『戦国武将伝 西日本編』

↓紐解き始めると、頁を繰る手が停められなくなってしまう。素早く読了した。

戦国武将伝 西日本編



↑24篇もの短篇が1冊に収まっている。掲載順に、或いは何となく眼に留まった順にと、ドンドン読み進めてしまうような1冊だと思う。

「戦国武将伝」という名の下、「西日本編」の本書に加えて「東日本編」というもう1冊も在る。興味が湧いて手にした。方々の、少し知られた武将に纏わる小説が幾つか在って、各武将に所縁の地域という基準で「西日本編」、「東日本編」という程度に分けたのだと思っていた。が、そうではない。実際に本書を手にして驚いた。24もの篇が在り、目次には各篇の題名と作中で取上げる人物が挙げられ、併せて現在の都道府県名が挙がっているのだ。都道府県名だが、「西日本編」には三重県以西の本州、四国、九州、沖縄の2府22県が全て挙がっている。その24府県の名迄入った目次の裏に「東日本編」の紹介が在ったが、そこには1都1道21県の名も在った。

本作は『戦国武将×四十七都道府県』と銘打って雑誌に連載された小説を纏め、一部に加筆等をしているという作品なのだそうだ。非常に野心的な企画かもしれない。雑誌連載には色々在るであろうが、47篇で47人を話題にしようというような例は、全く聞いたことも無い。

そして今回、「24/47」を読了したということになる。各々になかなか面白かった。失礼な言い方だが「ハズレ」は無い。各々にもっと分量が在る作品の一部のようでもあって、同時に限られた紙幅の中で実によく纏まっている。各作品、各々に個性的でもある。

本作の各篇の主人公的な人物、それらに冠せられた都道府県は出身地に加えて、知行地を有していたというようなことで関連付けられているのだと思う。

各篇の主人公的な人物は「戦国武将」ということだが、所謂<応仁の乱>が長く続いて、その時期の後が「戦国」ということになっていることを踏まえ、概ね15世紀末近くから16世紀の人物を取上げている。16世紀後半が比率としては非常に多い。一部に17世紀、江戸時代に入ってからの挿話に題材を求めている篇も見受けられるが、これは<関ヶ原合戦>等が在ることや、戦国を駆け抜けた人物達の後半生というような事柄が在るからに他ならない。

目次に挙がっている名の人物が、判り易く主要視点人物というようになっている篇も在るが、「他者の眼で語られる当該人物」というような篇も見受けられ、そういうのも面白い。

各都道府県に所縁の「戦国武将」ということであるなら、本作で取上げられた人物達以上に知名度が高い人達も在るのかもしれない。結局は「文学を綴る際の興趣」で絞り込んで行って、当該人物を篇に取上げたのであろうと想像している。

本書はなかなかに面白かった。実は「東日本編」も既に入手済みである。そちらも愉しみたいが、「西日本編」は九州各県関係の各篇、和歌山県の雑賀孫一の篇、京都府の足利義昭の篇等、なかなかに面白かった。同じ作者による長篇の『じんかん』二も登場する松永久秀が登場した奈良県の篇や、各篇の中で少し古い時代を扱ったという感じの大内義興の山口県の篇も好かった。

これは少し愉しいので御薦めしたい。他方、「2巡目」で更に47篇登場するというような場合も在るのだろうか、と余計なことも考えてしまう感だ。

『令和の山口組』

↓旭川の書店で眼に留めて入手し、素早く読了した1冊である。

令和の山口組 (新潮新書 1022)



↑関係分野のライターとしての活動を受けて纏められた1冊で、「はじめに」に在るように“教養課程”として示している内容である。

「山口組」に関しては色々なことが語られているとは思う。本書はその古くからの歴史、活動の実態や近年の様子、「暴排」という事情になっている昨今迄の警察との関係、既に少し長くなっている「分裂」の事態を巡ることと大きく4つの章で綴られている。

殊に「分裂」を巡る事柄に関しては、少し新しい事柄なので要領よく客観的に纏まったモノを余り読んでいなかったので、興味深く読んだ。加えて、近年の様子という事柄も興味深かった。

本編の後、付録として映画や小説にも出て来る「業界用語」的なモノを概説した小事典のような内容と、別に発表した経過が在るエッセイが収められている。

こういうような分野の事柄も、知識として知っておくべきなのだと思う。そういう意味で、解り易く纏まった1冊、最近の情況に詳しい1冊は有難い。

『嵐吹く時も』

↓ゆっくりと時間を掛けて―と言うより、他地域へ出るという場面が生じる等、読書をしなかった日が幾分生じていたというだけなのかもしれないが…―読了に至った一冊である。

嵐吹く時も (新潮文庫)



↑雑誌連載で本作が世に出た後、単行本が初めて登場したのは1986(昭和61)年だという。作者である三浦綾子の長い執筆活動を想うと、その半ばとも、後半に入っている辺りとも言えるかもしれない。作者自身が伝え聞く「一族の物語」に着想を得ているという作品だ。

本作の単行本が登場した年が既に38年も前ということになる。それでも「38年前」という旧さを全く感じさせない。様々な作中人物が躍動し、明治時代の後期から大正時代、物語の末尾の方はもう直ぐ昭和になって行くような時期と見受けられるのだが、「或る一族の物語」として説得力が在って引き込まれる。他方に、作者が長く綴り続けた、「人の罪?」、「許し?」というような事柄が織り込まれながら物語は展開している。

三浦綾子の父は苫前町で生れていて、祖父母は苫前町で商店を営んだらしい。そういう事柄を反映し、物語は「苫幌村」という架空名の集落で起こっている。後段に、「直ぐ傍の別な集落」として「苫前」という名も登場するのだが。

苫幌にカネナカ商店(「¬」(かね)に「中」(なか)の文字の組合せで「カネナカ」としている。)が在る。佐渡の出である順平が主で、同じく佐渡からやって来た妻のふじ乃が居る。2人の間に娘の志津代が在る。

同じく苫幌には山形屋旅館が在る。夫に先立たれたキワが旅館を営んでいる。キワには恭一、文治、哲三の3人の息子達が在る。

物語はこの2つの家の人達が主要な視点人物になって展開している。順平とふじ乃との間の色々な事柄、その狭間の志津代の事柄が在る。志津代とは幼馴染の文治の事柄、そしてその兄の恭一の事柄が在る。この辺の人達に、周辺の色々な人達が関わって行くことになる。

作中人物達は、年を経た様々な展開の中で各々の人生を生き、互いに関わって行く。志津代にとって「年が離れた弟」ということになる新太郎が生れるのだが、この新太郎を巡る様々な事柄が、物語の中で少し太い柱ということになるのかもしれない。物語は「苫幌」での展開から、主要作中人物達が移り住む旭川での展開が主になり、終盤には順平とふじ乃との出身地である佐渡での展開も在る。

作中世界の年月の中、作中人物達のやることによって拡がる波紋が在る訳だが、そうした波紋を描くというのが本作の中心なのだとも思った。更に「或る人の言動」の「影響」のようなモノが存外に長く尾を引くという場合も意外に多いので、作中の挿話が全て酷く説得力が在るとも思った。

三浦綾子作品の中には、揺れ動いた時代の情況が深く関わるという例も在るが、そういう要素の濃淡は別にして「或る家族が過ごす年月の中での様々な出来事が織り成す物語」という作品は多い。本作もそうした作品の一つであろう。

作品は新しくもないのだが、入手した文庫本は未だ新しい。そこで未読の方も多いかもしれないと考え、敢えて作品の細かい中身には触れていない。作中の順平とふじ乃との孫に相当する子ども達が出て来る。もしかすると、この中に三浦綾子に相当する人物が幼い子ということで出ているのかもしれない。

作者の一族の話しに着想を得ているということではあるが、或いは「北海道に暮らす多くの人達の家族の物語」に通じるかもしれない。そういうようなことも感じながら興味深く読んだ作品だ。広く御薦めしたい。

『ひつじが丘』

↓各作品を興味深く拝読している三浦綾子作品の一つを入手して紐解いた。単行本の初登場が1966(昭和41)年で、作者の活動歴の中では比較的早目な時期の作品と言えるであろう。

ひつじが丘 (講談社文庫)



↑少し以前に見受けられた、文字がやや小さい感じの規格で、ページ数の感じ、本の見た目の割には全体の文字数が多くボリュームが在る。ゆっくりと紐解きながら読んだ。

本作の物語は、昭和24年に起こり、そこから数年を経た昭和20年代の終わり頃、札幌を主要な舞台としている。若い女性達と、その周辺の男性達の物語ということになる。

「昭和24(1949)年」というのは、現在も続いている小学校、中学校、高校の仕組みが成立して始まったというような頃だ。未だ「占領下」で少し独特な風俗も在ったかもしれない。が、総じて「前の時代」とは変わったとされる価値観のような何かが台頭し、他方に古くからの価値観も根強く、若い人達の心が揺れていた時代という感じなのかもしれない。

そういう時代を背景に若い女性達、男性達の物語が展開する。

札幌のキリスト教系の女子高が在って、3年生の京子が在る。京子の級友に輝子が在るが、輝子は何かと京子にキツく当たるような態度だ。この2人が在るクラスに奈緒実が転校して来る。

3人の学ぶクラスの担任ということになる英語教師の竹山哲哉が在る。竹山哲哉の友人に、画を描くことに志を持ちながら新聞社に勤めている杉原良一が在り、かれは京子の兄である。

この女性3人と男性2人が物語の主要人物ということになる。ここに彼らの親達等の周辺に在る人達も関わる。

女性達の中、最も出番が多く、本作のヒロインという感なのは奈緒実ということになるであろう。

この奈緒実に、教師の哲哉は惹かれるのだが、友人の良一も同じく惹かれる。他方の奈緒実は、哲哉に関しては「先生」という「線引き」のようなモノも感じていたが、それでも好感は抱いていた。そして良一にも惹かれるようになって行った。

やがて良一は函館へ転勤する。そして札幌へ出て来た際の行きがかりで、奈緒実は函館に行ってしまう。

こういうようなことで色々と展開する。

良一には色々と「過去」も在り、哲哉はそれを知りながら公にすることを憚った。京子が哲哉を慕っていて、哲哉はその気持ちを受け止めたいと思いながら、奈緒実を想っていることに気付く。

輝子の父と、京子や良一の母との間に秘めた事情が在った。それはそれとして、輝子は出くわした良一に接近する。

何やら「連続テレビドラマ」の原案のような感じもしたが、凄く惹かれた。「愛すること」とは「許すこと」というようなテーマを底辺に据えた、若い男女の物語だ。

奈緒実は色々と悩み、気持ちが揺れるようになる。そして良一だが、この人物は最終盤へ向けて大きく変わって行く。

題名の『ひつじが丘』は札幌の羊ケ丘を意識してはいると思う。が、寧ろ「迷える子羊」たる劇中人物達が集っているというような、漠とした感を表現しようとした命名かもしれないと思った。

「三浦綾子作品?」とでも問うて、直ぐに名が挙がる作品でもないように勝手に思っているが、それでも興味深い作品で、広く御薦めしてみたい。

『光あるうちに―道ありき 第三部』

↓興味深く拝読した一冊である。

光あるうちに?道ありき第三部 信仰入門編 (新潮文庫)



↑作品が話題にされたことが繰り返された中で触れた三浦綾子作品が面白かったことから、「同じ作者の別作品」と色々と読み進める中で出くわした作品ということになる。

「道ありき」という題名を冠した、「自伝」とも言われる作品が3冊在る。既に最初の1冊、次の1冊は読了し、それを踏まえて本作、3冊目を手にして紐解いたのだ。

「道ありき」という題名の下の、過去の2冊は作者の「自伝」であることは間違いないのだが、もっと純粋に「小説」という気分で愉しく読んだ作品であった。作者の「自伝」ではあるが、寧ろ「発表した小説が好評を博し、小説家として名を成した感の女性が、自身の来し方を振り返りながら綴った」という「物語」というように感じられた。

これに対して、「第三部」と銘打つ本作は、過去の2冊と趣が少し異なると思った。

本書は純然たるエッセイ集である。雰囲気としては講演の内容、または何処かで三浦綾子を囲んで何人かが集まって聴いた話しを文字に起こした内容というように感じられる。「第一部」や「第二部」に在った、物語風に来し方を振り返るということでもなく、「思うところを語る中に、過去に綴って世に送り出した、来し方を振り返る内容が少し入る」というように理解しておくと善いかもしれない。

純然たるエッセイ集というように思いながらも、紡がれる言葉の背後に「第一部」や「第二部」に在った“物語”を意識するという面も大きい。

『氷点』で注目され、数々の作品を送り出し続けたという中で本作が「雑誌連載」ということで登場した。結局、「道ありき」の「第一部」や「第二部」に在った様々な出会いと、その背後に在った思索の経過を、改めて人々に問い掛ける内容を纏めた、雑誌連載エッセイとして整理したというのが本作ということになるのであろう。

本作にも言及が在るのだが、「第一部」の殊に前半部の主要な内容となる、何か「棄てた」かのような人生を、幾つかの出会いで取り戻して行くような感、それも病を得ての生活という中でそうした出会いを経験しているということが、三浦綾子が「伝えたいことを綴る人=作家」になって行った出発点に在るのだと思う。数々の挿話を通じて、様々な角度からそうしたことが語られるというのが本作であるというようにも思う。

本作に触れると、それが何と呼ばれているモノであろうと、個人にとっての“光”というようなモノを見出し、それを追い続けながら色々と思索するというのが大切であるということに思い至る。

最近は、何やら「詰まった…」という様子の人も巷には多いような感である。そいう時代であるからこそ、本書は広く読まれるべき内容を含んでいるのかもしれない。そんなことを想った。

『知里幸惠 アイヌ神謡集』

↓よく知られた本であると思う。最近になって改訂が施されたということではあるが。これまで読んだことが無かったのだが、切っ掛けが在って手に取ることとなった。

知里幸惠 アイヌ神謡集 (岩波文庫 赤80-1)



↑出逢うことが叶って善かったと思える一冊だった。

アイヌは、神話や英雄譚というような内容の様々な物語を「口承」で伝え続けて来た。誰かが謡うように語る物語を、より若い世代の人が聴いて覚えて再現するようになって行く。更に若い世代、もっと若い世代へとそれらは引き継がれる。

こうした何世代にも亘って受け継がれた物語を、可能な形で記録し、その内容を紹介するという取組が為された経過が在った。アイヌの口承文芸に関する研究を手掛けた金田一京助が知里幸恵と出会い、知里幸恵がその口承について「記録し、その内容を紹介」という仕事を手掛けた。知里幸恵は心臓が弱く、残念ながら若くして逝去してしまったが、原稿は残って逝去後に初めての本が出ている。やがて文庫本が知られるようになって版を重ね、今般は改訂版が登場したのだという。

本書を手に取ると、些か戸惑う。馴染んでいる文庫本というモノではあるのだが、通常の「縦書き」ではなく「横書き」なので、頁を開こうとする時に「何時もと勝手が違う…」という開き方になる。

アイヌの口承は「アイヌ語」によって謡うように語られる。が、「アイヌ語」では定まった文字を使うのでもない。そこで内容を記録する際に「ローマ字」を用いた。左の頁にはアルファベットのローマ字で横書きにアイヌ語を綴り、右の頁には日本語で内容を綴る。アイヌの口承が「アイヌ語と日本語の対訳」で「読物」になったのだ。

本書を手にしてみようと思い立ったのは『カムイのうた』という映画を観たことが切っ掛けだった。

映画『カムイのうた』は、知里幸恵をモデルとするヒロインの物語である。なかなかに優秀な生徒でありながら、差別やいじめを受けるようなことも少なくなかったヒロインは、そういう人生に倦んでしまっている。だが、伯母が謡う口承を聴こうとやって来た研究者に心動かされる。何世紀にも亘って豊かな文学を考証で伝えて来て、それが残ったのは凄いことなのだと研究者は言い、そういうことが出来たアイヌは素晴らしいとも言った。そして研究者は主人公にノートを贈った。ノートは見開きで2ページを使い、アイヌ語と日本語を並べて口承を綴った。研究者は高く評価し得る立派な仕事だと称えた。そしてその励ましと支援とを受け、主人公は東京へ出てそれを本として出版する原稿を仕上げようとする。

映画の物語はそういう感じであった。映画では、森の神という雰囲気のフクロウの画が印象的に使われていたが、知里幸恵が手掛けた本の物語にもフクロウは登場している。

敢えて「口承」と面倒な言い方をしてしまったが、所謂「ユーカラ」である。「ユーカラ」には幾つかの系譜が在り、何種類かの呼び方も在るのだそうだ。そこで、ここまで敢えて「口承」としてみた。

知里幸恵が手掛けた「神謡」は「カムイユカル」、「オイナ」と呼ばれる系譜の口承であるようだ。神々の世界に在る神が人間の世界に現れる際には鳥獣の姿を借りるとされていて、その神の化身である鳥獣が一人称で語る内容というのが「神謡」である。祭儀の際に演じられる舞踊の謡いに起源が在るらしい。

こういうような詳しい、背景知識の解説も本書には在る。本書は知里幸恵が手掛けた部分と、詳しい解説の部分とで成る一冊で、解説の部分は「普通の本」だが、横書きである。

「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」という『知里幸惠 アイヌ神謡集』で最も知られているかもしれない節だが、これはフクロウの神の歌だそうだ。アイヌ文化を紹介するとして大きなフクロウの木彫の像が飾られている例―札幌に在る―を承知しているが、悠然と森の中に在るフクロウは凄く大きな存在感が在って、神の化身と考えられたのであろう。多分、そういう訳で偶々観た映画でもフクロウの画を使ったのだと思う。

知里幸惠は1903(明治36)年生まれで1922(大正11)年に他界している。或る意味で「早世の天才」と言えるであろう。ローマ字で綴ったアイヌ語については、彼女以降の時代の手本というようになっているという。日本語に関しても、美しい語句、判り易い語句に配意し、「踏み込んだ翻訳」で内容が伝わり易いようにと工夫も重ねられているようだ。19歳でこれだけ立派なモノを綴ることが出来る人というのも、然程多くはないと見受けられる。本書には本の原稿制作を勧めた金田一京助の文章も収録されている。国語学、言語学の研究者たる彼が、彼女の能力を絶賛している。

極めて私的なことを敢えて加える。他界し―享年97歳だったと記憶する―て久しい父方の祖母が、確か1903(明治36)年頃の生まれだった。知里幸恵、または『カムイのうた』のヒロインと同年代な訳だ。そんなことを想うと、何か本書が凄く身近に感じられる。

本書の解説でも話題にされているが、明治30年代半ば頃に生れたというような人達は、最初に覚える言葉、母語がアイヌ語という「最後の世代?」かもしれないという。知里幸恵は喪われる自分達の言葉を遺すべく、心臓が弱かったという情況を顧みないかのように、文字どおり懸命に本書の原稿を綴った訳だ。

なかなかに興味深い本の出逢うことが出来て善かった。

『この土の器をも 道ありき第二部 結婚編』

↓なかなかに興味深く読んだ一冊である。

この土の器をも?道ありき第二部 結婚編 (新潮文庫)



↑第一部から第三部と3冊の文庫本が在る。その中の第二部である。少し前に第一部を読了していて、「続き」に相当する部分も多い訳で、興味深かった。

美瑛を訪ねた際に、十勝岳の噴火災害の経過ということで話題になる小説の『泥流地帯』を手にしてみて、三浦綾子作品に関心を抱くようになった。何作かに触れた中、その来し方を綴った内容の『道ありき』が佳かったとする知人の感想を聞き、比較的短い期間で本作に触れる機会を設けてみた。『泥流地帯』について聞いてから手にする迄にはかなりの時日を要したと思うが、『道ありき』については何時迄も放置せずに、聞いてから然程の時日を経ずに手にしたのだった。

『道ありき』は、三浦綾子の自伝と言われている。が、作品を読む中では「小説を発表し、作品が好評を博して名を成した主人公が、御自身の来し方を振り返っている物語」という「純粋な小説」というような感も抱く。そういう雰囲気が好いように思った。

第一部では、戦前に就いていた小学校教員の仕事から退いた戦後に病を得てしまい、婚約を破棄して療養生活に入り、そうした中での様々な出会いを経験して来た様子が綴られる。そして障害の伴侶となる三浦光世と出会い、「病気がよくなったら…」と申し出を受け、何年も経って結婚をした。

この第二部では、結婚をした後の暮らし振りと、「小説家 三浦綾子」が世に出る契機となった『氷点』を綴って新聞社の懸賞に応募し、入選する迄の時期を振り返っている。

長く療養生活の中に在って、外を歩き廻っていないので、外に出れば眼に留まったモノに一つずつ感銘を受けて「あれ!」と感嘆して、傍らの「ミコさん」に話し掛ける綾子である。その「傍らに話し掛ける人が在る」ということの「歓び」が溢れている様子が凄く強く感じられた。

現代の言い方では「1K」というような感じになると思うが、1部屋に台所や御手洗が在るという小さな家に三浦夫妻は暮らし始める。そういう中で、以前から縁や交流の在った人達との間で、新たに出会った人達との間で色々な出来事が重ねられる。やがて家主の都合も在って、夫妻は移転を余儀なくされる。そして色々と経過が在って、思い切って小さな家を建て、綾子は家で雑貨店を営むようになって行った。

そういうような経過が、夫妻が詠んだ短歌も交えながら綴られる。三浦綾子は短歌の同人誌に参加して作品を発表するようなことは続けていた。そして雑誌の募集に応じて綴ったエッセイが誌面に掲載されたという経過も在った。が、特段に「文学的履歴」という程のモノは無かった。文学の世界では無名な、客観的に言って「旭川の雑貨店のおばちゃん」という以上でも以下でもなかった。そこから思い立った小説を綴り、「12月31日消印」という締切だったので、その日に郵便局へ走って懸賞に応募した。それが入選した訳だ。

本作を読み進めると、御夫妻や身近な人達の来し方に纏わる挿話が色々と出ていて、「あの作品の、あの人物の設定に反映?」というような内容も在り、そういう「小説作品のバックステージを観る」という面白さも在るかもしれない。

しかし、そういうこと以上に心動かされるのは「御夫妻の生き様」というような事柄だと思う。『道ありき』という題名そのものに様々な意味合いは込められていると思うが、自身が感じるのは御夫妻が生きる“道”を見出して、歩んで来た“道”の途中で少し振り返っているというような様子だ。長い病気療養を経て、何事にもとにかく熱心な綾子と、彼女を包み込むように傍らに在る光世の御夫妻、互いに「傍らに話し掛ける人が在る」ということを「生きる歓び」のようにしている生き様と感じられた。

出会い、紐解くことが叶って善かったと強く感じた作品であった。広く御薦めしたい。

『Exit イグジット』

↓紐解き始めると、頁を繰る手が停め悪くなる。「続き?」と気になり、夕刻、深夜、早朝とドンドンと読み進め、素早く読了に至った。

Exit イグジット



↑同じ作者の作品を何作も読んでいるが、「こういう問題?如何なのか?」という事項を捉え、物語を通じて様々に考える材料を提供してくれる作品が多い。本作もそういう例に洩れない。

題名の「イグジット」だが、これはアルファベットで「Exit」で、「出口」という意味に他ならない。何が、何処から抜け出る出口ということなのか?その辺りを考えるという物語のように思う。

本作の主要視点人物は2人だと思う。雑誌記者の池内と、“金融コンサルタント”と称する古賀である。何方かと言えば前者、雑誌記者の池内が物語をリードする感だ。

大手出版社に勤める池内は30歳代で、書籍の営業の担当から、看板雑誌となっている月刊誌の編集部に異動となる。記者として「経済」を担当するようにという話しになった。が、漠然としている話しで、何を如何しようかと思案していた。

そんな中、池内は吉祥寺に住む叔母から連絡を受けた。仙台に在った高校時代に交際経過も在る女性が、叔母を訪ねて来たという。東京の大学に進んで卒業後に東京で出版社に勤める池内に対し、その女性、千葉は仙台で進学して仙台の地方銀行に勤めるようになっていた。

仙台の銀行の営業をしている千葉は、叔母の家に現れた。月極駐車場として利用されている、叔母の家で持っている用地に、ローンを組んでマンションを建てないかと勧めたのだという。叔母の相談を受けた池内は、東京に来ているという千葉に会って話しを聴くのだが、何か納得し悪いモノを感じる。

やがて池内は、メガバンクに勤めている学生時代の友人に会って叔母の件で意見を求めると、地方の銀行が東京に営業に来て、不動産関連でローンを組むように勧める営業をするのは「少し危ない」という話しを聴かされる。更に、経済のことに明るいという大ベテランのライターに教えを乞えば、地方の銀行が色々な問題を抱えていることを示唆する。

そうしている間に、仙台の市外局番で始まる全く記憶が無い番号の発信者から電話連絡を受ける。相手は仙台の刑事であった。仙台で千葉が死んだという。池内は驚く。

池内が大先輩のレクチャーを受けるような場面も交えながら、千葉の一件が契機で始まった、銀行業界の問題等を巡る様々な取材を重ねて行く。行き着く先は何処か?

また、池内の活動とは別に古賀の動きも在るのだが、池内は取材を通じてこの人物と出遭うこととなる。

本作は「小説」、言葉を換えると「フィクション」ではある。が、凄くリアルで説得力が在る。著名な人物をモデルとしているということが判り易いような作中人物も在る。当然ながら、何かを真摯に論じる場面での資料になるモノではない。が、個人的にモノを考える材料にはなる。

概ね2012年以降の「長期政権」というようなモノが在った時期を背景とし、本作の物語そのものは2019年頃から2020年頃の様子という中で展開している。例の“感染症”に関連する混乱という様子も描かれる。

ハッキリ言えば、多額の資金を動かすのでもないような、巷で多数派を占めているであろう人達―自身も含まれると思う―にとって、金融というようなこと、世の中の資金が動く仕組みというようなことは解り悪い、または然程深く考えていないことかもしれない。が、「本当にそれで構わないのか?」という内容が本書には込められる。

雑誌記者の友人の事件の件が契機で、何やらキナ臭い状況が世の中で進展しているということが明かされようとする。

何か凄く夢中になった作品だ。御薦めしたい。

『道ありき(青春編)』

↓なかなかに興味深く拝読した小説である。

道ありき 青春篇 (新潮文庫)



↑偶々出くわした小説が興味深く、「同じ作者による他の作品」と幾つかの作品を紐解く中で出会った作品である。

「小説」というモノは、作者が自由自在に想像の翼を羽ばたかせて綴るモノであろう。作者本人の経験や見聞、人生と然程関連が無くても何らの支障もない。それでも、場合によっては作者本人の人生が色濃く反映される小説というモノも登場する。

三浦綾子作品に関しては、丁寧に取材をして様々な人達の話しを参考にしながら綴られている作品が見受けられると感じられる他方、御自身の人生の中での経験や、考えて来た事柄等が色濃く反映されていると想像させる面も大きいように感じる。小説家として登場した当初から、活躍を続ける中、晩年近くに発表されている作品に至る迄、一貫して「取材成果」と「御自身の人生の中での経験や考察」とを巧みに織り交ぜるような感じで作品を綴り続けたのではないかと、一読者としては思う。

本作『道ありき(青春編)』は三浦綾子の「自伝」と言われている。戦前に勤めていた小学校教員の仕事を辞めた戦後間もなくの頃、病を得てしまって療養生活に入ることとなる。長く療養生活を続けるという中で、幾つかの出会いや別れが在って、やがて結婚に至ったという経過は知られている。本作もそうした、少し知られた経過の物語である。

が、それでも作者自身の「自伝」というよりも、「小説家として少し知られるようになった主人公の“堀田綾子”が来し方を回顧する物語」というような、「純粋な小説」という感覚で読んだ。そういうように「読まされた」と言い換える方が妥当かもしれない。

小説によく在るような感じで「堀田綾子は…」というような叙述が早目な段階に出て来るのでも何でもなく、「私」という第一人称での語り、「御自身の心の移ろい」を一部に旧い記録等も少し引っ繰り返しながら綴っている。眼前の他の人から「綾ちゃん」、「綾子さん」、「堀田さん」という程度に呼ばれている描写が出て来ることから、綴られている物語、読み進めている物語の主人公が「堀田綾子」と知れる訳である。本作の最終盤で結婚し、「三浦綾子」となるのである。

20歳代から30歳代の通算13年間程を療養に費やしたというのは、凄く特異かもしれない人生のようにも思う。その中の概ね半分程度は、症状の関係で自由に身体を動かせない羽目で、御手洗を使う、食事を摂るという動作にさえ不便していたのだという。そういう中、不自由さを呪うというようなことに終始する、または不運であると何もかも諦めるということではなく、出逢った人達との交流の中に様々な可能性を拓こうとするような様子に心動かされる。更に、周辺で「誰が何と言おうと…」という感じで「堀田綾子」を支えようとする人達の様子にも驚かされる。

本作の物語は、昭和20年代、昭和30年代を背景としている。当然ながら、その様々な状況は現在とは大きく異なる。それでも、苦難を嘆く、呪うに終始しない生き様、苦難の中に在る人を何とか支えようとする人の様というのは、時代や場所を超えて心揺さぶるモノが在ると思った。

三浦綾子作品の多くは長く読み継がれて「古典」という存在感を放っていると思う。本作もそうした「古典」の一つに上げなければならないであろう。

『ウクライナの地政学』

↓フランスの本を翻訳している新書の「文庫クセジュ」の一冊だ。

ウクライナの地政学 (文庫クセジュ)



↑「百科全書」という事典のように、様々な事柄に関して、各々の専門家が執筆して広く一般の人達が知識に触れられるようにというのが、フランスでの叢書の趣旨であったようだ。その叢書が翻訳で送り出され続けている。1950年代以来続くというから大変なものだと思う。

「地政学」というのは「ゲオポリティク」(Geopolitik)というドイツ語の訳語として用いられるようになった用語だ。この用語で表現されるモノに関しては、方々で様々な経過は在るようである。が、概して「その地理的条件等を重視しながら国際関係等を考察する」というような感じなのだと思われる。

本書は、「ウクライナ」に関して、1990年代以降の経過を概観しながら、ロシア、EU諸国、その他との関係性の変遷を、様々な調査で伝えられる事柄も織り込みながら考えるという内容になっている。「ウクライナの地理的条件等を重視しながら国際関係等を考察する」という訳である。

本書の原書は、2013年頃から2014年頃の「マイダン革命」、「クリミア併合」やウクライナ国内での紛争というような情況を踏まえて登場したモノだというが、2022年2月の「侵攻」という情況を受け、一部に加筆等もした「第2版」が2022年10月に出たという。本書はその2022年10月登場の「第2版」を翻訳しているという。或いはフランスでの叢書は、古典的な事象や古い時代の歴史というようなことでもない、少し動いている事象が入っている場合等に加筆等も或る程度積極的に行っているという。そういう姿勢が反映されているのだ。

「ウクライナ」が「現在知られている版図の国」として発足したのは「1991年」である。「ソ連の中の“共和国”」の版図が、ソ連の旗が下ろされた後にそのまま“独立国”ということになったのだ。“共和国”としての版図も、1922年の「ソ連」がスタートする前、それ以降と変遷が続き、少なくとも1950年代にクリミアについて移管という措置が取られた辺り迄は変化していた。色々な要素、背景の在る人々や地域が寄せ集まっている「ウクライナ」であり、様々な調査で示される“傾向”に「地域差」や「偏向」は絶えず在るということが本書にも言及されている。

2022年2月の事態に関して、何か「唐突に軍事侵攻が始まった」かのように捉えられ、伝えられていたかもしれないがそうでもなく、2014年頃からの伏線のようなモノが在る。ウクライナとロシアと、ウクライナとEU諸国とというような関係性も、1991年以降は色々と揺れて現在のようになって行った。本書はそういうことを考える材料を、フランスの研究者の目線で学ぶことが叶う。有益であると思う。

大きな出来事に関しては、その「以前」(avant)と「以後」(apres)とで随分と違いが生じるモノであるということが本書の本文で、更に訳者後書で話題になっている。現在も進行中である「ロシア・ウクライナ戦争」であるが、既に「以後」(apres)ということになっている中、「以前」(avant)のような様子に簡単には回帰しないであろう。

ウクライナとEUとの関係だが、最近は何か簡単にEU加盟国か何かになって行くかのように感じられるような伝わり方をしているが、実はそうでもない。長い年月に亘って、ウクライナがEUと接近する中で「課題」が幾つも出ていて、それらは然程多く解決しているのでもないようだ。そういう辺りも、EUの国からの目線で本書には綴られている。

ウクライナとロシアとの関係だが、間違いないのは、「ロシア・ウクライナ戦争」の「以後」(apres)に「ロシアへの印象の悪化」が見受けられるということだ。そういうことで、ウクライナの周囲の国々との関係性というのは、「非常事態」とでも呼ぶべき状況が或る程度落ち着いた後、如何いうように整頓されて行くのか、先行き不透明ではある。

目下の「ロシア・ウクライナ戦争」は、多くの人命が喪われ、加えてウクライナの将来が色々な意味合いで擦り減らされるような様子になっていること、その他に巻き込まれた形の諸国で変な経済的な影響も生じていると言わざるを得ず、非常に残念であるように思う。が、残念であろうと如何であろうと、事態を観続ける他無い。その観続ける場合の「観点」を一定程度支えてくれるような本書は有益であろう。

『塩狩峠』

↓1966(昭和41)年から1968(昭和43)年の雑誌連載が初出で、連載後に単行本が登場したという。登場以来、既に55年も経つが読み継がれている「古典」と呼んで差し支えない小説であると思う。

塩狩峠 (新潮文庫)



↑読み終わって、何か心揺さぶられるような何かが在るような感じである。

友人と雑談に興じた中で、最近読んだ本というようなことに話題が及び、偶々読了して日が浅かった三浦綾子作品に言及した。すると友人が「その作者の本であれば『塩狩峠』は読んでいた」とした。列車の不具合で大事故が起こりそうになった時、一命を賭して列車を停め、乗り合わせた乗客を救ったという人物が在り、その人物をモデルとする主人公の人生が綴られる物語ということになる。

自身は稚内に住んでいて、旭川へ向かう際に列車を利用する。途中の名寄駅にまで至ると、特急列車の場合には旭川駅迄が1時間を切るようになる。名寄駅というのは1903(明治36)年に開業していて、1911(明治44)年に軌道が延伸される迄は起点・終点の駅であったそうだ。1909(明治42)年、この名寄駅から旭川駅へ向かった列車が南下し続けたが、途中の塩狩峠で列車後尾の客車の連結器が外れてしまった。峠を上っている途上なので客車は軌道をスルスルと下って行く。やがて加速し、脱線転覆となってしまうことが危惧された。そういう中、乗り合わせた鉄道職員がデッキへ駆け、非常ブレーキを操作して減速を図った。やがて件の鉄道職員は線路に転落してしまった。そして生命を落としてしまった。が、客車は停止し、乗り合わせた乗客は全員が無事だった。語り伝えられる、少し知られた挿話である。

本作の主人公は永野信夫という人物である。この信夫の少年時代から青年期、そして最期を遂げる少し前の日々、その最期が描かれる。末尾に残された人達の短い挿話が入って、小説は結びとなる。

これは或る男の精神的な成長、或る種の到達、そこから更に踏み出そうとして、そこで唐突に起こる「幕引き」というような物語であると思った。

知らずにやっている、言っていることが「正しくない!」と厳しく指摘されるようなこと。誰かに勧められて、好ましくないと思い悩んで止めてしまったが、そこから少し事の是非を考えるということ。同情すべき苦しい状況に在る人に接しながら、淡々として明るい御本人に驚き、人の心を支えるというような事柄に眼を向けるということ。信夫が重ねて行くのはこういうようなことである。そうして、鉄道の事務関係の仕事の中では、なかなかの人格者で仕事が出来る男として知られるようになり、教会の諸活動という青少年活動等にも精力的に取組んで、色々な人達に敬慕されるようになって行く。

本作は、最終盤に描かれる「犠牲」に終始するような物語でもないと思う。信夫は心の中で、相反する色々な要素をぶつける、そういう情況を乗り越えることで「自分なりの成長」を重ねた経過が在って、その「成長」の故の生き様が在ったのであろう。寧ろその「信夫の心の旅路」というように感じられる物語だと思った。そしてその「最期」は、信夫自身の都合という以前に、何とか居合わせた人達の安全を確保するということにばかり意が向いていたのだと思えた。夢中だったのであろう。そんな様が「迫る」感じで描かれる。そして、そういう有様が周辺の人達に大きな衝撃を与えたということなのだと思う。

本作は「己の来し方?」を、読者個々人に向かって静かに問い掛けるような雰囲気も色濃いかもしれないと思った。それに心が揺さぶられるのだが、同時に「傍目には少し哀しい」という終わり方でもある。互いを心から敬愛し、人生を共に歩むことを誓った信夫とふじ子との結末が、率直に言って哀しい。が、必ずしも因果応報でもなく、運命が突如として立ちはだかるというのが、人の人生というモノなのかもしれないということであろう。この辺は、同じ作者の他作品でも様々に描かれているとも思った。

程々の厚さで一冊で完結の物語で読み易い。同時に余韻が深い。御薦めである。

『ロシア・ウクライナ戦争 近景と遠景』

↓「近景と遠景」という題名に惹かれて本書を手にした。そして紐解いてみたが、有益な読書体験が出来たと思う。

ロシア・ウクライナ戦争 近景と遠景



↑何かで発表されたモノを纏めたという程でもなく、2023年夏頃の時点で書き下ろしたという一冊である。

著者は新聞社の仕事に携わっている。ウクライナの動きが大きな事になってしまった2022年頃、著者はロンドンの支局に在って、欧州各国のニュース取材を担う立場で、ウクライナには2022年を通じて何度も入っている。その見聞や考察を纏めようとしたのが本書である。

惹かれた題名の「近景と遠景」だが、読了してみて益々判ったという感である。何度も現地のウクライナを訪ね、気になった事象に関しては「日本人の記者という人が毎日来ているよ…」という話しになる程度に何度も関係者に会って話しを聴いている。そうやって事情を把握して理解を深めたというのが「近景」である。本書の各々の叙述は、なかなかに迫るものが在る。そうした「近景」を見詰め続けながら、考察をする部分が「遠景」である。

本書の内容の一部に、著者の知り得る様々な国々の人達の発表している論や、会って話しを聴いた人達の談も在る。が、大半は概ね時系列に沿って、ウクライナに入り、出逢った人達の談や、そこから浮かんだ「伝えられ、同時に伝えられ切っているでもないかもしれない」という感の出来事ということになる。何か、大変な事態の中に身を投じる結果となった人の、日記文学的な色彩を感じないでもない、何処となく回顧録という雰囲気迄も漂う内容だと思った。そこに引き込まれながら、頁を繰る手が停められなくなって素早く読了に至ったのだ。

「特定軍事行動」という言い方が在った。或いは現在でも使っているであろうか?ロシア語を訳して「特別軍事作戦」という言い方を耳にすることが多かったが、あのロシア語について「“戦争”ではない」と主張していた辺りから、寧ろ「特定軍事行動」とでもする方が妥当と考え、個人的にはそう解釈しているのだが。この「特定軍事行動」というのが「侵攻」とも言われていた。が、事態が継続する中で寧ろ「ロシア・ウクライナ戦争」とでも呼ぶ方が妥当かもしれないと見受けられるようになっている。本書でもそういうように纏められている。

2022年2月段階で、ウクライナの政権は「私達はここに在る」とアピールし、大統領や主要閣僚が国外脱出のようなことはせず、侵攻を受けてしまった事態に何とか抗うと強い意思表示をした。それが「何とかしなければならない」という動きを生み出した面が在る。「侵攻を受けてしまった側」に手を差し伸べようという諸国の人達による支援の受け皿としての政権が維持された訳だ。

そして事態は進むに連れて変質した。侵入したロシア軍が居座った街で「住民の虐殺?!」という事態が生じた。人口が一定程度集積している場所で砲弾が飛び交う等で犠牲が生じたというのでもない。無残な暴力で生命を落としてしまったという事例が生じたのだ。これにより「侵攻した側、侵攻された側」ということに留まらず「惨い暴力を振るった側、振るわれた側」というように、事態の“質”が変わってしまった訳だ。更に、こういうように“質”が変わってしまって以降だけでもかなり時間は経ってしまっていると言えるかもしれない。

本書では「現場」を歩いて人々の話しに耳を傾けた中、「戦禍で生命が損なわれることへの嘆きと悲しみ」に留まらず、「無法への憤り」が渦巻いているということが紹介されている。

「嘆きと悲しみ」に留まらずに「憤り」が渦巻くというのは「近景」に相当すると思う。「遠景」に相当する事柄として、この「ロシア・ウクライナ戦争」という事態を通じて、“戦争”を“認識”する場合の“性格”、“質”が大きく変わった可能性が示唆されている。

“戦争”とでも聞けば、何処かの国の軍隊や、何らかの武装組織が兵器を使って交戦するという様子を真っ先に思い浮かべる。が、そういう辺りで「収まらない何か」が在る。最近は「惨殺」というような様子が比較的簡単に世界中に伝わるようにもなり、“戦争”が「人間が人間を踏み躙る惨い事」という意識が高まっているのかもしれない。そうしたことが、戦いそのものの出口を見出し悪くしてしまっている面が在るのかもしれない。

殆ど丸一年近くの間に、何度もウクライナに入って、都度毎の様子が綴られている本書の内容は貴重だ。開戦後に人々の避難が拡がり、それが一部は戻りというような動き、戦禍で電力供給に困難が生じ、そうした中で堪える人々というような様子が綴られる。更に、居合わせた建物がミサイルを被弾という生々しい経験談も在った。

こういう現地の様子に関しては、何かで現地に入った方には随時御伝え願いたい感ではある。最近は、激戦地の他方で、一定程度落ち着いた都市も増えているやに聞くが、様子は判らない。正直、「何か妙な様子は?」と時々ニュースはチェックしてしまう。

「侵攻を受けてしまった事態に何とか抗うと強い意思」で、事態は長期化して来ている。何やら混迷しているように見えるが、方々で破壊が進んでしまい、地域社会が崩れてしまい、ウクライナの将来が擦り減らされてしまっているというような様子も在るのかもしれないと、彼の地の様子を聞く都度に思う。今や「正義」を追うというような様相で、「出口」は益々見出し悪いかもしれないが、それでも「出口」を探らなければならないのであろう。

勿論、本書があらゆることを網羅しているとも思わない。が、正に「近景」を詳述し、更に「遠景」を語るとい本書は非常に有益であると思う。「ロシア・ウクライナ戦争」は進行中の大変な事態で、場合によって更に長期化もする可能性が高く、俄かに起きな動きが在ったとしても、次の局面への道程は長くなりそうな事案である。故に、この種の内容は広く読まれなければならないというように思う。御薦めしたい。

『母』

↓然程厚くない文庫本1冊の小説だが、なかなか濃密な感じだと思った。

母 (角川文庫)



↑最近、少し積極的に作品を読むようになった三浦綾子の小説で、1992(平成4)年に登場した作品ということだ。

「小林セキ(1873-1961)」と名前を挙げて、直ぐに判る人は少数派であると考えられる。他方で「小林多喜二(1903-1933)」と名前を挙げれば、「“プロレタリア文学”の小説家」と判る人が多いと思う。小林セキは、この小林多喜二の母である。

本作は、小林セキの「一人称の語り」という方式で一貫している。或る日の午後、来訪者を迎えた小林セキが、夕暮れ迄にゆっくりと想い出等を語っているという体裁である。最晩年の小林セキは、娘の一人が嫁いだ小樽の朝里の家に在った。その家で話しているという体裁だ。

本作の内容は小林セキの来し方、家族のことということになる。小林セキは秋田県内の村で生れて育って小林家に嫁ぎ、子ども達も生まれ、やがて夫の兄が事業を起こして一定の成功を収めた小樽へ移って行くという経過を辿る。そして長男が夭逝したので実質的に長男という様子でもあった小林多喜二を巡る様々な事柄を振り返って語るというのが本作の内容だ。

小林家は地主であったが、後継者であった小林セキの夫の兄が事業に失敗して財産を損なってしまった。夫婦は貧しい小作農として村で暮らしていた。夫の兄は東京へ出て再起を目指したが巧く行かず、好況に沸いていた小樽へ移り、やがてパンや菓子の店を興して成功する。弟夫妻の長男の面倒を見たいと小樽に引き取ったが、長男は夭逝してしまった。その後、夫妻と子ども達は兄の招きで小樽に移る。小樽でも決して経済的に豊かとは言い悪かった。それでも多喜二は、父の兄、伯父の店で働きながら学資の支援を受け、小樽高商(現在の小樽商大)に学び、銀行に職を得たのだった。

こういうような一家の物語が、当事者たる小林セキの証言として綴られる本作である。

物語は、小説家としての活動で評判を得て行く他方、社会運動家として当局の弾圧の対象というようになり、やがて銀行を去って東京で活動するようになり、「逮捕後に惨殺」という事態に至ってしまう。そういう経過に臨んだ小林セキはその心情や承知している経過等々を語る。更に、その後の心の軌跡のようなことも語られ、穏やかに最晩年の時を過ごしていることが語られる訳である。

貧しい暮らしぶりながら、何か刺々しさのようなモノがなく、朗らかに暮らす親子という姿、兄弟姉妹という様子に心動かされる。小林多喜二は弾圧の対象になって、結果的に殺されてしまうのだが、「公平に仲良く暮らす人々の世の中を目指したい」とした多喜二の主張が殊更に奇怪なものであったとも思い悪い。そういう様子に触れ、明るく優しかった息子を悼む母の様子というものが凄く迫る。

「昭和」という時期が幕を引き、作者も70歳代に入ろうかという中、「我々が通り過ぎた“昭和”とは?」という問題意識で綴られたのが本作なのであろう。似たような問題意識の作品として、本作の少し後に纏まった、過日読了の『銃口』も在ると思う。

極々個人的なことなのだが、自身の祖母も秋田県出身だった。秋田県辺りの方言の抑揚が下敷きになった独特な話し口調だった。本作の「小林セキの語り」という体裁で綴られた文章は、その「祖母の話し口調」を想起させるもので、黙読していても音声が聞こえているような気がした。

何か経済的な事柄は事柄として、「心豊かな在り方」を追っていた、意図せずともそうしていた、互いの笑顔を糧にするかのような家族が在って、その一家の息子が如何したものか酷い目に遭ったというのが、小林多喜二の経過ということであろうか?何か深く考えさせられた。

本当に、或る高齢の女性が話していることに耳を傾けるかのような感じで、ドンドン読み進め、読み進める毎に余韻が拡がるような本作は御薦めである。或る意味で「平成の初め頃以上に殺伐としていないか?」という感じがしないでもない現在であるからこそ、本作が読者に「迫る」のかもしれないというようなことも感じないではなかった。

作品と無関係かもしれない余談だ。小林多喜二が学資の支援を受けた小樽のパンや菓子の店だが、後に製紙工場が進出した苫小牧に店を出している。この苫小牧の店の後継者がハスカップのジャムを使ったロールケーキを世に送り出す。現在も向上や店舗が苫小牧に在って、そのロールケーキも販売が続いている。小林多喜二の伯父が営んだ「三星堂」に因んで<三星>(みつぼし)という会社だ。苫小牧では老舗菓子店として通っているようだ。

『銃口』

美瑛を訪ねた際に、十勝岳噴火の災害に纏わる話題として小説『泥流地帯』が知られているということを何度も聞いていて、思い切って入手して読んでみた。実質的な上下巻ながら、別作品扱いである『続 泥流地帯』と併せて読み、これが非常に好かったので「同じ作者の別な作品」と三浦綾子作品を何作か続けて読んでみた。何れも、新聞や雑誌の連載で初登場、そして単行本が初めて登場という時期が半世紀やそれ以上も前という作品だった。

三浦綾子は『氷点』でのデビュー以降、概ね35年間の作家活動という経過が在る。その活動の後期というような頃には、少し体調も好くなかったということだが、1990年代にも深い問題意識で幾つもの作品を発表している。その1990年代の作品と言っても、既に30年程度も以前ではあるが。

↓80年以上も前の事件、それに巻き込まれる羽目に陥った人物という題材を軸とした物語で、30年も以前に発表された小説ではある。が、そういう「何十年前」という変な旧さは微塵も無い。現在の時点でも考えさせられる内容を大いに含む小説だ。

銃口 上 (角川文庫)




銃口 下 「銃口」シリーズ (角川文庫)



↑本作に関しては、頁を繰り続ける都度、物語が進めば進む程に「如何いうように?」という興味が高まる感じだ。頁を繰り続ける程に「停められない」という度合いが高まる。そして夢中で読了に至ったのである。

本作は少年時代に小学校の教員を志すようになり、その道へ進んだという北森竜太という青年が主人公だ。作中の殆どの部分がこの北森竜太の目線で綴られている。

上巻は北森竜太の少年時代、長じて教員となり、教員としての活動に励みながら、同じく教員となった子ども時代からの馴染である女性と幸せな家庭を築くことを夢見るようになって行くという展開である。昭和に元号が改まったような頃から、昭和17年頃迄の経過となる。

下巻はおかしな事件に巻き込まれた北森竜太の苦悩、それでも幸せな家庭を築こうとした想いが、戦争という時代の渦に砕かれる様、満州でのこと、そして終戦後の帰国に纏わること等ということになる。

実在の地名等も多い他方、一部に架空の地名等も交る。作品を鳥瞰すると、昭和の初めから終戦直後頃の時期の20年間程を描く大河小説という雰囲気だ。が、核心は上巻の最後の辺り、おかしな事件に巻き込まれて行く経過と苦悩なのであろう。

北森竜太は旭川の質店の息子である。両親、姉、弟という家族である。近所に同じ年の従兄弟の楠夫達も在って兄弟同然だ。竜太は小学校で出会った坂部に惹かれ「あの坂部先生のように」と教員を志し、中学から師範学校へ進み、教員として採用されるという経過である。

この竜太の来し方が描かれている旭川での場面だが、昭和の初め頃の雰囲気が活写されていて凄く読ませる感じだ。そして教員となって赴任するのは空知管内の炭鉱町である。この炭鉱町の雰囲気が、何か凄くリアルに伝わる感じだ。

そして教員としての活動に関することだが、「あの時代の学校?」という様子が非常に詳しく描かれる。そして熱心に授業に取組む竜太達の様子も凄く引き込まれるモノが在る。

そして「綴り方」である。これは国語関係の課業の一つとされ、書き言葉を学ぶものなのだが、小説の描写等によれば「作文」ということになる。自由な主題で、または与えられた課題で児童が作文を綴り、教員が講評する、または教室で綴った児童が朗読し、教員や児童達が話し合うというような取組が為されている。

この「綴り方」であるが、言葉を読み、解釈し、考え、その考えたことや見聞を言葉で伝えて行くというようなことが、学習や暮らしの基礎として重要と見受けられることから、授業の充実や児童の関心を高めようと熱心に研究しようという教員達が在った。こういう人達が集まりを持って意見交換をしようというような活動をした。そこから波紋が拡がるのである。

戦争の時代に入って行く中で<治安維持法>やそれに伴う警察や軍の憲兵の活動が拡がる。北海道では「綴り方」の授業の研究をしようとしていた集まりに参加した教員達が密かに逮捕され、「赤化思想」等と決め付けられ、教員を依願退職することを無理強いされたという事件が実際に在ったのだという。私財を投げ打って弁護士費用を出した人物の支援と、熱心な弁護士の活動で、逮捕された関係者の中で起訴された人達は「有罪ながら執行猶予」と、受刑することは辛うじて免れたそうだ。

本作の核心は、北森竜太がこの「綴り方」の教育を研究しようという集まりにほんの少しだけ関ったということで、逮捕されて退職を強要され、戦争の渦中にも身を投じるようなことになるという様子である。

それにしても<治安維持法>やそれに伴う警察や軍の憲兵の活動というようなモノは禍々しいものだ。念願し、熱心に勤めていた教員の仕事を奪われた竜太は、父親の伝手等で勤めるようになった新しい職場にも監視が入って孤立させられて1ヶ月も居られないようにされ、酷く孤立させられてしまう。

題名の『銃口』は、恐らく「何時でも、何処でも、銃口か何かを突き付けられているかのような気分を強いられる羽目」という竜太の様子を暗示するものなのだと思う。

言葉を読み、解釈し、考え、その考えたことや見聞を言葉で伝えて行くというようなことが、学習や暮らしの基礎として重要と見受けられるとして、本作の竜太や教員達が研究しようとするのだが、これは「時代を問わずに大切なこと」のように思う。

他方に「集まれば危険」と、密かに関係したと見受けられる人達を逮捕して、そういうことを全く公にせず、個人の仕事や尊厳を踏み躙ってしまうような振舞いに及ぶという、怖ろしい状態が嘗ては在った。こういうのは「時代を問わずに忌避するべきこと」のように思う。

読後の余韻に浸りながら思った。「学習や暮らしの基礎」となるような、言葉を読み、解釈し、考え、その考えたことや見聞を言葉で伝えて行くというようなことが大切にされているであろうか?考えたことや見聞を言葉で伝えるという程度のことを、蔑む、危険視するというような、妙なことが行われてはいないであろうか?そういう余韻が在って、本作に関して「変な旧さは微塵も無い」という程度に思った。少し言い換えれば、本作で問われているようなことを、現在でも少しは考えなければならないのではないかということだ。

作中の竜太だが、色々な叙述から推定して1918(大正7)年頃に産まれている。本作の制作に着手されているのは1989(平成元)年、1990(平成2)年だ。作中の竜太と同年代の人達は70歳代の初めというような感じになっている頃である。本作で参考にされた様々な証言のようなモノに関して、70歳代位であれば「来し方を語る」というように直接に詳しく話して頂くということが叶う可能性も高いと見受けられる。そういう意味で、「この機を逃せない!」というタイミングで得た情報を反映させることが叶った本作かもしれない。

本作を綴った三浦綾子は1922年生まれである。作中の竜太達より少しだけ若いが、殆ど同じ時代を潜って、昭和の最後を迎えていた。そういう中での「想い」が強く、色濃く反映された力作がこの『銃口』であるとも思う。

余韻も深い本作を広く御薦めしたい。

『インド―グローバル・サウスの超大国』

↓題名を見て、強い興味を覚えて紐解いてみた。読んでみて善かったと思う一冊であった。

インド?グローバル・サウスの超大国 (中公新書 2770)



↑或る程度専門的な内容も含めて、一般向けに必ずしも知られていないかもしれないことを紹介する、そしてそれが程好い分量というのが「新書」の魅力なのだと思っている。本書は正しくそうした「新書」の魅力に溢れる一冊だ。

「インド」と聞いて、思い浮かべられるモノは限定的であるような気もする。遠い古代から様々なモノを受継いだという文化を有していて人口が非常に多い国という程度のことしか思い浮かばない。加えて、カレー料理が親しまれているが、その起りとなる地域ということも思い浮かぶ。個人的には、札幌に出て食事を摂る場所として気に入っている御店の一軒にインド料理店が在ることも思い浮かべる。

そういう残念ながら「少しばかり貧困なイメージに留まる」というインドに関して、政治、経済、企業活動、社会、外交、各分野の近現代の経過、日本との様々な関係等に関して、その地域や社会が内包する複雑な“多様性”という要素も交えて、広く深く、同時に判り易く纏めることを試みているのが本書である。そしてその「試み」は成功していると思う。

何時の頃からか「グローバル・サウス」という言い方も耳にする機会が増えているように思う。「南半球」というようなことを念頭に置いた表現であると見受けられる。これは南半球に限定するのでもなく、寧ろ「新興諸国」というような感、「比較的近年に存在感を増しつつある国々」という意味合いで用いられていると思われる。

インドはこの「比較的近年に存在感を増しつつある国々」の代表的な国の一つと言い得ると思う。近年の国際関係のニュースで「インドのモディ首相が…」という言辞が耳目に触れる場合も多くなっていると思う。本当に、本書の題のような「グローバル・サウスの超大国」という存在感だ。

本書はこういうインドに関して、比較的最近の様子から少しだけ遡った辺りまで、実に幅広く「知らなかった…」を紹介してくれている。著者はアジア開発銀行や世界銀行でインドに関する御担当を続けた経過の在る大学教員である。この種の本を著すとして、これ以上の適任者は見出し悪いかもしれない。

実に幅広く「知らなかった…」を御紹介いただいている訳だが、個人的には外交関連の事柄が興味深かった。実際、近年の様々な状況の中、インドのような「比較的近年に存在感を増しつつある国々」の注目度は高い。そして「独自に様々な国々との関係の中での“位置”を築くことを模索し続けた」というようなインドの外交の経過は何か興味深く本書で学んだ。

新たな知識を得ようとすることは続けなければなるまい。好い一冊と出遭えて幸いだった。

『続 氷点』

小説を愉しんだ後に思う場合が在る。作中の最終盤辺りの経過の後、「如何いうようになってしまう?」ということが凄く気になる場合が在って、「こういうように?」と勝手に考えを巡らせてしまう場合も在る。

『氷点』という小説を読んだ。不幸な事件が契機で、一家は重大な秘密を密かに抱え込んでしまう。その秘密に関るヒロインは、その秘密を突き付けられる羽目に陥り、最終盤で騒動を起こしてしまう。やがて一家の秘密の真相を知る人物が、その真相を伝える。そういう具合で「ヒロインの陽子は如何なる?」という場面で物語が幕を引くのが『氷点』であった。

作者の三浦綾子の中で、『氷点』は発表されている「ヒロインの陽子は如何なる?」という場面で完結していたようである。が、小説が大好評を博し、三浦綾子が次々と作品を発表するようになって行く中で「『氷点』の陽子のその後?」という声は高まったようである。色々な人達が随分と、その件を話題にしていたらしい。

↓そういうことで、取材を重ねた上で登場した「続篇」である。

続氷点(上) (角川文庫)




続氷点(下) (角川文庫)



↑こちらもなかなかに夢中になった。

『氷点』は「昭和30年代の終盤頃」という時期迄の物語である。対して『続 氷点』は「昭和40年代前半頃」という時期の物語である。

『氷点』に登場の啓造、夏枝、徹、陽子という「辻口家の人達」は『続 氷点』でも引き続き主要な人物達ということになる。そして『氷点』に登場した、辻口家の人達と交流が在る人達も引き続き登場する。その他方で、『続 氷点』には新たな人物達も登場する。

上巻は、『氷点』の最終盤での騒動の直後という情況から物語が起こる。そして時間が少し経過し、『続 氷点』の鍵になる「三井家の人達」が登場するようになる。

下巻では、血の繋がらない兄の徹と、兄の友人ということで知り合って親しくなった北原との間で揺れていた陽子、そして「三井家の人達」を巡る挿話が多くなる。

『氷点』は陽子が成長する過程の子ども時代が相当に入るのに対し、『続 氷点』は陽子が既に高校生や高校卒業後、或いは大学生である。それ故に「陽子の目線」という部分が多い。

『氷点』の最終盤で陽子は高校2年であるが、『続 氷点』の中では大学生になっている。数年経っているということになる。そういった事情を踏まえ、<見本林>が在って、辻口邸が建っていることになっている神楽や旭川の街での挿話に加え、札幌での挿話も少し多くなり、加えて作中人物達が旅行に出るような場面も在る。

作中、作中人物達が色々と行動する中、東京方面への旅行に飛行機が登場する、蒸気機関車が牽引する客車が専らだった中にディーゼル機関車やディーゼルカーが散見している様子が登場する、更に自家用車を使う例も色々と出て来る。そういう辺りに、「昭和40年代前半頃」という「色々な意味で様子が変わっていた時代」を想った。

時代が如何変わろうと、結局「人間」は然程変わらないという一面も在るのかもしれない。故に、本作のような、発表されてから相当に年月を経ている小説が読み継がれているということなのかもしれない。

「秘めてしまっている悪意がもたらす何か」という人生模様、「悪意」たる「罪」というようなモノと向き合わざるを得なくなって行き、心が凍て付く思い(=氷点)を経験することになる陽子というのが『氷点』だった。これに対して「悪意」たる「罪」を「償う」とか「赦す」というような道筋を見出そうとする劇中人物達を描くのが、この『続 氷点』ということになるかもしれない。

やや旧い作品で、既に読了という方も多いとは思う。が、自身が極最近迄未読であったことから、未読の方も多いと想定する。そこで内容に踏み込み過ぎないように綴っている。

作品内容と直接的に関係は無いかもしれないことを加えておく。偶々、三浦綾子作品を何作か読んで興味深かったことから、『氷点』と『続 氷点』の「辻口邸」の辺りということになっている<見本林>、その辺りに在る<三浦綾子記念文学館>を訪ねる機会を設けることが叶うという出来事が在った。旭川を訪ねた折りに時間が在ったので、訪問機会を設けたという訳なのだが、作家の作品や人生を広く深く紹介する文学館も興味深く、晩秋の好天という中で散策した<見本林>も好かった。

『氷点』は独立して完結はしているが、『続 氷点』をも加えて、「昭和20年代の初めから昭和40年代半ば近く」の20年間程を描く“大河小説”という体裁に纏まっていると言えるのかもしれない。発表されて半世紀以上を経て読み継がれる「古典」である。自身は極最近迄読んでいなかった。が、読んでみて「広く御薦め!」と思った。

『氷点』

出逢った小説が気に入って「同じ作者の別作品?」という興味が湧く場合が在る。最近はそういう具合に三浦綾子作品を少し読んでいる。読んでいる小説は何れも何十年か以前に初めて登場している作品ということになる。が、自身にとっては「今月の新刊」というようなモノと同列に愉しむことが出来る。と言うよりも、「読者に迫る力」の強い作品であれば、「読み継がれる古典」として眼前に在る筈で、そうなると小説が発表された年代は然程気にならないものだ。作中で、例えば「幼児が成人する迄」というような感じの少し長い時間でも経つなら、作品の一部がかなり古い時代のような様子であっても気にならない。また、作品世界そのものが「〇〇の時代」と設定が明確なら、或る意味で「時代モノ」的な感覚で接することもまた可能だ。

三浦綾子作品そのものに関して、長い間余り触れたこともない感じだった。美瑛を訪ねると、十勝岳の噴火に備えた防災工事という経過が在る旨の話しを訪ねる都度というように聞き、その中で「昔の大変な災害の頃の様子に題材を求めた小説『泥流地帯』」と耳にしていた。「機会が在れば」ということでも埒が明かないので「機会を設けてみよう!」と本を手にすると凄く興味深かった訳だ。

特段に「有名作家の作品であるから読む」ということを個人的にはしない。が、今般は偶々三浦綾子作品を幾つか続けて読んだというような様子になっている。そういうことを友人等との話しで話題にしてみると、「あの作家の作品なら…」と既読作品が話題に挙がる場合も意外に多い。中には「以前に何作品も続けて沢山読んで、自宅の本棚に未だ何冊も在る」というようなことを言っていた方も在った。

その三浦綾子作品として世に出た最初の作品で、この作家の作品の「代名詞」のような存在感を放ち、様々な形で小説を原案とする映像作品も色々と登場しているのが『氷点』だ。文庫本は上下巻の2冊で成っている。

↓こちらが上巻である。

氷点(上) (角川文庫)




↓そして下巻である。

氷点(下) (角川文庫)




本作は、「辻口家の人々の物語」ということになる。そして一家の“娘”である陽子がヒロインということになるであろう。

作中の辻口家の主である啓造は、旭川の街で少し知られた病院の院長である医師だ。辻口が学生時代に師事した教授の娘である夏枝が妻だ。2人の間には徹という息子とルリ子という娘が在った。

辻口家が住んでいるのは神楽の一軒家である。“見本林”―植樹をする樹木の種類を研究すべく、様々な種類の樹木を植えた林―の傍ということになっている。物語の主な舞台は、一家の住む神楽や、行動圏ということになる旭川の街ということになる。

「旭川市」に対して「神楽」は長く「隣りの集落」であった。「神楽」の一部を成していた「東神楽」は独立した村、やがて町となって現在に至るが、他は「神楽町」ということになっていた。旭川駅の南側に在る川を渡ったような辺りに広がるのが「神楽」である。この「神楽」は1968(昭和43)年に旭川市に編入されて現在に至っている。

物語は昭和21年頃に起こっている。そして物語終盤迄に時が流れ、初めて小説が発表されたような昭和30年代の最後頃に迄至る。作中、辻口家の住所に言及される場面では「旭川市外神楽町」と出て来る。作中の時代は未だ「旭川市」ではなく「神楽町」だった訳だ。

物語の最初の方で、夏枝は彼女に想いを寄せる辻口病院の医師である村井と自宅で会っている。そこに3歳の娘のルリ子が居て、外で遊んでいるようにと夏枝は言い、ルリ子は外に出ていた。

やがて「ルリ子が居ない?」という騒ぎになる。そして夜になり、明け方近くに近所の川原でルリ子の遺体が発見された。通りすがりに出くわした男、佐石が手に掛けてしまったのだった。旭川を離れて札幌に在った時に逮捕された佐石であったが、留置された施設内で首を吊って自殺してしまったのだという。

啓造は戦争末期に産まれたルリ子について、終戦を挟んで多忙を極めた時期に余り接する機会さえ設けられず、3年と数ヶ月で生命を喪う羽目に陥ったことを嘆いた。同時に、ルリ子が姿を消した時の情況から夏枝を心の底で憎むようにもなっていた。

そういう中、夏枝は女の子を引き取って育てたいと言い出した。啓造は少し思うところが在った。そして学生時代からの友人で、札幌で身寄りのない乳児を預かる乳児院の仕事に携わる医師の高木に相談し、或る女児を引き取ることを決める。

夏枝が産んだということにして引き取った女児は陽子と名付けられ、辻口家に入って育てられることになったのだ。

こうして展開する物語は、啓造、夏枝、徹、陽子と適宜視点を変えて綴られる。啓造が抱え込んだ重大な秘密、密かにそれを知ってしまった夏枝が互いに牽制し、やがてぶつかる様、仲良しの兄と妹という感情を踏み出したモノを陽子に感じる徹、両親や兄と実は血が繋がっていないということに少しずつ気付きながら成長する陽子と、各々の展開が周辺の人達も関わりながら交錯して物語は展開する。

上巻は事の起こり、陽子の登場とその成長を軸に、啓造や夏枝の複雑な想いが絡まる。「この一家?如何なって行く?」と気になり、本の頁を繰る手が停められなくなる。

下巻は高校生になる陽子が中心になる感だ。大学生となった徹の存在感も増し、その友人の北原も重要かもしれない。展開する物語の中、陽子は一家の中での重大な秘密にも直面して行くことになる。

多分「街の名士」というような、地域での社会的地位も在る、経済的にも豊かと見受けられる辻口啓造の一家は、何等の問題も無いように見えることであろう。しかしそういうように単純でもない。“妬心”、“憤怒”というようなモノに起源が在るらしい“攻撃性”の故に「重大な秘密」が生じ、それが家族を何らかの形で苦しめる。そしてそれが、事情を承知しているのでもなく、自力で如何こう出来るのでもない陽子に突き付けられて行く。そういう感じだ。

本作は表層的には、恵まれた家庭の夫人による浮気や不倫、継子をいじめてしまうような事柄、出生の秘密を知らずに育つヒロインの物語ということになるのかもしれない。が、もう少し深い層が在りそうだ。それは「秘めてしまっている悪意がもたらす何か」という人生模様というようなことを綴ろうとしているのかもしれない。「秘めてしまっている悪意」が、所謂「原罪」というような概念、「実は“罪”を追ってしまっているかもしれない人間」ということなのかもしれない。

作中では、辻口家の在る神楽や旭川の街の様子が美しく描写され、鮮やかに作中世界を思い浮かべることが出来る。作中の「辻口家」の近くという設定の“見本林”は旭川駅から然程遠くはないのだが、自身は偶々訪ねたことが無い。(余計なことだが、“見本林”に至る道に入り、途中で左折して日帰り入浴施設に行ったということは在った…)それでも作中の活き活きとした描写で様子が思い浮かべられる。「北国の林」という風情が非常に色濃く伝わる本作の描写は、辺りの様子に親しんだ作者ならではの描写であるとも思う。

加えて、全般的に「美しい林を望む典雅な邸宅で繰り広げられるドラマ」という様子で、何処となく「モスクワ辺りで観られる舞台演劇が醸し出すような作中世界」をも思い浮かべてしまった。初登場が1964(昭和39)年と半世紀以上も以前、「もう直ぐ“還暦”」という程度の旧さではある本作だが、作品は全く色褪せてはいないと思う。「今更…」ということでもなく、未読の方におかれては是非手にしてみて頂きたい。自身、頭の隅で「今更、物凄く以前のベストセラーを?」という引っ掛かりも禁じ得なかったが、手にして読んで、そういう引っ掛かりは雲散霧消した。御薦めだ。

『天北原野』

或る小説を興味深く読んで愉しんだという経過が在ると、「同じ作者による別作品?」という興味が沸き起こる。

↓その種の興味に駆られて入手するに及んだのだが、紐解き始めてみると頁を繰る手が停まらない、また「停められない」という様相を呈し、なかなかに愉しんだ。

天北原野(上) (新潮文庫)




天北原野(下) (新潮文庫)



↑1974(昭和49)年から1976(昭和51)年に雑誌連載として登場した作品だという。1976(昭和51)年に単行本となった。後に文庫本にもなっていて、幾つかの版が出たと見受けられるが、今般入手したモノの初版は1985(昭和60)年ということだ。

題名の「天北」である。明治の初め頃、現在の北海道内に所謂「旧国名」に相当する地方の地域が設定された。北海道の北には「天塩国」、「北見国」というような「国」が設定された。ここから「天北」というような呼び名が起こっている。使用例を見ると、2つの「国」の頭文字を取っているという例も、「天塩国の北側」という意味が起こりという例も在るという「天北」である。

実は「天北」というのは稚内に関係が在る用語だ。1922(大正11)年に初めて現在の稚内市内に至った鉄道は、後に「天北線」と呼ばれるようになる「天塩国」、「北見国」というような地域を経由する路線だった。この路線を通る<天北>という急行列車が稚内・札幌間で1961(昭和36)年から長く運行された。天北線は1989(平成元)年に廃止されている。

本作はこの「天北」という地域、加えて「樺太」を主な舞台とする物語である。作中で少し長い年月が経ち、その中での作中人物達の人生が描かれる、所謂「大河小説」という体裁である。

上巻では1923(大正12)年頃から1938(昭和13)年頃という背景だ。下巻では上巻の最後の辺りに在った場面の数ヶ月後から物語が起こり、1945(昭和20)年の戦争の終結の頃迄、最終盤辺りは戦後に相当する昭和22年頃という時代が背景だ。上下巻を通じて、概ね四半世紀の期間、その時代を生きた作中人物達の人生が描かれる物語ということになる。

上巻の物語はハマベツという北海道北部の小さな集落から起こる。「左手に天売島、焼尻島が、右手に利尻岳が見える」とされている場所である。「ハマベツ」は架空の集落名だが、場所は苫前町辺りをモデルとしていると言われる。

このハマベツに菅井貴乃という、美しく気立ての好い大工の娘が在った。小学校の校長の息子で代用教員である池上孝介と相思相愛であり、双方の両親も賛同していて間もなく結婚ということになっていた。

集落の有力者で、造材業を手掛けて製材所を営む須田原伊之助の息子である完治は貴乃に密かに強い好意を抱いており、何とか自身の妻としたかった。そこで「一計」を案じる。結果、予定の結婚式を前に池上親子はハマベツを去らざるを得なくなった。孝介は代用教員を辞め、樺太で仕事をして人生を拓こうと旅立った。

孝介が樺太へ去った後、完治は貴乃に執拗に言い寄り、やがてまた「事件」も在った。終に貴乃は完治と結婚する。

10年程が経った。須田原家の造材業等に関しては、経済や社会の様々な動きで頓挫してしまっていた。一家は稚内で海産物店を営んで暮らしていた。貴乃と完治との間には一人息子を頭に二人の娘と3人の子ども達が在った。

この稚内の須田原家に孝介が訪ねて来る。樺太で鰊漁の網元の後継者となり、各種事業を手掛けて水産業界で成功しているのだという。この孝介が、完治の妹である、ハマベツの代用教員時代の教え子でもあるあき子を妻に迎えたいと言い出したのだ。

やがてあき子は樺太へ渡って孝介と結婚する。完治は樺太で造材業を手掛けたいということで、須田原家の人達も樺太に遷って活動しようということになる。

下巻の物語は樺太での孝介とあき子の夫婦、須田原家の人達という物語が続く。

孝介、貴乃、完治の「過去」と、それを知らずに居たあき子ということになる。孝介はあき子との関係に悩み、あき子も孝介との関係に悩むことになる。そしてあき子の不倫という問題が生じる。

やがて時代は動く。完治が、そして孝介が各々召集されて兵役に就くという展開にもなる。各々が樺太に戻るが、戦争の時代が進んでいる。やがてソ連軍の侵入という事態へ向かって行く。

揺れ動く時代の中で、作中の池上家や須田原家の人達は如何いうような経過を辿って行くのかというのが本作の物語ということになる。

本作の物語は適宜視点人物が切り替わりながら、各作中人物の身の上に起こること、時代の動きが描かれるのだが、自然や街等の描写の丁寧さと精緻さということも手伝って、何か「美しい映像の作品」に触れているような気もする小説になっていると思う。具体的な誰かを思い浮かべるというのでもないのだが、作中人物達の風貌や体格の雰囲気が何となく浮かび、言葉を発した場面での話し口調やその声音が聞こえてくるかのようで、描かれている時代の自然や街の中で動き廻る様が凄く強く伝わる感だった。

篤実な生き方を目指し、出逢った網元に見込まれて後継者となり、事業家として成功し、学校への寄贈というような篤志家という活動までする他方、胸に秘めた熱い想いが揺れている中で色々と悩みながら歩む孝介が在る。

独特な価値観で正直に生きようとする腕の良い職人の父の薫陶を受けて育った貴乃は、孝介への想いが断ち切れないということも在るが、忍従というような中で子ども達の成長を見守りながら暮らすような感である。

こういう二人に対し、完治や伊之助は「儲かれば勝ち」とか「自分が良ければ他は知らん」というようなことを地で行くような様子だ。完治は策謀を巡らせるようなことまでして、誰もが羨むような女性を妻に迎えていながら、妾も囲っている。

そして「先生」こと孝介を愛したい、孝介に愛されたいという熱いモノを胸に、複雑な心境の孝介が見せる「距離感」に当惑し、やがて不倫に走ってしまう、そういう情況の中で揺れる想いを抱えるあき子が在る。或る意味で、本作は「このあき子を囲む人々の物語」というような色彩も帯びているかもしれない。

作中人物達は、樺太で色々なモノを得て、それを時代の動きの中で喪う。そういう思うようにならない様々な事柄と向き合って生きて行く人生というのが、本作以前に読んだ『泥流地帯』、『続 泥流地帯』にも通じるかもしれない。

作中人物達の様々な事柄が揺れ動く時代を背景にする物語が非常に好いのだが、頁を繰る手が停まらない、また「停められない」という様相を呈しながら読んだというにには、作中世界の「場所」という要素も在ることを挙げておかなければならない。「稚内」や「樺太」なのである。自身が住む街や、縁在って何度も訪ねた地域ということになる。勿論、作中の時代の何十年も後ではあるが。

作中の稚内に関しては、「北浜通」、「山下通」というような住所、郵便局の場所、何となくモデルが判るような廉売と称する商店、寺、銭湯等と、やや遠い時代の街で動き廻る作中人物達の様が凄く生き生きして見える。

作中の樺太の豊原に関しては、鉄道駅、郵便局と建物こそ作中の時代と変わっていても、最近になっても同じ用途の施設が在る様子、「神社通」というような場所、現在は公園になっている嘗ての大きな神社、街の少し北側の「ウラジミロフカ」というような、ディーテールが丁寧に描き込まれている。大泊に関しては、北海道と樺太とを結ぶ船が発着する港の様子や、繁華であったという「栄町」というような場所への言及が在る。

作中の樺太に関しては、完治が手掛ける造材業、恐らく林業と言う方が判り易いのであろうが、そうした仕事や携わる人達の様子、孝介が関わった鰊漁やその周辺、または収益安定化を図って手掛けた他の漁業の情況、街の料亭というようなサービス関係と「当時の社会や経済」というようなことも伝わる。更に寒さや吹雪や、美しい自然というような事柄も織り込まれる。

これらに加え、稚内や樺太と、兵役に就いた完治が目指し、一家の人達が面会に訪ねることになる旭川、貴乃の兄や老後の父が居る小樽、函館やら東京という「他地域とを結んでいた交通」に関する話題が、さり気なく詳しく、「作中世界の時代の空気感」というようなモノが溢れている。

交通に関連する話題で感じた「作中世界の時代の空気感」について例示しておく。東京へ旅行する孝介が、好奇心旺盛な貴乃の娘に尋ねられ、子どもにモノを伝える経験を有する元代用教員として真面目に教える場面が在る。汽車で豊原から大泊へ出た後、船で稚内へ渡り、寝たままで旅が出来る寝台車という客車に乗って函館まで向かい、船で青森へ渡り、また寝台車に乗って東京の上野駅を目指す。「寝台車に2泊しながら、連絡船に2回乗る」というのが、昭和の初め頃の東京・樺太間の移動というモノだ。稚内は「乗換の場所」だった。更に「東京はどんな所?」という問に「大きな建物が沢山在る」と応じると、「豊原郵便局と同じ位?あれより大きい?」と問が重ねられる。「同じ位の建物も、それより大きい建物も在る」と応じる。昭和の初め頃には、3階建てや5階建てで、少し大きな通の交差点辺りのやや広い一画を占めるコンクリートや石の建物は、様々な街で見受けられたということになる。また「旭川以北」では樺太の豊原が「最大級の街」であった時期が終戦の頃まで続いていた。(或いは“現在”でも、サハリンのユジノサハリンスクが、旭川以北で最初に姿を現す大きな街という様子かもしれない。)

ハッキリ言えば、本作は既に随分と以前―単行本が登場した時点で47年も前―の作品だが、小説のようなモノは「出遭って読んだ時に“最新作”」ということになるのだと思う。本作に出遭えて善かったと思う。

本作が綴られた時代の前後は、作中の孝介や完治のように、樺太の主要産業で指導的な役割を担った人達、孝介や完治の世代や少し若い様々な仕事を経験している人達が未だ多数存命で、戦後に住んだ各地域に在って各々の分野で活躍中でもあった時代だと思われる。多分、色々な方の御話しも聴きながら、それを参考に綴られた部分も多く在る作品だとも思う。そういう意味では貴重かもしれない。

広く御薦めしたい作品だ。

『テロルの昭和史』

↓偶々眼に留めて手にし、興味深く読了した新書である。

テロルの昭和史 (講談社現代新書)



↑「昭和史」ということで、一部にそれ以前やそれ以降の時代も視野に入れながら、社会や人々の来し方を考えるという内容の一冊になるのだと思う。広く、深く様々な「昭和史」を綴っている著者の本は興味深かった。また長く「昭和史」をテーマに様々な人達の話しを聴くというような活動を続ける著者の「蓄積」が本書には大いに反映されているとも思う。

「テロル」とはドイツ語の「Terror」から来ている。直接の語義としては「恐怖」ということになるようだ。暴力や、その脅威というような恐怖を背景に、同調しない人々や敵対的な人々を威嚇しながら何事かを為すというような感じを示すのがこの「テロル」という表現になるであろう。少し踏み込んで「恐怖政治」というような様相というモノも想起出来るのかもしれない。

著者は2022年7月に発生してしまった元首相への銃撃、そして殺害という出来事を契機にこの「テロル」ということに関して考える文章を綴った。雑誌で発表したそれらを基礎に加筆する等して纏めたのが本書であるという。

2022年7月の元首相の事件に関しては、事件現場の辺りの様子を偶々知っていたので酷く驚いた記憶も在る。実行犯の非常に個人的な、傍で聞く分には「逆恨み?」か何かのような想いに衝き動かされての行動であるように伝えられた。が、「政治家に凶弾」というのは社会に「恐怖」を撒き散らすという意味で、所謂「テロル」という側面が在ることを排する訳にも行かないというのが著者の問題意識の入口に在ったのだと思う。

そしてその問題意識が向いた先が「昭和史」で、濱口雄幸首相襲撃から<2.26事件>に至る時期(昭和5年頃から昭和11年頃)、続発した事件、未遂となった事件で「恐怖」が撒き散らされ、社会が歪んでしまっていたと言わざるを得ない時期が在ったということが本書では語られている。幾つもの事件の事情等が、本書では詳しく紹介されている。昭和史に「テロルの時代」とでも呼ぶべきモノが在ったということになる。相次いだ国内の事件と、他方で戦争へと突き進んで行くという、少し意味合いの異なる、他方で底流に在る何かに共通する要素も多く在ると考えられる「テロルの時代」が更に拡大される。

<2.26事件>は、「テロルの時代」の“段落”のような感ではある。事件そのものは、何人かの重臣が無残に殺害されたと知った昭和天皇が「自ら兵を率い、事件を起こした者達を討ちに出る」とまで口にしたと伝わるようだが、事件を起こした者達の考えが容れられないということで収束はした。それでも陸軍部内の所謂「皇道派」と「統制派」という主流を争う動きは、「統制派」の流れを汲む「新統制派」という人達が制し、やがて「軍事で掻き回される国政」という様相になって行く。

様々な事件が続発していた中、それに警鐘を鳴らす発言をしていた人達が在ることも伝えられ、本書でも紹介されている。ジャーナリストの桐生悠々や衆議院議員の齋藤󠄁隆󠄁夫である。

「歴史を学ぶ」というのは、「社会や人々の来し方を考える」ということに他ならないと思う。本書のような内容、「暴力の脅威というような、妙なモノに塗り込められ、社会が歪んだ?」という様子を丹念に調べて考えているというような内容に触れることは、時代を問わずに有益なのだと思う。本書は広く進めたい一冊だ。

『続 泥流地帯』

↓興味深く読んで愉しんだ小説の「続篇」ということであれば、手に取らない訳にも行かない。手にしてゆっくりと愉しんだ。そして凄く善かった。

続 泥流地帯 (新潮文庫)



↑話を聴いて興味を抱き、「機会が在れば読みたい」と思った小説に『泥流地帯』が在る。が、「機会」というのはは「在れば」という性質でもないのだと思う。「機会」とは「設ける」というモノなのだ。そう思って、愈々その「機会を設けてみた」という訳で『泥流地帯』を読み、作中人物達の「その後?」と思った。その「その後」が綴られるのが、この『続 泥流地帯』である。

『泥流地帯』の初出は1976年の新聞連載だ。『続 泥流地帯』は1978年の新聞連載が初出である。両作品は、新聞連載の翌年に単行本として登場し、数年後からは文庫本として送り出され、現在に至る迄読み継がれている。今後も読み継がれることであろう。そういうことで「古典」という存在感が在る作品だ。

北海道の上富良野町では、十勝岳の噴火に纏わる災害の記憶が伝えられているのだが、その中でも1926(大正15)年5月25日午後4時17分の噴火に関連する所謂「大正泥流」は強烈な出来事である。144名の死者・不明者が生じている、噴火時に高温の岩が崩れ、夥しい残雪が融けて濁流となった。「火山泥流」ということになる。「火山泥流」は森を破壊し、森の木が夥しい量の流木となり、土砂を取り込みながら、驚くべき速さで辺りを破壊してしまったのだ。本作でも「とんぼ返りをしながら流れる大きな流木」という表現が作中人物達の記憶に在る様子として描写されるが、「破壊の奔流」という様子が発生したことが想像される。

『泥流地帯』では、その大災害が発生する迄、そして発生直後迄の主人公や周辺の人々の人生が描かれる。言わば「“その時”迄…」という物語ということになる。読後、大災害で、失われた生命も在り、そして生き残った人達が在って、生き残った人達のその後が凄く気になった。「生き残った人達のその後」が本作で活写されている。逆に言えば、「大正泥流」に纏わる物語ということで「“その時”迄」の主人公達の様子、“その時”の有様という『泥流地帯』に対し、「その後」が描かれるのが本作だ。或いは「長篇の上下巻」として両作品は最初から構想されていたのかもしれない。否、読了した『泥流地帯』が上巻で、本作が下巻という程度に理解するのが寧ろ自然だ。未読の皆様に向けては、本作は「上下巻の長篇」とでも御紹介するのが、寧ろ親切かもしれない。

本作の物語は、1926(大正15)年の7月から起こる。5月の災害の後、144名に死者、不明者という事態と、泥流での破壊という事態の中に在った上富良野村で「村葬」ということで犠牲者を追悼する催しというような辺りから「続」の物語は起っている。

『泥流地帯』から引き続き、本作も主人公は石村耕作である。若い小学校の代用教員だ。耕作の3歳上の兄である拓一は、「母さんに孝行してくれ!」と、決死の覚悟で祖父母や妹を援けようと奮戦するが果たせなかった。そして生き残った。兄弟の父が事故死した後、色々な事情が在って他地域に出ていた母の佐枝は、愈々上富良野に戻ろうということになっていたのだが、その直前に大災害ということになった。結果的に耕作と兄の拓一、2人の母である佐枝の3人家族が生きて行くこととなる。

耕作の兄である拓一は、祖父やその世代の人達が懸命に拓き、30年程も頑張って造った豊かな農地が災害で損なわれたにしても、何とか復興しようと愚直な迄に懸命になっている。耕作は、本当にそれで善いのかという目線も持っている。災害後には、他地域へ出て再出発を期そうという人達も多く在った。拓一はそういう人と話しを纏め、住宅と水田をやっていた農地を借り受け、農地の復興に取組む。新たな一家の家の隣人として、村長夫妻と、その未だ幼い娘達も登場する。

村長は「何とか復興」という想いを汲んで懸命である。が、「無駄かもしれない復興事業に疑義。否!反対!」という人達とも向き合わざるを得ず、苦心している。そんな村長が、兄弟の隣人として、何やら「敬愛すべき年の離れた兄」という存在感を示している。そして「先生!」と慕ってくれる村長の幼い娘達に注ぐ耕作の目線が優しい。そして私利私欲と無縁に、「先人の想いを無駄にするな!」と復興に懸命な拓一の周りには多くの協力者も現れる。

結局、本作は「因果応報でもない人の人生」と「如何に向き合うのか?」というようなこと、そういう中での「生き様」ということに収斂する物語かもしれない。「善い人達がロクでもない目に遭ってしまっている。納得し悪い」というようなことを作中人物達は何度も様々に論じる。が、そういう「悪因悪果、善因善果」は想い、理想の行き着いた果ての何かで、人は「眼前の運命」に「敢然と向き合う他に無い?」という問題提起が為されているかもしれない。

本作の、「兄弟の隣人である村長」は、実際に活躍した村長と同名で、モデルにしていると見受けられる。そういう作中人物の他、実在した人物をモデルにしている作中人物も在るようだ。それはそれとして、主人公の耕筰と兄の拓一は、災害が発生した大正末年や、復興ということで懸命な昭和の初め頃には20歳代の始めであった。本作と前作の『泥流地帯』が世に問われる前の、作者が取材したであろう1975年頃には、同世代で存命であった人達も多かったと思う。そういう人達の話しも汲みながら、作者は本作を創ったのだと思う。

「因果応報でもない人の人生」と「如何に向き合うのか?」というようなことに関して、随分長く考えていて、直近ににもそういうことも想い、そして現在に至っているのだが、そういうことでもない「眼前の運命」に「敢然と向き合う他に無い?」という問題提起を、十勝岳の噴火に伴う「大正泥流」を題材に、耕作と兄の拓一という素晴らしい好人物達を核にした家族の物語で語っている本作は凄く重いとも思う。

「十勝岳の噴火に伴う災害の凄まじさが判り得る小説」ということで本作に纏わる話しを耳にして、そして読んだ訳だが、非常に好い感じで作品と向き合えたというように思う。

『泥流地帯』

誰かが話題にした本が記憶に残り、気になって入手して紐解き、その本との出会いが善かったと思える場合というものが在ると思う。

↓本作はそういう、話しを聞いて気になったという切っ掛けで出会った。そして読後に、本との出会いが善かったと余韻に浸っている。

泥流地帯 (新潮文庫)



↑少し長く読み継がれていて、これからも読み継がれていくであろう作品、或る意味で「古典」という趣も在る作品だと思う。

本作は上富良野町(作中の時代は上富良野村)を舞台とする物語で、実際の大きな災害の頃のことに題材を求めている。この作品を知る切っ掛けとなったのは、上富良野町の隣りである美瑛町を訪ねた経験だった。

美瑛町を訪ねて、景色を愛で、写真を撮るようなことを何度もしている。そういう中、観光協会によるバスツアーに参加して<青い池>や<白髭の滝>を訪ねることも愉しんでいる。バスツアーでは観光協会の方の御案内に耳を傾けるのが面白い。<青い池>が形成された経緯、<白髭の滝>を眺め易い橋が出来た経緯というのは、「十勝岳の噴火」を想定した防災工事ということが契機になっている。そういう話しの中、「大正時代の噴火で大きな被害が生じた経過」ということに言及が在り、その様子が描かれた読み易い小説として本作が話題になる訳である。

話題になる都度、「読んでいない小説だ…」と思い、「機会が在れば…」とも思って記憶に留める。が、「機会」とは「在れば」というモノではない。「設ける」というモノなのだ。そう思って、愈々その「機会を設けてみた」という訳である。

前置きとでもいうような、本作との出会いに纏わる話題で少しばかり文字数は嵩んでしまった。

現在では「大正泥流」というような言い方もするようだが、十勝岳は1926(大正15)年5月25日午後4時17分に噴火による「岩雪崩」という現象を起こしている。噴火時の爆発で山の一部が崩れ、高温の岩が雪崩のようになった。これが「岩雪崩」だ。熱い岩が流れ出て、高い山に残る残雪を溶かしてしまった。そうなると「火山泥流」ということになり、麓に向かって行ったのだ。「火山泥流」は森を破壊し、森の木が夥しい量の流木となり、土砂を取り込みながら、驚くべき速さで辺りを破壊してしまったのだ。

本作は、その「大正泥流」という出来事が起こる迄の一家の物語、そして終盤は出来事の起ったその時と、直後の様子が描かれることになる。

本作の主要視点人物は石村耕作である。耕作には3歳上の兄である拓一が居る。殊に子ども時代はこの兄と行動を共にしていることも多い。そして姉の富が在り、妹の良子が在る。耕作の兄弟姉妹だが、原木切出し作業中に事故で父を失っていた。母は髪結いの仕事を覚えるとして他地域へ出てしまい、兄弟姉妹は祖父母の所で暮らしていた。

物語は耕作の兄弟姉妹と祖父母、叔父や近所の人達、学校の同級生や教師、村の大人達という登場人物で織り上げられる。小学生であった耕作が次第に成長し、曲折を経て19歳の代用教員として村の小学校で勤めるようになる迄という感じの内容だ。

耕作は祖父の薫陶を受けるように育ち、或いは学んだ分教場の教師を慕うが、他方に感心しない大人達という存在も在る。何か響く内容が多く、心動かされながら頁を繰った。時に厳しく、優しさも内包する上富良野の自然の中で、少しずつ拓けて賑わいが出始めている上富良野村の市街の中で展開する物語は、様子が目に浮かぶような描写で引き込まれた。また作中人物達の会話も、自身より年長の人達の話し口調を思い出す「北海道に居る人達!」という風情が溢れて、彼らの声まで聞こえるような気がした。

作中、北海道内の地名が幾つも在る。上富良野村の範囲の地名に関しては位置関係がやや解り悪いが、旭川等に関しては「物語の舞台の大正時代の様子?」と色々と思い浮かんだ。細かいが、嘗ての函館本線の経路であった神居古潭駅というのも出ていて、嘗ての駅舎を再現した建物が在る辺りを訪ねた経過も在ったので何やら面白かった。

本作の終盤が近付く頃、耕作は教員としての路を歩み始め、一家の物語は「新たな章」に入るような様相だった。祖父が上富良野村に入植して畑を開いて暮らしを続けて30年程を経ていた。農地を一家が取得するには至らず、小作農家という立場が変わらず、経済的に豊かではないが、大正15年は穏やかな正月も過ごした。その一家が、大災害に巻き込まれてしまう。終盤は読んでいて涙ぐんでしまう感さえ在る。

作品の底流に「因果応報でもない人の人生」と「如何に向き合うのか?」というようなことが在るように思う。本作の終盤の大災害で、失われた生命も在り、そして生き残った人達が在って、生き残った人達のその後が凄く気になった。

或る意味で「古典」という趣も在る本作に、美瑛で何度も聞いたことが切っ掛けで出会えた。凄く善かったと思う。

『自衛隊の闇組織 秘密情報部隊「別班」の正体』

↓最近流行ったテレビドラマの中で言及が在った存在の「実際」ということで、2018年に登場した本書に脚光が当てられていた。関心の在る分野でもあるので、本書を入手して紐解いてみた。

自衛隊の闇組織 秘密情報部隊「別班」の正体 (講談社現代新書)



↑ゆっくり読んでみた。「“謎”が更なる“謎”を招じる?」というような側面が在る内容だとも思ったが、興味深く拝読した。

「特定秘密保護法」というモノが在る。2013年に成立して2014年から施行されている。「防衛」「外交」「スパイ活動防止」「テロリズム防止」という4分野の中の特定の項目に関連する情報を「特定秘密」に指定し、その取扱い方を定めて情報漏洩を防止するという主旨であるという。そういうようになると、「特定秘密」に「何が指定される?」ということになる。更に「政府が知られたくない情報を指定すると、国民が知るべき情報の隠蔽も在り得る?」ということにもなる。

こういう中、「自衛隊の密かな活動?」がそういう「恣意的(?)な隠蔽の対象?」となって行くのではなかろうか、また自衛隊の密かな活動そのものが、適正な自衛隊の運営という見地で大きな問題が在ると見受けられるということで、一部に話題になる場合も在った「別班」なるものに注目したというのが本書だ。

結局、通信社の記者である著者は、「別班」なるモノが存在するということを、5年以上に及ぶ取材を通じて纏め、記事を配信している。本書はその記事を纏めるに至った過程にも紙幅を割きながら「別班」なるモノに関して論じている。

秘匿性が高いと見受けられる事項を扱うようなグループを、組織機構の「編成表」の隙間のような部分に紛れ込ませて、それが活動等を継続する中、例えば「別班」というような通称で一部に知られるようになるというのは在るのかもしれない。そういうことが在り得るとしても、最上級の幹部が通暁しているのでもなく、担当大臣も全く知らない中で、形式的に隊員の身分を外して国外で諜報活動をしているらしいというのは、「酷い逸脱?」という点が本書の問題意識である。

英語で言う「インテリジェンス」の情報関係の活動、または諜報というようなことに力を注ぐというのは必要なことなのかもしれない。そしてそういう分野は秘匿性が高い。だからと言って「逸脱?」が善い筈もない。「逸脱?」という形で入った情報は、或いは取上げられず終いに終始するのではないか?

国際関係が難しくなり続ける中、自衛隊のような機関が情報を独自に収集して行くことに「ダメ!」と言う方は少ないと思うが、「やり方」は大切であろう。

本書は何年間にも亘る著者の地道な活動や、所謂“スパイ活動”に関する研究、密かな活動の経過が長く存在する事等、非常に興味深い内容が満載である。色々な事を考える材料として、御薦めしたい一冊だ。

『戦争はいかに終結したか―二度の大戦からベトナム、イラクまで』

或る本を読んでいて、その中に別な本に関する言及が在ると、少し強い興味が湧く場合も在る。そしてその興味が湧いた本を紐解くと、それがまた非常に興味深いという場合が在る。こういうのを「読書の発見、歓びが拡がる」とでも呼ぶのだと思う。

↓本書はそういう「読書の発見、歓びが拡がる」とでも呼ぶ経験をさせてくれた一冊だ。

戦争はいかに終結したか-二度の大戦からベトナム、イラクまで (中公新書 2652)



↑本書は「在りそうで、存外に無い?」という感じの、重要と思われる主題を論じている。「読書の発見、歓びが拡がる」ということと無関係に、単独でも非常に価値が高いと思う。

本書を知ったのは『終わらない戦争 ウクライナから見える世界の未来』という本を読んでいた時だった。『終わらない戦争 ウクライナから見える世界の未来』の著者による対談が収録された本に、対談の相手の一人として本書『戦争はいかに終結したか―二度の大戦からベトナム、イラクまで』の著者が登場していた。

2022年2月以降のウクライナでの戦争は1年半以上も続き、「終わらない…」という様相を呈してしまっている。そういう中で「終結?」、「停める?」というようなことが上述の本の対談で論じられていた。

戦争の目的を追求して戦闘が繰り広げられる等の展開が在る。そういうことをすると「現在の犠牲」というようなモノが生じることから免れられない。「現在の犠牲」に「何処迄耐える?」ということになってしまう。どんなに犠牲を払っても「将来の危険」を排すべく戦争の目的を追求するという考え方と、「現在の犠牲」を回避すべく妥協的な和平の工作を試みるという考え方が事案の両極のように存在して、両者の間の色々な形での「終結」が図られたのが、これまでの戦争の歴史で、これからの戦争もそういうことになるのであろう。

ウクライナ、ロシアの戦争に関して言えば、上述書に在るのだが、両陣営は各々に「将来の危険」を排しようと「現在の犠牲」を払い続けていて、「一体、何処迄?」というようになって行くのだと思われるが、互いに排しようとしている「将来の危険」は「非常に高いハードル」になってしまっていて、収束に向けた協議が巧く進められない状態に陥って時日を経てしまっている訳だ。

本書に出くわした経過の事柄で少し文字数が嵩んでしまった。が、こういう他の本で呼んだ事柄を踏まえて本書を興味深く読んだのだ。

題名に「二度の大戦からベトナム、イラクまで」と在る。文字どおりにこれらの戦争に題材を求め、戦闘を停めて行く、終結を図るという過程に注目し、「現在の犠牲と将来の危険を勘案して考えた」というような経過に光を当てようとしているのが本書の内容だ。

本書では、第1次大戦、第2次大戦の欧州関係、第2次大戦の日本関係、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争からアフガニスタンやイラクに至る一連の戦争というような形で「各戦争の終結」が論じられている。

総じて思わざるを得ないのは「“始める”こと以上に“終える”ことが難しい」のが戦争というモノであるということだ。そして“終える”ことへのイメージが貧しいままに“始める”に至った戦争は、殊に敗れた側にとっては「ロクなモノではない…」というように終始してしまう。

甚大な犠牲が払われた種々の戦争に関して「その終結」という角度で観て、振り返るというのも有益だと思うのだが、「現在の犠牲と将来の危険を勘案して考える」というようなことは、応用範囲が広いというようにも思う。様々な好ましくない状況から抜け出して行こうとする場合の考え方として有用かもしれない。

「読書の発見、歓びが拡がる」とでも呼ぶ経験をで、なかなかに有益な一冊に出会えて善かった。

『ロシアより愛をこめて あれから30年の絶望と希望』

↓存外にボリュームが在る感じの文庫本であったが、頁を繰る手が停め悪くなり、素早く読了に至った感じである。

ロシアより愛をこめて あれから30年の絶望と希望 (集英社文庫)



↑「一冊の本を読む」という中で、時間や空間を越えて行くというような、少し不思議な体験をすることとなった。

著者は放送記者として長い活動歴を有している。1991年から1994年にモスクワ支局で勤務した経過が在り、その当時の雑記を出版していた経過が在る。それから30年を経て、戦争が始まるかもしれないとウクライナ取材に飛ぶが、移動中に開戦となり、ルーマニアに上陸して陸路でウクライナを取材した経過が在った。更に2022年末から2023年初めにモスクワを訪ねてみたという経過も在った。そのウクライナでのことやモスクワでの雑感を綴ったモノも発表している。

本書はその30年前のモスクワ、最近のウクライナ、最近のモスクワと「30年」の時間の経過が詰め込まれたような内容になっていて興味深い。

1991年と言えば、ソ連という体制が終焉へ向かっていた最中だった。そして「ソ連後」の混迷の何年かが、著者がモスクワで勤務していた日々だった。記者として送り出すコンテンツそのものでもない、支局を管理する立場での事務に纏わる事柄、暮らしの中での様々な出来事や想い、強く記憶に残る見聞等が、書簡形式、日誌形式で綴られていて、それが纏められている部分が本書の7割弱程度を占める。残りが最近のウクライナの件や、2022年末から2023年初めのモスクワ訪問の件だ。

「1990年代前半のロシア」というようなことに関しては、個人的にも少しは馴染みが在る。往時の著名人の名等も交る本書の文章で、余りにも色々な事が思い起こされた。そして綴られている種々の挿話も、「こういう話しは確かに聞いた」という内容が連なる。「30年前」という世界に飛んで行けるような内容だ。

同時に思った。「未だに言われる“ロシア”というモノの“イメージ”」というようなモノは、実は本書に在るような、1990年代前半辺りに言われていた事柄から造られたのかもしれない。「30年」と言えば、例えば「“昭和20年代”に対して“昭和50年代”」という落差が在るのだが、「ロシア」ということになれば最近でも「モノは在るのか?」と言い出す人が見受けられる。奇妙な様子だが、1990年代前半辺りの「モノが無い!?」は何やら強烈だったということなのかもしれない。

本書の場合、「戦争をやっている国の首都なのか?」と最近のモスクワの様子も在る。故に、未だに「モノが在るのか?」は奇異だと判るであろう。所謂“西側”で使われているクレジットカード類は、現在のロシアでは使えない。が、ロシア国内でのデビットカード方式のクレジットカード類は従前どおりに利用可能で、それを使って買い物が普通に行われている様子も本書に描写されていた。その「最近のモスクワ」に関する部分は、「あの頃」という程度に呼びたい1990年代前半辺りを知っているからこそ湧き起る感慨のようなモノも溢れていると思う。

ウクライナの件を綴った箇所は、滞在した街で防空壕に何度か非難する経験もしながら取材している様子が生々しい。そしてルーマニア国境辺りで、国外に脱出している人達を見る様子も、何か迫るモノが在る。こういう生々しい様子は、本書のように色々と伝わって然るべきだとも思う。

本書の末尾の方に、如何いう考え方であろうと、何を主張するのであろうと、それは随意にして構わないと思うが、「殺し合い」は止めて頂きたいというような文が在る。これには賛同したい。様々な歴史的な経過も辿って現在のロシアやウクライナが在る以上、色々な考え方や主張は在って当然だ。だからと言って「殺し合い」が善い筈は無い。それだけは避けて頂きたいと思う。

本当に「30年」を飛び交うような読書経験が出来る。古くから旧ソ連諸国と関わって、昨今の情勢に触れる中、色々な想いを抱く人達が在る。本書はそういう「想い」を吐露する内容でもあると思う。本書は、やや旧い本を再び世に問うに留まらない「今だから…」という企画になっていると思う。広く御薦めしたい。

『終わらない戦争 ウクライナから見える世界の未来』

↓今、或る程度広く読まれなければならないかもしれないと見受けられる一冊であろう。

終わらない戦争 ウクライナから見える世界の未来 (文春新書 1419)



↑雑誌等に掲載される対談の体裁になっている文章を集めた一冊で読み易い。脇で対談をゆっくり聴くような感じでドンドン読み進め、素早く読了に至った。

2022年秋頃から2023年夏頃に行われ、各種の媒体に発表された6本の対談が取上げられている。著者は6本の全てで、発言者、聞き手として登場している。対談の相手は軍事関係の研究者、或いは主に中国、加えてロシアを研究しているという3人である。何れも、それほど多く居るのでもない専門家であると見受けられる。そういう皆さんの論を、少し纏まった、更に一般向けに判り易く纏まった形で読む事が叶うのは、非常に善いことだと思う。

著者はウクライナの戦争を巡って様々な発言を繰り返していて、それらは各種媒体でも取上げられている。本書のような対談を纏めた本ということでは、既に開戦から半年程度の期間のモノを纏めたモノを発表している。それの後を受けて対談を纏める企画が持ち上がった時、前に出した「200日」を受けて「500日」という題を想定したそうだ。が、戦争の“500日目”が瞬く間に過ぎ、戦争が収束する気配も無いことから『終わらない戦争』という題が登場したそうだ。

6本の対談、その前後の著者による文章と何れも興味深い。が、殊更に記憶に残るのは「戦争を“終える”ということ」に関して、過去の戦争の経過の研究を踏まえたという論だった。

何らかの思惑が在り、それを実現する見通しが在って、戦争という手段が択ばれて開戦に至る。それは意外に簡単に出来てしまうのかもしれないが、収束を図るのは何時でも困難なのだ。開戦時に明る過ぎる見通しを持ってしまっている、または都合が悪くない想定のみで、簡単にその想定が外れてしまうというのが往々にして在る。

そういうことではあるが、戦争を継続することで生じる「現在の犠牲」というモノが在り、対して戦争を完遂することで排しておきたい「将来の危険」というモノも在って、両者のバランスという中で戦争の収束が図られるというものなのだそうだ。そして収束に向けた協議は、往々にして少し長い時間も要してしまう。

「現在の犠牲」が堪え難いということになれば、妥協的な停戦の途が探られる可能性は高まる。が、現状では両陣営が互いに「将来の危険」を排するという側に力が入っていると見受けられる。「終わらない戦争?」という情況である。

ウクライナの戦争を巡っても、ウクライナ、ロシアの両陣営は各々に「将来の危険」を排しようと「現在の犠牲」を払い続けている。「一体、何処迄?」というようになって行くのだと思われるが、互いに排しようとしている「将来の危険」は「非常に高いハードル」になってしまっていて、収束に向けた協議が巧く進められない状態に陥って時日を経てしまっている訳だ。

ウクライナで激しい戦禍が続くと、戦争を通じて排する「将来の危険」ということの以前に、国民や社会や国土の「“将来”そのもの」がオカしくなる、または破壊されてしまうのではないかと危惧も抱いてしまう。

そして気になるのは「4年目?」という話題だ。ロシアで2024年に大統領選挙が予定されている。その選挙を乗り越え、ウクライナでの戦争を更に続けるとなれば、「2025年に“次”のラウンド」ということも在り得る。そうなってしまうと、2022年以来の戦争は「4年目」に突入である。

更に本書では、開戦以来の戦況に関する話題も色々と豊富である。両陣営が、戦闘継続能力を大きく削ぎ落すような「決定打」に欠けているのかもしれない。そういう様子に、何処かの人達の妙な思惑のようなモノでも絡まっているのか?何やら解り悪い中で戦闘は毎日続いている。

本書も含め、このウクライナの戦争を巡っては、判り易く纏められたモノも多く世に問われているので、それらに触れて考える材料は収集し続けなければならないと思う。

戦争は天災ではない。人間が始め、人間が続けるモノだ。とすれば、停めるのも人間がやらなければならない筈だ。少しなりとも早く“過去形”になることを願って止まない戦争である。

『駅の名は夜明 軌道春秋II』

↓味わい深い短篇を集めた一冊だ。

駅の名は夜明  軌道春秋? (双葉文庫 た 39-02)



↑「鉄道が在る風景の中でのドラマ」という趣の「軌道春秋」というシリーズが在る。漫画原作として作者が綴った作品が起こりで、それを小説として仕立て直した作品が既に出ている。本書は、更に在る漫画原作を小説化したモノ、全く新しく小説として綴ったモノを合わせて9篇を収めた一冊ということになる。

表題作が『駅の名は夜明』なのだが、「夜明」という駅は実在し、個人的にも駅名の看板を見た経過が在る。

↓因みに、2015年10月に九州を訪ねた際に通過している夜明駅の看板だ。
Yoake Station on OCT 27, 2015

本書には、この夜明駅を訪ねるという篇が2つ在る。「闇に包まれていた夜が明ける」という名前の駅というのは、何か凄く象徴的だ。

他に、ウィーンの路面電車が登場する篇が2つ在り、オホーツク海側の小さな駅が登場する篇が2つある。今般はこういう「連作のようで、必ずしも連作でもない」という、味わい深い篇が目立つと思った。

そして少し長い感じの『約束』が秀逸だった。何方かと言えば幸薄い女性と、女性の愛読書を綴っている作家との物語ということになるのだが、読後に何か深い余韻に浸った。

こういうような「人生の応援歌」というような短い物語も、時には好い感じだ。このシリーズが更に登場するのであれば、是非読んでみたいとも思った。

『ふるさと銀河線 軌道春秋』

↓愉しく読んで、素早く読了に至った。味わい深い短篇を集めた一冊である。

ふるさと銀河線 軌道春秋 (双葉文庫)



↑鉄道が在る風景の中で、各篇の作中人物達の人生模様が展開するというような感である。

本書には9つの篇が収められている。表題作の『ふるさと銀河線』のように、作中に登場する「鉄道が在る風景」の場所が明確になっている篇も在るが、少し漠然と首都圏の私鉄沿線、或いは大阪の或る駅という程度に描かれるような篇も在る。

各篇は各々、市井の普通の人達の人生を描き出す作品だ。哀愁と歓びとが相交ったような感じの挿話が連ねられている。

9つ目の篇となっていた『幸福が遠すぎたら』は殊更に余韻が深かった。博覧会の企画で「2001年1月1日に届くようにする」ということになっていた手紙が届くと、学生時代に何時も3人で行動していた仲間の1人が差し出したモノで、「2001年3月3日」に何時も会っていた駅で落ち合って、毎年やっていた誕生日祝いをしようというメッセージだった。色々と忙しい中、そのメッセージの当日に駅へ足を運んで、学生時代の仲間と会ってみたという話しだ。三人三様の人生を互いに知ることになる。

他に、15歳の少年が、祖父と触れ合って“希望”を改めて掴む『ムシヤシナイ』、他界してしまった息子が嘗て寄越した葉書に在った小さな街を訪ねてみる老夫婦の挿話である『返信』が殊に気に入った。

表題作の『ふるさと銀河線』は、北海道の陸別町を舞台にした物語である。あの“ふるさと銀河線”が走っていた時期が描かれている。高校進学を前にした少女の物語である。

こういう短篇を集めた一冊は、一気に読み進めることも出来ようが、何日間かで各篇を一つずつ読むというようなことも出来るであろう。好い篇と共に過ごし、読後の余韻も愉しむというのは、なかなかに素敵であると思う。

偶々ながら、素敵な一冊に出会って善かった。

『サドンデス』

↓読み始めると「続き」が凄く気になってしまう。そして頁を繰る手が停められなくなり、素早く読了である。

サドンデス



↑「社会派」とよく言われる。作品は飽く迄も「架空の事件」を描いている小説なのだが、実際の出来事、事実、風潮等、社会の中での様々な「こういうのは如何か?」を織り込んだ作風で知られる作家の新しい作品である。

感染症の問題で社会の様々な部分が歪んでしまっていて、着実に貧しくなっているという指摘も在る社会状況の中、ネットの世界が拡がり、深まっていて、そういう中では「妬み」や「悪意」も含めて「見ている個人が心地好い」という情報だけが咀嚼されているような様子が見受けられるのかもしれない。本作はそういう近年の様子を踏まえた作品である。

本作では、視点人物が適宜入れ替わりながら物語が展開する。主な視点人物は、家庭の事情で経済状況が苦しくなっていた女子大生の理子、大手百貨店のバイヤーとして活躍していた経過が在った小島という男、警視庁の生活安全部でサイバー犯罪捜査を担当している長峰ということになるであろう。

女子大生の理子は母と2人で暮らしていた。母は建設会社役員を務めていた父と離婚してしまっていた。父は慰謝料等を払っていたが、会社の談合事件の詰腹を切らされて失業してしまった。慰謝料等の支払いは途絶えた。母は離婚後に会社勤めをしていたが、感染症の問題で業績が悪化していた会社の人員整理で失業してしまった。そういう事情で、学費や生活費を如何にかするため、理子は連日のように四苦八苦していた。

新宿の老舗百貨店でバイヤーとして活躍し、国外での買付等にも出ていた小島だったが、所謂「リストラ部署」に飛ばされていた。業績が悪化し、全国の支店の整理も在った中、多忙で体調をを崩したことが在ったのだが、復調して職場に戻れば席が無かったのだ。やがて「リストラ部署」で憂さ晴らしに同僚への嫌がらせをしていたところ、それを人事に見咎められて回顧の憂き目に遭ってしまっていた。

理子はアルバイトを掛け持ちしていて、高田馬場のガールズバーで働いていた。そこで出会った女性に導かれ、恵比寿の高級ラウンジで仕事をするようになった。更に京都の新しい店を任されるというようなことにもなって行った。

小島は百貨店を退職した後、何を如何やっても巧く行かないような様子だった。色々な不運が重なる。そういう中、理子が発信するSNSアカウントに在る、彼女の成功譚を伺わせる内容を妬ましい思いで見ていた。

一方、都内では「無差別殺傷」というような事件が連発していた。色々と行き詰った中年男が街で殺傷事件を起こしてしまい、現場で取押えた後は「誰でも構わなかった」、「死刑にでもしてくれ」というような供述なのである。ネット上の妙な投稿をマークすることをしていて、「無差別殺傷」では被疑者や被害者のSNSアカウントを調べる活動をしていた警視庁の長峰は、何か釈然としないモノを感じ始めた。「無差別殺傷」が次々と模倣されてしまっているということに留まらない“ウラ”が在るような気がし始めたのだった。

理子は懸命な努力で、また様々あ人達の協力で成功の階段を上る。小島は不運が不運を呼び寄せるような様子で、理子の成功を妬んで殺意を抱くようになって行く。両者の“ウラ”が、長峰達によって明かされ、やがて黒幕と対峙するという物語だ。

長峰は、生活安全部の刑事として経験を積んでいる森谷と共に事件に臨む。森谷はクールでタフな女性捜査員で、長峰より少しだけ年長という雰囲気だ。対する長峰は、IT関係の民間会社から警視庁に転職したという経過の、少し異色な捜査員ということになる。何か「刑事らしくない?」という長峰と、「色々と経験も積んだ、なかなかに自信溢れる女性刑事」という風な森谷のコンビは少し面白い。

この長峰は、実は同じ作者による別な作品、『血の雫』に登場していた。訳アリなベテラン捜査員と組んで、難解な「連続殺人?」という様相になって行った事件の謎を追う『血の雫』であったが、本作中にも少しだけその件に言及が在る。あの作品を読んだ後、個人的にはこの長峰の“再登場”を少し希望していた。今般、それが叶った。

本作は飽く迄もフィクションではある。が、憂さ晴らしどころか、妬みや悪意を増幅させるばかりのネットの中というような問題や、少しばかりの不運が在った際に、そこから再起しようとすることが困難になるばかりという様相、縮んで行くばかりかもしれない経済という閉塞感等、作中で描かれる様々な様相が何か「刺さる」という感じだ。

「刺さる」と言えば、作中で「無差別殺傷」というような事件に携わってしまう中年男達である。一寸した不運、巧く行かなくなったことから抜け出せなくなる。巧く行かないのも、その人自身の所業が招いてしまった面も否定し悪いかもしれない。それでも、何とかしたいと思いながら益々巧く行かなくなるような感じが怖い。自身もそういう羽目に陥らないとも限らない。

更に、作中で理子が京都で成功している様子が描かれるのだが、そこに出て来る京都の風情、通り一遍でもない愉しい京都という雰囲気の描写は凄く好い。偶々、昨年から今年に京都を何度か訪ねているので、何となく判る。(勿論、登場する酷く高級なモノ等は知らないが…)

考えさせられる「社会派」な内容も織り込まれているが、「如何なってしまうのか?」と酷く夢中になるミステリーである。御薦めだ!!

『阪堺電車177号の追憶』

↓これはなかなかに素敵な物語だと思った。読み始めると、頁を繰る手が停められなくなった。

阪堺電車177号の追憶 (ハヤカワ文庫JA)



↑作中で流れる時間は、約80年間にも及ぶ。80年間以上も走り続けた電車と、そこに縁が在った人達の物語ということになる。

大阪市の南側から堺市に軌道を敷設している阪堺電気軌道が在る。併用軌道(路面電車)区間が多いが、一部は専用軌道になっている。この阪堺電気軌道では、「昭和一桁」に登場した車輛であるモ161形が非常に長く使われている。2023年現在も未だ残っているという。

↓少し古いが、2010年12月に関西方面へ出た際、このモ161形を間近に視て、乗車もした経過が在った。
Tramcars at Osaka and Sakai on DEC 22, 2010

↓独特な存在感を放つ車輛である。
Tramcars at Osaka and Sakai on DEC 22, 2010

本作は、このモ161形の1輛である「177号」が、「少し年配のおっちゃん」という具合に擬人化され、長く働き続けた“人生”を振り返る部分が冒頭に置かれた6つの篇にプロローグとエピローグが添えられる。各篇は昭和一桁の頃から平成までの様々な時代に沿線で繰り広げられる挿話である。

6つの篇は昭和8年、昭和20年、昭和34年、昭和45年、平成3年、平成24年で、プロローグとエピローグは平成29年と時期が明記されている。各々の篇の時期の世相を反映しながら、様々な人達の層我が展開するが、各篇の作中人物に相互にかかわりが在る、または同一人物が登場しているというのも在る。曾祖父母、祖父母、父母、息子や娘、その子達と4世代か5世代の人生を運んで来たような電車の周辺の物語が実に味わい深い。

本作を読むと、未だ在るらしいモ161形を眺めに行ってみたくなる…また本作は、短い期間の連続テレビドラマか何かのような風情も在るかもしれない。読んで、深い余韻が在る作品だ。

『天下一の軽口男』

↓紐解き始めて、直ぐに頁を繰る手が停められなくなり、素早く読了に至った一冊である。

天下一の軽口男 (幻冬舎時代小説文庫)



↑江戸時代、未だ17世紀である、将軍の代で言えば4代目、5代目というような時代を背景にしている物語だ。所謂「上方落語」の元祖というような人物と伝わる米沢彦八を主人公とする物語だ。

現在では所謂「お笑い」というのは、何やら間口が広いエンターテインメントということになるのかもしれない。かなり古くから諧謔というのか、笑いを誘うような表現は在ったかもしれない。が、「人々の御愉しみ」ということで誰かが何かを演じて、それを観る、聴くで笑うというような現在の「お笑い」にも通じる営為が起り、発展したのは江戸時代と考えられる。その「お笑い」の草創期に活躍したと伝わる人物の物語が本作である。

「誰かが何かを演じて、それを観る、聴くで笑う」というような芸が、確立している、認知されているとも言い悪いような時期に、米沢屋の彦八はそういうことをして身を立てたいというようなことを夢見る。近所の色々な人達の物真似をして、考えた笑える話しを演じて披露する場を勝手に設けて、幼馴染の女の子と一緒にその場を取り仕切ってというような少年時代を過ごす。そして長じて、勃興する「お笑い」の世界に身を投じて、様々な経過が在る。そういう経過を辿るのが本作の物語である。

本作の物語そのものが、名古屋に設けられたという、現在の常設の寄席に相当するような場所で、或る男が「米沢彦八なる人物」を語っているという様子を間に挟みながら進んでいて、何処となく「古典落語の内容を小説化」という風情も漂う。

大坂から江戸に出て、色々と在って大坂に戻り、そこで名を成す米沢彦八の経過だが、「江戸時代の或る男の物語」の体裁ながらも「何時の時代にも在るかもしれない」というような普遍性を帯びているような気もした。成功しそうな者が出てくれば、足を引っ張るような謀を巡らせるような者も現れるというのは、時代や場所を問わず在りそうだ。そういう中で、成功しそうな何かが必ずしも成功しない場合も在ろうが、曲折を経て成功する場合も在る。本作を読み、愉しみながらも考えさせられた。

「大阪に所縁の内容である文庫本」で「御薦め!」を大阪の書店関係業界の皆さんから成る選考委員会で択んで推薦しようという<大阪ほんま本大賞>という賞のことを知り、過去の受賞作品の紹介に触れた。そういう中で、所謂「上方落語」の元祖というような人物と伝わる米沢彦八の物語というのに強く惹かれた。作品を愉しんだ後に、最近幾つかの作品を愉しんだ作者の作品と知ることになった。そこが少し興味深い。

「時代モノ」ということになると、「何やら面倒な…」と思われてしまうかもしれないが、本作に関しては断じてそういうことはない。大阪の難波が、未だ畑が沢山在る村だった頃、道頓堀が竣工して水運に利用されるようになっていた頃、現在で言う「お笑い」を志した男が在って、幼馴染の女の子の最高の笑う顔を観たいというだけの理由で色々と奮戦するという物語が本作である。「時代モノ」の体裁でいて、その枠を大きく食み出している。大阪が舞台の青春モノ、サクセスストーリーだ。凄く面白い!!

『グランドシャトー』

↓紐解き始めると、頁を繰る手が停められなくなってしまい、一気に読了に至った。

グランドシャトー (文春文庫 た 95-3)



↑昭和から平成という時代を背景にした、ヒロインとその傍らに在った人物の一代記であると同時に、社会や風俗の移ろい、大阪の京橋やそこから然程遠くない地域の変遷が描かれているような、味わい深い小説である。

<大阪ほんま本大賞>という賞が在るのだそうだ。2013年に「大阪の本屋と問屋が選んだほんまに読んでほしい本」を択んで紹介するということを始め、毎年続けており、2016年の第4回からはこの賞を<大阪ほんま本大賞>という呼称に確定して現在に至る迄続いている。

この賞の選考対象となるのは「大阪に所縁の在る著者、物語であること」、「文庫であること」、「著者が存命であること」の3つの条件を満たす本ということになっているそうだ。要は、「大阪に所縁の内容である文庫本」で「御薦め!」を大阪の書店関係業界の皆さんから成る選考委員会で択んで推薦しようということなのかもしれない。

些か失礼ながら、個人的には本に関して「〇〇賞」というような事柄は然程気にしない。本書に関しては、時々愉しく拝見している、大阪の色々な話題を綴るブログで紹介されている記事を拝読し、面白そうだと思ったから手にしたのである。

大阪の京橋と聞けば、個人的には、大坂城を訪ねた際に京橋駅を利用したというようなことを思い出す。京橋駅側から大阪城の天守閣が見えるような辺りに歩を進めると「砲兵工廠跡」という碑が在ったと記憶するが、京橋辺りは大きな軍需工場が在って、戦時中には激しい空襲に晒された経過が在る。そうした場所が色々な変化を遂げている。現在の京橋お辺りは、高層のオフィスビルが林立して「大阪ビジネスパーク」と称している場所にも隣接している感じで、街の様子が移ろった“振幅”が大き目な地区と言えるかもしれない。

本作は、実在したレジャービルをモデルにしているらしいのだが、京橋のキャバレー「グランドシャトー」を舞台にした物語である。

本作のヒロインのルーは、母親の再婚相手の両親が、母親が妊娠しないのであればその娘である彼女と結婚させると言い出したという事態を受け、とりあえず逃げることになった。そして大阪に辿り着き、何とか生きて行くということになるのである。

大阪で懸命に生きようとするのだが、色々と巧く行かずに苦労していた中、ルーは「グランドシャトー」で働くことになる。そして街で出くわした女性が、真珠という源氏名で働く「グランドシャトー」のナンバーワンで、思わぬ再会をした。やがてルーはこの真珠との深い関りで生きて行くこととなる。

本作の“主旋律”は、昭和30年代半ばから昭和40年代半ばの頃、更に平成初期に至る迄のルーの生き様なのだが、「キャバレー」という業態の娯楽産業の変遷、社会変化、街の様子の変化、真珠が秘めている事柄等の様々な“旋律”が巧みに絡み合い、「交響楽」の様相を呈していると思う。これは、大阪の書店関係業界の皆さんから成る選考委員会で「大阪に所縁が深い内容の御薦めな一冊」として択んだのも納得出来る作品だ。

本作では大阪の中の地名が色々と出ている。何れも立寄った、または通り過ぎたことが在るような場所で、過去の時期の様子が判って興味深かった。或いは、また大阪を訪れるようなことがあれば「『グランドシャトー』で言及が在った…」と何処かで思い出すかもしれない。

なかなかに好い作品に出遭えたことを歓びとしたい。

『首都防衛』

↓少し興味を覚えて入手し、紐解き始めてからは頁を繰る手が停められなくなった。

首都防衛 (講談社現代新書)



↑「より多くの人達が知っておくのが善い」と思われる内容が豊富だ。逆に言えば、そういう内容であるが故に本が登場したとも言い得ると思うのだが。

題名に“防衛”と在るが、軍事行動というような内容ではない。災害対策、防災情報というような事柄、そういう問題意識を喚起しようという内容の一冊である。「巨大な災害から人々を護る」ということになれば、それは“防衛”そのものであろうという、題名の理由も本書には出ていた。

阪神大震災(1995)や東日本大震災(2011)というような大規模災害に関しては、被災地域に居合わせた訳ではなくとも、災害発生時に大きく伝えられ、繰り返し様々な話題が取上げられていることから、「凄い災害」ということは承知している。あのような次元の災害が首都圏等で発生すれば大変であることは間違いないが、問題なのは「あの程度で済まない大災害」という可能性が排除し悪いということなのだと本書では説かれている。

本書では「首都直下型地震」というようなモノで想定される事態等を説く章、そして「南海トラフ巨大地震」というようなモノで想定される事態等を説く章が設けられている。2つの章を費やし、阪神大震災(1995)や東日本大震災(2011)というような次元の大規模災害が東京で発生した場合に生じると見受けられる困難、加えて複数の大地震や富士山のような火山の噴火も併発し得る、場合によってそこに大雨が降る可能性さえ排除出来ないということを説いているのである。

古い記録を見れば、富士山の噴火と大地震が連動するという事態は「在った」のであって、そのうちに発生する可能性は排除出来ない。富士山は300年も噴火はしていないが、それでも活火山なのだという。噴火すれば、多量の火山灰が降る状況や、そこに纏まった雨が降るという情況も酷く大変であることが指摘されている。

こうした情報に加えて、比較的近年の災害時の教訓のようなことも綴られている。全般的に、災害対策、防災情報というような事柄、そういう問題意識を喚起というように纏まっている訳だ。

個人的には、比較的近年の災害時の教訓のようなことに関して、もう少し厚みを持たせる、分量を増やすというようなことが在っても好かったような気がする。この部分には「そういうことも在ったか…」と気付かされる内容が多く含まれ、読者が住んでいる地域で防災に関連したことを考える有益な情報になると思ったのだ。本書1冊を読む時間さえ見出せないという程度に多忙な方でも、この“教訓”部分だけは必読かもしれないと思った。

更に気になった。例えば「南海トラフ巨大地震」というようなモノは、関東、東海、近畿、中国、四国、九州という程度に被災範囲が拡がると見受けられる。例えば「富士山噴火」となれば、関東平野の殆ど全部と静岡県や愛知県の全部または一部、加えて山梨県や長野県の一部という程度の広大な範囲、場合によって更に広い範囲に火山灰が降ると見受けられる。そういう大変な事態でも、「相対的にダメージが少ない、または影響が余り無い」という国内の地域は恐らく残ると思う。その残った地域と手を携える可能性、著者が“おわりに”で引いた後藤新平の言のように「人の御世話にならぬよう 人の御世話をするよう そして報いを求めぬよう」という程度の考え方で、全国の様々な地域の人々で手を携え合うような考え方が前面に押し出されても善かったような気もしながら本書を読んでいた。

正直に言えば、自身は「災害への備え」というような事柄に、個人的には然程の関心を示さずに漫然と過ごしているかもしれない。1923年の関東大震災から100年という年、思い掛けない大災害の可能性も指摘されている中、この種の本で問題意識を喚起してみるということも必要かもしれない。

『プーチンの復讐と第三次世界大戦序曲』

↓大変に興味深く、素早く読了に至った一冊である。

プーチンの復讐と第三次世界大戦序曲 (インターナショナル新書)



↑相互に関連も深い、多過ぎない程度に纏まった7つの章で、幅広い内容を取り扱っている。そしてその内容が興味深い。

現今のウクライナの問題に関しては、2022年2月に侵攻を開始したロシアを非難するというような話しが暫く出ていたが、その後は「論じられるべきこと」が然程広く出ているようにも思い悪い面が無いでもないと感じている。他方、「より知りたい」に応えるように、様々な論考などが世に問われてもいる。その「より知りたい」に応えるモノに関しては、眼に留まる都度に積極的に読んでいる。本書もそういう一冊になると思う。

本書では、2022年2月に侵攻を開始した責任者たるプーチン大統領に関する生い立ちや政治家としての行動の経過等、ロシア史やソ連史に纏わるようなこと、所謂「冷戦」や「ソ連崩壊」という状況の後の欧州の経過、欧州の中でのウクライナの経過や見通し、侵攻に始まった戦争の行方を考察することと、「論じられるべきこと」を一通り網羅しているように思う。

本書は、全体として所謂「冷戦」や「ソ連崩壊」という状況を見詰めたプーチンが、政治家となって上り詰めて行った中で、ロシア史やソ連史の経過の中で培われた価値観により、或る種の「復讐」のようにロシアの立場を高めようと動き、結果として大きな規模の戦争を起こしたが、揺れている情勢の中で戦争の行方は判らず、思いも掛けずに戦禍は「第三次大戦」というような様子にもなって行きかねないという物語を提示していると思う。

2022年2月に侵攻を開始したロシアを非難するのに対し、必死に独立を護ろうとし、犠牲も拡大しているウクライナを擁護するというのも在る。が、「ウクライナの様子、経過」や「ウクライナの問題」という知識が広まっているとも思い悪い一面は否定し難いようにも見受けられる。本書はその辺りを少し掘り下げていると思う。ウクライナは欧州寄りな立ち位置を目指し、EU加盟を果たしたいとしている。が、非常に多くの「課題」はそこに在る。それが本書では論じられている。

現今のウクライナの問題が、侵攻の開始からだけでも1年半も続き、出口も視えない、判らない中である。静かに学んで考えるということも、より一層必要であるように見受けられるが、本書は「論じられるべきこと」を広く示していて有益だと思う。

『ウクライナのサイバー戦争』

↓題名に強く興味を覚え、予約して入手した一冊だった。そうやって入手して読んでみて善かったと思う。

ウクライナのサイバー戦争 (新潮新書)



↑知らない事については、それを解説するような内容の本を読むのが善いと思う。本書は「サイバー戦争」という事柄に関して、関連分野に纏わる現今のウクライナの状況を引きながら説くという内容である。

「サイバー」とでも言われると、夥しい数のコンピュータと広く張り巡らされたネットワークというようなことを思い浮かべる。それらは生活を便利にしていて、何時の間にかそういう次元を通り越して社会を支えているとも言い得るのかもしれない。そういうモノに関して、通常の利用方法を逸脱して、不正に情報を抜き出す、機能を阻害する、“誘拐”のように大切な情報等をタネに脅迫、または騙して金品を奪うという「犯罪」というモノも見受けられる。それから更に踏み込めば、「戦争」というような目的でその「犯罪」と同様か似たようなことを行ってしまう、逆にそういう行為で損害を受けることから護ろうとする動きも出て来る。本書ではその「戦争」という話題を提供している。

「戦争」とでも言われると、陸海空軍(国によっては一部の部隊の戦力を独立軍種の扱いにしていて、他の〇〇軍というモノが在る場合も見受けられる)というような、装備品を備えた将兵が動き回るような様子、装甲戦闘車輛が走って、軍用機が飛び廻って、軍艦が航行し、砲弾が飛び交うような様を思い浮かべる。が、或る部屋にコンピュータ端末と向き合っている人達が在って、何やら端末を操作していて、やっていることが一般的なオフィスでの作業というようなことでもなく、「戦争」という世界が在る訳である。

近年は、「戦争」または「国際紛争」というようなモノに関して「ハイブリッド」という問題意識が在って、そういう問題意識も高まっていると思う。「戦争」とでも言われると思い浮かべるような軍事行動そのものに留まらず、広い意味での諜報活動を抱き合わせて、紛争の結果として得られるモノを得ようとする行動様式のことを指し示す概念だ。そういう中には、意図的に必ずしも正しくない情報で誘導を行うことや、何らかの混乱を引き起こそうとしてしまうというような、「サイバー」と呼ばれる分野の活動等が入り込んでいる。

現今の「ウクライナ」の問題に在っては、2022年の侵攻のかなり以前、2014年頃からこの「サイバー」という分野の動き、攻防が見受けられ、今でも続いている。既に、少なくても8年にもなってしまっているのだ。本書はそういう事柄に関して詳しく紹介している。

加えて、本書は問題提起も行っている。所謂「サイバー攻撃」というようなことでは、「ウクライナ」に関連して、ウクライナ支援を打ち出して色々と取組む国々を対象とする動きも見受けられるという。「対象」には日本も含まれている。更に、ウクライナを巡る動きを観て、別な地域間紛争ではその「戦訓」を採り入れるようなことをする人達迄現れてしまうかもしれない。

何れにしても、知らない事については、それを解説するような内容の本を読むのが善い。身近な「サイバー」の過ぎる程に意外な一面を知ることが叶うと思う。

『ウクライナ侵攻とグローバル・サウス』

↓未だ出回り始めたばかりの本だと思う。登場を知った際、興味を覚えて予約して入手した。そういうように入手して素早く読了に至ったのだが、善かったと思う。

ウクライナ侵攻とグローバル・サウス (集英社新書)



↑題名が示すとおり、ウクライナでの事態を踏まえた内容なのだが、ここまでに登場している他の本では取上げていないような事項も含んでおり、そういうことが「考える材料」になると思う。

「グローバル・サウス」という表現が耳目に触れる機会が増えているように思う。何時頃から出て来たのか判らないが、何時の間にか少し定着はしているような気はする。「サウス」とは「南半球」を念頭に置いていて、「グローバル・サウス」という表現はアジアやアフリカの様々な国々を総称するような言い方であるようだ。実際に南半球に位置するアフリカ諸国等を指す他、台頭著しい中国やインド等もこの「グローバル・サウス」という範囲に入れる場合も在るらしい。そうなると「新興の国々」という含意にもなるかもしれない。

本書では、その「グローバル・サウス」のアフリカ諸国に関連する話題が多く取上げられている。ウクライナでの事態を巡って、そうした物理的な距離が遠い国々も、無関係では居られないということになるのである。

著者は、テレビ放送コンテンツ等に向けて取材を続けて来た記者である。残念ながら番組を拝見したことはないが、最近は東京に在って報道情報番組のキャスターを務めているという。記者として、国外の取材拠点に出て、帰国して、また出るという活動を長く続けているという。2022年2月にウクライナの事態が先鋭化、“開戦”ということになった時、著者は南アフリカのヨハネスブルグに拠ってアフリカでの様々な取材活動に従事していた。2003年のイラク等の紛争地取材の経験者でもあり、ウクライナでの事態の取材の陣容を強化するということで、著者はアフリカとウクライナを往来しながら活動を続けていた。そうした取材での見聞等や見解を整理して纏めたのが本書ということになる。

様々な国や地域に取材拠点を設けているメディアでは、ウクライナでの事態を受けて、他の地域で活動する記者をウクライナへ派遣した例は色々と在るようではある。が、そうしたウクライナでの活動に並行して本来の任地であるアフリカでの活動を継続し、ウクライナの事態に関連もするアフリカの状況を取材しているというのが興味深い。「あとがき」によると、2022年の1年間で120日間を超える程度をウクライナ取材に費やし、他は任地のヨハネスブルグに拠りながらアフリカの方々を巡っているということだ。そしてそれらに関して、放送コンテンツの放送時間、雑誌や新聞の紙幅というような次元の制約を或る程度免れて、著者は見聞等や見解を一冊の本に纏めた訳である。

ウクライナでの見聞に纏わる箇所は、著者が実際に彼の地に入って動き回る様子がよく伝わる筆致で、出くわした地元の人達の談も迫るモノが在ると思う。また、出くわした時に「知らない大人の男性=何やら恐ろしい兵士」と認識するらしく、酷く泣き出した3歳児の挿話等は、人々を踏み躙る戦禍の残酷さということを想わずには居られなかった。更に、将来を嘱望された未だ若い世代の人達が生命を落し、その死を悲しむ身近な人達も在るということが、取材で出くわした人を例に綴られているのだが、これも何か迫るモノを感じた。

そうしたウクライナの現場を伝える以外の部分が、本書では興味深かった。“制裁”が世界中の貿易を歪めているような一面に関して詳しかった。小麦の輸出が滞る、停まるというような様子で、苦しくなっている国々が見受けられることを、アフリカの国々を訪ねての見聞という形で伝えている。また輸出が滞ることがウクライナ国内での農業生産というような活動にもネガティヴな影響を及ぼしてしまっている。そして戦禍は、運輸業界の仕事も妨げてしまっている一面が在ることを否めず、小麦輸出の滞りの一因にもなっている。

或る意味でのキーワードとして「かみ合わない」という語句も出ている。侵攻を進める側の論と、それが行われる現場の惨状とが「かみ合わない」から始まり、非難すべきを非難という中でそれに冷淡な人達との「かみ合わない」というのも在る。そういう辺りに関して、本書では著者が取材に携わった経過も在るという2003年のイラクという状況も引き、アフリカ諸国での様子を詳しく引きながら説かれている。

本書の終盤に、「非承認国」という形になったドンバスの共和国をロシアが承認するとしたことを受けて緊急開催された、国連安全保障理事会の会合でのケニアの国連大使による発言の件が詳しく紹介されていた。

アフリカの国々の多くでは、「国境」は「植民地の境界」である。「植民地の境界」は、民族、言語、宗教、文化等々の現地事情と無関係に、“植民地帝国”を展開した遠くの国々の何処かで誰かが恣意的に決めたモノに過ぎない。故に「国境」を越えて“同胞”が在るという例ばかりである。“同胞”と共に在りたいと願うにしても、武力紛争でそれを実現することを潔しとはしない。平和の中で到達し得る「より偉大な何か」を希求したいという趣旨であったという。

この発言が、ウクライナの事態という中で示唆に富んでいると思った。民族、言語、宗教、文化等々の現地事情と無関係にアフリカの国々での「国境」が登場したが、或いはウクライナのような土地に関しても、一定程度当て嵌まるかもしれない。現在の国境が登場した時、「文化のモザイク」というような国が現れた訳だ。それを平和な中で巧みに導き、「より偉大な何か」を希求するということが世界の人々に求められるという訳だ。

本書はウクライナの事態に関する現地の様子に留まらず、幅広く“世界”への目線を拓いてくれるような内容が盛り込まれていると思う。メディアがコンテンツを送り出す際の制約を或る程度免れ得る形で、著者の取材での見聞等や見解を整理して纏めた一冊は価値が高いと思う。

『ウクライナ戦争 即時停戦論』

↓未だ出回り始めて日が浅い一冊だと思う。登場を知り、予約という形で申し込んで入手し、ゆっくり読了した。出逢えて善かったと思う一冊だった。

ウクライナ戦争 即時停戦論 (1034;1034) (平凡社新書 1034)



↑著者の見解と活動記録いう色彩が色濃いと見受けられる内容で、賛否や様々な御意見も出る内容だと思う。が、自身としては「気になる…」に一定の形を与えてくれる内容が多かったと思う。また、こういう問題に関しては「考える材料」が多い程好いというようにも思う。本書に在る内容は、そういう「材料」になるモノだった。

歴史関係の研究者として知られる著者は、賛同者を募り、2022年2月のウクライナでの「開戦」から然程の時日を経ない時点で、「即時停戦論」というような意見を表明する声明を出している。本書はそういう著者の活動、活動しながら事態を見詰めて考え続けて来たことを詳しく綴ったという内容だ。「即時停戦論」というような考え方を抱きながら、日を追って深刻化する事態を憂慮している様子が強く伝わる。或る意味では、「不特定多数の読者の存在を意識した日記」という色彩も帯びているかもしれない。

著者や、その声明発表への賛同者の皆さんというような、学識者、有識者という程でもない「普通の人」が普通に考えて、「戦争」は善くないことは明らかであろう。将兵の戦死も在れば、破壊される街で生命を落とす民間人も在って、それらが夥しい数になり、その何倍もの人達が家族や親しい人達を喪う哀しみを押し付けられる。戦禍が拡がる国土が破壊されて荒廃する。そうなれば人々の暮らしも破壊される。破壊がもたらすのは多重的な意味での喪失である。喪失がもたらすモノは、少なくとも幸福では在り得ない。不幸そのものである。莫大な戦費を投じて不幸を撒き散らすのは、俗な言い方になるが「ロクなモノではない」ということになる。様々な知識を有するような人達が「直ぐに停めるようにしよう」と意見を表明しようとするのも判る。

そういうように思うのだが、著者やそのグループが発した論は存外に拡がっていないようにも見受けられる。他方で「ウクライナに向かって降伏せよとでも言うのか?!」、「停戦をすればロシアの側が有利になるばかり?」というような調子の声明を批判する論や、「“親露派”が鬱陶しい!」というような話しも聞こえている。誰も幸福にしない戦争を停めるべきと主張すること自体に、“親〇派”というような色分けは関係ないであろうし、一方を不利なように陥れるという論でもないのではないだろうか。そういうことで、著者やそのグループが発した論に関して、単純に「知りたい」と思って本書を入手した。そして「知りたい」は達成出来たと思う。

何処となく、「賛否や御意見は別に“こういう意見”というのが普通に広く伝えられても悪くはないのではないか?」と著者は思っていて、そういうようにはならず、「ロシア非難基調」に塗潰され過ぎたのではないかという問題提起をしているようにも感じられた。だからと言って、それが“親露派”ということにもならないと自身は思う。が、それを“親露派”と呼ぶ人達も少なくない。

本書では、ウクライナの現今の事態を巡って様々な論者が発表したモノ、本に触れての著者の観方等に言及が在る箇所も見受けられる。自身でも読了している本が幾つも在って、「こういう観方の在るか…」と非常に参考になった。

「開戦」から然程の時日を経ない時点で、「誰も欲しない戦いを続けることを回避しよう」と“停戦交渉”が試みられた経過は在った。これに関しては、開戦から1ヶ月余りを経た4月の「住民虐殺?」の故に「抗わなければ殺される…」とウクライナ側が「徹底抗戦」的な路線になって行ったとされている。著者は「それだけか?」としている。4月頃から、所謂「代理戦争」のような色彩を帯びて行ったのではないかという観方を示している。

多くの国々が関わって、兵器提供というようなことで、著者の表現を借りれば「准参戦国」という立場になっている国々も増えている様子に関して、他の論者が「既に第三次世界大戦?」としている例が在ることも承知している。著者の論もこの「既に第三次世界大戦?」という論に近いと観る。そして、ウクライナの戦争が進む中で、他の地域にも緊張が拡がる危惧が見受けられるようになっているかもしれないと指摘している。そうしたことを回避する意味でも「停戦」への努力が必要であるとしている。

例えば近所に野原が在ったとする。或る人が、子どもの頃に兄弟姉妹や友達と走り回って、見付けた花の名を教え合うというような、平和な過ごし方をした想い出を持っていたとする。そんな人が子どもの親になって、子どもを連れて同じ場所に足を運べば、「父さん(母さん)がお前位の年だった頃…」と想い出を語って聞かせるであろう。街での暮らしや記憶はそうやって受け継がれる筈だ。近所の野原のような場所は、子どもだった人が親になる迄のような年月で御聞く様子が変わることも珍しくない。だからと言って、そういう場所が戦禍で破壊されてしまって構わないのだろうか。対人地雷やクラスター弾の不発が転がっているから立入禁止となって構わないのだろうか。更に言えば、子どもに自分の子ども時代を語って聞かせる父さんや母さんは戦禍で生命を落としてしまっているかもしれない。或いはそういう事由の故に、父さんや母さんの話しを聴く子どもは生まれないかもしれない。「戦争が続く」というのは、多分そういうことなのだろう。

自身、「ウクライナの降伏」というようなことをしなければならないとは全然思わない。「降伏」ではなく「ウクライナの人々の幸福」を願って止まない。が、「“最後の一人”迄、生命を危険に晒して抗い続けるのか?」という程度には思う。更に「世界中の夥しい兵器をウクライナの地で実戦使用し続けるのか?」というようなことも、最近では思うようになっている。

このウクライナの問題は、静観しながら様々な論に耳を傾けて考えなければならないような性質の事柄だと自身は思っている。こんな論、あんな論、こういう観方、ああいう観方という色々を聞くことから始まる筈だ。「“反露派”か?“親露派”か?」と「踏絵」のようにして如何なるのでもない。そう言えば、何処かに「聞く力」なるモノを“売り”にしている方も在ったと思う。それはそれとして、際限は無いかもしれないが、「考える材料」を「聞く」(または本等を読む)ということは大事にし続けなければならないと思う。

何れにしても、なかなかに著名である人達が関わっている活動の割には「声明の中身が伝わっていない?」という気もしていた事柄について、本書を介して少し詳しく知ることが叶ったのは善かった。御薦めしたい一冊だ。

『ウクライナ動乱―ソ連解体から露ウ戦争まで』

↓幅広い読者に向けて、専門的研究等を踏まえた知識を判り易く伝えるというのが「新書」なのだと思う。そういうような「新書らしい」という感じの一冊である。興味深く読み進めて読了した。

ウクライナ動乱 ??ソ連解体から露ウ戦争まで (ちくま新書 1739)



↑既に1年半も戦禍が続く「ウクライナ」が、昨今の大きな話題であると思うのだが、本書は「ウクライナ」の情勢経過に関する本としては「非常に佳いモノの一つ」として挙げて間違いないと思う。

2022年2月からのロシアによる本格的侵攻を受け、「ウクライナ」に関しての知識が色々と求められ続けていると思う。そして関係する事項への観方も様々であろう。故に過去に登場している本が注目される場合も在ったと思う。そして2022年春頃からだと思うが、様々な本が登場し続けていると見受けられる。本書も、「あとがき」によれば2022年春頃から約1年で準備されたという。

現今の「ウクライナ」に関しては、1991年に現行の国の体制がスタートした「ポストソ連」の色々なことが何やら「雑?」で、国内での様々な争いが時間を負って煩瑣になって、クリミアやドンバスという地域の問題が先鋭化して「侵攻(開戦)」に至ったという程度には観ていた。本書はそういうような経過に関して、詳しく、幅広く、著者が続けている研究の成果や少し前の研究調査のためのウクライナ訪問での御経験を色々と織り込んで綴られている。「あとがき」の部分迄含めて502ページと、こういう「新書」としては許容されそうな範囲で最も厚いような一冊となっていると思う。

ソ連時代の後の“国”が形成されて行く様子や以降の事、「ユーロマイダン革命」を巡る事、クリミアの事、ドンバスで戦いが始まった事、「ドネツク人民共和国」の推移や諸問題というような事、それらを踏まえて目下の戦争の経過、そして「ウクライナは如何する?如何なる?」という纏めになる。章毎に読み進めれば、厚い本であることは全く気にならず、内容に引き込まれてしまう。

結局は、2013年から2014年の「ユーロマイダン革命」という辺りから2022年頃迄の経過に、「ウクライナ」が登場して来た1990年代頃の事柄を加えたというような内容が本書には盛り込まれていると思う。加えて本書の内容は、「国が興る?」、「興った国が存続する?」というより大きな問題に思いを巡らせる入口ともなり得るかもしれない。

事態や事情が伝えられる中で登場する、少し聞き覚えも在る事項について、本書ではその経過や幾つかの観方を詳しく説明している。そういうのが凄く有益だと思う。

「ウクライナ」は、色々な背景の人達が「偶々在る」という範囲が、偶々現在の国境になったというような一面が在ると見受けられる。譬えて言うなら、黒に白を加えると出来る濃淡が様々な灰色の部分が寄せ集まったモザイクのような感じだ。そういう状態の中で「黒か?!白か?!」と詰め寄るようなことをしても、色々な意味合いでギクシャクしてしまう。2000年代位、更に2010年代位のウクライナでは、そういう「ギクシャク」が発生していたという一面は在るかもしれない。

2022年2月からのロシアによる本格的侵攻という中、その少し後の時期には、何か「先着争い?」のように方々で「ロシア非難!」だったと記憶する。勿論、「侵攻」そのものは「止めなさい!!」としか言えない事であるとは思う。が、事態に至ってしまった経過を直ぐに誰でも理解していたのでもないであろう。そして幅広い人達にとって、理解の一助になるような材料が潤沢に在ったという程でもないと思う。本書はその「理解してみたい経緯」に非常に詳しい。「ウクライナの中での問題」も実は色々と在った。そしてそれらの解決は如何なるのかということも在るであろう。今からでも遅くはない。本書に触れて学ぶべきだと思う。

「ウクライナ」の情勢経過に関する本としては「非常に佳いモノの一つ」である、なかなかの労作である本書が登場したことを感謝したい。そして広く御薦めしたい。

『問題はロシアより、むしろアメリカだ 第三次世界大戦に突入した世界』

↓読み始めて、頁を繰る手が停められなくなり、直ぐに読了に至った一冊だ。

問題はロシアより、むしろアメリカだ 第三次世界大戦に突入した世界 (朝日新書)



↑本書の場合、「凄く面白い小説」の「停まらない」とは少し違う意味合いで「停まらない」であったと思う。何方かと言えば「少数意見?」なのかもしれないモノの中に在る、真実のようなモノを示されるような気がする叙述が連続しているのである。

2022年2月のウクライナでの事態は、「ロシアによる侵攻」に他ならないので「ロシアは問題」とされ、そういう報じられ方の“一色”という感じだったと思う。それは概ね1年半を経ても大きくは変わっていないと思う。そうした中で「寧ろアメリカが問題」とするのは、既に「少数意見?」というように聞こえるような気がする。が、本書のエマニュエル・トッドは少し前から既にそういう趣旨の観方を示している。

本書はそのエマニュエル・トッドの談を、池上彰が“聞き手”として引き出す対談集のような内容である。フランスと日本とをオンラインで結ぶ対談を繰り返し、その内容を纏めている。

エマニュエル・トッドはフランスの歴史学者で、積上げられた統計資料に依拠して国々の社会変化を論じる等、独特な研究で知られている。現在、彼は本国では「反体制的知識人」という感で、必ずしも自由に御自身の論考をメディアで発表し悪い面も否定出来ない状況下に在るのだという。他方、日本では「欧州の学識者」という、もう少しフラットな位置に在るので、御自身の論考を発表するようなことがし易いという。そのエマニュエル・トッドはウクライナでの事態を「第三次世界大戦」と評し、その論考を日本で最初に発表した。その日本で発表した内容がフランスの新聞に紹介され、他の国々でも取上げられるということが既に在ったのだそうだ。

そういう事柄も在って、エマニュエル・トッドは日本での出版企画に少し積極的と見受けられ、本書の企画に参画したようだ。本書では、ウクライナでの事態を「第三次世界大戦」と評していることを踏まえながら、簡単に収拾し悪い様相になっている世界の危機を論じていると思う。

国々の経済活動は、大局的に観て、何十年間かでその様相を変えて行く。今般、“制裁”の問題等で、ロシアが如何こうということに留まらず、方々の国々の様子が変容を強いられるような様子も既に見受けられることが本書の中で指摘される。そうした意味で事態は既に世界を巻き込んでいる。そして兵器の供給というような事も続くが、これは或いは“参戦”も同然であろう。結果、戦場となってしまったウクライナでの死傷者が増える一方である。

本書の中では、第一次大戦や第二次大戦のように、足掛け5年間程度は戦争状態が続いてしまうかもしれないというようにも指摘されている。そしてそれは「勝者無き戦い」に終始してしまうのかもしれないとも指摘されている。

こういうような「考える材料」は押さえておくべきだと思う。雑誌記事のように手軽に読める本書は御薦めである。

『ポスト社会主義の政治―ポーランド、リトアニア、アルメニア、ウクライナ、モルドヴァの準大統領制』

↓題名の「ポスト社会主義」という表現に強く惹かれて手にした一冊で、大変に興味深く拝読した。

ポスト社会主義の政治 ??ポーランド、リトアニア、アルメニア、ウクライナ、モルドヴァの準大統領制 (ちくま新書)



↑本書では「社会主義」を標榜していた経過が在り、その限りでもない体制に切り替えて、以降に様々な経過を辿った国々の情況を取上げて論じている。数在るそうした国々の中から、本書で取上げられているのは、ポーランド、リトアニア、アルメニア、ウクライナ、モルドヴァである。殊にウクライナに関して興味深く拝読した。

公選の“大統領”が在って、同時に選任と任命の方法等は様々でも“首相”が在る体制を「準大統領制」と本書ではしている。米国のような「大統領制」と、日本のような「議会制」との中間のようで、そのニュアンスが色々と在るので各国毎に色々な様子は見受けられる。

「社会主義」を標榜していた国々が、その限りでもないということになったのは、上述の国々の中ではポーランドがやや早く、ソ連の中の共和国であった経過の国々としてはリトアニアが少し早いが、概ね「ソ連後」なので、30年間余りを経たことになる。30年間余りの中、ポーランドやリトアニアは欧州連合にも入っている「西側」になっていて、アルメニアはロシアとの関係が深く、ウクライナやモルドヴァは西側とロシアとの間での争いの舞台のような様子とも見受けられる。既に各々の様々な変遷の経過が在る。

本書は、その概ね30年間の経過に関して、「巷で思い込まれている?」ということを排し、「歴史」として変遷や課題と見受けられる事柄を述べている。こういうような内容の類書は余り思い浮かばないので、なかなかに貴重だと思う。

本書は2021年3月に登場している。内容は概ね2020年頃迄の状況ということになる。が、現在時点で読んで、些かも古過ぎるということはない。「今年」や「去年」という次元の極最近の状況にこそ言及は無いが、十分に「現在時点の状況へ至る、少し前の経過」が判り易く纏まっている。

本書で取上げられている国々では、「社会主義」の体制の後に、著者が「準大統領制」としている体制を色々と変えている。現在に至って、或る程度落ち着いているように見える例も、未だこれから色々と在りそうな感じの例も交っていると思う。

ウクライナに関しては、目下の戦争のことも在って、「そこへ至る迄の変遷」に関心が在ったので、殊に興味深く拝読した。そしてその内容には少し驚かされた面も在った。

ウクライナでは、大統領の権限や議会議員の選挙、その他色々なことが何回も変わっている。憲法も何度も変わっているが、中には「憲法の規定に鑑みて疑問?」という例迄交っている。そういうような中、言語、宗教、歴史認識というセンシティヴな問題に、政局的な思惑で手を付けて、後の社会的な混乱の遠因になっているというような出来事も起こってしまっているようだ。

自身は「ソ連の後」という国々には高い関心を寄せて来た。そうした意味で本書は大変に興味深かった。「30年間程で体制を大きく変えて」というのは「何となく停滞?」という日本国内では解り悪いと思う。故に本書の内容は、その「大きく変えて」のあらましが掴み易い。広く御薦めしたい。

『カテリーナの伝えたい5つのこと』

↓紐解き始めて、一気に読了してしまった。物理的に分量が然程でもないということも在るのだが、内容に引き込まれて、頁を繰る手が停められなくなり、気付けば読了という様子になるのだ。

カテリーナの伝えたい5つのこと



↑日本国内で活動しているウクライナ出身の女性の音楽家へのインタビューを纏めた1冊である。

「伝えたい5つのこと」と題名に在るが、これはインタビュー内容を大きく5つの章に纏めているので、そういうようになったのであろう。各々の内容が興味深いので「5つ」には限定し悪い「伝えたい」が本書には在る。

カテリーナは「バンドゥーラ」というウクライナの伝統楽器を演奏して歌う音楽家で、日本国内各地を訪ねて演奏活動をしている。加えて、日本滞在も長いことから、ウクライナ語の翻訳や通訳も手掛けているということであるようだ。音楽と出逢い、演奏活動を志して、来日して活動してという経過や、近年のウクライナの情勢を巡る想い等が語られ、何か迫るような内容になっている本書である。

カテリーナはあの「チェルノブイリ原発事故」の少し前に、原発が立地していた地方の町で生まれている。一家は、直ぐに「避難」ということで他地域(キエフの辺りであるようだ)に移っている。随分色々と在った中で彼女は音楽の活動に出逢って、それに打ち込んで行くことになる。旧ソ連諸国の教育や文化活動の様子が示唆されている内容が本書には在る。やがて参加していたグループの国外公演のメンバーにも選ばれるようになり、少女時代に来日もしていて、日本に惹かれるものが在り、長じてから日本での活動を志したのだった。やがて日本で結婚して家庭も築いている。

ウクライナに関しては、「2022年2月のロシアによる侵攻の開始」という認識が広くされているのかもしれない。が、ウクライナではそれよりかなり以前、2014年のクリミアの問題というような頃から、ロシアとの摩擦で揺れているという認識であったという。そしてウクライナ全土で砲弾やロケット弾が飛び交い、親しい人々の安否が懸念されるようになって行ったのである。

惹かれて活動をするようになった遠い国に在るカテリーナは、色々と複雑な想いで事態の推移を見守ったようだ。方々からの依頼で通訳、翻訳関係の仕事を多く請けたという物理的な多忙とも相俟って、音楽の公演が激減した時期も在ったという。が、「故国が大変だからこそ、演奏や歌を介してそういう状況を日本の人達にも伝えるべきではないのか?」と、交流の在る人達から、激励を込めた意見が寄せられるようになり、カテリーナはまた公演にも勤しむようになって行ったのだという。

普通、親しい人と話して別れる場合、電話も含めて「またね!」という程度の言葉で別れる。「またね!」という語句をを発することに躊躇も疑問も無い。が、戦時という状況は、「またね!」の少し後に「“また”?それが在るのか?!」という妙な疑問が沸き起こる状態なのだという。こういう「普通の人の感覚」というのは重いと思う。考えさせられた。

少なくとも、「2022年2月のロシアによる侵攻の開始」という時期から、もう直ぐ1年半だ。1年半も異常な状態が続いている。こういう中であるからこそ、ウクライナにも日本にも所縁が在る方の「普通の人の感覚」での御話しは傾聴に値すると思う。御薦めしたい一冊だ。

『応仁悪童伝』

↓「応仁の乱」が起こるような頃、或いは起こってしまった頃という時代を背景とした時代モノの小説だ。

応仁悪童伝 (ハルキ文庫 き 9-1)



↑仄かに興味を覚えて本作を手にして紐解き始めた。独特な作中世界の雰囲気に引き込まれ、夢中で本作を読了した。

本作は2人の主人公が各々に、または手を携えて、揺れ動く不穏な時代を駆け抜けるというような物語ということになる。場面に応じて適宜視点人物が切り替わるのだが、殆どの場面は2人の主人公の何れかの目線で綴られることになる。

2人の主人公は堺の寺で暮らしていた。

身寄りの無い者等が芸事で身を立てられるようにということで、厳しい修行を課せられる仕組みが在って、一若はその中に在った。舞台の上で本物の武具を用い、軽業の動きも入れて古い合戦譚等を演じる「具足能」というモノに取組んでいた。

熒(けい)は、身分の高い僧侶の近辺の仕事に携わる上稚児と呼ばれる立場だった。熒(けい)の名は、熒惑星(けいこくせい)という星の名に因んだ名である。熒惑星とは火星の古称である。様々な知識を有しており、画を描くことが得意である。更に評判の美少年でもあった。

同じ寺に在ると言っても、一若と熒とは立場が大きく異なった。それでも同じ年であることから、互いに言葉も交わし、親しい間柄であるとは言える関係であった。

或る日、2人の暮らしていた寺で、僧侶が殺害され、建物に放火されるという事件が出来する。熒は寺から出奔した。そして一若は、全く身に覚えが無い殺害と放火の犯人という話しになってしまっていたので逃げた。更に20貫文の賞金首ということにまでなってしまっていた。

熒と一若は各々に京を目指す。熒には何か思惑が在るようだった。一若は何とか金を稼ごうとしていた。一若は生き別れになった姉と「堺で会おう」と約したとして、重大事件の犯人にはされてしまったものの、それを帳消しにし得るような利権を贖って堺へ戻ろうと考えたのだった。

この頃の京都は荒廃していた。室町幕府はその権威が傾き、大名達が争い、各々の大名家の中で後継者争い等が展開し、凶作や災害で流民が発生し、徳政を求める土一揆が頻発していたのだ。一若はこうした渦中に身を投じ、生きる術を見出そうとする。熒もまた、独自に活動を展開しようとしている。

そういう最中、畠山義就と畠山政長との長い間の争いを決着すべく、「当事者の軍勢だけで決着が着くまで戦え。他の者が加勢することは罷りならない」と幕府が裁定した。ところがここに、実力者として知られる山名宗全が畠山義就の側で加勢したことが契機となり、方々の勢力が東西に分かれて争う事態となってしまった。「応仁の乱」である。

この「応仁の乱」という中、2人の少年を始め、渦中の様々な人達は如何する、如何なるというのが本作の物語である。

「作中の京」は、何か「灰色」または「くすんだ色彩」を感じさせる。その他方に、贅を凝らしたモノを使う一部の人々の場違いに華やかな色が散っている。そして合戦が絡めば、高位の有力武将の華麗な武具や、一部の将兵が身に着けた華やかな色のモノが蠢き、「灰色」または「くすんだ色彩」の街に炎の色や血の色が飛び散る。そういう作中世界の様相だと思った。

また「応仁の乱」は「戦国時代」への道筋を拓いたとされる出来事だ。以前の時代の“作法”または“定石”を外した「ゲリラ戦」的な戦術が用いられ、そういう事を担う足軽や疾足(はやあし)という兵が登場して活躍する。手っ取り早く敵兵に損害を与えようと、「投石戦術」というようなモノが大胆に採用されている。陣地に乱入して櫓を燃やすような行為を互いに仕掛け合うというような感じなのだ。こういう様子が凄い。

様々なモノを負っている熒が、揺れる時代を必死に駆け抜けようとする一若が如何いうようになって行くのか、なかなか夢中にさせてくれた。2人の周辺に現れる様々な人物達も各々に面白い。本作は広く御薦めしたい。

『信長、天を堕とす』

↓時代モノの小説である。

信長、天を堕とす (幻冬舎時代小説文庫)



↑然程分厚い本というのでもない。素早く読了に至った。

題名に在るとおり、織田信長に纏わる物語である。多分、主役であるか脇役であるかを問わず「織田信長」は時代モノの小説では「最も頻繁に取り上げられる」というような人物だと思う。そして取上げられた回数の分だけ、夥しい数の「信長像」が世に問われていると見受けられる。それらには色々と触れていることになるが、本作はその何れとも違う独特な何かが在ると感じだ。故に本書を読み始めて、頁を繰る手が停められなくなったのだ。

織田信長は幾多の戦いを潜り抜け、日本全国の統一に手が掛かる迄にその勢威を拡大した。戦いも苦しいモノが少なくなかった。陣営の勇功の士を喪う場面も多かった中で、敵対した陣営を掃討した。味方、敵の双方の犠牲を積み上げて歩んだことになる。本作では、信長自身を主要視点人物ということにして、その歩みの中で考えたであろう「個人的な想い」というようなことに光を当てている。そこが酷く興味深いのだ。

桶狭間の戦いで今川義元と戦い、尾張や美濃を制する戦いが在り、浅池や朝倉家との戦いが在り、一向宗との抗争が在り、武田家との戦いが在った。やがて本能寺ということになって行く。そういう中で信長が考えていたこと、問題意識というモノが在って、それが変遷している。そこに着眼したのが本作だと思う。

信長個人の物語という体ではあるのだが、何処となく「人間の社会全般?」というようなことを示唆するような気がする場合も在るような内容であったかもしれないと思いながら読み進めた。広く御薦めしたい。

『まむし三代記』

↓戦国時代を背景とする小説だが、凄く興味深く読み進め、素早く読了に至った。言葉を換えると、なかなかに夢中になって、頁を繰る手が停められなくなったのだ。

まむし三代記 (朝日文庫)



↑斎藤道三と、その父の長井新左衛門、その息子の斎藤義龍の三代という物語であるが、同時に斎藤道三の祖父である松波高丸も登場するので、斎藤道三を三代目とする物語という一面も在るかもしれない。そういう様子を、長井新左衛門と少年という年齢の頃に出逢って行動を共にし、斎藤道三や斎藤義龍の近くに在った源太という男の一代記的な時間軸で描いているという、なかなかに凝った造りの物語だ。

斎藤道三は美濃国に君臨した戦国大名である。一介の商人から身を興したというような伝えられ方をしてもいたが、実はその父が美濃国で台頭し始めていて、斎藤道三はそれを継承しながら、美濃国の支配を固めて行ったのである。そして色々な物語が伝えられるが、息子の斎藤義龍の時代になって行くのだ。

本作はその美濃国で二代で台頭して行き、三代目に至ったという経過を踏まえて創られた物語になっている。故に物語の冒頭は、法蓮房と名乗る法華宗の僧であったという斎藤道三の父が登場する挿話から起こっている。

未だ少年の源太や、他に色々と訳が在りそうな男達が或る仕事を請負うべく待ち合わせ場所に在る。そこに法蓮房がやって来て、その一団に加わった。そして或る仕事に臨むことになるのだが、それが契機で法蓮房を中心とする同志の一党が結成される。この一党の行く末というのが本作の物語ということになる。

法蓮房は「国滅ぼし」と仮称する秘密が在って、その秘密を護り抜かなければならないとしている。この「国滅ぼし」とは何なのか?秘密兵器か?秘術か?或いは何らかの秘策か?そしてこれは息子の斎藤道三の代にまで受継がれて行く。

「国滅ぼし」の秘密は秘密として在るのだが、法蓮房が長井新左衛門となって美濃国で重きを為して行く中での、様々な謀略や戦いの様が非常に興味深い。これは息子の、やがて斎藤道三を名乗る長井新九郎の代になっても受継がれる。

全体を通じて、応仁の乱が続く時代に、親を喪い、自身も左腕を損なって不自由な中で懸命に生きる松波高丸の姿を描くという篇が適宜挟まる。この松波高丸が次代に託した想いというのが、この物語の底流に在るのかもしれない。そして、応仁の乱の時代から、長井新左衛門、斎藤道三、更に斎藤義龍と世代が下って行く中での「時代の変化」、「社会の変容」というようなことが在るのだと思うが、そういうことを押さえた物語だ。そしてその三代の近くで人と時代を見詰めたということになる源太が在る。

非常に興味深い物語で、広く御薦めしたい。

『黒幕の日本史』

↓「一寸した合間」というような時間にドンドン読み進められる感じの一冊だ。そういう方式で、頁を繰る手が停まらなくなり、素早く読了に至った。

黒幕の日本史 (文春新書 1402)



↑“歴史”という壮大なドラマの「小さな伏線」とでもいうようなモノに光を当てながら、平安時代から江戸時代迄の「密かに時代を紡いだ何か」を探るような内容になっていると思う。

所謂「黒幕」だが、頻出する語句のような気がしないでもないのだが、存外に定義が難しいかもしれない。本書でもそういう辺りに言及が在る。

が、結局は「オモテの自他共に認める立場」ということでもない、言わば「ウラ」というような「非公式な権威」とでも呼べそうな何かを手にしていて、陰に陽に様々な影響を与えていたと見受けられる人物を、本書では「黒幕」としていると思う。

「例えば如何いう人物?」ということになると思う。本書で論じられているのは…宇多天皇、信西、北条政子、中原親能、極楽寺重時、海住山長房、平頼綱、北畠親房、三宝院賢俊、細川頼之、三宝院満済、黒田官兵衛、千利休、伊奈忠次、西郷隆盛という人物達である。16名挙がっているが「知らない…」という名前が多数派を占めているように思う。

上述の各人物に関して論じられているのは…平安時代の摂関政治が起こった頃に摂政や関白を排するような動きを見せた人達。院政という中で正式な朝廷の官位が無意味に近いような位置に在りながら「院の近臣」という非公式な立場で権勢をふるって活動した人達。鎌倉幕府の体制が確立する中で実は大きな役目を負っていた人達。鎌倉幕府の体制変化の中で、非公式的な立場で力を振るった人達。南北朝時代という様相の中、南朝や北朝の各々の陣営で様々な手を打った人達。室町幕府の体制の変遷の中で独特な動きを見せた人達。戦国時代に活躍した人達の、前の時代とも後の時代とも違う独特な立ち位置。例えばそういうようなことが論じられているのだが、上述の様々な人達の活動等を説くことで、「少しずつ変質、変容した体制」という「日本史そのものを考えられる材料」を与えてくれている。またここで論じられている状況が生じた背景に、「個人がなかなか越えられない“壁”」というモノが在って、そういう中で“裏技”めいた感じで生じた様子というのも在ったのかもしれない。

時代が移ろっても、或る程度“共通項”的な形で生じる「ウラ」というような「非公式な権威」というモノが在る。それは“取次”なるモノだ。最高権威者に向けて申し入れることを取り次ぐという役目に任じられる者が在れば、「何を伝え、何を伝えない」または「如何に伝える」を一存で決められるので、そこに「権威」のようなモノが生じてしまう訳だ。何か、そういうような「属人的に物事が動く」という感じは何時でも在るかもしれない。或いは?現代でもそういう一面は在るのだろうか?

或る程度通史的に、「ウラ」というような「非公式な権威」というモノを担っていたと見受けられる人物を考えてみることで、歴史が益々興味深くなる。結局、「歴史を学ぶ」というのは、年号や用語を覚えるということに尽きるのでもなく、伝えられている様々なことを材料に社会、政治、経済、文化、人生等々の様々な事柄を考えるということではないだろうか?

かなり面白いので広く御薦めしたい!!

『プーチンとロシア人』

↓出先の書店で出くわし、入手して興味深く読んだ1冊である。

プーチンとロシア人 (産経NF文庫)



↑残念ながら他界されたのだが、ソ連・ロシアに関する研究では知られていて、永年活躍された著者が2018年頃に発表した本の文庫化である。文庫本の好さを活かし、持ち歩きながら愉しく読んでいた。

何処の国や地域であっても、各々に「他所とは違う様々な何か」というモノが在る。それについて内側からの目線で考えることや、外側からの目線で観察してみることが各々在る。それらは長い間に亘って行われ、積み重ねられる。

そういう性質の事柄はロシアに関しても多々在って、本書ではそういうようなことが論じられている。1980年代位迄、ソ連時代の中で、ソ連以前からのその種の考えや観察が重ねられた経過が在り、1990年代頃からの状況の変化という中、変わったようでいて変わらないというモノも多く在る。著者は永年の経験等にも拠りながら、そういうことを本書で掘り下げている。

加えて、その生い立ちや職歴、職業に纏わる人達の行動等を踏まえ、プーチン大統領の人物、考え方、行動様式を考えているのが本書である。

そういった諸要素を合わせて「ロシア?」と考えるとして、政治、外交、軍事、労働、技術、社会というテーマ、更にロシアの人達との交渉や人間観のようなことを掘り下げている。或いは著者の「ロシア研究」の集成というような性質も帯びているのかもしれない。

或る時期に発信されたイメージで単純に「こういうモノ」として、それ以上は踏み込まないという対象が世の中には多く在って、ロシアもそういう多くのモノの1つなのかもしれない。が、互いに引っ越すことが出来るでもない隣国であるロシアに関して、知る、考えるということは何時でも重要である筈だ。そういう材料になるのが本書だ。

本書は、極個人的な経験や見聞を誇張するようなことは全く無く、伝えられる様々な事柄を掘り下げて「こういう一面が在るのでは?」という考察を重ねている感である。巷間の俗説という次元の話しの「本当のところ?」を真摯に考えているような面も在ると思う。

大変に興味深い一冊だ。

『政治はケンカだ! 明石市長の12年』

↓登場時に話題になっていた一冊であったと思う。少し前に入手していた。それを休業日に紐解き始め、少し夢中になってドンドン読み進めて、素早く読了に至った。

政治はケンカだ! 明石市長の12年



↑本書はインタビューまたは対談を書き起こしたという体裁のモノである。明石市長を12年間勤めていた泉房穂の話しをジャーナリストの鮫島浩が聴くという内容だ。が、実際に読んでみて、寧ろ「対談」というような感が強かったと思う。それはそれで好い。本書の中でも、市長職に在るという中では「申し上げ悪い」も無いではないということで、任期満了で市長職を離れる日に本を出している。そういうことで、この泉房穂が思うところを存分に綴ったモノを想像していたのだが、少し違った。

どの位の時間に亘って語り合ったのか?なかなかのボリュームとなっている本書である。が、ボリュームが気にならない。内容が面白いので、頁を繰る手が停められないのだ。

本書は、泉房穂の生い立ちや経歴に纏わる話題から始まり、市長就任後の経過、経験、見聞、それらに関して考えた事等を、「ケンカ相手(?)」毎に纏めている。議会、政党、役所、宗教団体や業界団体、マスコミということになる。そして結びにリーダーシップという話題になる。

本書は「政治はケンカ」と題し、喧嘩腰に色々な人達と争うような経過が在ったということを綴ろうとしている。が、読む限り「抗争」というようなことでもなく、「素朴に“想い”を抱いて市政に身を投じてみたところ、周辺に何やらよく判らない事が多かった」という事に過ぎないように思った。何やら“衝突”というような感じになった経過は在るのかもしれないのだが、言葉を換えると「“当たり前”というように大きな顔をしている様々なモノに関して、考えてみるとオカシイかもしれないよな…」という述懐というように感じた。更に、「こういうことだから、閉塞感とか疲弊感というようなモノを否定出来なくなっているのではないか?」という、広く深い問題提起であるように思った。

泉房穂と鮫島浩との対談というような感じで様々な話題が出て来るのだが、それらの多くに関して「そういうの…在るなぁ…」と判るモノが多かったと同時に、市政という現場で「如何か?」と真摯に思ったという話しの幾つかは記憶に残る。そして市町村に対する都道府県の在り方の論も「そのとおりかもしれない」と思った。

「前例が無い」、「他所でやっていない」というのは長い間に亘って随分聞く。これは泉房穂の明石市でもそうだったという。が、考えてみれば“前例”というモノの多くは、或る時点で「初めて」であった筈だ。現時点で「例が無い」かもしれないが、善いと信じて試行して「後の時代の“前例”にして行く」という考え方も排除される必要はない訳だ。泉房穂の手掛けた事柄の多くは、そういうことなのだと思う。そして、一定以上の成果というモノも遺しているのだ。

国民に負担を求めるとして、税が在り、保険が在る。何時の間にかそれらの負担が、平均して収入の半分近くとなっており、他方で人々の収入は長い間に亘って増えてもいない。最早「限度?」という中で、何やらさ更なる負担の話しが在る。そういうことに関しても本書では、色々な角度で詳しく語られている。

市政という現場で「如何か?」と真摯に思ったという話しの幾つかは記憶に残ったが、学校の話しが凄く気になった。市立の中学校で問題が生じた。が、教職員は県職員であり、市が当該の中学校の問題を詳しく調査するような行動を起こせないというのだ。泉房穂は唇を噛んだということを語っていたが、これは気になった。多分、各地でこういうのが在るのであろう。

何やら面倒な時代なのかもしれない。だからこそ、各個人が色々と考えなければならないのかもしれない。本書はそういう考える材料を非常に豊富に与えてくれる。「市民の皆さん」というより「私達」なのだというような泉房穂の言が記憶に残る。

本書は「時代が求める」という内容かもしれない。自身が入手した時点で「四刷」だが、更に増刷されて然るべきであろう。

『宇喜多の楽土』

↓戦国時代を背景にした時代モノの小説で、大変に愉しく、素早く読了した。

宇喜多の楽土 (文春文庫) [ 木下 昌輝 ]



↑本作の主要視点人物となるのは宇喜多秀家(1572‐1655)である。

宇喜多家というのは、起こった当初は浮田家であったというが、嫡流の家が「宇喜多」と佳字を当てるようになって行ったのだという。庶流は「浮田」という字を使い続けたそうだ。現在の岡山県に相当する備前国、美作国というような地域に在った。宇喜多秀家の父である宇喜多直家の頃に戦国大名として台頭する。織田信長陣営と毛利家陣営との間で、備前国、美作国に加えて備中国の一部や播磨国の一部にも勢力を拡げて行ったという。

物語は、宇喜多直家の最晩年頃、未だ11歳の宇喜多秀家が家を継ぐような辺りから始まる。本能寺の変の後、豊臣秀吉が台頭するという状況下、その豊臣秀吉の庇護を受けて宇喜多家を継いでいくような時期以降のことが描かれる。

作中、朝鮮出兵を経て豊臣家の求心力が弱まり、豊臣秀吉の薨去ということになり、関ヶ原合戦の局面となる。戦後、宇喜多秀家は生き長らえるのだが、そこに在った想いや、何が在ったのかということが描かれる。

豊臣家の中で色々な事が在ったような時期には、豊臣家の人達と家族同然に過ごしていた宇喜多秀家は色々と悩む。そして2度の朝鮮出兵では主力部隊の大軍を動員することになる。他方で所領の備前を豊かにすることに心を砕いていたが、家中では諍いが絶えなくなる。そういう中で関ヶ原合戦である。宇喜多秀家は西軍に参加して敗れる。敗れた後の物語が少し興味深い。

宇喜多秀家は、関ヶ原合戦迄の人生よりも長い期間を“流人”として過ごすこととなった。何故、そういうことになったのか?彼が夢見た「楽土」とは何か?色々と考えさせられる内容だった。広く御薦めしたい。

『エルサレムの歴史と文化』

↓なかなかに興味深く頁を繰り続け、素早く読了に至ることになった一冊だ。

エルサレムの歴史と文化-3つの宗教の聖地をめぐる (中公新書 2753)



↑「専門的研究に裏打ちされたような情報を一般向けに判り易く説く」というのが“新書”なのだと思うが、本書は正しくその「新書らしい」という感じの一冊に纏まっていると思う。

今年は「2023年」だ。これは「イエス・キリストの生誕の年」ということになっている年を「紀元」とした数え方の「西暦」だ。この「西暦」というようなモノが始まった頃、更にそれ以前からの歴史が積上げられている都市というようなモノの存在は、「何やら凄い」と思う。極個人的には、幼少の頃に「住んで居た家の近隣の建物が竣工していない様子で、それらの工事現場を毎日眺めていた」という経験を有している、言葉を換えると「眼に留まる近所の建物の悉くが、未だ幼かった自身より“若い”」という状況下に在って、更に国内でも「古い街」の歩みが「相対的に少し短い」という地方に育っていて、100年を超えているような経過を有する建造物等を然程視ないままに長じたという面が在る。故に、本書が取上げる「エルサレム」というような場所は「詳しく知るでもないが、何やら凄い…」という程度に思ってしまう面が在る。

本書はそのエルサレムの長い長い経過、現在に伝わる史跡等を紹介する内容の一冊である。「西暦」というようなモノが始まった頃、更にそれ以前からの歴史が積上げられている都市の経過と、知られている史跡がよく判る内容だ。殊に、「西暦」の「紀元」とされる「イエス・キリストの生誕の年」ということが在るが、そのイエス・キリストが実際に活動したとされるのがエルサレムの辺りで会ったと伝わっている訳で、関連の事項が本書では非常に詳しい。

イエス・キリストの物語は(新約)聖書に綴られているが、時代が下るに連れて美術作品で色々と表現もされている。そして「行間に想像し得る動き」というモノも考えられる。エルサレムの聖墳墓教会の周辺には、そういう史跡が殆ど悉く設定されていて、祈りをささげる場となっていて、各々の場が色々な経過を持っているのだという。それらが本書に詳しく紹介されているのだが、何やら凄い。驚きながら読み進めた。

本書は、このキリスト教関係のことや、それ以前のユダヤ教関係のこと、それ以降のイスラム教関係のこと、更に少し分類し悪い史跡と、遥かな時の流れを伝える都市が擁している様々なモノを、極力漏らさずに判り易く伝えようとしている労作だと思う。或いは、色々な立場の人の非常に強い思い入れが滲む場所であるだけに、エルサレムは何時も“争点”のようになってしまうということに、何か変に納得してしまった。

興味深い一冊で、広く御薦めしたい。

『諜報国家ロシア-ソ連KGBからプーチンのFSB体制まで』

↓なかなかに興味深い話題が収められている一冊だと思う。

諜報国家ロシア-ソ連KGBからプーチンのFSB体制まで (中公新書 2760)



↑本書は「“ロシア”とは?」ということを問い、考える材料を多々提供しているとも思う。

題に「KGBからFSBまで」と在る。これは所謂「諜報機関」、「防諜機関」のことである。ロシア革命による新しい体制が成立して行く中で「諜報機関」、「防諜機関」が形成された。やがてそれが「KGB」となって、知られるようになって行く。1990年代に入ってロシアの体制が変わった後も、「KGB」が再編されて行く。そして再編された機構の中で代表的なモノが「FSB」だ。

「諜報機関」と言えば、情報を収集し、そのために様々な工作を展開する場合も在るというモノだ。「防諜機関」と言えば、不利な情報が漏れることを防ぐ活動を展開するというモノだ。何れも重要ではあるが、何処か秘密めいていて、余り表に出て来ないような印象は在る。が、ロシアに在ってはそういう印象の範囲に留まらない存在かもしれない。内政や外交の直ぐ背後に、その種の機関による活動が密着していて、直接的に当該機関の職員というような判り易い形で仕事をしている「以外」の「関係者?」が実に多種多様であるのだという。

国を統治する、または国際関係の中で存在感を示して影響力を行使するというような中で「情報」が重要な位置を占める。ロシアはソ連時代からそうしたことに非常に重きを置いていたという一面が在る。本書ではそうしたことが、様々な角度で論じられている。そういう分野に関して、ソ連時代から比較的近年となる1990年代から2010年代迄の事柄を広く取り上げ、最近のウクライナでの事態を巡る動きに至る迄の言及が在る。

自身は、実はソ連の歴史を学んだ経過も在り、1990年代からロシアを訪ねる機会や、滞在した経過も在るので、様々な見聞が在ると思うが、そういう事柄に関連する内容が豊富な本書を実に興味深く拝読した。「それでも」と、ロシアと日本とは、互いに「引越出来るでもない隣人」であるというように思う。が、「こういう面も在る」と、本書で論じられているようなことを注視する必要は在るであろう。

「諜報機関」に注目した「分野別歴史」という感の本書は、在りそうで無かったかもしれない内容を色々と盛り込んでいる。貴重な一冊で御薦めである。

『ソビエト連邦史 1917-1991』

↓御近所の書店が閉店するというその日に立寄り、眼に留めて求めた一冊であった。ゆっくりと読んだ。

ソビエト連邦史 1917-1991 (講談社学術文庫)



↑随分と以前から関心を寄せている事項に纏わる本ということになる。主に“政治史”ということで、「ソ連」が辿った経過を振り返る内容である。

ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(1890-1986)という人物が在る。「モロトフ」は、「レーニン」や「トロツキー」や「スターリン」と同様、往時の革命家が使っていて、そのまま通称として有名になった“ペンネーム”である。本名はスクリャービンというそうだ。

近現代の歴史に関心を寄せる方であれば、「モロトフ・リッペンドロップ協定」という、第2次大戦の前のソ連とドイツとの間の密約という話しを耳にしているかもしれない。この話しに出て来るソ連の外務大臣がモロトフである。

モロトフは、ペンネームを通称として使い続けたことが示すように、革命が成る以前からのボリシェヴィキである。党の仕事や政府の仕事を手掛け、スターリンに近い幹部として要職を歴任した。フルシチョフ時代になって党を離れ、やがて1984年に復党する。そしてゴルバチョフ時代に入った1986年に96歳で他界している。

本書はこのモロトフを“キーマン”と位置付け、彼が関与した事案等を軸に据えながら、「ソ連」が辿った経過を振り返る内容である。

極々大雑把に顧みる。

ロシア革命の後、第1次大戦の後始末や内戦というような状況が在りながら、レーニンを指導者として体制が構築されて行く。レーニンが逝去した後、スターリンを中心とする流れと、その他の流れとの抗争のような情況が在って1930年代に入って行く。

1930年代には農業集団化の件等、実に色々と在って、やがて第2次大戦の時期に進む。戦争を乗り切った後、国際政治の様々な動きも在るが、やがてスターリンが逝去する。

以降、スターリンに近かった人達が排され、フルシチョフの時代に入る。そしてフルシチョフはブレジネフに追い落とされてしまう。やがてブレジネフの下で「停滞の時代」になる。

ブレジネフが逝去した後は、アンドロポフ、チェルネンコと何れも短命政権であった状態が続き、1985年にゴルバチョフが登場する。

ゴルバチョフの下での動き、「上からの革命」が「下からの革命」の挑戦に晒されるような状況、ソ連共産党の維持することや、連邦体制を維持することが困難になり、ソ連の旗は1991年に下ろされてしまう。

こういうような大雑把な流れに関して、様々な事柄を挙げて掘り下げているのが本書だ。

現在、ソ連の旗が下ろされてから30年余りということにはなる。「ソ連の歴史」を振り返ると、バルト3国とソ連後の12の国々が成立して辿る経過、ソ連が旗を下ろすようになって行く頃の「色々と在った…」または「課題を残し過ぎた?」ということが在って、それ故に「昨今の様々な問題」も生じているのかもしれないというようなことを思った。

「30年余り」というのも“微妙”かもしれない。本書の終章辺りに綴られている、1980年代末や1990年代冒頭の色々な出来事に関しては、極個人的な話しになるが、「自身の人生の中での見聞」というようなことで記憶に留まっている場合も多く在った。そういう情況でもあるが、それでも30年以前と最近とでは、色々な事柄を巡って随分と様子が変わってしまっていることも思わざるを得ない。そういう「個人の人生の中での時間」であると同時に「余りにも多くが大きく変わり得る時間」ということで、30年余りを“微妙”と表現したくなる。

そういう訳で、「ソ連の歴史」というようなことになると、やや複雑な想いも沸き起こるのだが、それはそれとして「振り返っておきたい事柄」であると強く思う。これもまた「昨今の様々な問題」を考える大事な材料だと思う。

本書は、最初のモノが2002年に登場していたが、その後の研究成果―ロシア革命の“担い手”というような役割を負った人達に関する事等―を加味して加筆し、2017年に「ロシア革命100年」を意識して改めて登場したモノであるという。「ソ連の歴史」に登場する人名等に不慣れな方に関しては、やや「入り悪い?」のかもしれない。が、自身はその種のモノに少し馴染んでいるので、何か凄く夢中になってしまった。