にほんブログ村君主を否定したフランス革命を恨めしく思いながら、「偉大な女」が世を去った後、フランスではナポレオンが皇帝に即位した。
ナポレオンは戴冠式で、自らの手で冠を掴み取ったという挿話が伝えられているが、これを聴いたベートーベンが「ナポレオンに捧ぐ」という献辞の入った交響曲『英雄』の楽譜を引きちぎったという挿話も伝わっている。
このような、半ば伝説化した話しも数多く伝わるナポレオンだが、彼を栄光から引きずり降ろしたのは、他ならぬロシアである。また、ロシアもナポレオンには振り回された。
「偉大な女」の後継者となったのはパーヴェルだった。欧州はナポレオンに揺さぶられている頃だった。ロシアは英国やオーストリアなどと共にフランスに対抗しようとしたが、「天才」ナポレオンの優位を見るやパーヴェルは「余は気が変わった」とばかりに「天才」のフランスと同盟を結んでしまう。「天才」は平和をもたらすと信じたのであろう。
しかし平和は訪れない。ロシアは「天才」を支援しつつ、フランスに対抗する勢力との抗争に踏み込む。抗争のさなか、病没とも毒殺とも言われるが、パーヴェルが世を去り、アレクサンドル1世が後継者となった。後述するが、アレクサンドル1世は比較的若く世を去ってしまったので、彼の生涯は「天才」との戦いに全てが捧げられたという感だった。
フランスを支援しての戦いでは、看過し得ない損失を被ったため、アレクサンドル1世は独自の戦いを展開する。永年の仇敵スウェーデンとの戦いに勝利し、彼らが約600年間支配していたフィンランドを属国にしてしまう。
モスクワやサンクトペテルブルグから、フィンランドの首都であるヘルシンキへは、列車で簡単に訪れることが出来る。この鉄路の礎は、ロシアの支配下にあった時代に築かれた。スウェーデンから切り離されたフィンランドは「フィンランド大公国」となったが、君主であるフィンランド大公とはロシア皇帝その人であった…
余談になるが、フィンランドに少し触れる。
ヘルシンキの博物館を訪ねると、『双頭の鷲』の紋章が刻まれた、豪華な赤い布張りの椅子が見られる。これが「フィンランド大公の玉座」ということになる。『双頭の鷲』は、ロシア皇帝の紋章である。
ヘルシンキがフィンランドの首都となったのは、実はこのロシアの支配下にあった大公国時代からである。「大帝の都」からの往来の便を考え、ヘルシンキに行政機関を集めたのである。
ヘルシンキ以前には、フィンランド湾をもう少し西へ進んだバルト海への出口に中たるトゥルクに、スウェーデン王国による支配拠点が置かれていた。
こうした経過から、バルト海沿岸部やヘルシンキのような大きな街には、スウェーデン語系住民が今日でも住んでいる。人口の1割程になるという。
アニメにもなった有名な『ムーミン』だが、フィンランドのスウェーデン語系の女性が原作者であるということは、存外有名な筈である。
フィンランドでは、現在、フィンランド語とスウェーデン語が公用語ということになっている。スウェーデン語の方は、「ゲルマン語系」で、もう少し平易な言い方をすればドイツ語の親戚である。文字で書いたものなどの見た目も少し似ている。他方、フィンランド語の方は、独自の系列である。文字は、我々も知っているアルファベットであるが、若干、文字の上に点を付したものなども混ざっている。
ヘルシンキでは、フィンランド語とスウェーデン語とを並べた看板も目に飛び込んでくる。何処かの国のように、片方は大きな文字で他方が小さな文字ということはない。両方書いてある場合は、同じ大きさだった。ヘルシンキ以外では、こうした例は稀であるという話しである。
話題をアレクサンドル1世の戦いに戻す。
彼は北ばかりではなく、南でも戦いを進めた。トルコやペルシャと戦ったのである。
アレクサンドル1世のロシアは、彼らを打ち破り、重要拠点を版図に組み入れた。殊にペルシャから奪取したバクーは重要だった。当時はアメリカのテキサスに次ぐ、世界第2位の油田であったからだ。
バクーについてだが、私は訪ねたことがない。承知している範囲で触れるが、現在はアゼルバイジャン共和国の首都である。現在でも、アレクサンドル1世が奪取した当時同様、石油産業或いは石油関連産業を抱えている。
アゼルバイジャンは、後述することにも関連するが、ロシア革命の後、ソビエト社会主義共和国連邦が成立すると、その連邦を構成する共和国という型で組み入れられた。ソ連が旗を降ろした後は、独立したアゼルバイジャン共和国となった。
アゼルバイジャンは、民族的にはイランに近い。東京などではイラン人が随分居た時期も在ったというが、容貌的には似ている。
アレクサンドル1世のロシアは「天才」ナポレオンとの同盟関係で、抗争を要領良くかわしながら、北に南に進撃し、大きな利益を得た。
しかし、欧州の殆どを手中に収めたナポレオンは、ロシアに食指を動かし始めた…
この時代まで、欧州各国の軍隊というものは、王侯貴族の「私兵」という色彩が強いものだった。王侯貴族の私財で養われていたような型である。
これも当然といえば当然だったのである。王侯貴族には、領地、領民、収穫、それらに関連する諸々の権利が全て付随していたのだから…
少し補足する。王侯貴族には「○○を領有する侯爵」とか「○○を領有する伯爵」、「○○王」などのタイトルがついていたが、タイトルには領地や領民や収穫、それらを巡る諸々の権利が全て付随していた。これが意味するのは、タイトルを保持している人が逝去すると、妻、夫、子ども達などがそれを相続する。運が良ければ、一人の王侯貴族の手中に、沢山のタイトルが集まる。領民がフランス人だろうが、ドイツ人だろうが、ポーランド人だろうが、オランダ人だろうが、そんなものは一切顧みられない。彼らは一様に「領主○○様の領民」である。領主が武力抗争を行う場合も、「領主○○様の軍隊」が出動するのである。また、そういうケースでは「領主○○様」自身も陣頭に立つことが多かった。
こういう訳だから「○○王にして、○○侯爵、○○伯爵、○○伯爵」というタイトルを沢山持つ人物も大勢居た。通常は「一番格上」と見られるタイトルで称されていたようだが。
こうした状況に対し、フランスでは国王を処刑してしまった…「フランス王の領民」が「フランスに住む人々」、つまり「フランス人」になった瞬間である。
こうなってしまうと、周辺諸国との利害対立が武力衝突に及ぶようなケースでは、「領主○○様」の利害対立ではなく、「フランス人」の利害対立という図式になり、「領主○○様の軍隊」ではなく「フランス人の軍隊」が出動する。
ここに「○○に住む人達の国」という「国民国家」が誕生した。これは私たちが知っている「国」の姿だが、これが登場したのは18世紀の末なのである。
「国民国家」が出動させる軍隊は、「国民の軍隊」ということになる。「領主○○様」が私財を擲って動員するのとは比べものにならない兵力を投入できる。
「天才」ナポレオンは、「国民国家の独裁者」として、文字通りに自らの手で冠をもぎ取って「フランス皇帝」に即位したのだった。
「国民国家の独裁者」たる「天才」は、「国民の軍隊」という大兵力を率いて自らも陣頭に立ち、ロシアに挑みかかった。彼の軍事的な優位だが、簡単には覆されない。
ロシア軍を率いた、「隻眼の勇将」クトゥーゾフ元帥は、巨体を揺さぶり、「無念の惜敗!」を連呼しながら後退を余儀なくされる。
「古のツァーリの宮殿よ!」と感嘆の声を上げながら、「天才」はクレムリンに入り、彼の軍隊はモスクワを占拠した。
「大帝の都」で連戦連敗の報に苛立つアレクサンドル1世に吉報を届けようと、「隻眼の勇将」クトゥーゾフ元帥は「地の利」を活かした最後の反撃を試みる。
戦乱を怖れて人々が逃げ出し、物資も乏しくなったモスクワに大火災が発生した。炎に包まれたモスクワで、乏しい物資に頭を抱えていた「天才」の軍隊は、戦闘力を著しく低下させた。
「隻眼の勇将」クトゥーゾフ元帥は、「とどめを刺す!」とばかりにモスクワ郊外のボロディノで勝利し、厳寒のロシアを敗走する「天才」の軍隊を追撃し、とうとうパリまで追跡し、この戦いに勝利した。
ロシアでは、この戦いを「祖国戦争」と呼んでいる。また、厳しい冬が不利だったロシア軍に味方したことに因み「冬将軍」などという言葉も登場した…
更に加えれば、この「祖国戦争」と呼ばれることになる戦いを背景にした大河ドラマがレフ・トルストイの名作『戦争と平和』である。
後のロシアを考えると、この戦いについては、パリまでの追撃に参加した貴族出身の若い士官達が、欧州の様々なものを自ら体験したという要素の影響が、激戦の末に当時は欧州最強と謳われた軍隊を追いつめたことよりも大きな影響があったのかもしれない。
この敗戦の後、栄光の座を滑り落ち、ナポレオンが「過去の人」に追いやられた後、アレクサンドル1世は、「跳ね上がったナポレオンを誅した第一の功労者」然として国際政治の舞台で活躍の場を求める。
「会議は踊る」という表現がある。遅々として案件処理が進まない場合などに用いられるが、実はこの時代に端を発する表現である。
「ポスト・ナポレオンの欧州」をどのようにするのか、ロシアも含めた各国代表団がオーストリアのウィーンに集って会議を催した。
この会議は、開催国の事務局のような立場で、「事務局長」たるハプスブルグの宰相メッテルニヒが仕切ったと言われる。複雑な利害が絡む会議は、踊った。会議そのものばかりか、ウィーンに集った各国代表団などの関係者も、連日連夜の舞踏会で踊った。
先程「国民国家」以前の欧州の様子に少し触れたのは、この部分でハプスブルグのオーストリアが登場するからである。
ハプスブルグは、各地の有力者との縁組み、相続で版図を拡げ、影響力を拡大した歴史を有している。ユニークな国かもしれない。
ハプスブルグは、軍事力で領域を拡大した訳ではない。ハプスブルグの軍隊は、必ずしも強力ではなかった。何故なら、ハプスブルグの勢力圏は様々な言語が入り乱れる欧州の真ん中であったため、ドイツ語を話す総司令官の下に、ハンガリー語やチェコ語やクロアチア語を話す将兵が集うような有様だったのである。「全軍進撃!」と叫んでも、進撃開始までに何度通訳しなければならないか判ったものではない。
こうした「戦う以前」の問題が大きかった。
ウィーン会議の結果、フランスが占拠して様々な形態で支配下に置いた国々が独立国になるなどの動きが見られたが、何れもプロイセンやロシアなどの「勢力圏」というような扱いを受けた。
国際政治に心を砕き、戦争と平和の時代を生きた「偉大な女」の孫アレクサンドル1世が世を去ると、ロシアは苦難の時代を迎える。

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