連載:『ロシア史の一夜漬け』―11 兆候

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爆弾で父を惨殺されたアレクサンドル3世は、国内政治的には祖父ニコライ1世の路線を踏襲し、「不穏分子」を弾圧した。また、産業の育成に尽力した。

対外政策の面では、「欧州の憲兵」としての存在感はすっかり失いながらも、欧州各国が取っていたアジアなどへの侵出路線を採用しようとしていた。

個人的な面では、「良き父親」たろうと心を砕いたと伝わっている。

国内政策と対外政策の接点となったのは、「極東」である。「国力」強化のため、内陸の輸送を担う鉄道建設に力を注いだロシアであったが、アレクサンドル3世の下でシベリア鉄道が起工した。

起工し、やがて開通するシベリア鉄道で結ばれる極東、殊に中国東北部に利権を求めた。

この辺りからは、積極的であるか消極的であるかを問わず、我が国もロシアとの「関係」が大きくなってくる。日本もまた、朝鮮半島や中国東北部に利権を求めていた。両者に「競争関係」が生じた。

シベリア鉄道の起工式が行われることとなった時、アレクサンドル3世は、皇太子ニコライを極東に遣わした。

この時ニコライは、日本に立ち寄った。大黒屋光太夫の昔から接点を求め続け、ペリーが江戸幕府と条約を締結したのに乗じて「関係」を築いたロシアの要人としては、初めての来日だった…

このニコライの訪日だが、惨憺たるものになってしまった。「大津事件」である。朝鮮半島や中国東北部で睨み合うロシアの皇太子が、のこのこと日本の地にやって来たのが許せないと、京都から大津に立ち寄ったニコライに向かって、地元の巡査が日本刀で襲いかかったのだった。

ニコライの生命に別状は無かったが、彼は日本刀の傷と悪夢を抱えて「大帝の都」へ引き上げて行った…

ロシア国内に目を転じると、工業化で成果を挙げ、農産物の輸出で成功した反面、農民や労働者は抑圧され、体制への不満を募らせた。法制度の整備なども進み、「職業法律家」というもの-弁護士など-も登場していた。こうした知識人達の中には、後の革命と結びつく思想も広まっていたし、革命運動の母胎となる政党も結成されつつあった。

19世紀も末になり、アレクサンドル3世が世を去ると、皇太子ニコライはニコライ2世となり、革命の兆候を孕みながら、ロマノフ朝を20世紀へ持ち越した…





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連載:『ロシア史の一夜漬け』―10 羊飼いと羊

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アレクサンドル1世が逝去した後、2人の弟の何れが帝位を継ぐのかで少々揉め、「空位」の時期が二十数日間あった。事件はこの間隙に起因した。

ナポレオンを追撃する戦いで欧州の気風に触れたことなどが切っ掛けとなり、貴族出身の青年将校達は、西欧風立憲君主政治を確立するなどの改革を志すグループを結成するようになった。

様々なグループが、様々な派生型を考えていたが、憲法を制定して改革を断行しようとする志は共通していた。

逝去したアレクサンドル1世には2人の弟が居た。

直ぐ下のコンスタンチンは、帝位を辞退したため、末弟のニコライが帝位を継ぐことになった。「コンスタンチン派」と「ニコライ派」との綱引きもあったらしい。

この経過で「空位」の時期が二十数日間発生した。

ニコライの即位確定の報に、青年将校達は動揺した。

「コンスタンチンはリベラルな人物なので、立憲運動は結実するかもしれない。しかしニコライではダメだ。彼は保守派である。待て!!兄弟の順序から言っても、コンスタンチンが帝位を継ぐべきなのではないか。」

彼らはこう考えたのである…

事件発生の時期に因み、「十二月党」(デカブリスト)と呼ばれることとなった青年将校達は、憲法を制定しつつ、コンスタンチンを擁立するクーデターを画策した。

これがニコライの聴くところとなった…

青年将校達は兵卒を従えて集結した。

「ウラー ザ コンスティトゥーツィヤー!」(憲法万歳!)と青年将校。

「ウラー ザ コンスタンチーン!」(コンスタンチン万歳!)と兵卒。

両者は似ているようで違うスローガンを叫んでいた。青年将校達の思いは、兵卒達には全く理解されていない。

この頃ともなれば、大帝の時代以来の文化導入も進み、教育程度は向上していたのだが、向上していたのは貴族達だけで、平民は18世紀以前と大差がなかった。「偉大な男」が何処にも負けないように、と種を蒔き、「偉大な女」が耕したものというのは、「この程度」だったのである。兵卒の頭の中には「憲法」という語彙は存在しなかった…

この時代の兵卒達は、農村から動員を掛けられた者達だったのである。

ニコライはクーデターの首謀者達をあっさりと捕らえ、厳重に処罰した。

ニコライ1世の治世は、このように弾圧から幕を開けたが、弾圧に終始してしまった。国内の不満分子は言うに及ばず、友好国の反乱事件に際しても軍隊を派遣して弾圧を支援した。

このようにして「欧州の憲兵」を自認するようになって行った…

「欧州の憲兵」はアレクサンドル2世によって引き継がれた。

アレクサンドル2世は、挫折から路線変更を強いられた皇帝として記憶される。そして最期は悲惨なものだった…

ロシアは、巨大な帝国となっていたが、この時代になっても紛争や衝突は絶えなかった。

欧州各国は、「産業革命」を経て「国力」を高め、果敢に海外侵出をしていたのが19世紀である。ロシアは中近東と欧州を結ぶ、交通の要所である黒海付近で、各国と衝突し、「国力」の問題に気付き、「欧州の憲兵」としての矜持を揺るがせてしまう。

後に「クリミア戦争」と呼ばれる戦いで、ロシアは英国に敗れてしまう。

「ロシアは巨大過ぎた。」とはよく言われる。今でもそうだが…

豊かな資源を利用しようにも、輸送が困難で、実質的には無いのと一緒である。川を利用した水運などは、冬になると川が凍結して使えない。そして、工業化に向けた労働力も、当時で1億人と伝えられる人口を抱えていながらままならない。何故なら、人口の90%程の人達が、土地に縛り付けられ、移動の自由が認められない「農奴」と呼ばれた農民だったためである。工場に働きに行くような話しにはならない…

ナポレオンを誅した粘り強さも、19世紀も折り返し地点を過ぎたこの頃になると、すっかり「過去の栄光」という話しになっていたのだ。

アレクサンドル2世は、「国力」を向上させるため、「農奴」が労働力として動けるようにして行かなければならないと考え、「農奴解放令」を発布した。

アレクサンドル2世は、この「農奴解放令」に因んで「解放皇帝」と呼ばれている。

アレクサンドル2世は「解放」の大英断をしたのだが、内容はお粗末なものだった。耕作出来る土地は、農奴時代よりも減少した農民達は、益々貧しくなってしまった。実勢取引価格よりも不当に高い「解放補償金」が農民に課せられることにもなった。これは一生かかって支払う高額なローンのような型になった。

アレクサンドル2世自身も、彼の下で働く官僚達も、「農奴」と土地を所有する人達への配慮のようなものばかりして、農村の実態に疎かったためにこうした状況が発生したのである。

「ウラー ザ コンスティトゥーツィヤー!」(憲法万歳!)と青年将校。「ウラー ザ コンスタンチーン!」(コンスタンチン万歳!)と兵卒。という話しを挙げたが、改革を志す人達は、「人民不在」を反省してか、「ヴ ナロード!」人民の中へをスローガンに、農村での啓蒙活動を展開していた。

彼らの見た「解放」は、失望以外の何物ももたらさなかった…そして「行動」に走る者達が出現した…

「良き羊飼いは羊に生涯を捧げる。羊を貪る狼は惨殺される。」

アレクサンドル2世は、爆弾で馬車もろともに吹き飛ばされた。

「羊飼い」たるツァーリは、「羊」たる人民を御しきれなくなりつつあった。「欧州の憲兵」という矜持は、アレクサンドル2世もろとも、爆弾で吹き飛ばされてしまった…





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連載:『ロシア史の一夜漬け』―9 戦争と平和

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君主を否定したフランス革命を恨めしく思いながら、「偉大な女」が世を去った後、フランスではナポレオンが皇帝に即位した。

ナポレオンは戴冠式で、自らの手で冠を掴み取ったという挿話が伝えられているが、これを聴いたベートーベンが「ナポレオンに捧ぐ」という献辞の入った交響曲『英雄』の楽譜を引きちぎったという挿話も伝わっている。

このような、半ば伝説化した話しも数多く伝わるナポレオンだが、彼を栄光から引きずり降ろしたのは、他ならぬロシアである。また、ロシアもナポレオンには振り回された。

「偉大な女」の後継者となったのはパーヴェルだった。欧州はナポレオンに揺さぶられている頃だった。ロシアは英国やオーストリアなどと共にフランスに対抗しようとしたが、「天才」ナポレオンの優位を見るやパーヴェルは「余は気が変わった」とばかりに「天才」のフランスと同盟を結んでしまう。「天才」は平和をもたらすと信じたのであろう。

しかし平和は訪れない。ロシアは「天才」を支援しつつ、フランスに対抗する勢力との抗争に踏み込む。抗争のさなか、病没とも毒殺とも言われるが、パーヴェルが世を去り、アレクサンドル1世が後継者となった。後述するが、アレクサンドル1世は比較的若く世を去ってしまったので、彼の生涯は「天才」との戦いに全てが捧げられたという感だった。

フランスを支援しての戦いでは、看過し得ない損失を被ったため、アレクサンドル1世は独自の戦いを展開する。永年の仇敵スウェーデンとの戦いに勝利し、彼らが約600年間支配していたフィンランドを属国にしてしまう。

モスクワやサンクトペテルブルグから、フィンランドの首都であるヘルシンキへは、列車で簡単に訪れることが出来る。この鉄路の礎は、ロシアの支配下にあった時代に築かれた。スウェーデンから切り離されたフィンランドは「フィンランド大公国」となったが、君主であるフィンランド大公とはロシア皇帝その人であった…

余談になるが、フィンランドに少し触れる。

ヘルシンキの博物館を訪ねると、『双頭の鷲』の紋章が刻まれた、豪華な赤い布張りの椅子が見られる。これが「フィンランド大公の玉座」ということになる。『双頭の鷲』は、ロシア皇帝の紋章である。

ヘルシンキがフィンランドの首都となったのは、実はこのロシアの支配下にあった大公国時代からである。「大帝の都」からの往来の便を考え、ヘルシンキに行政機関を集めたのである。

ヘルシンキ以前には、フィンランド湾をもう少し西へ進んだバルト海への出口に中たるトゥルクに、スウェーデン王国による支配拠点が置かれていた。

こうした経過から、バルト海沿岸部やヘルシンキのような大きな街には、スウェーデン語系住民が今日でも住んでいる。人口の1割程になるという。

アニメにもなった有名な『ムーミン』だが、フィンランドのスウェーデン語系の女性が原作者であるということは、存外有名な筈である。

フィンランドでは、現在、フィンランド語とスウェーデン語が公用語ということになっている。スウェーデン語の方は、「ゲルマン語系」で、もう少し平易な言い方をすればドイツ語の親戚である。文字で書いたものなどの見た目も少し似ている。他方、フィンランド語の方は、独自の系列である。文字は、我々も知っているアルファベットであるが、若干、文字の上に点を付したものなども混ざっている。

ヘルシンキでは、フィンランド語とスウェーデン語とを並べた看板も目に飛び込んでくる。何処かの国のように、片方は大きな文字で他方が小さな文字ということはない。両方書いてある場合は、同じ大きさだった。ヘルシンキ以外では、こうした例は稀であるという話しである。

話題をアレクサンドル1世の戦いに戻す。

彼は北ばかりではなく、南でも戦いを進めた。トルコやペルシャと戦ったのである。

アレクサンドル1世のロシアは、彼らを打ち破り、重要拠点を版図に組み入れた。殊にペルシャから奪取したバクーは重要だった。当時はアメリカのテキサスに次ぐ、世界第2位の油田であったからだ。

バクーについてだが、私は訪ねたことがない。承知している範囲で触れるが、現在はアゼルバイジャン共和国の首都である。現在でも、アレクサンドル1世が奪取した当時同様、石油産業或いは石油関連産業を抱えている。

アゼルバイジャンは、後述することにも関連するが、ロシア革命の後、ソビエト社会主義共和国連邦が成立すると、その連邦を構成する共和国という型で組み入れられた。ソ連が旗を降ろした後は、独立したアゼルバイジャン共和国となった。

アゼルバイジャンは、民族的にはイランに近い。東京などではイラン人が随分居た時期も在ったというが、容貌的には似ている。

アレクサンドル1世のロシアは「天才」ナポレオンとの同盟関係で、抗争を要領良くかわしながら、北に南に進撃し、大きな利益を得た。

しかし、欧州の殆どを手中に収めたナポレオンは、ロシアに食指を動かし始めた…

この時代まで、欧州各国の軍隊というものは、王侯貴族の「私兵」という色彩が強いものだった。王侯貴族の私財で養われていたような型である。

これも当然といえば当然だったのである。王侯貴族には、領地、領民、収穫、それらに関連する諸々の権利が全て付随していたのだから…

少し補足する。王侯貴族には「○○を領有する侯爵」とか「○○を領有する伯爵」、「○○王」などのタイトルがついていたが、タイトルには領地や領民や収穫、それらを巡る諸々の権利が全て付随していた。これが意味するのは、タイトルを保持している人が逝去すると、妻、夫、子ども達などがそれを相続する。運が良ければ、一人の王侯貴族の手中に、沢山のタイトルが集まる。領民がフランス人だろうが、ドイツ人だろうが、ポーランド人だろうが、オランダ人だろうが、そんなものは一切顧みられない。彼らは一様に「領主○○様の領民」である。領主が武力抗争を行う場合も、「領主○○様の軍隊」が出動するのである。また、そういうケースでは「領主○○様」自身も陣頭に立つことが多かった。

こういう訳だから「○○王にして、○○侯爵、○○伯爵、○○伯爵」というタイトルを沢山持つ人物も大勢居た。通常は「一番格上」と見られるタイトルで称されていたようだが。

こうした状況に対し、フランスでは国王を処刑してしまった…「フランス王の領民」が「フランスに住む人々」、つまり「フランス人」になった瞬間である。

こうなってしまうと、周辺諸国との利害対立が武力衝突に及ぶようなケースでは、「領主○○様」の利害対立ではなく、「フランス人」の利害対立という図式になり、「領主○○様の軍隊」ではなく「フランス人の軍隊」が出動する。

ここに「○○に住む人達の国」という「国民国家」が誕生した。これは私たちが知っている「国」の姿だが、これが登場したのは18世紀の末なのである。

「国民国家」が出動させる軍隊は、「国民の軍隊」ということになる。「領主○○様」が私財を擲って動員するのとは比べものにならない兵力を投入できる。

「天才」ナポレオンは、「国民国家の独裁者」として、文字通りに自らの手で冠をもぎ取って「フランス皇帝」に即位したのだった。

「国民国家の独裁者」たる「天才」は、「国民の軍隊」という大兵力を率いて自らも陣頭に立ち、ロシアに挑みかかった。彼の軍事的な優位だが、簡単には覆されない。

ロシア軍を率いた、「隻眼の勇将」クトゥーゾフ元帥は、巨体を揺さぶり、「無念の惜敗!」を連呼しながら後退を余儀なくされる。

「古のツァーリの宮殿よ!」と感嘆の声を上げながら、「天才」はクレムリンに入り、彼の軍隊はモスクワを占拠した。

「大帝の都」で連戦連敗の報に苛立つアレクサンドル1世に吉報を届けようと、「隻眼の勇将」クトゥーゾフ元帥は「地の利」を活かした最後の反撃を試みる。

戦乱を怖れて人々が逃げ出し、物資も乏しくなったモスクワに大火災が発生した。炎に包まれたモスクワで、乏しい物資に頭を抱えていた「天才」の軍隊は、戦闘力を著しく低下させた。

「隻眼の勇将」クトゥーゾフ元帥は、「とどめを刺す!」とばかりにモスクワ郊外のボロディノで勝利し、厳寒のロシアを敗走する「天才」の軍隊を追撃し、とうとうパリまで追跡し、この戦いに勝利した。

ロシアでは、この戦いを「祖国戦争」と呼んでいる。また、厳しい冬が不利だったロシア軍に味方したことに因み「冬将軍」などという言葉も登場した…

更に加えれば、この「祖国戦争」と呼ばれることになる戦いを背景にした大河ドラマがレフ・トルストイの名作『戦争と平和』である。

後のロシアを考えると、この戦いについては、パリまでの追撃に参加した貴族出身の若い士官達が、欧州の様々なものを自ら体験したという要素の影響が、激戦の末に当時は欧州最強と謳われた軍隊を追いつめたことよりも大きな影響があったのかもしれない。

この敗戦の後、栄光の座を滑り落ち、ナポレオンが「過去の人」に追いやられた後、アレクサンドル1世は、「跳ね上がったナポレオンを誅した第一の功労者」然として国際政治の舞台で活躍の場を求める。

「会議は踊る」という表現がある。遅々として案件処理が進まない場合などに用いられるが、実はこの時代に端を発する表現である。

「ポスト・ナポレオンの欧州」をどのようにするのか、ロシアも含めた各国代表団がオーストリアのウィーンに集って会議を催した。

この会議は、開催国の事務局のような立場で、「事務局長」たるハプスブルグの宰相メッテルニヒが仕切ったと言われる。複雑な利害が絡む会議は、踊った。会議そのものばかりか、ウィーンに集った各国代表団などの関係者も、連日連夜の舞踏会で踊った。

先程「国民国家」以前の欧州の様子に少し触れたのは、この部分でハプスブルグのオーストリアが登場するからである。

ハプスブルグは、各地の有力者との縁組み、相続で版図を拡げ、影響力を拡大した歴史を有している。ユニークな国かもしれない。

ハプスブルグは、軍事力で領域を拡大した訳ではない。ハプスブルグの軍隊は、必ずしも強力ではなかった。何故なら、ハプスブルグの勢力圏は様々な言語が入り乱れる欧州の真ん中であったため、ドイツ語を話す総司令官の下に、ハンガリー語やチェコ語やクロアチア語を話す将兵が集うような有様だったのである。「全軍進撃!」と叫んでも、進撃開始までに何度通訳しなければならないか判ったものではない。

こうした「戦う以前」の問題が大きかった。

ウィーン会議の結果、フランスが占拠して様々な形態で支配下に置いた国々が独立国になるなどの動きが見られたが、何れもプロイセンやロシアなどの「勢力圏」というような扱いを受けた。

国際政治に心を砕き、戦争と平和の時代を生きた「偉大な女」の孫アレクサンドル1世が世を去ると、ロシアは苦難の時代を迎える。





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連載:『ロシア史の一夜漬け』―8 もう一人の大帝

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「偉大な男」が世を去った後、妹、息子、息子、娘、娘と帝位は受け継がれて行った。18世紀のロシアでは、女帝が相次いだことになる。

女帝が相次いだこの時代、「偉大な男」に対して、「偉大な女」も登場する。「もう一人の大帝」であるエカテリーナ2世だ。

ロシアの女帝であるエカテリーナ2世は、ロシア人ではない。ドイツ人である。

ピョートル大帝の子ども達で、帝位を継いだ2人目の娘ということになるエリザベータは、甥のピョートルを皇太子に据えた。この皇太子のところへドイツの貴族の娘が嫁いで来た。この娘はゾフィーといった。ウルトラマンの兄ではない…

このピョートル皇太子に嫁いだゾフィーお嬢様が、末はロシアの皇后になるというので、エカテリーナというロシア語の名前を名乗ることになった。

エリザベータの時代になると、「大帝の都」は文化的な雰囲気が溢れるように成熟して来ていた。大帝も草葉の陰で喜んでいたかもしれないが、エリザベータという女性は「イングランドと大陸が陸続きだ」と言い放ったとまで伝えられる程の世間知らずで、1万5千着のドレスを所有していたとも伝わる「気まぐれなおばさん」だった。連日連夜、絢爛なる宴を催していたと伝わっている。

彼女が皇太子に据えたピョートルも、兵隊人形で遊ぶことにだけ夢中で、幼年時代を過ごしたドイツにかぶれた少々おかしな男だった。「プロイセン王の臣下になりたい」などと公の場で公言して、顰蹙を買ったと伝えられる。プロイセンとは、ベルリンに都を据えた国である。

ゾフィーお嬢様改めエカテリーナは、こういう少々風変わりな「身内」に囲まれ、孤独な日々を送ったらしい。人々が羨望の眼差しを注ぐ、「麗しき皇太子妃殿下」であったエカテリーナだったが、変わり者のピョートルとは懇ろになれなかった。ドイツかぶれの夫を横目に、ドイツ人の彼女は将来の「ロシアの皇后」として敬意を払われるよう、ロシア語や正教のことを学ぶなど努力していたという。

着飾って参加する絢爛なる宴に未練を残しながら、エリザベータが世を去ると、皇太子ピョートルはピョートル3世として即位した。

彼の時代も、各地で軍事的な衝突は絶えなかったのだが、プロイセンとの抗争では軍隊に完璧にそっぽを向かれる暴挙に出た。

ロシア軍優勢で戦局が展開していたにも拘わらず、ピョートル3世は「プロイセンに刃向かうのが堪えられない」と一方的な撤退を命じてしまったのだ。渋々引き上げて来た軍隊は、ピョートル3世への不満を募らせた。

エカテリーナは、不満を募らせる軍隊によるクーデターの旗印に担がれた。あるいは「担がれた型」を取ったのかもしれない。帝位を奪取したのである。エカテリーナ2世の誕生である。

エカテリーナ2世は、直訳すると「偉大な女」という意味になる「大帝」というあだ名と共に、多くのものを遺している。

彼女は、フランスの文化人と自ら積極的に交流した。今日のロシア文化の中で、フランス起源のものの多くは、彼女の治世下で導入され、後に花開いたものである。

彼女の遺した最も偉大な遺産の一つは、エルミタージュ美術館である。“エルミタージュ”とはフランス語で「隠れ家」を意味しているという。私自身も一度だけ訪ねたことがあるが、「偉大な女」が蒔いた種が見事に開花している様に瞠目する。

「偉大な女」は、コーカサス地方への侵出にも心を砕いた。黒海方面への出口を求めたのである。武力衝突で話題になったチェチェンなどは、この時代にロシアの版図に組み入れられたものである。

「大動乱」の時代には、「ドミートリーの偽者」を擁してロシアの内乱に軍事介入したポーランドだったが、「偉大な女」の時代、ロシア、オーストリア、プロイセンの三者によって分割の憂き目に遭い、地図から姿を消した…

18世紀も末の方に入った頃、「偉大な女」が驚愕する事態が発生した。「フランス革命」である。

フランスでは、国王のルイ16世が断頭台の露と消えた。「君主」が否定された。「偉大な女」は、フランスと若干距離を置こうとし始めたと伝えられる。

フランス革命については、アニメにもなった人気漫画『ベルサイユのバラ』の背景になっているという程度の馴染み方が最もポピュラーで、遠い外国の昔話なのだが、存外身近に感じられる話しが一つある。

稚内の眼前に、宗谷海峡がある。欧州始め、外国の地図で宗谷海峡を捜しても出ていないのである。

勿論、地球の表面から無くなってしまう筈もないので、場所は指し示すことが出来るが、そこには「ラペルーズ海峡」と記されている。

ラペルーズというのは、フランスの海軍士官で、フランス革命で処刑されたルイ16世の命を受けて、太平洋のほぼ全域を探検した人である。

欧州では、このラペルーズが宗谷海峡を「発見」したことになっていて、「ラペルーズ海峡」と呼び慣わされているのである。

ラペルーズは、フランス南西部の小さな街アルビの出身だが、アルビを訪ねると、市の中心部に大きな銅像が立っている。「郷土を代表する偉人」という扱いである。

稚内と世界史のささやかな接点という話しだった…

「もう一人の大帝」、「偉大な女」エカテリーナ2世が世を去ると、間もなく19世紀がやって来た。





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連載:『ロシア史の一夜漬け』―7 大帝の野望

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スウェーデンと聞いて何を思い浮かべるだろう?スカンジナビアの青空の下にある、森と湖の美しい、明るく開放的で平和な国を思うことであろう。更に、人によっては、福祉分野などの社会政策では最先進国の一つと目されていることや、スポーツでも各競技で存外良い選手を輩出していることや、「セクハラ」という誤解をしないでいただきたいが、ブロンドの北欧美人を思い浮かべるであろう。

このスウェーデンだが、「ロシアの仇敵」の一つであったと言えば、意外に聞こえるだろうか?ある意味では、スウェーデンとのライバル関係が、18世紀のロシアの歴史を造ったのかもしれない。

ミハイル・ロマノフを戴いて、漸く「大動乱」に収まりを付けたロシアは、続く息子のアレクセイの代まで内政の安定に腐心していた。

同じ頃のロシアの西方、欧州では「戦乱の世紀」というような有様だった。現在のドイツでは「三十年戦争」として後に記憶される、ドイツ内外の諸勢力が入り乱れる戦乱が、17世紀前半を覆っていた。

この節の冒頭で挙げたスウェーデンだが、彼らもこの戦争に参加した。

17世紀前半、スウェーデン王グスタフ2世アドルフは、「北方の獅子」などと号してスカンジナビアから南下して欧州の戦乱に積極的に介入した。今日の平和なイメージからは想像し難いが、当時のスウェーデンは、「バルト海の帝国」として版図を拡げていた。

「北方の獅子」ことグスタフ2世アドルフ王の野心が結実したものが、今日の私たちも観ることが出来るのをご存じだろうか。

バルト海とその沿岸で覇を唱えたスウェーデン王国だったが、強力な海軍づくりに腐心した。グスタフ2世アドルフ王は、スウェーデン王国を拓いたとされるヴァーサ王の名を冠した軍艦の建造を下命した。当時のことだから、当然帆船の軍艦ということになるが、全長70m余りの「ヴァーサ号」は、当時の欧州では最大の軍艦という。

グスタフ2世アドルフは、結局ドイツの戦場に赴いて、そこで討ち死にしてしまうのだが、ドイツの戦場から故国スウェーデンに連日のように使いを出して、「ヴァーサ号」建造の進捗状況を報告させたという。

そのグスタフ2世アドルフ王の野心の結実した「ヴァーサ号」が完成し、ストックホルムで盛大に進水式が催される運びとなった。欧州最大の華麗な軍艦の船出ということで、ストックホルムは祝賀ムードが溢れたが、そのムードも15分で吹き飛んだ…

埠頭を離れて15分後、「ヴァーサ号」は沈んでしまったのだ。

この沈んだ「ヴァーサ号」だが、1950年代にストックホルム沖の、沈んだと思われる海底で発見され、スウェーデン海軍の全面的な協力と、世界中からの募金で引き上げられた。バルト海は、地形の関係で塩分濃度が低いため、木造の船体も300年以上腐らずに眠っていたのである。

引き上げられた「ヴァーサ号」は、現在、ストックホルムに設けられた博物館で観ることが出来る。なかなかに見事な代物だ…

話題を少し東のロシアに戻す。

ミハイル、アレクセイの二代、約半世紀にわたって内政の安定が図られたロシアだったが、アレクセイが世を去った後、幼君を擁する有力貴族が競り合う状況が続いた。

その状況を収めながら、ロシアを羽ばたかせようとした男が登場した。ピョートル大帝である。

ピョートル大帝も、「大帝」という呼称のオリジナル版である、直訳すると「偉大な男」という意味になるあだ名と共に、色々な挿話が伝えられる人物である。

この「偉大な男」は、身長2m近い大男で、何にでも好奇心を示す上に、何でも自分で試してみたがり、尊大でプライドが高い人物であったらしい。モスクワでの少年時代は、珍しいものを色々と持っている外国の商人や技術者が住んでいた辺りを頻繁に徘徊していたという挿話が伝わっている。

ピョートル大帝は、内政が安定してくると、外に向けての拡大路線を取り始めた。

青年時代の彼は、西欧へ視察旅行に出掛けた。オランダで「私は修行中の大工だ」と言って造船所に入り、自ら槌を取って船大工の真似事もやったと伝えられる。その旅行から、髪型、髭、衣装と何もかもを「西欧風」にして帰国し、人々を驚かせ、更に周囲の者達にもそうするように強要したという。

これだけなら、単なる「外国かぶれ」だが、「偉大な男」は伊達や酔狂で船大工の真似事をしたのではない。彼の拡大路線は、通商や軍事面で有効活用が叶うバルト海への出口、更にその沿岸部を支配下に収めるという路線であった。そこで、当時欧州随一の海運国であったオランダへ行き、海軍の強化の参考になりそうなことを学ぼうとしたのである。

グスタフ2世アドルフから時代を下っても、スウェーデンはバルト海の帝国であり続けた。ロシアは出口を求めて押し出す方で、スウェーデンはそれを止めようとする。両者は抗争を繰り返した。

17世紀も末になり、ロシアはバルト海への出口を奪いつつあったが、18世紀の冒頭、大帝の野望は型を得ることになる。新しい都の建設と、そこへの遷都である。

モスクワから北方の、フィンランド湾に注ぐネヴァ川の河口付近の沼沢地が、新しい都の建設地に選ばれた。バルト海への出口に、恒久的な軍事上の拠点を築き、そこに政治の中心を移すという構想である。

「偉大な男」は、国中の石造建築の工事を一時棚上げさせ、建築用石材をことごとくかき集めさせ、新しい都を建設させた。

この新しい都には、「偉大な男」の名前が冠せられることになった。「聖なるピョートルの街」、サンクトペテルブルグである…

サンクトペテルブルグは「大帝の都」として誕生した。以降、ロマノフ家の歴代ツァーリはこの都に住むことになった。

プライドが高かった「偉大な男」は、欧州全土の何処よりも立派な都を築こうと腐心した。ドイツやイタリアの建築家を招き、華麗な都市を産み出した。整然と区画整理を行い、ドイツやイタリアを思わせる建物を連ねたのである。輸送の利便性向上のため、市内とネヴァ川を、張り巡らせた運河で結ぶこともした。

運河に浮かぶような景観から、サンクトペテルブルグを称して「北のベニス」などと呼ぶことがある。ベニスとはイタリアのヴェベツィアのことである。私は個人的にこういう呼称が好きではない。

ヴェネツィアにもサンクトペテルブルグにも訪れたことがあるが、「喩え」として美しさを語るにしても、両者が持つ雰囲気は明らかに異なると感じた。サンクトペテルブルグには、ロシアの国威を内外に示そうと躍起になって建設した雰囲気がある。対してヴェネツィアは、経緯があって止むを得ず、半ば水上の立地になり、その後景気の良くなった商人達が華麗な建築物を競って建てたのである。

私はサンクトペテルブルグについて、「大帝の都」というような呼び方が相応しいように思っている。

ドイツ風の建築で街を飾るに止まらず、「偉大な男」は、ドイツの各分野の技術を採り入れることに執心した。この努力の跡だが、今でもロシア語に、殊に軍事関係などの技術用語に、ドイツ語起源の単語や表現が多く遺っている。

ロシアは、「大帝の都」を築いてバルト海方面の出口も確保したが、この時代までには、高価で取り引きされる毛皮を求めて、シベリア方面にも果敢に侵出している。

ロシアは陸地の五分の一弱を領有するような、巨大な国である。そのため、「ロシア語にも方言ってあるんですよね?」という質問を時々耳にする。

この質問に対しては「ニェット」(ノーという意味のロシア語)という答えを用意した方が良いように思う。質問者の多くは、モスクワなどと極東ロシアなどとの間に、関西弁と東北弁との間のような違いがあるのか否かを尋ねていると理解できるからである。そうした意味での方言は無い。

何故ならシベリアや極東のロシア人というものは、16世紀から18世紀頃に侵出した人たちの末裔であったり、仕事の都合で赴任して来ている人達だからである。

言葉に詳しい方からお叱りを受ける前に付け加えるが、ロシア語にも「方言」と言って良いものはある。それは、北部ロシアや南部ロシアでは、発音に癖があるというようなものである。これは「方言」と言うよりも「訛り」と称した方が良いかもしれない。更に加えると、出身地方によって、早口だったり、ゆっくりと喋る癖があったりすることはあるようである。

「偉大な男」は数々の挿話と都を遺して去って行った。





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連載:『ロシア史の一夜漬け』―6 大動乱からロマノフ朝へ

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「嘘から出た真実」という言い方がある。この言い方の由来は知らないが、16世紀後半から17世紀冒頭にかけてのロシアの歴史を見ると、言葉の由来がここにあったような気になってしまう。

ボリス・ゴドノフがツァーリの玉座に収まった時点で、雷帝の子ども達は既に世を去っていたため、リュリーク朝は途絶えた。その中の一人については、雷帝自身が手を下してしまったのだったが。

文字通りの「内憂外患」という背景で、誰が統治者になっても苦労は絶えなかったのだろうが、王朝が途絶えてしまったこととの相乗効果で、「ある噂」がロシアの大地を駆け抜けた。

「雷帝の王子ドミートリーは、何処かに生きている。ボリス・ゴドノフが幽閉して、帝位を簒奪したのだ」という噂である。

実力者ボリス・ゴドノフは、当初は「愚かな!」という具合に、多少気分を害したにしても聞き流したかもしれない。ところが、何時までも毅然とはしていられなくなった。

「私が正当なツァーリである。私はドミートリーだ!」と喧伝する人物が登場してしまった。

我が国でも、将軍の前に「あなたが紀州で産ませた子が私です」という青年が現れて、結局偽物とばれて処罰されたという騒動が伝えられているが、ロシアではそういう“講談ネタ”では済まされない事態に陥った。

「我々はドミートリー陛下に従うぞ!」という輩が大勢現れ、内乱が勃発してしまったのである。正しく「嘘から出た真実」である。

このドミートリーが、本物だったのか偽物だったのか、それを確かめる術は無い。ドミートリーを戴く反乱軍は鎮圧されたが、「あのドミートリーは偽物だ。私が本物のドミートリーだ!」という「偽物の偽物」まで登場し、事態は益々混乱した。

この「第二のドミートリー」だが、ロシアの国内問題では済まない要素が絡んでいた。

ポーランドという国がある。ピアニストで作曲家のショパンの故郷としてご記憶の方が多いと思う。ショパンはドラマチックな人生を歩み、各地を転々としたのだが、彼の名曲の背景には、ロシアも含めた隣接する大国に蹂躙される故国への郷愁があると評されることがある。その所為か、ポーランドは欧州中部の小国というイメージが強い。

しかし、ロシアが「ドミートリーの偽者」に振り回されて大騒ぎをしていた時代、ポーランドは小国ではなかった。ポーランド王は、リトアニア大公を兼務して、一種の連合王国を形成し、今日の版図に止まらない勢いだった。寧ろ大国だったのである。

「大国」ポーランドは、混乱するロシアに食指を動かした。彼らは正々堂々と「第二のドミートリー」を支援した。内乱に軍事介入したのである。

「第二のドミートリー」は、ロシアの国内問題では済まないことになり、事態は悪化した。「第二のドミートリー」を戴く軍勢は、モスクワの間近に迫るなどし、ロシアは未曾有の危機に陥った。

「ドミートリー」に代表される、所謂「僭称者」は限りなく現れ、ポーランドのような周辺の国々による介入などもあり、後に「大動乱」として記憶される時代は続いた。

この混乱に漸く収集が付くことになった。広範な支持が集められるツァーリが漸く選出されたのである。

漸く選出されたのは、雷帝の妻の縁続きに中たるミハイル・ロマノフであった。以後約三百年、ロシアはロマノフ家のツァーリを戴くことになる。

同じ頃、我が極東の島国では、徳川家康が「大坂の陣」で豊臣系勢力を一掃し、江戸幕府の支配体制を固めていた。

「大動乱」は、戦乱による荒廃の他に、ロシアに「無政府状態」や「外国の介入」を怖れる気風をもたらしたのかもしれない。この両者は、裏返すと「自らの指導者への強い帰依」ということになると思われる。

雷帝が優れた後継者を残せなかったことで陥った「大動乱」も漸く正常化した。そして、『双頭の鷲』の紋章は、ロマノフ家が継いだ。





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連載:『ロシア史の一夜漬け』―5 雷帝から大動乱へ

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皇帝や国王という地位に就いた人物に関しては、多くの挿話が伝えられる。実は、周辺に記録をする人が居たというだけなのかもしれないが…それでも、それを題材に映画や小説や戯曲など、数限りないフィクションが編み出される。

直訳すると「恐ろしき者」という意味になるあだ名と共に、数限りないフィクションのネタを提供しているロシアの皇帝が居る。イワン四世、またはイワン雷帝である。

彼の時代、我らが極東の島国では、戦国時代の後期に入り、戦国大名達が「天下盗り」を競っていた。

数限りないフィクションのネタを提供している雷帝だが、彼の所行が、戦国時代と同様かそれ以上に面倒な置き土産を、ロシアの歴史に遺すこととなった。

イワン四世は幼くして帝位を継承した。16世紀のロシアは、外に向けては拡大路線を取って周辺との争いが絶えず、中では有力な貴族達の競り合いが絶えず、大変な状態だった。そこに即位した少年皇帝の周囲は、陰謀の渦巻く世界であった。

陰謀の渦巻く世界で、イワン四世の性格形成に大きな影響を与えたとされる出来事が勃発した。母が陰謀に巻き込まれて毒殺されてしまったのだった。イワン四世が長じてからも、彼の妻が毒殺の憂き目に遭っている。こうしたことの影響か、猜疑心が強く、激しやすい性格になったと伝えられている。

彼は実権争いを続ける有力貴族達との苛烈な抗争に勝ち残り、ツァーリとして人々に畏敬の念を抱かせるようになって行った。

ここまでは良いのだが、激しやすい性格が、大きな禍根の端緒を切り開いてしまう。

彼自身が愛し、また期待もしていた、更にそれに応えられるかもしれない器だった長男を、些細な口論が切っ掛けで、杖で殴り殺してしまったのだ。

神の如く畏敬されるツァーリと言え、容赦なく寿命は尽きてしまう。イワン四世が世を去った後、次男が後継者となったが、彼は玉座を持て余すような器だった。

イワン四世の次男はフョードルという。その妻の兄ということで、摂政となったのがボリス・ゴドノフだった。

名目フョードル、実質ボリス・ゴドノフの指導の下、先代のイワン四世が競り負けて失った支配地域を取り返すなどの取組が行われていた。他方で、イワン四世が力を削いだ貴族達も立ち直りつつあった。

フョードルは、玉座を持て余しながら世を去った。順当であれば、その弟であるドミートリーが後継者になる。しかし、その時点でドミートリーはこの世の人ではなかった。

この事態に貴族達が集まり、後継のツァーリを選任することになった。フョードルが逝去したということは、リュリークに端を発するとされたロシアの王朝が途絶えたという一大事である。

一大事を受けた緊急会議の結果、フョードル政権を支えた摂政のボリス・ゴドノフがツァーリに即位することになった。

ロシアの王朝が途絶えるということは、ロシアにとっては危機であるが、ロシアを支配下に組み込もうと食指を動かす周辺諸国にとっては、得難い好機である。

雷帝については、ソ連の映画監督エイゼンシュテインが、スターリンの勝手な思い込みに振り回されながら、苦労して撮った映画がある。モスクワは独ソ戦の影響があったため、カザフスタンに大がかりなセットを組んで撮ったらしい。

モスクワのボリショイ劇場の横辺りに、マールィー劇場というのがある。「ボリショイ」は「大きい」という意味だが-時々やっている「ボリショイサーカス」というのは「大サーカス」という意味になる。-、「マールィー」とは「小さい」という意味である。

オペラやバレエで有名なボリショイ劇場に対して、マールィー劇場は演劇の名門である。実は私は、ボリショイ劇場には入ったことがない。何故なら、マールィー劇場の演劇が酷く気に入り、そちらにばかり足を運んでいたからである。

そのマールィー劇場の演目に、『ツァーリ・フョードル・ヨアノヴイチ』、『ツァーリ・ボリス』というのがある。(或いは「あった」とすべきかもしれないが…)これは、偉大な雷帝の後の苦悩するロシアを描いた名作である。ここで取り上げた、「大動乱」へ向かっていく時代を描いた作品ということになる。それぞれの主人公は、雷帝の次男フョードルであり、摂政で後にツァーリとなったボリス・ゴドノフである。

マールィー劇場の演目『ツァーリ・フョードル・ヨアノヴイチ』だが、これは彼らの「十八番」であった。ソ連時代から活躍し続けた名優達が主演級で登場した。玉座を持て余すフョードルを演じるソローミンの醸し出す不安気な君主の雰囲気、ボリス・ゴドノフを演じるコルシュノフが醸し出す実力者然とした、また毅然とした雰囲気が秀逸である。実はこれを何度か観ている…ロシア語の台詞が、私の頭の中では、戦国時代を背景とした時代劇の台詞に聞こえた…

因みに、『ツァーリ・フョードル・ヨアノヴイチ』だが、この戯曲はアレクセイ・トルストイの作品である。『戦争と平和』で知られるトルストイとは別人である。あのトルストイはレフ・トルストイである。「トルストイ」というのは由緒正しい姓ということだ。

こんな訳で、ロシアは大動乱へ踏み込んでしまう。





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連載:『ロシア史の一夜漬け』―4 『第三のローマ』或いは「ツァーリ」

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外国旅行から帰ると、ポケットや財布の中の硬貨や小額紙幣をどうしたものか困ることがある。銀行で両替しようにも、米国ドル現金は受付てくれる場所も多いが、それ以外は少々困る。硬貨に到っては最初から相手にしてもらえない。

そこでそれらは、本人のささやかな記念品か、友人・知人へのつまらない土産に化ける。

そういう経緯でロシアの硬貨や紙幣を目にしたことがあるという方もあると思う。

「ロシア連邦」という国名を名乗るようになって以降に発行された紙幣や硬貨を見ると、鷲の紋章が目にはいると思う。鷲の紋章をよく見ると、頭が二つ付いていて、左右両方に嘴を向けている。この紋章を『双頭の鷲』と称する。

『双頭の鷲』は、ロシア皇帝の紋章である。「ソビエト社会主義共和国連邦」という国号に併せて「鎌と槌」の紋章を棄ててしまった後、この紋章を倉庫の奥から引き出して来たような型だ。

『双頭の鷲』の紋章を使用した例は幾つか知られている。ロシアでの使用例も有名だが、彼らがこれを用いるに到った経過が興味深い。

ロシアで主流を成す宗教は、キリスト教の一派ということになる「ロシア正教」である。

ロシアも含め、欧州の中部から東部にかけての国々は、「正教」(英語で「オーソドックス・チャーチ」と言う。)の流れを組むキリスト教だが、これはビザンチン帝国の伝道師の努力が実を結んだものである。

ビザンチン帝国という歴史用語に少し触れる。欧州、北アフリカ、小アジアに到るまで版図を拡げた古代ローマ帝国は、東西に分裂した。「西」はあっさりと滅びてしまい、その後の様々な展開があるのだが、「東」は約千年に亘って、栄光と挫折の歴史を歩み続けた。これが「ビザンチン帝国」と称されるものである。

ビザンチン帝国の都は、今日のトルコのイスタンブールにあった。当時はローマのコンスタンチヌス帝に因んで「コンスタンチノープル」と呼ばれていた。

帝国が分裂してから、ローマ帝国の「国教」として力を拡大していたキリスト教も分裂した。今日でもローマ法王が代表している「西」のカトリックに対し、ビザンチン帝国では「正教」として独自の道を歩んだ。

教会が独自に法王-歴史の本で「教皇」と称しているが、基本的に同じもののようである。-を代表に立てるカトリックに対して、「正教」ではビザンチン帝国の皇帝がその座を占める。また、偶像崇拝を禁じるイスラム世界と隣接する所為か、「イコノクラシス」と呼ばれたキリストの像などを造ることを禁じる命令が出されるなど、ストイックな一面もある。他方で、各種の宗教儀式は、参列者を圧倒する荘厳さである。

「正教」はビザンチン帝国と共にあったが、教勢拡大を図り、各地に伝道師を派遣した。

時代は「キエフ・ルーシ」の頃、キリロスとメトーディオスがロシアに伝道の旅に出た。

ロシア語の文字を「キリル文字」と称することがある。これはこの伝道師のキリロスが、当時のロシアの言葉で聖書の教えを伝える時、便利なように文字を考えたことに由来しているという。

今日用いられているロシアの文字は、キリロスが苦心して考えたものとは型が異なる。後述するが、これを基に、18世紀のピョートル大帝がギリシャ文字などを参考にして印刷に適した活字をつくらせたものが基本である。この書体がロシア革命の後に改められ、今日に至っている。

余談序でだが、ビザンチン帝国の主流な言葉はギリシャ語だったという。ビザンチン帝国で保存され続けた古代の優れた学問が、西へ伝播してルネッサンスで花開いたのである。

ロシアではキリロスとメトーディオスによって伝えられた「正教」を受け容れた。コンスタンチノープルで行われる華麗な典礼の話しに魅せられたからとも、最初はイスラム教にしようとしていたものが、「禁酒」という教義があるので酒好きのロシア人は気を変えたからとも伝えられている。

ビザンチン帝国は栄光と挫折の歴史を歩み続けたが、勢力を伸ばしていたオスマン朝トルコの圧迫を受け、風前の灯火の様相を呈し始めた。15世紀である。

その頃、「タタールのくびき」をはね除け、「実力」を付けつつあったロシア大公は、ビザンチンの帝室に繋がる女性を娶った。言ってみれば「箔を付けたかった」のである。ロシアは「正教」の擁護者として、「一流」になりたくてバタバタしていた訳である。

そうしている間に、人力で強引に軍船に丘を越えさせるという「奇策」を用いたトルコの軍勢は、狼狽するビザンチン帝国の軍勢を打ち破った。最後の抵抗も虚しく、ビザンチン帝国は千年の都を明け渡した。

ビザンチン帝国が壊滅したとの報に、ロシアは激怒した。「異教徒」トルコを覆滅するのだといきり立ってはみるが、実力差は覆らない。そして、少し落ち着きを取り戻してロシアは考えた。

「第一のローマ、第二のローマ(ビザンチン帝国)は滅んだ。正しき教えの擁護者としての使命を怠ったのだ。ローマにも繋がるロシアの大公は、決して使命を怠らない。正しき教えの、真の擁護者にならなくてはならない。モスクワこそは、不滅の第三のローマである。」

こうして、ロシアの「思い込み」が形成された。

この「思い込み」が象徴的な型で実践された。

ロシアの大公は、ビザンチン帝室が用いていた『双頭の鷲』の紋章を用い始め、ビザンチン皇帝を指し示す固有名詞であった「ツァーリ」という呼称で自らを号するようになった。

この「ツァーリ」という言葉は、「ロシア皇帝」を指す言葉としてある程度お馴染みかと思う。語源を辿れば「シーザー」である。「シーザー」とは、ローマ帝国の初代皇帝、ユリウス・カエサルその人である。

こうして『双頭の鷲』を負ったツァーリは登場した。

今日も『双頭の鷲』を使うロシア連邦だが、ツァーリの思い込みを継承しているのだろうか。それは断定出来ないが、私は「他に一応由来の判りそうな見栄えのする紋章が思いつかなかったから使ってしまった」というのが真相のような気がしている。





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連載:『ロシア史の一夜漬け』―3 モスクワ

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欧州の街について調べると「河川を利用した水運の拠点として発展した」という歴史を有している街に多く出逢う。水運に利用し易い天然の河川に止まらず、運河である場合さえある。更に、河口周辺では、水運の拠点として栄耀栄華を誇っていたものが、堆積土砂で港が使い難くなって寂れたという場所さえある。

昔も今も、船舶は輸送手段として使い勝手が良いということなのだろう。嵩張るモノも、重量物も運ぶことが適うのが船だ。稚内のような「海峡を眼前にした街」で暮らしていると、内陸に位置しながら水をイメージした紋章を掲げているような街は、何となく釈然としない。しかし、大陸である欧州では、悠然と流れる河川は我々の想像を超える存在感なのだろう。

余談だが…アメリカも欧州のような「内陸の水運」というものが盛んなようだ。シカゴは五大湖の湖畔に開けた大都市だが、眺めると“海”にしか見えない。高層ビルに上がって眺望を愉しむにしても、“対岸”がよく判らないのだ…この五大湖では、結構大きな船が活躍している。アメリカの作家、サラ・パレツキーの作品に、シカゴを舞台として女性の探偵が活躍するシリーズが在るが、その中にも五大湖の水運に関する描写が出て来る作品が在った…

話しを戻す…ロシアもこうした「内陸の水運」を背景に発展した例に漏れない。ロシアの首都モスクワは、モスクワ川の水運に育まれた…

モスクワの地下鉄で、「レチノイ・ヴァグザール」という駅がある。「ヴァグザール」とは、主に鉄道のターミナル駅を示す語である。モスクワに「レチノイ」という鉄道駅は無い。

これは「どういうことなのか?」と人に尋ねてみたことがあった。

「レチノイ」とは、「川」を意味する「レカー」の形容詞型である。「レチノイ・ヴァグザール」とは「川の駅」ということになる。内陸のモスクワで、川を利用した水運が存在感を持っている、小さな証左かもしれない。そう言えば、「モスクワらしい…」感じがする画に「クレムリンの脇を悠然と流れる川」というのも在る…

モスクワは、水運の拠点として栄え、「タタールのくびき」を要領良く生き延び、15世紀頃になるとモスクワの公は「大公」と号するようになり、モスクワ大公はロシア全土で主導的な立場を固める。何故なら、モスクワ大公は綻びの見え始めたタタール人達の支配に抗い、彼らをロシアから放逐する上で主導的役割を担ったからである。

この頃から、モスクワはロシアの「首都」となった。





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連載:『ロシア史の一夜漬け』―2 タタールのくびき

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「元寇」という日本史用語をご記憶の方は多いと思う。ユーラシア大陸で拡大を続けたモンゴルの帝国が、船―モンゴルは「草原の国」で、彼らは船や海には知識が浅かった…船は被征服地の人達が動かしたようだ…―で九州に軍勢を送り込み、鎌倉幕府の下で日本の武士団が彼らと戦ったのが「元寇」である。

モンゴルの大草原に源を発する帝国は、東だけではなく、西にも拡大した。モンゴルの騎馬部隊が陸路を進むことを考えると…東は朝鮮半島辺りで行き止まりになってしまうが、西は遥かに広い…

モンゴル帝国の軍に従った人達は、“世代”を重ねる程に長い年月を掛けて西へ進む間、中央アジアのトルコ系の人たちとの混血が進んだ。こうした人たちを「タタール人」と呼んでいる。

モンゴルの帝国の血脈を受け継ぐタタール人達は、中央アジアから更に西へ進みロシアの地へ到った。当時「世界最強」と言っても差し支えが無かった軍勢は、ロシアの公達が繰り出す軍勢をあっさりと蹂躙し、ロシアの地を支配下に組み入れた。

タタール人達によるロシアの支配は、200年を越える永きにわたった。ロシア史の用語では、この時代を「タタールのくびき」と呼んでいる。13世紀から15世紀のことである。

この時代は、「東の脅威」に相当するタタール人以外にも、「北の脅威」に相当するロシアの敵も居た。「東方植民」を進めていたドイツ系の騎士団である。

クラシック音楽がお好きな方は、ソ連の作曲家プロコフィエフの名に心当たりがあるかもしれない。彼の楽曲をサントラに採用した『アレクサンドル・ネフスキー』という映画は、この騎士団と「ネヴァ川のアレクサンドル」とあだ名された、ロシア北部のプスコフ周辺のノブゴロド公がドイツ系騎士団と戦った話しである。凍結した河の上を進む騎士団だったが、氷が割れて冷たい水に落ちて全滅してしまうシーンが印象的な映画であった。

この「ネヴァ川のアレクサンドル」というあだ名だが、或いは「後世の人達が付けたもの」という見方もあるようだ。因みに、「愛国心を鼓舞」ということが強力に進められた第2次大戦期のソ連では、この「ネヴァ川のアレクサンドル」が「“救国の英雄”として果敢に戦った先人」の例として持ち上げられていたという。序でに言うと…上述の映画『アレクサンドル・ネフスキー』は、一頃は「不可侵条約」も在ったドイツとの微妙な外交関係に配慮し、上映が延期されてみるような事態も在ったらしい。

ところで、映画の舞台となっていた「ノブゴロド」という地名は、ロシア各地で幾つか見付かる。この語は、「新しい」を意味する「ノーヴィー」と、「街」を意味する「ゴーラド」とが組み合わさったものらしい。今日では「古都ノブゴロド」などと呼ばれていても、街が起こった頃は「新都」だった訳である…こういうのが妙に面白い…



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連載:『ロシア史の一夜漬け』―1 ロシアの黎明

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「ロシア」という呼称は、何処から出て来たのだろう。

言葉の源を辿る作業は、容易なことではないし、長い人類の歴史にあっては、恐らく「歴史学の時代」と言われる、誰かが解読可能な文字などで記録を残している期間以前の、探り難い期間の方が圧倒的に長い筈なので、「ロシア」という呼称についても明確な解答は得難いことであろう。

そこで、判っている、あるいは判り易い範囲で話しを進める。

キエフという街をご存じだろうか。第2次世界大戦関係のシュミレーションゲームがお好きな方は、「独ソ戦」で独軍が大変な苦労をして攻略することになるポイントとしてご記憶かもしれない。

この街は、今日ではウクライナ共和国の首都となっている。古い歴史を誇る街である。

ウクライナ…ここは永く色々な国の傘下にあった経過がある国で、「今日知られている状態」の独立国になったのは、1991年にソ連が旗を下ろした後が「実質的に永い歴史の中で初めて」というような状況なのだ。近年では、“親ロシア”か“自主独立路線”かというような政治の主導権争いが在り、所謂“民主化”がなされたことが大きく報道されていた経過も在った。

実は、「ロシア」という呼称の源は、このキエフにある。

伝説によると、北方から川を下ってやって来たリュリークが、キエフの地で「ルーシ」という国を興した。ロシア史の用語では「キエフ・ルーシ」と言う。爾来、リュリークの子孫が「ロシアの大公」と号して、「ルーシ」を統治する。

大公につながる人たちは、続々と建設される諸々の街へ赴き、それぞれの街の「公」として、ロシア各地を統治するようになる。

伝説とも実在ともつかないが、「初代」の名に因んで「リュリーク朝」と呼ばれるロシアの体制が成立した。9世紀から10世紀のことである。





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連載:『ロシア史の一夜漬け』―序章に代えて

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何時の間にか、随分と旧い話しになってしまったが…とある店のバーカウンターで、居合わせた知人達と話し込み、話題が“ロシア史”に及んだことがあった。その時の知人が、そのことを妙に覚えていて、「一講義、約2時間で呑みながら“ロシアの千年”が、大変判り易かった…」と好評だったのである…

実際「自国の歴史にもそれ程明るくない」という場合も多々ある中、外国史などというものには関心さえ向かないかもしれない…だが、「呑みながら」という気楽さで、偶々多少学んだ話しをして、それが好評だったという経験は悪くないものである。

ということで、そんな話しをこの場をお借りしてやってみたいなどと思い付いた。ということで“新カテゴリ”が登場である。

日本国から一番近い外国は何処なのだろう?地図に定規を中てて、距離を測る限りでは、正解はロシア連邦ということになる。

しかし、それは容易に理解出来ても、「釈然としない。」ものが残る。何故なら、日本国の長い歴史を振り返ると、ロシア連邦、あるいはその前身であるソビエト社会主義共和国連邦、更に前身であるロマノフ朝ロシア帝国との間に、積極的にか消極的にかを問わず、何らかの「関係」が生じたのは、「つい最近」に過ぎないからである。邪馬台国の昔から「関係」があった訳ではないのである。

そして我々は気付く。一番近い外国について、我々は知っていそうで知らない。少しだけでも覗いてみることにしよう。

この連載だが…「史上の出来事の不思議さや、史上の著名人に纏わる伝説めいた話しが愉しい…」と思える人が、気軽に飲みながらする話しのタネにでもなれば幸いと想いながら用意した原稿である。「歴史…」と言い出すと「敷居が…」という方もあるのかもしれないが、「呑みながら」でも出来る話しだ…構えずに気軽にお付き合い願いたい。





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