連載:『稚内の過去・現在・未来を結ぶサハリン』―その7

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サハリンは、稚内にとって「"過去"(むかし)、"現在"(いま)、そして"未来"(あした)を繋ぐ存在」であることに想いを巡らさずには居られない…

この「"過去"(むかし)、"現在"(いま)、そして"未来"(あした)」という表現だが、これを思い付いた切っ掛けは「最近のサハリンの様子を見た」という経験が在ったからに他ならない。サハリンでは、"日本時代"のような、或いは"ソ連時代のような"旧いものと、最近登場したようなものが混在し、そこに将来の躍進を意図したような資源関係企業のビルやら真新しい商業施設やホテルが散在するような状態が見受けられる。"ソ連時代"を通じて老朽化した社会資本も、資源開発の余禄のようなもので改善が図られて、明日を目指して再生している様子も見受けられる。こういうように、「"過去"(むかし)、"現在"(いま)、そして"未来"(あした)」が"同居"しているのである。

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サハリンに関して、最近の写真を御覧頂けるようにしてある。

↓2008年5月・10月に撮影のサハリンの様子を下記リンクから御覧頂くことが出来る。

Reise:Sakhalin island, Russia in MAY 2008

Reise:Sakhalin island, Russia in OCT 2008

↑上記リンクを開くと、写真が並んでいる。

その写真で気になったものをクリックしていただくと、“アルバム”風に纏まったものが出て来て、各写真を愉しんでいただける仕掛だ。

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稚内にあって、サハリンの"存在感"或いは、"意識"というようなものは、永い間然程変わっていなかったと思われるが、最近十数年間には随分と雰囲気も変わっているように感じられる。

大雑把に考える…

永い間、"サハリン"というものは「稚内から島影を望む」という、地域を紹介する枕詞のようなものであったり、公園の記念碑等を介して伝えられる史実の舞台であるというようなことで、その存在感や意識に大きな動きがない状態が続いていたように思われる。一部、漁業関係でサハリン近海というものが意識されていたり、そこで色々な出来事もあったのであろうが、ある程度限られた範囲の人達の中に止まる話しのような気がする。

1990年代に入ると、「カニ船」という用語が人口に膾炙していたように思う。「サハリン辺りからの船が蟹を稚内に持ち込んでいる」というのが目立つようになっていた時期だ。

そしてその「カニ船」が増えるに連れ、「上陸船員は!!?」というイメージも拡がった。更に、その時期には稚内で"座礁事故"も何件か発生し、「カニ船」に関して「何やってんだ!?」というようなイメージも在ったように思う。(余談ながら、各地の外国船座礁事故で"後始末"が問題になっていたが、稚内では船主との交渉を重ね、地元の負担も一部生じたものの、"後始末"は無事に済ませている。)

「カニ船」という用語が人口に膾炙し、「上陸船員は!!?」というイメージも拡がった他方、次第に「彼らのお金」というようなことにも一定の耳目が集まるようになった。国外仕様家電(*日本は100V電圧だが、ロシア等外国では220Vの電圧の場合があるので、それに合わせた電化製品が要る。)を販売する店も登場し、ロシアの輸出入規則の変化のお陰で既に下火になって久しいが、彼ら向けの中古車販売が賑わった時期もあったのだ。

2000年代に入り、様々な事情でサハリン辺りから稚内へやって来る船も減り、上陸船員も当然減った。それでも「上陸船員は!!?」というイメージは存外根強いかもしれない。他方、「以前見掛けた、訳の判らんようなのは、実は極々少数なことに気付いた…」という感じ方になっている人達も多少増えているような感じもする。

サハリンも1990年代以降の様子の変化で、多少豊かになって来た。

こういう按配になると、「日本へ行って○○を買おう!!」とか「一寸変わった場所へ…」という考え方になる人達も登場し、そういう人達の層も時間と共に拡大する。

稚内はサハリンのコルサコフとの間を結ぶフェリーが発着する場所である。このフェリー航路の旅客輸送の経過を見てみる。数の増減にも目が向くのだが、寧ろその"構成"に目を向けるべきであるように思う。

1995年、稚内・コルサコフ航路が"開設"となった。「稚内からの目線」であれば、"開設"と言うよりも「海峡に航路が帰って来た!!」という想いが在り、寧ろ"復活"に類する表現が1995年辺りにも好まれていたような気がするが…

航路はその後、使用船舶の問題で一時"チャーター便"という扱いになり、1999年以降は東日本海フェリー(※現ハートランドフェリー)の<アインス宗谷>が登場し、今日に至っている。

当初、この航路の旅客と言えば「交流行事や視察等の日本人」が圧倒的多数であった。やがて「商用」という人達も一定数現れたが、それでも「日本人」が多数派である状態が続いた。しかし2006年に初めて、サハリンのロシア人が圧倒的多数だが、「外国人」が過半数を占めた。そして2008年に至ると…「のべ5千人の乗客が居て、3,500人がロシア人」というような状態になったのである。

「日本へ行って○○を買おう!!」とか「一寸変わった場所へ…」というサハリンの人達が増えていることが上記状況の最大の要因であろうが、日本人の現象に関しては、一時はブームの様相さえ感じられた"交流"が多少下火なことや「急激なビジネス需要で料金が高騰してしまったホテル料金がなかなか下がらないので"ツアー"を用意し難い」というようなことがあるのであろう。

というような変遷であろうか…





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連載:『稚内の過去・現在・未来を結ぶサハリン』―その6

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サハリンは、稚内にとって「"過去"(むかし)、"現在"(いま)、そして"未来"(あした)を繋ぐ存在」であることに想いを巡らさずには居られない…"現在"に近いことを話題にしていた…

「ポストソ連」というような時代に入った辺りからの話しである…サハリンの場合、「新しい経済の確立」に向けて、2つの大きな要素が在った…

その1つである"水産"に関しては、既に詳しく論じてみた。

もう一つに触れる。"資源"である…

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最近「サハリンから"ロシア史上初"となる液化天然ガス(LNG)の出荷が始まった」ということがニュースになった。サハリンは石油や天然ガスを産出する地域なのである。

資源の開発は、「そこに資源が在りそうだから…」というだけでは進められない面がある。技術的に、試掘や本格的な採掘が出来る場所で、採掘したものを輸送する手段を何とか出来、そして資源の市況などに鑑みて「投下した莫大な資金を回収可能と見受けられる」ということでもなければ、着手は出来ない。

サハリンの大陸棚に資源が眠っているという話しは、随分と以前からあったようだ。しかしサハリンのオホーツク海側は、概ね半年も流氷に閉ざされてしまう。(このサハリンの流氷が拡がったり、流れたりで北海道までやって来るのである…)

この氷海で資源調査を行って、更に本格採掘を継続することは、永く「技術的に困難」とされていた。また「半年動き難い」場所では「事業の採算性?」とも考えられていた。そしてサハリンの沖合いのオホーツク海は、「冷戦の海」という色彩も濃く、資源を調査して採掘するというような営みを行い難いという事情まで加わった。

こうした状況も、先ず1990年代になって「冷戦終結」というようなことになり、ロシアが資本や技術を方々から導入して資源開発に着手することにも積極的になっていたことで"前進"することとなった。

それでも「氷海での活動」という問題は残った。困難なら、活動を休めばそれで構わないのかもしれないが、問題なのは「活動の為に設ける掘削リグ等を押し寄せる氷から如何にして護るのか」ということである。

この辺に関しては、"北海油田"で関係企業の間にノウハウが蓄積されていた。欧州の北の方で海底油田が手掛けられているが、開発は年代が進むに連れて試掘や本格採掘の場所を北へ進めた。北へ進めると「冬季の氷の影響」という課題はどうしても出て来る。それへの対応技術が工夫されていた訳である。更に北海油田の他、アラスカでも各関係企業は経験を積んでいた…

また、石油は昔よりも確実に高くなっており、新興国の成長というような需要が減らない要素も在るので、"採算性"に関する検討もクリアしたのである…

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ということで、サハリンでは1990年代から資源開発が本格的に始まった。サハリン周辺を一定の区域で区切り、9つの開発区域を設けた。各区域に関しては<サハリン1>、<サハリン2>…というように呼んでいる。

1から9の中、<サハリン1>、<サハリン2>は早くから着手され、採掘された石油の早いものは既に1999年頃から売り出され始めている。3から9の各区域に関しては、「これから…」のようだ。

<サハリン2>は、現時点では「最も日本と関係が深い」ものとなっている。この<サハリン2>では、「採掘される天然ガスを、サハリンを縦断するパイプラインで、サハリン南部のコルサコフ近郊にあるプリゴロドノエという所の工場に送り込み、液化天然ガス(LNG)にして専用船に積込み、方々の買い手に送り届ける」というのが事業計画の大きな位置を占めている。この「LNGの方々の買い手」の6割を占めるのが、日本の需要家である。所謂"太平洋ベルト地帯"の大都市圏を中心に、サハリンからのLNGは都市ガスのやガスタービン発電に利用されるのである。

石油の方だが、こちらは海が氷で閉ざされない期間を利用し、海上に設けたタンクからタンカーに積込んで買い手に供給していた。これに関して<サハリン2>では上述の天然ガスパイプラインと並行して石油用パイプラインを設け、プリゴロドノエのタンクに貯めて、アニワ湾を航行するタンカーに積込む施設も用意した。これにより、年間の殆どの期間を通じて石油を出荷することも出来るようになった。

プリゴロドノエのLNG工場は、年間960万トンを生産可能で、「日本向け」が6割を占めるそうだ。年間のべ数160隻の専用船を工場手前の海に設けた施設で迎え入れて出荷する。これまで、日本の需要を満たすLNGは中東諸国や東南アジアから2週間、3週間という期間で輸送されていた。が、サハリンからなら、東京まででも3日程度ということになる。これは石油も同様である。この輸送期間短縮は画期的だ。

サハリンでの資源開発の話しだが、採掘される資源自体は方々に売られるという話しで、サハリンそのものに何かをもたらすというのでもないかもしれない。が、開発関係の工事や、それらを円滑に行うために関連する社会資本を整備するなど、"経済効果"をもたらす様々なものがサハリンに発生する。そうしたものを受けて、サハリンの住民の所得向上や消費拡大という状態も生まれ、そういう中で住宅や商業施設等の整備も進む。何か「産油国の王様が、砂漠の真中にプールの在る豪邸を構える」というような状況こそ地元に在る訳でもないが、それでも"資源"がサハリンの「新しい経済の確立」に寄与していることに変わりはない。

このサハリンでの"資源"から発生した動きだが、稚内でも「対岸のお話し」(=余り関係ない)ということでもない。

サハリンで開発関係の、或いは関連して発生した社会資本整備の工事、更に様々な建築工事が在ることにより、稚内港で物流が発生しているのである。また、人々の所得が向上して「次の休暇に日本旅行!!」という層が出来、またそれが拡大していることで「稚内に外国人旅行者が…」という現象も見受けられるようになっている。

というように、"水産"や"資源"というような要素で、サハリンにもこの十数年で「新しい経済の確立」に向けた色々な経緯があった訳である。

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ここで話題にしているサハリンに関して、最近の写真を御覧頂けるようにしてある。

↓2008年5月・10月に撮影のサハリンの様子を下記リンクから御覧頂くことが出来る。

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連載:『稚内の過去・現在・未来を結ぶサハリン』―その5

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サハリンは、稚内にとって「"過去"(むかし)、"現在"(いま)、そして"未来"(あした)を繋ぐ存在」であることに想いを巡らさずには居られない…ということで「現在に近い」過去の話題を取上げていたが、話しはいよいよ"現在"に近付いてくる。

ロシアでは、「ソ連の計画経済」が「とりあえず放棄」された。「その後」が不透明な状態が続いた。新しく"ロシア連邦"と名乗って、新しい(と言っても赤旗以前への"復旧"だが…)旗を掲げてはみたものの「ポストソ連の時期にある社会」とでも呼ぶ他無い状況だった。

こうした中で、これまで大活躍していた工場等が「無用の長物」のようになってしまい、そういう工場のようなものの関係者が多く暮らしているような地方の都市は困ってしまった…サハリンもそういう例に漏れない…

サハリンの場合、「新しい経済の確立」に向けて、2つの大きな要素が在った…

その1つが"水産"である…

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サハリンの人達は、サハリン州を国内他地域や外国人に紹介する場合、「島々から構成されるサハリン州」という表現を好んで用いるように思う。ロシアでは"陸地"というものは「=大陸」であり、大小様々な島々を"州"という括りにしている例は、サハリン位しか思い浮かばない。“島々”というのは「地域の個性」の最たるものなのである。

“島々”というのは、どういうことだろう?「海に開かれている」ことに他ならない。海の恵みを利用し、人やモノの輸送手段として船舶を活用出来る、ということである。

サハリンでは、俄かに「世界中から海産物を買い集めている隣国」に脚光が当てられることになった。「サハリンの海産物を日本へ売ろう!!」という訳である。

ここで数字を挙げておく…

1985年 31 隻
1986年 27 隻
1987年 29 隻
1988年 54 隻
1989年 90 隻
1990年 237 隻
1991年 376 隻
1992年 983 隻
1993年 1,325 隻
1994年 2,126 隻
1995年 2,547 隻
1996年 2,924 隻
1997年 4,294 隻
1998年 3,609 隻

↑これは、「稚内港に入港した外航船」の数である。税関の資料なので、貨物の積降のような、税関関係の手続を行った隻数ということになる。

1987年頃までの稚内港は、税関関係の手続を行う船が年間30隻前後だった。「1ヶ月に3隻入るか入らないか…入港ゼロの月も在り得る」という水準である。

1988年から1991年頃は、未だ「ソ連時代」だが「国外に売ることが出来るものを売る」ということが盛んになり始め、サハリンの船が稚内港へ“売り物”を持って来るようになった。「街で上陸船員を散見するようになった…」という時期であった。

1992年には、突然のように入港数が「対前年比で倍増」ということになった。「サハリンの海産物を日本へ売ろう!!」という動きが力強くなって行ったのだ。“新しい国”たるロシアが、ソ連時代末期の混迷を何とか抜け出そうとしていた時期が始まっている。稚内でも「ロシア船…多いね…」という雰囲気になってきた時期であった。

やがて「サハリンの海産物を日本へ売ろう!!」の動きが加速し、年間に3千隻前後という水準の入港が見受けられるようになる。土日曜日と祝日を除いた、税関が手続を行う日は年間250日程度だ。最も外航船の入港が多かった1997年などは、単純な平均で「毎日17隻」という数である。これは後から振り返ると“ピーク”という型なのだが、90年代末辺りには単純な平均で「毎日10隻」というような外航船の入港が続いていた。

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「一日平均10隻の外航船が入港」というのはどういう状態であろう?

日本と外国との間と往来する船舶や航空機の外国人乗員は、補給や休息のために日本に上陸することが出来る。これを“特例上陸”という。これは、乗員としての身分を示す書類を提出して手続を行うもので、一般的な外国旅行で御馴染みなパスポートを用いるものとは若干扱いが異なるものである。

成田空港や関西空港のような、外国航空会社の飛行機が多く発着する国際空港を利用して国外旅行をした経験が在る方なら・・・「日本に帰って来た…」とパスポートを手に手続のために入管のブースで並んでいて、脇の方の別な通路から外国人のパイロットや客室乗務員がすうっとターミナル側に出て行く場面を御記憶かもしれない。あれが“特例上陸”である。稚内港の船の場合は、船の入港に関連する諸手続を請負う海事代理店が入管とやり取りして、船員達の“特例上陸”の手続を行っている。

この特例上陸だが…船によって乗員の数は当然異なるが、小さな船で少なめな場合でも、10名前後は乗り組んでいる。「一日平均10隻の外航船が入港」ということは「殆ど毎日、100名前後の外国人船員が"特例上陸"している」という話しになる。こういう按配になると「街で上陸船員を毎日のように沢山見掛ける…」ということになる。

実際、その殆どがサハリン等のロシア人である上陸船員は、「殆ど毎日、100名前後の外国人船員が"特例上陸"している」という話しになっていた時期、年間延べ数で3万人から7万人(!)という夥しい数に上った。これは稚内に住んでいる人口に比肩するか、それを凌駕する数字である。

セブンアンドワイ

余所から稚内へ来たという、御旅行中の方に尋ねられたことがある。「何故、稚内の街にはロシア人しか歩いていないのでしょうか?」とである…

正直なところ言葉に詰まったが、ロシア人船員は港から街へ用足しに出るのに歩いて行く。他方、地元住民は「ドアからドア」の間隔で自家用車で動き回っている。何処へ行くにも、何より先に駐車場の心配をする…従って、歩道で歩行者を見掛けると「ロシア人ばかり?」に見えてしまうのだと思われるが…

こういうような状態になって来ると…「激烈な勢いで増えた、稚内を通過する外国人とどう向き合うか?」という“かなり深いテーマ”というようなものも見えてくるような状況になった。

申し上げ難いが…非常に数多かった上陸船員の中に、「摩擦」を起こしてしまう人達も混じっていたのは事実である。「摩擦」という表現にしたが、中には「とんでもない!!」も確かに在った…だが、圧倒的多数派は「普通な人々」である…

しかし…「摩擦を起こしてしまう人達」が少しばかり居たということにより、「ロシア人はそういうもの!!」という空気が稚内市内には立ち込めていた時期があったと思う…

ロシア人船員のような人達は、稚内市内の人達の圧倒的多数にとっては、“異人種”で「言葉が通じない」かもしれない。が、所詮人間には「善い人・悪い人」とか、もう少々突っ込んでみると「気が合う・気が合わない」程度の差しかないのではないか?場合によっては「利益になる・利益にならない」というようなことも混じるかもしれないが…「言葉が通じる」同国人であろうと、用事が無かった場合等は、別段に親しく話す訳でもないのだから、放っておけば良い…しかし…というような言説は随分と耳にした…

デル株式会社

「殆ど毎日、100名前後の外国人船員が"特例上陸"している」という話しであった時期、ある人が言っていた…

「ロシア人が多いという話し…実際凄く多いけど…私の仕事は建物の設備に関係するもので、船の人達と何ら関係は無いと思うし…ロシア人…関係ないね…」とである。

これは「一寸待ってください…」という話しである…

例示した「建物の設備に関係」というような仕事の場合、確かに「船関係者との取引・接触」は皆無かもしれない。が、船関係の仕事をしている場所で「うちの○○が手狭になったので増築」とか「うちの設備をそろそろ更新」というような話しが、「船関係で収益を挙げていて資金が出来た」ことを背景にして発生したとしたら如何であろうか?「建物の設備に関係」の仕事が「間接的に船の関係で発生」と言えるのではないだろうか?

例えば「サハリン辺りからの船が沢山入るようになったが…」というようなことを論じる際、実はここで例示した「建物の設備に関係というような仕事」のような、「間接的に仕事が発生」という話しが意外に重要である。こういうものが、所謂「経済効果」と称するものである。

年間延べ数で、稚内に住んでいる人口に比肩するか、それを凌駕する数の上陸船員が見受けられる、という状態…こうなると船の積荷の取引、それらの荷役、何処かへの輸送、地元での売買に関して資金が動くことはハッキリしている。更に、船員達は買物や飲食を行う。買物や飲食で動き回る際にタクシーも利用する。これらの全ての仕事が忙しくなれば、雇用が発生する。“雇用”というのは、この例の場合はタクシー会社で運転手の募集をするとか、多少忙しくなった店でアルバイトを募集するとか、そういうものまで全て含めている。また、事業所等の設備更新等も発生する。関連の仕事で資金が貯まったという話しにでもなれば、事業の拡大や多角化を志向する所も出て来るかもしれない…というように波及が拡がる。これが「経済効果」と称するものだ。

この「経済効果」については、「勘定のやり方」次第で幅が出る性質のものである。色々な見方があるのかもしれないが、間違いなく言えるのは、「“経済効果”と言えるものが生じる状況が在れば、“うちは100%関係在りません”と言い切ることの出来る事業所や個人がどんどん少なくなる」ということである。

この“水産”に関することだが、最近は稚内の様子も少々変わっている。近年は往時の「凄い…」状態ではなくなっている。

「ロシアからの激烈な輸出増」の中には「規制の網」を潜ったものも混じっているなどしたため、次第に「取り締まり」という動きも出て来た。また日本の各地で「外国からの事故船が片付かない」というような状態も多々見受けられたことから、外航船の入港に関して、日本の側で規制を強化した経過もあった。更に、ロシアからの海産物の輸出も「商売」である以上、好不況もあって近年は不況で扱いが減っているということがある。そればかりか、「稚内港に揚げる」のと「他の港に揚げる」際の競争で、「稚内より余所」という傾向になっていると見受けられる面もある。という色々な要素で、「稚内港に夥しい量のロシアの海産物が…」という話しは、「半ば過去」という感じになっている…

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ここで話題にしているサハリンに関して、最近の写真を御覧頂けるようにしてある。

↓2008年5月・10月に撮影のサハリンの様子を下記リンクから御覧頂くことが出来る。

Reise:Sakhalin island, Russia in MAY 2008

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↑上記リンクを開くと、写真が並んでいる。

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連載:『稚内の過去・現在・未来を結ぶサハリン』―その4

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サハリンは、稚内にとって「"過去"(むかし)、"現在"(いま)、そして"未来"(あした)を繋ぐ存在」であることに想いを巡らさずには居られない…ということで、やや遠めな過去、少し近めな過去の話題を展開してきた。ここで「現在に近い」過去の話題を…

1985年のゴルバチョフ政権下、ソ連は"様変わり"した。精確を期すと、「公になっていなかった様々な問題」が露呈してしまうようになっていたと表現しなければならない面もあったかもしれない…

日本統治下の時代、サハリンには、例えば製紙会社が積極的に進出していた。林産資源が豊富なサハリンは、紙の材料になるチップを用意するのに都合が好かった。製紙会社が工場を続々と建設し、関係者が周囲の街に賑わいをもたらした面もあった。製紙会社が関与して、例えば医療機関のような、街の公的サービスが整備されていた場合さえもあったらしい。言わば"企業城下町"である…

ソ連の体制下で、この製紙工場は"財産"だった。ソ連の紙の需要を満たすべく、サハリンの製紙工場が作る用紙は「計画経済」に組み入れられた。かなり永い間、製紙工場は用紙を生産し続けた。そして用紙はソ連全土の方々に送り込まれて利用されたという。

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「ソ連の計画経済」…これは今や完全な"歴史用語"かもしれない。どのようなものなのだろうか?

非常に大雑把に言ってしまうと…人々の生活や産業活動に必要となる様々なモノについて、「全土の需要量」と「全土の生産可能量」が設定され、生産可能な場所に"ノルマ"が課せられて生産が行われ、出来上がったものも予め決めてあるように配当するのである。

サハリンの製紙工場で生産される用紙は、この計画経済の枠組みの中に在った。これはどういうことか?「サハリンの紙需要」と無関係に「全土の紙需要」に基づいて割り出されたようなノルマをどんどんこなし、出来上がった用紙はモスクワ辺り…サハリンから見れば、地球の反対のような場所にまで配られていたのである。

サハリンの製紙工場が生産する用紙を例えにしたが、日用品、食料品、産業資材等々、あらゆるものがこんな調子だった…時間が経つに連れて、こういうやり方には"歪んだ結果"が伴うようになった…例えば「沢山の部品が必要な機器」を生産するような場面でもこんな調子であった。最終的な組立を行う場所に集められる部品が、「全土の需要」というような実に大雑把な計画の下に方々で生産され、思うように最終的に組上げられた製品が出来ないような按配になっていたのである…

結局のところ…「ソ連の計画経済」というものは「計画経済の"枠"の中で、ありとあらゆる経済活動が悉く"自己完結"」という考え方で営まれた体制なのである。生産されるモノを動かす手間や経費を半ば度外視して、「需要に見合った生産をしています!!」と言い続けるようなものかもしれない。

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ゴルバチョフ政権の下では、永年蓄積してしまった"歪んだ結果"を何とかしようとしていた。当然、一朝一夕にどうにか出来るものでもない。

そこに大事件だ!!チェルノブイリ原発の事故である…異常な放射性物質が発見されたこと、衛星による地上の観測など、国外でその異変が察知され、色々な国々から「突き上げを受ける」かのような状態で、ソ連は事故に関して世界中に公表した。

こうした事故はやや極端な話しかもしれないが…もうソ連は「計画経済の"枠"の中で、ありとあらゆる経済活動が悉く"自己完結"」という訳にも行かないということが明らかになった。情報や、資金や、モノや…あらゆる活動というものは"自己完結"など出来ないのだ…

チェルノブイリ原発事故の時期以降の経過について、ここでは仔細は省かせて頂くが…やがて所謂"東欧"の民主化が在り、1991年中にバルト三国がソ連から抜けて独立し、年末にはソ連が旗を降ろし、"連邦加盟国"だった「12の国々」が新たな独立国となった。その12の国々の一つがロシアである。

ロシアでは、「ソ連の計画経済」が「とりあえず放棄」された。「その後」が不透明な状態が続いた。新しく"ロシア連邦"と名乗って、新しい(と言っても赤旗以前への"復旧"だが…)旗を掲げてはみたものの「ポストソ連の時期にある社会」とでも呼ぶ他無い状況だった。

何もサハリンばかりでもないが、地方は殊更に困った。例えばサハリンの製紙工場…ノルマに従って用紙を生産すると、それがソ連全土に送り込まれた。が、新しい体制では自力で販路を拡大しなければならない。そして、輸送の時間や経費という、余所では当り前だったものが突然出て来る…

例えば、モスクワやサンクトペテルブルグのような、ウラル山脈の向こうの大都市では…新聞社が印刷に使う用紙を仕入れようとした場合、「何時着くの?」というようなサハリンからの用紙を仕入れるよりも、フィンランド辺りの製紙会社から輸入した方が早い。そして安いし、質も問題は無い。

少し余談になるが…モスクワからフィンランドのヘルシンキへは、列車が出ている。丁度、札幌・上野の夜行列車のような時間で移動可能だ。ヘルシンキとサンクトペテルブルグとの間は、列車の移動時間だけを考えれば、概ね稚内・札幌間のようなものだ。

話しを戻す…モスクワやサンクトペテルブルグのような都市にある、例えば新聞社のような用紙の需要家は、フィンランドから取寄せるのなら、例えば「明後日までに…」、「了解です!!」で注文と納品は済む。実にスピーディーだ。他方、サハリンが相手なら…サハリンから大陸へ一晩…遥々シベリア鉄道で一週間…途中何度も停車して、貨車を各地に振り分ける作業などもあり、真っ直ぐ進む訳でもないので、更に時間が掛かる…そんなものを待っている間に、需要家は「紙が無い!!」という話しになるだろうし、それを避けようとすれば、過大な量の紙を抱え込むことになって手間が掛かる…

こういう状態になると、サハリンの製紙工場は最早「用無し!!」となってしまう…何百万、何千万という人達のために用紙を生産し続けた工場が、一転して無用化してしまう…地元でさえも、需要家は自在に何処からでも用紙を仕入れることが出来るようになった以上、工場の生産する用紙を必ずしも頼みにする必要が無くなってしまったのだから…

セブンアンドワイ

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連載:『稚内の過去・現在・未来を結ぶサハリン』―その3

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サハリンは、稚内にとって「"過去"(むかし)、"現在"(いま)、そして"未来"(あした)を繋ぐ存在」であることに想いを巡らさずには居られない。

19世紀の初めの方に遡り、稚内辺りが注目されたのは、サハリンの南岸をも含めた、当時の人達が活動していた場所でのロシア船との摩擦が切っ掛けであった。

その後時代が下り、所謂"幕末"と呼ばれた時代にも、稚内辺りには人の出入りがあったが、稚内がもっと本格的に脚光を浴びるには、20世紀を待たなければならない…

1904年から1905年の日露戦争の後、"ポーツマス条約"で日本は"南樺太"を手にした。北海道では明治期以降、開拓が本格化している。産業が興され、都市、道路網、鉄道網の建設が進められ発展し始めていたが、これらと合わせて「樺太の開拓」にも勢力が注がれることとなったのだ。

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ここまで"サハリン"と言って来たので、呼称を"サハリン"に一本化させて頂くが…

サハリンへの物資輸送、旅客輸送に関して、当初は「当時の北海道で最も物流が盛ん」であったと言われる小樽港が、「北海道側の中継拠点」の役目を担った…当時の輸送船の速力等を思うと、小樽・大泊(今日のコルサコフ)または真岡(今日のホルムスク)間は、時間も掛かる。航海距離が長くなれば、荒天による危険な目にも遭い易くなってしまったりもする…そんな時、1911年に「稚内・大泊(今日のコルサコフ)」という季節運航航路が試行され、「良いじゃないか!!」という話しになるという出来事が在った…

北海道内で進んでいた鉄道網建設、港湾整備という流れの中、稚内は「サハリンと北海道とを結ぶ場所」として"重要性"が取り沙汰されるようになっていた。天北線(1989年に廃止…)や宗谷線(現在も名寄、旭川、更に札幌までの列車が活躍している…)と鉄道も相次いで稚内へ延び、同時にサハリンの港とを結ぶ航路も開設された。

往時の稚内からサハリンへ向かう航路は、二系統在った。稚内と大泊(おおどまり)(今日のコルサコフ)とを結ぶ「稚泊航路(ちはくこうろ)」と、本斗(ほんと)(今日のネベリスク)とを結ぶ「稚斗航路(ちとこうろ)」である。こうした航路が輸送の上で活躍し、最大事には50万人弱になったという住民等の往来や、産業を支える物資輸送を1945年まで支え続けていた。

1945年以降…稚内は「サハリンが見える」場所であることに変わりはなかった―地理的な位置は変えようもない…―が、そのサハリンは「簡単に渡航出来ない」ということになってしまった。

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サハリンはソ連の統治下で、半世紀に近い時間を過ごした。

ソ連では、賃金の割増を行ったり、年金支給年齢を引き下げる(例えば、「60歳から支給」と決まっている年金について「55歳から!」ということにしてしまう…)などの"優遇"で、「人手が必要な後発地域に労働力を集める」という取組をしていたらしいが、サハリンはそういう施策の対象地域であったようだ。

また、嘗てソ連では大学や職業系の教育機関等で高等教育を受けた者(技術系が中心だったらしいが…)に関しては、当該の教育機関が卒業生を「求められる地域に送り込む」というようなこともあったらしい。サハリンにもそういう人が多かったようだ。実際、何かで著名な方の経歴が紹介されているようなものを偶々見ると、その「求められる地域に送り込む」でサハリンに住むようになって活躍されている方も見受けられる。

これらの様々な施策で、サハリンにはソ連全土の色々な人達が流入したり、或いは流出したりという様子が続いた。そして、ソ連の計画経済の体制下で国の生産活動の一部を担い続けていた。

サハリンでは、上述のような経緯で人の出入りはあった他方、「ビジネスや観光で、一定数の人々が積極的に他地域との間を往来」という様子では無かったようだ。

サハリンは“国境地域”である。ソ連軍は、色々な国に在る陸海空軍の他、戦略ロケット軍(ミサイルの管理、有事には使用することを専らとする…)と、“国境警備軍”と称して、他の陸海空軍と異なる指揮系統の下に置かれた戦力が在ったらしい。サハリンは、その“国境警備軍”関係の施設が多く存在したという。よって、他の地域の人達等が盛んに出入りするのが好まれなかった面もあるのであろう。

1985年のゴルバチョフ政権下、ソ連は"様変わり"した。精確を期すと、「公になっていなかった様々な問題」が露呈してしまうようになっていたと表現しなければならない面もあったかもしれない…

セブンアンドワイ

ここで話題にしているサハリンに関して、最近の写真を御覧頂けるようにしてある。

↓2008年5月・10月に撮影のサハリンの様子を下記リンクから御覧頂くことが出来る。

Reise:Sakhalin island, Russia in MAY 2008

Reise:Sakhalin island, Russia in OCT 2008

↑上記リンクを開くと、写真が並んでいる。

その写真で気になったものをクリックしていただくと、“アルバム”風に纏まったものが出て来て、各写真を愉しんでいただける仕掛だ。

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連載:『稚内の過去・現在・未来を結ぶサハリン』―その2

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「サハリンはどういう感じ?」とでも問われれば…

"過去"(むかし)、"現在"(いま)、そして"未来"(あした)が同居する"不思議"な世界…

↑こういうのが私流の回答になるであろうか?





サハリンは「"過去"(むかし)、"現在"(いま)、そして"未来"(あした)が同居する"不思議"な世界」という考えを抱くに至った切っ掛けは、最近の訪問の故である…

↓2008年5月・10月に撮影のサハリンの様子を下記リンクから御覧頂くことが出来る。

Reise:Sakhalin island, Russia in MAY 2008

Reise:Sakhalin island, Russia in OCT 2008

↑上記リンクを開くと、写真が並んでいる。

その写真で気になったものをクリックしていただくと、“アルバム”風に纏まったものが出て来て、各写真を愉しんでいただける仕掛だ。





サハリンというのは、如何に「稚内から近い」と言ってみても、「外国であるロシア連邦の極々小さな地方」に過ぎず、その情報も多くはないかもしれない。或いは、「日本の中での稚内」の位置以上に、サハリンはロシアではマイナーなのかもしれない。

そんなサハリンだが、稚内にとって「"過去"(むかし)、"現在"(いま)、そして"未来"(あした)を繋ぐ存在」であることに想いを巡らさずには居られない。

稚内を含め、北海道では旧く「沿岸部を船で往来し、沿岸に村を築いて漁業や交易を展開」という生き方をする人達が居た。そういう人達は、"宗谷場所"と呼び習わされる村を築いた。

現在も住所は"宗谷"ということになるであろうが、稚内から出発するとオホーツク海沿岸地域へ南下するコースになる国道238号線を行き、稚内空港辺りを過ぎて、宗谷岬へ向かう途中、宗谷漁協の事務所や稚内市の支所が設けられている周辺が"宗谷場所"ということになる。この辺りには、17世紀頃までに村が成立していたようだ。

現在の稚内港の辺りが港として活用され始めたのは少し遅い。1780年代の"天明年間"に、稚内港の辺りが漁業や海産物等の輸送に用いられたという記録があるらしい。

1780年代というのはどういう時代であったのか?

この時代は大雑把に言ってしまえば、欧州諸国が方々に侵出して時間も経ち、北米のように進出した先で競い合うような状況が生じていたような頃で、ロシアのように欧州では"後発グループ"な国も方々に出ていた頃ということになる。ロシアは"極東"に出て来て、オホーツク海や太平洋の北側、更にアラスカ方面で動き回っていた。

こういう状況の中でアメリカが独立し、フランス革命も起こっていて、世界は動いていた。有名な漫画に、フランス革命の時代を背景にした『ベルサイユのばら』があり、その中に国王ルイ16世という人物が出て来る。このルイ16世国王は、フランス海軍の増強を図り、国外植民地の経営などを強化することを目論見、ラペル―ズに今日の仏領ポリネシア方面を調査するように命じた。それを受けたラペル―ズは、世界周航の船旅に出る。その際、彼の船団は宗谷海峡を通過し、周辺の地誌が欧州に紹介されることとなった。結果、外国では"宗谷海峡"ではなく"ラペルーズ海峡"と呼ばれることとなったのだが…

他方ロシアはこの頃、活発化する極東での活動の中で、日本の港へのロシア船寄港(補給活動)や日本との交易を求めていた。ロシアに漂着した大黒屋光太夫を日本へ連れてくるというようなこともして、何度も来航して運動したが、当時の日本では幕府が"鎖国"を原則としていたため、そうした努力は悉く徒労に終始した…

1806年になると、寄港や交易を求めても埒が明かないと、ロシア船が北海道、サハリン、千島列島で日本人らの集落を襲撃するという事態が発生してしまった。これは放置する訳にもいかない…幕府は奥州(東北地方)の諸侯に"北方警固"ということで出兵を命じた。大勢の武士が北海道へ渡って来た…

1808年、この"北方警固"という使命を帯びて、会津松平家中の武士達が宗谷にやって来た。一部は利尻島へ、更に別な一部はサハリンへ、という具合に展開した。彼らは数ヶ月の滞在で、結局「場合によっては戦う…」覚悟であったロシア船と出くわすでもなく引揚げたが、慣れない風土や栄養状態の関係で弱って亡くなった例や、移動中の荒天による事故で亡くなった例もあったようだ…

稚内辺りが歴史に登場するような場面で、既にサハリンとの関りのようなものがあるのである…当時の状況…「必ずしも幸福ではなかった日本とロシアとの出会い」という時期である…

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連載:『稚内の過去・現在・未来を結ぶサハリン』―その1

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サハリン…宗谷岬、稚内公園など、稚内市内には条件(晴れ渡っていて、海の水蒸気が薄いような状態)が整っているとサハリンの島影が見える場所が在る。

北海道の北端部ということになる宗谷岬から、サハリンの南端部であるクリリオン岬までの距離は43km程である。

43kmとはどの程度の距離か?過日、大きなマラソン大会でお笑い芸人が出場してエライ目に遭ったという話しが伝えられたが、フルマラソンは42.195km…この43kmにやや近い…

街の道路は、時速40kmとか50kmが制限速度の場所が多い。"43km"というのは「車で一時間前後の距離」ということだろうか…

利用した経験のある鉄道などを思い浮かべ、少し調べてみた。「あそこから、あそこは?」と一寸思い浮かんだ区間は、最近は列車の速度が向上しているお陰もあって、あっという間に43kmを超えて50kmや100km近くになってしまう…

「43kmに近いか…」と思えた区間を下記に挙げてみる。

稚内・豊富 間(JR):43.5km (稚内から旭川や札幌へ南下する特急列車が、南稚内駅を出て最初に停まるのが豊富…)
札幌・千歳 間(JR):41km (札幌から新千歳空港へ向かう列車で、空港の手前で停まる千歳市内の駅が千歳…)
札幌・岩見沢 間(JR):40.6km (稚内から札幌へ特急列車で向かうと、終点の札幌の一つ前に停車するのが岩見沢…)
東京・大船 間(JR):46.5km (鎌倉・横須賀方面を何度か訪ねた際に大船を通過したことがある…)
上野・取手 間(JR):39.6km (上野・水戸 間の普通列車や特急列車を何度も利用したことがある…)
京都・新大阪 間(JR):39km (関西旅行をした際、関西国際空港・京都間の列車に乗車したことがあった…)

参考:Yahoo!路線情報

他にも色々と考えられるであろうが、読者諸賢におかれては、手近な場所を例に距離を想起していただければと思う。





稚内からサハリンの最短距離はこのように近いが、「北海道の北口」である稚内港も、「サハリンの南口」であるコルサコフ港も、深い湾の奥に立地する港である。従って両港を船で結ぶと、航行距離は158km程度となる。

稚内港とコルサコフ港との間にはフェリーが運航されている。2009年の運航期間は5月から10月である。(スケジュールや料金などは、"ハートランドフェリー"のサイトで…)

このサハリンだが、私自身としては「"日本国旅券"(日本のパスポート)を携えて国境の外に出て、初めて辿り着いた外国」ということになる。それも、何時の間にか随分と旧い話しになってしまった…当時は現行のものよりも大きなパスポートであった記憶がある。

サハリンは、旧くは日本領であったが、今行けば「異国」以外の何物でもない。

日本の先人が、サハリン南部で暮らしていた時代…殊に1905年からの40年間には精力的な活動が在った訳だが、1930年代辺りには、当時としてはなかなかに高度な水準の建造物が各都市に見受けられるようになっていた。サハリンの都市には、そうした建物が一部残っている。往時と同様の目的に使用されているものや、全く別の目的で使用されているもの、或いは使用されていないものも見受けられるが…

サハリンの都市には、そうした日本時代を偲ばせるものの他、「ソ連時代風の建造物」も存外多い。サハリンには、1940年代後半辺りから、どうも1980年代前半位までの間に、ソ連全土から様々な型で人の流入、また流出があったようだ。そういう中、「建設!!」という機運が強くなっていた1950年代から1960年代に集合住宅等が随分建った様子だ。それらが街には存外多い。

近年のサハリンは、少し様子が変わっている。1990年代以降、サハリンでは資源開発が進められている。最近、天然ガスを引き込み、液化して"LNG"として輸出するための施設が始動した。(その施設は、稚内港からコルサコフ港に向かうフェリーの甲板から見える…)というように資源開発がどんどん進み、社会資本の整備が進み、街には新たな施設も多々出現し始めている。

という訳で、サハリンで街を歩くと「"過去"(むかし)、"現在"(いま)、そして"未来"(あした)が同居」しているように見える。"不思議"な世界だ…

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↓2008年5月・10月に撮影のサハリンの様子を下記リンクから御覧頂くことが出来る。

Reise:Sakhalin island, Russia in MAY 2008

Reise:Sakhalin island, Russia in OCT 2008

↑上記リンクを開くと、写真が並んでいる。

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