『コロナ狂騒録 2021五輪の饗宴』

↓本作より少し前の時期を背景にした別作品を興味深く読み、「続き?」と手にした作品だった。

コロナ狂騒録 2021五輪の饗宴 (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)



↑大変に興味深く読み、頁を繰る手が停め難くなり、素早く読了に至った。

前作では2020年前半頃の状況を背景としていた。本作は2020年後半から、2021年7月に東京五輪開催となる辺り迄の状況を背景にしている。

作品は、作者がこれまで綴って来た種々の作品の劇中人物達が多数登場し、そしてモデルが何となく判る様々な劇中人物達も多く登場し、実在地名と架空地名が混在する「作中世界の日本」で、現実の動きを少し反映した情勢が在る中で展開する。半ばリアルタイムで諸情勢を追いながら、御自身が医学者でに在るという作者の観方を織り込んで、連続テレビドラマや、少し未来に制作されるドキュメンタリーを文字化、読物化したというような雰囲気で展開している。

作者がこれまで綴って来た種々の作品の中、“コロナ”の語を冠し、近年の社会情勢等を踏まえた新しいシリーズの下敷き、“核”としているのは「バチスタ」のシリーズである。脚光を浴びた新たな技術ノウハウを駆使した手術を巡るスキャンダルが生じ、それに対応するという物語が在った。(個人的には未読だが。)その物語の舞台となった「東城大学」が本作の主要な舞台にもなっている。「東城大学」は東海地方の架空の街、桜宮市に在る。医学部を擁し、大学病院が在る。この大学病院に在る医師の田口や、「バチスタ」の件以来の付き合いである厚生労働省の型破りな技官である白鳥が物語の鍵となっている。

作中でもコロナが大変な問題になっている。前作ではコロナが拡がる中で混乱が生じ、田口や白鳥が奔走する。「東城大学」ではコロナ患者を受け容れる体制を苦心しながら構築していたが、本作に至って、懸命な取組に綻びの様なモノが生じ、田口達が苦慮しながら対応する。

そういう他方、ワクチンの問題、観光を振興するキャンペーンのこと、“マンボウ”やら“緊急事態”やらの問題、東京五輪の件と様々な動きが在る。長期政権を投げ出すような形になった首相の後、政権で官房長官を務めていた人物が首相となって色々な動きが在る。

「物語」として、多少の誇張と抽象で些か戯画化もしながら、「2021年頃?」と問い掛ける興味深い中身になっていると思った。色々な意味で興味深い作品だ。広く御薦めしたい。

『コロナ黙示録 2020災厄の襲来』

↓「そして如何する?如何なる?」と「続き」が凄く気になる物語である。素早く読了に至った。

コロナ黙示録 2020災厄の襲来 (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)



↑「物語」として愉しいのだが、題名に在るように2020年頃の様子を背景にした内容であり、多少の複雑な想いも沸く。或いはその「複雑な想い」を抱きながら、色々と考えるというのも作品が世に問われた意義なのかもしれない。

手にした本は2022年7月に出ている文庫本で、翌年5月の「第2刷」を実際に手にしているが、作品が初めて登場したのは2020年7月なのだそうだ。所謂「コロナ」の問題が拡がり始めた時期のことをリアルタイムで追うように、その問題を含めた社会情勢を意識しながら編まれた物語だと思う。

本作は、基本的には作者の海堂尊(かいどうたける)が綴っている「バチスタ」のシリーズという風な体裁になっている。シリーズは、東海地方の架空の街「桜宮市」に在る「東城大学医学部」を主要な舞台に、大学病院関係者やその他の様々な人達が登場し、医学関係も含めた様々な話題を採り入れた物語が展開する。序ながら、この作者の海堂尊自身も医学者であるということだ。

なかなかに知られている「バチスタ」のシリーズではあるが、自身はそれを未だ読んではいない。それでも本作はなかなかに愉しい。

「バチスタ」のシリーズが起こった「東城大学」の大学病院に在る田口や、最初の作品で関わって以来の厚生労働省技官の白鳥という人達が鍵となってはいる。それに加えて、方々で各々の活動に携わるシリーズ各作品に登場する人達、「あの人物をモデルに?」という様々な人達と非常に多彩な作中人物達が現れ、視点人物が適宜入替りながら「2020年の様子」が描かれる物語だ。何処となく、連続テレビドラマや、少し未来に制作されるドキュメンタリーを文字化、読物化したというような雰囲気も感じられないではない。

本作の「柱」は大きく2本だと思う。クルーズ船でコロナ患者が発生し、その後船内で患者が増え続けた問題、市中で感染者が発生し、やがて感染や発症が拡がって行ったという情況での対応と生じていた混乱についてが1本。もう1本は、長期政権の中で、何やら色々なことが歪んでしまっていて、コロナ問題さえもその歪みの中で何やら変な様子になっていたかもしれないということだ。そして両者の底に、「公文書改竄」というような余りに酷い事案が在った際、矜持を胸に真面目に仕事をしていた財務省職員が苦しみ、悩み、自ら命を絶ってしまうということまでしてしまって、それでも事情が曖昧ということへの憤り、「そういう様子だからロクなことにならない!」という強い想いが滲むように思った。

一方の柱であるコロナ関係のことに関しては、医学者でもある作者の「色々な混乱に関して、もう少しやり方が在った筈だ」という観方が内容に大きく反映されているようにも思った。所謂“忖度”というようなことではない、公正な専門知識を真面目に勘案して、無用な混乱を排しながら事態に望むべきである筈なのだ。指揮を執るような人達が余計なことばかりをする様子も在った。「物語」として、多少の誇張と抽象で些か戯画化もしながら、その辺りの問題を巧く説いているようにも思った。

多様な要素が織り込まれている物語であるが、中の挿話で少し心動くモノが在った。

「東城大学」の大学病院に在る田口の学生時代からの仲間に速水という男が在る。救急救命の専門家として知られているが、色々と事情が在って北海道の或る街の救急センターでセンター長として活躍している。この速水と、部下の研修医、そして研修医が好意を寄せる若い看護師の挿話が在るのだが、これは少し心動いた。

色々な意味で興味深い作品だ。広く御薦めしたい。

『震える天秤』

↓手にした作品が愉しく、少し続けて幾つかの作品を読み続けている作家による作品だ。

震える天秤 (角川文庫)



↑本作も、紐解き始めてみると頁を繰る手が停め悪くなり、素早く読了に至ってしまった。

或る事件の謎が解き明かされるという、所謂「ミステリー」ということになる物語であると思う。が、同時に近年の問題意識を反映するような「社会の気になること」を題材の一部に取り込み、或る地方の架空の小さな村の人々が描かれることで「人の生き様について」というようなテーマも説かれているように思う。

本作は2019年に単行本として登場し、2022年に文庫化されているという。その2019年の少し前辺りの世相、様々な様子という中で作中人物達が動き廻る物語ではあるが、何処となく「或る小さな村の濃密な人間関係の積み重ねられている中で発生してしまう出来事」を主人公が丹念に調べて解き明かす、往年の“金田一耕助”というようなシリーズを想起しないでもなかった。

物語は俊藤律(しゅんどうりつ)がバイクで移動しているという場面から起こる。30歳代の終盤に入ろうとしている彼にとって、東京から福井県内の街へ排気量150㏄のエンジンを積んだベスパで走り続けて動くのは肉体的にややキツいことだった。が、勝手知らない地方の街で自在に動こうとするならバイクが好いと走っているのだった。物語はこの俊藤律を専ら視点人物とするように綴られる。読んでいれば、何か俊藤律の傍らで事態の推移を見詰め続けているような感じになるかもしれない。

福井県の小さな街での事故が注目されていた。86歳の男性が軽トラックを運転していて、コンビニの正面に突入してしまった。居合わせた店のオーナーの28歳の息子であるという店長が軽トラックに轢かれて死亡したのだ。

86歳にもなる高齢者は認知症であったと伝わっていた。その高齢男性がハンドルを握って死亡事故である。俊藤律は雑誌の依頼を受けて「高齢者ドライバーと交通事故」というような記事を書くことになっていたのだった。

俊藤律は事故現場に到着し、取材活動を始めた。後始末の作業の関係で呼ばれていたらしい業者の男達、店に置きっ放しの私物を取りに来たという若い女性のアルバイト店員、コンビニのオーナーで死亡した店長の父であるという男、コンビニチェーンの社員で事故の発生した店舗の担当者、事故の発生した店舗で最も長く勤めていたと見受けられるパート従業員の女性、高齢者の事故防止というような事柄に取組む役人やカウンセラーと次々に話しを聴く、または聴こうとした。

事故の加害者ということになった86歳の男性は、事故の発生した現場から車で1時間半程度の小さな村の住民であった。この村について、半年程前の大雨で土砂災害が発生し、住宅で親子3人が生き埋めで死亡してしまったという件が在ったことを、俊藤律は記憶していた。俊藤律はこの86歳の男性について知ろうと、村を訪ねた。そしてこの事案の対応窓口のようになっているという村役場の職員、86歳の男性が収容された病院で会ったという村長、事故当時に男性が乗っていた軽トラックの持主だったという男性に会って話しを聴いた。

こうして情報の断片が集まり色々と考えて行く中、一部の人達の話しをしていた時の様子の観察が相俟って、俊藤律は「違和感」のようなモノを禁じ得なくなり、同時にその「違和感」が彼の中で膨らむことを感じた。

「認知症であったという86歳の男性が、如何したものか軽トラックを運転して出掛け、コンビニに突っ込み、軽トラックが突っ込んだ辺りに居合わせた店長が死亡してしまった」と伝わっていた事案だが、「実は全然違う話し?」と俊藤律は考え始めた。

こうして俊藤律が何を知るのか、考えるのかという物語である。

本作が「手にした作品が愉しく、少し続けて幾つかの作品を読み続けている作家による作品」であったのは偶然だと思う。寧ろ、「高齢男性が運転する車がコンビニに突っ込み、居合わせた店長が死亡する事故が発生し…」という作品紹介に惹かれた。

少し踏み込んで言えば、「惹かれた」というよりも「こういう事案…」と気になって「捉まえられた」という感じかもしれない。

永く車を運転し続けていて、一線を退いても暮らしに欠かせないと車を運転し続ける人は多く在る。傍目に観て、少し身体が利かない感じ、「老いた?」というように見えても運転をし続ける例も在る。更に高齢になれば、不意に体調が悪くなってしまい、救急搬送されてしまう場合さえも無いでもない。それでも救急搬送先から引揚げる際にさえ運転をしようとする。傍の身近な人達が「運転は控えるべきだ」と説いてもそれを受容れない。こういうのを「実在する例」として個人的に知らないでもない。更に「少し高齢な方が車を運転して、ブレーキとアクセルを間違えて、勢い良く建物正面の硝子張りな箇所に突入」という出来事が手近で起こって――その時は負傷者も発生していなかった。―しまい、砕け散った硝子の欠片を片付けるのを一寸手伝ったという経験もしている。

こういうことなので、本作の紹介に「捉まえられた」という感じになった訳だ。生々しいまでに解るような事柄が題材で、現代の社会の普通な暮らしの中、「何事かを調べる」となればとりあえず「最も在りそう…」な感じのフリーライターが現れて調べ、意外に過ぎる真相に突き当たるという本作は凄く興味深い。

本作の作中人物達の中には「その後?」と、「何時か何処かで再登場?」を願いたい人物達が在った。その筆頭は俊藤律だ。何処かの街にベスパを駆って現れ、事案の真相を探る様がまた読みたい。そして電話で話す場面で登場の元妻、娘との関係の感じも面白い。愛猫の行方も気になる。

「社会の気になること」を題材の一部に取り込んだ「令和の“金田一探偵”?」という風なライターが事案の真相に迫る本作は、凄く興味深かった。御薦めしたい。

『悪い夏』

↓「そして如何なる?」と「続き」が気になり、頁を繰る手が「停め悪い」というより「停められない」という状態に陥ってしまう。或る日の夕刻に紐解き始め、夜、深夜、早朝、午前中と時間を設けて「停められない」状態で読み続け、素早く読了に至って余韻に浸った。

悪い夏 (角川文庫)



↑2017(平成29)年に単行本として登場した本作は2020(令和2)年に文庫化された。そして2023(令和5)年に文庫は「22版発行」である。大ヒット作品だ。個人的には「自身で読んで面白いか否か」ということだけが重要で、ヒット作品であるかその限りでもないかは如何でも構わないと考えている。が、それでもこの程度に増刷が重ねられているということになると、夢中で読む人達が多い作品なのだと理解し易くなる。そして自身でも本作を素早く読了して納得だ。

視点人物を適宜切替えながら、テンポ好く展開する物語ではある。が、最も主要な視点人物は26歳の市役所職員で、生活保護のケースワーカーという役目を担っている佐々木守ということになるであろう。

物語の舞台は「船岡市」という「或る街」に設定されている。「千葉県の北西部に在る人口30万人程の街」という設定だ。作中に東京都内の実在する地名も登場はするのだが、主な舞台になる「船岡市」は架空の街となっている。これは「辺りで一際大きな街と往来し易いような範囲の、各々の事情を抱える多様な人達が各々に生きている街」ということで、何処の地方でも構わなかったのかもしれないと思った。

街には様々な人達が各々の事情を抱えて暮らしている。そういう人達が動き廻り、幾つかの人生が交差する辺りに物語が生じる。そういうような感じの、何となく「群像」という程度に漠然と感じる可能性も在る物語というのは色々と見受けられる。本作もそういう感は在ると思う。が、主要視点人物の佐々木が携わる生活保護というような事柄の背後には、各々の事情を抱えた人達の様々な物語が在る筈だ。

物語は、夏の暑い盛りの或る日、佐々木が市役所へ出勤しようとするような場面から起こる。

佐々木は市役所の人事ローテーションで、最初に配属された課で3年間勤務した後に福祉の担当に移動し、課長の嶺岡に「3年程度は」と言われてケースワーカーの役目を担うことになり、日々懸命に業務に取組んでいた。

佐々木の職場には、年長で30歳代の高野や、同年齢の女性である宮田が在った。外を回る際にパチンコ屋等に寄ってサボるということも在るらしい、飄々とした調子なのが高野である。対して生活保護の給付を少しでも減らすべく努力し、佐々木と同時期にケースワーカーの仕事に就きながら圧倒的に実績を上げているのが宮田である。

佐々木は高野や宮田と個人的に親しいのでも何でもない。が、或る日、宮田は仕事の後に相談したいことがあると言って来た。

宮田の話しを聴いた佐々木は驚いた。「ファミリーレストランで隣席になった2人の若い女の話しが聞こえてしまった」として、或る市民から電話が市役所の福祉課に架かった。宮田がそれを聴いた。生活保護給付をする、しないというようなことで受給者を恫喝し、金銭を一部巻き上げ、受給者の女性に肉体関係を迫るようなことをしているケースワーカーが在るらしいというのだ。そして驚く佐々木に対して宮田は、上司に報告することや警察への告発の以前に、少し調べなければいけないと言い出す。

佐々木は、警察はともかく、上司への報告は必要と内心では思いながらも宮田に付き合うというようなことになった。そして金銭を巻き上げられ、肉体関係を迫られているという女性を特定し、事の真相を確かめるべく本人を訪ねてみることとした。

不正なことをするケースワーカーも、不正に生活保護の給付を受けようとする人達も在る。他方、真摯に緊急避難的に生活保護受給というようなことが必要な場合も在る。こうした中で色々な人達の様々な思惑が在って、思惑に基く動きが交差して行って渦が生じる。その渦の中に佐々木は巻き込まれて行ってしまう。

「生活保護」に関しては色々な課題等が論じられている。そういう議論や、様々な種類の「不正」のこと等、様々な要素を物語の中に取り込み、そして「佐々木」が巻き込まれる渦の様子が描かれる。その様子は正しく悲喜交々ということになるであろう。読後の余韻が非常に深い感じの物語でもある。

全体を通じて「そう来たか?!」というような驚きが途切れない感じだ。御薦めしたい。

『最長片道切符鉄道旅 一筆書きでニッポン縦断』

↓「或る旅の記録」という感の内容ということになる。

最長片道切符鉄道旅 一筆書きでニッポン縦断



↑なかなかに興味深い内容で、紐解き始めると頁を繰る手が停め悪くなる。素早く読了に至った。

方々の様々な方が制作する動画が配信されているネット上の「YouTube」のコンテンツを時々拝見する。

そういう中、勝手に「紀行系統の内容」と呼んでいるコンテンツが見受けられる。何処かを訪ねてみる移動の様子、移動して辿り着いた場所を動き回ること、或いは気になる場所の経過に纏わる話題の提供というような内容のモノが在る。そうしたモノの中には制作者がレポーター役で出演しているという例も多く在る。

本書の著者も、御自身で制作している「YouTube」のコンテンツで、レポーター役で出演されてもいる。偶々観た、大阪の街を動き回るというような内容のモノが面白かったので、何本かコンテンツを拝見した。国内外の様々な地域を訪ねているようであり、そういうことで「紀行系の内容」を送り出している。

この著者が所謂「最長片道切符」の旅に挑んだ経過が在るそうだ。「最も長い経路」の「一筆書き」で全国のJRの列車を乗り継ぎ、日本を縦断するということが出来る切符を用意し、それを手に各地を巡り続けるのである。「日本一周」を思い立った時、「こういうのも在る…」と気になって挑むことにしたのだという。

「最長片道切符」というのは、鉄道を利用した紀行文で知られる宮脇俊三(1926-2003)が取上げたことが契機で知られるようになったそうだ。様々な人達が挑んでいるという。時代毎に、鉄道の事情が変化して様子は変わっている。現在は北海道の稚内駅と長崎県の新大村駅とを結ぶということになるそうだ。この「最長片道切符」は「券片と経路等が刷られた何枚もの用紙」が組み合わさった不思議な外観らしいが、「54日間有効」という「普通の乗車券」であり、必要に応じて、また希望に応じて料金券を求めて特急等の優等列車も利用可能だ。

個人的には、長距離を鉄道利用で移動した経験も在る。「東京から列車を乗り継いで稚内へ引揚げた」、「稚内・京都間を列車で往復」、「稚内を発ってから思い付きでドンドン列車に乗って枕崎へ至った」というような例を思い出す。が、何れも「一筆書き」や「最長距離」というようなことは顧慮していない。普通に乗り継いだだけのことである。それ故に、本書で取上げているような旅に関しては、少し想起し悪い。

本書の著者は、今般の旅について「YouTube」のコンテンツでも配信されている。それに関しては、申し訳ないが、独特な宿泊施設に泊った経過の内容等の極々一部を拝見しているだけである。そういう様子でもあるが、凄く思った。「2ヶ月弱の期間で敢行した一連の旅」というような話題は、動画のようなコンテンツも好かろうが、本書のような「文章として綴る」という形に凄く親和性が強いと感じた。

動画の場合、旅をしている著者が眼にした様子等が「視て直ぐ、誰でも判る」ということはあるであろう。が、本書のような文章は「一連の旅」を鳥瞰しながら、個々の場面等に踏み込むことになり、それが凄く判り易い。

本書に関しては、「旅立つ迄」と「旅を終えて」という序章と後書との間に、「第1日X月X日、第2日X月X日…」という感じの副題を入れて、時系列に動きを追う形で綴られている。それが好いのだと思った。

本書では「X時X分に〇〇駅を発ち…」と乗車した列車の発着に纏わるようなことも当然在る。鉄道を利用して旅行する機会が多目であると言っても、鉄道利用の色々な事に通暁していない場合も在り、縁薄い感じの地域では現地の事情を知らずに動いてしまう場合も在る。そういう旅の様子そのもの以上に、乗車中に考えていたこと、初めて辿り着いた街を観ての率直な感想、災害や戦時中の歴史やその他の様々な事柄を想起しながらという話題も入る。更に、辿り着いた場所でのハプニングや食事等、旅のイメージが拡がり、深まる感じになっている。

こうした「何を想った」というようなことも交えた拡がりや深まりというようなことは、「文章として綴る」という表現がより好いと個人的には思う。

末尾の方に在る内容だ。最近は、何処かを訪ねる場合の経路等は直ぐ判り、訪ねた先での評判が好い飲食店等も直ぐ判る。そういうことで、よく考えると「誰かが伝えている情報を確かめに出掛けている」という雰囲気も無いでもない。今般、この「最長片道切符」に挑んだ著者は、「誰かが伝えている情報を確かめに出掛けている」ということでもない形の旅を経験した様子である。そのことで、御自身の経験に心動かされたという様子である。

本書では、若干の写真や、綴られている「X月X日」に移動した辺りの略図も豊富に在る。それらは、内容を理解する一助になる。「最長」なので、午前中に出発した駅と夜に到着した駅との間が「数駅?」であっても、100㎞単位で大回りして「1日仕事」になってしまう様子が描かれている。流石にこういうのは経験していないので、余りイメージ出来ず、かなり興味深く読んだ。

多分、この著者は「最長片道切符」で通った、気になった場所、別な季節の様子が気になった場所を再訪するようなことを今後はされるのだと想像した。今後の著者の活動にも注目したい。何れにしても、著者と共に長い道程を辿って日本を縦断した気分になれる本書は、凄く愉しい。御薦めしたい。

『日本はどこで道を誤ったのか』

↓大変に興味深く読了した新書である。

日本はどこで道を誤ったのか (インターナショナル新書)



↑頁を繰る手が停め難くなり、素早く読了に至った。

少し前迄の様子を想い起す、色々な論を読み込んで纏めるという、「振り返る」というような営為は、多分「時代毎」に出来るのだと思う。そしてそういう「時代毎」の「振り返る」に関して、少し纏めて行う、「70年代、80年代、90年代…」というように適当な区切りを設けながら、例えば半世紀近い経過を「振り返る」というようなことも出来るであろう。

本書はそういう、半世紀近い経過を振り返るという内容になっている。時代毎の政権、政権の政策、経済、当時出ていた様々な論というような事柄を整理している。

高度成長というモノが終り、バブルや初めての政権交代、世の中の風潮の移ろい、民主党政権とその後の安倍政権というような経過が在った。想うと、本書を手にする多くの人に言える訳だが、本書に在る経過は「自身が生きて来た時代」と重なる。そういうことで「自分が生きた時代」の「歴史」というようなことに通じるかもしれない。

そして気になるのは『日本はどこで道を誤ったのか』という本書の題名だ。「道を誤った」という観方が、本書の内容の「前提」となっている訳だ。「失われた」というような言い方も在ると思うが、30年間、更に50年間というような期間に関して、そういう言い方にもなるのかもしれないと本書は示唆している。

概ね半世紀に及ぶ政治、経済、社会の様相が語られているが、「もう少し、こういうようなことが考えられても?」というような事柄や、「少し“違う?”を前提にモノをやってしまったのでは?」というような事柄が次々と綴られている。題名の「どこで?」という問いだが、「方々で…」という程度に、種々の誤りを積み重ねて現在に至ってしまったのかもしれない。

殊にこの10年や20年というような期間、何か社会に関して「違和感めいた何か」というようなことを感じないでもないのだが、本書の内容はそういうモノに一定の形を与えてくれるかもしれない。

「方々で…」という程度に、種々の誤りを積み重ねて来て現在に至っているのかもしれない。が、このまま「誤り」ばかりが繰り返されなければならないという訳でもない。過去の「誤り?」を本書で学んでみて、将来はそういうのを少し避けるというようなことが在っても善いかもしれない。

本書は、過去を振り返りながら未来を想う材料を供してくれていると思う。広く御薦めしたい。

『オーバーツーリズム解決論 - 日本の現状と改善戦略』

↓話題に上る機会が増えているというような事柄で、興味を覚えた場合には、関係事項を論じていると見受けられる本を読むのが好いと思う。そうやって「考える材料」を貯める訳だ。

オーバーツーリズム解決論 - 日本の現状と改善戦略 - (ワニブックスPLUS新書)



↑「観光」に関連する事柄を研究する著者による、「オーバーツーリズム」と呼ばれる事象を巡る論である。大変に興味深く、素早く読了に至った。

近年というよりも、少し以前からの傾向かもしれない。カタカナの少し耳新しい用語が出て来ると急速に普及する。そして「よく考えると意味がよく判らない」という例も少なくないような気がする。

「オーバーツーリズム」というのもそういう用語の1つであるように思う。その辺で見受けられる事象を「オーバーツーリズム」なる語を使って論じたがるのだが、その論に耳を傾ければ「それはそういう意味合いなのか?」と首を傾げてしまう場合もないではない。

本書によれば、「オーバーツーリズム」という語が登場する機会が増えたのは、2010年代に人口35万人程のアイスランドで、来訪客が短期間で3倍というような勢いで急増し、様々なサービスの対応に困難が生じてしまうという事象が見受けられ、これを2016年頃に「オーバーツーリズム」と呼んだのが語が普及した契機ではないかということだ。

この「オーバーツーリズム」という語は新しいが、「特定の場所に来訪客が溢れる」というような経過は様々な場所で長い間に亘って見受けられていることでもある。そういう中で、何が如何行われて来たのかということを知ってみるというようなことも大切かもしれない。

個人的には「オーバーツーリズム」という語を「余り心地好くない」と思って聞く。方々で「観光客誘致」と来訪客を増やすというようなことを謳い続けて来て、その基調は続いている。そういう中、来訪客が溢れると「こういう迷惑。ああいう迷惑」と挙げ連ねて、来訪客が悪いかのような言い方をする。そういう場面で「オーバーツーリズム」なる語が枕詞のようになっている。

本書では、殊に自然が損なわれてしまうような例に対して、どのような対応が在ったか、現在在るのかというようなことの話題が豊富である。加えて「京都市バス」のような問題―来訪客が多過ぎる、多過ぎる来訪客が大きなキャリーケースで場所を塞ぐというようなことにより、市内の移動は市バスが主力であるという街の中で、人々がバスに乗れない感じになってしまっている。―の話題も在る。

結局「私権無制限」のようなことや、「休暇旅行の時季が著しく偏り易い社会」というようなこと、何かの課題に対応するために「現行ルール」の見直しを検討することの不足というようなこと、「責任」の所在が何時迄も何処迄も曖昧かもしれないというようなことが明らかにされているように見受けられる。「オーバーツーリズム」なるものが“問題”なのだとすれば、それは「雑多な社会の課題が顕在化」という以上でも以下でもないような気がする。

想い起せば、昨今言う「オーバーツーリズム」と無関係に、何やらの来訪者が地域に目立つ時に何やら“問題”と言い立てるような空気は起こったように思う。こういうのは「繰返される」のであろう。

何処かの街で、宿泊施設が混み合って「取り悪く高い」というような様子や、飲食店が満席になり易く利用し悪いというような様子が生じる場合も多々在ると見受けられる。こういうのを「オーバーツーリズム」と呼んでみるような例も在るが、妥当でもないと観る。需要と供給のバランスが少し悪い、または需要が多い時季に合わせて供給するようにすると経営上のバランスが崩れてしまうというだけの話しではなかろうか。序でに言えば、例えば夏季と冬季の来訪客の数に非常に大きな差が在るような、北海道内の方々にこういうような例は多いような気がする。

本書で取上げられている様々な話題は、色々なことを考える材料になる。大変有益だ。本書にも言及されているようなことだが、各地の自然や様々な文物に触れる観光というような営為は大きな歓びである筈で、それの故に何かが損なわれることや、各方向に不平や不満が振り撒かれるようなことが在って善いという筈もない。この「オーバーツーリズム」という件は色々と学びたい。

『正義の申し子』

↓「続き」が気になってしまうエンターテインメントだ。愉しい小説であると思う。

正義の申し子 (角川文庫)



↑紐解き始めて、頁を繰る手が停め難くなり、素早く読了に至ってしまった。

本作は視点人物を適宜入れ替えながらテンポ好く展開して行くのだが、主軸となるのは「ユーチューバー活動をしている或る若い男」ということになる。

誰かが話題にしていた。嘗ては「愉しんでいるテレビドラマ」、「最近観て面白かった映画」という程度のことが雑談の話題になったと思われるが、最近は「愉しんでいるユーチューブのチャンネル」という話しになるそうだ。手近な娯楽、何となく愉しむ映像コンテンツと言えば、テレビや映画ではなく、ネットで観るユーチューブということになっている訳だ。こういうのも、20歳代位迄の若い世代というのでもなく、40歳代やそれ以上の人達がそういうことを話題にする場合が既に在るらしい。その程度に存在感を増している「ユーチューバー」というのが登場する小説だ。作品が初登場したのは2017年ということで、現在の感じよりも「よく判らない新興のモノ」という雰囲気は在るかもしれないが、それでもユーチューブが隆盛な昨今の様子を背景にした物語となっている。

本作に登場するユーチューバーは“ジョン”を名乗る男だ。プロレスのタイガーマスクのマスクを被って登場する。チャンネル登録者が50万人にもなり、それなりに稼いでもいる。

色々な事をやって来て、目下のところ好評を博しているのは、架空請求詐欺の電話番号へ電話してやり取りし、最終的に相手を愚弄するというシリーズである。最近のシリーズでは、相手が関西人で、関西弁が入るような話し口調で何か凄く面白い感じになり、大好評を博していた。

そういうコンテンツを創って配信していた中、“ジョン”は「正義の申し子」と号していた。架空請求詐欺というような悪者を懲らしめるということなのである。

そんな“ジョン”だが、マスクを取れば純という名の、都内で両親や妹と住んで居る、引き籠りでやや気弱な若者ということになる。ユーチューバーの“ジョン”を演じ続ける中、純の中に何か変化のようなモノも生じるようになった。

“ジョン”に愚弄された、大阪で架空請求詐欺のグループに在った男、電話で“森口”を名乗った栗山鉄平であったが、身辺に色々と起こる。そして自身を愚弄した“ジョン”という人物に復讐してやろうというようなことを考えるようになる。

対して“ジョン”の側は、大好評を博した「関西弁の男」との対決の続篇として、件の男と対面して舌戦を繰り広げる動画を配信するというようなことを計画する。

“ジョン”こと純と鉄平とが邂逅する中、色々と事態が動く。その動く事態を追い掛けるのが本作で、凄く夢中になる。笑いながらも「人生って?」と仄かに囁かれるような何かも感じて、最終的には少しだけ熱くなるような感じだ。更に、読了して余韻に浸る中、「8年や10年経った後に、純や鉄平は如何なっているだろう?」というようなことも思った。

急速に身近になったユーチューブ、ユーチューバーというモノに題材を求めた、アップテンポで愉しい物語で、なかなか愉しいので御薦めである。

『ダークツーリズム 悲しみの記憶を巡る旅』

↓「読もう…」と思い付いて何冊かの本が拙宅に置かれていて、その中の一冊だった。比較的最近になって手にすることが叶った。2018年に第1刷で、2023年に第2刷である。

ダークツーリズム 悲しみの記憶を巡る旅 (幻冬舎新書)



↑そして紐解き始めると、頁を繰る手が停め難くなり、素早く読了に至った。

「新書」というのは、専門的な事柄等も含めて、色々な知識を一般読者に解り易いように説くような種類の本であると観ている。本書は正しくそういう「新書」の特徴を有した一冊だ。

「ダークツーリズム」というような用語は、或る程度普及しているような、マダマダ目新しいような存在感の用語のように思う。本書は、その「ダークツーリズム」という概念に着目し、問題提起等を積極的に進めている著者による一冊だ。

極々個人的な、感覚的な感想のような事柄かもしれないが、伝わっている歴史の中、「華々しい栄光」と「やや暗い記憶」とでは多分後者の方が多いような気がする。更に言えば「華々しい栄光」というようなモノの中にも「暗い部分」がやや多目に潜んでいるかもしれない。そういうような「暗い記憶」または「暗い部分」に「眼を向けようではありませんか」というのが「ダークツーリズム」であると理解した。

多分、知らなかったことを知る、または中途半端に知っていたことの仔細を知って行くというような事柄、知ったことに基いて、または知ったことを加味して考えるということが合わさって「学ぶ」というような営為になるのだと思う。「ダークツーリズム」とは、旅行という営為(=ツーリズム)の中で、「暗い記憶」または「暗い部分」(=ダーク)に眼を向けて「学ぶ」という営為を「採り入れてみませんか」ということになるのだと思う。

本書では、著者が「ダークツーリズム」という概念に注目し、研究活動に邁進するようになっていった経過を含めた「総論」が冒頭部に掲げられるが、以降は「ダークツーリズム」という観点を加味した旅をしてみる紀行的な内容になっている。加えて、末尾に「纏め」が入っている。

紀行的な内容は8篇に及んでいる。これらは実際に現地を訪ねた様子に依拠しながら、「ダークツーリズム」という観点で注目すべき場所、注目する事由等を綴り、取上げた地域を訪ねる場合の交通手段等の一寸したアドバイスを各篇の末尾に添えている。

各々の色々な事由で著者が注目した「暗い記憶」または「暗い部分」、それを追う紀行は何れも興味深い。個人的には、小樽や稚内というような事情に明るい場所の件が興味深かった。同時に、訪ねた経過が在る地域の中でも訪ねていない場所、未踏の地域のことも興味深く読んだ。

気付かされるのは、「観光学の研究者」ということになっている著者が綴った本書が提起するテーマの「幅」が広いこと、そして「社会」や「文化」の根源にも関わるかのようなこと迄も含んでいるかもしれないということだ。

或いは「ダークツーリズム」という概念は、「地域の歴史の伝え方」、「地域の歴史との向き合い方」、「訪ねた先での見聞との付き合い方」というような事柄を考える材料で、それらが「社会」や「文化」を創る重要な素材になって行くというようなモノであるというように感じた。そしてそれは、災害のような事柄を伝えて行く場面に至っては「哲学」というような問題にもなるような気がする。

こうした大きく拡がるようなことに留まらず、もう少し細かい―と同時に重要―事柄も本書の中に多々散りばめられている。

「観る場所が余り無い」と紹介されている地域に関しても、調べてみると現代史の重大な出来事の舞台になっているような史跡が多いことや、他地域との意外に深い関係が見える場合が在るというような事柄が挙がっていた。そういうように考えると、「訪ねてみるべき場所」というモノの選択肢も拡がる訳だ。

そして訪ねる場所での「ガイド」というような事柄、過不足無く興味深い事柄を伝え、強過ぎる思い入れを押し出すのでもなく、聴く側に考えて頂くような「専門的な仕事をこなす人」が要るという話しである。これは本当に「ダークツーリズム」というようなことに限らず、観光全般で大切であると思う。(実は「〇〇事業」と称して、少しばかりの資金を投じて如何こう出来るのでもない、こういう事柄が各地の観光振興というような問題意識の中で最も重要であるような気がする。「〇〇事業」と称するモノの多くが、「事業そのもの」が「目的?」になって、然程成果は挙がっていないような気がする場合も在る。)

最初から最後迄、色々と気付かせてくれる事柄が多かった本書である。是非、著者と共に「ダークツーリズム」の旅を試してみるべく、本書を広く御薦めしたい。

『第二阿房列車』

↓多分「古典」と呼んで差支えないと思う。紀行、または小説という感の、内田百閒の旅である。

第二阿房列車 (新潮文庫)



↑なかなかに愉しく読了に至った一冊だった。

「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」と始まったのが「阿房列車」のシリーズである。思い立って列車に乗って出掛けてみるという、紀行であって小説風な作品である。『第一阿房列車』として纏まったシリーズの後、「用事がないけれど…」と旅立つシリーズが再開し、この『第二阿房列車』のタネとなっている旅に出発したようだ。

本作中、前作の旅で訪れた場所を再訪している例が在る。そういう中で「一昨年」というような表現が見受けられる。『第一阿房列車』は1950(昭和25)年頃の旅に関して綴ったモノが翌年、翌々年に発表され、纏められて本になった。その少し後で1952(昭和27)年頃か1953(昭和28)年頃にこの『第二阿房列車』のタネとなっている旅に出ていると見受けられる。

本作は「続いている“好評シリーズ”」という雰囲気も少し色濃い。過去作で登場した場所に、事前連絡をした上で訪ねているという様子も伺える内容が在る。が、「少し知られた作家が、“思い付き”で若い友人を伴って出掛けている」という様子ではある。本当に、列車で移動し、辿り着いた場所で細かい予定を如何こうするのでもなく、知人や友人、出会って紹介された人達と宿等で歓談するという感じで、淡々とした独特な雰囲気が綴られている。

前作の『第一阿房列車』では、大戦末期の時期を挟む「鉄道の受難の時代」から「旧に復しつつある」という時代の空気感が感じられる内容が在った。対して今作は「旧に復すると同時に、新しいモノが登場」というように、急速に移ろう時代の中での旅という感じが強い。更に、偶々出掛けた時季の故なのであろうが、雪や大雨という中での経験という要素も加わる。

「旧に復すると同時に、新しいモノが登場」ということでは、京都・博多間に新たに登場した「特別急行」に乗車してみるというような挿話が在る。夜行列車で京都に乗込んでから乗車するということになる。

時季の故の経験では、雪に縁が薄いと見受けられる作者が、積雪期の雪国を訪ねる様子が何となく好かったが、驚いたのは大雨の話しである。本書の最後に収められている旅では、列車に乗っていれば雨に濡れるのでもないのだからと出発したものの、訪ねた先では大雨で、何か雨に追われるように動いていて、結局訪ねていた先では水害が発生している。水害で動けなくなる直前に、逃れるように動いて東京へ引揚げているということにもなっている。

本作が綴られた時代、縦横に張り巡らされた鉄道網が、列車の速度は然程ではないものの、随分と充実していた様子だ。そういう中で、相方の「ヒマラヤ山系」または「山系君」を従えて、正しく気儘に動き回っている様、そういう中で沸き起こる想いが活き活きと綴られる本作は、時空を超えて愉しいという感じだ。

『正体』

↓紐解き始めて、頁を繰る手が停め難くなり、読み掛けを枕元に置き、深夜帯に眼が開いてそれを手に取り、早朝迄に読了して安堵して少し眠るという経験をした一冊だ。

正体 (光文社文庫 そ 4-1)



↑凄く引き込まれ、「続き」が酷く気になるという物語である。

少し凝った構成で物語が編まれているかもしれない。冒頭に物語を貫く「出来事」が伝わるという場面の序章が配される。そして「出来事」から1年余りを経た或る日の様子が序盤と終盤に配される。両者の間、1年間程の出来事の挿話が折り重ねられる。
各挿話は、「出来事」の当事者たる人物と出逢い、接することになる人達を視点人物に据えて綴られている。そういう形で、「出来事」の当事者たる人物の「正体」を探るという物語となる。

拘置所に在った死刑囚が脱獄したという事件が伝えられる。卒業後に東京の専門学校に進むことに想いを巡らせていた高校3年生の酒井舞は、両親と共に朝食を摂っていた時、点いていたテレビのニュースでその件を聞くことになる。

脱獄した死刑囚というのは、埼玉県内で民家に押し入り、住んで居た女性とその2歳の息子、更に女性の夫の3人を台所に在った包丁を使って刺殺してしまうという事件を起こしたのだという。事件当時、また逮捕当時に18歳だった。「平成最後の少年死刑囚」と伝えられ、恐るべき殺人鬼、極めて危険と目されている人物だった。

この脱獄死刑囚は「鏑木慶一」という名だった。この男は脱獄して20歳になり、やがて1年以上の間、方々で動き回っている。何を目指していたのか?少しずつそれが明かされて行く。

本作は「鏑木慶一」という人物の意図を解き明かす物語ではある。同時に、その時の偽名を名乗る、居合わせた場所でのニックネームで呼ばれている「鏑木慶一」と接した、作中の挿話の視点人物に据えられた人達が、「自身の人生と改めて向き合うようになって行く」という物語でもあると思う。

少し言い方を換えると、「鏑木慶一」という経糸に、「各挿話の視点人物達」という緯糸を絡ませて織り上げた物語という感だ。織り上げられた物語は見事な色彩を放つモノに仕上がっていると思う。当然ながら、「鏑木慶一」であれ、「各挿話の視点人物達」であれ、年代も性別も、立場や経験も、何もかもが自身とは合致するのでもない。が、それでも彼らの心の動きというようなことに、何処となく心当たりのようなモノは在る。そんなような具合に、作中世界に入り込んで行ってしまう。

表層的には「恐るべき殺人鬼、極めて危険と目されている人物」の「正体?」ということになるのだと思う。が、本作は同時に「社会」というモノの「正体?」ということや、様々な人達の「人生」というモノの「正体?」というようなことをも考えさせる内容だと思う。

一気に読了し、深い余韻に浸る感じの一冊だった。広く御薦めしたい。

『海神』

↓読了した『鎮魂』という作品と同じ作者による作品と知り、入手して紐解き始めた一冊だ。頁を繰る手が停め難く、否、停められなくなって素早く読了に至ってしまった。

海神 (光文社文庫 そ 4-2)



↑色々な要素を丁寧に織り込みながら、多数の挿話を積み重ねて仕上げているような、複雑な造りにも感じられる物語だが、何か「刺さる」という感じもする。そして基本的に「謎を解き明かす」という“事件モノ”の要素が色濃いと思うが、「そういうことになっているのか?」という意外な顛末が順次解き明かされる。夢中にならずには居られない物語だ。

物語の主な舞台となるのは「天ノ島」(あまのしま)という場所だ。岩手県の三陸地方、宮古に近い辺りの少しだけ沖に浮かぶ有人島で、漁業等と観光を主要産業とする村だ。(作中に登場する、作者の創作による架空の地域である。)

「2021年3月11日」という序章のような挿話から物語は起る。

海岸を歩き廻る女児が在り、その想い等の描写から、女児が「2011年3月11日」の「東日本大震災」の当日に産れていて、生まれた直後に母親等の家族を災禍で喪っており、施設で暮らしているというような様子を知ることが出来る。この女児が、海岸で奇妙なモノを発見する。海岸に漂着したケースに金塊が入っていたのだ。

こういう形で、女児が偶々発見した金塊は、何が如何なって海岸に漂着するに至ったのかを詳らかにするような物語になることが示唆される。

物語は視点人物を適宜換えながら、3つの時間軸での出来事が交錯しながら展開する。何か映画や連続テレビドラマの世界の中に入り込むかのような感じだ。そして、読み進めて行く中、「天ノ島」に居合わせた人として事態を見守っているかのような感覚にもなる。それ故に頁を繰る手が停め難く、否、停められなくなってしまった。

2013年、「天ノ島」は大きく混乱していた。震災からの復興を巡る資金が、復興活動の先頭に立っていたNPO法人の代表によって横領されてしまっていたという疑惑が持ち上がったのだ。遠田政吉という人物が在る。水難救助や遺体捜索の経験を多く有しているという触れ込みであり、そういう活動をするNPOの代表ということだった。災害直後に「天ノ島」に現れ、強力なリーダーシップを発揮して活躍し、そのまま復興活動に携わっていた。そういう中、数億円にも上る公的資金を私してしまい、復興事業ということで雇用した村民を解雇してしまうという妙な事態に陥ったのだ。

「天ノ島」出身で、災禍で両親を喪ってしまうという経験をしている新聞記者の菊池一朗は、災害犠牲者を冒涜し、復興への想いで懸命な村民を踏み躙るかのような、復興資金の横領という事態に深く強い憤りを禁じ得ない。そして遠田政吉を糾弾すべく、彼の過去等を調査し始める。

2011年、震災が発生した少し後、東京の大学生であった椎名姫乃は「天ノ島」にやって来た。彼女は東京で地震を経験したが、地震に加えて津波が発生し、甚大な被害が生じた三陸の様子を知って居ても立っても居られなかった。そして三陸地方にやって来て支援活動に携わってみようとした。「天ノ島」を望む町に入った時、島で人手が全く足りずに難儀しているということで、少しでも人手を得たいと現れた消防団のリーダーであった三浦の呼び掛けに応じたのだ。そして「天ノ島」で、三浦の妻である陽子を手伝うようなことから支援活動に身を投じて行く。

2021年、「天ノ島」に報道関係者が多数押し掛けている中、災害遺児の暮す施設の仕事に携わる堤佳代が在った。彼女は村の助産師として長く活動していた。村に暮らす多くの人達を取上げ、「島の子ども達」として人々を見守り続けていた。現在、施設に現在暮らす4人の災害遺児の中では「末っ子」である千田来未は、震災発生の日に産れているのだが、震災から10年目という日に金塊を見付けた。その件が大注目となっているのだ。

「天ノ島」の人達は、2013年の復興資金横領事件の際に様々な話しが飛び交い、色々と辛い思いをしたことから報道等とは一線を画したいという考え方が強かった。災害遺児の暮す施設の側でもそうした思いで、女児の写真を撮らせろ、一言コメントさせろという報道関係者の申し入れを頑なに断り続けていた。そういう中、或る切っ掛けで、堤佳代や村民達は2013年に発覚した事件の真相に触れて行くこととなる。

震災後の混乱を何とか乗り切ろうとしている2011年頃、10年を経て色々と在った後の2021年頃、それらの間に問題が顕在化した2013年頃の動きが入る。そして2013年は顕在化した問題の背後を探ろうとする一朗が行き当たる「闇」に驚かされる。

本作は非常に余韻が深い物語だ。災禍で喪われる生命と、それを間近で見るか知るかして生き残った人達の想いというものが描かれている。そういう中、蠢く悪漢の卑劣さ、それに騙されて苦しい思いに患わされる人達の姿が在る。それらを合わせて見詰める一朗が本作の総合的な主人公ということになるように感じた。

末尾の作者によるあとがきで、数々の記録的な書籍も参照しながら、複雑な想いを抱き、苦心して本作が綴られたことが示唆されている。なるほど「渾身の力作」である。広く御薦めしたい。

『第一阿房列車』

↓偶々出会った一冊だが、或る種の「古典」であると思う。内田百輭(うちだひゃっけん)(1889-1971)の作品だ。

第一阿房列車 (新潮文庫)



↑「旅をする」という内容で、頁を繰りながら作中の人達と共に、やや遠い時代の列車に揺られて旅をしているような気分にもなれる。

「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」という、本作の冒頭部に出ているフレーズは少し知られているようだ。本当にこのフレーズのように、本作中の「私」または「先生」と呼ばれる人物、作者自身は格別の目的を持たずに列車で旅をして、そういう様子を綴っている。それが本作だ。実際の様子に些かの脚色も加わっていて、作者自身は「小説を綴る」というような様子に近い感覚で綴っているのかもしれない。現在の読者の目線では「往年の旅行記」で、「少し知られている作品」ということにもなる。

「用事がないけれど」ということで乗車する列車を作者は「阿房列車」(あほうれっしゃ)と名付けている。その題の下に紀行のような文章を綴り続け、何回にも亘って発表している。それを一冊に纏めたモノの“第1集”というようなことで、本書は『第一阿房列車』と名付けられたのであろう。

内田百輭は岡山出身であるという。郷里の岡山と活動していた東京との間は、列車で何度も往復していた筈だ。それを伺わせる記述も本書には在った。そして「用事がないけれど」と列車に乗って出掛けてみることを繰り返しているのは、列車で移動すること、そういう状態に身を置くことを何となく好んだのであろうと、本書を読んでいて感じられる。

本書の最初の方、大阪へ向かう篇を読み始め、<はと>という列車愛称やC62形蒸気機関車の名が登場し、「新しい制度の中学校の生徒」という表現が在った。これらから「1950(昭和25)年前後?」と推察した。後から調べると思ったとおりであった。

本書に在る紀行(大阪、静岡県方面、鹿児島、東北線や奥羽線の各地)は1950(昭和25)年の旅で、各篇はその翌年、翌々年に雑誌掲載され、『阿房列車』の題で本となった。(このシリーズが続いたので、後に「第一」というのが冠せられたのであろう。)

昭和10年代の末から昭和20年代の初めは、戦時の影響が色々と在って、鉄道に関しても「戦前の最盛期」の様子が色褪せてしまっていた。1950(昭和25)年頃になって来ると、「戦前の最盛期」の様子に近い状況になり、新しい車輌や新しい列車も登場するようになっている。本書の各篇で、そういう様子が感覚的に存外に強く伝わって興味深かった。

本作中の「私」または「先生」と呼ばれる人物(=内田百輭)は、「ヒマラヤ山系」というニックネーム、作中では「山系君」というように呼ばれる場合が多い、若い友人を伴って旅に出ている。「山系君」は鉄道職員で、訪ねた各地に知人が居る、または訪ねた場所の鉄道関係者に泊まる宿の手配を依頼するというようなこともしていた。

「用事がないけれど」と列車に乗って出掛けてみるとしているが、本当に用事らしい何かは無い。辿り着いた場所で積極的に何かを観るようなことをするのでもない。「山系君」の知人や鉄道関係者や、その他の人達と宿等で酒席を設ける場合が在る程度だ。本当に「用事がないけれど」と列車に乗ってみるという紀行なのだ。

本作が綴られたような頃、内田百輭は60歳代に差し掛かったような頃だった。戦時の困難、御自身も戦禍で家が焼けて色々と苦労して落ち着いたというような経過を辿って、街や交通の様子も復興の色彩が濃くなっている中に在った。そういう中で、「自由な心で自由に動き回る」ということを謳歌し、そういう気分を小説調な紀行文として綴ってみようとしたのではないかと思う。更に「飽く迄も自分の流儀」を貫き、他人が何を如何言おうが、殆ど斟酌しない辺りも痛快だ。そういう辺りが本作の興趣なのであろう。

そうした作品の興趣を愉しんだが、同時に「1950(昭和25)年頃の各地の列車」というような事情も解るのがかなり興味深かった。

なかなかに興味深い一冊に出会った。広く御薦めしたい。

『鎮魂』

↓出先の書店で入手した一冊である。

鎮魂 (双葉文庫 そ 05-01)



↑「続き?」が酷く気になる展開で、頁を繰る手が停め難くなり、素早く読了に至った。

これは深い怨恨の故に、巧みに犯行を繰り返す者の物語であり、繰り返される犯行で犠牲になる者達が関わった事件に永く携わった経過の在るベテラン捜査員の物語である。そして繰り返される犯行の対象となる者達の物語という要素も入り込む。多層的に語られる、静かに熱いという物語だと思った。

或る夜、或る男がバーで出くわした2人の男達の話しが耳に入る。

もっと若かった頃の“武勇伝”めいた話しをしている男が在るが、話しの内容が悪名高い所謂「半グレ」の集団の関係者らしい。そしてもう1人の男が、丁寧にその男をもてなすかのように接している。“武勇伝”めいた話しをしている男が席を外した際に尋ねると、“武勇伝”めいた話しを聴いていた男は出版社の編集者で、所謂「半グレ」の集団に纏わる本を出版しようとしているのだという。或る男は、所謂「半グレ」の集団の者達による理不尽な暴力で、友人が人生を棒に振るような被害を被ってしまっている経過も在り、この編集者に対して憤激を覚える。

そういうことが在った翌朝、男を訪ねて年配の刑事の古賀と、少し若い窪塚という掲示が訪ねて来た。その朝、「半グレ」の集団に属する男の遺体が見付かったのだという。この男が寄っていたバーで、同行していた人物と言い争いになっていた人物が在るということになった。そこで御話しを伺いたいということになり、男は驚くのだった。

こういうようなことから事態は動く。犯行を重ねる者の、深い怨恨に至る物語と、それを少しずつ解き明かす捜査員の動き。所謂「半グレ」の集団の者達が深く酷く蔓延っている様と、その密かな影響によって生じている状況も在る。

物語は適宜視点人物を換えながら進んで行く。“悪”たる所謂「半グレ」の集団の者達が殺害されることを「正義!」とする声も拡がる、或いはそういう声を広げようとする者が現れるということも筋書に加わる。そして重層的な物語が展開する。或いは、合法も非合法も含めて様々な活動をするようになった所謂「半グレ」の集団の者達の変化―30代の後半、数年で40台に入るという年代に差し掛かっている―という様子も描かれている。

本当に、頁を繰る手が停め難くなる。非常に強く引き込まれながら読み進んだ。御薦め!

『ブリザード・フラワー』

↓移動の際や所用の際の待ち時間に一寸読もうと思い付き、出先の書店で入手した一冊だ。

ブリザード・フラワー (ハルキ文庫 か 25-1)



↑「そして如何する?如何なる?」と「続き」が気になり、素早く読了に至った。

警察の捜査員達が事件解決に向けて奮戦するという物語である。

序章のように、続発する妙な事件が描かれる。街で唐突に発砲する者が現れる、拳銃自殺が発生する、拳銃を使って殺害された遺体が発見されるというような調子だ。

警視庁ではこうした事件を「事件群」と呼び、本庁に特別本部を設け、本庁の捜査員達や各警察署から送り込まれた捜査員達による懸命な捜査を行っていた。

これらは、「お役に立つと思います」というメモが添えられで無作為に色々な場所の住宅などにばら撒かれた拳銃を使用したという事件だった。ばら撒かれた拳銃は警察の備品であった。装備の更新が進められる中、古い拳銃とその銃弾を処分すべく運び出した際に輸送車が襲撃され、140挺もの拳銃が奪われてしまった。それを回収出来ていないのだが、その銃がばら撒かれ、何処の誰が持っているのかも判らず、「事件群」という異様な事態に陥ってしまったのだ。

麻布署の捜査員である越石は、体躯に恵まれて格闘技も得意な刑事だ。本庁の女性捜査員である氷見と組んで、「事件群」関係の特別本部の活動に従事していた。

特別本部では夥しい数の捜査員を集め、原則2人1組で多数の事件に纏わる聴き込み捜査を丹念に続けていた。越石と氷見もそういう活動に携わっていた。氷見は陰で「祟り女神」という綽名でも呼ばれる、少し個性が強い女性捜査員で、越石より年次が1年上で階級も1つ上だった。そういうことで越石は氷見をリーダーに動くというようなことにしていた。

浮かび上がった事件関係者の周辺に在ったと見受けられる人達への聴き込み、捜査活動の中で何組もの捜査員達が次々と聴取に訪ねるルーティンのような関係先訪問というようなことを2人は続けていた。そういう中で「情報提供者」が現れる。越石や氷見がこの西田と名乗る「情報提供者」と接触し、情報を収集しようとする中で事態は動いて行く。

妻と未だ幼い娘が在る越石の個人の事情、西田の事情と関りが在った事件関係者達の事情と、少しずつ色々と明らかになって行く。或いは、犯罪の世界に浸って行く、そうならざるを得なかった人達の悲劇を見詰める捜査員達というような物語かもしれない。

物語は、越石の視点という場面が少し多いように感じる。越石の視点でヒロインの氷見が描かれるというような雰囲気も在る。そして氷見の視点で描かれる部分も在る。加えて事件関係者の視点の箇所も重要だ。

禍々しい事態に立ち向かう捜査員達の物語は、少し夢中になれる。御薦めだ。

『ロシア文学の教室』

例えば、知人の前で本を手にしていて「何の本?」とでも尋ねられた時、「ロシア文学の関係の本で、これから読み始めようとしている」とでも応じたとする。こういう場合、十中八九は「多分…手にしないような種類の本だと思う」という反応が在ると思う。

↓実は、偶々ながら例示したような出来事が実際に在った本書である。新書で377頁と、少し厚めな感じがする一冊だ。が、読み易く、その厚さが気にならない。

ロシア文学の教室 (文春新書 1457)



↑雑誌連載を基礎に整理したということであるらしい本書だ。特段にその連載記事に触れた経過は無く、「ロシア文学を説く」ということに漠然と興味を覚えて手にした。そして「意表を突かれた」と思えるような叙述方式に少し引き込まれた。

全般に、大学を主要な舞台としている、少しファンタジーのような要素も入り込んでいて、或る学生と周辺の仲間達の物語という「小説」の体裁なのだ。最近の作家達の作品の文庫本等を好んで読む、中高生を含む若い世代の人達が好みそうな雰囲気になっていると思った。同時に、随分と以前に読んだ、当時のベストセラーでもあった、少年少女向けに“哲学”が論じようとしている内容を説こうとする『ソフィーの世界』を想起するような感もした。

大学で―一応、大学に学んだ経過も在る自身が知る昔の様子と、昨今は様子が大いに異なってはいる…―は、規定した回数の講義を確り開催することになっているので「前期に12回の講義」ということなのであれば、4月上旬から7月下旬の12週間で12回を確り開催する。本書―或いは「本作」という雰囲気が色濃い…―は、2022年4月から2022年7月という時期を想定した「12講」を核としている。ここに前段と後段が付されている。そして4月に新学年が始まった頃の様子から、梅雨時が過ぎて暑くなり、暑い盛りになって来た頃に予定の「12講」が閉幕するのである。

「12講」で扱われるのは、主に19世紀の作家達やその作品だ。ゴーゴリ、プーシキン、ドストエフスキー、ゲルツェン、レールモントフ、ゴンチャロフ、ツルゲーネフ、ネクラーソフ、チェーホフ、ゴーリキー、ガルシン、トルストイという名が並ぶ。本書には「ロシア文学」とでも言えば名前が出て来る人達が次々に登場する。

本書、または本作の主人公は、大学でロシア語やロシア文学を学んでいる「ユーラ」こと湯浦である。湯浦は、前期の12回の講義各回で、代表的な「ロシア文学」の作家の作品等について論じるという講義を受講することにした。「文学の世界を体験して頂く」と言い出す、少し風変わりな先生に導かれ、毎回の課題図書を確り読み、色々と考えながら学んでいくというように展開する。

本書は、作中世界の大学で展開される「12講」の物語で、全体的には「12篇から成る少し長い篇」という体裁だ。1篇ずつ読み進めることが基本であろうが、気になる作家や作品を扱う篇を気が向くままに、随意の順番で読む事も出来よう。そして、気に入った篇の再読というのも好いであろう。「多分…手にしないような?」と漠然と思う程度に敷居が高い「ロシア文学」に、少しカジュアルな感じで向き合う材料になりそうだ。

主に19世紀の作家達は、現在とは異なる背景の中で生き、そして「ロシア文学」なので外国に在った人達ということになる。が、本書の作中の講義での課題図書となっている彼らが綴った内容は、かなり普遍的なテーマ性を帯びている。人の人生について、個人と社会または社会の中の個人、愛や哀しみや憎悪というような人の情というようなことを考え、そうした想いを綴る「文学」は時空を超えて読者に近付いて来る筈だ。本書はそういうことに改めて気付かせてくれる。

極個人的には、挙がっている12人の作家達の作品等ということであれば、チェーホフに最も親しんでいると思う。チェーホフは振り返る過去、「こうしておけば…」という程度に思う場合も在る来し方というのは、簡単に取り戻す、やり直すことが叶うでもないのだから、眼前のことや現在の人生と確り向き合って生きるべきである人間というようなことを、数々の作品を通して語り続けていたのかもしれない。本書ではそういうように、数々の短篇を題材に論じていた。

更に言えば、社会の様子を謙虚に見詰め、自由な一個人として堂々とそれを論じられるような、「真に自由な個人」であることを目指して活動を続けたということでゲルツェンが取上げられていたが、これは個人的に興味深かった。

本書は「2022年4月から2022年7月」という時期という設定で小説仕立てになっている。ウクライナの戦禍に纏わる衝撃が大きかった時期で、主人公がそういう状況下で心揺らいだというような描写も在る。或いは、真摯にロシア語やロシア文学を学び続けた著者自身の当時の想いが大きく反映されているのであろうとも思いながら読んだ部分だ。

現在、ウクライナの戦禍というような重大事件迄起こってしまっている訳で、そういう中であるからこそ「所縁の地域の文物」に触れてみて考えるようなことも求められるのかもしれない。殊に「文学」となれば、普遍的なテーマ性を帯びている訳で、世界の混迷を遠目にモノを考える材料になり易いかもしれない筈だ。

本書のことを知り、入手して紐解いてみようと思い立ったのは、『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』という、著者の自伝的要素も色濃いエッセイ集を大変に興味深く読んだ経過が在ったからだった。そういうことで「アレの著者?!」と注目したのだ。本書に出くわして善かった。

細々と本署に在る内容を綴り過ぎるのも、未読な方の愉しみを妨げるばかりとなるので、これ以上は詳述しない。是非、本書を「体験」して頂きたいと思う。

序でに個人的な希望を申し上げておくと、是非とも本書で取上げていない20世紀の作家達に纏わるモノの登場にも期待したい。

『軍艦進化論 ペリー黒船艦隊からウクライナ戦争無人艦隊まで』

↓大変に興味深く、また読み易いので、紐解き始めてみると頁を繰る手が停められず、一気に読了に至ってしまった。

軍艦進化論 ペリー黒船艦隊からウクライナ戦争無人艦隊まで (扶桑社新書)



↑或る程度絞り込んだ、特定分野に関する通史、現況、近未来展望、課題というようなことが非常に判り易く纏まっている。通史や現況を或る程度詳しく説いているが故に、近未来展望、課題が判り易くなっているとも思う。

船を戦いに使うことから海軍が登場し、戦いに使うために船を建造するということになって軍艦が登場した。その軍艦の建造の経過、技術発展、搭載する兵装の発達というようなことと、軍艦を運用するためのノウハウや、運用する場合の理論や、海軍の力を行使して行く戦略というようなことも在る訳だ。

本書は、幕末期に開国という出来事が在って日本にも所謂「近代海軍」が現れて以降、明治、大正、昭和の経過、冷戦期の海軍というモノ、冷戦後の海軍というモノの経過を解きながら、上述の諸要素がバランスよく入っている。色々と参考になる一冊だ。

明治、大正、昭和の経過は日本の海軍が戦った経過が在るので、戦史という要素も多く含まれる。冷戦期や冷戦以降の事柄に関しては「軍事」という角度で語る国際情勢という感が強いのだが、そこに情勢を動かした技術発展の要素というような事柄も入る。

核ミサイルを発射するプラットホームとなっている原子力潜水艦というようなことから、対潜水艦作戦の技術が発展し、その種の能力が高い軍艦の建造が増えた経過、飽和的に多数の対艦ミサイルを撃ち込むという戦術に対峙しようと開発された“イージス”のシステム、その“イージス”が対弾道ミサイル防衛に活用されているというようなこと等、比較的近い時代から現在に続く話題は興味深い。

そして近未来の展望だ。所謂“無人機”が海の戦いでも多用され始めているという話題が在った。更にAIを駆使して、軍艦の航行を管制するようなことも試行されているという。そうした内容に「AIの課題」というようなことも加えられている。個人的には、殺傷能力を有するモノとAIとが結び付いて行くようなことに「怖さ」を感じる面も在った。そういうことは、時には考えてみるべきなのかもしれない。

本書の著者は海上自衛隊に勤務した経過も在って、退官後はロシア情勢等の研究をされているということだが、御自身の見聞のような事柄も本書には一部に在って、そういうのも面白い。また比較的近い時代に関する叙述は、現場経験者ならではの率直で判り易い筆致で、少し惹かれた。

こういう「軍事」というようなことも、世の中を動かしている重要な要素だ。本書のような、判り易く読み易い一冊は、学んでみる場合の凄く好い材料になると思う。広く御薦めしたい。

『日ソ戦争』

↓近現代史に纏わる話題を取上げた一冊に出会うと、「未だ知るべきこと、考えるべきことが多い」という感を抱く場合が在る。本書はそういう場合の典型例ということになるのかもしれない。

日ソ戦争-帝国日本最後の戦い (中公新書 2798)



↑或る事柄に関して知り、考えるというのを、多分「学ぶ」と呼ぶのだと思う。1945年8月から同年9月という長くはない期間だが、多くの犠牲も生じ、色々な禍根のようなモノを遺していると見受けられる、「帝国」と称していた日本の「最後の軍事行動」が本書で言う「日ソ戦争」である。

古くから、1945年8月の出来事について「太平洋戦争にソ連軍が参戦」という言い方をしていたと思う。遠い記憶を辿るが、小学生の頃に初めて教科書やその他の本等で歴史に触れたような頃には、「太平洋戦争にソ連軍が参戦」というような言い方をしていた。ソ連と日本との戦いそのものを「〇〇事件」、「〇〇事変」、「〇〇戦争」というような、軍事行動が入る出来事として特定する呼び方を余りしていない。

そういうことなので、1945年8月から同年9月の出来事を「日ソ戦争」と呼ぶことにするというような話題の提起から本書は起こっている。最初から「大いに気付かされた」という感じだ。

本書では「日ソ戦争」という局面に至る迄、所謂「参戦」への経過や背景と、「日ソ戦争」そのものの推移、収束ということに関して、判り易く纏められている。細か過ぎない程に各種の挿話を引きながら、大局が掴み易いように、巧く纏まっている。

「日ソ戦争」そのものについては、満州や朝鮮半島北部等での展開が在り、千島列島や南樺太での展開が在る。戦後の占領というようなことを巡るソ連と米国との駆け引きが在って、色々な事柄が現在のような形になって行く契機となった出来事も発生している。

個人的な見聞だが、サハリンのユジノサハリンスク(嘗ての樺太の豊原)に戦争の歴史を紹介するような展示施設が在り、占守島の戦いのことや、ソ連軍の南樺太進撃のこと等が紹介されているのを見た記憶が在る。とりあえず、如何いう形であれ、ロシアでは「ソ日戦争」という経過を伝えようとしている。対して、日本国内では如何であろうか?そんなことも思い出しながら本書を読んだ。

本書は、或る程度の「定型的な観方」を離れて、もう少し自由にこの「日ソ戦争」に纏わる時日の紹介と考察を展開しようとしている。実に興味深い。

ロシアではこの「日ソ戦争」(または「ソ日戦争」)に纏わる「9月3日」を「政治利用」というような動きも見受けられる。日本の側で似たようなことをする必然性も無かろうが、日本も関わっている出来事に関して、何を如何論じているのかは考えるべきで、考える材料も集めておくべきであると思う。そうした意味で、本書は非常に好いように思う。

実は「学ぶべき余地」が大きな時期の歴史について、こういう判り易く纏めて解くという本は重要だと思う。広く御薦めしたい。

『日本の未来は島根がつくる』

↓本書に関して聞き及び、入手してみた。極々個人的な、勝手な事情ながら、紐解こうとしている本が幾つも積まれていた中で、少しの間は「積ん読」に陥ってしまっていた。が、紐解き始めると、そういうことをしてしまっていたことを些か悔いた。

日本の未来は島根がつくる



↑愉しい内容で、色々と示唆に富み、なかなかに読み易い。

自身に縁が薄い地域の新聞に関しては知識が殆ど無い。『山陰中央新報』という島根県を本拠地とする新聞が在るそうだ。変遷を経て現在の紙名になっているようだが、明治時代からの伝統を受け継ぐという。鳥取県の西側でも購読が見受けられるというが少数に留まり、「島根県の新聞」というような感になっている様子だ。広島市内でも購入できる売店が在るらしい。

本書はこの『山陰中央新報』の連載を下敷きにしている。新聞紙面の上の方に「囲み」になっているような連載が在って、面白いと思った場合に、次々と何日分かの新聞を手にして該当の連載をドンドン読み進めるというようなことをしないでもない。本書は、そういうことをするのに近い感覚で、紐解き始めると頁を繰る手が少し停め難くなる。(現実には、本書の基礎となった連載は「連日掲載」ではなかったようなので、次々と新聞を手に読むということにもなり難いとは思うが。)他方、本書は小さな量の纏まりを折り重ねている造りなので、少しずつ読み進めることもし易いと思う。何処から如何やっても読み易いという感じになっている訳だ。

下敷きになった『山陰中央新報』の連載は、2015年から2020年に紙面掲載されたもので、全部で69本在るという。その69本を、キーワードで括って5つの章に纏め、それぞれ示している。これに島根県の経過を巡る話題を整理した内容や、本書に掲載の内容を巡って、本書を読んだ20歳代(大学生や新卒で仕事を始めたという方達)の若者3名の対談等が収録されている。

基本的に掲載時の記事のままに掲載していることから、取上げた場所での活動が既に終えている、その移転しているという例が見受けられ、その旨は文末に注が添えられている。が、それは些事である。「ないならつくる」、「らしさを生かす」、「つながりは力」、「地元で育てる」、「みんなが安心」という章の名称になっているキーワードを語る事例として、何れもそのまま取上げるべきという内容である。

本書のことを聞き及び、題名を見た時に「日本の未来」という表現に、微妙な大きさの疑問符を含む、酷く突き抜けてしまったような何かを感じた。

思うに「未来」というような事柄に、然程想いが巡らなくなっているような気がしないでもないのだ。人口が減少する傾向の中で、社会を支える様々な仕組みの危機が指摘されるような状態が続き、「何を如何やっているのか?」と訳の判らない感じが溢れ、ドタバタしている間に自身でも自由に動き廻って何か出来るのでもない「いい加減な辺り」に至ってしまうのは存外に近いという程度のことを考えてしまうのだ。

本書で取上げている島根県については、未だ一度だけに留まってしまってはいるが、訪ねて実見した経過も在る。

横浜駅で乗込んだ夜行列車で出雲市駅に到り、出雲大社を観てから一畑電車で松江に移動して松江城を観て、宿で一夜を明かした後、特急列車で西へ進み益田駅で下車した。以降は隣県の東萩駅へ普通列車で移動したという経過だった。

一定以上の人口密度が在りそうな街の間隔が広く、農村部や漁村部、山林と山並み、日本海というような風景ややや少ない行違う鉄道車輛の様子等を車窓に眺めたことが思い出される。他方に永く積み上げられた人々の営みを伝える文化財を色々と擁しているという感じでもあった。そして何となく「北海道に似ていないか?」と思った。そんな話しを島根県御出身であるという方にしたところ、先方も北海道を訪ねてみた時に「少し島根県を思い出す…」と感じたそうだ。

取るに足らない極個人的な経験から、島根県と自身が長く住んでいる北海道とは似ていると強く思った。が、本書を読むと「大きな違い?」に思い至る。

5つのキーワードに在るようなことで、島根県では「可能な範囲」に知恵を絞る、「出来るように」と試してみるという例がなかなかに多い。そういう中で、他地域でも少し似たようなことを試行する例が見受けられるようにまでなっている。これに対して、北海道は「如何か?」という程度のことが頭の中を何度も過るという様子で本書を読み進めた。

「自治体が“消滅”?」と、人口減少に関して喧伝されるようになったのは2010年代からというように思う。人口減少の傾向や可能性はもっと以前から指摘されていたとは思うが、「自治体が“消滅”?」は2010年代に出て拡がった話しだと思う。他方、島根県では様々な条件の故に人口流出が顕在化し始めたのが1960年代頃のようで、既に半世紀以上も「そういう条件で如何しようか?」とやっているのである。或る意味では「他地域より遥かに先行」とも言えるのであろう。

何が如何であろうと、様々な課題に向き合う地域としては「可能な範囲」に知恵を絞る、「出来るように」と試してみるという他に出来ることは無いのだと観る。「不可能」を訴え、「出来ない」と支援を求めても、支援の術も見出し悪いという例が溢れるばかりなのかもしれない。

本書は、「島根県の新聞に連載された島根県内の話題の記事を収録した本」ではあるのだが、寧ろ「全国各地の人達が、こんな例も在ると知るための本」ということになっていると思う。それ故に、こうして刊行されたのであるとも思うのだが。

本書の刊行に携わった皆様に感謝申し上げたいとも思う。そして本書を広く御薦めしたい。

『2022年のモスクワで、反戦を訴える』

↓紐解き始めてみて、本当に頁を繰る手が停められなくなり、殆ど一気に読了に至ってしまった。酷く引き込まれる内容だった。

2022年のモスクワで、反戦を訴える



↑表紙カバーの画を視て「あの一件?」と強く興味を覚えて入手してみたのだったが、この一冊と出会えて善かったと、読後に余韻に浸る感でもある。

仕掛けた側が「特定軍事行動」と称している「戦争」が始まってしまった少し後、テレビの生放送のニュース番組でキャスターがテレビ画面に映っている背後に別な女性が現れ、「NO WAR!」(戦争反対!)と書かれた大きな用紙、プラカードを広げ始め、何やら「放送事故!」というような騒ぎになったことが伝えられていた。繰り返し様子が紹介されたので記憶している出来事だ。

この騒ぎの御本人ということになるマリーナ・オフシャンニコワ自身が、色々な経過で娘と2人でフランスに脱出した後に発表した手記の翻訳が本書である。御本人がロシア語で綴った手記に関してフランス語版や英語版が出ていて、日本語版は英語版からの重訳という計画で始まったというのだが、後にロシア語版から訳するということになって本書が纏まっている。

大きな波紋が起こった出来事の渦中で、事態の推移を御自身の来し方を交えて綴った内容である。何かドキュメンタリー風な演出の映画の作中世界に入り込むような感じで、少し夢中になって読んだ。読後に余韻に浸るが、これは遠い過去を振り返るような内容ではないことに想いが巡る。2022年の出来事であり、事態が正に進行形であった頃に綴り始めた内容を少し整理して2023年に入って発表された手記であるのだという。

マリーナ・オフシャンニコワ自身は、その生い立ちや来し方を通じて、ウクライナでの戦禍の哀しさを並み以上に解っていて、感じるところが大きな中であの「放送事故!」という騒ぎになった抗議活動へ突き進んだのである。

彼女の母はロシア人で、化学関係の技師としてオデッサに在った頃、ウクライナ人で海軍に勤務していた彼女の父と出会っている。が、彼女が生れる寸前か、生れた直後位に父は交通事故で他界したそうだ。そこで彼女は母と2人で暮らしながら育って行く。

両親が各々にロシア人、ウクライナ人という人は両国に多く居る。彼女もその一人で、幼少の頃には父の故郷に在る祖母が住む家を訪ね、従姉妹と遊んだ想い出も在るという。有触れた話しなのだが、こういう家族では兄弟の何人かがロシアに在り、何人かがウクライナに在って、今般の戦禍の中で家族が分裂して歩み寄れなくなってしまっている。彼女はそういう様子を「自身の身内の事」として知っている。

更に彼女は、戦禍で安寧を奪われる無念さを自身の経験として承知している。

化学関係の技師であった母は、チェチェンのグローズヌィーに職を得て出身地からそちらへ移る。彼女も一緒に暮らし、グローズヌィーで育った。が、チェチェンの紛争で安寧を奪われ「難民」ということになり、多くを喪った状態でクラスノダールに移る。

彼女はクラスノダールで成長してジャーナリストになり、やがてモスクワに移る。そして例の騒ぎ迄、モスクワで活動することとなる。

「報道の自由」というような事柄、気になることを自由に論じて意見表明をするというような事柄が年を追って歪められているというようにマリーナ・オフシャンニコワは感じて息苦しかった。そんな中の「戦争」だった。そこから例の「騒ぎ」だ。

ロシア人、ウクライナ人とが互いに武器を突き付け合う哀しみを慮ることが出来る故に、安寧を奪われる無念さを知るが故に、彼女は「NO WAR!」(戦争反対!)と一声上げたかったのだという想いが本書から伝わる。が、そうやって一声上げた彼女は「情報戦」の渦のど真ん中に晒されてしまうことになる。

恐らく彼女は、亡命先―それに至る経過等も、可能な範囲で本書に詳しく綴られている―で、ロシアやウクライナの件も含めた言論活動を展開するようになるであろう。何か発表されるのなら、それらも是非拝見したい。

凄く読み応えがある本書である。これも未だ続く戦禍に関する色々なことを考える大変に重要な材料たり得る一冊だと思う。広く御薦めしたい。

『航西日記 パリ万国博見聞録 現代語訳』

↓なかなかに興味尽きない感の一冊に出会えた。愉しく読了に至った。

航西日記 パリ万国博見聞録 現代語訳 (講談社学術文庫)



↑1867年頃に記録を現代語訳した一冊で、大変に興味深い。

1867年と言えば、翌1868年に江戸幕府体制が終焉を迎えてしまう、正しく幕末であり、開国後に諸外国との間で色々な事柄も重なっていたというような時期だ。

「万国博覧会」、後年には「国際博覧会」と呼ばれている催しが在る。1851年にロンドンで催された例が最初であるという。1853年にニューヨーク、1855年にパリ、1862年にロンドン、1867年にパリと続いた。最近、日本国内で話題の2025年予定の催しは、こういう催しの後裔ということになる。

1867年のパリ万国博覧会には、日本から初めて出展が行われた。15代将軍となった徳川慶喜(1837-1913)は、実弟でもあり清水家を相続した徳川昭武(1853-1910)を幕府代表としてパリへ派遣した。当時15歳であった徳川昭武の渡航に関して、そのまま数年間滞在し、欧州諸国の文物等について学ぶという「留学」という意図も在ったのだという。

所謂「御三卿」の一つである清水家は「10万石の大名」の格式を有していて、その後継者たる徳川昭武は、当時若年ながらも高い身分を有している。そういう徳川昭武が欧州を目指し、更に滞在するにあたっては随行した人達も多く在った。その随行した人々の中に杉浦譲(1835-1877)や、渋沢栄一(1840-1931)の姿が在った。

この杉浦譲や渋沢栄一が、パリを訪れた際の記録を綴っている。本書にはそれに加え、帰国した際のことを回顧した渋沢栄一が綴ったもの、帰国後に帰郷した際の様子を回顧する娘が綴ったものの一部も末尾の側に添えられている。

本書『航西日記』を綴った人物としては渋沢栄一が知られている。が、当初は杉浦譲が記録担当として船を乗り継ぐ長い旅や、辿り着いたフランスでの出来事等を綴っていたという。徳川昭武一行の関係者は、色々な事由で順次帰国の途に就いた。杉浦譲が帰国することになり、渋沢栄一は記録の役目を引継ぎ、様々な見聞に関して綴り続けた。その記録が後年に編纂されたということになる。そういう経過を踏まえて、本書では渋沢栄一と杉浦譲を並べて著者として挙げているのだ。

更に、このパリでの万国博覧会の件で、渋沢栄一は後年に活躍して有名になったこととも相俟って、最も知られた随行員かもしれない。徳川昭武が旅立って以降の道中で常に近くに在り、帰国を決める迄の行動を共にし、更に帰国の道中も共に動いた。乗船した船が着いた横浜港で、水戸徳川家の屋敷へ向かうことになった徳川昭武が出迎えの人々と港から離れる様を見送り、横浜港で後始末の事務をしたという渋沢栄一なのである。最も長く共に在って、何でも一緒にやったとして徳川昭武にも慕われていたようだ。

長い道程を辿り、道中にも様々な文物に触れながら進む様や、辿り着いたフランスでの出来事や、欧州の各地を視察に出掛けての見聞等、生き生きと綴っていることに加え、万国博覧会での日本による展示への反応等を新聞記事の抄訳を引いて紹介している様子に、何か凄く引き込まれる。そして「生き生きと様子が伝わる報告」を綴る幕吏たる杉浦や渋沢の「出来る男達」という様が伺えた。

石造から木造、鉄骨を組んだ硝子張りと様々な建物を方々で見て、下水道や道路を見て、新聞印刷の印刷機や供される情報提供の力を知り、銀行や貨幣の管理や製造を見学し、船から大砲迄の諸々の機械を見て、様々な国々からの来賓が登場する催しに加わっている様子が本書からよく伝わる。

正しく「明治の初め頃の或る時、徳川昭武に随行して欧州を訪ねた方の土産話に耳を傾ける」という調子で読む事が出来る本書だ。そしてこの「土産話」こそが、明治時代以降の様々な動きの原点にもなっているのだ。

なかなかに貴重な内容が、読み易く整えられ、手軽な文庫本として登場している。大変に幸いであると思う。愉しい読書体験が出来た。

『大東亜戦争肯定論』

↓巻末の解説迄含めて510頁にも及ぶ、文庫本としては少しボリューム感の在る1冊だ。ゆっくりと紐解いて読了に至ったところである。

大東亜戦争肯定論 (中公文庫 は 68-1)



↑漫然と書名を見れば「所謂“右”な論?」というように感じられるかもしれないが、必ずしもそうでもないと思いながら読んだ。

林房雄(1903-1975)という作家が在る。本書の著者である。

かの三島由紀夫(1925-1970)が、様々な作家の作品等について綴っているモノに触れた際、その交流のこと等も交えて林房雄に関して色々と語るような文章に触れた。それを通じて林房雄に興味を覚えた。

そして手軽に手にして読む事が叶いそうな本を探してみた中、本書に出会った。更に、歴史に関して論じるというような内容も非常に興味深い。

著者が言う「大東亜戦争」という概念である。これは欧米諸国のアジア進出の経過の中に日本の姿が登場する機会が目立ち始めた1840年代頃から、幕末、明治、大正、昭和の経過が在って第2次大戦に敗れてしまう頃迄の「100年間」を示す概念ということになる。

100年間、戦争を絶え間なく続けていたということではないかもしれない。が、後になって振り返ると「戦争の100年間」と評し得るような状態、戦いそのものと戦間期というような様子が続いていたとしている。

本書は1965(昭和40)年を伺うような頃、所謂「戦後20年」というような時期に登場している。著者は60歳代に差し掛かっている。産れて間もなく日露戦争で、様々な軍事行動も断続し、第1次大戦が在って、中国大陸での戦争に太平洋戦争と「人生の相当な部分で、戦争という様子が見受けられる」という情況である。こういう様子から「戦いそのものと戦間期」というように、取上げた100年間程度という時代を評しているのである。

欧米諸国のアジア進出の経過の中、日本の中で、同時に対外関係の中で様々な考察すべき事柄が発生して来た。そうした、積上げられた経過で、日本は独立を護ろうとし続けていた。というのが『大東亜戦争肯定論』という書名の意味することなのだと思う。

「肯定論」とは言うが、何かを称賛しているようなことでもないように読んだ。この時代の、或いは本書の登場からもっと先の時代ということになる現在でもそうなのかもしれないが、「一億総懺悔」的な空気感が支配的な中で、「そういうことばかりでもないのではないか?」という論なのだと思う。

そういう全体を通しての基調の下、対外関係の視点を大きく容れた幕末期の事柄、不平等条約を巡る事柄、日露戦争に関する事柄、昭和の動乱に関する事柄、満州に関する様々な事柄、日中戦争に関する事柄、対米英開戦に纏わる事柄等、多岐に亘る事柄が適宜様々な引用も交えて綴られている。

非常に読み応えが在るのだが、中に「その時代の思潮」というようなことを考察するような内容も多く、なかなかに興味深かった。

極々個人的なことだが、この著者は他界して久しい父方の祖母と同世代の人である。ということなので「祖父母世代が考えていたようなことを纏めた」という程度に本書を受け止めたという面も在ったかもしれない。

欧米諸国のアジア進出の経過の中に日本の姿が登場する機会が目立ち始めた1840年代頃から、幕末、明治、大正、昭和の経過が在って第2次大戦に敗れてしまう頃迄の「100年間」を、「1つの時代」というような感で捉えてみるというような本書の論は、登場から半世紀以上を経た現在に在っても有効であるように感じた。或いは「有効」であるからこそ、2000年代に入って本書が出版され、更に2014年に至って自身が手にした文庫本も登場したのだと思う。

或いは著者は、昭和10年代位に表立って言われていた事柄が昭和20年代位に言われなくなり、昭和10年代位に裏で囁かれたような事柄が昭和20年代位に前面に出て来ているという、「総入替」のような様子に違和感を覚えて本書の内容を綴ったということなのかもしれない。

史上の事実は動かない。が、積み上げられた事実を見詰めて思い至る真実には幾つかの姿が在るのかもしれない。そんなことも想った。興味深い1冊であった。

『だからあれほど言ったのに』

↓紐解き始めると頁を繰る手が停められなくなり、素早く読了に至った。

だからあれほど言ったのに (マガジンハウス新書)



↑読後に、本書で話題にしていた様々な事項に関して頭の中に浮かんで巡っているかのような感じがする。余韻が深い内容だと思う。

本書は、著者が様々な形で発表した文章、或いは講演活動を盛んにしているようなので、その講演記録という場合も交じるようだが、出自が異なる色々なモノを集めて生まれた一冊であるようだ。とは言っても、一冊に纏めるに際しての加筆等々の作業は入念に行っているらしい。そういうことなので、何処かで「色々な形で発表された文章を集めた?」と感じながらも、「幅広い話題に関して綴った一冊のエッセイ集」というようにも感じられた。

本書で取上げられている話題は「社会と個人」、「個人の人生」、「現在を生きる世代と未来を担う世代」というような事柄に収斂されるように個人的には思った。そして“主流”となっているらしいような観方、傾向への異議や疑問を申し立てながら「こういうものなのではないか?」を説いてみようとしているような感を覚えた。

「第1部」は「社会」ということに対しての観方、考え方という要素が強く、「第2部」はもっと「個人」に関する考え方という要素が強いように見受けられた。結局「一個人」は「社会」を見渡しながら「個人」の内側を見詰めて考えるものなのだということかもしれない。

より大きな声で聞こえて来るような主張、論調というモノが在って、そういうのが所謂“主流”だ。そして何かの様子を観ていて、「最近はこういうような様子に?」と見えるモノが在って、そういうのが“傾向”だ。多くの場合、“主流”や“傾向”の中に然程の疑問も抱かずに入り込んで流されているのかもしれない。が、“主流”や“傾向”に関して「本当に正しいのか?」と各々が独自に考えてみることが大切で、そういうところからより幸福な何かが見出され、それを掴み得るというのが著者の伝えようとしている事柄なのかもしれない。

豊富な話題が供される本書であるが、「貧乏」と「貧乏くささ」との差異という論、「境界線」という論、「愛しようとすること」に対する「傷つけないようにしようとすること」という論など、幾つも強めに記憶に残る話題が在った。

殊に「境界線」という論である。考え方の明らかな違い、立場の違いで「境界線」を明確化するばかりでも、何かが如何なるのでもない。寧ろ「境界線」の逆側に在る人達が、線を越えて向かってくるというような可能性を排除しないべきだというような論だった。色々な事柄で「言い得て妙」なのではないかと思った。

色々な形で、著者は「もう少しこうなのではないか?」という論を世の中に向かって問いかけ続けて来た。それでも何やら「閉塞感」のようなモノに包まれているような気分が拭えない。そういう中で「だからあれほど言ったのに…」という句が漏れ、それを本書の題名としてみたのであろう。

何か、漫然と考えていて形が定かでも無かった事柄について、本書を読んでみて論客が与えられたというような感じで、読後の満ち足りた感じも少し大きい。

自由に考え、自由に想像を試みる人達が見受けられる穏やかな社会に、無限の可能性を否定されない子ども達が徐々に入って行くというような様子を、著者は善いと考えているのかもしれない。全くそのとおりだと思う。本書のような材料も得ながら、人は自由に色々な事を考えるべきだ。御奨めしたい一冊との出逢いに満足している。

『ジェンダー史10講』

↓興味を覚えて入手し、ゆっくり読了した1冊である。

ジェンダー史10講 (岩波新書 新赤版 2010)



↑「10講」と銘打っている。10の篇、或いは章でなる1冊だ。大学の講義か何かのように、「講」と名付けられた篇に関する話しを1時間半程度でするような感じの内容だと思う。読み進め易い綴り方になっていると思う。

「歴史」というのは、様々な記録を紐解いて、それを整理して語られ、伝えられるというモノである。そうやって語られ、伝えられる内容は、自ずと“主流”とでも呼ばれるような人達に関わる内容が多くを占めるようになるであろう。が、各々の時代に、その“主流”ということにもならない多くの人々の存在が在り、その活動等が確実に在った筈だ。

その“主流”ということにもならない多くの人々の存在の代表的なモノかもしれないのが「女性」である。「歴史の中の女性」または「女性達の歴史」というような、語られるべきこと、伝えられるべきことも多く在る筈だ。本書はそこに眼差しを注いでいる。「女性史」とでも呼ぶような事柄に纏わる研究の経過、そして「女性史」ということで整理された内容のあらましということに関して、主にドイツの歴史に纏わる研究を手掛けて来た著者が綴ったのが本書である。

女性に纏わる「少し古いイメージ」というような事柄が、実は相対的に新しい時代に造られたようなイメージであるということに、本書の内容を通じて気付かされた。そして、「古くから…」ということの多くがそのようなモノで、「現在時点で如何か?」と色々なことを、積極的に真摯に考えるべきなのかもしれないというようなことも、本書を読んでいて思った。

「歴史」とは、何事かを覚えるというより、モノを考える材料に触れて考えてみるという存在なのだと思う。本書はそんなことを思い出させてくれる。


『放浪・雪の夜:織田作之助傑作集』

↓出先の書店で見掛て、興味を覚えて入手した。そしてゆっくりと読了した。

放浪・雪の夜:織田作之助傑作集 (新潮文庫 お 2-2)



↑本の題名となっている『放浪』や『雪の夜』を含めて、11篇の織田作之助の作品が収められている一冊だ。各篇共に長くはないので、篇毎に順次読み進められる感だ。

織田作之助(1913-1947)は大阪に所縁が深い作家だ。大阪の文物等を巡る話題に至ると、「オダサク」(織田作)という知られているというニックネームも交えて、この人物の名が登場する場合も在ると思う。他方、その小説作品を個人的には読んでいなかった。書店で本を手に、「名は知っていて、作品を読んでいないという作家の短篇集であれば、読んでみるのが善い」と思い付いたという訳だ。

各作品は、概ね織田作之助自身が生きた時代―御本人が少年であったと見受けられる大正期から、昭和に入って以降、終戦直後の昭和20年代初め頃―の街で繰り広げられる物語である。本書に収録作品の中、『蛍』という1篇は、幕末期の京都の伏見での物語で、例外的だ。

各作品は、各々に様々な形で綴られている。織田作之助自身と重なるような語り手の独白風な作品も見受けられるが、作中人物達の辿る人生が、或いは淡々と、或いは濃厚に描かれていて、大阪等の街の設定されている時代の空気感が生き生きと伝わる。色々と在って、30歳代で他界してしまったらしいが、こういう方に永く大阪の街を綴り続けて頂きたかったというようなことも、各作品を読み続けた中で感じた。

織田作之助自身は大阪市内に所縁が深いようだが、作中では狭い意味での大阪が舞台になるばかりでもなく、大阪圏の人々の様というのが作中人物達に広く反映されているように見える。作中、紀州の出という人達の話しや、住所としては大阪市を離れていると見受けられる場所での物語も在った。

こういう短篇集は、各々の読み手が「御気に入り」を見出せば善いのだと思う。自身は『四月馬鹿』という篇が気に入った。

『四月馬鹿』という篇を綴っている人物、作品の語り手は、恐らくは織田作之助自身に他ならないと思う。親交が在った作家「武田さん」に関する物語となっている。「武田さん」というのは武田麟太郎のことであるという。何かこの作品の調子、哀感に少し笑いも交るような感に惹かれた。

何れにしても「名は知っていて、作品を読んでいないという作家の作品」に触れてみるのは興味深いものだ。

『大阪がすごい―歩いて集めたなにわの底力』

↓出先で大きな書店に何気なく立寄り、置いて在った本の中からこれに眼を留めた。思わず求めてしまったが、そうしておいて善かった。

大阪がすごい ??歩いて集めたなにわの底力 (ちくま新書 1786)



↑豊富な話題で、各々の話題を色々と掘り下げていて、実に興味深く、「一寸した時間」にドンドン読み進めてしまった。そう「させてくれるモノ」が在る。結果的に、素早く読了に至った。

本書の著者は「大阪府内に住むライター」である。所謂「学術系」という綴り手ではない。が、色々な現場を観に出て、観た様子を綴る、背景的な事等を詳しい方に訊ねるようなことをするのが「ライター」である。本書はそういう「ライター」の流儀で「大阪」を多角的に語ろうとしている。

大阪というのも、少し独特な地理的な特徴が在る。そういう辺りから話しを起こし、古代、近世、近現代の歴史の様々な事柄に絡まる話題を多く提起する。そういう形で街の興味深さを立体的に描いている。

「歴史」と呼び得る要素だが、かなり古いという感じのことに留まらない。少年時代の著者が親しんでいる「万博」というような時期以降、1980年代や1990年代、つい最近迄の街での色々な経過への言及も在る。

「つい最近迄の街での色々な経過」に関しては、開発の構想が持ち上がり、必ずしも満足出来ない状況になり、それ以降の進展も在る訳だが、そんな事柄も纏まっている辺りが面白い。

長い歴史が積み重ねられ、商都としての経過、「大大阪」と呼ばれたような発展の経過、繁華な地域の形成や鉄道網の発展というような事柄が在り、そして近年の経過だ。それらが適度な量に纏まった1冊の新書で読める。

何か「“大阪”を御紹介します。よろしく…」という、格好の「“大阪”入門」という性質を帯びているかもしれない一冊だ。そして本書に触れると「機会が在れば大阪に立寄って…」という気分にもなる。

結局、「ライター」の流儀で丁寧に綴って面白い一冊が纏まったのだと思う。続篇、姉妹篇というようなモノの登場さえ期待する。その前に、本書は広く御薦めしたい感である。

『人類の終着点 戦争、AI、ヒューマニティの未来』

↓豊富な話題を提供してくれる一冊であると思う。

人類の終着点 戦争、AI、ヒューマニティの未来 (朝日新書)



↑何時の時代にも「考えてみるべきであろう」というテーマは在る。そんなことに関する話題を提供してくれるのが本書である。

本書は識者達へのインタビューや鼎談、対談を色々と集めて纏めたモノである。幾つもの読み応え在る内容を纏めている。新聞の特集、その下敷きになるフォーラムというのが下敷きになっているようである。

幅広い話題が取上げられているが、敢えて一口で纏めるのであれば「揺らぐ世界の中で進む技術革新という様相が導く先は?」というようなことになるのだと思った。

ロシア・ウクライナ戦争のような大規模な軍事衝突が展開している他方、各国で民主主義体制が揺らいでいるかもしれないような様子も見受けられ、更に著しい人口減少という社会の行方がよく判らなくなるような傾向も強まり続けている。歴史が転換している真っ只中なのかもしれない。そんな中に、急速に進歩を遂げる「生成AI」なるモノのような新技術が台頭している。

本書では、「歴史の転換点」ということで、戦争や民主主義というようなことを論じる要素と、「AI」のような技術が辿った経過、現況、可能性、未来予想というような要素とが併存していると思う。結局「揺らぐ世界の中で進む技術革新という様相が導く先は?」ということだ。

正直、個人的には「生成AI」なるモノはよく判らない。

想い起してみると、自身が生きて来た年月の中、インターネットの登場と普及、携帯電話の登場と普及というような「そこまでの時代には考え悪かったような新技術と、それがもたらした社会の様相の変化」ということが起って来た。何れに関しても、自身が長じて、青年、壮年というような年代以降の出来事で、何となく「自身で勝手に適度なと想える距離感」でそうしたモノに接してきて、現在時点でもそうしていると思う。

「生成AI」なるモノに関しても、壮年というような年代以降に登場して普及しようとしているので、何となく「自身で勝手に適度なと想える距離感」で接したいと個人的には思っている。が、巷では何やら「利用を当然視」というように動こうとしているようにも感じる。例えば「生成AI」なるモノで文案のようなモノを作成出来るとされているが、そういう程度のことなら、自身で勝手に考えて綴る方が気に入るモノが簡単に速く出来ると思うことが在る。そういう感覚だが、そのうちに「少数意見」であることすら認められないような感じになるのかもしれない。新しいモノは、古いモノを塗潰してしまうような一面も在るように思う。

こうした感覚も持ちながら、本書のAI関連の色々な論に触れた。過大に信頼も出来ず、過大に無視も出来ないという、よく在る新技術の一つであるAIだが、最初期に登場した頃の経過を見て考えると、色々と恣意的な要素や偶然が入り込んでいるようでもある。

AI関連で、本書では「既に他界して久しい有名漫画家の、御本人が描く新作を想わせるようなモノを、AIで創ることを試みる」ということに取組んでいる方の話しが収録されていた。それを興味深く拝読した。「漫画作品を創る」という例を通じて、AIの可能性と限界というようなことを考え易い話しだったと思う。

AIを利用して「漫画作品を創る」となれば、人気作品の主要人物を有名漫画家御本人が新たに描いたかのように再現する、または新しい作中人物を御本人が描いたかのように創るようなことは出来るようになるらしい。そしてそれらしくストーリーも組み立てられそうだが、かなり困難なことがあるという。有名漫画家が人生経験を通して有している思想性、想いが作品には少なからず跳ね返っているが、そういうモノは再現する術が無いのだという。

こういうようなことは記憶に留めておかなければならないと個人的には強く思った。「人生経験を通して有している思想性、想いのようなモノはAIで如何こう出来る筈も無く、そういうようなことこそ大切にせねばならず、そう出来るのが人間である」とでも言い続けたいような気もする。

技術革新が目覚ましい中ではあるが、「冷戦の終結で段落したかのようだった歴史」がまた揺らいでいる中、「人が人らしく?」というような、遥かな昔からの哲学のような思索が益々求められているのかもしれないというような気もする。

本書は、広く色々な話題を巡る識者達の論を集めたというような感なのだが、「モノを考える材料」として貴重であると思った。

『ウクライナ 通貨誕生 独立の命運を賭けた闘い』

↓大変に興味深く、広く御薦めしたい一冊に出会えた。

ウクライナ 通貨誕生 独立の命運を賭けた闘い (岩波現代文庫 社会334)



↑激しい戦禍も続き、注目もされているウクライナに関する内容だ。

「ウクライナ」は2022年の“侵攻”のニュースが伝えられる迄、日本国内では知名度が必ずしも高くはなかったかもしれない。が、4千万人程度と伝えられる人口は欧州諸国の中でも上位に位置し、面積も欧州諸国の中では寧ろ大きい部類で「マイナー」ということにもならない面も在るかもしれない。

この「ウクライナ」だが、「ソ連」が解散することになった結果として登場した。現在、「ウクライナ」として知られる版図の国は、この「ソ連」の解散という出来事が在った1991年に初めて登場している。様々な要素を孕んだ国ということになる。

本書の著者は、その1991年以降、ウクライナ現地に滞在して活動する機会を何度も持っている。本書は1990年代初めの、「新たに興った国で、新たな通貨を設定しよう」というようなことから始まった様々な様子を振り返って綴ったという内容が中心である。

本書はその1990年代前半頃の動きを綴った部分に、2014年頃に発表した論考、2022年に発表した論考を合わせたモノとなっている。なかなかに価値在る内容に纏まっていると思う。

2022年の“侵攻”のニュースが伝われば、「何かよく判らないが、非常に大きな規模でロシア軍が動き…」ということで、ウクライナの経過が必ずしも判り易く伝わっているのでもなかったと思う。本書は、「ソ連の解散」で生じた混乱を潜り抜けようとして来た様子、そして著者がウクライナ滞在時に様々な地方を訪ねて得た見聞や知見が纏まっている。

本書の中にウクライナの方の言として引かれている内容でもあるが、ウクライナは「10年毎に計3度も“革命”」と言われる程度に政治が揺れ動く経過を辿っている。1994年にクラフチュク大統領が失脚、2004年に「オレンジ革命」と呼ばれる出来事でユシチェンコ大統領が登場、2014年に「マイダン革命」でヤヌコーヴィチ大統領が国外へ出てしまうということで3回だ。本書では、収録されている2014年頃と2022年に各々発表した論考を通じて、こうした“革命”がもたらしたモノが振り返られている。

1991年の「ソ連の解散」の後は、「これまでの色々は止めました」となり、「で?如何します?」とでも問えば、「如何でしょう?」と返答が在るというような状態だったのかもしれない。“ゼロ”どころか、“マイナス”のような辺りから、自国の経済活動を安定させて、諸外国との交易を出来るようにと考えることや、色々な規則を整備するようなことなど、何でもやらなければならなかった訳だ。「当り前に在る」というようなモノが「不明?」になっていて、それを何とか整理しようとする人達の様子を見詰めるような、本書の見聞記は非常に貴重だと思う。

1991年に初めて登場し、様々な要素を孕んだウクライナという国では、「国内に居る人達が緩やかに統合するウクライナ」を志向するような考え方と、「ウクライナのナショナリズム」を前面に押出すような考え方とが在るようだ。現在は後者が優勢であるようではある。が、少し前の経過での疑義も残るようだ。

蛇足ながら極個人的な経験に言及すると、自身も1993年頃のロシアを現地で観た経験が在るので、「ソ連の解散」の後の「ポストソ連」とでも呼ぶべき時期の混乱の雰囲気は少し判る。そんな個人的な記憶とも相俟って、本書を興味深く読んだ。加えて後段の論考は、未だ収束迄に時間を要しそうに見えるウクライナの様子を考える材料として有益だ。

結局、少し前からの経過、やや旧めなことも含めて、直接の関連の有無を問わずに事態の歩みを可能な範囲で学び、その上で考えることが、色々な問題に関して重要であるような気がする。ウクライナの問題は正しくそういうようにして、理解を拡げて深めるべきだ。

大変に有益な一冊に出会えたことを歓んでいる。

『作家論』

↓表紙カバーの画は、三島由紀夫が煙草を燻らせながら書斎と見受けられる部屋で思案しているかのような様子だ。何か、こういう画のような情況で、彼が語る内容を傾聴するかのような感覚で本作を読み進めた。

作家論 - 新装版 (中公文庫 み 9-9)



↑一言で言えば、「“作家”が語る作家達、その作品」というような内容である。そして筆者たる三島由紀夫が話す声も聞こえて来そうな文章で、何か引き込まれた。

三島由紀夫は、昭和30年代から昭和40年代に流行った“文学全集”のような出版で編集に携わり、解説文を書くというような機会が在ったのだという。そういう場合、彼は気に入っている作品、作家に関することを綴っていた。気に入らない場合には避けるというような、正直な感じで取組んでいたようだ。

本書の「あとがき」の中、解説を手引きに文学作品を読むというようなことを好むのでもないとしている三島由紀夫だが、それを敢えて自身で手掛けている。結果として「気に入っている作品を綴った作家に関するエッセイ、評論」として面白いモノが纏まっていると思う。

本書では森鴎外、尾崎紅葉、泉鏡花、谷崎潤一郎、内田百輭、牧野信一、稲垣足穂、川端康成、尾崎一雄、外村繁、上林暁、林房雄、武田麟太郎、島木健作、円地文子という作家達、その作品に関することが論じられている。

正直に申し上げる。上述の各作家の中、名前を知っている方も在ったが、知らなかった方も在った。そして、上述の何れの作家の作品以上に、自身は三島由紀夫が綴った作品を読んでいるという情況だ。そういう訳で、三島由紀夫の名調子による紹介で、上記の作家達、その作品を知ったということになる。

上述の各作家の中、林房雄に関しては三島由紀夫が若手作家として世に出ようかというような時期から交流が在ったそうで、―加えておくと、時代が下ってからの対談も出版されていたようだ。―殊に詳しく人物と作品とを論じているように感じた。この部分だけでも、例えば「林房雄さんのこと」という独立した篇として登場しそうな雰囲気が在った。実際、本書所収の他の文章とは少し違う形で先に登場した経過が在ったようだ。

結局、本書所収の各節では「こういうのが…」と三島由紀夫が注目した点等が取上げられ、それに関する考え、逆に御自身の志向の故等によって耳目に深く留まった箇所を挙げている。御自身も様々な想いを込めた小説を多々綴っている訳で、その感覚と目線は研ぎ澄まされているのだと思う。「こういうように観る?」と、少し強く感心しながら本書を読み進めた。

三島由紀夫は様々な文章を綴り、色々な活動にも携わっていたが、何事かを少し踏み込んで解説するような「批評」というような文章はそれ程多くもないようだ。本書はそういう、数少ない「批評」の好例になるのだとも思う。

本書を通じて、取上げられている作家達や作品を「御紹介頂いた」というような感じになる。そういうことなので、一部の作家が綴ったモノに関して、必ずしも本書で取上げられているような作品ではなくとも、読んでみようというように思うようになった。三島由紀夫は「解説を手引きに文学作品を読む?」という感覚のようだが、「彼が綴った文章を手引きに作家や作品を知った」という例が早速登場したというようなことになるかもしれない。

自身の個人的な感じ方ではあるが、三島由紀夫というのは、不器用なようでいながらも、器用に色々な表現をしてみることを続けていたような印象の人物だと思う。本書はそういう印象を深めてくれたかもしれない。

『財政と民主主義 人間が信頼し合える社会へ』

↓専門的知見を交えながら幅広い話題が提供されている「新書らしい」感じの一冊だった。

財政と民主主義 人間が信頼し合える社会へ (岩波新書 新赤版 2007)



↑興味深く読了したところだ。

本書では、世の中の資金等の動きに大きく2つ在るとしている。民間企業等の活動による、利潤を追求する動きが在り、これに対して必ずしも利潤を追求するのでもない政府等が資金を動かすというモノが在る。後者を「財政」と呼ぶ。その「財政」を巡って様々な話題を展開しているのが本書である。

所謂「パンデミック」という未だ記憶に新しい問題の故に色々な動きが世界の様々な国々で在った。日本もそれを免れてはおらず、色々な事が在った。本書の前半の方では、こうした事柄を巡っての話題が在る。

要は「人々が生きる権利を如何に護る」ということで、医療のような公共的なサービスを如何に運営する、如何に機能を護るというような問題が「パンデミック」に際して顕在化していた。これに関して、日本国内の例や国外の事例を色々と検証するような内容が在る。

所謂「新自由主義」というような経済関係の考え方が在る。これは米国や英国の流儀であるが、日本はこうした流れの中に在る。これらに対して、欧州諸国等の流儀が在る。そういった辺りが詳しく綴られている。

米国、英国、更に日本では社会の様々な動きに関して「観客型」という立ち位置になる人達が多い。欧州諸国では「参加型」ということになって、常々そういうように在るべきだと社会の中で促されているようだ。

こういう内容であれば「“出羽守”だ」と揶揄されてしまうことに終始するかもしれない。「でわのかみ(出羽守)」というのは「〇〇では」と国外事例のようなモノを列記するばかりという程の意味で時々言われる。が、本書はその「でわのかみ(出羽守)」に終始しているのでもない。

日本国内にも、時代の変化で半ば潰えてしまったが、「大正デモクラシー」というような「参加型」で社会の様々なことを動かそうとした経験、歴史も在り、地域の人達が地域で生き生きと活動出来ることを目指した様々な経過というモノが在るのだ。そういうことが確りと取上げられている。

著者は1946年生まれ(今年で78歳になる)ということだ。何か「後身達」や、より遠い未来を生きる世代に向けて、「人が人らしく在る未来を思い描きたい」という想いを遺し、伝えようとして本書を著したのかもしれないというような気もした。

未だ記憶に新しいような事柄も含めた“問題”の解説も含めて、新しい明日に向けたヒントを示すような本書はなかなかに貴重だと思う。御薦めしたい。

『宗教と不条理 信仰心はなぜ暴走するのか』

↓興味深く読了した。

宗教と不条理 信仰心はなぜ暴走するのか (幻冬舎新書 717)



↑2人の識者による対談集で、雑誌記事を読むような感覚で、ドンドン読み進めることが出来る。少し難解かもしれない話題も多く取上げられているように思ったが、それが判り易い。

「宗教」というようなことに話題が及ぶと「無宗教だから」と敢えて断るような例が多く見受けられるように思う。が、それは所謂“宗教法人”というようなモノに関与していない、社寺や教会というような宗教施設での催事や諸活動に積極的に関与しているのでもないという程度のことなのではなかろうか?本当に「無宗教」というのは、何か少し違うのではなかろうか?明確に「〇〇の宗教」というモノとの関連性を意識せずとも、根を辿ると宗教に行き着く場合も在るような考え方が社会に或る程度は行渡っていて、多くの人達はその影響を免れることはし難いのではないだろうか?

そういう程度に思っているので、本書の「宗教」という話題を持って来ている辺りに強く興味を抱いたのだ。そして、そうやって本書に出会って善かったと思う。

ローマでの様々な事柄等の歴史を広く論じている本村凌二と、神学を基礎としながらソ連やロシアでの経験も重ねて国際事情にも明るい佐藤優という2人の識者が対談している。各々の得意な話題を引きながら、話題はドンドン拡がり、掘り下げられていくのが本書だ。

結局、長い人類の歴史、思想の変遷のようなモノについて「宗教」というキーワードで俯瞰しながら考え、今日の社会や国際情勢を見詰めてみようとするような内容になっていたと思う。

最近のロシア・ウクライナ戦争に至る迄、近現代の様々な戦いに「宗教」の要素が入り込んでいるという指摘は示唆に富んでいた。そして「宗教」という存在の文化史的変遷というようなことも示されて興味深かった。

本文中、「宗教」に纏わる活動に在っては、もろもろの社会的な活動とは少し異なる役目を演じる場合も在るという話題が在った。その中で、佐藤優は「宗教」に纏わる活動に限らず、「言わなければならないことを言うために、病気等になっても“生かされている”のだと思う」としていた。この箇所が記憶に残った。「言わなければならないこと」として挙げていたのは、ロシア・ウクライナ戦争は早く停止すべきだということ、人の無い面を揶揄するかのような世論形成や個々人の内面に公権力が踏み込むかのような振舞いを控えるべきであるということだった。

内心を語るようなことを強要されないのが「信教の自由」、「思想信条の自由」ということであろうと本書では説いている。そういう中で、色々な施策が積み重ねられた経過が歴史を創って来たというようなことにも、本書を通じて思い至った。

個人的には、佐藤優の説く「生かされている」に少し心動いた。明確に「〇〇の宗教」を如何こうするという程でもなくとも、或る時に漫然と、何らかの力か意志かで「自身が生かされている?」と微かに感じるようなことが、人にとっての「宗教」というようなモノなのではないだろうか?感覚的で名状し難い感じかもしれない。それらに色々な形を与えようと、長きに亘って色々な人達が論じているのが、宗教分野の様々な論や、意識するか意識しないかを別にそれらを背景に持つような哲学等なのではなかろうか?

非常に大きなテーマについて、2人の識者に導かれながら、時間と空間を超える旅をして、そして現代を考えるという感じで、素晴らしい読書体験が出来たと思う。御薦めしたい一冊だ。

『大阪』

↓大変に興味深く読了した一冊だ。

大阪 (ちくま新書)



↑「大阪」という街に折り重ねられている様々な事柄に関して、色々な角度で論じているという内容であり、非常に引き込まれた。見過ごしてしまいそうな様々な事柄を捉えて、新旧様々な事柄を織り交ぜて綴っているのが非常に好い。

「大阪」の場所に関しては、かなり古い時代からの色々な経過は在るのだと思う。が、豊臣秀吉の時代に起こった街が江戸時代に引継がれ、江戸時代の状況下での展開が在って発展し、明治期に至り、明治期以降の様々な経過を経て最近に至っているということになるのだろう。

この「大阪」に関しては、一般に「キタ」と呼ばれる梅田の辺り、「ミナミ」と呼ばれる難波の辺りと繁華街が在る。こうした繁華街は、江戸時代迄の「街の端の側」であった辺りに鉄道が通って駅が設けられたことを契機に、行き交う人々が増えてサービス等が集積して起こったという一面が在るのだそうだ。

本書では、こういうような「キタ」や「ミナミ」の経過や、街中の様々な場所の経過を説いている。終盤の方では1990年頃の、何となく挫折した感の開発に纏わる話題が詳しい。この比較的新しい時代の話題が興味深かった。

「大阪」に関しては、とりあえず色々と言われている「万博」に向けて色々と様子も変わろうとしている。こういう時期であるからこそ、「色々と折り重ねられ続けた経過」を説くような、こうした本は一層興味深いと思う。

「大阪」に関しては、興味深そうな名所や博物館のような場所、人気の御店等を訪ねるというのも面白いと思うが、敢えてそうせずに漫然と街を歩き廻って、気が向けば適当に飲食を愉しむという程度の過ごし方をするのも愉しい場所であると観ている。そう感じられるのも、本書で説かれているように、様々なモノが過去から営々と積み上げられているからなのであろう。

手を打って大ウケした叙述が在る。新しいホテルが開業するということで、館内サービスの計画として「大阪の食文化を感じられるレストラン」、「大阪の歴史や文化に触れられる」というような文言が挙げられているのだそうだ。著者は「そんなことは街へ出て楽しめば済むことでは?」と言ってみたくなったとしていた。この観方には賛成したい。「大阪」は歩き廻ってみれば、独特な何かが方々で感じられる街で、長く受継がれたモノも新奇なモノも含めて飲食店のサービス等も豊かな地域であると思う。

そして本書は、「大阪」について、または主要な題材の一部として綴られた古い小説やエッセイを適宜引きながら綴っていて、それらが面白い。

何れにしても、少し愉しい一冊に出くわした。紐解けば「大阪…一寸、訪ねてみたい…」という気になる。

『元外交官が大学生に教えるロシアとウクライナ問題〜賢い文化の活用〜』

↓少し興味深く読了した。

元外交官が大学生に教えるロシアとウクライナ問題〜賢い文化の活用〜



↑題名の「元外交官が大学生に教えるロシアとウクライナ問題」を見て、何となく思ったような雰囲気でもなかったかもしれない。外交官として活動した長い経験を有する著者が、読者層として大学生位の人達を想定して綴ったエッセイというような感じである。

「大学生」とでも言えば、「20歳代に差し掛かったばかり」というような年代を思い浮かべると思う。現在であれば、概ね2000年頃、または2003年頃迄に生れたような世代という感であろうか。とすると、個人差が大きく、様々な事情も在るので一般化はし難いとは思うのだが、前述の「大学生」という世代の人達が、例えば「父母が30歳を挟むような年代に生れた」とでも想定すると、父母は概ね1970年を挟む何年間かに生れた世代と推察し得る。その父母の父母、「大学生」の祖父母に相当する人達は、例えば「父母が30歳を挟むような年代に生れた」とでも想定すると、概ね1940年前後に生れているということになる。

本書の著者については「1941年生まれ」となっている。それを視て上述のようなことを想った。本書は「祖父から孫へ贈るエッセイ」という様子かもしれない。

本書の前半部、半分よりやや分量が多い部分は、著者の回顧録という色彩が濃い内容である。

1960年代に外交官としての仕事に就き、研修に参加する日々が在って、現場で様々な経験を重ねることになる。そして個人的な人生の歩み―結婚や娘の誕生や成長―ということも在る。そうしたことが、なかなかに詳しく綴られている。仕事を始めた外交官が研修で経験した事柄、現場に入っての様々な経験と、非常に貴重な証言ともなっていると思う。それらが一つ一つ興味深い。日ソ関係の様々な出来事を「現場」で見聞されている訳で、それらは引き込まれた。

本書の後半部は、外交問題を読み解く知識と目線を有している立場で、目下のロシアとウクライナの問題に纏わる事柄や、「こういう出来事に際しての日本の立場?」というような事柄に関して論じている。

本書では、伝えられているロシア側の主張を判り易く説くような内容を、プーチンが説いている内容を解説している。そして疑問点等も挙げている。こうした判り易い解説は有益だと思う。その是非や好悪は別として、人の命を如何こうしているような出来事の背景で叫ばれている主張は、知識として知ってみようとすべきかもしれないというようなことを思う。

著者は「恒久の平和を念願」、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」というような憲法前文に在る言を想い起し、犠牲が拡大する事態の収束を図ることに資するようなことを考えるべきではないかという意見を述べている。

そして著者は、御自身が参加されていた音楽関係の活動の中、外交官という経験、その人脈や外国語の知識を活かすというようなことで、国際文化交流の促進に携わった経過も豊富に在るようだ。そうした活動を通じ、異なる背景を有する多様な国々の人達が共感する、理解するという経験を積んでいる。それを踏まえて、戦禍の拡がる地域の人達と判り合って明日を拓きたいとされている。それが「祖父から孫へ贈る」という内容なのだとも思う。

加えて、極々個人的なことを申し上げれば、先年他界した自身の父は、本書の著者と同年である。そういうことで、「父の世代の言葉」として興味深く読み、「父が生きた時代の物語」という受け止め方もしながら読んだ部分も多く在る。

何れにしても、目下のロシアとウクライナの問題のようなことに関しては、様々な情報を得ながら考え続け、議論を重ねて、少しなりとも犠牲を抑えられるようにと考えなければならないのであろう。「“平和”ではなく“勝利”」という考え方も在るのかもしれない。が、「2年を超える激しい戦い」は多くの人達にとって「既に長過ぎる?」ということも否定はし悪いであろう。

「小難しい、戦争関係の本」ということでもない。“ソ連”の関係に携わったことのある、外交官として活動をした経過の「祖父」が「孫達の世代」へ向けた判り易いエッセイで、色々な意味で有益だ。御薦めしたい。そして、こういう本がもっと世の中に出て来ても善いというように思った。

『新・幕末史 グローバル・ヒストリーで読み解く列強vs.日本』

↓かなり興味深い内容で、読み進めていて「そして如何なる?」と「続き」が凄く気になり、頁を繰る手が停め難くなった。結局素早く読了に至り、非常に満たされたような感覚に包まれる。

新・幕末史 グローバル・ヒストリーで読み解く列強vs.日本 (幻冬舎新書 715)



↑「幕末の歴史」というような事柄には高い関心を寄せている。色々な意味で興味深い事柄だと思う。本書はその「幕末の歴史」に関して、「多少新しい視点」を持ち込んで語ろうとしている。そしてそれが、読み易い感じに巧く纏まっている。新しい知見を広く伝えるというような「新書らしさ」が色濃いとも思う。

本書はテレビ放映等に供する映像コンテンツの制作に向けた取材を基礎としている。

「幕末の歴史」とでも言う場合、それは「日本国内での出来事」或いは「国内の物語」というように感じられるかもしれない。が、19世紀の半ば、1850年代から1860年代というのは「欧米列強が競い合った時代」でもあり、その時期の事柄である「幕末の歴史」というのは「諸外国の様々な活動の経過」という性質も少なからず帯びている筈だ。

そういう訳で本書では、「日本国内での」という捉え方を「ナショナル・ヒストリー」とし、それに半ば対峙するような「競い合う国々の動きの一環としての側面」を少し重視する「グローバル・ヒストリー」という概念を打ち出して、「幕末」を今一度深く考えてみようとしているのである。

本書では黒船来航や開国の頃から、箱館での戦いで終結する戊辰戦争迄の概ね16年間の様々な出来事が論じられている。それらを論じる際に、「グローバル・ヒストリー」という概念に則り、外国に在る種々の史料も駆使して考察している。様々な国々の政府機関や民間に伝えられている古い文書等を紐解いている訳だ。

加えて、幕末には「戦い」という要素が大きいが、急速に新兵器がもたらされて実戦使用されたというような経過も目立つ。そういうことに鑑みて、当時の最新のモノと、それ以前のモノとの性能差が「眼で見て判る」というように実験を行い、映像コンテンツ制作向けて、かなり特殊な機材等も駆使して撮影してみた経過も在るようだ。本書に在る、それらに関する説明も非常に興味深い。例えば当時の新型であった「アームストロング砲」と、19世紀初期の大砲との違いや、所謂「北越戦争」で使われたという「ガトリング砲」を復元したモノを駆使した恐るべき威力の実験というようなモノが在った。

日本の開国ということで、米国が路を切り拓いたかのような感が在る。が、ロシアや英国も日本関係で野心を持っていて、積極的に動こうとしていた。米国が「南北戦争」の故に日本での活動に関して些か後退した感になった頃、活動に積極性を増したのは英国であり、英国に対抗しようとするロシアであった。

こういうような「各国の競い合い」ということの舞台となった日本という見地で「幕末の歴史」を眺めるとなかなかに興味深い。

幕末の日本での「各国の競い合い」という中には、「国内の物語」とは「少しだけ角度の異なる物語」というモノも見受けられる。本書に紹介されるそうした「少しだけ角度の異なる物語」も非常に興味深い。

幕末期に日本で活動した外交官達は、公的な報告のようなモノ、私信、その他の様々なモノを書き遺している。それらを丹念に紐解く中で明かされる各国の思惑、少し驚くような計画が論じられた経過の在ること等が判って興味深い。更に、そういう中には或る程度広く名が知られる日本の人達との対談内容等が詳しい場合も見受けられる。「少し独特な立場と視点とを有する同時代人の人物評」という様子でもあって、非常に興味深い。

大英帝国の国益のために寧ろ討幕派に近付くパークス、蚕の取引を巡って良好で強固な対日関係を築くべく幕府側に近付くロッシュ、新天地で新たな機会を掴むべく本国政府の想いの先を行くような構想で動く欧州の新興勢力プロイセンのブラントと、各国外交官達の様子が非常に興味深い。

戊辰戦争の知られている様々な経過だが、或いは「外交団の圧力」というようなモノ、そういうモノを踏まえた情勢分析のようなことをしていた可能性も在る人達の動きというような事柄が存外に大きく影響をしているかもしれないということも、本書では指摘されている。更に、主要国の外交団による協議の場で、外交官達は自身の思惑に近い形に状況を動かそうと、色々と策動しているような様子も見受けられる。こういうような様子も興味深い。

本書の“あとがき”に「現代と過去との対話」としても「歴史」が在るというような言及も見られる。様々な思惑で動く各国の思惑が交錯する場所で、色々な出来事が起こっている。「日本の幕末」というのも、「人名や事件名や地名や年号を覚えさせられる学校の教科の一部」ということではなく、「示唆に富んだ“対話を試みるべき過去”」として捉えるようにすると、得られるモノが大きいのかもしれないと思った。

上記で「興味深い」を連呼するような体裁にもなってしまっているが、そういう内容が最初から最後迄溢れているような一冊だと思う。広く御薦めしたい。

『京都食堂探究―「麺類・丼物」文化の美味なる世界』

↓ネット上で偶々見掛けた地方紙<京都新聞>のサイトで取上げられていた本だ。「面白そう」と思って入手してみたが、期待以上に面白かった。

京都食堂探究 ??「麺類・丼物」文化の美味なる世界 (ちくま文庫 か-87-1)



↑紐解き始めてみれば、頁を繰る手が停められなくなり、素早く読了に至った。

本書は京都に纏わる話題を扱っている。と言って、相当に古い文物や史上の出来事等に関して論じているのでもない。また、具体的な場所を訪ねるガイド的な内容を主体としているのでもない。題名にも在るが、「とりあえず“食堂”と総称出来そうな街中の店」に関連する話題だ。

何処の街にも、地元で親しまれて長い経過を有する飲食店が在る。地元の人達が気軽に立寄っていて、同時に来訪者も利用し得る場所だ。そうした場所に関しては「地域毎の個性」というようなモノ、「他所と少し違う?」が見受けられる場合も在る。

飲食店の「他所と少し違う?」に関しては、大雑把に「東日本の流儀」に対して「西日本の流儀」というような差異が目立つ場合が在るかもしれない。そうなれば「東京では…」、「大阪では…」ということになる。そういう調子で考えた場合、「京都では…」というのは東京とも、大阪とも違う場合が在るというのだ。

そんな東京とも、大阪とも違う京都の飲食店で供されるメニューに関して、また食べ方に関して、種々の資料も駆使しながら語っているのが本書である。

自身の京都訪問の経験の中、少なくとも京都の「たぬきうどん」というのが、他地域で言うような感じとは全然違うということは承知している。そういうような例が色々と見受けられて、そこには様々な経過が在ったということなのだ。

更に本書によれば、例えばスタンダードな形としてうどんを使うメニューに関して、「台換え」とでもいうようなこと、蕎麦に換える、「黄色いソバ」が由来らしい「キィーソバ」と呼び習わされる中華麺に換えるというような食べ方も少しポピュラーなのだそうだ。

こういう実に興味深い話しに夢中になる。が、外食業全般が一定程度隆盛と言い得る昨今、本書で取上げているような「とりあえず“食堂”と総称出来そうな街中の店」に関しては、新規に登場するということも殆ど無く、長く営んで来た方達が高齢化してしまい、後継者も無いので閉店してしまっている例が一寸目立つのだそうだ。そういう意味で、本書は「昭和、平成、更に令和に受継がれた、街で見受けられた日常」を記録して伝えるというような雰囲気も帯びているかもしれない。

本書に綴られているような、「街の人達の日常」ということに注目するというのは興味深い。来訪者の目線としても「訪ねた先に在る普通の人達の普通の様子に紛れ込む」という程度が面白いのだとも思う。本書は手軽に読了してしまう程度の厚さの文庫本だが、なかなかに濃い内容で面白い。

こんな「街中の様子」に纏わる豊富な話題に触れると、京都を訪ねて街中を徘徊するようなことをしてみたいという気分が高まってしまう。

『ウクライナとロシアは情報戦をどう戦っているか』

↓大変に興味深く読了した。

ウクライナとロシアは情報戦をどう戦っているか



↑少し難しいような気もする事柄に関して、専門的な知見も交え、それを判り易く説きながら主題に迫るというのは、こういうような本に期待される役割だと思う。本書はそういう役割を確りと担っている。大変に有益な一冊であると思った。

「インテリジェンス」というような用語も使われる、所謂「情報戦」というような事柄だが、何か「凄く遠い事」のような気がしないでもない。が、例えば「ロシア・ウクライナ戦争」というような事柄に関しては、種々の情報発信、報道等を通じて、政策から経済活動、その他の様々な社会の動きの流れが形作られていて、或る意味では「遠い国の出来事に既に巻き込まれている?」という様相も在るのかもしれない。

本書では、虚実様々な情報が飛び交っていると見受けられるロシア・ウクライナ戦争を巡って、様々な話題が取上げられている。

一方の陣営が他方の陣営に攻撃を加えて損害を生じさせた場合、その損害を少し大きく伝えようとする。他方で損害を生じてしまった側は、損害を少し小さく伝えようとする。そういうことが重なり、「戦場の真実」というようなモノは些か解り悪くなって時日が経過している。古今の様々な戦争で見受けられることかもしれないが、ロシア・ウクライナ戦争でもそれが繰り返されている。そして情報化が進展している中で、そういう度合いが深まっているかもしれない。本書ではそういう事柄が色々と挙げられている。

また例えば「プロパガンダ」、「PR」、「宣伝」、「広報」というような、曖昧な区別で用いられるかもしれない語句を挙げて、その差異を説きながら一定の定義を与えるような辺りから問題を解くというような感じなのが非常に好い。

更に、ダムやパイプラインの破壊というような一件や、<ワグネル>という民間軍事会社を巡る件等、ロシア・ウクライナ戦争の中で色々と話題になった事案の解説が為されているのも大変に好い。

加えて本書では「フェイクニュース」というような、近年のより大きな問題に関連することも論じられている。大変に重要なテーマであると思う。

本書で言及されているが、第1次大戦の頃から、「戦争のプロパガンダ」というようなモノは在る。概ね「戦争はしたくない。しかし敵は一方的に戦争を望んだ。悪魔のような敵指導者が在る。領土や覇権のためではない偉大な使命のために戦わなければならない。意図しない犠牲も生じるが、敵は残虐な振舞いに及んでいる。卑劣な作戦や武器を用いる敵だ。こちらの被害は些少だが、相手の被害は甚大だ。誰もが我々の戦いを支持している。神聖な大義は我が方に在る。疑義を投げ掛ける者は裏切り者だ」という内容だ。これは第2次大戦や、以降の様々な戦いで繰り返されている。このロシア・ウクライナ戦争でも繰り返されていると見受けられる。

様々な課題も抱えてはいるものの、4千万人もの人達が普通に暮らす、或いは暮らそうとしていたという国で、社会が損なわれて死傷者が多く発生してしまっているロシア・ウクライナ戦争であると思う。が、何やら“正義”のぶつかり合いになって「正義に疑義を投げ掛ける者は裏切り者だ」というような空気感が、遠く離れた国の中でさえも醸成されているような気がしないではない。その辺りに、或る意味では「遠い国の出来事に既に巻き込まれている?」というような感じ方をしてしまう。「大変なこと」が起こっているのだから、「如何して?如何いう経過?」を学び、「今、何が起こっている?」を少しなりとも可能な範囲で知り、先々を考えようとすることは必要なのだと思う。“情報戦”に過度に引っ張られる必然性は高くはないと感じてる。

ロシアがウクライナに全面的に侵攻という2022年2月の動きから、ロシア・ウクライナ戦争は「第2次」というような様相になり、そこから丸2年が過ぎて3年目に入った。収束は未だ見えない。そういう様子であるからこそ、色々な本を読んで、学ぶ、知る、考えるというようなことは続けるべきなのであろう。本書は好い材料だと思う。

『日本の経済政策-「失われた30年」をいかに克服するか』

↓専門的な知見を基礎にしながら、広い読者層に説くという「新書らしさ」に溢れた一冊だと思う。興味深く読了した。

日本の経済政策-「失われた30年」をいかに克服するか (中公新書 2786)



↑経済学の研究者、大学教員も務める著者が説く日本経済の30年程の経過ということになるのであろうが、「そこに留まり切らない」というような興味深さが在り、色々と示唆に富んでいるように思った。

本書の題名を見た時に思った。嘗て「失われた10年」という言い方が在った。やがて「10年」が「20年」になり、そのうちに「30年」になっていた。30年間に何が如何なっていたのか?何が変わって、何が変わらないのか?そういうようなことを考えてみる材料を求めて本書を手にしたという感だ。

個人的なことを申し上げれば、「30年」というのは概ね、自身の大学生の時期から社会人というようになって現在に至る迄の期間と重なり合う。最早、キャリアの形成を云々するよりも、その終焉を真面目に考えるべきなのかもしれない年代に差し掛かってしまっているのかもしれない。それだからこそ「自身の人生の大半とも重なる時期が何だったのか?」を考える機会を設けてみる、考える機会という程ではなくとも、考える材料を得たいという程度には思う。

本書では1990年代頃の「“バブル”の後」の様子に関する話題から起こる。そして2000年代頃のリーマンショックのような事柄への流れ、2010年代頃の行き詰ったような感から極最近迄と、30年程度の流れが、様々な研究での論議を交えながら詳しく説かれている。

そうした或る意味で、「経済学研究の経過も交えた経済の歴史」という要素が濃いのだが、それに留まらない「考え方の御提案」というような要素も入り込んでいると思う。

一般に数年程度を論じる将来傾向を予測する議論に関して、何十年間を顧慮して検討する在り方が在っても好いかもしれないというような話しが在った。更に、現在の時点での利点や問題点を論じ合うに留まらず、少し遠い将来に在る人達の目線を想定して考え、論じ合うような視点が好い結果をもたらすかもしれないというような論が在った。

本書に関して、実は“感染症”の問題の故に当初の構想よりも登場が遅れたそうだ。加えて、そういう展開の故に「考え方の御提案」というような要素が増えた感でもあるのだという。著者は“感染症”の問題に際しての諸政策を巡って、経済関係の専門家として対策を練る会議に参加することになり、本書に関する作業時間を割き悪くなったということだった。

“感染症”の対応そのものには医学、微生物学、薬学というような自然科学の知見が必要である。が、例えば「無症状の感染者という人達が動き廻るような様子を如何する?」というようなことになると、社会政策であり、経済活動を安全に行えるようにする政策ということになって行く。(具体的には「検査」を広く手軽に行える体制を素早く構築することが求められたものの、その実現に酷く時間を要して混乱したという経過が見受けられた。)

こうした「専門」と「専門以外の諸要素への問題の拡がり」という問題意識が本書の末尾の方に示されている。「専門」と「専門以外の諸要素への問題の拡がり」というようなことに関しては、1990年代末近くの金融機関の経営が傾いて、どの程度、如何やって救済を図らなければならないのかというような議論でも見受けられた視点かもしれないともしている。

本書の中、凄く刺さったのは「人的劣化」という指摘である。所謂“非正規雇用”が拡がり過ぎ、労働力の質的向上へ向けた動きが鈍ってしまっている、人々の収入が伸びない様子の度が過ぎるような様子になってしまい、社会の活力が損なわれてしまっているというような論だ。考えてみれば、2000年代以降に「人様の仕事を買い叩く?」かのような様子になって行って、それが進行して現在に至り、改善が在ったようにも見えない様子かもしれない。

「失われた30年」と言うが、「30年」は余りにも長いように思える。それでも更にこういう様子が続くのか、または違う様子になって行くのかは全く判らない。が、何れにしても本書のような材料に触れることは必要であるような気はする。そういう意味で本書は御薦めだ。

『飯田線ものがたり:川村カネトがつないだレールに乗って』

↓大変に興味深く読了した。

飯田線ものがたり: 川村カネトがつないだレールに乗って



↑愛知県豊橋市から北上し、浜松市天竜区を抜けて長野県の南側に至る飯田線という鉄道路線が在る。この開通に向けて尽力した人物、その事績、そして沿線の紀行という内容である。地元に縁が在る2人の著者による共著である。

本書を手にした切っ掛けは、旭川で<川村カ子トアイヌ記念館>を訪ねたことであった。嘗て「近文コタン」と呼ばれた地区に在るアイヌの資料を展示する施設で、1916(大正5)年に起こっているが、そこを他界した父から受け継いで発展させたという川村カ子ト(かわむら かねと)の名が館名に冠せられている。館内にはこの川村カ子トに関する紹介も在った。

「近文コタン」と呼ばれた地区に住むことになったアイヌだが、永く受継がれた伝統に則った暮らし方が否定され、割り当てられた農地での農業も直ぐに捗々しい成果が挙がるのでもない中、川村カ子トは就職することに決めた。子どもの頃に観て驚き、憧れるようになった鉄道に纏わる仕事を志し、鉄道建設に関係する測量の仕事に就く。各地で経験と実績を積み上げながら方々で活動しているが、現在の飯田線の一部である三信鉄道の難工事を成功に導く活躍は知られているのだそうだ。

<川村カ子トアイヌ記念館>でそういうような川村カ子トを紹介する展示に触れ、その事績等をもう少し知りたいと思った時に本書に出会ったのだった。そして手にして紐解いたのだが、素晴らしい出会いということになったと思う。

飯田線という鉄道路線は4つの民間会社による鉄道路線が国有化され、やがて戦後の国鉄の路線になり、国鉄民営化でJRの路線となったのである。豊川鉄道、鳳来寺鉄道、伊那電気鉄道と在って、これらを結び付ける天竜峡と三河川合との間が三信鉄道なのだが、この三信鉄道の区間がトンネルや橋が連続するような建設が困難な区間で、建設に向けた測量も大変なことであった。因みに三信鉄道の「三信」は「三河国と信濃国とを結ぶ」という意味合いなのだそうだ。

そういう困難に立ち向かった川村カ子トの事績は沿線の街で伝えられているようだが、その物語の絵本が在り、物語の進行の中で合唱が披露されるというスタイルの演劇―合唱劇―も在るのだそうだ。本書の著者達は、その合唱劇の公演を催すべく活動し、その副産物として本書を上梓するに至ったということである。

絵本や合唱劇の中、「川村カ子ト」は専ら「カネト」と呼ばれる。そこで著者達は親しみと敬意とを込めて、本書の中で専ら「カネト」というように彼の名を記している。

本書は大きく2つの部分から成る。前半部で1人、後半部で1人と、2人による共著という体裁になっている。

前半部は合唱劇の公演に向けた活動、「川村カ子ト」を知ろうと旭川を訪ねる等した経過、三信鉄道の仕事に懸命に取組んだ「カネト」の様子、そして嘗ての三信鉄道、現在の飯田線の一部を訪ねるというエッセイである。

前半部は、著者が郷土に所縁の人物に出会う、または気付いて、その事績を色々な形で明らかにしようとしながら活動する様子が生き生きと綴られているように感じ、頁を繰る手が停め難くなっていた。

後半部は、読み易い紀行文だ。大変な難工事を経て1937(昭和12)年に下内の飯田線は全通しているが、この飯田線の列車で各駅を訪ねてみれば如何いう様子になっているのかという、実際に訪ねた経過から綴るエッセイを集めた内容となっている。

後半部は凄く夢中になった。豊橋(愛知県)と辰野(長野県)との間で列車を乗り通すだけでも6時間以上を要する。故に少し長い期間に亘って、様々な形で列車を利用して沿線の駅を訪ね、そして綴っている。非常に「臨場感」が溢れる内容である。「居合わせた方の経験談に耳を傾ける」というような感覚で、ドンドン読み進めた。

結局、「縁が在る地域」という思い入れが在る著者達が「伝えたい!」という「熱い想い」を込めて綴っている一冊で、非常に面白い内容になっていると思う。こういうような感じでの、著者なりの思い入れに依拠した視点も交えて所縁の地域の話題を綴ろうというような内容は面白いと思う。

実を言えば、飯田線の沿線は個人的には知らない。訪ねていない、通り過ぎてもいない場所だ。飯田線の駅でもある豊橋駅で列車を乗換えるようなことを何回かしたと思うが、それも東海道線を普通列車、快速列車で移動している流れでのことで、豊橋の街も然程歩き廻ってはいない。そういう「縁薄い地域」であっても、本書を読んで強い興味も抱くようになった。旭川の<川村カ子トアイヌ記念館>に関連した「カネト」こと「川村カ子ト」を介して、縁薄い飯田線の沿線を知るというようなことになった訳だ。

色々な偶然で愉しい話題の一冊に出会ったが、こういう出会いには感謝すべきなのだと強く思う。本書は広く御薦めしたい一冊だ。

『ウクライナ戦争の正体』

↓大変に興味深く、素早く読了した。

ウクライナ戦争の正体



↑こういうような本は、専門書的な空気感も在るのだが、それでも専門的な知見を活かしながら、広く一般向けに難しい問題を少しでも理解し、考える材料をを提供してくれる。なかなかの労作でもあると思った。

ウクライナでの戦争は、“侵攻”という局面に入って激化してしまってからだけでも2年も経ち、戦禍によって非常に多くのモノが損なわれている状況が非常に哀しいと思う。そういう様子が続くからこそ、少しでも多くのことを知り、学びながら考えたいというようにも思っている。故に関連の書籍を眼に留めれば手にして読んでみることも在る。

様々な事情について、断片的に、不規則に色々と伝わり、何が如何なっているのか、全容またはそれに近いあらましも見え悪いのがウクライナの情況ではあると思う。それでもそういうモノを或る程度整理しながら考えることは出来る。

本書は、そういような考察に関して、「軍事行動の歴史」というような背景知識、古今の軍事行動の経過から考察されて受継がれる知見も交えながら「ウクライナで起こっている情況?」を考えようという内容である。

多少漠然とした、個人的な感じ方ではある。ハッキリ言えば、ウクライナでの情況について、「戦争」という話しではありながら、戦場の出来事を総合的に論じることを試行したような論には余り出会えなかったというような気がしている。何か「願望?」に近いかもしれないような話し、少し「イデオロギー?」という雰囲気も薄らと漂うような話題が目立ったかもしれない。そうした中、本書は「軍事史」の知見を背景に織り込みながら、総合的に情況を論じようとしているように思う。

国力が圧倒的に大きいとされるロシアがウクライナに侵攻している。そういう局面の当初は、然程の時日を要さずに制圧されるかとも想像されたが、初期の行動意図が挫かれて戦いが長引き始めた。その辺りが「判らない?」というように感じられるが、それが本書を読むと「判る?」というような感じになる。

侵攻当初の様子に関しては「かなり楽観的な情報」に基いて行動の計画が立てられていて、悉くそれが巧く行かなかったというようなことが伝わっていて、本書にもそういう言及は在る。が、それに限らない。本書で示される「モデリング」というモノが、少し驚くべきことを教えてくれる。

「モデリング」というのは、戦いに投じられる戦力を便宜的に数値化して、両陣営がぶつかる様を考察するというモノだ。単純に人員や装備(車輌や火砲等)等の数を挙げるだけに留まらず、それらが力を発揮し易いか否かの情況分析によって、数字が可変するとして考えるのである。

ロシアとウクライナの両陣営に関して、侵攻当初からの様々な戦いについてその「モデリング」を試みれば、例えば「士気が低いロシア」(力が減少する要素)に対して「士気が高いウクライナ」(力が増加する要素)というような事情も相俟って、その力に「両国の“国力”の差」程の差異は無いかもしれないというのである。「攻める側」と「護る側」との「モデリング」のように数値化した力の差が「3対1」というような程度になると、「攻める側」が「護る側」を圧倒する可能性が高いのだそうだ。「2対1」や「1.5対1」というような次元では、「攻める側」が「護る側」を突き破り切れない場合が酷く増えるそうだ。ロシアとウクライナとの両陣営の関係は、多くの場面で「2対1」以下の差になっていると見受けられるというのだ。

こうした「モデリング」というような手法で考えてみることの他に、伝えられる事象から「“戦い方”に起こった変化?」というようなことも考察している。

ドローンの支援によって、砲撃の精度が高まって威力が絶大になったことから、陣地線というような戦い方が起こった経過が出ている。また、2000年代にソ連時代よりも小さな単位の部隊を機動的に展開する戦い方を志向したロシアで、その方式を巧く実行出来ずに損失を重ねて取返しが利き難くなってしまった経過が出ている。正しく、戦いの「正体」という話しが本書では説かれているのだ。

こういうようなことに加えて、権威主義的なロシアの政治体制のもたらしているモノ等、様々な話題が在る本書だ。そして、よく観れば「何を目指して来た?」がブレているようにも見えるロシアに対し、「奪われた領土の奪還を図りながら侵攻を跳ね除け、追い出した勢力が再侵攻に及び悪いようにする」という辺りがブレないウクライナという図式にも本書では注目している。

本書の末尾近くに言及が在る。2年程度で収束しない戦争の多くは、10年というような次元で続いてしまう場合も多いのだそうだ。気持が曇る話しである。ウクライナでの戦争が、直ぐに終わりそうな要素は確かに無い。が、流血を重ねるばかりでは社会が破壊されて不幸になるばかりであるというのも真実であるようにも思う。少しでも早い収束を願うばかりだ。

既に世界の国々が巻き込まれてしまっている戦争でもあるかもしれない。関心を寄せ続け、色々な知識を得るようにはし続けるべきであるように思う。そうした関心に本書は応えてくれる。

『ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化』

↓新書としてはかなり分厚いのだが、ドンドン読み進められる。興味深い内容で、頁を繰る手が停められなくなる。

ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化 (集英社新書)



↑連載が修了し、物語の最後迄が単行本化もされている、好評な漫画作品『ゴールデンカムイ』をタネに、作中世界で取上げられているアイヌ文化に纏わる話題等を供する本である。同じ著者による「前著」で言及していることと一部は重複するが、それを避けても「こんなにも多くの話題」ということで驚く面も在る。

本書は「前著」以上に、アイヌの一年の暮らしというような事柄や、独自な精神文化を背景にしていると考えられる社会の中での人々の所作や、何かの言い方というような事柄への言及が多い。それらは非常に興味深く、『ゴールデンカムイ』という漫画の描写等を例として示すことで内容が判り易くもなっている。

更に、『ゴールデンカムイ』の物語でも作中人物達が樺太へ渡り、色々な因縁が明らかになり、様々な人達との交流等が生じているというのだが、本書でも「樺太アイヌや他の諸民族、更にサハリンに在ったロシア人」というようなことに関連する事項について、各々の事項に詳しい方達のコラムが掲載され、著者がコメントも加えている。それらの内容が秀逸である。「樺太アイヌや他の諸民族、更にサハリンに在ったロシア人」というようなことは、実は余り知られていないと思う。『ゴールデンカムイ』という漫画をヒントにしながら、余り知られていないことを紹介する形になっているのは非常に好いと思う。

広い範囲でアイヌは活動していたが、人口密度は低い。それ故に「方言」というようなモノが色々と在るのだという。更に樺太と北海道となると、身近な単語というレベルで差異も生じているようで、本書にはそういう説明も在った。そういう様子でも、或る程度広い範囲で往来し、交易等をしていたのがアイヌである。

自身は『ゴールデンカムイ』に関しては、今年になって実写映画を愉しく観たという関わり方であり、作品に通じているという程ではない。が、それでもその漫画を話しの入口や材料にしながら、北海道や樺太のアイヌ等に関して語られている本書の内容は凄く興味深い。

『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』

↓大変に愉しく読了した。

アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」 (集英社新書)



↑本書は2019年に登場している。「好評連載中」であった漫画『ゴールデンカムイ』を踏まえ、アイヌ文化に纏わる話題を提起し、作中の関係の描写等を少し出して少し踏み込んで話題を展開する訳である。その手法が面白い。

正直、自身は漫画『ゴールデンカムイ』を読んではいない。最近公開の実写映画を大変に愉しく観た。そこで作中の時代や、出て来る様々な文物に興味が湧いて、新たに『ゴールデンカムイ』に題材を求めたアイヌ文化等の話題の本が出ると知った時、「同じ著者による“前著”」を押さえようとした訳だ。そういう思い付きで、こちらも読んでみて正解であったと思う。

本書は、アイヌの言う「カムイ」という概念に関して詳しく、非常に勉強になった。

アイヌは自然と共生することを意図していたとされるが、必ずしもそれに留まらないということが本書で説かれている。アイヌは身近な様々なモノに魂のようなモノが在って、それらと共に在ることを意図していたようだ。偉大な自然に留まらず、家屋や、家の中等で使う様々な道具や、その他様々なモノに魂が在って、その存在を時に意図する訳である。

そしてアイヌは、自給自足ということに留まらず、酔いすることが可能なモノを多く用意して、それを利用した交易を行うことを旨とするような生き方をしようとしていたという。

或いは厳しい自然の中で生きることを代々受け継いだアイヌは、「自ずと合理的な考え方を持ち、それを実践しようとしていた」というようにも見える。

本書には、小樽の博物館の館長による、日露戦争の少し後の時期の小樽に関するコラムが在る。それが凄く面白いということを挙げておきたい。『ゴールデンカムイ』の物語のような、「謎の埋蔵金を探す」というような得体が知れない者達が集まっても不自然ではないかもしれないような雰囲気も在ったのが当時の小樽だったという。

なかなかに興味深いので御薦めしたい一冊だ。

『オホーツク核要塞 歴史と衛星画像で読み解くロシアの極東軍事戦略』

↓大変に興味深く読了した一冊である。

オホーツク核要塞 歴史と衛星画像で読み解くロシアの極東軍事戦略 (朝日新書)



↑「新書」というのは、少し特殊な内容も含めて、専門的な研究を踏まえた知見を一般向けに説くような内容を含むモノが多いと思う。本書はそういう「新書」が有する「らしさ」を色濃く備えていると思う。

ロシア等の軍事に纏わる研究を手掛けているという著者なので、「ロシア軍に纏わる内容?」とは思いながら、本書の題名を視て少し首を傾げた。「オホーツク核要塞」なる表現は、正直なところ耳目に触れ易いというのでもないのだと思う。

「要塞」とでも聞けば、「難攻不落の堅固で大きな城」のようなモノを思い浮かべる。他、何やら禍々しい武装で敵対勢力の行動を阻む存在というような様子を思う。さもなければ、「要塞」という語を比喩的に用いて何事かを表現しようというようなことなのかもしれない。が、本書を読む限り、「要塞」というのが「兵力展開をする場合の概念」というようなモノに冠した呼び方というような感じであると解せる。

ロシアの海軍は、非常に大きな原子力潜水艦を保有している。それらの艦にはミサイルが搭載されている。ミサイルが大きいので、ロシア海軍の潜水艦はサイズが大きくなったのだそうだ。これらの艦は2万トン台や3万トン台というような話しも在るので、日本国内で150台以上のトラックを積んで航行している大きなフェリー(1万3千トン台から1万5千トン台程度。北海道内であれば、苫小牧港や小樽港で見掛ける、本州方面の港を結んでいるかなり大きく見える船が該当する。)よりも更に大きなモノが潜航するということになる。

ミサイルを搭載した潜水艦は、簡単に所在を掴めない海中を航行し続け(原子力艦の場合、原理原則としては無限に動き回り続けられるが、乗員は交代が必要なので定期的に母港に帰還はする)、何時でもミサイルを敵対する陣営が擁する様々な目標に撃ち込むことが可能である。そうした能力が「存在感」を発揮して、諸国間の様々な関係性や軍事行動に影響を及ぼすというような訳である。

そういうミサイルを搭載した原子力潜水艦に関して、ロシア海軍は「要塞」と呼ぶべき、各種施設が辺りに配置され、様々な兵器も配置されている、少し攻められ難いような海域、侵入する敵対勢力を排除することも十分に可能と見受けられる海域を中心に展開している。そういう「要塞」というような概念の場所に在るミサイルを搭載した原子力潜水艦が、「存在感」を発揮する訳だ。その「要塞」の一つが「オホーツク海」なのだという。そして潜水艦に搭載のミサイルには核弾頭も備えられる。そこで「オホーツク核要塞」という本書の題名の用語が登場する訳だ。

本書を読み進めると、ソ連海軍、更にロシア海軍の太平洋艦隊というモノが辿った主に第2次大戦後の経過、核兵器の登場と発達、そうした中での潜水艦に搭載される核弾頭を備えたミサイルの経過、その運用の変遷が判る。艦や兵装に関する技術発展の経過と、それに伴う戦術や戦略の変化というようなことも語られる。ロシア海軍の歴史であり、ロシア海軍の潜水艦と兵装の歴史という感だ。本書の「あとがき」に、著者は歴史を得意としているのでもないというような言も在るのだが。

第2次大戦後のソ連海軍の、更に最近30年程のソ連海軍を後継したロシア海軍の経過が本書に詳しいが、なかなかに興味深い。ことに太平洋艦隊に非常に詳しいと思う。太平洋艦隊は、沿岸部や航路の安全を護る存在だったが、潜水艦の発展でもっと戦略的な、重大な役目を担っていく。ミサイルの射程が延びるに連れ、潜水艦から発射するそれで敵対勢力の様々な目標を狙い撃ちという役目が重視される。1960年代頃に起こって発展し、1980年代に絶頂期を迎えるのだが、ソ連の破綻で1990年代以降は様子が変わる。混乱し、困窮し、1980年代に在ったような姿からは退潮してしまう。そこを何とか抜け出し、2010年代に持ち直して再建が図られて2020年代に入っているという訳だ。

そういう様子を概観しながら、最近の潜水艦の運用状況を推定するような試みが為され、合わせてロシア・ウクライナ戦争も進展中という中での「軍事」という問題の種々の論点も挙げられている。大変に重要なことであると思う。本書に在る話題の多くは、より広く、より多くの人達が知っていても好いと思われる話題だ。それが供されている本書は価値が高い。御薦めだ!

『母、アンナ: ロシアの真実を暴いたジャーナリストの情熱と人生』

↓大変に興味深い内容で、頁を繰る手が停められなくなった。平易で読み易いことも手伝い、素早く読了に至っている。

母、アンナ: ロシアの真実を暴いたジャーナリストの情熱と人生



↑少し知られている、ロシアのジャーナリストに関するエッセイということになる。

「ポリトコフスカヤ」という著者名に「えっ?」というように反応した。

アンナ・ポリトコフスカヤという人物…当局の意向を忖度するのでもなく、様々な事象に関する論評を綴ったことで知られた女性ジャーナリストだ。殊にチェチェンの問題では、モスクワと現地とを何度となく往来し、様々な人達への聴き取り取材を丁寧に続け、詳しい調査報道で問題を提起し続けたことが知られる。国内で寄稿していた新聞で色々と発表していた他、欧州諸国等で著作が上梓されている経過も在った。かなり著名であったアンナ・ポリトコフスカヤである。

彼女は2006年10月7日、自宅アパートの入口辺りで5発もの銃弾を撃ち込まれて、銃弾を発射した拳銃が倒れた遺体の脇に置かれていたという、「殺し屋の仕業」というような様子で殺害されてしまった。事件の真相は、未だに十二分に究明されたとは言い悪い様子である。

このアンナ・ポリトコフスカヤの娘が、本書のメインの筆者ということになるヴェーラ・ポリトコフスカヤだ。

本書は、所謂「ペレストロイカ」による「自由」がもたらされるような時期にジャーナリスト活動を本格化させ、ソ連の終焉からロシアの経過というモノを見詰めたアンナ・ポリトコフスカヤの活動と私生活とを“娘”の目線で語ろうとしている内容である。加えて、ヴェーラ・ポリトコフスカヤ自身の人生、最近の出来事と考え方等も示されている。

ロシアの方が主に綴っている訳で、原文はロシア語なのだと思うのだが、本書は「イタリア語の本の翻訳」である。と言うのも、本書が登場する切っ掛けはサーラ・ジュディッチェというイタリアの女性ジャーナリストが設けたモノで、原著がイタリアで登場したという経過の故である。

2022年2月のウクライナでの戦争が激化した後の動きを取材する中、サーラ・ジュディッチェは「チェチェンの時に非常に多くの人の話しを聴いて、詳しい調査報道を送り出したアンナ・ポリトコフスカヤが在れば、今般のウクライナに関して何を如何伝えるのだろう?」というようなことに思い至ったのだそうだ。そして殺害されてしまったアンナ・ポリトコフスカヤの娘が存ることに思い至り、接触を図って本書の企画が実現したそうだ。

ヴェーラ・ポリトコフスカヤは、2022年にロシア国外へ出た。彼女の母と同じアンナと名付けた娘が在る。母が逝去した頃は妊娠中で、その少し後に産れ、ティーンエージャーになっている。殺害された祖母と同じ名の娘は、ウクライナの事態を受けた社会の様子の変化の中で、脅迫という犯罪と言って差し支えないような“いじめ”に晒され、娘を護ろうと考えたヴェーラ・ポリトコフスカヤは娘を連れて国外へ出ることを選択した。(場所は明示していない…)

ヴェーラ・ポリトコフスカヤは音楽家を志してヴァイオリンを学んでいたのだが、音楽ではなくジャーナリズムの路に身を投じた。そして放送作家として報道系番組の制作に携わっていた。娘の件で悩むようになる前に、既にテレビの報道系番組の制作に少し「詰まった」というモノを感じていたようだ。そこでその仕事も棄てて国外へ出た経過だと解することが出来る。

本書は「或る家族の肖像」というような風情も在る。殊に「家族の目線で観た著名ジャーナリスト」とアンナ・ポリトコフスカヤの様が詳しく描かれている。そういう様子の他方、「“自由”が歪んで行ったのかもしれない社会」ということが告発されているのかもしれない。

他界してしまう数年前のアンナ・ポリトコフスカヤは、「モスクワの錯乱者」というように揶揄的に呼ばれ、同業者からも浮いてしまうような面も在ったという。それでも真摯な仕事を続け、一定以上の経緯も払われていたが。色々と揶揄されるようなことが在って、何方かと言えば不利益も被っていたかもしれない。そういうのは、もしかするとロシアに限ったことでもないかもしれない。が、毒を盛られたとしか思えないような様子が生じる、拳銃で殺害されるというのは、流石に異様な様子ということになるかもしれない。

「迂闊にモノが言えない」という様子?例えば、何人かで集まってプラカードを掲げるジェスチャーをすると警察署に連行されるらしい。何を如何とでも解釈可能なようなルールの下に、直ぐに高額な罰金、何日も拘束、何年にも及ぶ禁錮というようなことになってしまう。

色々な要素が盛り込まれた本書だが、ウクライナの戦争に関する観方についても「或いはこうである」が色々と挙げられている。その件に関心を寄せているので、非常に興味深かった。本書でも指摘されているが、「ウクライナに在るロシア語話者等の権利を護る」という主旨の“特定軍事行動”とされていながら、ロシア語話者が多く住んでいた地域で激戦となって安寧が奪われ、方々で破壊が行われて生命が擦り減らされていて、多くの人が避難する他無い、または何となく戦況が膠着した中で暮らすのが現状だと思われる。

何かの発言を続ける者に対して、毒を盛る、銃弾を撃ち込むということは極端に過ぎるかもしれない。が、「ブレずに何かを訴える」ということの尊さに、少しは想いを巡らせるべきであるように思う。偶々出会ったが、尊い一冊だ。

『いっとかなあかん店 京都』

関西では、例えば「大阪の好い場所…神戸の好い場所…」と挙げて「では京都?」と問うような、3大都市を並べて論じるような感覚が少し強いのかもしれない。「三都」というような言い方になるであろうか。こういうのは、関東、東海、北陸、東北、中国、四国、九州、北海道というような国内他地域では余り聞かないような気がする。

大阪、神戸、京都と並び称するにしても、色々な統計をみれば大阪が酷く抜きん出ているような気もするのだが、神戸や京都には何か非常に大きな存在感が在るように思える。それと同時に、大阪・神戸、大阪・京都というような都市間の交通がかなり便利で、日常的に各都市間を往来している人達も非常に多いように見受けられる。そうなると、例えば「街の東側の好い場所に対して、西側や南側は?」に近い感覚で「大阪の好い場所に対して、神戸では?京都では?」という話しになるような「三都」という感覚が育まれたのかもしれない。

↓そういう「三都」ということの故に企画が持ち上がったのかもしれない。先行した『いっとかなあかん店 大阪』や『いっとかなあかん神戸』に対し、「それでは京都?」と登場した本書であるという。

いっとかなあかん店 京都



↑本書については、紐解き始めると頁を繰る手が全然停められなくなった。

先行した『いっとかなあかん店 大阪』や『いっとかなあかん神戸』は、神戸在住で大阪で活動している方が綴っている。本書は京都在住で、京都で色々な活動に従事しているという方で、雑誌記事等を綴り続けているという方が綴っている。

本書も先行している大阪や神戸の本に準じて、筆者が利用して気に入っている飲食店というような話題が入っている。が、本書に所収のエッセイは、文字どおりに「酒が好きな京都の住人による、人生や想い出に関するエッセイ」である。本を一瞥して「グルメガイド」というようにも見えるのだが、話題の入口にした御店そのものに関することは、比率として少な目な篇が多数派であったと思う。それ故にこそ、何か凄く面白い読み物に出会ったと夢中になったのだ。

これは『いっとかなあかん店 大阪』や『いっとかなあかん神戸』にも共通だが、「来訪者が“消費”する飲食」ということでもない、「街に在る或る人の人生の一場面が繰り広げられる場」という感じで、本書の中に取上げられた御店に言及が在るという様子だ。

京都には何度も御邪魔している。が、本書で取上げられている御店が在る辺りを歩き廻ったような経過は在っても、御店そのものには立寄ったことが無い。そこで「本書を契機に寄ってみる」ということを思わないでもないのだが、同時に「本書に在る御店は小説の作中に登場している、作中人物達が食事を摂るか、酒を飲む場」というような感覚、「現実に出くわすか否か判り悪い場所」というような感覚も抱いてしまう。

本当に「人生と酒と」というようなエッセイとして、その舞台たる京都の街の筆者が愛する様々な御店という感じの一冊だ。本書に在る御店等を探して訪ねるという程でもなく、「そういうような場所もそう言えば在った…」という程度に記憶に留め、夕方の街をふらりと歩き廻ってみたいといような気分になる。読後の好い余韻が在る一冊だ。

『いっとかなあかん店 大阪』

↓頁を繰る手が停められなくなり、素早く読了に至った一冊である。

いっとかなあかん店 大阪



↑一見して「グルメガイド」ではあるのだが、それに止まらない「気に入った御店を話題の入口に、食文化全般、街や人生を語るエッセイ」という様子になっていて、非常に興味深い。

偶々読んだエッセイを契機に『いっとかなあかん神戸』という本を読めば、それが「シリーズ第2作」というようなモノで、「第1作」として『いっとかなあかん店 大阪』が在ることを知った。それであれば読んでみたいと思った訳だ。

本書の筆者は「神戸に住んでいて大阪で活動」という方である。大阪で活動する中、色々な場所に立寄っていて、同時にそういう年月を重ねて方々の様子の変化も見詰めている。そういう中での溢れる想いのようなモノが綴られているのが本書である。

ハッキリ申し上げれば、何度も立寄った大阪で、本書に挙げられているような御店に御邪魔したようなことも無い。敢えて有名な場所を探すようなこともしていないからであるからかもしれない。本書に挙がっている御店そのものではなく、「多分、ここに挙がっている御店の支店か何かだろう…」という場所に訪ねた記憶が在る例は散見した。

発信密度や頻度が高まっている「グルメ情報」というようなモノを恃みに、色々と探し回るというのでもなく、「日頃の暮らしの中」で出くわすような場所という基準で、立寄って気に入った、そして何度も寄っているような場所を取上げている。そしてそういう気に入った場所の関係者に御願いして、出版向けの“取材”という体にして色々と綴って纏めているのが本書だと思う。読んでいて非常に面白いのは、御店そのもののことに留まらない、扱われている料理等の経過に関することや、そういう料理を論じてみようかとするような場合に思うことや、立地している地域や携わっている人達に纏わること等、広く深い話題が溢れている。そしって最初から「ごっつぉ」(御馳走)という程でもないが、結果的に「ごっつぉ」という存在感を放つモノに関すること等、実に興味深い話しが溢れる。

大阪という街も長い経過の中でドンドン変わっている。長く親しまれた繁盛していた御店も、色々な事情で何時の間にか姿を消しているという例も目立つという。そういう様子であるからこそ、「見逃さずに訪ねておくべき」というのが、題名の「いっとかなあかん」なのだと思う。本書の中の「街的」というような言い方、日常の動きの中で出くわす様々な好いモノ、佳いと思えるモノが連なっている様子、そして訊けば永い興味深い経過が在るというような様子が興味深いということが語られていた。何処の如何いう街でも、そういうモノが大切にされるべきなのであろう。更に、例えば「美味い鮨屋」というようなモノは、極めて主観的な何かなのであって、簡単にデータ化し得ないというような主旨のエッセイも在ったが、そういう内容には強い共感を覚えた。

本書は初登場から少し時間が経って「3刷」ということだ。名前が出た御店が残念ながら閉店している例も散見するので、その旨は書き記すというようなことは行われているようだ。が、御店を挙げて紹介する「グルメガイド」に留まらない、「食文化全般、街や人生を語るエッセイ」となっている本書は凄く愉しい。広く御薦めしたい。

『いっとかなあかん神戸』

↓紐解き始めると、頁を繰る手が停められなくなる。「続きは後刻…」という程度に本を離すタイミングを逸してしまうような勢いで一気に読了してしまった。

いっとかなあかん神戸




飛行機に乗ると“機内誌”というようなモノが、座席の辺りのポケットに「安全のしおり」というようなモノと一緒に入っていて、随意に読めるようになっている。当該航空会社の使用機材や運航路線の紹介等が在る他、当該航空会社の便を利用して訪ねられる地域の紹介や、その他にも色々な話題が入っている。

1月に神戸空港・新千歳空港のフライトを利用した際、その“機内誌”を眺めていた。神戸に関するエッセイが在り、南京町の話題が入っていた。南京町にも立寄った後なので興味深く拝読した。そして筆者の著書ということで、本書『いっとかなあかん神戸』を知り、入手してみたのだった。

筆者は大阪で活動しているのだが、神戸に住んでいて、神戸でも色々な場所に立寄り、街の変遷を見詰め続けている。そういう目線で神戸に関して綴っている。

「いっとかなあかん」として、様々な飲食店を挙げてはいる。一見「グルメガイド」であるのだが、「〇〇が美味しい」というような簡単な一言と店舗の住所等の情報が挙がっているような感じではない。或る御店の物語、立地している近隣の様子、訪ねてみての出会い等、もっと文字数の多いエッセイが多々連ねられている一冊である。

神戸に関しては、長く培われたモノが在って、1980年代後半辺りのバブル経済の関係で少し様子が変わったようなことも在ったが、1995年の震災で大被害を受けて更に様子が変わったという経過が在る。そうした状況の故に、永年親しんでいたような場所が「何時の間にか?」という例も少なくないのだという。そうした複雑な想いの中、本書が登場した2017年頃の状況下、「ここは訪ねる価値が在ると思う」=「いっとかなあかん」を取上げているのだ。

各エッセイは、或る御店を訪ねてみるというような内容が核にはなっているが、それだけでもなくそのエリアに関する事や、提供される料理一般に関する経過というような事柄等、「店」に留まらない「神戸」の談義である。

自身、何度も神戸には立寄っているが、有名な飲食店を探して訪ねるようなことはしていない。そういう意味で、寧ろ地元の人達が親しんでいるような場所を取上げて、エリアに関する事を語るように店を取上げている本書は悉くが興味深かった。

“機内誌”で読んだエッセイの筆者による本として興味を持って、そして出会った一冊だが、出会って善かったと思う。

『戦争語彙集』

↓紐解き始めてみて、頁を繰る手を停めることが出来なくなってしまった。強く惹かれてドンドン読み進んだ。或いは、ウクライナ関係のモノということでは「こういうモノこそ読みたかった」というような気もしている。

戦争語彙集



↑ウクライナの詩人でエッセイストでもあり、様々な活動をしているオスタップ・スリヴィンスキーの作品を、米国出身で、日本で活動する日本文学研究者で大学教員でもあるロバート・キャンベルが翻訳し、併せてロバート・キャンベルがウクライナを訪ねての経験を題材とするエッセイが収録されている。「2部構成」のようでもあるが、完成形になった作品を前半に示しながら、それが登場する迄の経過が関連する挿話を綴ったモノが後半に在るという、「両者で1つ」というように自身は理解した。

オスタップ・スリヴィンスキーは主にウクライナ西部のリヴィウで活動している。ロシア・ウクライナ戦争が始まり、戦禍を逃れようとする人達がリヴィウに集まる中、その人達を支援する活動に携わるのだが、そうした中で聴いた多くの話しを記憶に留めて、掌篇として書き綴り続けた。話しのキーワードを綴った篇の題名とした。そしてその各篇の題名を辞書の要領で、アルファベット順に並べる形で発表した。題して『戦争語彙集』である。全体で77篇在る。何れも1ページ、2ページというような次元の、正しく掌篇である。

ロバート・キャンベルはこの作品に惹かれ、翻訳して日本で紹介することを思い立ち、準備に取り掛かった。ネットでの通信でオスタップ・スリヴィンスキーと遣り取りをし、ウクライナを訪ねて御本人や、他の様々な人達に会うという計画もした。そして英語版を基に日本語翻訳を起こし、ウクライナ語・ウクライナ文学の研究者の助力を得て、ウクライナ語原版と対照する検討も加え、本書の前半の部分は完成したという。

日本語訳された各篇は「ランダムに並んでいる?」というように見えるが、全て原版のウクライナ語の辞書の要領(=アルファベット順)で並べたモノをそのまま写している。各ページにはウクライナ語で篇の題名に用いられた単語が示されている。

「戦争の語彙」とでも聞けば、所謂“軍事関係”な用語が多く出て来るのかと思わないでもない。が、本作『戦争語彙集』はそういうことではない。示される語彙は、一般的に誰でも使うような日常の語である。それらが「戦争」という様子の中で人々から発せられる時、そうした普通の語彙に「如何いう意味が込められる?」というようなこと、その語彙のキーワードで「何が語られる?」というようなことが主眼だ。

ゆっくりとこの作品の部分を読んだ上で、ロバート・キャンベルによるウクライナ訪問のエッセイを読んだ。

このエッセイの部分では、オスタップ・スリヴィンスキーが『戦争語彙集』を綴るに至った経過、その活動での心象の変遷というようなことが詳しく語られる。更に、オスタップ・スリヴィンスキーに綴るべき話しを提供した人達の話しも在る。

深く考えさせられたのは“沈黙”ということや、戦禍の中での文化や芸術の意味というようなことだった。

本当に疲れ果てて、言葉を発する気力も失うような中での“沈黙”というモノに、戦禍を潜り抜けた人達は包まれてしまう場合が在る。戦禍は文化活動のようなモノを吹き飛ばす、或いは塗潰すという面を持っているかもしれない。が、それでも表現する、それを観るというようなこと、何かを読んで考えて語らうようなことという文化活動は人には求められるのかもしれない。そういう話題の提起が在って考えさせられた。

そして大学教員でもあるロバート・キャンベルは、リヴィウ大学関係者と連絡を取って、大学で学生や教員への講演を行い、質疑応答や意見交換が為された。加えて『戦争語彙集』を事前課題として参加者に読んで頂き、それを題材とした対話も行っている。このリヴィウ大学関係の部分は興味深く読んだ。或いは「語彙」ということになるのかもしれないが、「平和」という語に対し「それは“勝利”に替えるべきだ」という意見が参加者から在った。こういう現在の事態に関する幾つも在る観方の一環が少し直截的に伝わった。

正直、2022年2月に事態が動いた時の連日のような情報発信に比べ、最近はウクライナの事態に関して少し静かになっているようには思う。が、当時の「とりあえずロシア非難」というような言説が喧伝されていて、何が如何なっているのか静かに観て考えようということを排撃するかのような調子よりは好いかもしれない。現場はウクライナで、ロシア側は「特定軍事行動」と称しているが、如何いうように観ても「大規模な軍事侵攻」で、それに抗う戦闘行為が発生すれば、そういうのは「戦争」と呼ぶ他に無い。戦争になれば、最も困るのは現地に在る普通の人達である筈だ。それでも「とりあえずロシア非難」というような言説が喧伝されていたような頃、ウクライナの人々の苦境を思いやるようなことを軽視するかのような感さえ否定出来ず、個人的には不快感を禁じ得なかった。過去の経過の故に、個人的な次元では縁者が両国に散って在る例も多く、事態に複雑な想いを抱いている人達も非常に多いというようにも思う。そして「非難!」と拳を突き上げるだけでは、事態の収拾を目指すこともし悪いようにも思う。

こういうような考えを持っているので、「人々に寄り添う」というようにして話しを聴いて掌篇を綴ったという本作は強く惹かれる。本作の原版が登場した時点で、2022年2月から1年半程度であった。もう直ぐ2年で、何処迄、如何続くのか、如何幕引きが為されるのか判り悪い状況ではある。そうなれば、更に「人々の話し」は出て来るであろう。オスタップ・スリヴィンスキーはそれらを更に綴り続けるという意向のようではある。興味深い反面、戦禍の少しでも早い幕引きを願うので、何時までもこの「語彙集」が綴られ続ける状況というのも考え物ではあろう。が、戦禍の幕引きの中での「語彙」というモノもまた在り得るかもしれない。

ウクライナの事態に少しでも関心が在るのであれば、本作は是非読むべきだと思う。非常に貴重な一冊だと思う。

『夜行列車盛衰史』

↓出先の書店で眼に留めて入手した一冊だった。紐解き始めると凄く興味深く、素早く読了に至った。

夜行列車盛衰史: ブルートレインから歴史を彩った名列車まで (1046;1046) (平凡社新書 1046)



↑「夜行列車」を切り口に、古い時期からの、日本国内での鉄道の盛衰を論じるような内容になっている。或いは鉄道による旅客輸送という切り口で語る、日本社会の変遷という性質を帯びる内容かもしれない。興味深い。

現在の時点で「夜行列車」とでも言うと、或る程度高い年代の人達が「昔、〇〇というのが在って…」、「〇〇というのも懐かしいな…」というような調子で何となく話題にする場合が在る、「郷愁が沸き起こるような旧い何か」という程度に聞こえるかもしれない。と言うのも、現在では「夜行列車」という存在、始発から終着迄の運行時間が長く、夜に出発して日付を跨いで翌早朝以降に到着というような運行の列車で、駅の窓口等で普通に乗車券等を求められるのは、日本中で<サンライズ瀬戸/出雲>という例が在るばかりであるからだ。そういうことなので「夜行列車」というモノを、利用経験と共に記憶に留めている方が、日を追って、年を追って少数派になっているように思える。

自身は、色々と「夜行列車」に乗車してみた想い出も多く在る。<サンライズ瀬戸/出雲>という、現在では唯一の存在になってしまっている列車にも乗車してみた経過は在る。そういうことなので、本書を偶々見掛けた時に「これは読まなければならない」と思ったのだ。

「夜行列車」は、鉄道が延伸され、始発から終着迄の距離が伸びて、運転時間が長くなる中で少しずつ登場し、拡がった。日露戦争後の1906年に主要な鉄道路線の国有化ということが在るが、この時期の以前の段階で「夜行列車」は登場していた。そして主要駅間を日付を跨いで運行する様々な列車が現れた。

夜間に列車を運行するとなれば、客車内の照明に関する工夫が必要となる他、夜間に快適に過ごすための寝台車というようなサービスも登場し発展する。加えて、乗車時間が長くなることから食事を摂るというようなサービスも食堂車のようなモノで供するようになる。本書では、そうした車輌の発達に関する経過、技術発展に関する事も取上げられている。また列車編成の長さや、牽引する機関車に関すること等の話題も在って興味深い。

戦時中や戦後暫くの間に列車による旅客輸送が発展し悪かった経過は在るが、1950年代から1970年代位には随分とサービスが拡がった。そして1980年代に入り、「JR化」の経過と「夜行列車」が退潮してしまう動きが在る。

「夜行列車」が退潮してしまう動きが見受けられた時期に関して本書で話題になっているが、それらの一部には自身でも乗車した経過が在って、色々と様子を思い出していた。

こうした相対的に新しい時期に限らず、古い時代に関しても、一部に運行されている列車の様子を思い浮かべることが出来るような描写の節が幾つか在り、読んでいて愉しかった。

更に本書は、「車中で夜を明かす」という列車は、殆どが“クルーズトレイン”ということになってしまっている、昨今の事情に至る迄を網羅している。

少し前、東京の新宿に在る大きなバスターミナルから夜行の都市間バスに乗車してみたことが在った。様子を観ていれば、5分毎というような詰まった感覚で、西へ東へと様々な場所を目指す夜行の都市間バスが続々と出発していた。「夜行の乗物で都市間の移動をしたい人達」が「こんなにも多く居る?!」と少し驚いた。が、普通の「夜行列車」は壊滅的に姿を消してしまっているのだ。「何か、解らない…」と強く感じたのだった。

この「夜行列車」を切り口に、入りろな意味での鉄道や社会の変遷を語る本書は興味深い。広く御薦めしたい。

『雪の刻』

↓少し興味を覚えて入手した。本格的な写真集を手にしたのも久し振りである。

雪の刻



↑正しく「展覧会に立寄って展示作品を観る」という感覚で写真集の頁を繰り、巻末の作家(写真家)のコメントを拝読した。写真は何度も拝見したが、気に入った画は何度も随時観るようになりそうだ。

新潟県の豪雪地帯に何年間も通い、積雪期の他にそれ以外の時季にも滞在して撮影を続けた画から択んだ作品集が本書ということになる。

自身は、人生の殆どを「積雪寒冷地」という範疇に入る場所で過ごしていると思う。そういうことをしていると、「1年の時間」について「雪が関わる、またはその可能性が在る時季」と「雪と無関係な時季」という程度に二分して理解し、それに加えて「〇〇が在る」という程度に理解するようになっているような気がする。「春夏秋冬」というのが、何となく「冬とそれ以外」というように感じてしまっているのかもしれない。殊に稚内のような地域では、春は「寒さの残滓」というようなモノがしつこく、夏は「暑い!」と文句を言う場面こそ在るが、他地域よりも涼しいため、「冬」が「それ以外」に比べて圧倒的に際立つのだ。

そういうようなことが思い浮かんだのは、この写真集の『雪の刻』という題に関して「The Time ruled by Snow」という英訳題が付されていたからだ。「雪が律する時間」という程の意味になる。「これだ!」と手を打ったのだった。

「積雪寒冷地」と総括的に言ってはいるが、その範疇に入る場所に関しては、場所毎に様相は異なる。本作に掲載の新潟県の「最大の積雪量と見受けられる豪雪地域」というような様相は、個人的には観た記憶が殆ど無い。それ故に、本作で見受けられた、一部の雪が融けて「山の断面の地層?」という様子になっている積雪というような画は只管に驚いた。

そういう誰が観ても驚くような様子に加えて、「冬とそれ以外」の「それ以外」に関する画が面白い。「こういう様子が一変する?」と、「画の中に無いモノ」をより強く意識してしまう。そして地元の人々と見受けられるポートレートが少し入っている。色々な人々と共に在る地域ということを表現しているのであろう。

聞けば作家(写真家)は、雪が全く降らないというのでもないながら、「積雪寒冷地」という範疇ではない地域の御出身であるという。が、興味を覚えたテーマに関する撮影活動をすべく、本作の画が在る地域へ通い、「雪が律する時間」に気付いて、それを表現し、観る人々に伝えるという境地に至ったのだと思う。

今後も、そうやって「とりあえず足を運んで、現場を見詰め続けてみる」ということで作品を創り続けようということであろう。今般はこの作品に出会って善かったと思う。

「写真作品を観る」となると、ネットに掲載された画を観る、雑誌のようなモノで偶々観るというのが多い。次いで何処かで展示されているモノを通り掛りに観るという感じか?写真集のようなモノを手にするというのは個人的には必ずしも多くは無い。が、「モノ」として「本」が眼前に在る、それを手にして頁を繰りながら画を観る、作家(写真家)のコメントを読むという営為は、何か名状し難いがよい感じだ。これからは、この種の写真集にも目を向けたい感だ。

『戦国武将伝 東日本編』

↓素早く読了に至ったという感だ。

戦国武将伝 東日本編



↑23篇の短篇が収められた1冊である。

本書は「東日本編」だが、自身は既に読了した「西日本編」と対を成している。「対」というよりも、「1つの纏まりを便宜的に分冊」という理解がより妥当かもしれない。『戦国武将×四十七都道府県』と銘打って雑誌連載に供した47篇を書籍化するということで、都道府県別に「東」と「西」とで各々1冊にしたということである。

この「東日本編」は、岐阜県以東の1都1道21県に纏わる「戦国武将」を取上げた篇が収められている。東海地方、北陸地方、関東地方、東北地方に加えて北海道という各地域に所縁の人物達が取上げられている。

各作品が各々に個性的である。目次には作品題、取上げる人物、都道府県名が挙がる。ここで挙がった名の人物がそのまま視点人物になっている作品も在れば、その限りでないモノも交る。少し興味深い。

限られた紙幅、雑誌連載時のページ数、文字数の制約という中で綴られた作品であるが、凄く知名度の高い人物も、些か失礼ながら「これは?誰?」と問いたくなってしまう人物も同列に取上げられている。

知名度が高い人物に関しては「意外な一面?」、「或いは秘密が在った?」というような筋書きが目立つように思う。対して、知名度が高くない人物に関しては、「こんな場所、こんな時期に、こういう人物が在った!?」と少し驚くような内容も在ったと思う。

「23/47」を読了したので、これまでの「24/47」と合わせて「47/47」になった。47の都道府県に纏わる人達に関する“事典”というのとも異なると思う。そして各篇で取上げられる人物は「〇〇県と言えばXXXX」という程度に高い知名度の人物が選ばれているということでもないような気がする。或いは「文学を綴る際の興趣」で、取上げる人物を絞ったのだと想像する。それでも物凄く知名度の高い人物が登場はしているが、それはその有名な人物こそ「文学を綴る際の興趣」が深いということなのだと思う。

これは少し愉しいので御薦めしたい。他方、「2巡目」で更に47篇登場するというような場合も在るのだろうか、と余計なことも考えてしまう感だ。