

↓これが最初に視た玉江橋…
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↓こちらは高麗橋…
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↓そして西田橋…
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公園に在る3つの橋の中、建設当時に「最も力が入った」とされているのが西田橋である。これは鹿児島の城から九州街道へ繋がる道筋に相当する場所に架けられた橋である。島津家中の人達が往来した場所だ。石造の橋の以前には、木造の橋が架かっていたというが、その木造橋時代の欄干に据えられていた青銅製の擬宝珠が移設されている。

この西田橋は「重要橋梁」という扱いで、城下町側の方に門が設置され、通行が管理されていたのだそうだ。この門は西南戦争の頃まで在ったということで、写真も在るようだ。この石橋記念公園では、その門も再現されている。門は時代劇に出て来る「旗本の屋敷」か何かのような代物で、この前に佇むと、何となく「開門!!」等と“門番”でも呼んでみたいような気分になる…

↓これがその再現された門…
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西田橋が移築された場所が、なかなかに好い。江戸時代の石造の橋の背後に桜島が見える!!

私が訪ねた日は、午前中によく晴れていたのだが、昼頃からやや雲が多くなっていた。それでも遠くの桜島が見えていた。初めて見た光景だが…思わず口を突いたのは「銭湯の壁の画のような…」という感想である。

鹿児島と言えば…「南国の青空に映える桜島」という状況が似合いそうだが、この日のような趣も悪くはない…桜島に関しては“仙巌園”の建築群の瓦屋根が並ぶ向こうに見える、昨年出逢った風景も気に入っているが、この“西田橋”と共に在る様も素晴らしい。空の様子が変われば、光加減も変わって、ここの見え方も千変万化であろう…何時か、この日とは異なる表情にも出会ってみたい…

西田橋の傍に“記念館”が設けられている。ここの展示が非常に面白い!!ジオラマとビデオで、西田橋の建設工事の工法や様子が解説されている。加えて、公園に移設した際の、往時の工法に準じて行われた工事の状況の紹介も在る。こうした展示が愉しいのだが、この展示の図録(DVD付)が「500円」という驚くべき価格で売られている。間違いなく価格以上に価値が在ると思った。

図録は秀逸である…記念館で愉しく視た工法に関する展示の解説の外、図録に在った“現役”で利用され続けた石橋の経過を写真で説明していた頁が興味深かった。

↓これが図録だ!!
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「後世へ伝えたい!!」という強い意志の下に移設された価値在る石造の橋が据えられた公園で老若男女が寛いでいる…そして石橋に関して興味深い解説が視られる記念館まで在る…何か「先人達の遺したモノに対する畏敬と矜持、そして愛着」が感じられる場である…私としては「鹿児島のお奨め!!」に挙げたい…

鹿児島の路面電車(2012.12.16)

鹿児島の路面電車は、路上に敷かれた線路の大半、交差点以外の箇所が「芝生敷き」になっていて、「緑の絨毯の上を電車が行き交う」ような感になっている。これが独特な景観を産み出していると思うのだが、昨年初めて出逢って以来、非常にこれが気に入っている。

電車は1回乗車すると160円だが、“1日乗車券”なら朝から晩まで何回乗っても600円である。市内を動き回る場合、この“1日乗車券”はかなり有難い…今回は12月15日夕方に鹿児島入りしたが、“1日乗車券”を売っている鹿児島中央駅の観光案内所が閉まる前に訪ねて、12月16日用に求めておいた。御陰で、12月16日は朝の未だ暗い間から電車の乗って出掛けて暁の桜島を眺め、“観光電車”に乗り、日が落ちた頃に“みなと大通”のイルミネーションを眺めに行くなど、文字どおり「朝から晩まで」電車を活用した。

↓朝の暗い間から、電車は街を走り回っている…
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↓鹿児島駅前に3本の“ホーム”が設えられている。ここに到着すると、暫く停車していて、また各々の行先に向かって行く…
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↑左側が新しめな1000型…右2両は数が多く、様々な塗装が見受けられる9500型…

↓上記の左側、新しめな1000型の車内…
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↑殆どの電車がロングシートである…

↓日が少し高くなると、陽射しに電車のカラフルな色が映える…
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↑緑とオレンジの車体に“ワンマン運行”を示す白線…これが鹿児島の路面電車の“標準的塗装”だという…

↓繁華街・天文館辺りでは、多くの車の真ん中に電車が悠然と走っている…
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↓日がかなり傾いて、また灯りが眩しくなる中でも電車は仕事を続けている…
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電車内では、停留所の案内アナウンスの録音が流れるのだが、これが「やや独特?」と思った。

例えば…「次は“天文館”…“天文館通”です」、「次は“いづろ”…“いづろ通”です」、「次は“市役所”…“市役所前”です」という具合である…「停留所のフルネームを繰り返す」のではなく、「停留所の通称の後にフルネーム」という体裁になっている箇所が存外多いことに気付かされる…

訪ねた先で、電車等の車内アナウンスを聴くのは意外に面白い。そしてそういうのを楽しみにしている面も在るのだが…

例えば京都や大阪等では、「札幌等で耳に馴染んでいる調子」とは「明らかに抑揚が違う」のが判る場合が在る。例えば札幌にも京都にも「地下鉄東西線」というものが在るが、両市内のバスで地下鉄駅の前、またはその傍の停留所に着く前に乗り換えの旨が伝えられるが、両者の「地下鉄東西線」の抑揚は明らかに違う。また、京都や大阪では「○○前」と言う場合の“前”の抑揚が違う。

そういう「違い」に気付くと愉しいのだが、鹿児島の電車では、そうした意味での違いには気付かなかった。上述の、一部停留所の停留所名の伝え方が独特なことに気付いただけだった。

鹿児島の路面電車に乗ると、何時もそれなりに乗客が居て賑わっている感じがする。聞けば、この電車を運行する鹿児島市交通局の電車部門は黒字なのだそうだ。

↓12月16日の鹿児島の画…
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旭川・稚内―鉄路259.4km(2012.12.24)

「時刻表」の“宗谷本線 下り”の頁…「旭川―名寄―稚内」の列車を調べる…

321D― 6:05 旭川 7:46 名寄
4325D― 7:50 名寄 8:52 音威子府
4327D― 9:20 音威子府 11:52 稚内

↑こういう3本の列車が記載されている…

が…これは、旭川で乗車すると、そのまま稚内に着くことが出来るのである…“単線”の宗谷本線は、擦違う列車を待ち合わせる都合等で長時間停車が多く、長時間停車する場合に“列車番号”が切り替わるのである…

↓こういう具合に「稚内―旭川」のサイドボードが掲げられる…
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↓発車の20分位前に、暗い旭川駅にキハ54が現れる…
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↑氷点下10℃クラスの寒さの中、照明に浮かび上がる銀色の車体は冷え切っている感じがする…

↓北上する列車の進行方向右側が次第に明るくなり、名寄辺りでは朝陽に空気が染まる中に列車が佇む様が視られる…
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↓音威子府では、南下して来る列車が待っている…
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↓やがて札幌へ向かう特急<スーパー宗谷>を見送ることになる…
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↓幌延での15分弱の停車が程好い休憩になる…
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↑この先は「最終区間」という趣になる…

↓稚内の手前で降雪…雪を巻き上げて列車は走る…後ろは雪塗れになる…
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↓今季は存外に積雪が多い稚内である…
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最近は他所に出掛けると、復路にこの列車を利用するケースが多い…早朝、旭川駅周辺のコンビニで朝食に加えて“呑み物”等を仕入れ、旭川駅を発つ辺りで食べたり呑んだりで、やがて居眠りでもしている間に稚内が近付く…なかなかに好い…

↓12月24日の旅…
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運行日誌(2012.12.23-24)

米国製テレビドラマで視るロサンゼルスやマイアミにでも在りそうな樹木が植えられている様を視て来たためか、見慣れている筈の地元、稚内の様子が何やら「エキゾチック」な感じがする…

小倉のホテルから駅へ向かい、“新幹線口”の「鉄郎とメーテル」を眺めた。「君は、出発するんだね…」と鉄郎の声が聞こえたような気がした…聞けば北九州市には、かの松本零士氏が館長ということになっている“漫画ミュージアム”というものが在るのだそうだ…その宣伝の意味で「鉄郎とメーテル」は小倉駅前に居るのだが、「大宇宙の鉄路を旅する二人」というのは、駅前のオブジェとしては秀逸である!!ベンチに座っているメーテルは、「こういう背格好の女性…居そうだな…」というバランスの像なのだが…鉄郎の方は、やや不思議なバランスであるが…

そして駅で、今回の旅行中3回利用した型になった“九州ネットきっぷ”を受け取り、博多へ向かう列車に…特急<ソニック>の蒼い車輌が登場することに期待したが…佐賀・博多間の<かもめ>で乗車したことの在る白い車輌が登場した…小倉・博多間は大変にポピュラーな路線で、列車はなかなかに混雑していた。

博多に到着して、昼食を共にすることとなっていた友人と連絡を取り、博多駅の筑紫口で落ち合った…先方は車で来ていたので、載せて頂き、昼食後にお茶を飲んで空港に運んで頂いた訳である…

昼食は博多駅から空港に向かう途中辺りに店を構えているラーメン店…「どトンコツ」を謳う、トラディショナルな博多のラーメン…店にはホークスの選手達や関係者の記念品や、芸能人のサイン色紙が一杯だった…博多では一般的らしい“替玉”というものも初めて経験した…スープは、何処と無く「味噌ラーメン」を想起させないでもない…友人が「札幌の流儀の味噌ラーメン」について「存外に好き」らしいのだが、それも頷ける感だ…博多のラーメンは、何か「極細パスタ」のような、微妙に硬めな湯で加減の真っ直ぐな麺だった。思ったより佳い!!評判が好いという「全部のせ」というものを頂いたが、チャーシューや味付き玉子がなかなかに好かった…

空港へ向かう途中、“板付遺跡”という場所に寄ってみた。水田を営んでいた弥生時代の集落跡で、1978年に発見されたものだという。資料館が在ったのだが、何か公民館的に活用されているようで、丁度冬休み始めの催事の真っ最中で、何やら取り込んでいたので中は余り視なかった…こうした考古学系のモノには明るくないのだが、九州にはこの種のモノが多いと聞く…

そして空港で友人と別れた…福岡の空港…博多駅から近かったので驚いた…国際ターミナルに、国内の#1から#3が在る…

或る日の思い付きで入手してあった福岡・札幌の航空券…空港の端末にクレジットカードを入れると券が出て来る仕組みだ…第1ターミナルで試すと、弾かれてしまった…「?」と思っていると、近くの係員が声を掛けてくれた…「どちらへ御出発ですか?札幌ですね?第2ターミナルです」とのこと…第2ターミナルでは何らの問題も無かった…

空港内では、「九州全土の主だった土産」が一通り入手可能な雰囲気のモールが在った…何となく冷やかしていると、「お知らせとお詫び」という放送が聞こえてきた…私が搭乗予定の便…遅れるとのこと…

飛行機はなかなかの混み具合で、遅れた上に外へ出るのに手間取り、「旭川に7時半頃?」という計画は諦めた…

結局8時半を過ぎた頃に旭川駅前のホテルである…「夜の思惑」は破棄して、直ぐに休んでしまった…旭川は氷点下6℃程度だった…

朝…旭川は更に冷え込み、氷点下11℃…そんな中、コンビニで朝食とウィスキーを買い込み、馴染んでいる早朝の列車に乗り込んだ…列車は好天の中を順調に進んだ…

稚内に着けば、雪が非常に多くなっていた…稚内駅からの帰宅を前に…近くの馴染みの店で昼食を摂った…

こうして今回の旅は終わった…

今回の移動を大雑把に纏めると下記のようになる…

稚内(普通列車+特急列車)→新千歳空港(飛行機)→関西空港(普通列車)→大阪・天王寺(地下鉄)→新大阪(新幹線)→熊本(新幹線)→鹿児島中央(普通列車)→宮崎(普通列車)→飫肥(普通列車)→南宮崎(特急列車)→大分(都市間バス)→長崎(普通列車)→佐賀(特急列車)→博多(普通列車)→小倉(普通列車)→下関(ボート)→門司港(普通列車)→小倉(特急列車)→博多(友人の車)→福岡空港(飛行機)→新千歳空港(普通列車+特急列車)→旭川(普通列車)→稚内

「九州7県の県庁所在地+若干+下関」ということで8県に足跡を記したことになる…

想い起こすと、昨年は「福岡に寄りながら枕崎」という展開の旅をして、「福岡と鹿児島の間は何も視ていないじゃないか!?」というような想いが沸き起こった。「稚内・枕崎」について陸路で進んだため、途中で新幹線を使っていても枕崎到達に5日間を要し、結果的に“余裕”が無かった…旅の途上ではそんなことは考えていなかった訳だが…そうした様々な想いが時間を掛けて煮詰まり、今回の行動に及んでしまったのであった…

今回のことに関しても、早速に「あそこはあのようにしておけば?」が幾つか思い浮かばないでもないが…それこそ“後知恵”である…しかし、もし“次”の機会に恵まれるのであれば、そうした“後知恵”も役には立つかもしれない…

実際に福岡で友人に尋ねられたが、「何処が一番好かったか?」というのは大変な難問である…それぞれに好い!!強いて言えば、雨で短めな滞在になってしまった熊本に関しては、城の“御殿”が鮮烈だった他は「やや印象が薄い」と言わざるを得ない…他方、熊本のキャラクターである“くまもん”のグッズが、九州全土の何処へ行っても売っていたのには愕いたが…

九州各県の様々な街に寄ったが、適当に都会で、適当に地方的で、「何となく好いバランス」のように感じられ、何処も各々に居心地は好かった…何れの土地でも、郷土の歴史、産業、伝統への畏敬と矜持、それらから育まれる愛着が感じられることも多く、なかなかに好感を抱いた。

あちらにもこちらにも行きたい性分と“乗り物好き”が混交し、更に史跡やら博物館の類を精力的に歩き回り、終いに草臥れるので、旅に出ても「土地の美味いモノ」には余り拘泥しないようになっている私だが…今回は色々と美味いモノも愉しめたのは大変に幸いである。特筆すべきは…鹿児島の屋台村で頂いた肉料理、長崎の“ちゃんぽん”と“皿うどん”、大分の友人に教えてもらった“とり天”、福岡の友人に紹介してもらった「トラディショナルな博多ラーメン」、更に飫肥の“厚焼玉子”であろう…殆ど全部だったが…

記憶が鮮明な間に、とりあえず「運行日誌」を認めた…何れ膨大な量になっている写真を整理しながら、思い出した事柄も綴っていくようになることであろう…

飫肥・厚焼玉子(2012.12.17)

飫肥…難しい字だが「おび」と読む…日露戦争の頃の外務大臣だった小村寿太郎の出身地というのが知られているが、小さな城下町である…

好天に恵まれ、12月だというのに上着を脱いで長袖シャツで歩いて平気な位の陽気の中、若干の汗までかきながら城下町を歩き回った…

歩き回っていると「厚焼玉子」なるものが売られているらしい掲示を視掛ける…気になる…

↓城の近くの店で休憩を取り、これを頼んでみた…
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「黄色の羊羹??」と思った…とりあえず頂いてみた…はんぺん…ゼリー…プリン…そういう感じがする不思議な食感だった…

聞けば、これは卵黄を解いたものを濾して、粒子を細かくしたものを“型”に入れてゆっくりと蒸し焼きのようにして作るらしい…手が掛かっている…

街で視掛けたのは、これを持ち帰りの土産として売っている様子だった…直ぐに帰るのなら、一つ買って行きたいところだったが…マダマダ先が長い時点だったので、そういうこともしなかったが…

長い歴史を誇る街には、独特なモノが伝えられている場合が在るが、この飫肥の玉子焼などは、そういうモノの好例であろう…何時かまた頂きに行ってみたいものだ…

↓飫肥の様子を含む12月17日の画…
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運行日誌(2012.12.21-22)

福岡で何か大掛かりなイベントでも在るのか、ホテルが極端に取り難い状態になっていたことに気付き、今夜は小倉に泊まることにしたのは早朝だった…

昨夜は博多駅近くの“休憩所”で夜を明かした。睡眠と覚醒が断続するような状況だったが…不意に「今夜は?」と思い、“休憩所”を離れる前に宿を押さえたのである…

明日は“北上”のために福岡空港に入るのだが、その前に友人と会って昼食を愉しむ手筈になっている。それまでに博多駅へ向かえば用事は足りる…そこで…今回の旅で「3回目の利用」ということになった<九州ネットきっぷ>で調べてみると…小倉・博多間は特急<ソニック>で約40分…自由席は1,400円…これに決定した!!

<ソニック>…博多や大分で視掛けた、青く光沢の在る車輌か、博多や長崎で視掛けていて、佐賀・博多で乗車した<かもめ>でも試用されているタイプの車輌が登場することであろう…或いは嘗て<リレーつばめ>に使用されていた、鹿児島、宮崎、大分、長崎、福岡の各県で視掛けた暗いメタリックグレーの車輌か?一寸楽しみである…

近年のJR九州が投入している新車輌の基本デザインを手掛けているのは、かの水戸岡鋭治氏である。彼はデザインを手掛け、エンジニアがそれを型にするのだが、彼の画は“完成想像図”であり、同時に宣伝媒体にも用いられるものである。色々な制約と、多様なアイディアを、苦心して画にまとめ、それが実体となって行くのだ…

水戸岡鋭治氏の画に関する展覧会が、博多駅のビルで催されると知った。彼が関ったモノ…<みずほ>、<さくら>の新幹線、殊に800系新幹線、817系電車、<かもめ>等に実際に乗っている…そのデザイン…更に広告に用いられる画が視たい!!ということで、佐賀から<かもめ>で到着すると直ぐに観に行った…大満足である!!

彼の画は、華やかで鮮烈な色彩で描かれている。颯爽とお洒落な制服で仕事をしている乗務員や駅員が居て、老若男女様々な乗客や通行人が暮らしている様々な街を、鮮やかな列車が駆け抜けて結び付ける…そういうイメージが素敵だ!!また彼は、新駅の内装のアイディアや、弁当等の商品包装も手掛けているそうだ…

とにかくそれが愉しかったので、軽く呑もうと、同時に土産を少々求めてみようと<ハードロックカフェ>に出掛けてみた。

博多駅周辺で路線バスを利用した。<ハードロックカフェ>が在る<ヤフードーム>辺りへ向かうことがハッキリしているバスらしきものが見当たらず、暫し停留所に居たのだが…全く30秒から50秒に1回と思えるような凄い頻度で、入れ替わりにドンドンと様々な運行系統のバスが現れ、多少驚いた…

<ハードロックカフェ>…昨年は土産にTシャツを求めたという話しで終始したが、今回は食事をして軽く呑むことも出来た…

バーカウンターに陣取り、スタッフと言葉を交わした…特急<かもめ>で着いた話しをすると、先方は列車の様子を詳しく知っている雰囲気だったので、何か沿線に縁でも在るのかと訊ねると、御出身が長崎ということだった。それならば何度も利用する機会が在った訳だ…

長崎談義等をして愉しく過ごし、またバスで博多駅周辺に戻ったが…<ヤフードーム>辺りでは、最近話題の<HKT48>なるグループのライブ会場が在るらしく、そこへ行っていた風の乗客も見受けられ、バスは存外に混んでいた…

無事に夜が明け、博多駅へ向かった。とりあえず小倉に出ることにした…各駅停車で発ち、途中で快速に乗り換えて小倉に着いた…

小倉は雨交じりだった…小倉城と庭園の辺りに出掛けたのだが…何となく近くまで行って眺めただけに終始した…

その城よりも、今回は「長崎街道起点常盤橋」というのが興味深かった…

“長崎街道”…江戸時代に、唯一の“幕府公認”という型で対外国交易を行っていた長崎へ向かう道筋が整備され、やがて“長崎街道”という通称で知られるようになったのだという…

小倉に在った、何時しか“常盤橋”として知られるようになった橋の西側には、当局の伝達事項を伝える“高札”を立てていたらしいが、そこが件の街道の起点だった…

江戸時代を通じて様々な往来が在ったが…よく知られている話しとしては、長崎のオランダ商館に居た人達が数年に一度江戸に出る機会が在り、その際にもこの“常盤橋”を通っているし…オランダ人が贈ったという“象”もまた橋を通っているらしい…この他、他地域から長崎へ向かった経過の在る史上の有名人の多くも、ここを通っている可能性が高い…

明治期に初めて郵便が始まった頃にも街道は重要視されていたといい、そうした故事に因み、この道筋の小さな郵便局には「明治時代風」な郵便ポストが据えられていたりする…

この“常盤橋”は、橋の架け替えが行われた際、「江戸時代の橋」という意匠に見事に直した。これが素晴らしい!!

そんなことの後…何となく列車で下関へ出てしまった…下関では日清戦争講和交渉の記念館を見学し、近くの赤間神宮にも寄ってみた…

やがて唐戸地区へ歩いたが…ここの市場はなかなかの賑わいだった…やがて外で“うにソフト”なるものを視付け、これを頂いてみた…なるほど“うに”らしい塩味が感じられるが、全般にはプリンか何かのような味わいのソフトクリームだった…更に…“ふく”(河豚)の刺身と薬味を丼の飯に載せ、ポン酢をかけた“ぶっかけ丼”というものも頂いた…

その唐戸地区だが…門司港へのボートが出ている。潮流が変わり易い他方で非常に狭い海峡を5分程度で渡ってしまう…何やら危険防止関連の案内が流れている間に、ボートは門司港に着いてしまう…関門橋を眺めながらの航行だが、なかなか揺れた…

この頃になると雨は気にならなくなっていた…門司港では…九州鉄道記念館を訪ねた他、以前に歩かなかった駅周辺を歩き回った。他方で駅そのものは長期に亘る修復工事に入るところで、近くには寄ることが出来なかった…

門司港では“焼きカレー”なるものを頂いた…「カレーライスをオーブンで焼く」と考えれば判り易い…「ドリアやグラタンを頂くような感覚でカレーライスを頂く」という不思議な感じだった…

やがて小倉に戻ってホテルに入った訳だが…非常に充実していた1週間だった…

“コレクション”について…

順次HDR画を公開し、撮影日付毎の“セット”を用意しているが、その“セット”を集めて“コレクション”を用意した。

>>Collection: Photomatrix - Trip in DEC 2012
↑クリックして頂くと、各“セット”が表示される。御覧になりたい“セット”をクリックして頂くと、画の一覧が出る…

画は後刻・後日追加して行くので、この「>>Collection: Photomatrix - Trip in DEC 2012」は益々充実する筈である…

“ちゃんぽん”と“皿うどん”(2012.12.20)

旅先で、特段に「訪ねた先の名物料理」に拘泥する訳でもないのだが…長崎で何となく“ちゃんぽん”を頂き、気に入ってしまった…

そこで…「発祥!」を謳う老舗を訪ねてみることにした…

老舗…立派なビルになっているのだが、入場無料の資料館が設けられていた…1899年に創業したという店と初代店主の歩みが紹介されている他、“ちゃんぽん”や“皿うどん”の起こりが紹介されていた。

↓入口の階段に、妙に凝った飾りが見受けられた…
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“ちゃんぽん”は福建省の料理と似ているが、長崎で独自に工夫されたものであるという。

“ちゃんぽん”という名の起こりには諸説在るらしい。「色々と混ぜ合わせたもの」を意味するという説や、店に出入りする中国系の人達、殊に苦学している若者と店主達が交わす会話に頻出した「確り飯は食っているか?」に相当する挨拶言葉の表現が、街の人達に「あの料理の名前か?」と誤解されて転訛したとする説等が在るという…

↓これが“ちゃんぽん”である…
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一寸調べると、“ちゃんぽん”の麺は「長崎県内で製造され、また“唐灰汁”と呼ばれる長崎独特の梘水で製麺したもの」と規定されているのだそうだ…スープは豚骨と鶏がらを組合わせて作るものらしいが、これも美味い…

更に…“皿うどん”…これは所謂“あんかけ焼きそば”のようなものが定着しているが…起こりは“ちゃんぽん”と同じ「やや細いうどん」のような麺を使い、少なめなスープで味を着け、“ちゃんぽん”のような具を入れたものだった…何か“焼きうどん”に似ている…“うどん”と聞けば「丼!!」という状況だった時代に、「皿に載って出て来る」というので“皿うどん”という呼び方が定着したのだという…

↓これが登場当初の姿を受け継ぐ“皿うどん”である…
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今回…実は“ちゃんぽん”、“皿うどん”の「何れかを頂く」つもりで老舗を訪ねたが…メニューを視て48秒程度思案し…結局、両方頼んでしまった…「迷った時」はこの方式が善い…(大食漢にのみ許される方式かもしれないが…)

この“ちゃんぽん”、“皿うどん”双方の「発祥」の味を受け継ぐものを存分に愉しんだ…

>>因みに…訪ねた老舗のウェブサイトはこちら…

長崎・眼鏡橋(2012.12.19-20)

“眼鏡橋”は、長崎の代表的名所の一つに挙げても差し支えないものであると思う。

“眼鏡橋”というのは、本来は「二連アーチの石橋」を指す一般名詞―「アーチ橋自体と水面に映る橋とが合わさった姿が眼鏡のように見える」というのが語の起こりらしい…―であるようだが、固有名詞的に用いられる場合も在ると見受けられる。長崎のモノは、その固有名詞的に用いられる例であろう…

長崎の眼鏡橋は1634年の竣工と伝えられる。江戸時代を通じて“眼鏡橋”は俗称だったようだが、明治時代に入った1882年、公式に“眼鏡橋”という名になったのだそうだ…

石造のアーチ橋…古くから栄えた地域ならではのもので、その種の建造物を眺めるのは好きだ。この1634年竣工と伝えられる長崎の眼鏡橋は、江戸時代を通じて各地に造られた石橋の「先進事例」となったと見受けられる代物である…

長崎で早朝から動き始め、関心の在るモノを色々と視ようとしていたが、最初に早朝の暗い間に立ち寄ったのは眼鏡橋だった…

↓未だ薄暗い、周囲の灯が残る時間帯の様子…
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↑この時間帯…曇天だった…

長崎の眼鏡橋は、延長が22メートル、幅が3.65メートル、川面からの高さは5.46mだという…実際に視ると…「思ったより大きい」とも「思ったより小さい」とも感じる…やや微妙な大きさだった…

その眼鏡橋を視て、ミニ三脚を駆使して夢中で写真を撮った…なるほど「アーチ橋自体と水面に映る橋とが合わさった姿が眼鏡のように見える」というのは本当だ…

やがて…長崎に滞在していた間に天候が好くなったのだが…「あの眼鏡橋…青空の日中はどういう具合に見えるのか?」と思い始めた…

↓思い始めた頃には路面電車の車内だったが…電車が最寄停留所を通ることに気付き、一寸寄ってみた…
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↑空の蒼と石の色の対比が素敵だ…

きっとこの橋は、季節毎、時間帯毎に豊かな表情を見せてくれることであろう。大規模な修理が施された経過も在るようだが、この橋は370年以上も街の人達と共にあったのである…

長崎を去る際、「あの眼鏡橋の少し趣が異なる様子…きっと見てみたい…」等と考えてしまった…

運行日誌(2012.12.21)

佐賀城跡側と佐賀駅とを結ぶ道筋の、如何にも「古くから店を営んでいる」という雰囲気の喫茶店に入った…珈琲を頼めば、「おかわり」がサイフォンのポットに入った珈琲が最初から出て来て、一寸したお菓子まで出て来て、「いらっしゃい…傘はそこでよか…」と迎えてくれた優しそうなおばさんが「ゆっくりしとってください…」と言ってくれた…

という訳で、一寸パソコンを出し、佐賀の顛末を綴ってみる…

ホテルから佐賀城跡方面への道筋は、昨夕の間に一寸だけ歩いて調べておいた。それでもホテルで頂いたコピーの地図をポケットに…

ホテルからは佐賀駅を通り抜けて城跡の方へ続く道に出るのだが…駅構内に入居しているコンビニで傘を求めた。「やや高い?」と思わないでもなかったが、所謂“ビニール傘”の亜種と見受けられるモノながらも、“70cm”を謳い、一寸丈夫そうだったのでそれを求めた。結果…大正解!!しとしとと静かな佐賀に小雨が降り続け、やや長く歩くには傘が必須だった…

この時季…稚内では傘など使わない…強風で危ないということもないではないが、そればかりでもない…粒子の細かい雪は「掃えば落ちる」もので、雨のように酷く濡れる訳でもないからだ…時々、雪解け時季近くに強めな雨になると、「傘?何処に置いてあった?」等と探すこともないではない程だ…従って…この時季は「傘を持って旅に」という発想が無い…或いは…私は大柄なので、傘を使っていても酷く濡れる場合が在り、傘を億劫であると思う度合いが強いのかもしれないから、最初から持とうとしないのかもしれないが…

最初に“大隈記念館”を目指した。歩道を蒼系のタイルにした商店街が在って、「大隈重信生誕地」とバナーが飾られていたが…記念館の場所がよく判らない…佐賀城の資料館に関しては大きな標識が見付かったのだが…静かな通で、訊ねようにも訊ねられそうな雰囲気の場所も見当たらず…目に留まった小さな郵便局に入って訊ねてみた…女性の局員が親切に応対してくださった。感謝!!

郵便局の方のお蔭で、“大隈記念館”は見付かった。幕末期から明治・大正に活躍した大隈重信の生涯と事績が紹介されていた。

多少ショックだったのは“義足”である…外相として“条約改正”に取組んでいた頃、彼が纏めようとしていた案に反対の立場を取る者からテロ攻撃を受けて重傷を負った経過は、読んだ小説にも出ていたので承知していたが…その時に片脚を失っていたのである…その“脚”の代わりのものになった義足…生々しかった…後年、「人間は125年位は生きられるものだ」と口癖のように言い、晩年まで精力的に活動したことが伝えられる大隈重信は身体が不自由だったのだ…それでも、彼は攻撃をした者を恨む素振りは見せず「自分も本気で仕事をしていたが、相手も本気で主張したのだ」などという主旨のことを言って、自決した犯人の命日にお参りをしていたそうである…

その大隈重信は、政党政治の揺籃期に首相となり、やがて所謂“大正デモクラシー”の潮流の中で2度目の首相の座に就く。この頃、彼は「政党党首による選挙時の全国遊説」の初めての事例となる選挙運動をやってのけている。この話し…“義足”を視た後に改めて紹介されたものを視ると、少々驚く…写真も在ったが、列車で各地を訪ね、駅で停車中に客車の窓から半身を乗り出し、ホームから溢れるように集まった聴衆に語り掛けるのであった…

記念館の脇に、大隈重信が育った家が残っている。

彼の父は鍋島家中に在って“300石”だったそうだ。どの位の位置なのかは判らないが、彼は砲術の師範だった。この種の師範というものは、「芸道の家元」的な面が在るということも読んだことがある。家中の“公務”に加えて、“師範”としての「自分の領分の活躍」も在ったのかもしれない…その大隈重信の父が入手したという家…八太郎と呼ばれていた大隈重信本人、二人の姉、両親が暮らす場としてはつつましい感じだ。各地の街で幾らでも視掛けるような大きさの家である。しかし、“300石”というクラスの武士の居宅が、こんなに綺麗に残って史跡となったのも、政治家として、学校の創設者・経営者として大きな足跡を残した大隈重信の家だったからであろう…

続いて佐賀城本丸…ここも秀逸だ!!

佐賀城は、肥前を中心に一大勢力となっていた戦国大名の竜造寺家が使っていた城を、江戸時代にまで続くことになる鍋島家が改修したものだった。18世紀の享保年間に火災で建物が失われ、やがて二の丸に設けられていた御殿も1835年に消失した…その後、鍋島直正が本丸に「居宅兼政庁」である御殿を築かせたのだが、その建物の一部が見事に再建されている。

幕末期の鍋島家の佐賀に関して、或いは九州各県等で運動中の「近代化遺産を世界遺産に!!」の件を紹介したビデオも興味深く視た。鍋島家は、幕府に命じられて請けていた役目である“長崎警固”を通じて、科学技術への問題意識を高め、そして実践した訳だが…長崎で出島史料館を見学したことと相俟って、かなり興味深く館内の展示を見た。

この佐賀城本丸の展示で「おぉ!!」と感嘆したのは…「北が下、南が上」で描かれた北海道・樺太の地図である…鍋島直正は、明治政府の時代になって、最初に蝦夷地開拓の任を与えられた人物なのである。彼は島義勇を、多分「その方が善きに計らえ…」とでも命じたのだろうが、“判官”に任じて現地に送り込んでいる…そしてその島義勇が“札幌”のグランドプランを纏める場面で活躍している…

という具合で…“お腹一杯”に佐賀の興味深い場所を見学出来た…そして…漸く珈琲も残り少なくなって来た…

運行日誌(2012.12.20)

悠然と長崎のホテルで迎えた朝だった…

長崎でもう少々寄ってみたい場所に寄った後のことに思いを巡らせた…

「“帰国”は福岡発」としているので、とりあえず「今般の“鎮西入”の最後」は福岡にしなければならないのだが…新幹線も在るので、熊本や鹿児島に道草することも難しい相談ではない…

雨に降られて長居はしなかったが熊本に入り、鹿児島、宮崎、大分、長崎と、とりあえず各県の県庁所在地に足跡を…福岡は予定が固まっている…となると残りは…佐賀…こういう機会に寄らねば、なかなか寄ることも出来ない…

何時ものことながら、かなり“駆け足”になっている今般の旅…結果的に「九州一周!」のようになっている…これは佐賀へ行くしかない!!佐賀へ行けば「7県全部に足跡」を達成である!!だから、どうしたというようなことだが…

結局、「午後の出発の普通列車で夕方に佐賀」という段取りを確認し、佐賀で滞在するホテルを確保した…(後で着いてみて判ったが…駅の近所に“休憩所”のようなものは見当たらないので、正しい行動だった…)

長崎は晴天に恵まれた!!また“一日券”が活躍で、路面電車を使って方々を巡った…

長崎では、平和公園に足を運んでおきたかった…昨日は草臥れてしまって行かなかったが…あの有名な像を仰ぎ見て、原爆戦災と復興の歴史に想いを巡らせることもしなければなるまい…

“一日券”付属の略地図によると…平和公園に関しては複数の停留所からアクセス可能に見えて「何れが?」と思えた。長崎の路面電車だが、思ったより停留所間の距離が短めで、下車してから周辺を歩き回っていて、また電車に乗ろうとすると「隣り」とか「隣りの隣り」の停留所に出てしまう場合も多々在った…そういうパターンかとも思ったが、とりあえずホテルのフロントの人に尋ねて最寄停留所を確認した…“一日券”はホテル等で売っていて、電車内で売っているものではないようだ…取り扱い場所に券とスタンプが預けられているようで、購入を申し出るとスタンプが押される仕組みだ…前日に「明日使う」と申し出ても、「今日、今から使う」と申し出ても差し支えない…

その“一日券”を手に平和公園へ…階段を上がると…大きな噴水が、小さな虹を作っている向こうに有名な像が見えた…あの有名な像の辺りだが、往時は刑務所だったのだそうだ。「爆心地に最も近い公的施設」だったそうで、収監者や職員は全員即死したという…

そんな説明の掲示等を眺めていると、横の方で若者の2人連れが外国人の一人旅というような人と言葉を交わしていた。私が辺りを離れる前後でその旅行者も離れ、何となく近くで眼が合い先方が話し掛けてきた。「ミュージアムは何処か?」と言う…私も初めてで行ったことがないと答えた。先方は地図を示し、「この道らしい」と言うが、示す辺りに道らしいものは見えない。恐らく有名な像が在る広場へ上がって来た階段を下りた辺りであると推測された。一緒に行くと、“ミュージアム”という矢印の看板が在った…

そこで一人旅の外国人とは別れた。話しを聴けば、佐世保の米軍関係者の家族らしく、他の家族が忙しいので自分一人で方々を視に出掛けることが在るのだという…何でも高いが、電車の“一日券”だけは安価で素晴らしいというお話し…因みに先方が言う“ミュージアム”とは“原爆資料館”のことだが…

私は“原爆資料館”を見送り、“爆心地”を視た。綺麗な公園になっている。そこには原爆で大被害を受けた浦上天主堂の建物の極一部がモニュメントになっているものも在った…「祈りの場」が破壊されてしまった様子…強く訴えるものが在る…

更にその場には、被爆から50年を経て新たに設置された、「子どもを抱える女性」の像が在った。設置当時のメッセージが在ったが、原爆の際、住宅街近くの被害が殊に甚大であったことから、老人、女性、子どもの死傷者が目立ったことを伝えようとした像なのだそうだ…

この平和公園から、商業施設内に設けられた入場無料の路面電車資料館に立ち寄った…路面電車の歩み―戦災や自然災害の中でも頑張ったことや、電車が初めて通った頃と最近の様子の比較写真や、運用されている車輌の紹介等が在った…―が判る場所である。丁度オープン時間に着いたので、係の方に多少お話しも伺い、なかなか面白かったが…そこでも、原爆の日に電車の仕事に従事していた、当時17歳だった方の手記が在ったので拝読した…仲の良かった友人が自宅で休んでいて、自身は電車での仕事に出ていて、休んでいる友人を走行中の電車から視掛けて、先方も気付いたので手を振り合い、やがて原爆が投下された…爆心地から少し離れた自身は生き残ったが、手を振り合った友人は死亡してしまった…という挿話が綴られていた…

長崎は原爆等の戦災の影響が大きかった訳で、大変な努力の上に今日が在る…そういう歴史に想いを巡らせてみたくなったのは、最近何やら“ミサイル”云々という話しを耳にする機会が在るからである…

それにしても長崎は素晴らしい好天だった…そうした中…前日は「暗い早朝の曇天」という妙な条件で視た眼鏡橋が視てみたくなった…

眼鏡橋…何か惹かれる…あのようなものが近所に在ったら、多分頻繁に写真を撮りに寄ると思う…今般のように、「出先で出くわした気に入ったモノに関して、異なった条件で眺める」というのは、なかなかに面白い…

昨日も頂いたが…今日もまた“ちゃんぽん”を頂いた。今回は「発祥」を謳う老舗にわざわざ足を運んだ…そこでは「後悔したくない!!」と“皿うどん”も追加してしまったのだが…

その老舗…立派なビルになっているのだが、入場無料の資料館が設けられていた…1899年に創業したという店と初代店主の歩みが紹介されている他、“ちゃんぽん”や“皿うどん”の起こりが紹介されていた。

“ちゃんぽん”は福建省の料理と似ているが、長崎で独自に工夫されたものであるという。“ちゃんぽん”という名の起こりには諸説在るらしい。「色々と混ぜ合わせたもの」を意味するという説や、店に出入りする中国系の人達、殊に苦学している若者と店主達が交わす会話に頻出した「確り飯は食っているか?」に相当する表現が、街の人達に「あの料理の名前か?」と誤解されて転訛したとする説等が在るという…

“皿うどん”…これは所謂“あんかけ焼きそば”のようなものが定着しているが…起こりは“ちゃんぽん”と同じ「やや細いうどん」のような麺を使い、少なめなスープで味を着け、“ちゃんぽん”のような具を入れたものだった…何か“焼きうどん”に似ている…“うどん”と聞けば「丼!!」という状況だった時代に、「皿に載って出て来る」というので“皿うどん”という呼び方が定着したのだという…

今回…この“ちゃんぽん”、“皿うどん”双方の「発祥」の味を受け継ぐものを存分に愉しんだ…

その老舗の近所には、かなり立派な外国クルーズ船を迎えるターミナルビルも在り、眼を瞠った…

長崎に若干の後ろ髪を引かれながら、普通列車で佐賀に発った…通学の高校生諸君が入れ替わり登場するような雰囲気の中、無事に佐賀に至った訳である…

佐賀…静かだ…何となく歩き回り、焼き鳥屋に入った。店の前に掲げられたメニューの“親子丼”に惹かれたのだ…“刺身”でも行ける鶏肉ということで、「ミディアムレアーで仕上げています」という肉と熱い玉子の組み合わせ…素晴らしかった!!

そしてホテルでゆっくりしているのだが…明日も好天になることを祈りたい…

長崎夕景(稲佐山からの眺望)(2012.12.19)

深く入り込んだ湾の両岸に在る平地、埋立地、丘陵部に縦横に、また立体的に市街が拡がる長崎は、鳥瞰するとその複雑さがなかなかに面白く、殊に夜景の美しさが知られている。

12月19日は朝から曇天であったが、昼食時間帯の終わりそうな辺りから青空が覗いた。街を鳥瞰するには好適だ。これは視ておきたい!!

手軽に長崎の夜景を愉しむには…ロープウェイが好い…街のやや北側になるのであろうか?高さが300メートルを超える稲佐山に、約5分で上がることの出来るロープウェイが在る。山頂に設けられた展望台から街を望むのである…

>>長崎ロープウェイ

この日は“始発”辺りから路面電車の“一日券”を大いに利用していたが、ロープウェイ乗場との往来にもそれを使った。

宝町電停で下車…長崎の路面電車の停留所には、周辺地図や名所の案内等が掲示されていて、意外に便利だ。

宝町電停に着いて、その地図を見た。ロープウェイ乗場らしいものが最初は判らなかったが…少し先の稲佐橋というものを渡って、山側に進むと在ることが…多分、標識のようなものも在るであろうと思いながら歩き始めた…

思ったとおり、標識のようなものも在り、特段に迷うこともなくロープウェイ乗場に着くことが出来た。

この記事の題名…敢えて「長崎夕景」としたが…所謂“夜景”は、日没少し前に視るポイントに着いて、「日が沈んで、街に灯が入り、輝きを増して行く」ような状況を視るのが好みだ…但し、これをやるには多少時間も要るのだが…

その“好み”に合わせた行動のため、辺りがマダマダ明るい間に動いた。日没時刻が17時17分と調べていたので、17時台に入る辺りでの現場入りを目指した。お蔭で標識や看板が見易く、全く初めてでありながらも全く迷わずにロープウェー乗場に至ったのだ。途中「→500m」というような看板を視て「遠い?」とも感じたが、歩いてみればそれ程でもない…

巧く写真が撮れなかったのだが、ロープウェイは「昨年リニューアル!!」というマダマダ真新しい感じのモノで、文字通り「硝子の小箱」のようであった。床と天井以外は全て硝子張り…「空中の眺望を!!」という次第だが、人によっては「怖くない??」と思うかもしれない…私は「○○と田舎者は高い所が好き」というのを地で行く面が在るので、高度が上がる瞬間毎に変わる景観を存分に愉しみながら山頂に至ったが…

現在は、来訪者が必ずしも多くもない時季であると思うが、時間がやや早い間に山頂展望台に着いたので、「絶好!!」と思える場所を確保出来た。柵に、器用―「極東随一の不器用な男」である私だが、こういうことだけは要領が良い…―に“ミニ三脚”を載せ、写真も愉しむ。展望台の吹き曝しの屋上で眺望を愉しむことが出来る…

↓日没直後辺り…空には紫を帯びた「夕焼けの残滓」が見受けられるが、未だ街は「昼間の終焉」という按配で、灯りは目立たない…交通量が多い箇所に、車のテールランプの赤が目立つ場合が在る…
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↓日没から15分程度を経ると、灯りが目立ち始める…
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九州入りして以降、「多少風が冷たくなって…」程度に思うことは何度か在ったが、稲佐山山頂は「真面目に寒い」と思った。多分4℃か3℃程度であったと思うが、風が冷たく、手が悴み、多少“電池切れ”傾向な身体にそれがキツかった。上着のポケットに押し込んだままだったニットのキャップや手袋を思わず着用した…

↓日没から30分以上を経ると、複雑な地形に拡がる街並みの建物の灯り、車輌の灯り、港で活動する船の灯りが、“ナイトブルー”を深める空の下で映えるようになる…
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↓少しだけ西に眼を転じてみた…未だ「夕焼けの残滓」が見受けられる…
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寒さが堪えるようになってきたので、この辺りで引揚げた…

今般の写真は…「出来上がりを視なければ、どういう按配なのか、よく判らない…」という“長時間露光”を駆使した。“電池切れ”傾向な状態で休みたかったことと、早く確認したいという気持ちが相俟ってそういうことにしたのだった…更に、出来た画を視て「これは正しくHDR向き!!」と思ったのだった…

写真談義になっているが…よくコンパクトカメラのフラッシュを点けて夜景を撮っている方を視掛けるが…多分、多くの場合には目の前の柵か何かが写るばかりで、景色は撮れない…“発光禁止”にして、カメラが動かないようにした方がベターだと思う…

それにしても、稲佐山から望む長崎の夕景…素敵だ!!「1000万ドルの夜景」と言うそうだ…こういうのは「100万ドル」と言うのが多く…或いは“インフレ”なのか?とにかくも「限りなく高い価値」が在ることは疑いない…

「限りなく高い価値」が在る長崎の夕景・夜景…好天の日には是非足を運びたいが…今のような時季は“防寒装備”を忘れずに…

>>稲佐山から望む長崎の夕景を含む12月19日の画… (後刻・後日追加予定)

運行日誌(2012.12.19)

昨日が「“緩急”の緩」だとすれば…今日は「急」だったのかもしれない…暗い早朝から、日が落ちて暗くなるまで、精力的に動き回ることとなった…迂闊に何処かに出ると、大人しく座った状態で居眠りでもしかねない程にエネルギーを使ったと感じている…

昨夜、大分からのバスで到着し、とりあえず“休憩所”で世を明かしたのは「或いは午後に移動でも…」というような考えが頭の隅に在ったからだが、そういう考え方は途中で追い払った…

早朝は眼鏡橋を眺めに出掛けた…未だ明るくならない間の時間帯…あの種の古色蒼然とした構造物には似合う時間帯…“ミニ三脚”(飛行機に乗る場合の保安検査で揉める代物…)を駆使して写真を撮った…

九州には「石造の橋」という“文化”が在ったように見受けられる…方々に有名なモノが在る…鹿児島で、かの島津家が造らせたモノを保存してある例を視たばかりだった…(調所広郷の指導下、長崎で当時の規制で行けば色々と問題も在った交易を行うなどして蓄財した資金を投下した大工事だったらしいが…)長崎のモノは、鹿児島のモノより更に旧く、或いは九州の「石造の橋」という“文化”の起こりかもしれない代物だ…

橋の後はグラバー園である。かのトーマス・ブレイク・グラバーの邸宅や、他の幕末期から明治期の洋風建築を集めた場所だ。

実は…私の誕生日はトーマス・ブレイク・グラバーと同じである。そういうことで勝手に親近感を覚え、スコットランド北東部、アバディーンからバスで1時間程のフレイザーバラを訪ねてみたのも随分以前だ…永く訪ねてみたかったグラバー邸…漸く訪ねることが叶ったのだ!!

そしてシーボルト記念館を訪ねた。かのシーボルトが塾を開いて、医学等の科学知識を学ぼうとする人達を指導したというのは良く知られている。それが在った場所の地名に因んで“鳴滝塾”と言う…現在も辺りは“鳴滝”という住所であった!!シーボルトが活躍していた場所は空き地で、記念碑や胸像が在るばかりだが…史料館が直ぐ近くに開館している。「外国人を顕彰する公立施設」としては、日本初の事例だそうだ…

小説『ふぉん・しいほるとの娘』というものを読み、シーボルトには関心を寄せていたが、史料館の展示は秀逸で、非常に判り易く彼の歩みを見学者に伝えてくれる…

更に“出島”である…“出島”は橋で街と繋がるだけの“島”だったものが明治時代以降に周囲が埋め立てられて“陸続き”になり、とりあえず“史跡”として知られているに過ぎなかった時期が長かったのだが…近年は“史料館”と称して「往年の様子」を伝える施設になっている。驚いた!!数々の時代モノの小説に描かれる“出島”が再現されていたのである!!

この“出島”の様に触れて…「他に行きたい場所…明日!!!」と長崎滞在を延長することにした…

延長の序に…稲佐山に行ってみた…

今日の午前中は曇りだったが、午後は晴れ間が…夕方までその傾向は続いた…“夕景”を愉しむには悪くない…

路面電車―今日は“一日券”が大活躍!!―の停留所からロープウェイ乗場まで…存外距離が在った感だが…歩き始めると意外に苦にならなかった…「500m」等と在れば、酷く遠いように思えたのだが…

昨年一新されたという、文字どおり「硝子張りの箱」のようなゴンドラで山頂に上がった…300m以上の高さになるようだが…かなり風が冷たかった…そして“夕景”を愉しむべく、日没時間の17時17分頃を目掛けて予定どおりに着き、小一時間山頂に居たが…上着のポケットに押し込んだままだったニットのキャップと手袋を思わず引っ張り出した…

という具合に…相変わらず「成り行き任せ」だ…

順次、旅の写真を整理中…

深夜の徒然等に写真を整理―持ち込んでいるノートパソコンを駆使して、HDR画中心で纏めている…―し、順次公開している…

今回は、とりあえず撮影日毎に纏めてみている…

既に公開済みの分を下記に御紹介する…

↓12月14日…
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↑稚内>新千歳空港>大阪

↓12月15日…
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↑大阪>熊本>鹿児島

↓12月16日…
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↑鹿児島

↓12月17日…
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↑鹿児島>宮崎>飫肥>宮崎>大分


↓12月18日…
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↑大分>長崎

後日、または後刻写真を加える場合も発生するであろう…「出来次第公開」という方式なので、撮影順とは異なった順番で画が出てくることも在る…

迎えた12月19日…「見慣れぬ路の果ての見知らぬ街」を訪ねる旅は長崎に至った…どんな光景に出逢うことであろうか?

>ほぼリアルタイムに発信する旅の状況はこちら…

運行日誌(2012.12.18)

物事には“緩急”というものが在るのであろうが、今般の旅もそういう例に漏れない…12月18日はその“緩急”の“緩”だったかもしれない…

大分では、大分在住・在勤の友人と連絡が付いて、ランチを御一緒することになった。結局のところ、それ以外に予定もなく、何となくホテルでゆっくりした。文字どおり「ホテルでの休日」という感じも漂った…

大分市内はどんよりと曇っていた。とりあえずホテルをチェックアウトして通を歩み始めると、少々不具合が生じた…ショルダーバッグの紐をバッグ本体に繋ぐ金具が破損した…何とかしなければ、手でバッグを提げていなければならず、やや不便だ…

「何か?」と思いながら辺りを歩いたが、使えそうなモノが売っているような店は見当たらず、尋ねようにも商店が開店する直前のような時間帯であった…

「どうしたものか?」と思っていると、何気なくコンビニが…意外なモノを売っている場合が在るので、入って尋ねてみた…すると…「煙草のオマケなのですが…」と煙草やライターや小さなデジカメのようなものを入れるケースに着けるような金具が…これが使える!!代金を払おうとしたが…「オマケですから結構です」ということに…大感謝!!思わず珈琲を求めた…

大分は、戦国時代に日本へキリスト教を伝えたというザビエルがやって来て、以降も領主の大友宗麟が自ら入信して“キリシタン大名”となっていたことから、宣教師達が色々なことを伝えたという土地である。ザビエルのモニュメントや、時代劇に出てくるような子ども達が宣教師の演奏する伴奏に合わせて歌っている様子のモニュメント等が在って面白かった…更に「南蛮の船」というイメージのモニュメントも在って、友好交流の在るポルトガルから持ち込まれた、独特の蒼と白のタイルが使用されていた…

そうしている間に友人との待ち合わせである…

「一別以来にて…御尊顔を拝し奉り、恐悦至極…某、西蝦夷地を発ち、大阪、肥後、薩摩、日向を経て、豊後へ至り…」というところで、再会を祝した。

ランチ…“とり天”というものを試すことにした。味付けした鶏肉に、天麩羅の衣を着けて揚げる…天麩羅の衣の「フワッとした感じ」と鶏肉の「歯応え」が組み合わさった感が絶妙である。レモンが添えられているが、それはいきなり“とり天”にかけるのではない。“天つゆ”に加えるのである。“とり天”は“天つゆ”を点けて頂く…

この“とり天”…大分では「定番!!」で、出身者が「他地域で暮らすと思い出す?」ような感じのメニューらしい。御紹介頂いた友人に大感謝!!

愉しいひと時は飛び去るように過ぎてしまう…友人の都合も在るので、再会を期してお別れした…

大分都心に“トキハ”という百貨店が在る。アルファベットで“TOKIWA”という看板も…“ハ”を“ワ”と読ませるのであろう…そこにバス会社の券売場と、前の道路に停留所が据えられている。聞けば、ここから都市間バスに乗車可能だ…売場を覗き、一寸尋ねると…16時25分に出る“長崎行”が!!券を求めた…

大分駅辺りで、昨日は暗くてよく判らなかった大友宗麟の像を見付けた。工事関係の覆いの陰で窮屈そうながら、傲然と佇んでいた…

そんなことをして、とりあえず“休憩所”を見付けて入った。バスまでの時間を潰しつつ、多少情報を集めてみることにしたのだ…

“休憩所”を出てみると、晴れ間が広がっていた。駅前の大友宗麟が「その方のために儂が雲を追いやったのじゃ…我が城下を存分に見聞せよ…」とでも言いたげに、ランチの後に視た時以上に傲然と佇んでいるように見えた…しかし…風が多少冷たい感じになってきた…

午前中に親切にして頂いたコンビニに寄り、車中用の飲み物を仕入れた…そこから、やや時間が在ったので、“トキハ”の食品売場を冷やかした…酒類コーナーが秀逸!大分県…日本酒と麦焼酎が多く製造されているようだが、百貨店の酒類コーナーにはそれらが色々と在って、見ているだけでも面白かったのだ…

余りにも有名な<いいちこ>を車中用にコンビニで仕入れてあった…車中ではそれを呑み、車窓に海や山を眺め、暗くなってからは居眠りで、眼を醒ますと高速道路の料金所だった…

大分の“休憩所”で、長崎のそれに関して情報を得ていた…場所は簡単に見付かった…長崎市内を動き回るのは明日にする…

明日に向けて…路面電車の一日乗車券が利用したいが…これも“休憩所”近隣のホテルで売られていると判り、立ち寄って尋ねると、明日の日付印を押した券を売ってくれた…

“休憩所”入り前に何か頂きたかったが…目ぼしい店がとりあえず見当たらず…眼に留まったラーメン店に入ってみた。メニューは“ラーメン”と“チャーシューメン”しか無い…麺の盛り具合で料金が変わる。麺の茹で加減等、色々とオーダー出来るようだが、私は全く初めてなので特段にそういうことはしなかった。脂の濃い醤油味スープで、寧ろ味噌ラーメンのスープを思わせた。太目で真っ直ぐな麺が使用されていた。なかなかに好かった…

明日は好天になると好いが…

↓12月18日の画…
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ぢゃんぼ餅(両棒餅)(2012.12.16)

鹿児島の仙巌園周辺は“磯”と呼ばれていて、海水浴場になっている。海水浴がオフシーズンである冬季に訪ねるとひっそりしていて、時々ウィンドサーフィンをやっている方を視掛ける位で、静かな場所だ…

どなたかが言っていた…「お殿様は、桜島の眺めを楽しみたいというだけの目的で、仙巌園を造ってしまった…凄い…」というお話しなのだが、景観が素晴らしい地区である…

更に…ここでは鹿児島市内の小学校による数十年の歴史を誇る伝統行事“遠泳”も行われているそうだ。子ども達が、桜島までの遠泳に挑戦するという名物行事なのだという…

この周辺には一寸したものを食べたり飲んだり出来るような店が見受けられるのだが…

↓何か妙に気になった店…
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↓こんなものが売られている…
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↑磯の名物でぢゃんぼ餅(両棒餅)という…二本の棒(両棒)で刺して摘み易くした、焼いた餅にタレが塗されている。美味い!!

気になった店の店内に“由来”を書いたものが掲示されていた…

この磯に古くから在ったというものではなく、元来は仙巌園に出入りする人達のために他所から持ち込まれたのだそうだが、明治時代辺りから、この辺りでこれを売ることが盛んになってきたのだそうだ…上記の気になった店も、その明治時代に先祖が店を興したらしいとのこと…

幼少の頃、餅を焼いて砂糖と醤油を混ぜたモノを点けながら食べていたが…何かそういうものを想い起こさせる、「初めてにも拘らず懐かしい」味がした…訪ねた先でこういうものに出くわすと、訪ねた先が好きになってしまう…

運行日誌(2012.12.16-17)

日曜日から月曜日…瞬く間に過ぎてしまっている感じである…何れも早朝から夕刻まで、精力的に動いていることは共通項だ…日曜日は6時台スタート…月曜日は5時台スタートである…

12月16日の日曜日は鹿児島で一日を過ごした。「日曜日に鹿児島」を思い付いたのは、かの“かごでん”(鹿児島市交通局 観光レトロ電車)に関心が在ったからに他ならないのだが…

日曜日はスッキリと起き出し、早朝から散歩に出掛けた…結果として「一日のキーアイテム」となった“一日券”が暗い早朝から大活躍である…

昨年知った<ドルフィンポート>の辺りは、路面電車で訪ね易い場所で、桜島がよく見える。朝から行ってみれば…高さが1,117m在るという桜島が「おいどんが桜島でごわす…」とでも挨拶してくれるかのように、暁の静かな海に聳えていた…山頂付近は噴煙とも雲とも判断し難いもので隠れていたが…

その桜島を眺めていて、何となく桜島へ渡るフェリーの辺りに行ってしまったのだったが…丁度出航しようとしていた船に、何となく乗ってしまい、海上からの眺望を愉しんだ。僅か15分程度の航海で、着けば直ぐに船は折り返していて、概ね15分間隔で運航されているのだ。

海上で景色を愉しんだのは佳いが、早朝から桜島に何となく渡ってみても…全く計画が立たない…そのまま、直ぐに次のフェリーで鹿児島市街側に引揚げてしまった。そして路面電車でホテルに引揚げた…

ホテルで朝食を頂き、鹿児島中央駅の電停へ…“かごでん”である…(※別途紹介)

“かごでん”のガイドさんのお話しがなかなか愉しかったのだが、その余韻のまま更に“一日券”で利用可能な乗り物で動き続けた…

秀逸だったのは<石橋記念公園>だった。

<石橋記念公園>?実は、昨年初めてその名を聞いた際には「“石橋○○”という偉い人でも居て、何かそういう関係の?」と思ってしまったのだが…それはとんちんかんな話しである。これは貴重な文化遺産である、江戸時代に建設された石造の橋を保存するための場所である。

かの調所広郷―<天保山>という場所に、彼の像が在るというので視て来た…―が活躍した頃…1830年代、1840年代になるようだが…色々な手段で蓄財した資金も投下して、現在の鹿児島市域内に在った5つの橋を石造の立派なモノに改めた。その橋は150年間程度も“現役”だった。「普通の橋」であって、歩行者も自動車も通っていた。

が…1990年代に水害で5つの中の2つが壊れてしまったのだ…結局、江戸時代とは川の諸条件が変わっているため、水害時の水が「考え難い程」な状態になってしまったのであろう…そこで残った橋に関しては、現代の普通の橋梁に換えたのだが、石橋は大切に保存することにしたのだ…

そういう経緯で<石橋記念公園>が登場している。県が管理する公園で、石橋の建設に関して紹介する、入場無料の資料館も在って、これが面白かった。ビデオと模型で、アーチを組み合わせた独特な型の石橋を建設する過程を紹介している。これに関しては、伝えられる江戸時代の工法も参照しながら、公園用地内に再建工事をやっている訳なので、現代の利器を使って作業している部分は在るであろうが、「実証実験済み」の工法紹介なので面白い。

3つの石橋が公園の域内に在るが、最も有名なモノは<西田橋>であった。島津侯自身を含む「家中の人々」が上方や江戸などの他地域へ出る際に通る街道に通じる場所に在ったもので、入口に門―時代劇に出て来る大名や旗本の屋敷に在りそうな感じのモノ―が設けられ、通行が管理されていたそうだ。公園内ではその門も再現されている。

この<西田橋>…背景に桜島が見える位置に在って、これがなかなかに美しい景観なのだが…この日は空模様の関係か「近景に橋が在り、遠景に大きな山…何処かの銭湯の壁??」という按配にも見えた…

夕刻から夜…鹿児島市役所近くの“ライトアップ”を少し眺めて愉しみ、屋台村に立ち寄ったのだった…

こうして過ぎた日曜日だったが…「翌朝は早起き…」の思惑と、動き回ったために「何時までも若くはない!!」と身体が休息を求めたためにゆっくりと休んだ…

↓とりあえず整理した12月16日の画…
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12月17日の月曜日…北上を開始した…

早朝…鹿児島中央駅から“始発”となる宮崎神宮行に乗った。何となく「ローカルな列車」という風の車内でうとうとするなどしていたが…都城辺りから通勤・通学―或いは通学の方が多かったかもしれない…―の客で込み合い始め、車内の様子は変わった…

宮崎駅に着いてみると…当初は、私と一緒に列車に乗っていた人達等で賑やかな感じだったが…何時の間にか、駅の中等は静かな感じになっていた…

宮崎からは日南線で飫肥を往復した。飫肥は小規模な地方の城下町の趣を良く伝えていると言われているのだが…なかなかに面白かった。飫肥に封じられた伊東家は“近世城郭”の様式で飫肥城を整備したというが、大手門から入る城跡の感じに、なかなかに味わいが在った…

飫肥に着くまでに、天候が好くなっていたのだが…陽射しが少し強まり、飫肥では汗をかいてしまったので上着を脱いだ…「温かい」を通り越した感だった…

飫肥では…パソコンを開いてネット接続し、JR九州のサービスを…北海道でも、主要駅間を特急列車で往来する際の往復割引の切符が在る。九州にも似たような感じのモノが在るようだが…JR九州では“ネット予約”をすると、その「“往復割引”を半分にした程度の額」で片道切符も購入出来るというサービスを展開している。<九州ネットきっぷ>というが、これを利用してみたのだ!!

<九州ネットきっぷ>のことを知り、予め“会員登録”は済ませてあった…ということで、南宮崎・大分の列車を押さえた。簡単に出来る…指定駅の窓口で、予約の際の番号を伝え、登録したカードを示すと発券されるようになっているのだ。南宮崎でその手続きを行った…

南宮崎から大分までは<九州ネットきっぷ>を利用して、特急<にちりん>で移動した…流石に…途中に居眠りもしていた…何時の間にか日が落ちて、車窓は真っ暗だった場面が多かったのだが…

どうしたものか、列車はやや遅れた。乗り継ぐ訳でもないので、余り気にならない範囲だが…

降り立った大分駅…新しい!!手近な所で言うなら…旭川駅のような按配だろうか?高架が成って、色々と工事中の箇所も在るようだ…地図に在った「駅前の大友宗麟銅像」というもの…暗かったことも在るが、何処なのか全然判らなかった…南宮崎のドーナツ店で珈琲を啜りながらネットで視付けたホテル…銅像を目印にしていたつもりではあったので、一瞬「困った??」とも思ったが…意外にアッサリ場所が判り、ホテルで休む態勢に入った…

↓今日の移動である…
05:39 鹿児島中央 - 08:10 宮崎
09:09 宮崎 - 10:22 飫肥
13:02 飫肥 - 14:08 南宮崎
16:32 南宮崎 - 19:39 大分 (特急 にちりん22号)

鹿児島中央・大分間…332.2km在るそうだ…南宮崎・飫肥間が39.8km…往復で79.6km…これに南宮崎・宮崎の少しの距離が加わるのだが…概ね380kmの移動である…

鹿児島中央・大分間…稚内・札幌間より近い…県境を2つも越えているのに…

明日はどんな按配になるのか?

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とりあえず…

日付が変わってしまいそうだが…写真の整理をしながら夜を過ごしている…

今日のキーアイテムは「一日乗車券」…市電、市バス、シティービューを駆使し、またかなり歩いて鹿児島を愉しんだ!!「かごっまふるさと屋台村」にも寄った…

名残は惜しいが…明日は早朝から北上する…

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運行日誌(2012.12.15)

時に酷い吹雪にも見舞われるような状況になっている稚内から、雪とは縁が薄い南九州へ入った訳だが…今日のキーフレーズは「この雨にやられて♪」だった…

眠れぬ夜を天王寺の“休憩所”で過ごした後、天王寺駅が最寄である四天王寺を訪ねてみた…

四天王寺は、聖徳太子の時代に起源を持つとされるような由緒正しき寺院だが、建物を眺めるべく構内に立ち入ることに関しては「何時でも通り抜け可能」な状況である。日の出の辺りとなる午前7時頃を目掛けて歩き始めたのだった…

当初は文字どおりの“小雨”だったが…四天王寺に着いた辺りで降り方が強まった…かなり濡れた…カメラも使い悪い…

雨から退避すべく天王寺駅の地下通路に入った…そこで気付いた…馴染んでいる“御堂筋線”が通っている…“赤”で示される地下鉄…これで新大阪駅に出ることが出来る…

ICOCAを使ってホームに入った…やって来た中津行きに飛び乗り、中津で千里中央行きに乗り換えて、あっという間に新大阪駅だ…

新大阪駅で考えた…出発前の思惑に沿って、新幹線で九州に乗り込むことにした…<みずほ>が出る!!多少ゆとりも持って、弁当などを買い込んで乗り込んだ…

熊本に着いてみれば雨は降っていない…熊本も路面電車が活躍する街だ…熊本駅前を出た電車は、左右に何度も曲がりながら、熊本城・市役所前の停留所に辿り着いた…

熊本城…加藤清正公の創建になる豪壮な城で、後に肥後を所領とした細川家の本拠地となり、明治期には“鎮台”と呼ばれた軍の拠点が設置され、反政府軍事行動に及んだ西郷軍がここで戦闘を行っている…

こういう史跡なのだが…熊本城が一味違うのは、“400年”を記念して「本丸御殿」を見事に再建していることだ…城では天守閣や櫓というような建物が最も目立つが、そういう建物は非常時に利用するもので…大名が暮らしていたり、賓客を迎えたり、家中の人達が仕事をする場は“御殿”なのだ。

そうした素晴らしい史跡!!ここに寄ったのだが…着いた時は曇天で雨は降っていなかった…見事な石垣が組まれ、「かの西郷軍の将兵は、こんな凄い場所に“勝てる”と信じて乗り込んだのだろうが…これはなかなか大変だ…」と見上げていると…雨が降り始めた…そして雨は勢いを増した…

見事な“御殿”―大所帯の家中で何かをやる場合に必要な厨房から、加藤清正がかの豊臣秀吉の遺児・秀頼を迎える密かな意図で作らせた可能性さえ考えられる豪華な部屋等が在る…―を興味深く見学し、大変に貴重な創建当時の様子を伝える宇土櫓も好かったのだが…雨脚が強く、動けない…ここでも更に濡れた…

かなり濡れながら…また電車で熊本駅に引揚げた…駅構内のカフェに陣取って考えた…「鹿児島に今日、明日の宿を取り、少し休もう…」とである…以前に旭川で利用したことが在ったチェーンのホテルが在り、比較的安価で、“楽天ポイント”を駆使すると半額同然で滞在出来る訳で…鹿児島中央駅に程近いホテルをネットで予約した…

熊本・鹿児島間の移動…「九州独自!!」の800系新幹線に乗車出来た!!!鉄道車輌が好きな方なので、何か気持ちが弾んだ…

かなり濡れていたが、ホテルにコインランドリーが在ることが判り、直ぐに利用しようとしたが…その前に空腹を満たしたかった…午前中の弁当だけでは明朝まで持たない…

訪ねてみたのは…鹿児島中央駅から徒歩圏内に今年4月に登場したという「かごっまふるさと屋台村」である。これが愉しく、美味しかった!!別途紹介記事を起こす…

愉しい一時から戻り、ホテルのコインランドリーを利用した…お蔭で明日からも元気に動き回ることが出来る…明日用に、路面電車や“シティービュー”のバス等が仕える“一日券”も確りと用意しておいた…明日は晴天の予報らしいが…

↓「この雨にやられて♪」の12月15日の様子…
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運行日誌(2012.12.14-15)

天王寺駅近隣の“休憩所”に入り、夜を明かす…

深夜の徒然に、持ち込んだパソコンで撮影したばかりの画を駆使してHDR画を創り、「かなり高速?」と見受けられる“休憩所”の回線を駆使し、早速に画を公開した…

↓12月14日の様子である…
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丸一日の移動で「文字どおりの“異郷”」に紛れ込んでしまったというのが偽らざる率直な感想だ…

(日付も変わっているので)“昨日”ということになった12月14日の移動を振り返る…

10:51 稚内 - 14:04 名寄
14:35 名寄 - 16:03 旭川
16:35 旭川 - 17:50 札幌 (特急<スーパーカムイ>)
18:10 札幌 - 18:46 新千歳空港
20:20 新千歳空港 - 22:35 関西空港 (SKY908)
22:52 関西空港 - 23:35 天王寺

思い付いて“加速装置”として別途に「乗車券+特急券」を旭川で求めた<スーパーカムイ>と、事前に航空券を用意した部分以外は<青春18きっぷ>を利用した…

関西空港で“快速”の列車に乗り、「天王寺は存外に近い…」と思いながらぼんやりとしていたが…「何故23時台に、こんなに乗客が…」等と思い始めた…稚内ではそんな時間帯は…一部の飲み屋で人の出入りが見受けられるだけで、通行人に出くわすことさえ稀で、公共交通機関はタクシーを除いて動いていない時間帯である…大阪圏は巨大だ…

天王寺…実は初めて立ち寄った…何やら整備工事が進んでいて、更に夜遅くで暗いので、辺りの様子が判らないが…それでも車輌と人の通行量の多さには驚くばかりだ…

札幌から大阪まではスカイマーク航空を始めて利用した。「機内の飲み物」は全て有料であるが、搭乗時の手続きの感じなどは従前の航空会社の雰囲気…話題の“ローコストキャリアー”(LCC)と従前の航空会社の「中間?」という感じがした。券の価格は安価であり、前者に似ているが、その他は後者のような雰囲気である。

飛行機に乗ったのは…3月にサハリンを訪ねた時以来だ…有料だったので100円を支払って求めた珈琲を啜りながら、出掛ける時に何となく選んだ赤いシャツを着ている自分の姿が暗い窓に写るのを見せられて、自分の姿の隙間から外の様子を伺っていた…確か「札幌・大阪」の空路は日本海上空を巡った筈だが…厚めな雲の上を飛んだのか、真っ暗な時間帯が長かった…翼の端にランプが点っていて、その光が私の席からはよく見えた…関西空港が近付き、飛行機が高度を下げると…雨水が窓を叩くようになった…降り立った大阪…雨交じりで10℃程度であった…0℃を挟む辺りの場所から来ると温かい…列車で天王寺に到着した辺りでは、雨は降っていなかった…

暗い空を見詰めながら思っていたのは…道標が在るでもない夜空を、迷わずに飛行機が目的地へ向かうのが不思議であるということだ…確か…第2次大戦辺りでは、航空機が飛躍的に発展し、夜間の航空作戦が盛んになって行った…そんな時代の夜間飛行…操縦士や乗員の技量を頼むという要素が強かったであろう…また、妙に仰々しいレーダー装置を積んでいた“夜間戦闘機”というようなものも見受けられた…そういう時代から半世紀以上を経て、「鞄一つ」のような身軽さで、珈琲を啜りながら、何の心配もなく一民間人が飛行機で移動出来るようになった訳だ…

最近の航空会社は、整備効率を上げるために運航する際の機材を統一する傾向だが…スカイマーク航空は「B737-800」という機種を使用している。左右両側に3列シートがずらりと並んだ内装で、177人乗りらしい…今日、私が利用した便はかなり空いていたが…“B737”が示すように、かなり長く親しまれている機種ではあるが、“-800”はその「最新版」とのことである…

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ここから先は?思案しながら先へ進むというのが愉しい…

運行日誌(2012.12.14)

「待ち望んでいた日」の朝を迎えたが、存外に淡々としたものである。全く「何時もの朝」だ。単に“休暇”ということで、多少ゆっくりしているに過ぎない…

何か「大切な用事」が在るでもなく、「出掛ける」こと自体が“目的”で出掛ける。気持ちが弾むことは禁じ得ない…

始発の列車の車中に在ったのであれば、音威子府周辺に至っていたであろう時間帯に至って、依然として拙宅で悠然としていたが、これも細かい私用を足すためである。前年も、更にその以前にも何度も利用した、稚内駅を10時51分に発つ列車を利用することを計画した。

一寸戸外へ出た…曇天ではあるが、風は微弱で雪も降っていない…善い日だ!!淡々と用事を足す。途中、知人に出くわした。「お休み?」「そう…」「何処かへお出掛け?」「何処かへ…」というシュールなやり取り…

用事が足りて、最後に稚内駅へ…<青春18きっぷ>を求めた。稚内駅では“赤券”等と呼ばれる、旧いタイプの活版印刷の<青春18きっぷ>が売られていたのだが…それが無くなってしまっていた…全国各地の利用者と同様、窓口の端末に在る機械で印字される代物になっていた…それを求め、嬉々として帰宅…

帰宅してやったこと…ジーンズを穿き替えた…2009年頃からだったと思うが…何処かへ出掛ける場面では、ダークインディゴの501を着用することが多い。今回もそれにした。何時の間にか、存外に年季が入った代物になっているが…靴も、出掛ける場面で多く登場する赤いモノに…

一息入れて、忘れ物が無いか確かめ、荷物を持って出る…切符や財布等以外は、忘れたなら「それはその時…」なモノばかりかもしれないが…遠くを何処かの陣営の選挙カーが行く音が聞こえる…“期日前投票”は昨日の間に済ませた…

列車は順調に名寄に至り…乗り換えた列車も旭川に順調に到着した…名寄辺りの雪の多さに驚いた…

旭川から先…今日は新千歳空港へ足を伸ばす都合が在り…“加速装置”…「<青春18きっぷ>とは別に乗車券と特急券を求める」という手段で、旭川・札幌間を<スーパーカムイ>で移動した…また、車中で駅弁も頂いた…

札幌から先の新千歳空港までは、多少到着が遅れたが、私の旅程に何ら影響は無い…新千歳空港では…初めて利用する“スカイマーク”の機で関西空港に向かう…

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