『笑え、シャイロック』

↓頁を繰る手が停められなくなり、素早く読了に至った小説である。

笑え、シャイロック (角川文庫)



↑主要視点人物が様々な危難を潜り抜ける中で“事件”の真相が明かされて行くという物語だ。

主要視点人物となるのは大銀行である「帝都第一銀行」に勤める若者、結城真悟である。物語は彼の目線で綴られる。

結城は大学を卒業して銀行に勤め始めて3年である。新宿支店へ異動ということになったが、それまでの営業部ではなく渉外部という部署であった。渉外部というのは債権回収を主要な役目としていて、銀行の部内では地味で「日陰」と目されている面も在る。結城は「日陰」への異動に落胆するが、新しい部署での仕事に取組むことになる。

異動後の初日、女性の部長である樫山に挨拶をした後、早速一緒に仕事を始めた課長代理の山賀は渉外部では少し知られた人物であった。シェイクスピア劇に登場する、苛烈な取立をする金貸しに擬えた「シャイロック」という綽名迄在り、不良化してしまうような債権を様々な手段を駆使して回収していた。

結城は、当初は「日陰」な部署への異動に落胆し、一緒に仕事をする山賀の言うことに面喰っていたが、次第に山賀の哲学に触れ、その硬軟様々な手段を駆使した柔軟な考え方での事案の解決に触れる中で、仕事に前向きになっていた。そんな或る日、普段のように山賀がオフィスに現れないことを訝しみ始めたところ、樫山部長が血相を変えて飛び込んで来た。山賀が急逝したのだという。それも新宿公園で遺体が発見され、殺害されてしまったと見受けられる様子なのだという。新宿署の刑事が捜査を始めていて、一緒に仕事をしていた人達の話しを聴きたいと訪ねて来たというのである。

こういう訳で、結城は新宿署の諏訪刑事と接点が生じる。山賀の件で、結城は諏訪と遣り取りをすることになって行く。他方、山賀が担当として手掛けていた事案について、結城はすべて引き継ぐのだとした。渉外部で高い実績を挙げ続けた山賀は、色々な意味合いで、何やら難しいと見受けられる事案を幾つも引き受けていた。結城はそれを引き継ぎ、債権回収の活動をすることになる。

色々な意味で複雑な事案を、山賀のことを思いながら、結城は次々と解決しようとして行く。その辺りは「世の中の様々な部分」が見え隠れして興味深い。その他方で、山賀の件に関して謎が解き明かされて行く。

本作中、危難を潜り抜ける結城の傍らに学生時代から交際しているという女性が在るのだが、この人物の「応援」という様子も何か好い感じだ。結城は、こういう存在が在って難しい状況を乗り越えられていたのかもしれない。他、結城が事案を巡って出会う様々な人達が登場するが、何れもなかなかに面白い。

何処かで「責任逃れ」が組織的に為され、社会の色々なモノが損なわれるようなことになってしまっていないだろうかという問題提起のようなモノも込められた、危難を潜り抜ける筋と、それに関連する事件の謎を解くという、「一粒で何度も美味しい」というような物語になっている。実に愉しい。

『アマテラスの正体』

↓「神話」をも内包するような「古代史」を考えてみようという内容で、大変に興味深い一冊だった。

アマテラスの正体 (新潮新書 1056)



↑天照大神(あまてらすおおかみ)と言えば、伊勢神宮に祀られていて、「皇室祖神」ということになっている。その成立に纏わる様々なことを、考古学によって得られた識見も交えて、或いは『古事記』や『日本書紀』を丁寧に読み解いてみるようなことをしながら考えるというのが本書の内容である。

『古事記』や『日本書紀』の内容では、御伽噺めいている感さえ否めない「神話」が大きな部分を占めているように見受けられる。そして『日本書紀』には初代の神武天皇以降の歴代天皇の事績などが綴られているが、これにしても「流石にそこまで長生きはしない?」というような歴代天皇が続々と出て来て、何が如何なっているのか、実は少し判らない。

この『日本書紀』の編纂に関しては藤原氏が非常に深く関与していたとされ、「藤原氏以外の有力氏族に纏わる事績が目立たないように」という意図で、史実に色々と混ぜ合わせる、順番を入れ替えるようなことをして、かなり「創り込んだ」というように言えるというのが本書の内容なのだと思う。

宮崎県には「神武天皇が東征に出た湊」と伝わる場所が在って、そこから船で東に進んで、奈良県の現在では橿原神宮になっている場所辺りで即位して初代天皇になったということになっている。が、著者は寧ろ「逆」で、皇室に連なる王権が確立して行く中で、朝鮮半島や大陸との往来の際に優位な九州北部が制圧された経過が在って、北部九州の貴顕というような人達が九州南部に逃れ、そうした人達が後から王権の側に迎え入れられるようなことが在った可能性を指摘している。

皇室に連なる王権が確立して行く中、各地の勢力が連合して行ったというように見受けられるのだという。瀬戸内海側の勢力、山陰地方や北陸の勢力、そして東海地方の勢力等で、それらが大和国等の辺りを中心に集まったらしい。

瀬戸内海側、山陰、東海と方々の人達が移動した痕跡を「考古学」は発見している。或る場所で見受けられるモノが、別の場所で発見されている例が多々在るらしい。が、東海地域に関しては、東海地域で見受けられるモノが他所で見受けられる例が在る他方、他地域のモノが東海地域で見受けられる例が殆ど無いのだそうだ。そういう意味で、東海地域の勢力は大胆に方々へ進出していたと見做されるべきかもしれない。そして王権が確立して行く中で様々な事が在り、それが例えば天照大神(あまてらすおおかみ)を祀るということのような、後の時代の祭祀にも影響をもたらした可能性が高いというのだ。

「神話」を大胆に解題し、謎に満ちた古代史の鮮やかな姿に想いを巡らせる内容は大変に興味深い。漫然と思う以上に、地方間の交流のようなモノが在って、そういう中で古代世界が動き、「神話」のタネになる様々な出来事が在ったのかもしれない。

なかなかに愉しめた一冊であった。広く御薦めしたい。

『愉快なる地図-台湾・樺太・パリへ』

本を読んでいると、作家や作品への言及が在る場合が多々見受けられる。そういう記述を読んで、作品に関心を覚えて読んでみるという場合も在るように思う。

↓他作品で言及が在った樺太への紀行が収録されていると知り、入手して読んでみた文庫であった。なかなかに興味深い一冊であった。

愉快なる地図-台湾・樺太・パリへ (中公文庫 は 54-4)



↑1930年の台湾、満州、1931年から1932年の欧州、1934年の樺太、1936年の北京と様々な形で発表された紀行が収められている。瑞々しい感性や自由を愛する気概を持った女性が奔放に何処へでも出掛けて行くという様子、その中での思索というような事柄が綴られた本書である。

表紙にトランクを沢山抱えた女性のイラストが在る。これは欧州を目指した旅のイメージなのだと思う。作中、4つのトランクを持参した旨の描写が在った。(序に、4つ持つのではなく、凄く大きいのを1つにして、小物を入れる鞄を持つ程度の方が動き易かったかもしれないというような話しも在った。)そして本書は、文庫本として紀行関係の文章を集めて編んだということらしい。本書の下敷きになる単行本化何かが在るのでも無いようだ。そこは如何でも構わないと思う。多数の作品を精力的に発表し続けた著者の、伝わっている作品を択んで集めて本にするというのは、それ自体が意義深いことなのだとも思う。

本書を手にしようとした契機となった樺太への紀行を最初に読み、以降は最初から順に読んだ。結局、様々な媒体に順次発表した文章が集められているので、余り順序を気にせずに読むことが出来る。一応の内容的纏まりとなっている中、例えば欧州を目指す旅に関する部分では、順次色々な所を通り抜けて目指したパリに到る時系列で文章が積上げられているので、その順を追う方が判り易い。が、そういうことでもないのであれば、眼に留まった順に読めば善いと思う。方々の雑誌のような媒体に発表された記事という形の文章を集めている訳である。実際、自身は本書を手にした切っ掛けの樺太紀行を最初に読み、以下順次読み進めて何ら支障は無かった訳である。

少し驚かされるのは、1930年代前半、昭和の初めの方というような時期、こうした文章が公にされる媒体が色々と在ったことが示唆され、そういう場で活躍する著者のような人達が多く在ったということで、何か凄く「豊かな文化」というような様子を想うのだ。そして欧州辺りへ空路という現在の様子とは異なるが、シベリア鉄道を利用する旅、船旅がなかなかに充実しているようにも見えるということだ。欧州に限らず、台湾、中国大陸、樺太と、何となく思う以上に旅客輸送の色々な事柄が整備されていることに気付かされる。更に言えば、殊にシベリア鉄道での移動の場面等は、かなり時代を下っても雰囲気は変わらないであろうと思う場面が多々在った。そういう辺りに驚きながら本書を読み進めた。

欧州旅行に関しては、下関から釜山へ船で渡り、朝鮮、満州を経てシベリア鉄道に入り、モスクワを経てポーランドやドイツを経由してフランスに着いているようだ。この時代、経路としては敦賀からウラジオストクへ渡る形も在ったらしいが、著者が択んだ経路もよく知られていたようだ。そしてこの経路での旅の感じが活き活きと伝わる文章なのだが、或いはなかなかに貴重であるようにも思った。

樺太を訪ねる紀行で、当時の稚内の様子が描かれる。未だ屋蓋式防波堤(現在の北防波堤ドーム)が竣工する前の時期である。少し冴えない港町という風情が描かれている。樺太への連絡拠点として伸びている最中の感じだ。やがて辿り着く樺太だが、少し複雑な想いを抱かざるを得なかった場面も在ったようではあるものの、新興の街であった敷香に好感を抱くようになったようだ。凄く率直に、何にでも「素」の状態で向き合い、思ったことを綴っているという感じが好い。

こういうく率直に、何にでも「素」の状態で向き合い、思ったことを綴っているという感じは本書の各篇に共通している。何やらロシア語が飛び交っているハルビンの様子から、パリやロンドン迄、何処でも一緒だ。欧州からの帰路、船が寄港したナポリに著者は立寄っている。その中で、ボンベイの遺跡見物よりも、生きているナポリの街を歩いてみたいとしている。結局、この辺りなのだと思う。動いて、辿り着いた場所で、そこに在るモノ、そこに暮らす人々を観たい、それらに触れたい、そして感じたことを綴って伝えたいというのが著者の「在り方」なのであろう。

非常に愉しく、時間と空間を超え、1930年代の世界の旅を疑似体験出来るような内容の一冊だ。広く御薦めしたい。

『世界史の中の戦国大名』

↓なかなかに興味深く読了した一冊だ。「知られているようで、知られていないかもしれない?」という要素、「少し新しい観方?」を盛り込んでいる歴史関係の話題を纏めた本だと思う。

世界史の中の戦国大名 (講談社現代新書 2723)



↑本書では15世紀から16世紀の「戦国」という様相になっている中での様々な動き、そして17世紀に入って様々な動きが如何いうようになって行ったかという辺りに関して、見受けられた事象や伝えられている様々な事柄、人物等を取上げて論じている。非常に興味深い。

「国内での動向を追う歴史」と「各国史が束ねられた世界史」というようなモノが在って、そこから零れてしまっているような何かが、実は色々と在るのかもしれない。実は過日も、欧州の地域に纏わるそういう視点が入り込んだ論を読んだのだった。本書もそういう傾向を少し帯びている。

「国内での動向を追う歴史」ということで日本の歴史を観ると、所謂「中央の権威の変遷」というようなことになるのであろう。が、所謂「戦国時代」は「中央の権威」が曖昧化し、やがてそれが再度確立されようとして行った経過が在った時期で、そんな時期に「各々の場所から各々に考えて“外”を観る」という動きも在った。言わば「境界地域」というようなモノの動きなのだと思う。それが本書の題名でもある『世界史の中の戦国大名』というような話しになるのだと思う。

「戦国時代」という様相になってはいたが、室町幕府は存続していて、一定の権威や権限は有していた。大陸の明との貿易を独占的に行うことが出来る権利となる「勘合」は、室町幕府が独占していて、有力者にそれを利用させるというような性質だった。これに関して、将軍を輩出する系譜が分裂して争うような様相になって行った中で、「こちらの陣営に与するのなら“勘合”を」と「将軍の権威や権限で認めることも出来る巨大な利権」という様相になって、人々の中で飛び交うような感じになって行った。そして方々の大名が貿易に乗り出す、既に参入していた大名が更に力を入れるというようになって行くのである。

やがて方々の大名は、室町幕府の権威等とは余り関係無い様子で、独自に自分達の地域の視座で、自分達なりの思惑で国外と独自に交流をするようになる。そして交流相手に認識される大きな存在感も放つようになって行く。国外での記録に、地方領主たる大名が“国王”であるかのように取り上げられる例も見受けられるようになって行く訳だ。

所謂「戦国時代」は、軍事行動とそれを支える経済活動との時代かもしれない。が、各地の大名が自分達の地域の視座で、自分達なりの思惑で活動することを志向し、それが実現した時代だったという要素が凄く大きいのかもしれない。そんな文脈で国外と独自に交流という例さえ現れた。後の豊臣政権や徳川幕府は、外交迄も展開してしまう地方の大名を抑え込んで、外交を中央の権威による専権事項として掌握しようとした面が在る。それが徳川幕府の所謂「鎖国」という様子となる。

「国内での動向を追う歴史」である“日本史”や、「各国史が束ねられた世界史」というようなモノの「隙間」に在るのが、本書で論じられている各地の大名等の動きということなのかもしれない。そして「戦国時代」だが、これは軍事行動や経済活動の展開という中で、寧ろ「権威の相対化」が進んで、「相対化した権威の下での独特な展開が発展」というような要素が重要なのかもしれない。

「知られているようで、知られていないかもしれない?」という「戦国時代」の様相、言葉を換えると「少し新しい視点」を示唆している本書は、非常に興味深い。また、もっと単純に、日本国内の或る地域で代表的な立場に在った人達のことが、遠い国の記録に堂々と残っているという辺りに浪漫を感じる。大変に興味深い本書を広く御薦めしたい。

『サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する』

「こういう本が在る」と知った時、特段に関心を示さない場合も在れば、強い関心を示す場合も在る。強い関心を示し、本を手にした後、直ぐに紐解き始めない場合も在れば、直ぐに紐解く場合も在る。

「強い関心を示す」ということになって、「直ぐに紐解く」ということをしたとなれば「縁が強い一冊」ということになるのだと思うが、頁を繰る手が停め悪くなって、素早く読了に至ったということにもなると「大切な一冊」ということになるかもしれない。

↓本書はその「大切な一冊」ということになったかもしれない。

サガレン 樺太/サハリン 境界を旅する (角川文庫)



↑本との出会いについては「単なる偶然」という場合も多いと思うのだが、そういう「偶然」に「強く感謝しなければなるまい」と思う場合が在ると思う。本書は正しくそういう存在になった。

本書について、「女性のノンフィクション作家がサハリンを2回訪ねて綴った本」と聞いた。期待したとおりの部分、期待したとおりでもない部分、期待を大きく超えた部分と様々な要素が織り交じり、夢中になったのである。

結局、先人達の旅を想いながら、現地も観て思索を巡らせるということになると思う。2017年11月の旅は夜行列車でノグリキを往復することが核となっているが、1934年に樺太(サハリン)に入っている林芙美子が綴った事柄等に想いを巡らせている。加えて鉄道関係の興味というような要素も在る。2018年9月の旅は、1923年の宮沢賢治の足跡を追う、加えて樺太(サハリン)を訪ねた中で綴った詩等を引きながらかなり詳しく様々なことを綴っている。本書の題名の「サガレン」は少し古めなサハリンの呼び方であるが、宮沢賢治が用いた語であるという。本書の基礎となったのは雑誌連載ということなのだが、連載題名が「サガレン紀行」であったそうだ。

著者は方々を取材旅行や私事旅行で訪れて種々の作品を綴っているということだが、ロシアに縁が深い、縁が深いでもないが何度も訪ねているということでもないようであることが冒頭部で判る。初めてのサハリンだということだが、そういう「初めて訪ねて如何?」が掘り下げられることを少し期待したが、その辺はアッサリとしていた。本書は「今、この時の旅」というよりも「時空を超えて思索する」という要素が色濃いというように思った。

林芙美子は行商に携わった母親の下で育ち、少女期から随分と旅をしていたそうだ。縁者が在るでもない東京に出て様々な仕事も経験したという。その林芙美子は作家として名を成してからも色々な旅をしていた。樺太に関しても詳しく綴られているそうだが、著者はその林芙美子が綴った樺太の旅に纏わるモノを、長い夜行列車の旅の道中に徒然を紛らわせるべく持ち込んで読み、記述されている様々な文物や出会った人達や、林芙美子御本人の身に起こった出来事や、道中で計画を変更したらしい経過等を色々と考察しているのである。

夜行列車で辿り着いたノグリキに関する事柄は、期待していたような「初めて訪ねた方による紀行」という感だ。自身はサハリンは何度となく訪れていたが、ノグリキを訪ねる機会は設けられていなかった。それ故に興味津々だった。

後半、というよりも6割以上を占めているように見受けられるのだが、宮沢賢治を巡る部分は「非常に深い宮沢賢治の文学に纏わる論考」という様子だと思った。教員であった宮沢賢治は、教え子達の就職を巡って大泊(現在のサハリンのコルサコフ)に在った企業を訪ねるべく旅をした。が、御本人の心境としては、前年に他界してしまった妹に纏わる想いを整理するかのような旅となっていた。鬱々とした、別れの際に渦巻いた想いが消化し切れないという様子が色濃く滲む詩を綴りながらの旅であったが、樺太に上陸してから「妹の魂が向かって、辿り着いたであろう浄土」のイメージを得たかのような様子も伺えるという。

更にその後半部では、かの『サハリン島』のチェーホフや、チェーホフも『サハリン島』の註等で言及した農学者ミツーリにも話題が及ぶ。この辺りも更に掘り下げる余地が在ると思うが、本書では1870年頃のミツーリ、1890年のチェーホフ、1923年の宮沢賢治が栄浜(現在のスタロドゥプスコエ)周辺で、概ね同じ場所を歩いているようだという話題が面白かった。

サハリンは色々な事柄の境界という様相を呈しているのかもしれない。先人達が綴ったモノを手掛かりに考えると、「魂」というようなモノの境界でさえあったかもしれない。大変に興味深い。

本書は単行本化され、それが文庫化されていて、自身はその文庫を手にした、文庫には文庫版独自の著者による後書が付されている。本作の後、著者は2019年8月に3度目のサハリン訪問を敢行したそうだ。

本作で取上げた林芙美子の紀行文に、パンを売っていたポーランド人が登場する。その同一人物が、林芙美子と殆ど同時期にサハリンを訪ねたポーランド人が綴った文章にも登場するのだという。そのポーランド人は、流刑で入ったサハリンでアイヌの研究を進めたというピウスツキについて調査をしていたのだという。第1次大戦後の独立ポーランドの指導者であった人物の実兄としても知られる。そのピウスツキは地元の女性と暮らし、子どもも設けたのだが、諸般の事情で彼らを残してサハリンを離れて、後にパリで客死してしまっていた。林芙美子と同じポーランド人に出会ったという人物は、そのピウスツキと暮らしたアイヌの女性や子どもについて調べようとしていたのだという。そういうことで、著者はピウスツキに纏わる話題を掘り下げようと考えていたようだ。ところが2020年からは感染症の問題で国外との往来が実質的に禁じられたようになり、2022年以降は事情でロシア渡航が困難になってしまい、サハリン取材は何時になったら出来るのか、見通しが立たなくなってしまったと在った。

勝手に思うのだが、著者のサハリン取材ももっと回が重ねられると、「今、この時の旅」という内容も増えるかもしれない。如何なって行くのか判らないのだが。また、チェーホフの足跡というようなことであれば、ノグリキへ向かう列車の途中駅であるティモフスコエからバスで訪ねるアレクサンドロフスク・サハリンスキーが面白いと思う。帝政期や、ロシア革命後の日本軍による「保障占領」という時期のイメージが拡がることであろう。本書にも「保障占領」に関連の話題は在った。

「旅」に関しては、恐らく旅人の数だけその姿が在る筈だ。「今、この時の旅」も、「時空を超えて思索する旅」も、その他に様々なモノが在るのであろう。本書に触れてそんなことも思った。

何れにしても色々な意味で興味深い力作だ。御薦めしたい。

『チョウセンアサガオの咲く夏』

↓短篇集である。文字どおりの「短い篇」で、短い作品が11篇収まった一冊で、各篇を順次読んでいると何時の間にか読了に至るという感だ。

チョウセンアサガオの咲く夏 (角川文庫)



↑何作品か読んでいる作者による短篇は、一味違うような感じで興味深かった。

各作品は、何処か「怖い…」という要素を含む篇、少し古い時代を背景にしたヒューマンドラマ、何かの企画と見受けられる笑いを誘うようなモノと実に多彩だった。そして、少し知られているシリーズで主人公を補佐している人物のサイドストーリーというような篇も在るのだが、これはなかなかのヒューマンドラマであると思った。

少し古い時代を背景にしたヒューマンドラマには「瞽女」(ごぜ)が登場する篇が2つ在った。盲目または視力が弱い女性が、三味線を奏でて歌うということをして各地を巡っているのだという。そういう人達自体の、またそういう人達と接した人の物語で、少し引き込まれた。

何処か「怖い…」という要素を含む篇等に関しては、特段の事前情報の無いままに、そのまま読んで愉しむべきであろうから、ここで内容には言及しない。何となく、作者は「猫が好き?」というようには思ったのだが。

少し知られているシリーズで主人公を補佐している人物のサイドストーリーというような篇である。これは検事が主役のシリーズに登場する検察事務官が主役になっているという篇だ。高校の恩師、柔道部の指導をしていた方が他界したということで告別式に出席し、柔道部時代のマネージャーや仲間と出くわし、夕食に出てみてという中での展開だ。なかなかに味わい深いと思った物語だ。

時にはこういう感じの短篇小説集を紐解いてみるのも好いかもしれない。

『匣の人 巡査部長・浦貴衣子の交番事件ファイル』

↓愉しく読了した小説だ。

匣の人 巡査部長・浦貴衣子の交番事件ファイル (光文社文庫 ま 30-1)



↑交番に勤務する警察官達の物語である。様々な出来事に向き合いながら日々の仕事に取組む交番勤務の警察官だが、思いも掛けない大きな事件に出くわしてしまう。そういう事件の解決に奔走する他方、様々な想いを抱く人達の人間模様が描かれるという物語で、なかなかに興味深い。夢中で読み進めた作品だ。

物語の舞台として「羽鳥西警察署地域課」の「栗谷交番」という場所が設定されている。明確に何処の県なのかは不詳で、架空の地名を使っている。作中で少し大きな事件ということになり「県警本部の捜査員」が出て来る。ということで「と或る県」という設定なのだと思う。県庁所在地の街以外の市を管轄する警察署の地域課で所管する交番という舞台設定だ。警察署が所管する街は然程大規模でもない感じで、交番が在るのは街の中心を少し外れた、住宅街と商業施設が少々在って、山林や農地も近くに在るというような場所である。何処にでも在りそうな地区という感じがする。

その「栗谷交番」に女性の巡査部長である浦貴衣子が在る。現場で最年長の巡査部長なので、彼女は栗谷交番の所謂「ハコ長」で、纏め役、管理者というような立場になる。そして交番に配置される若い署員の指導係というような役目も負う。この浦巡査部長が主要視点人物となって物語は展開する。

物語の冒頭、4月の或る日という挿話が在る。羽鳥西警察署地域課では、警察学校を卒業して配置された新人の歓迎会を催すということになっていた。浦貴衣子は会場の居酒屋に顔を出す。すると、新人の澤田里志巡査は「体調が悪い」と言い出し、来ないのだという話しになっていた。酒食を伴う職場の懇親会を煩わしいと感じたのかもしれないが、当日に急にキャンセルである。40歳代になっている浦貴衣子は、20歳代前半の澤田里志がやや判り悪いと感じた。そしてそのまま、集まった面々で過ごすということになった訳だ。

そこから話しは10月に飛ぶ。他の交番に在った澤田里志が、浦貴衣子の栗谷交番に配置され、一緒に活動するようになっていた。少しずつ澤田里志の来し方や人物も知りながら、浦貴衣子は彼を指導して一緒に活動した。

交番では様々な事柄が在る。認知症を患う老人が徘徊し、介護をしながら暮らしている60歳前の娘と連絡を取って対応するような場面も在る。各々の事情で来日して滞在中のアジア系外国人達が集住しているというアパートも在る。近所の人達や、頻繁に見掛ける郵便配達員と言葉を交わすというようなことも在る。辺りでひったくり事件というようなことになれば警戒の活動をする。巡回して管轄区域の住民に関して把握する活動も重要である。

そういう日々の中、浦貴衣子と澤田里志は、誰かが別荘として建てたという建物で、近県の会社が保養所ということで時々使うらしい建物の中に遺体が在るのを発見した。殺害されたと見受けられる状態であったため、殺人事件として署に本部が設けられて捜査が始まるのだ。

浦貴衣子は警察官になって交番勤務を経験した後、外事課や刑事課を経て、地域課に異動している。色々と経験が在るので、自身の交番の管轄区域で発生した事件の解決に協力したかったが、そういう事以上に「何とかしなければならない」という事情が生じた。澤田里志が街で知り合い、交流の在った人物が事件現場となった保養所に出入りしていたという経過が在ったらしく、澤田里志が事件の参考人に擬せられてしまったのだ。浦貴衣子は、偶々知り合って交流が在った人物が現場に出入りしていたらしいというだけのことで、澤田里志が妙な事をしていないことを明らかにしたいと思ったのだ。

こうして彼女が奔走するという物語である。

「何時でも訪ねて頂いて構わない」と街角に開かれている交番という場所である。様々な出来事が意外な繋がりを見せて行くという展開で、凄く引き込まれる。地域の安寧を地道に支える「匣」の物語が面白い。

一読者としては、「その後の浦貴衣子」、「その後の澤田里志」というのも気になる。様々な出来事が意外な繋がりを見せて行くという本筋も好いのだが、そこに織り込まれる、各々が40歳代、20歳代の2人の来し方や想いという人間ドラマが秀逸なのだ。愉しい作品なので、広く御薦めしたい。

『ロシアから見える世界 なぜプーチンを止められないのか』

↓自身は長くロシアを観て来たのだと思う。そういう意味でロシアへの関心は高い。昨今の様々な状況の中でも基本的に変わらない。そういうことで「ロシアウォッチ」というような内容の本が登場すると眼が向く。

ロシアから見える世界 なぜプーチンを止められないのか (朝日新書)



↑現今の様々な様子を取り上げながらロシア、そしてウクライナでの出来事に関係する事項や、ウクライナ以外の旧ソ連諸国との関係等、様々な話題が盛り込まれ、なかなかに興味深い内容で、頁を繰る手が停め悪くなり、素早く読了に至った。

本書の著者は、新聞社に在って長くロシア関連の事案を取材し続けている方である。現在でも関係の記事を綴っているということだが、そういうことを踏まえて纏めた本書であると思う。少しだけ余計なこと、個人的な感じ方だが、著者は自身より僅かに年長で、本書で少し言及が在る過去の時期に関することに関しては、自身の見聞とも少し重なる場合が在った。ソ連時代末期から「ロシア連邦」ということになって、現在に至る経過に関連する事柄である。そういう箇所は酷くよく感じが伝わった。更に、2020年頃からの感染症に纏わる事項も相俟って、それ以降の時期はロシアを訪ねて何かを観るということにもなり悪い。そういうことなので、当該の時期に報道機関関係者として現地に入って取材をした経過も交えて綴られている部分は貴重であるとも思った。

ロシアの様子は少し変わっている。何処の国や地域でも、外から観れば「変わっている」ということになるのだが。国のリーダーに関して、規定された任期を務めて終了という例や、明確に制限のようなモノが無い場合でも5年間程度務めると「歴代X位の長期」という話しになる例も方々で在る。ロシアは2000年にプーチン大統領が登場して以来、実質的に現在迄続けて国のリーダーという位置に留まって居る。数在る世界の国々で、こういう例は寧ろ少数派だ。例えば現在35歳前後の人達は、中学生位の頃からずうっとプーチン大統領の在る国という様子な訳だ。

プーチン大統領は、エリツィン政権時代の「ポストソ連」の混迷を整理整頓し、ロシアが前進することが適うようにしたと信じられ、それ故に圧倒的に高い人気を誇るという面が在った。が、何時の頃からか「地位に留まり続ける」ということが目的か何かのようになって、少し首を傾げたくなることを主張し続けている。本書はその辺りから入る。そういう辺りから入って、国際関係やウクライナ侵攻を巡る事柄等に関する豊富な話題を展開している。何れも非常に興味深い。

著者が2023年にキーウ(キエフ)を訪ねて取材を敢行した経過が終盤に在る。ウクライナでは「非ロシア化」が志向されているということが紹介されている。なかなかに興味深く読んだが、「そういうことに?」というようにも感じずには居られなかった。著者はロシア語を最も得意な外国語としている。日本の高校生相当年齢の若者達の話しを聴こうと、著者はロシア語で質問した。彼らにはその問いは通じる。が、若者達は英語で答えたという。外国人記者の前で話す、録音もしているようだとなると、「ロシア語は話さない方が」となるらしい。と言って、街ではロシア語が聞こえているようだ。「非ロシア化」ということで、「ロシア語は話さない方が」となるというのは、何か「妙な同調圧力」のように見えなくもないと思いながら、本書の該当部分を読んだ。

個人的には、この「非ロシア化」は2022年からの戦争で少し尖ったものの、実は2014年頃から少し目立つようになり、些かの息苦しい感じが国内に在ったのかもしれないと観ている。ウクライナはロシア革命、戦間期、第2次大戦という幾つもの出来事を経て、ソ連時代の動きを経て1991年に独立国となった頃の版図が出来上がった。色々な要素のモザイクであることは否定し悪い。それでも「〇〇という街に住んでいます。〇〇語話者です。ウクライナ国民です」という人達が肩を寄せ合うようになって来た。それはそれで、人々が心豊かに暮らせることを目指せば善い筈だ。「ウクライナ万歳!」を推し過ぎても、そういう場所の安寧は図り難いのだと思うが、色々な綱引きの中でそういうことになり、2014年の政変後に色々と面倒なことになっていったというようにも観る。

何れにしても「個人的にこう観る」に留まる、拘泥するのではなく、様々な観方を知る、知って考える材料にするということは重要だと思う。そういう意味で、本書は有益だった。

本書では、毀誉褒貶の振幅が凄く大きい元首相の活動の事も交えて日ロ関係、所謂「平和条約」に纏わる話題も大きく取り上げている。「平和条約」と言えば、外交関係修復、賠償問題、国境問題ということになる。外交関係修復と、賠償問題は一応決着で、国境問題が未解決なので日本側はロシア側に向けて「北方領土」の主張をしようとしている。対してロシアは「平和条約」をそういうモノとは違うように捉えていると見受けられるという。「幅広い善隣関係」を規定し、「敵対的政策を採らない約束」というように考えているらしい。こういうような「他所での観方」ということを考えるのは重要だ。

“主流”とされる考え方と少し違う“非主流”、“主流”に批判的な“反主流”というのが在り得るが、それらを排除する、場合によっては“非主流”、“反主流”という考え方で影響力が大きいかもしれないという人物を「害する」ということ迄しているのがプーチン政権かもしれない。本書に、言論を巡る問題等が詳しい。それを読んで少し思った。“非主流”、“反主流”という考え方で影響力が大きいかもしれないという人物を「害する」という極端なことは無いにしても、“非主流”、“反主流”という考え方を唱えようものなら「黙れ!」、「消えろ!」という調子、または「最初から居なかったことにしてくれる」と排除するというのは、実は何処にでも在るかもしれないというようにも個人的には思った。傍目に判り悪い感じの、超長期政権の独裁的指導者が在る国の妙な事象に留まらないかもしれない事柄だ。

色々な所で「分断」とでもいうような現象が起こってしまっているのかもしれない。それだからこそ、深刻な軍事衝突の解決というようなことも念頭に、周辺事項を学ぶべきなのだと考えている。凄く思うのは、最近はウクライナでの軍事行動で「余りにも多くの生命が失われ、余りにも多くの社会の大切な要素が損なわれている」ということである。そろそろ「取り返しが…」という様子になって来ているかもしれないとも感じ、気持ちが曇ってしまう。色々と知って、考えて、断じて「こういう問題が在る」ということを忘れてはなるまい。そうした意味でも、本書の内容は重要であろう。

『裏金国家』

↓興味深く読んだ。頁を繰る手が停め悪くなり、素早く読了に至った。

裏金国家 (朝日新書)



↑「判り悪い?」と思っていたことに関して踏み込んで解説するような感で、そこから更に踏み込んで色々と考えられることの話題を展開して纏めている。こういうような「考える材料」は必要なモノであると思う。

最近は、「裏金」という語が随分と耳目に触れたと思う。政治資金を巡り、政治家達が正当とは言い難い手法で不透明な資金を集めていて、課税される収入に見做されるモノを秘匿するような事迄していたようだというのが、最近耳目に触れた「裏金」という話題だった。が、著者はこの「裏金」というモノを少し押し拡げた観方を示している。政が私されるような様子が著しく進む中、妥当性に関して論議の余地が大きい政策が繰り返され、政府迄が正当とは言い難い手法で、後の時代に禍根を残しそうな様子で金を遣っているのだとする。国そのものが「裏金」に塗れて、何とかしなければならないような状態であることを知って考えるべきだとしているのである。

政が私されるような様子が著しく進み、近年の至っているが、その様子を著者は「2015年体制」と呼んでいる。“主流”とされる考え方と少し違う“非主流”、“主流”に批判的な“反主流”というのが在り得る。これらの中、“主流”だけを取上げるようになり、公安部門に在ったような警察官僚出身者を官邸で登用して要職に就け、政権への忖度ばかりが前面に出る体制を築き上げ、報道や学術界の自由な活動を妨げるようなことをして、「仲間内」ばかりを利するような、必ずしも妥当性が高いとも思えない経済政策を採り続け、他に大切な事が多々在る中で「裏金」的手法で防衛費を増やし続け、大切な事を国会ではなく閣議で決めてしまうというような様子で眼を覆いたくなるという論が本書では展開されている。そういうような様子が2015年頃から顕著になったとして、著者は「2015年体制」という用語を用いている。

何かの選挙で、「当選して何事かを為すという以上に、当選して地位に就くことが目的?」と感じさせる言辞を弄して、そういう雰囲気を醸し出す方達を見掛けないでもない気がする。本書では、そういう人達が余りに多く、幅を利かせ過ぎているとしている。個人的には、そういうことになると「有権者??」ということになってしまうような気もする。が、「裏金」というような手法迄在って、各地方が「仲間内」で固められ、外れると生きて行き悪いという様子迄作られてしまっていて、悪弊から抜けられないという論が本書では展開されている。

個人的には思う。少なくとも「公文書改竄」で思い詰めて自死に至った方が在った件の「落とし前」位はつけるべきではないだろうか?その件も本書では取上げられている。大切なことだ。

極最近、与野党で新たなリーダーが各々選任されたという様子である。新たなリーダー達の下で何か動きが在るのかもしれない。そんな時期であるが故に、本書で取上げられている話題は価値が高い。広く本書を御薦めしたい。

『観光消滅-観光立国の実像と虚像』

考える材料になりそうなことを知り、知ったことも採り入れながら色々と考えてみることを「学ぶ」と言うのだと個人的には勝手に思っている。そういう「学ぶ」という営為に際して、「新書」というような、或る程度専門的なことを一般読者に判り易いように説く本は有難い。

↓そういうような「学ぶ」ことをしてみたいという思いも在って手にしてみた一冊である。

観光消滅-観光立国の実像と虚像 (中公新書ラクレ 821)



↑手にした本書をどんどんと読み進めた。と言うより、頁を繰る手を停め悪くなってしまった。そして素早く読了したが、間違いなく「学ぶ」ということの一助になったというように思う。

「観光」という営為には関心を寄せている。個人的には多分「旅行好き」という範疇に入ると自覚している。近年は感染症の問題というような、妙な事柄が在って「旅行が好ましくない」というような様子の時期が在った。「観光」というようなモノに関して「如何なる?如何する?」ということにもなった。やがて「とりあえず問題は収束したということにする」となった時、「観光」の「復活」というような話しになった。ここで個人的には新たな問題意識が芽生えたことに気付いた。「“復活”と言うより、問題が在るとされた時期に色々な変化が在って、その故に“変貌”、“質的変化”が色々と生じたのではないか?」というようなことを思った。

感染症の問題の後に「観光」は「復活」と言われてはいると思う。国外から入り込む来訪者が増えているというような話しにはなっている。国外からの来訪者に人気が高いとされる街で、そういう人達が随分と目立つようになっている。そして様々な「弊害」が生じていることが指摘され、その指摘の声が次第に大きくもなっているような気がする。そういう中「感染症の問題の以前はこういう様子だったか?」と何となく思ったのだ。故に「観光」に関して「復活」というよりも「変貌」や「質的変化」というようなことを思ったのだ。

更に言えば、「弊害」が生じていると指摘する声が大きくなる中、「対策」と称して取沙汰される話しに関して「そういうことで善いのだろうか?」と思うようなことも出て来たのだ。

少し長くなってしまったが、こういうような想いも在って本書を紐解くに至ったのだ。

筆者は大学の「観光学部」で教員、研究者として活動している。そういう中、国外から訪れる人達が増加することを望むという中、実際に増え始めた中で「副作用?」が見受けられるようになったかもしれないと指摘して来た経過が在る。そこから少し経ち、感染症の問題という時期を経て、最近の様々な様子を観て考えられる事柄を更に綴ったという本書である。

「消滅」という題である。これは「消滅可能性都市」というような、人口減少に関して論じる中で登場した言辞を意識したものであるということだ。実際、「人口減に揺らぐ」という中で、様々なサービスを維持することが「少し難しくなっている?」という様子が見受けられる。それは交通関係というような「観光」に関係性が高い場所でも見受けられる。更に、「観光」に関しては、近年の異常な気象で妙な様子が生じていることや、国際的な政情不安や軍事行動というようなことで人々の往来が阻害されてしまっている様子も在り、そういうようなことも看過出来ない。

「観光」ということになると、「経済効果」というようなモノを期待するということで「振興を図る」という話しになる。国外の来訪者を多く迎えるということについてもそういう文脈で語られる。更に、殊更に富裕な人達が多く入り込めば「経済効果」は「より大きい筈」という話しにもなる。本書ではそういうような事柄について、「本当にそうなのか?」ということが論じられている。

例えば、富裕な人達が滞在するハイクラスの宿泊施設に関して「未だ多くの需要が在る筈だ」と開業を促し、実際に続々と開業するという例が在った。こういうホテルでは、館内で多くの消費が完結する面も在る。そして地域との関係性が薄い、国外に根を持つ法人が運営している場合も在り、利益は他所に流出している分の方が多いと見受けられる。そういう高価な宿泊施設に周辺の様々な施設も引張られて次第に値上がりが目立ち始める。そして宿泊施設の建設用地需要の故に住宅やオフィスの需要が満たされない。住宅に関しては「街に住めない」ということにもなり、人々が他所に流出してしまう。そんな例も見受けられるようだ。

こういう例のような「本当にそうなのか?」は大切であると思うのだが、最近読んだ他分野の本に在った内容を想い起した。新たな取組に関して「希望的観測」で「効果」を挙げ連ねる。少し経った時、「希望的観測」で挙げ連ねた効果が得られているのか否か、余り判らないという例が在るという。この「観光」の「経済効果」も正しくこんな型の話しだ。「経済効果」は「希望的観測」だ。そしてその「希望的観測」の「経済効果」が本当に在ったか否かは、少しゆっくり考えてみる必要も在るのかもしれない。「希望的観測」の中で「前提」のようにしている事項が、「実は最初から疑義が多い?」という場合も在るのかもしれない。本書の副題に即して言えば、「虚像」が幅を利かせて、「実像」が顧みられているか否か、少し首を傾げることも否定出来ないということになるであろうか。

この「本当にそうなのか?」は、本書で取り上げられている話題には多い。中には「今年」の事を論じている内容も在る。何れも「考える材料」または「学ぶための基礎」として必要な情報であるように思う。殊に「“観光立国”?」というような話題は傾聴に値する。「観光立国」というような表現を耳にする機会が近年は少し多いかもしれない。様々な意味合いが在るであろう。場合によっては「観光」ということでもなければ、経済活動で恃みになる何かが在るのでもないという意味かもしれないと在るのだ。

「観光」というような、日頃居るのでもない地域を一寸訪ねて様々な文物に触れるというような営為は、平和で安定した中でこそ出来る事柄で、或る意味では尊い。が、それを巡っては考えるべきこと、論じるべきことも色々と在る。そういう内容を提供してくれる本書は、広く御薦めしたい。

『逃亡刑事』

↓愉しいので夢中になり、頁を繰る手が停められなくなった。そして、呆気ない程に素早く読了に至ったのだった。

逃亡刑事 (PHP文芸文庫)



↑手近な者が「悉く敵?」という状況を切り抜けるという、主人公の奮戦振りが面白く、夢中に「ならざるを得ない」という訳なのだ。

千葉県警本部捜査一課で班長を務める刑事、高頭冴子警部が主要視点人物となっている。本人が全く居ない場面では、視点人物は適宜切り替わる。「県警のアマゾネス」という綽名が在り、180㎝の長身というように体躯に恵まれ、力も強く格闘術に優れているという武闘派で、苛烈な指揮官として知られる。彼女の「高頭班」は県警屈指の検挙率を誇ることでも知られている。こういう人物が現れて、何が起こって行くのかというのが本作の物語なのだ。

物語の冒頭は8歳の少年、御堂猛の挿話から始まる。

御堂猛は南行徳の児童施設で暮らしている。父は無く、病気の母は浦安の病院から動けないと聞いている。何時か病院に母を訪ねてみようというようなことを何時も思っていた。他方、児童施設での暮らしは辛い様子だった。或る職員が児童達に気晴らしのように暴力を振るうのだ。更に気儘に「夕食抜き」というようなことまでする。或る日、そういう目に遭った猛は、考え続けていたように母を訪ねようと、施設を抜け出すことを思い立った。深夜に施設を抜け出した猛は、手製の地図を頼りに歩き廻り、浦安駅に通じる辺りに出て、閉鎖になってしまった自動車ディーラーの建物の辺りに至った。建物で誰かが蠢いている様子に気付き、近付いて様子を伺った。何やら禍々しい事が起っていた。

千葉県警本部では、捜査一課の高頭班が麻薬に関連していると見受けられる殺人事件の捜査に取組んでいた。高頭冴子は拘束した暴力団構成員の取調を進めていたが、別な殺人事件発生の報を受け、被害者が警察官らしいと聞いて自ら捜査員達と共に現場に乗込んで捜査に着手した。

殺害されたのは麻薬事案を担当していた巡査部長だった。情報提供者達との接触も多く、単独で行動している場合も多いと聞いた。自動車ディーラーの建物の中、銃で撃たれて殺害されていたのだった。捜査を開始する中、近隣で深夜から早朝に徘徊していた8歳の児童を近隣警察署で保護して話しを聴いたところ、児童がこの建物に居合わせた可能性が高いと判った。児童は本部にやって来た。猛だった。高頭冴子は猛から話しを聴き、猛が示唆した犯行に携わったと見受けられる人物が、高頭冴子の想定を大きく外れる意外な人物であることに驚く。

高頭冴子は取調を進めていた暴力団構成員の所属する組織の幹部と接触を図る等の情報収集を進め、意外な人物による途轍もない不正の可能性や、警察官殺害の可能性を信じるに足ると考えるようになった。その証拠を固めるべく捜査活動を続けようとした。が、今度は高頭冴子が警察官殺害に関与したという話しになり、追われる身となってしまった。

物語は、思いも掛けない「追われる」状況に陥った高頭冴子が、重要証人で気概が加えられる危惧も在る猛を護りながら追跡を逃れ、逆転を図ろうと奮戦するという筋書きである。夢中になってしまう。

30歳代前半で警部に迄昇任した高頭冴子は凄腕刑事として知られる人物だが、それ以外に何が在るのでもなく、子どもとも縁遠い。そんな彼女が、「20歳代で結婚して子が産れたなら、こういうような年恰好?」という猛を連れて護りながら活動を続ける。意外と言えば意外な地域に入り込んで、様々な人達の協力も得ながら追っ手をかわす。やがて追手が迫るという訳だ。

或いはこの作者の作品では多いかもしれないが、この高頭冴子や御堂猛の「その後?」というようなことも読後に気になった。そういうことも含めて、疾駆するエンターテインメントであると同時に余韻が凄く深い。御薦めだ。

『ブラッドランド 下 -ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』

↓「価値在る本」と思った上巻を読了後、ゆっくりと読み進めた下巻である。

ブラッドランド 下 ??ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 (ちくま学芸文庫 ス-29-2)



↑上巻で扱われた事項の後の時期の経過が扱われているのだが、それらに加えて、全般的な内容の要約や、本書の研究に取り組んだ経過や、発表後の反響と、それに関して考えた事等の纏めに相当する部分が在り、非常に読み応えが在った。本書は2010年頃に最初の版が送り出され、そこから加筆が入り、その加筆が入ったモノが翻訳されて送り出されているのである。

上巻からの「続き」として、第2次大戦末期迄の1940年代の事柄、そしてスターリンが他界する1953年頃迄の事柄が綴られている。更に所謂「冷戦期」に該当する時季に纏わる事柄も在る。「ユダヤ」を巡る事柄の根深さに、正直驚く一面も在った。

驚かされるのは1940年代の恐るべき様相だ。個人的な見聞だが、第2次大戦の時代のドイツが有していた「強制収容所」の跡地、遺構や再現した建物や様子を紹介する展示が在る場所を訪ねたことが在った。その「強制収容所」というのは、酷い状態で多くの人達が収容され、強いられて労働をしたが、とりあえず生き残りが居た場所である。が、「連れて行って即座に殺す」という場所も在ったのだそうだ。その「即座に殺す」という場所は、「強制収容所」と違う感じなのだ。本当に列車か何かで「連れて行く」というより「運び込む」という様相で、問答無用でいきなりガス室に放り込んで殺してしまうというのだ。生き残りは居ない。本書にはその辺りが詳しく説かれている。

第2次大戦の頃や、その少し前の所謂「戦間期」というような時代、現在の国々の国境とは異なる国境の様子であった。そういう関係上、現在の「〇〇国の…」という枠組みに入り悪い部分が多々生じる。そうした地域での色々な出来事に関して、現行の国々で「〇〇国の歴史」というようなことを語ろうとする時に詳しく顧慮しないような、或いはそう出来ないような様子も生じ、必ずしも仔細が伝わらない面が在るようだ。それを拾い集めてみようとした結果、本書で言う「流血の地」、「流血地帯」という様相が浮かび上がってしまう。

長きに亘って、見詰めていたようでいて、実は今一つ顧みられていなかったのかもしれない事柄を丁寧に拾い集めようとすると、本書のような「流血地帯」という様子が浮かび上がる。本書は幾つかの様子を取上げて比較をするというような内容ではない。飽くまでも拾い集めた事実を伝えてみようとする内容である。「X万人が生命を失った」というように言う場合の「X万人」という「数字」に留まらず、僅かに伝わる「〇〇に住んで居たXXX・XXXが」と、僅かに伝わる誰かが書き残したようなモノも取上げ、「現にそこに在った生命」が砕かれてしまったということに真摯に向き合おうとしている。一貫したそういう筆致に心揺さぶられながら、ゆっくりと読み進めることになった。

昨今、ウクライナの地が揺れ続けているというようなことも伝わる。“モザイク”のように色々な要素が集まった複雑な地域であるとは承知しているが、そういうことに関する理解が本書を通じて少し深まったと思う。同時に、途轍もない苦難を乗り越えて最近の様子が在ることに想いが巡る。捉え方、捉えている情報の内容に疑義は在っても、多くの人達が「過去の膨大な人命の犠牲の上に、今日の安寧が在るので、感謝や敬意を表するべきである」という程度に考えていることも事実には違いないと観ている。そういうことで、歴史を知りながら考え、尊い平和に想いを巡らせなければならないのであろう。

ヒトラーやスターリンという人物や、彼らの時代に関心が無いのでもなく、色々なモノを読んではいるが、本書はその何れよりも詳しく「流血」の状況が纏まっている。「必読書」かもしれない。

『新自由主義と教育改革 大阪から問う』

「新書」というのは、著者の知見に関して、専門的な事柄も含めて判り易く説き、一般読者が様々な考える材料を得られるというモノなのだと勝手に思っている。

↓そうした意味で、自身にとっては「関心は在るが、詳しいのでもない」という分野である「教育」に関して、専門の研究者が工夫をして纏めたと見受けられる本書は、実に興味深かった。

新自由主義と教育改革 大阪から問う (岩波新書 新赤版 2029)



↑「専門の研究者が」とでも言えば、酷く難解な内容が在るような気がしないでもないかもしれない。が、扱っている内容は小中高の教育等を巡る事柄で、難解という訳ではない。また、「大学の先生が、新入生に向けて論点を丁寧に整理して行う講義」という感じ、或いは一般の人が聴講する、参加するという講演会やフォーラムで、「丁寧に纏めるという準備を重ねた上で専門家が行う報告」という調子の章が折り重ねられていて、概ね各章毎という程度の纏まりでどんどん読み進めることが出来る。そして読み進めながら色々と考えさせられた。要約的な部分を冒頭に持って来て、中身に踏み込んで行くというような形式を基礎としているので判り易いのだ。

「教育」ということに「全く関りが無い人生」というのも考え悪いと思う。自身は“親父殿”の薫陶を受けるかのように、時々“母上”に御叱りを受けるかのように育ったと振り返るが、そういうのも「教育」だ。そういう次元ではなく、自身も小中高の御厄介になっていて、序に大学の御厄介に迄なっているので、一般的に「教育」と言う時に思い浮かべる様子に関りは在った。他方、現在時点迄の人生で親になったというような経過は無いので、「子どもの保護者」というような立場では「教育」に関った経過は無い。

そんな状態なので、小中高と大学に御厄介になっていた時期の後、何かで児童や生徒や学生と接したという経過は在ったかもしれないが、「教育」とは無縁に近い状態だ。それでも「社会の未来を担う世代の事柄」である「教育」には、「市井に数多在るその他大勢の1人」として関心が無い訳でもない。が、関心は多少在っても、近年の様子や論点は承知していない。そういう状態で本書に出くわした。

著者は大阪で活動している研究者だ。大阪の様子に通暁していると見受けられる。と言って、本書は「大阪でこういう様子になっている」に終始しているとも思えない。2000年代以降に示され、強く主張され、実際の動きも在った「新自由主義的」と呼ばれる「教育」を巡って、大阪を「事象の典型的かもしれない例」として、或る程度一貫的に紹介しているというように見える。「全国を覆う?」というような傾向に関して、方々の例を引いて来るよりも、焦点を当てる地域を設定し「一貫した一連の動きを観ながら考える」というようなやり方をする方が、情報や内容、その用紙が伝わり易いというように思う。本書はそれを実践していると見受けられた。

大阪は、既存政党と似ている部分も、一線を画するまたは画そうとしている部分も含む、独自の“地域政党”が大変に大きな力を持っていて、何時の間にか少し長い間に亘って地域の行政や地方議会活動をリードしている。そうした中で「教育」を巡っても、断固たる意志で強い主張が為され、色々な取組が行われて来た。それらの中には、結果的に全国の各地で見受けられた動きを先導するかのような内容も在ったようだ。

こうした中、著者は「大阪で起こったこと」と「それらがもたらしたこと」に関して、色々と疑問も持っているということが本書の随所に滲み出ていると思った。そしてその多くは、「そういうことも在るかもしれない…」と納得し得る感でもあった。

例えば「学校選択制」という事柄が在る。小中学校の通学区域が決まっていて、住所によって「A小学校へ入学」、「B中学校へ入学」というのが決まることになっている。これに対して「学校選択制」となれば、「A小学校へ入学」の区域に在りながら「B小学校へ入学」ということや、「B中学校へ入学」という区域に在りながら「A中学校へ入学」ということも可能になる。「A」や「B」に限らずに「C」や「D」というのさえ在り得ることにもなる訳だ。

自身が小中学生の頃、住んでいた家が在った場所を振り返ると、「A小学校」の通学区域と「B小学校」の通学区域、更に「A中学校」の通学区域と「B中学校」の通学区域の「境界」のような辺りに在った。実際には「A小学校」、「A中学校」に通って卒業した。それらは家の横の路を右へ進むと辿り着いた。左を進むと「B小学校」や「B中学校」だ。小学校に関しては「A」と「B」を結んだ線の中間のような場所に住んでいたのだが、中学校に関しては、縁が無かった「B」の方が近かったと思う。と言って、申出て「B」に通うというような話しは全く無かったと思う。「学校選択制」であれば、こういう場合に「より近い中学校へ行きたい」というのも「在り」だったことになる。「だから?」という程度の話しかもしれないが。

極々卑近なことを何となく思い出したが、「学校選択制」というモノに関しては「希望的観測」により「期待される効果」が挙げられるのだが、始まって暫く経って「検証された効果」という何かが語られているのでもないのだという。こういうのが少し刺さった。これは「教育」ということで為された事柄に「限らない?」というような気がしたのだ。様々な事柄に関して、「希望的観測」による「期待される効果」が語られる。全くやっていない中なら、「希望的観測」という以外に何も無いかもしれないが、それを実際に試行して暫く経ったら「やってみて如何だった」が纏まって、そういう中で「こういうような効果」が語られなければならないのかもしれない。が、世の中でそういうことが普通に行われているであろうか?何か気になった。

他にも「刺さった」という感じの場所は幾つも在った。殊に刺さったのは「普通」と「特殊」という件だ。

色々と課題が在る児童や生徒の学ぶ場所として「特殊」なコースを謳う場所を設ける。そういうことを積極的にやるとなれば、一見すると事情が在る人達のためになるようにも感じられる。が、「普通」とされる場所で様々な問題が在って、その故に「特殊」という状態になってしまったというような場合、「普通」の中の問題が解決される、多少でも改善される、少なくとも問題を見詰められるのだろうか?そんなことをして、様々な多様な要素を含む「普通」は「どんどん狭くなる?」ということなのだろうか、という話題の提起が在った。

本書は大阪の事例を取り上げているが、事例報告に終始しているのでもない。全国的に程度のさこそ在れ、見受けられている問題が示唆されている。「教育」に関して「改革!」が連呼され、「単に教育現場(学校や教職員)が疲弊している」、「強力な上意下達で児童生徒や保護者に報じられた事柄や関連事項を説明することが出来なくなる」という件が在る。そして「選択」や「競争」の強化の中で、何か釈然としない様子も生じているかもしれないという訳だ。

「気になる話題」、「刺さる話題」が多い本書であるが、多くの人が読んでみるべき内容が含まれていると思った。

『彷徨う者たち』

同じ作中人物が活躍する、同じ作者による2作品を愉しく読了した頃に「実はもう1作」とでも知ると、それを手にして読んでみたくなる。

↓そういう「読んでみたくなる」を抑え切れずに本を入手し、紐解き始めれば頁を繰る手が停められなくなってしまっていた。そして素早く読了に至った。

彷徨う者たち



↑作中では宮城県警本部捜査一課の捜査員が活躍する。自ずと仙台の街や宮城県内の色々な街が物語の舞台となる。この宮城県は東日本大震災で甚大な被害が生じており、様々な想いを胸に生き続けている人達が在る。警察の捜査員も、事件に携わる市井の人達も、そういう部分には「個人差」が在るばかりだ。そんなことを踏まえ、なかなかに考えさせられる、読後に深い余韻が残るような物語が展開するシリーズだと思っていたが、本作もそういう例に漏れない。

シリーズを通じて、宮城県警本部捜査一課の笘篠刑事と蓮田刑事が各作品に共通する人物として登場する。(他に捜査一課長や管理官、笘篠が情報を得ようと訪ねる事情通の男というような共通する人物は見受けられるのだが。)笘篠刑事は40歳代半ばという年代のベテランで、蓮田刑事は30歳代前半の若い中堅という感じの捜査員だ。過去2作品では、笘篠刑事が中心視点人物となっている場面が多かった。本作では蓮田刑事が中心視点人物となっている場面が多い。寧ろ本作では、笘篠刑事の推理で操作が動いた感じの箇所も在るのだが、笘篠刑事は蓮田刑事に助言を与え、業務を支援し、色々な意味で導く先輩という趣が色濃いかもしれない。

物語は南三陸町から起こる。

震災後に各地で仮設住宅が建てられ、災害で住宅を失った人達が住んでいた。やがて他の住宅に移る人達が増える中、そうした仮設住宅は順次取壊されることになった。南三陸町でも震災から7年が経った中、仮設住宅に居続ける人達が3世帯ということになっていて、間も無く取壊しという手筈であった。その仮設住宅の、既に住人が他所に移ってしまって、取壊しを進めるばかりになった建物で遺体が発見された。内側から完全に施錠された「密室」に、仮設住宅の事柄を担当していた町役場の職員である男性が遺体で発見されたのである。

仮設住宅に用いられているプレハブ建築というモノは、色々と細工をして「密室」というような状況を作り出すのは難しい。笘篠刑事はその辺のことを、とりあえず調べながら考えようとした。他方、蓮田刑事は複雑な想いも抱きながら活動していた。現場で思い掛けない人物と出会ったのだった。

蓮田刑事は、高校を卒業するような頃に、父親が勤務先の会社での異動によって仙台市内に移る迄、南三陸町に住んでいた。縁が在った多くの人達が災害で生命を失っている。殊に親しかった、兄弟同然で在った幼馴染達も親族を失ってしまっていた。が、蓮田刑事自身は、地震で住まいの中が荒れてしまうようなことは在ったが、近しい人達を災害で失うということから免れていた。そうしたことから、複雑な想いで事件を巡る事情を色々と調べ始めるのである。

町役場に勤める男が殺害され、遺体が「密室」で発見されたという不思議な事態は、如何やって起こったのか、何故起こったのか、誰が行ったのかということが次第に解き明かされるというのが本作である。

「失ってしっまった者」が在る他方、「失わなかった者」が在る。「変わってしまった何か」が在る他方、「変わらなかった何か」が在る。本作の舞台となっている地域では、こういうような相対するモノの境界に「震災」が在って、人々の想いがその境界線を越えて何度も往来しながら彷徨っているというようなことが在るのかもしれない。

そういう彷徨う人々の想いの背景として「“復興”とは?」というような問題提起も在る。壊れてしまった街を再建して賑わいを創出することが“復興”なのだろうか?多くを失って、そういう人達が肩を寄せ合って懸命に生きようとした、そういう「人の気持ち」はもっと尊重しなければならないのではないだろうか?色々な要素が在る中、「“復興”とは?」というような問題提起にまた戻ってしまう。

基本的には「“密室”で遺体が発見された謎」を解き明かすという筋かもしれないが、物語は多層的で、「彷徨う心」というようなことを寧ろ考えてしまう感だ。また、馴染んでいた街が変わり果てた中、複雑な想いで動き回る蓮田という場面は胸に迫った。

小説を愉しむ読者としての極個人的な希望だが、宮城県等の様子が更に変わるであろう10年先位に、本作の笘篠に近い年代に差し掛かった蓮田が事件や社会を見詰めるような物語でも登場するなら、それは是非読んでみたい。(自身の何年か先のことなど、知る由もないことではあるが…)

余韻が深い本作である。広く御薦めしたい。

『セイレーンの懺悔』

↓本作も読み始めると頁を繰る手が停められなくなってしまう。結果として素早く読了である。

セイレーンの懺悔 (小学館文庫 な 33-1)



↑作中の出来事が二転三転しながら展開し、事の真相を解き明かすという筋ではあるが、経験が浅い作中人物が少し成長して踏み出して行く迄を追うような一面も在ると思う。多層的な内容と言えると思う。言い換えれば、面白い小説の多くには、多層的に幾つかの要素が織り込められているのだとも思うのだが。

本作の主要視点人物は、民放テレビの報道部門で取材をする記者である。作中で犯罪事件が発生しており、事件の行方が追われるのだが、警察の捜査員達の目線ではなく、事件報道に携わる者の目線で綴られている。作中、警察関係者は登場するが、それは記者会見場で報道関係者とやり取りをする幹部が出て来るという場面が主な登場場面だ。他に主要視点人物達と接する現場捜査員が1人登場している。飽くまでテレビ局の記者の目線という物語だ。

帝都テレビの報道局が揺れているという様子から物語は起る。コンプライアンスの問題が3件―文化財への落書を“自作自演”してしまったこと、建設工事の入札妨害を巡る虚偽情報を取上げてしまったこと、進行中の連続殺人を巡って警察幹部が番組出演したことで犠牲者が新たに生じてしまったことと何れも驚くような事態だった―も続けて生じており、3件共に社会部が関わった事案だった。看板番組の<アフタヌーンJAPAN>も存続の危機という様子になってしまった。朝倉多香美は放送記者として活動して2年という若い女性である。参画している番組が如何かなってしまうことに不安を覚えているが、何時も一緒に仕事をしている先輩記者の里谷太一やディレクター達は、こうした状況であるからこそスクープを出して番組や社会部の存在感を誇示して行けるようにしなければならないと意気軒高だった。

こうした中で警視庁からの情報がもたらされる。朝倉多香美は里谷に伴われて警視庁へ出向き、報道向けの発表を聴く。誘拐事件が発生したということであった。16歳の女子高生が帰宅せず、家族が彼女を案じたのだが、夜遅くになって電話で「娘を誘拐した」と告げられたのだという。同時に1億円を要求された。そしてそこで連絡は途切れている。16歳の女子高生の家庭だが、団地の集合住宅に住んで居て、資産家でも何でもない。母親は幾つかの仕事をしていて、母親が再婚した相手である義父は派遣社員であるという。1億円を要求されたということで簡単に如何こう出来るのでもない。そういう状況だが、女子高生の生命が案じられる中で、所謂「報道協定」ということになり、直ぐに事件を報じない中で警察から報道機関に被害者の情報等はもたらされた。

この事件報道でスクープを狙い、里谷は朝倉多香美を伴って動き始めた。記者会見の席には、管理官と捜査一課長が在り、傍らに今般の事件で活動する班を率いる警部が在った。里谷は、その警部の下に在る少し知られた敏腕刑事の動向に注目すると好いとした。その刑事が動いたとなれば、事件に何らかの動きが在ったことに他ならない。その刑事に注目して、事件に纏わるスクープが得られる可能性を掴もうというのだ。

やがて里谷が注目した刑事が動き始めた。里谷に伴われた朝倉多香美も行動を開始すう。注目した刑事を含む何人かの捜査員は廃工場に入った。里谷は近くの建物から廃工場を俯瞰する画を撮った。朝倉多香美は廃工場に近付いた。捜査員達は、事件の被害者であった女子高生を発見したと見受けられた。遺体であるようだった。朝倉多香美はそれを視た。遺体は廃工場に残った化学薬品で焼けてしまっていて、酷く傷んでしまっていた。朝倉多香美はすさまじい衝撃を受けて何も出来なかった。

そうした状況から始まるが、朝倉多香美達の<アフタヌーンJAPAN>による、女子高生の誘拐と死亡の事件を巡る報道は、報道関係各社による報道をリードするような様子になって行く。そして如何なって行くのか、朝倉多香美達は如何するのかという物語ということになる。

事件に携わってしまう女子高生の学校や学校外での人間関係、家族のことと、様々な事情が絡み、警察による捜査に並行して報道各社の取材で色々と出て来る。こうした中、報道は「何をやっている?」、「何故やっている?」というようなことにもなる。何か凄く迫るモノが在ると思う。

題名の「セイレーン」というのは、歌声で人を誤った方向に導いてしまうという怪物だ。作中人物が報道機関を例えてそう呼ぶ場面が在る。そこから来ているのだと思う。

二転三転しながら、女子高生の事件の真相が解き明かされて行くという物語ではあるのだが、同じ程度かそれ以上に、報道は「何をやっている?」、「何故やっている?」というようなテーマが迫って来る感じだ。非常に興味深い物語だ。

『護られなかった者たちへ』

↓読み始めると停められなくなる。展開する作中の事態の行方が気になり、非常に落ち着かなくなってしまう。結果として頁を繰り続け、素早く読了に至ってしまう。

護られなかった者たちへ (宝島社文庫)



↑実は「シリーズ第2作」とされる作品を先に読了し、その後に「第1作」という本作を読んだ。が、発表順と余り関係なく、各作品を興味深く読み進めることが出来る。

主要視点人物は宮城県警本部捜査一課の笘篠刑事である。展開の中で視点人物が適宜切り替わる場合も在る。物語の主な舞台は仙台市内、宮城県内ということになる。東日本大震災から4年程を経た或る日ということになる物語だ。

仙台市内の福祉保健事務所で課長を務める三雲が遺体で発見された。帰宅せず、職場にも現れないので家族が捜索願も出していた。

既に住人が居ない、取り壊しを待つばかりであるようなアパートの1室で発見された三雲の遺体は異様な状態だった。手足を粘着テープで拘束され、口も塞がれた状態で放置されていた。脱水症状と飢えで死亡したという状態であったのだ。

捜査に参加した県警本部捜査一課の笘篠刑事は、遺体の状況から「激しい怨恨」ということを想像した。三雲という人物について聴き込んでみるが、悪く言う人は見当たらず、好ましくない噂も聞こえない「善人」と評判で、福祉保健事務所でも真面目に職務を遂行しているという評判だった。

三雲の一件の少し後、農家が持っていて、余り人の出入りが無い小屋から遺体が発見された。県議会議員の城之内だった。帰宅せず、色々な関係者も見掛けていないということになり、家族が警察署に捜索願を出していたのだった。

この城之内の遺体も異様な状態だった。三雲の遺体と同様、手足を粘着テープで拘束され、口も塞がれた状態で放置されていて、脱水症状と飢えで死亡したという状態であったのだ。

この城之内は、熱心に活動をしている清廉な県議として知られる人物で、悪い噂が在るような人物ではなかった。「人格者」と評判であった。その県議が殺害されたということで、県議会から県警を突き上げるかのような雰囲気、県警上層部による現場への圧力というような様子も生じた。

捜査陣は、三雲の件も城之内の件も同様に手口での犯行であると考えられるので、「連続犯?」という観方になった。笘篠は城之内が県議会議員になる以前の職歴を洗い出し、三雲との共通項を見出そうとした。そして城之内と三雲とが一緒に仕事をしていたという経過を知ることとなる。

やがて「因縁」ということになる出来事に行き当たり、その件に関係が深い人物を追い、事件の真相を解き明かしていくこととなる。

「因縁」は「生活保護」を巡って発生する。「護る」というために在る制度でありながら、「護れない」という場合が生じてしまう。他方、「護らなければならないという程でもない」という何かが「護られる」というような場合も世の中には在る。大切な存在を「護りたい」と思いながら「護ることが叶わなかった」という場合というのも人生の中には起こり得る。そんな「護る」ということを巡って「因縁」が生じ、恐るべき事件が発生し、それを巡る捜査員と被疑者と目される人物とのぶつかり合いが在る。そして少し意外な結末に向かって行く。

色々と考えさせられるような“純文学”という雰囲気を織り込んだ、警察の捜査員が事件解決を目指して奔走という物語であるように思った。大変に興味深い。広く御薦めしたい。

『境界線』

↓「面白そう…」と思って入手し、何となく紐解き始めてみた。そうすると頁を繰る手が簡単に停められなくなってしまった。

境界線 (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)



↑そんな訳で素早く読了に至った。色々な意味で強く引き込まれてしまう作品だ。

物語の冒頭、宮城県気仙沼市で女性の遺体が発見されるという話しが出て来る。この人物に関連する物語が始まると示唆される訳だ。

そして宮城県警本部捜査一課に在る刑事の笘篠に、気仙沼の女性の遺体に関する連絡が入る。事件を捜査するということでもなかった。遺体を確認するようにという話しであったのだ。気仙沼で発見された遺体は、笘篠の妻の名が入った免許証を所持していたのだという。

笘篠は驚いた。7年前、気仙沼署に在った笘篠だが、東日本大震災の際に自宅が被害に遭い、妻と乳児だった息子が行方不明となってしまっていたのだ。その行方不明の妻の名が記された、加えて気仙沼に住んでいた当時の住所も確りと入った免許証を所持した人物が遺体で発見される「筈が在るのか?」ということで、笘篠は現地に駆け付ける。

笘篠が現地で見るのは、妻とは全く違う女性の遺体だった。この見ず知らずの女性が、何故、如何やって妻の名を騙るに至ったのか、それ以前にこの女性は何者なのかということが解らない。遺体の状況から、「身元不明者の自殺」という話しになるというようなことであったが、笘篠は酷く気になる。そして遺体の身元を探る活動に関る。

そうして女性に纏わることが明らかになろうとして行く中、更に事件が起きる。事態は如何なって行くのかという物語である。

東日本大震災のような大きな災害の人的被害に言及する場合に「死者・行方不明者」という言い方が在る。「死者」と言う場合は、何らかの形で遺体等が確認され、「〇〇さんは亡くなった」と明確に言い得るということになる。対して「行方不明者」ということになれば、遺体等で死亡が明確に確認出来るのでもない状況下であることになる。津波で居合わせた建物等と共に流されてしまったような人達が多く出てしまったという東日本大震災では、この「行方不明者」も多数に上った。そしてこういう場合、一定の年数を経て「失踪宣告」という手続きをして、「死亡してしまったもの」という扱いにして行くことも出来る。その「一定の年数」が7年である。

本作はその「7年」ということに脚光を当てている。「死亡してしまったもの」という扱いにする、心の区切りが付けられるような、そうすることが巧く出来ないような複雑な思いというものは如何しても在る。如何しても「こうしなければならない」という何かが在るのでもない。そんな中、「身近な人達の名を、見ず知らずの者が騙り、普通に社会生活が営まれている」という異様な事態でも起これば如何なるのか?そして、そういうことを仕掛ける者は何を如何考えているのか?本作の物語の核心部分であるとも思った。

現実には居ない筈ながら、戸籍等の情報の上では居ることになっている、大きな災害に纏わる「行方不明者」が、予期せぬ形で現れるという不思議な様子の謎解きという“警察モノ”の体裁を取る本作ではある。が、もっと踏み込んだ「人が“生きている”というのは何なのか?如何いうことなのか?」を問うような、より深く広い何かを秘めた作品だと思った。加えて、多くの生命が損なわれた大災害と「各々の形で向き合い続ける」ということになっている“東北地方”を物語る作品であるというようにも思った。題名の「境界線」も、対立または半ば対立する概念の狭間に立ち竦む人達の様を象徴するかのような語で、凄く深い意味が籠っているような気もする。

本当に偶々出会ったが、夢中になった作品であった。広く御薦めしたい。

『月下のサクラ』

↓以前に読んでいる作品の「続篇」というような内容であることを知り、強い興味を覚えて手にした。出逢えて善かった作品だ。

月下のサクラ (徳間文庫)



↑ヒロインが活躍して事件の謎に挑むという内容である。頁を繰る手が停め悪くなり、半ば一気に読了に至った。

森口泉という女性が主要視点人物だ。物語は彼女の視点で進む。

冒頭部は刑事が事件関係者を尾行しているというような様子から始まるが、これには訳が在った。森口泉は刑事になったのだった。

森口泉が初めて登場した際、彼女は県警本部に勤務する事務職員で、広報広聴課に在った。ストーカーによる女子大生の殺害、その件の後に発生した友人でもあった新聞記者が遺体で発見された事件という状況を受け、森口泉は警察入庁時の研修が一緒で交流が在った新人刑事と共に事件の謎に挑んだという経過が在った。

それから何年かを経ている。森口泉は29歳の時に事務職員を退いて、改めて警察官となった。現在は「巡査」として県警本部に在る。33歳にして刑事に登用された。刑事となったばかりで捜査二課に在ったのだが、「捜査支援分析センター」の「機動分析係」の新しい捜査員を選考するというので応募したのだった。画像情報の分析等も取り入れた手法での捜査で、様々な事件に対応するという係だった。

森口泉の希望は叶い、機動分析係に配属された。そして初めて職場に出て、最初の仕事をこなして段落した時、県警本部が揺らぐ事件に直面した。県警本部の会計課の金庫に保管されていた、1億円に届くような多額の現金が盗まれてしまっていたことが発覚したのだった。早速に捜査本部も設けられ、機動分析係も捜査に携わることとなり、森口泉も参加するのだった。

犯罪事件に対応する、防止するということを専らとする県警の本部で、1億円に届くような多額の現金が盗まれてしまうという衝撃的な事態に、森口泉は新たな係での仕事を始めた最初の日に直面するということになった。機動分析係の面々と共に、森口泉は懸命に活動する。そして行き当たる事の真相という物語だ。

森口泉の物語だが、彼女が関わる機動分析係の面々も面白い。刑事としての来し方の故に、色々な想いを抱えている黒瀬係長や、黒瀬と色々な場所で一緒に仕事をしているらしい年長の部下である市場という人達が味わい深い。そういう人達と関わりながら、森口泉は「捜査員として活動したい」という想いを昇華させ、危険をも顧みずに事件の真相に斬り込んで行く。森口泉が自身の想い、信念を、多少訳アリな先輩達と行動を共にする中で新たに確かめ、そして突き進むというような力強さが感じられる。

物語は、東北地方の架空の県が舞台になっている。東北地方には然程通じていないのだが、何となく仙台の辺りがモデルになっているような気がする。が、そういう地域性は然程重要でもない感だ。「と或る県の…」という様子だ。他方で、「東京」や「愛知県」や「埼玉県」と実在する地名も作中には交じっている。同じ作者の作品を幾分愉しんでいるが、架空の地名を使う場合が多いような気もしている。

森口泉が初登場した「前作」を読んで、「その後の彼女?」と思った。そしてそれが登場したが、「更にその後?」というのも少し気にならないでもない。そういうことも在るが、本作は「そう来る?!」という感じで、なかなかに興味深い事件の展開が在って、「33歳の新任女性刑事」が懸命に事件の謎に斬り込む様が非常に面白い。広く御薦めしたい作品だ。

↓因みに2019年に読んだ「前作」はこちらだ。
>>『朽ちないサクラ』

『ブラッドランド 上 -ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』

↓現代史関係の本ということになる。なかなかボリュームが在る。上下巻から成るが、その上巻をゆっくりと読了した。

ブラッドランド 上 ??ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 (ちくま学芸文庫 ス-29-1)



↑「完全に知らない」という訳でもない。色々と聞いてはいるが、本書の内容に改めて驚いている。

歴史関係の話題についての本ということになると、色々な在り方が考えられるが、扱う事項の年代や地域を或る程度絞り込んで論じるという方法が在ると思う。本書は正しくそういう方式である。

本書が取り扱うのは1920年代から1940年代である。主に1930年代以降ということにもなるのだが、上巻の最初の方に1920年代への言及が見受けられる。やがて1940年代に突入する。先走るが、下巻は1940年代の事柄になる。

そして本書に綴られる出来事が起こった地域は、題名になっている「ブラッドランド」とでも呼びたいという地域ということになる。「ブラッドランド」とは「流血の地」とでもいうような含意の造語だ。ベルリンとモスクワとの間、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、バルト3国というような地域や、一部は更に少し別な地域も入る。ヒトラーやスターリンの下で、かない悲惨な形で人々の生命が損なわれてしまったという地域を本書では「ブラッドランド」としている。

スターリンとヒトラーと、2人の指導者の妄念のようなモノが折り重なり、それを忖度して行動する高官達の行動と結果が在り、やがて「ブラッドランド」とでも呼ぶべき状況が出現する。

「ブラッドランド」とでも呼ぶべき状況は、ソ連の農業集団化の行き詰まりと「人為的?」な様子の下に起こった飢饉、そして現在では違う国になっている地域を含む「ポーランド」でのドイツやソ連の動きということになる。その「ポーランド」での動きには「ユダヤ人」を巡る様々な事柄が絡まる。

こうした事柄に関しては、様々な事柄が色々な形で伝えられ、それらが紹介されて来た経過が在るが、それらに新たに発掘されたモノを加え、詳しく論じてみようとしているのが本書である。正直「殺された」が連呼されているというような感さえ否めない内容も見受けられる。或る程度知られた人達による記録も在る。が、無名な人達が懸命に書き遺した短いメッセージから伺える、恐るべき状態の真実という重たいモノも発掘されて紹介されている。

結局、国家や社会を揺るがす「敵」なるモノが「創出」され、それへの「対策」を講じるという「妄念」が強まって拡がり、余りにも酷いことが起り、更にそれが少しずつニュアンスを替えて繰り返され、そこに戦禍という状況も絡まるというのが「ブラッドランド」という状態なのだと思った。

こうした「ブラッドランド」という状態を繰り返すことが無いようにという想いで積み重ねられた経過ということも在るのだと思う。他方、「“敵”なるモノが“創出”され、それを如何にかしろと叫ぶ」という「分断」を産出してしまうような雰囲気は、近年の様々な国や地域の中で見受けられるのではないであろうか?そして、そういう中で多くの生命が摺り減らされ、社会の様々な仕組みが損なわれるというようなことも、或いは既に起こってしまっているのかもしれない。

「ブラッドランド」とでも呼ぶべき状況の経過等を「完全に知らない」という訳でもない。色々と聞いてはいる。それでも本書の驚くべき内容には触れる価値は高いと思う。「“敵”なるモノが“創出”され、それを如何にかしろと叫ぶ」という「分断」が何をもたらすのか、考える材料になる筈だ。

早速、この続きになる下巻も紐解き始めている。価値在る本だ。

『使嗾犯 捜査一課女管理官』

↓愉しく読み進め、素早く読了に至った一冊だ。

使嗾犯 捜査一課女管理官 (ハルキ文庫 ま 17-3)



↑発生した事件を巡って警察の捜査員達が奔走し、他方に事件の波紋が拡がり、そこに中心的な人物の人生模様が絡むという、「刑事モノ」という感の物語だ。

題名に在る「使嗾」(しそう)という語は、耳目に触れることが全く無いとも言えないが、と言って頻出しない語であるように思う。「指図して唆す」という程の意味で「指嗾」という字を使う場合も在るようだ。「指図して唆す」には、「悪事等を行うように仕向ける」という含意も在るという。本作の作中の事案を思い出すと、「なるほど…」という感じはする。

45歳の女性警察官である風石マリエは警視に昇進した。県警本部捜査第一課の管理官に着任した。管理官というのは、事件の捜査で、所轄署に本部の捜査員も加わる形で捜査本部が設けられる際、その本部の実質的な指揮を執る重要な立場である。県警で女性がこの管理官の位置に就くというのは初めての例で注目された。

その風石マリエ管理官が初めて指揮を執る事案が発生したが、少し特異な事件であり、事件も注目されるものだった。農山村部ということになる、県内の小さな町の小学校の校舎内で、6年生の男児が拳銃を持ち出し、彼を苛めていたという別な男児に向けて発砲したというのだ。撃たれた男児は負傷し、撃った男児も大きなショックを受けるという状態だった。

この事件が発生した町を含めて、周辺の幾つかの自治体を管轄する警察署に事件の捜査本部が設けられた。この捜査本部の責任者たる管理官として風石マリエ警視がやって来た。同じ警視の階級で年長である幹部も交じる捜査本部で、風石マリエ警視が初めて管理官としての仕事をすることになる。

事件に使用された拳銃は小型のモノで、力が弱い者でも扱い得るという代物であった。それはそれとしてそんなモノが何処から如何いう経路で小さな町に至って、小学6年生の男児に渡ったのか?捜査員達の手でそれを解明するのが、風石マリエ警視が管理官として指揮を執っている捜査本部の目標となっている。

「小学生が学校内で発砲」という特異な事件で、社会の好奇の目線にも晒され操作は色々と難しくなっていた。直接に事件に携わったのが、被害者側も被疑者側も小学生ということで、事情を聴き取ることも難航していた。そうした中、捜査本部に衝撃が走った。近隣で類似事件が発生したのだという。

こうして拡がりを見せ始める事態の中から、色々なことが明らかになり、何故にこうした異常な事件が起こったのか、その陰に在る者の正体というのが明かされる。

風石マリエ警視は来し方に想いを巡らせながらも未来を見詰め、難事件の解決を目指す。捜査本部に参加する様々な人達の描かれ方も面白い。風石マリエ警視は、補佐役の刑事が借り受けてハンドルを握る軽自動車のジムニーを「管理官用連絡車」のように使い、助手席に乗って身軽に関係先を訪ね、意外な情報を入手しているらしい異色な雑誌記者に会いに行くというようなこともする。こういうのも面白い。

本作の一件での活躍が面白かったが、「今後」というのも読みたいと思った。愉しい作品なので広く御薦めしたい。

『フェイクフィクション』

↓なかなかに愉しく読んだ。「続き」が凄く気になって夢中になる。

フェイクフィクション (集英社文庫)



↑大きく3者、主要視点人物が設定されていて、事態が動く中で3者が交錯して行くという感じだ。何か映像コンテンツが頭の中に思い浮かぶような造りである。

物語の冒頭部では、この主要視点人物となって行く3者が現れ、事態が少しずつ動き始めて行く。

鵜飼道弘警部補が在る。五日市警察署の「刑事生活安全組織犯罪対策課」、縮めて「刑生組対課」の係長だ。「東京都」とでも聞いた時に思い浮かべる様子とはかなり異なる、地方の然程人口規模が大きくない地域の、農村部や山村部を管轄区域に含む警察署のような様子の場所である。鵜飼警部補は当直勤務に就いていた。五日市署では、当直の時間の中で2回も現場に出るということは思い当たらない程で、当局が始まるか始まらないかのような夕方から、深夜を経て早朝に至る迄、数え切れない程に現場に出る繁華街を擁する都心の警察署のような様子とは大いに異なった。この五日市署の管内で、早朝に通報が在った。農業を営んでいる住民が遺体を発見したというのである。鵜飼警部補は、辺りの駐在所で活動する警察官を動かしながら、自らも現場に出た。遺体は首が無い異様な様子であった。やがて特捜本部も設けられた。本部の捜査一課から乗り込んで来た捜査員の中に、嘗て同じ署で仕事をした経過も在る梶浦の姿が在った。

河野潤平が在る。キックボクシングでの成功を夢見て、地方の高校を中退して東京に出て来た。プロ選手になって順調にキャリアを重ねていたが、或る時に試合に敗れて負傷した。そして思うように動けなくなり、プロ選手を退いてしまった。仕事を探していた中、製餡工場のベテラン職人と出会い、仕事を始めた。ベテラン職人に仕事を教えてもらい、職人になっていた。やがて趣味として格闘技のジムで身体を動かすという程度のこともするようになっていた。自身を含めて数人が働く製餡工場に、或る時新たなアルバイトが入って来た。可愛らしい若い女性だった。19歳の有川美祈である。潤平は彼女に興味と好意を抱いた。

鵜飼警部補は「首の無い遺体」を巡る捜査を懸命に進めている。潤平はと言えば、美祈と仲良くなりたいと懸命だった。やがて潤平は美祈が【サダイの家】なる、キリスト教の流れを汲むらしい新興宗教に関わっているらしいことを知ってしまう。そしてその【サダイの家】に深い関りを有する人物が現れる。

唐津郁夫は【サダイの家】の「裏の仕事」というようなことに関わっている。教団の小牧哲生総本部長とのやり取りで色々と動くが、実は暴力団幹部である。若き日に知り合った牧師が、【サダイの家】になって行く教団を起し、件の牧師の娘である現在の教祖もその頃から知っているという縁が在った。唐津は牧師を慕っていて、その縁を大切にしていたということになる。この唐津に「首の無い遺体」の件が伝わり、遺体は【サダイの家】に敵対する弁護士ではないのかという話しになった。

こういうようなことで主要視点人物となって行く3者が現れる。「静かな農村部で異様な遺体が発見」という事態が如何に進んで行くのかというのが本作の物語である。「首の無い遺体」を巡る警察の捜査という話しと、職場に現れた若く可愛らしい女性と仲良くなってみたいという青年の話しというのが、或る団体の“裏”に纏わる事柄で繋がって行くということになう。色々な角度で強く引き込まれる物語だ。

主要視点人物となって行く3者は各々に面白いと思う。鵜飼道弘は、「東京都」というようにも思い難いような長閑な署で飄々と勤めているようだが、秘めた思いを如何にかしたいと思っている。河野潤平は不器用で真面目な若者ということになるのであろうが、異常な者達と関わった人達と知り合って、それを如何にかしたいと奮戦する。唐津郁夫は、暴力団員であるというようなことを度外視して温かく接してくれた人物への敬愛、義理で活動を続けて来て、色々な秘密にぶつかることになる。本作を読んでいると、こういう主要人物達や、周りの人達が如何なって行くのか、何時の間にかかなり力が入る。また個人的には、唐津が振り返る牧師が語った話しというのに、何か凄く惹かれたということを記しておきたい。

本作の様な感じは、如何にもこの作者らしい感じだ。一見、無関係な話しが絡まり合って行くような様子が凄く面白い。広く御薦めしたい。

『氷獄』

↓書名は『氷獄』と書いて「ひょうごく」と読む。4篇の小説が収まっている一冊で、各篇を愉しく読み進め、素早く読了に至った。

氷獄



↑所謂「桜宮サーガ」の一部を為す各篇が収められている。本書の各篇には、発表されて来た様々な作品の後日談、前日譚というような感じの内容が含まれていると思う。最近、作者による「桜宮サーガ」が気に入って、色々な作品を読んでいるので、様々な作品の後日談、前日譚というようなことは判った。が、そうした各作品を然程知らないにしても、作中世界での過去や未来が作中で示唆されているというようなことで、抵抗無く入って行けるように思う。

「桜宮サーガ」各作品の後日談、前日譚というような感じの内容が含まれているからなのかもしれないが、各篇が始まる辺りに、さり気なく「XXXX年頃の出来事」と判るようになってもいた。また作品によっては、或る時点で来し方を振り返る内容であって、作中の節に出来事の時期が明示されているというのも在った。

『双生』という篇には、様々な作品に登場している桜宮家の双子の姉妹と、東城大学病院の田口医師が登場する。東海地方の架空の街である桜宮市で、桜宮家は少し知られている歴史の在る民間病院を経営している。双子の娘達は大学医学部を卒業して医師になった。母校の大学病院での研修を経て地元に戻り、東城大学病院で研修を行うことになった。神経内科に配置されたが、そこで外来を担当する臨床医と言えば田口医師なので、田口医師は姉妹の指導者ということになった。この双子と田口医師の様子が描かれる。

『星宿』は、小児病棟に在る子ども達のためにクリスマス会を催すことになった際の顛末を通じ、手術を受けることに逡巡している少年を励まして行くというような内容である。『ナイチンゲールの沈黙』や『ジェネラル・ルージュの凱旋』の後日談のような内容が含まれていると思った。

『黎明』は少し独立性が高いかもしれない。「桜宮サーガ」各作品は2000年代の出来事が多いが、その少し後の2010年代に東城大学病院で新たな病院棟が完成し、それ以前の病院棟にホスピスが設けられるという状況で物語が進む。そのホスピスの担当として田口医師が登場する。“恢復”が望み難い、末期癌等の患者が滞在するという場所の様子が描かれ、「“終末医療”?」や「生き続けようとすること?」という問題提起が為されているように思った。

本書の表題にもなっている『氷獄』は、他の各篇の倍やそれ以上も在りそうな中篇であり、なかなかに読み応えが在った。2019年4月の或る日、10年余りも活動を続けている弁護士の日高正義が来し方を振り返っているという内容だ。

日高正義は大学卒業後に10年程の会社勤務を経て、制度の改革後に法科大学院を経て弁護士となった。曲折を経て老弁護士が1人で活動している弁護士事務所に身を寄せて弁護士活動に入ることとなった。最初の主要な仕事として、或る被疑者の国選弁護人を引き受けようとする一件が在った。その一件というのが「バチスタ事件」として知られる事件の被疑者の国選弁護人であった。

東城大学病院での心臓手術の際、手術室での仕事に携わった医師の1人が細工をして患者を「殺す」ということをしてしまっていたという事件だった。逮捕後に色々と在って、事件から2年程を経た時点で未だ起訴されていない。国選弁護人の選任に関して、過去に3人の弁護士が接見して弁護を引き受けようとしたが、何れも断られていた。そこに日高正義が登場し、この被疑者の国選弁護人を引き受けることとなったのだった。

そういうことで、本作は『チームバチスタの栄光』の後日談である。加えて『極北クレイマー』に在った、出産時の産婦と胎児が死亡した件で医師が逮捕されてしまった一件の後日談も加わる。「桜宮サーガ」各作品の様々な人物達も登場する中、日高正義が奮戦する物語は興味深い。

この『氷獄』については、何か“科学”や“司法”というような大きな歯車の様なモノが好いバランスで噛み合い、より公正で、より多くの人達が幸福になれそうな社会が指向されるべきで、主人公の日高正義がそういう辺りに“正義”を見出そうとしているというような感じになっていると思った。

紐解き始めると、本当に頁を繰る手が停め難くなった。短い3篇は、各々をあっという間に読了した。『氷獄』は余韻が深かった。なかなかに御薦め出来る一冊だ。

『北辰の門』

↓奈良時代を背景にした物語で、なかなかに興味深い作品だと思う。

北辰の門 (単行本) [ 馳星周 ]



↑同じ作者による『比ぶ者なき』(ならぶものなき)、『四神の旗』を読了していたが、その「後」という物語である。

『比ぶ者なき』は藤原不比等を主人公に据えた。『四神の旗』は藤原不比等の4人の息子達、上から順に武智麻呂、房前、宇合、麻呂の4人兄弟を主人公に据えた。本作は武智麻呂の子である藤原仲麻呂、後年に恵美押勝と名乗るようになる人物が主人公に据えられている。

「藤原氏」と言えば、大きな力を持った貴族ということになるが、彼らの台頭の礎を築いた不比等、それを受け継ごうとして政敵との抗争を繰り広げて疫病に斃れた4人兄弟、そして仲麻呂と「3代の物語」という様相である。

物語は、概ね藤原仲麻呂の視線で綴られるが、適宜視点人物が切り替わる。

本作の藤原仲麻呂は大変な野心家である。祭祀を司る天皇家に対し、政治や軍事の大権を握る「皇帝」というような家門を起こすようなことを夢見ている。誰であろうと対立的な者は排除し、皇太后の後援を得ながらその権力を強化し続ける。やがて娘婿であって自邸に一緒に住んでいたことさえある皇族を擁立し、先帝の娘から譲位という形で天皇に即位させる。

こうして絶頂期を迎えるのだが、後援者であった皇太后が崩御し、手近で支えてくれていた人達が他界するようになると「何か巧く運ばない」ということも眼に留まるようになる。他方で退位した先帝の娘は太上天皇となっていたが、かの道鏡という僧と出会う。

やがて太上天皇の側と、藤原仲麻呂が加わっている天皇の側とでの対立が表面化する。そして所謂「恵美押勝の乱」である。本作は「僅かな時間で強力な独裁体制が破壊されてしまう」、「絶頂を極めた男が謀反人として斬られる」という激動の様、そこへの道筋という物語である。

時代の歯車、人生の歯車が何か軋むというような様子が、あの大仏が登場した少し後というような時代を背景に描かれているのだが、或る程度の「普遍性」というような事柄も感じる。誰でも「勝ち続ける」という一方でもなく、「負け続ける」という一方でもない。思わぬ軋みと、急速な展開というのは在り得る訳だ。

なかなかに興味深い物語であった。

『武田の金、毛利の銀』

↓題名に強く惹かれて手にした一冊ということになる。そういうことで紐解く機会を得た小説だが、凄く愉しんだ。

武田の金、毛利の銀



↑戦国時代を独特な切り口で捉え、同時に困難な事柄を成就させようと奮戦する人達の冒険譚というような具合で、それが愉しいのだ。

明智十兵衛光秀という人物が知られているが、この史上の人物をモデルとした作中人物が登場する。室町幕府に仕える幕臣という立場で、将軍の擁立に動いた織田家との連絡調整役を担うというようなことであったが、織田陣営で色々と活躍をして台頭し始めたという人物だ。

この明智十兵衛光秀には、無名時代に知り合った年来の友人達が在る。兵法家(武芸者)の新九郎と、倭寇だった経過も在るという僧の愚息である。彼らは、その技芸や知識を活かし、光秀を援けて活躍したという経過も在る。

本作の物語は、光秀の目線で語られている箇所も在るが、主に事の展開の中で顛末を見詰め続ける新九郎の目線で語られている箇所が多い感じだ。

光秀は織田信長の特命を受けた。武田家の湯之奥金山、毛利家の石見銀山について、各々の金や銀の産出情況に纏わる極力詳しい情報を入手せよという内容であった。光秀は年来の友人である新九郎と愚息とを伴い、密かに探るべく行動を開始するのである。

戦国時代の大名家の領内に在って、現に採掘が行われている金山や銀山の金銀の産出量というようなことは重要機密の最たるものである。それを探りに現地に近付こうというのは、文字どおりに命懸けであり、企てが露見した際には「誰の差し金?」と背後関係も探られて非常に複雑な事態にもなってしまう。光秀は織田家中のようで在りながら、幕臣という立場が在るので、織田家は「無関係」と言い張ることも出来なくもない。光秀の友人である新九郎や愚息に至っては市井の自由な者達で、光秀以上に織田家とは「無関係」である。織田信長としては、言わば「捨て駒」という感でもある。そんな状況下だが、光秀は日蓮宗の本山である身延山の参詣に訪ねる巡礼者を装い、甲斐の湯之奥金山に乗込もうとした。

光秀の一行は、織田信長に協力的な堺の商人である今井宗久が運用する商船に便乗することが許されていたので、かの武田信玄が最近になって領国とした駿河の港へ船で移動し、身延山への参詣者を装って上陸した。そうすると何か不思議な男と出会った。地元の町で「十兵衛」と呼びかける声に光秀が驚けば、偶々同名の男が在ったのだ。この人物は土屋十兵衛長安という名だった。

こういうような不思議な男との出会いも交えて、光秀の一行は如何にして困難な任務を果たすのかという物語で、少し夢中になる。

金や銀は、戦国時代には世界屈指の量を産出していたと推定され、色々に利用された筈だが、その利用を巡る様々な事柄が本作の物語で判る面が在る。そして戦国大名達の“政治”、彼らの領国経営の“経済”と、色々な事柄が少し面白い冒険譚の中に巧みに埋め込まれている。興味深い作品だ。

『奏鳴曲 北里と鷗外』

↓登場して未だ然程経っていない新しい紙幣に肖像画が在る、あの北里柴三郎の画が入った表紙カバーに目を奪われて興味を覚えた一冊だ。

奏鳴曲 北里と鷗外 (文春文庫 か 50-5)



↑そういうような妙な切っ掛けではあったが、本作に出会えたことは幸運だった。愉しく頁を繰り続けて読了した。

本作は、史上の実在人物である北里柴三郎(1853-1931)、森鷗外(林太郎)(1862-1922)をモデルとした主人公達が活躍する。伝記的な要素も入るような物語である。

北里柴三郎は細菌学の権威で、ドイツへ留学してコッホに師事して実績を重ね、帰国後も色々と活躍した。「鷗外」という筆名がよく知られる森林太郎は陸軍の軍医としてキャリアを重ねている。

敢えて2人の生没年を記したが、北里柴三郎と森鷗外は同時代人である。北里柴三郎は9歳年長で、9年長生きしている。森鷗外が60歳で他界したのに対し、北里柴三郎は78歳で他界している。

北里柴三郎と森鷗外の両者は、親しく交流していたという程でもないかもしれないが、2人の生涯の中で様々な接点が在った筈である。その辺は明確な記録が在るのでもなく、作者の創造の翼が羽ばたいているのだとも思う。本作は、そういうような2人の医学者が、一部は共通する志を胸に、明治時代を駆け抜けた物語ということになる。

本作は、北里柴三郎が主要視点人物となる節と、森鷗外が主要視点人物となる節とが折り重ねられ、「青春」、「朱夏」、「白秋」、「玄冬」という題を冠した4部に纏められている。各部の名前は人生の中の時期と季節とを重ねるような言い方だとも思うが、2人の主人公達の極若かった頃から、壮年期、中年期、晩年近くという人生の場面や出来事が綴られることになる。因みに題名に在る「奏鳴曲」というのは「ソナタ」と呼ばれる器楽曲のことで、4つの楽章で構成されるという。恐らく、4部で構成されている本作の感じと重ね合わせたのであろう。

明治時代の前半頃には「公衆衛生」というような概念が希薄であったと見受けられる。上下水道の整備や廃棄物等の処理、伝染病の広がりの予防というようなこと、疾病等の治療が進め易くすることというような政策的な課題に少しずつ光が当たって行くこととなる。「医療」を通じて、社会に安寧をもたらすこと、社会の発展を底から支えるというようなことを、若き日の本書の主人公達は志す。そしてその概念を「医療の軍隊」というように呼ぶ。

本作の物語は主人公達が志した「医療の軍隊」というようなモノを登場させ、「公衆衛生」に資する活躍が出来るのか否かというような事柄が通奏低音になっていると思う。そして少し対照的な感じもする北里柴三郎と森鷗外の生き様が対比され、更に彼らの周辺に現れる、明治時代の多彩な人達の動きが在る。

本作を読む限り、北里柴三郎は真直ぐで一意専心に物事に打ち込むような感が強く、森鷗外は色々な事情の中で複雑なバランスを取りながら生きているというような感が強い。そういう事が興味深いのだが、本作は全般として「公衆衛生や医学や社会という意味での明治史」という感じで読み応えが在る。

森鷗外に関しては、作家としてよく知られていて「作家の森鷗外」として、既に色々なことが語られていると思う。他方、「軍医の森林太郎」ということになると、本作程度に詳しく語られている例は余り無いかもしれない。

「軍医の森林太郎」は最終的に軍医総監という最高位にも到達している。その軍医としてのキャリアの中、彼は「脚気」という問題で苦慮している。現在では、接種する栄養の偏りによって発生してしまう症状と知られているが、明治時代にはそういうことが判らなかったのだ。その辺の経過が本作に随時登場する。そしてそういう辺りが「事情が分かり悪い問題が生じた場合の対応?」というようなことで、考える材料を提供しているかもしれない。

本作の森鷗外または林太郎については少し複雑だが、北里柴三郎については何か元気をもらえるような感じの部分も多かった。

本作の作者は御自身も医学者であり、公衆衛生の発展経過や、北里柴三郎や森林太郎が携わった仕事や関連事項に或る程度通じているのだと思う。それ故に、そうした分野に然程明るくなくても判り易いように、巧みに纏められていると思った。

その他、本作には山形有朋、後藤新平、大隈重信というような明治期から大正期に活躍したような人物が色々と登場する部分が在って、個人的にはそういう部分も気に入っている。

新しい紙幣の故に少し注目されている北里柴三郎について、同時代人の異色の人材であって、よく知られている森鷗外に纏わる事と合わさって、重厚な物語を構成している本作は非常に興味深い。広く御薦めしたい。

『黄金地球儀2013』

↓所謂「桜宮サーガ」のシリーズということになるであろう。が、この「桜宮サーガ」と聞けば思い出す「東城大学病院」が出て来るのでもない。

黄金地球儀2013 (講談社文庫 か 115-10)



↑東海地方の架空の街ということになる桜宮市を舞台に展開するコメディーである。「如何なる?」とドンドン読み進めたくなり、結果的に素早く読了に至った。

作中世界が展開する、物語の舞台となる桜宮市というのは、医学部迄擁する総合大学である東城大学が立地し、東京等とも往来し易い場所であるが、それ程の勢いが在るのでもない地方都市ということになっている。冒頭部で、この桜宮市の或る顛末が語られている。それが「黄金地球儀」である。

嘗て、全国の市町村に各々1億円が交付され、随意に使って構わないということになったということが在った。金塊を購入という例が幾つか見受けられた。桜宮市でも金塊を購入した。そしてそれを使い、日本の部分が金で、北極辺りに市章が金で輝くという「黄金地球儀」を制作し、それを水族館の別館に展示した。そこから年月を経ている。

この顛末を語る視点人物は平沼平介である。東城大学で物理学を学び、大学院にも進んだが、残念ながら中退した。そして実家の町工場「平沼鉄工所」で「営業部長兼臨時工」というようなことで働いている。実家の町工場だが、父の豪介が優れた技術者で腕が良い職人で、独自の工作機械も工夫して色々と活躍している。最近では、東城大学の研究所の依頼による深海探査艇の製作を手掛けて声望を高めた。平沼平介は、この父、工場の経理部長ということになっている妻、小学1年生の息子と暮らしていた。

そういう暮らしだが、実家に在る訳で、学生時代から使っている離れのプレハブを使い続けていて、1人でそこで過ごすということもしていた。そのプレハブに或る男が現れた。「ガラスのジョー」等と自称する久光穣治であった。学生時代に親しくしていたのだが、8年程前に街を去ってしまっていて、久し振りに会ったということになる。

久光穣治は妙なことを言い出した。1億円もの金を手に出来るというのだ。如何いうことなのか尋ねれば、「黄金地球儀」を強奪するのだと言い出す。とんでもない話しだと呆れていたが、市役所の管財課から話しが在った。「黄金地球儀」の警備システムに関して、「平沼鉄工所」に委託した形になっているので、業務を確り進めて頂きたい等と言い出されたのだ。平沼平介は訳が判らない。

こういう中、平沼平介は如何するのか、「黄金地球儀」を巡る事案は如何いうことになって行くのかという物語である。

所謂「桜宮サーガ」のシリーズなので、8年振りに街に現れた久光穣治に「こんなことが在った」と過去の作品に登場する出来事を語るような場面、過去作品に登場した場所が年月を経て様子が変わっているという描写が在る。また平沼平介が強力を依頼する人物達も、「あの作品の関係者…」と判る。

少しセコい敵役を豪快にやっつけるような感じが実に愉しい。少し夢中になった。

『京都の最強神社 ―12社の謎を読み解く』

↓出先で書店を覗いて眼に留め、入手して読んでいた一冊だ。なかなかに興味深い。

京都の最強神社 ーー12社の謎を読み解く (祥伝社新書 701)



↑神社、中でも京都市内や近郊の神社に纏わる様々な話題を提供してくれる1冊である。

「神社」と一口に言っても様々なモノが在る。そういう中で「最強」というような呼び方が出来そうな存在は、起こった時期が相当に古いとされていて、『古事記』や『日本書紀』にも登場するような神々を祀ったという場所なのかもしれない。また、そういう例に該当するのでもなくとも、少しずつその権威を高めて行った経過を有する神社というのも見受けられる。

こういうような神社を巡る詳しい話題を提供してくれるのが本書である。

京都が都ということになる以前の奈良では仏教寺院が大きな存在感を占めていた。対して京都では神社ということになるのかもしれない。神社に天皇が出掛ける、上級の貴族たちが出掛ける、彼らが神社を後援するということが折り重ねられたということになる。

実は各地で神社を訪ねてみるというようなことを好むので、本書は大変に興味深かった。

『滅茶苦茶』

↓紐解き始めると、頁を繰る手が簡単に停められなくなる。何か強力に引き込まれるモノが在る。

滅茶苦茶 (講談社文庫 そ 10-1)



↑作中人物達が「滅茶苦茶」とでも表現する他に無いような、色々な意味合いで過酷な状況になって行く。同時に2020年頃の「滅茶苦茶?」とでも表現したいような社会の様子、その中での個々人の様子というような趣旨も色濃いという感の物語だ。

3人の主要視点人物が設定され、殆ど同一の時間軸の中で、3人の各々の物語が各々の場所で展開する。「年月日+人名」という題を冠した節が、概ねストレートな時系列で並ぶ。やがて事態が如何なって行くのかというのが本作の肝である。

今井美世子は東京の大手広告代理店に勤めている。“コロナ”ということで、在宅して「リモート」というような打ち合わせが在るばかりになって、ウーバーイーツで料理を届けてもらうようなこと、極親しい友人と電話で話すというだけで、それまでの「普通」だった暮らしが吹き飛んでしまっている。既に37歳だが、結婚という経過も無く、現時点で結婚を考えう相手が在るというのでもなかった。友人との話で「マッチングアプリ」というようなモノについて話題になった。

二宮礼央は群馬県内の高校2年生だ。地域で評価の高い、男子校の進学校に通っている。地域で学業成績が優秀な生徒達が集まる学校であるので、礼央は学年内では寧ろ下位の成績に甘んじている状況で気分が詰まった感じではあった。そこに“コロナ”ということで、「リモート」の授業に、時々の登校日という様子だった。その時々の登校日に不良の一団に出くわすのだが、その中の1人が親し気に話し掛けて来る。家庭の都合で他地域に出て、少し前に辺りに戻って来たという小学生の頃の同級生だった。連絡先を交換した。

戸村茂一は静岡県内の街で、憤りに身を任せて市役所に乗り込んだ。電話で話した職員を呼び、掴み掛るような勢いで食って掛かった。戸村茂一は、父親の代から受け継いだ3軒のラブホテルを経営している。“コロナ”で人々の活動が制限され、様々な業種で売上が消えてしまったような様子に陥ったが、それに対して公的な支援が行われることになった。そこで市役所に電話で紹介すれば「助成するに値しない職種」というように言われた。戸村茂一は耐え難い屈辱を覚えて憤ったのだ。そんな柄にもないと思えるような、小さな騒ぎを起こした後、知り合った人物から或る話しが持ち掛けられることになる。

美世子(みよこ)、礼央(れお)、茂一(もいち)は、各々に東京、群馬県内、静岡県内という場所で「普通」の暮らしを営んでいたが、“コロナ”というようなことでその「普通」が消し飛ぶ、見失われる、否定されるというような様子に陥ってしまった。そして各々に「普通」な時には関わらないような様子に関わり、状況が妙な方向に進んでしまう。

そんな訳で「如何する?」、「如何なってしまう?」と本の頁を繰る手が停め難くなる物語が展開する。

2020年頃からの様子は、何か“コロナ”というモノ自体というよりも「心の…」というような問題が生じ、その問題の拡大が繰り返され、居心地の悪さや不機嫌が蔓延し、「何もかもが滅茶苦茶だぁ!!」というようなオカしい気分になってしまい、酷く広い範囲に色々な意味での綻びや不具合が生じてしまい、回復困難になってしまっているかもしれないという感じなのかもしれない。余り思い出したくもない。同時に、完全に忘れて、無かったことにも出来ない。本作に触れて、そんなことを想わないでもなかった。

読後の余韻の中で少し思ったのは、少し先の何かの物語に本作の主要人物達が現れて「あの頃は…」と振り返るような場面でも生じるかもしれないというようなことだ。が、そういうようなことがさり気なく出来るようになる迄には、今暫くの時日が要るかもしれない。

凄く引き込まれる本作である。御薦め!

『ウクライナ全史(下) ゲート・オブ・ヨーロッパ』

↓「全史」と銘打った、ウクライナの歴史に纏わる本で、「上巻」の続きとなる「下巻」である。

ウクライナ全史(下)??ゲート・オブ・ヨーロッパ



↑「ウクライナの歴史」を古い時代から説き起こし、この上巻では20世紀初め頃に至る迄が綴られた「上巻」に対し、この「下巻」はそれ以降なので、扱われている期間は短い。しかしながら、本のボリュームは上下共に似たような分量になっている。

「下巻」については、20世紀初め頃の革命や内戦という様相から、戦間期や第2次大戦の頃、その後の様々なこと、更に「ウクライナ」の独立、最近の情勢と、非常に密度が濃い感じに纏まっている。概ね2020年頃迄の事柄が綴られる。

「下巻」の末尾には、「上巻」の部分も含めて、ウクライナの歴史に纏わる人名録、主な出来事の年表、加えて参考文献リストが添えられてはいる。が、そういうモノを頻繁に参照するような煩わしい読み方は無用だ。物語風で読み易くなっているとも思う。ウクライナで学位を得て研究教育活動に従事し、現在は米国で活動している「ウクライナ史」研究者が、「ウクライナについていろいろなことを広く知らせたい」という強い思いも込めて綴ったのだと想像する。

20世紀に入って以降も、「ウクライナ」は幾つかの国々に分かれていて、第2次大戦やその後の経過で概ね現在の版図で「ソ連の中の共和国」となり、1950年代に経済上の理由でクリミアがロシア連邦からウクライナに移管ということで現在の版図が確定している。そして1991年にその版図で「独立国」となって行くのだ。

「ソ連の歴史」というような観点、または「欧州に於ける第2次大戦期の経過」というようなことで、ウクライナの事柄には少しは触れているが、本書のように詳しく説かれている、同時に読み易いモノは類例を知らない。読み応えが在る。

そして「ウクライナの社会」の変遷というようなことも、広く深く語られていると思う。ソ連体制になってから第2次大戦へ向かって行く間の「人為的な飢饉」と呼ばれるような件も含めて経済への言及も幅広い。

ソ連時代の様々な経過の後の、「独立」への経過も詳しい。多様な要素を内包する欧州の国であろうとした訳だ。

やがて初代大統領が去らざるを得なくなった後の、政権の変遷や出来事に関しても詳しく、同時に判り易く纏まっている。

総じて「下巻」は「ウクライナ現代史」という感で、場合によってはこの「下巻」を読むと現在に至る様々な事柄を網羅することも出来なくはない。と言っても、もと古い時期の諸事項との関連も在るので、「上巻」に在るようなことも知るべきではあるが。

そして本書が綴られている時点で「第1次ロシア・ウクライナ戦争」と呼ぶべき状況に入ってしまっているが、「ロシア側で唱えている事柄」に関連した「ウクライナ側の観方」というようなことが或る程度整理されている感だ。

複雑な生い立ちを負い、文化的なモザイクという情況でスタートした「ウクライナ」ということが、本書を読むとよく判る。現在となっては、個々人の文化的出自や母語が如何であれ、「とりあえず“ウクライナ国民”」という、多数派と見受けられるウクライナに住む人達のアイデンティティは動き難いのだと思う。そこに「歴史」として考えて「如何?」ということ迄持ち出して、軍事行動に迄及んでしまう理屈というのは何なのか?そういう「考える材料」を多く提供してくれる本書である。

本書が登場した後、彼の地では「第2次ロシア・ウクライナ戦争」と呼ぶべき状況に突入してしまい、既に3年目というようになってしまい、事態の収束が読めないようになっている。何を如何言おうと、大規模な軍事行動というような動きは、生命を擦り減らし、社会の中の余りにも多くのモノを損なうばかりである。何とかならないものかと祈るばかりではあるが、それはそれとして「如何いう経過で最近の様子なのか、古い時代に遡って知ってみよう」という程度のことは出来る筈だ。そして本書はそういう「知ってみよう」に好適だと思う。

偶々眼に留めて入手し、紐解き始めた本書であるが出会えて善かった。モノも知らずに声が大きそうな方に与して、何やら大きな声を出してみれば好い訳でもないと思う。静観して、本を読んで学ぶというようなことも必要なのだと思う。ロシアとウクライナとの問題に関し、ウクライナの側に纏わる様々な情報が詰まった本書は必読かもしれない。殊に「ウクライナ現代史」という様相の「下巻」は価値が高いと観る。御薦めだ。

『ウクライナ全史(上) ゲート・オブ・ヨーロッパ』

↓古い時代から最近に至る迄の経過、挿話を扱う「全史」ということで綴られた本の「上巻」である。

ウクライナ全史(上)??ゲート・オブ・ヨーロッパ



↑「ウクライナの歴史」を古い時代から説き起こし、この上巻では20世紀初め頃に至る迄の事柄が綴られる。

本書はソ連産れで、ウクライナで学位を得て研究教育活動に従事し、現在は米国で活動している「ウクライナ史」研究者が綴ったモノということになる。

本書は物語風で読み易くなっているとも思う。かなり古い時代から、興味深い挿話が積み重ねられていると思う。注釈を参照するような面倒な感じでもなく、「ウクライナ史」というようなモノになじみが薄い人達でも普通にさっと読めるような体裁に美味く纏められている。

本書を読んでいて、活き活きとした物語に引き込まれると同時に少し思ったことが在る。「ウクライナ」ということではなく、「他の国」の歴史というようなことで語られている事柄が凄く多いのだ。「他の国」の歴史に纏わる事柄で、現在のウクライナに該当する場所で出来事が発生しているというような事例が実は多い。

また、国の境界は長い年月で色々と複雑に切り替わっている。今日のウクライナ、ロシア、ベラルーシ、リトアニア、ポーランドというような地域が絡み、ルーマニアやモルドヴァも関わるような感じだ。こういう地域に、オスマン朝、オーストリア、ロシア、ドイツというような帝国、更にスウェーデンのような勢力の動きも在って、ウクライナは揺れ続けていた。現在、「ウクライナ」とでも言う場合の「古い時代のイメージ」ということでは、“ヘチマン”と呼ばれたコサックの統領が統べた自治領的な国になるのかもしれない。その“ヘチマン”の国に関しても、色々と激動の物語が在る。

本書の終盤の19世紀の終わり頃から20世紀頃の様子には「オーストリア領」、「ロシア領」というような言い方が出て来る。西寄りな地域と、東や南、またはキーウの辺りとでは随分と様子が違ったということが詳しく紹介されている。そして帝政ロシアの時代にウクライナ語による出版等に制限が加えられていた時期が在ったということも詳しく紹介されている。

序でに、ソ連時代の指導者で、フルシチョフ、ブレジネフ、更にゴルバチョフだが、御本人や一族がウクライナに所縁が在る。工業化が進んで社会が変わって行くという時代に関する叙述の中で紹介されていた。

本書の冒頭部辺りに、著者による巻頭コメントが在るが、その中に「戦争」と在り、そのコメントが発せられているのが2021年と判る。既に「戦争」は長い、“第1次”とでも呼ぶべき動きは8年近くも続き、昨今話題の“第2次”とでも呼ぶべき動きは既に3年目である。こうした中であるからこそ、「ウクライナ」とは「何なのか」を学ぶ材料を供したいというのが、著者の強い願いなのだと、本書に触れながら思った。

研究者の世界のモノではなく、一般向けに「ウクライナ」を歴史という事柄を軸に語っている本書である。上巻だけでも読み応えがあったが、早速に下巻も読みたい。否、読まなければならない。

『極北ラプソディ2009』

↓『極北クレイマー』の続篇という感じである。が、所謂「桜宮サーガ」の様々な人物が登場する群像劇風な雰囲気も色濃いと思う。

極北ラプソディ2009 (講談社文庫 か 115-9)



↑作中人物達は「色々と在った来し方」を半ば振り返りながら、新たに踏み出して行こうとするような様相を見せる。そんな様が北海道の架空の街を舞台に展開している。

極北市は終に財政破綻に至ってしまい、閉鎖已む無しとされた市民病院が存続というようなことになった中、世良医師が新任の院長として登場していた。世良院長の下、極北市民病院は極々限られたスタッフで新たな体制を築いて活動に勤しんでいた。今中は極北市民病院での仕事を続けている。医師は世良院長の他は今中だけで、今中は副院長兼外科部長ということになった。

こういうことで本作の中心視点人物は今中であるが、多くの人物が登場して展開する物語ともなっているので、視点人物は適宜切り替わる。

極北市民病院は医師が2人だけで看護師も数が少なくなっている。そこで救急対応を廃止し、雪見市の極北救命救急センターにそれを全て依頼している状態である。

それでも極北市民病院に対して救急対応の要望は在る。世良院長は頑なに断る。やがて或る出来事を契機に、世良院長は今中を極北救命救急センターに出向させる。

極北救命救急センターはドクターヘリの運用もしているセンターだった。直ぐ傍に各診療科の病院が在って、救急治療が落着いた患者をそちらへ収容するということも出来る。出向した今中は桃倉センター長や、速水副センター長、花房師長、伊達医師達と出会う。

速水副センター長は東城大学からやって来た。色々な想いが在る人物だ。花房師長は彼を追うように北海道へやって来たという経過が在った。

こういうような中、様々な人達が「人生の区切り」というような様子の中に入って行く。市民病院での摩擦の行方や、ドクターヘリを駆使した懸命な救出作戦の顛末等、面白い場面が連続する。

方々の病院再建を手掛け、極北市民病院へやって来たという世良院長は、『ブラックペアン1988』、『ブレイズメス1990』、『スリジエセンター1991』に登場した、あの世良と同一人物である。その3作品での出来事を通じて彼の中に芽生えている様々な想いというモノが示唆される描写も在る。

群像の様々なドラマが散り、そして集められるような物語ではあるが、底流に「財政破綻の中で何とか病院を再建、または新しい形で維持しようとしている街」と「ドクターヘリの運用迄している救急センターを擁するというような街」を対比させ、「人々の為になることをするとは如何いうことか?」を考える材料を示そうとしているようにも感じた。

本作の登場に先駆けて、作者は何度も北海道を訪れていて、そこでの見聞や観察が作品には随分と反映されているように見受けられた。作中人物達が在る街の様子、ことに冬季の感じは「判る…」という感じで惹かれた。ドクターヘリも、作者は体験してみようと、タイミングが合わずに何度かの再挑戦をしながら搭乗してみたらしいが、医師達とヘリコプター運用担当者達とのやり取り等、凄く真に迫る感じで引き込まれた。

なかなかに興味深い物語だ。御薦め!

『極北クレイマー2008』

↓題名に在る「極北」は、作中の北海道に在る架空の都市の名である。色々と「暗示的?」な内容が込められた、興味深い小説であると思った。

極北クレイマー2008 (講談社文庫 か 115-8)



↑本作も所謂「桜宮サーガ」の範囲ではある。少し知られた“関係者”が現れる、または存在が示唆されるという描写は在るが、寧ろ本作なりの作中人物達の物語に纏まっている感である。

本作は、極北市民病院にやって来た医師の今中が主要視点人物となっている。今中が不在な部分では視点人物が適宜切り替わる。実在した事件を参照にしたような出来事、実際の出来事を参照に少し戯画的に描写される様子等が折り重ねられて行くのだが、状況の中に身を投じた今中が少し踏み出そうとするような物語でもあるかもしれない。

外科医の今中は、外科医となって8年目で極北大学から極北市民病院に赴任することになった。医学部を擁する極北大学は極北市で起こったが、少し離れた雪見市に移った経過が在った。今中は、移った後に大学に入って医師になっている。

極北市は、遊園地、スキー場、ホテルと上手く行っていない観光施設、赤字のローカル鉄道路線を抱え、更に市民病院の経営状態も好くない情況で、これらは「赤字5つ星」とも呼ばれており、財政破綻の危惧が在るとされた。

極北市民病院に赴任した今中は外科部長を拝命したが、「非常勤」という待遇となっていた。色々とローカルルールのような、妙な様子に触れながら奮戦することになる。

今中はその赴任以前に極北市民病院で起こった出来事を聞き及んだ。難産で帝王切開となった際、妊婦と子どもが亡くなってしまったという事案が在ったという。この事案が「事故」という扱いになって行くのかもしれないということだった。

酷い財政難とされる街の病院での様々な人達の物語が在り、他方に妊婦と子どもが亡くなってしまったという事案の件が展開する。なかなかに興味深い。

本作の舞台になるのは、北海道の架空の街だ。北海道内に長く住んで居て一定の土地勘は在るのだが、そういう目線で観て、「極北市」や「雪見市」がどの辺りなのかが判り悪い。作中に「札幌」は出て来る。そして札幌と架空の街との間は車で1時間余りという距離となってはいる。

北海道内には、観光系の施設運営が巧く行かなかった、嘗て立地した企業が起こした大きな病院のようなモノを引継いだというようなこと、その他の様々な要因で財政破綻してしまったという自治体が実在する。本作の「極北市」はそこをモデルにしているというように語られる場合が在るが、自身は作品を読んでそういうようには余り感じなかった。

寧ろ、本作では少し突き放して観た場合に「無茶?」というような資金投下をして財政が行詰る、そういう中で何処となく行政が「私?」というような雰囲気も在り、必要とされるサービスの運営等に「支障?」という様子を、実在の自治体での取材内容を参考に、少し風刺的、戯画的に描き出した創作だと思った。そういう様子を見詰めることになる今中と、居合わせて出逢った様々な人達との物語が本作である。

或る意味で「桜宮サーガ」のシリーズ「らしい」という作品だと思う。個人的には、終盤で街を去った人達の「その後」が少し気になる面も在った。愉しい作品だ。

『ひかりの剣1988』

↓なかなかに愉しい小説だった。

ひかりの剣1988 (講談社文庫 か 115-11)



↑好敵手として競い合う若者達が、各々に研鑽を重ねる中で何かを掴んで行くような、爽やかな物語であると思う。

本作も所謂「桜宮サーガ」の作品ということになるかもしれない。少し前に読了した『ブラックペアン1988』と重なる時期の出来事と設定されている。そして本作には『ブラックペアン1988』にも登場する人物が登場している。

大学医学部の学生達の学園生活というようなモノに通じているのでもないが、彼らも様々なクラブ活動に取り組んでいて、方々の医学部のクラブが集まる大会という催しも在る。そういう様子をモデルにしているのが本作の物語である。

大学医学部でも剣道部の活動が在る。医学部剣道部による剣道団体戦の大会が毎年催されていて、優勝旗である「医鷲旗」を手にすることを目指して競い合っている。

(東海地方の架空の街である)桜宮市の東城大学医学部の剣道部で主将を務める速水晃一、東京の帝華大学医学部の剣道部で主将を務める清川吾郎は互いを意識し、互いを乗り越えて「医鷲旗」を手にしようと剣道部の活動に取り組んでいる。

チームを盛り立てようと過ぎる程に真面目で熱心な速水に対し、天才剣士と呼ばれながら何か力が抜けている感の清川と好対照だが、物語は速水の視点の節と清川の視点の節とが概ね交互に現れて進んで行く。各々の暮らしや剣道の活動の様子等が描かれて行くことになる。

この両者に剣道部顧問の高階が絡む。高階は帝華大学医学部に学んだ、大学教員でもある医師だ。そして剣道部のOBで、その学生時代には、帝華大学が少し遠ざかってしまっている「医鷲旗」を手にした経験も有している。米国研究から戻って帝華大学で剣道部顧問を務めることになったが、直ぐに東城大学医学部へ転出することになった。東城大学に移った高階は剣道部顧問を引き受けた。結果として、高階は速水と清川の両者と関わることになって行く。因みに、この頃の高階の動きが『ブラックペアン1988』に詳しく出ている。

速水と清川は各々の出逢いを経ながら活動をする。清川は謎の女剣士の朝比奈ひかりと出逢う。速水は、帝華大学に入学出来ずに東城大学に入学した清川の弟を新入生として剣道部に迎えた。互いを意識する東城大学や帝華大学の他にも熱心な活動を続ける各地のチームとの競い合いも在る。彼らが何を見出して、何を掴むのか、クライマックスの「医鷲旗」を賭した大会での速水と清川との対決迄、眼が離せない。

聞けば、医学部に学んでいた作者も学生時代に剣道部で活動していて、「医鷲旗」のモデルになった、各地の大学医学部の剣道部による大会に参加していた経過が在るそうだ。そういう作者自身の青春の日々が作中にも反映されているのであろう。

所謂「桜宮サーガ」の作品ではあるが、独立した物語、剣道に真摯に取組む医学部学生達の青春という感で愉しめる。最終盤の試合の場面はなかなかに熱い!御薦めだ。

『自民党の大罪』

↓出先で一寸書店に立寄り、眼に留まったので入手し、所用の合間等に読み進めた。そして手早く読了に至った。

自民党の大罪 (祥伝社新書 702)



↑爽やかな読後感というようなモノは沸き起こり悪い内容だ。が、記憶に留め、考える材料にすべき内容であろう。

政党の名前に「大罪」を結び付けているという題名を見て、表現し難い違和感のようなモノも感じた。が、何か何時迄も続くような、妙な閉塞感に覆われているような気分が延々と蔓延しているように感じている中で、この「大罪」という言い方に変に惹かれていることに気付かされた。そして本書を手にしたのである。

冒頭部辺りで著者は例えを示している。気に入っていた飲食店が在って、時々立寄っていた。或る日、好んで頂く料理を頼めば、少し感じが違った。知っている仕上がりとは違ったのだ。聞けば、長く通っていた時の調理担当者が他界し、後継者が受継いだのだというが、残念ながら前任者のノウハウを受継ぐ、独自に研鑽して工夫してみるということでもなかったらしい。店の看板は何も変わっていないが、店で供する料理は変わってしまった。残念ながら、質的に劣化も否めない感じにである。

この御店のような感じの出来事が生じているのが「自民党」ではないのかと著者は説くのだ。著者の観方としては、1989年以降は、それ以前とは随分と様子が異なる感じになって行って現在に至るのだという。

そうしたことで、「劣化」を促すようなことが起った経過、「壊す」というような状況が生じた経過、そして数々の「問題」を具体的にキーパーソンを挙げながら説き続ける。或る意味では、漫然と感じていた何かに“形”を与えてくれるような感かもしれない。

嘘に嘘を重ねるようなことで居直り、判り易そうな敵を設定して攻撃してみて、言っていることの端々から「多分、よく判っていない」が明らかであるのにそのままになり、妙な忖度のようなモノばかりが幅を利かせる、そしてそれを否定して替えられない感じというのが、本書の全般に流れる観方であるように思った。

或いは、「自民党」というようなことに留まらず、この20年余りの間で、上述のような傾向が拡がり、深まっていて、「本当にそうだろうか?」と少し考えたいとでもすれば、「生意気だ!黙れ!」で「敵」に設定されてしまい、その居心地の悪さを避けようと息を潜めるかのような、「何となく息苦しい」が醸成され続けているのかもしれない。

結局、余りにも多くの「如何なものか?」は曖昧にしてしまったままでは好くないのだが、少なくとも「忘れない!」は必要だと思う。何かに関して、疑問が大きいので「忘れない!」とでも言えば「やくざめ!!」と罵られるというような例も個人的には記憶しているのだが、少し色々な情報は整理しておくべきであろう。

そうした意味で、本書は「必要な一冊」となっていると観る。

『スリジエセンター1991』

↓東海地方の架空の街、東城大学と大学病院の在る桜宮市で展開するシリーズの作品である。ドンドン拡がる世界が描かれた様々な作品を「桜宮サーガ」というように呼ぶ場合が在るようだ。本作もそのシリーズの一作である。本作も、所謂「バチスタ」のシリーズ各作品のずっと以前ということになる時代を背景としている。「バチスタ」のシリーズに登場する作中人物達の往時という様子が判るという面も在る。

スリジエセンター1991 (講談社文庫 か 115-6)



↑『ブラックペアン1988』が在り、続篇の『ブレイズメス1990』が在って、更に本作である。本作に関しては、「続篇」というよりも、『ブレイズメス1990』が「上巻」で、それを受けた「下巻」というような感じもする。

本作も、東城大学病院の若い医師である世良が主要視点人物となっている。作中、世良が全くいない場面では視点人物が適宜切り替わる。

<スリジエ・ハートセンター>(「スリジエ」は「桜」という意味のフランス語であるという。「cerisier」と綴るそうだ。)という、自身が手掛ける心臓の手術を中核とする新たな医療センターを開くことを目論む天城の活動は続いている。

天城は学会の場等での「公開手術」を通じて独自の術式をデモンストレーションし、様々な方面の注目を集めて協力を取り付け、新たな施設となる<スリジエ・ハートセンター>を建設して体制を構築することを目論んでいるようだった。活動を始めてから約1年、手術は未だ1例に留まってはいた。

こうした中、佐伯教授の外科では、黒崎助教授のグループ、高階講師のグループ、そして天城と「3派閥」のような様相になり、何やら内部で争うような「院内政治」めいた動きが在り、世良もそうした様子に巻き込まれて行く。

正しく「天才」という技術を持つ天城が絶賛される他方、色々と「足を引っ張る」という動きも在る。この天城が如何なって行くのか、そして世良も如何するのかという物語である。

作中、モンテカルロからやって来た天城は、部下ということになる世良を「ジュノ」と呼ぶ。「青二才」という程の意味のフランス語だという。多分、「若い」(jeune)という形容詞に由来するのであろう。モンテカルロで出会ってから、一貫して世良を「ジュノ」と呼んでいるが、天城にとっての世良は部下でもあると同時に、仲間であり、年少の友人、年が離れた弟というような存在感を放っていたのかもしれない。

世良は、独自な考え方で不敵な振舞を見せる天城に真正面から挑むように話し合うという出逢いをした。そしてその天城を見詰め続けている。駆け出しの外科医である世良にとって、誰も真似が出来ない技術を誇示する天城は眩しい存在で、その意図も読み難い。それでも世良は飽く迄も天城と向き合い、その話しを聴き、真摯に語らおうとしながら、部下として色々な仕事にも真面目に取組んだ。

結局、周りの人達は天城と真面目に向き合っていないのかもしれない。次第にそういう色彩が物語の中で濃くなる。天城を見詰める世良、「ジュノ」と頼みにする世良に呼び掛ける天城という様子に触れ、終盤の方は少し涙ぐむような感でもあった。

天城は、桜並木の向こうに世界的な水準の医療を提供する華麗な<スリジエ・ハートセンター>が建っている様子を夢見た。その行方は如何なるのか?そういう本作の物語だが、天才外科医が如何したこうしたということでもなく、この国の社会では存外に「この物語」のようなことが多く行われ、幅を利かせているのかもしれない。

ところで、「桜宮サーガ」の各作品に触れているファンとしては、他作品の作中人物の登場は興味深い。幾つかの作品に登場する救命部門で活躍する医師の速水が、本作に初めて大学病院での勤務を始めた新人外科医として現れる辺りが凄く愉しい。

単純に愉しい小説の3部作なのだが、色々と示唆に富んでいて興味深い作品だと思う。御薦め!

『ブレイズメス1990』

↓所謂「桜宮サーガ」の各作品をドンドン読み進めている昨今である。『ブラックペアン1988』の続篇ということになる本作を手にした。

ブレイズメス1990 (講談社文庫 か 115-5)



↑紐解き始めれば、頁を繰る手が停め悪くなってしまい、素早く読了に至った。

東海地方の架空の街、東城大学と大学病院の在る桜宮市で展開するシリーズの作品である。ドンドン拡がる世界が描かれた様々な作品を「桜宮サーガ」というように呼ぶ場合が在るようだ。本作は、所謂「バチスタ」のシリーズ各作品のずっと以前ということになる時代を背景としている。

『ブラックペアン1988』の主要視点人物であった新人医師の世良が本作にも登場する。題名に「1988」と付く作品に対して、本作は「1990」である。自ずと「その後の世良と周辺」という話しになって行く。そして本作でも、世良は主要視点人物ということになる。

本作の物語は少し意外な感じもする場面から起こっている。世良は外国へ向かう飛行機の中に在るのだ。

世良は医局長の垣谷助手が参加するフランスのニースでのシンポジウムに向かっていた。

世良は東城大学病院の外科から、別な場所での研修に出て、また東城大学病院に戻ったばかりであった。垣谷のニース行きに随行する役目が割り当てられるとは思っていなかったのだが、機上の人となったのには訳が在った。密かに、佐伯教授からの特命を受けていたのだった。

ニースでのシンポジウムでは垣谷を含めて何名かの発表が行われる。その発表予定者の中、天城という日本人医師の発表は、天城自身が編み出して実施している心臓の手術で注目されていた。この発表の際に、天城に会って佐伯教授の書簡を渡すようにという特命を世良は受けていた。

大注目だった天城は、シンポジウムでの発表を土壇場でキャンセルしてしまった。会場に現れなかったのだ。

佐伯教授の書簡の件を何とか解決しようと世良は必死に動く。そしてモンテカルロで天城に会うことに成功する。

やがて桜宮市に在る東城大学に天城は乗り込み、<スリジエ・ハートセンター>(「スリジエ」は「桜」という意味のフランス語であるという。「cerisier」と綴るそうだ。)という、自身が手掛ける心臓の手術を中核とする新たな医療センターを開くことを目論んで活動を始める。

こうした中、世良は天城を補佐する部下という体裁で働くことになって行く。

本作には「桜宮サーガ」の各作品を彩る様々な人達が登場する。モンテカルロからやって来た天才外科医の天城は、そうした人達の中で何を企て、如何いう動きを見せるのかという物語である。序でながら、若き世良の青春というような感じの部分も微笑ましい。

本作は2010年頃に初めて登場している。そして20年程以前という作中の時代設定だ。読んでいてそれを思い出し「或いは?」と思ったことが在った。

バブル景気や、その余燼で未だ方々に資金が出る余地も在ったような時期、医療や人材育成のような社会の基礎を築くような事柄にもう少し投資をするという着想も在り得たのかもしれないということを、「失われた…」と呼ばれる時間が少し続くようになった辺りで振り返っているような物語かも知れないというようなことをである。

モンテカルロからやって来た天城は派手な感じもする男―手近にこういう方が在ったなら、多くの人は面食らうような雰囲気だと思う…―だが、凄く独特な考え方で理想を追おうとしている。この天城が如何するのか、如何なるのかという「続き」も凄く愉しみだ。

極々アッサリと筋書きを纏めたが、様々な挿話の展開が凄く面白い。天城と世良とのやり取りも、何やら人生や社会を深く考えさせられるような面が在ったように思う。なかなかに愉しいので御薦めしたい。

『ブラックペアン1988』

↓所謂「桜宮サーガ」には、少し時間を遡った時期の物語も在る。なかなかに興味深く読んだ。

新装版 ブラックペアン1988 (講談社文庫 か 115-4)



↑『チーム・バチスタの栄光』を出発点としながら展開するシリーズである訳だが、本作はあのシリーズで描かれている時代から概ね20年遡った、1988年頃という時代が描かれる。「バチスタ」のシリーズに多彩な作中人物達が登場するが、そういう人達の一部が「当時の様子」で登場している。

「人気シリーズの作中人物達の過去」という意味で面白いが、そこに留まらないのでもないと思う。「1988年のとある大学病院」を舞台に、カリスマ教授が君臨する外科が在って、他所の名門大学からやって来て新しい技術の普及を訴える講師、物凄い技術を誇る少し曲者のベテラン医師、キャリアを重ねる医師達、そこに新たに入った新人医師や看護婦達(作中の時代は看護師ではなく看護婦が普通だった…)というような人達によるドラマが展開する。

本作の作者は医学者でもあり、大学病院に勤務して活動されていたというのだが、1961年生まれと聞く。ということは、概ね作者自身が新人医師として活動していた時期に重なる時期が作中に描かれているのだと思う。何か、ディーテールが凄く鮮明で、描かれている大学病院の世界を知るのでもなくとも、作中世界に放り込まれたように様子が迫って来る。

本作は、概ね新人医師の世良の目線で綴られている。御本人が全くいない場面では視点人物が適宜切り替わる。新人医師の世良が奮戦している他方、物凄い技術を誇る少し曲者のベテラン医師の渡海や、東京の帝華大学から移って来た高階が様々な思いで、君臨する佐伯教授の下で競う。そうした中で手術器具のペアンを巡る問題が発生して行く。世良は、渡海や高階と各々に色々な接点を持って行くこととなる。

本作で描かれる出来事は、作中の時間がもっと経った後、所謂「バチスタ」のシリーズでも言及が在る。「バチスタ」のシリーズで描かれる大騒ぎとは違うが、関係者達の中で重い意味を有するような出来事ということになる。関係者達の様々な想いや、色々な事情が交錯して発生する出来事という感である。

奮戦する世良の様を追いながら、複雑な事態の中に何時の間にか引き込まれるような物語である。なかなかに面白い!

『神の呪われた子 池袋ウエストゲートパークXIX』

気に入っているシリーズの小説で新しい作品が出ていることに気付くと、凄くそれを手にして読みたくなる。そうした小説は「少し御無沙汰している遠方の友人達に久し振りに会う」というような感覚を抱く。

↓このシリーズは「池袋の彼は御無沙汰だが、如何しているであろう?」という気分で紐解き始め、そして作品を愉しみ、頁を繰る手が停め悪くなり、素早く読了に至る。そして余韻に浸る。

神の呪われた子 池袋ウエストゲートパークXIX



↑1冊の本に4つの篇を収めているという様式、主人公が書き綴るか話して聴かせているかしている内容が一人称で綴られるという文章の感じは全く「相変わらず」である。このシリーズは新作に出会う都度に「彼が還って来た!」と嬉しくなる。

「池袋の彼」としたのは、このシリーズの主人公である「マコト」こと「真島誠」である。

マコトは、池袋駅西口の商店街で母親が営む果物店を手伝っている。更に、時々関係することが作中に登場するが、雑誌にコラムを綴るアルバイトもしている。こういう仕事の他方、マコトは「トラブルシューター」として池袋の街では少し知られていた。友人や、何かで出会った人達の困り事の解決に向けて、義侠心や激情に駆られて動き始め、智慧や人脈を駆使しながら奔走するのである。

池袋駅西口に、「池袋駅西口公園」という公演は実在している。別段に用も無かったが、東京へ南下した際に思い付いて池袋に出て、この「池袋駅西口公園を一寸眺めたことも在った。このシリーズの最初の頃に出た作品で、マコト達が公園を「ウエストゲートパーク」―「西口の公園」を英語に直訳している…―と呼び習わしていた。そこから『池袋ウエストゲートパーク』というシリーズ名が起こっている。

1冊の本に4つの篇が収まっているが、大概は各篇が四季に対応している。今般は、秋(『大塚ウヰスキーバブル』)、冬(『<私生>流出』)、春(『フェイスタトゥーの男』)、夏(『神の呪われた子』)と各篇に四季が宛てられている。

このシリーズでは多くの篇で「小説が登場した頃の“社会”の話題」が取り込まれている。今般はウイスキーの取引に異様な様子が見受けられること、著名人等の様々な情報が過剰な程度に漏洩していること、“闇バイト”というようなことで高齢者に暴力を振るうような凶悪犯罪が見受けられること、所謂「宗教2世」の問題と、最近の話題が取上げられているように思う。

何れの作品も、非道な振舞いをする者、卑劣漢、卑怯者を懲らしめるような内容も含まれるのだが、マコトが出会う人達の様子を通じて個々人の人生や、少しオカシイ事が放置されてしまっているかもしれないというようなことを考えさせられる。

今般の4篇では、標題作ともなっている『神の呪われた子』は考えさせられた。

強めな雨の日に店番をしていたマコトは、パンフレットを配ろうと現れた新宗教の活動をしている母娘に出くわした。それから何日かして、その時の高校生位の娘が1人でパンフレットを通行人に配っていた様子を見掛けた。見ていれば、娘は倒れてしまったので、マコトは彼女を助けようとした。

そんな出来事から、子ども達を支援する「子ども食堂」というような活動、子どもの虐待と親権という問題、虐待の下に在って精神が不安定になってしまって行く子ども達というようなこと等、考えさせられる話しが色々と出て来る。そして新宗教の教祖や取り巻きの異様な行動が在って、それを懲らしめるという顛末が入る。

こんな具合なのだが、この『池袋ウエストゲートパーク』のシリーズも長くなり、細かいことをやや曖昧にして長く続けているというような感じになって来たかもしれない。

最初の作品でマコトは19歳と明言した。そして30歳位迄は年齢を重ねたことを意識するような描写が在った。が、何時の間にかそういう描写は消えた。シリーズの最初の作品の頃に19歳とすれば、マコトは昭和生まれなのだが、何時の間にか平成生まれであるt示唆されている場面さえ在るようになった。

結局、シリーズが続く限りは「20歳代の最後から30歳代に差し掛かるような」という様子が続けられるような感じがする。

主に池袋やその周辺を舞台に、マコトが出逢う、そして見詰める不可解な出来事や運命、そして見守る様々な人達の人生という様子がテンポ良く活写されるこのシリーズは非常に愉しい。御薦めである。

『カレイドスコープの箱庭』

↓シリーズ各作品に共通となるが、読み始めると頁を繰る手が停め難くなってしまい、素早く読了に至った本作である。

カレイドスコープの箱庭 (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)



↑そして本書だが、作品の後に海堂尊作品の多くが紹介され、描かれている内容の時系列が判るように整理されたモノ、各作品中の出来事や、作中で言及が在る事項等を年表のように整理したモノ、そして『放言日記』と題した作者の作家活動等―初めて発表した時点で、作家活動が10年に差し掛かっていたそうだ。―に関して綴ったエッセイが収められている。愉しい作品と、興味深い附録も在る訳で、全て纏めて愉しんだ。

本作は「難しい手術が鮮やかに行われて来た現場で、何か不自然な事態?」という謎を解こうとする『チーム・バチスタの栄光』から起こったシリーズである。前作の『ケルベロスの肖像』でシリーズに幕を引くという構想であったらしいが、前作で描かれた出来事の少し後の出来事ということで本作が登場している。

物語の舞台は東城大学病院―第1作の「バチスタ」の一件もこの大学病院で発生している。―が在る桜宮市という、東海地方の架空の街となっている。

そしてこの東城大学病院の神経内科で「不定愁訴外来」という場所を担当する医師の田口が、本作を含むシリーズ各作品の主要視点人物というようになっている。

前々作、前作と東城大学病院は大変なことになっていた。貴重な大型医療機器や新しい施設が損なわれてしまうような出来事が相次ぎ、経営状況も厳しい病院は「閉鎖も已む無し?」という情況に陥ったことが、最初の章の田口と高階院長とのやり取りで示唆されている。そういう情況から、何とか東城大学病院は続けて行こうということになっていたのである。

このシリーズでは、多くの場合は田口が高階院長に役目を依頼され、懸命にそれに取組もうとするというように展開する。そこに色々な人達が関わる。出番が多いのは、厚生労働省の白鳥技官である。

本作で、田口は2つの依頼を受けた。1つは、手術後に死亡した患者に関して、病理診断時に検体の取り違いか誤診が在った可能性が排除出来ないという指摘が在ったとして、その件を調査することであった。もう1つは、遺体をCTやMRIで調べて死因や他の情報を得ようという「Ai」(オートプシー・イメージング)の取組を巡る国際シンポジウムを催すということだった。

国際シンポジウムに関しては、国外の研究者を招聘するようなことについて、ボストンに在る東堂―前作で登場したMRIの権威―に相談しに行くよう、既に旅行を手配済みであるという。そして準備に関して厚生労働省の白鳥技官にも協力を依頼済みであるという。

限られた期間で大きな催事の成功を目指す他方、「検体の取り違いか?誤診か?」の調査も在る。田口は調査に着手し、報告の素案を綴り、慌ただしくボストンへ飛んだ。そして東堂に迎えられた。

帰国した田口を白鳥が待ち受けていた。高階院長を交えてシンポジウムの準備に纏わる打ち合わせをしたが、他方で白鳥は「検体の取り違いか?誤診か?」の調査について「一緒に再調査しよう」と言い出す。

シンポジウムの行方、調査の顛末というのが本作の物語だ。

シンポジウムの行方に関連するが、「死因を究明すること」というような行為を巡って、作中人物達が議論をする場面が在る。あの場面は色々と考えさせられ、凄く読み応えが在った。

前作は「とんでもない事態」になってしまっていた。あれで「シリーズに幕」では少し落ち着かない。そこで本作が「フィナーレ」として用意されたのかもしれないと思いながら読み進んだ面も在る。

田口自身は淡々と普段の調子ではあるが、近くに、遠くに高い志を持って懸命に働く仲間達が在り、様々な課題に向き合っている。他方、押し出しが強く、不思議な知恵が廻る“探偵”の白鳥と、少し穏やかな“探偵助手”の田口が病院内での不思議な出来事の謎を解くような様子も在るという訳だ。

このシリーズに関しては、2020年から2022年の“コロナ”を受けた社会情勢の中で作者が綴った作品を契機に、「そう言えば読んでいない」と読み始めて夢中になった。“コロナ”を受けた情勢下の3作は、作者による様々な作品の作中人物達が登場している。その中に「東城大学病院の田口医師」、「厚生労働省の白鳥技官」が登場し、彼らの初登場を知りたかったので「バチスタ」のシリーズを手にしたのだった。

作者による“ワールド”の核となる「バチスタ」のシリーズそのものは本作で段落ではある。が、「バチスタ」のシリーズの作中人物も含めた人達も登場する、本書で紹介されている多彩な作品が在る。それらにも触れてみたいと強く思う。

偶々読んだ本が契機になって、ドンドンと読む本が増えている。こういうのも好いかもしれない。

『輝天炎上』

↓『チーム・バチスタの栄光』を出発点とする、所謂「桜宮サーガ」の一冊だ。大変に興味深い作品だ。

輝天炎上 (角川文庫)



↑このシリーズに少し共通する事項ではあるが、読み始めると「続き」が気になって、頁を繰る手を停められなくなる。そして素早く読了に至る。本作の場合は、頁を繰る手を停めることに、或る種の罪悪感のようなものだえ覚えるような按配だった。本当に読み進めることを停め難くなってしまう。

本作は『螺鈿迷宮』の直接的な続篇ではあるのだが、同時に『ケルベロスの肖像』の物語を少し違う視点で綴るという体裁でもある。所謂「桜宮サーガ」の作中世界の拡がりと深まりを体現した作品になっていると思う。

『螺鈿迷宮』の出来事から1年余りが経った頃の天馬大吉の様子が描かれる第1部から本作の物語は起る。

東城大学医学部で留年を重ねてしまっていた学生の天馬大吉は、「碧翠院桜宮病院」での出来事から戻った後は真面目に学業に取組んでいた。そして現在は4年生として普通に活動している。

11月の或る日、天馬大吉は女子学生に「天馬先輩」と話し掛けられた。留年を重ねている天馬が年長なので敢えて「先輩」と呼ぶ冷泉深雪は、学年屈指の優等生と言われ、育ちが良い雰囲気を醸し出す女性だった。4人の班が編成され、実習や各種の活動に取り組むようになっているが、天馬は冷泉とその班が同じだった。冷泉は、公衆衛生学の自由課題研究について、テーマを決めて取り組まなければならないが、テーマのアイディアを出して欲しいと天馬に言うのだ。

「碧翠院桜宮病院」での出来事を潜り抜けた天馬は「死因究明」というテーマを提案した。他の2人の班員達が言う案が煮詰まらず、天馬の案で取組むことになった。2人の班員は旅行やらスキーやらと飛び回っているので、天馬は冷泉と共に様々な関係者を訪ね、関係施設を見学し、「死因究明」というテーマを探って行くことになる。東城大学では、遺体をCTやMRIで調べて死因究明等に役立てるという「オートプシー・イメージング」(Ai)という活動に取組み、研究するという「Aiセンター」を設立する準備を進めていて、天馬達の課題研究は注目され、そして内容も評価された。

やがて天馬は5年生に進級した。病棟に出ての実習も増える中、天馬は「碧翠院桜宮病院」で出会っている患者の名を名簿に見出し、その担当をすることにした。格別に治療というようなことをしているのでもない末期癌患者である。この患者については、色々と話しを聴くということをしているばかりで、その担当として主治医となっているのは講師の田口だった。天馬は「碧翠院桜宮病院」で、経営者一族の桜宮すみれからこの田口の名は聞いていた。

東城大学では「Aiセンター」の取組が進み、建物も姿を見せ始め、運営に向けた準備検討会の活動も本格化する。そんな中、田口が天馬に接触する。「碧翠院桜宮病院」での天馬の経験に興味を示す他方、天馬は高評価の公衆衛生学の研究レポートの件を取上げ、学生代表として「Aiセンター」の運営に向けた準備検討会にオブザーバー参加することを提案した。天馬は田口の提案を受け容れる。

こうした動きの他方、本作の半ばの辺りでは『ケルベロスの肖像』で描かれた「Aiセンター」の事件に関する「裏側」が描かれて行くことになる。「アレはそういうこと?」が連発である。

終盤は『ケルベロスの肖像』で描かれた「Aiセンター」の事件になって行く。出来事が、天馬の視点で描かれることとなるのだ。

こういうことで『螺鈿迷宮』、『ケルベロスの肖像』に密接する作品なので、夢中で本作を読み進めた。

或いは前半部の、天馬と冷泉の研究という部分で浮かび上がる様々な問題が作者の主張したいないように通じるのであろうが、「主筋」は『ケルベロスの肖像』で描かれた「Aiセンター」の事件の裏側、一件の謎を明かすということになるのだと思う。その他方、「“医師”になって行く、“男”になろうとする天馬の成長」というような青春譚という部分が入り込み、そういう辺りにも心動かされる。天馬が「初めて“医療者”として接した“患者”」ということになる、「碧翠院桜宮病院」での出来事を通じて知り合った末期癌の老女について、半ば家族のような親愛の情も抱くようになるが、結局は他界してしまい、その臨終に天馬は臨む。天馬による懸命な心臓マッサージも奏功しなかったその時、田口は先輩医師として、人生の先輩として天馬の傍らに佇み、医師として死亡を確認する手続をするように促す。この場面が、何か心動いた。

同じ出来事も、観る人が変わる、視点が変わることで違う物語になるのだと思う。本作はそういうことを明らかにしているのだが、そこに主人公の天馬の青春譚が入り込み、何か凄く愉しい。御薦めだ!

『螺鈿迷宮』

↓「桜宮サーガ」という呼び方も在るらしい。東海地方の架空の街、東城大学と大学病院の在る桜宮市で展開するシリーズの作品である。

新装版 螺鈿迷宮 (角川文庫)



↑所謂「バチスタ」のシリーズ各作品の間隙というような期間に生じた出来事を描く物語で凄く面白い。「バチスタ」のシリーズで御馴染な顔触れも登場している。そして本作の主要な作中人物達が在る訳だが、逆に彼らも「バチスタ」のシリーズ各作品に登場する。そういう具合に“ワールド”が拡がっている様が面白い。

本作は概ね主人公ということになる天馬大吉の目線で綴られる。一部、天馬大吉が居ない場面で、別な視点人物で綴られている箇所も在る。「僕」と天馬大吉の一人称での語りも多く在る。思いも掛けず、天馬大吉が密かに展開した大きな事件の渦中に身を投じて行くようなこととなる。

天馬大吉は東城大学医学部の学生である。一緒に麻雀に興じていた後輩が順当に進級し、何時の間にか学年が上になっていたというような様子で、何度も留年してしまっている26歳だ。

この天馬大吉の幼馴染、小学生の頃から同級生だった別宮葉子は既に大学を卒業し、新聞記者として活躍していた。この葉子に天馬大吉は頼まれる。何かと噂の在る「碧翠院桜宮病院」に、病院ボランティアとして入り込み、様子を探って欲しいというのだ。看護学生や医学生を歓迎すると謳ってボランティアを募集しているので、天馬大吉が適任であるというのだ。「そんなもの…」と天馬大吉は断ろうとするが、行く羽目になってしまう。

「碧翠院桜宮病院」は長い歴史を誇る病院で、桜宮家が経営者一族ということになる。終末医療を手掛ける、院長が警察医として活動するというようなことで知られる。独特な運営でも知られる。他方、何か様々な好ましくない噂も在った。別宮葉子は好ましくない部分も含めて知るべく、内部に天馬大吉を送り込もうと画策したのだった。

天馬大吉はこの「碧翠院桜宮病院」に入り込んだ。御騒がせな姫宮看護師と出会い、何かドタバタとしながら病院内に在る天馬大吉は、かなりの頻度で次々に患者が死亡するという状況を不審であると考え始める。やがて、病院を経営する桜宮家が秘めているモノ、東城大学病院との関係で彼らが抱いた想い、そうしたことから桜宮家の人達が取った行動、更に事が巡って天馬大吉自身の色々な事柄にも行き着く。

医学部に入ったものの、何か勉学に励むということをし損なって「留年」を重ねてしまっているという天馬大吉が、人生の新たな一歩を踏み出して行くことになるという感である他方、例えば「金田一耕助」のシリーズでも思わせる一族の怨恨というような事柄が絡む底流が在って、加えて「実は大きな問題?」という社会のテーマも絡まり、凄く味わい深い。

なかなかに愉しんだ作品である。御薦め!

『ケルベロスの肖像』

↓凄く愉しんでいて、ドンドン読み進めているシリーズの一冊である。

【映画化原作】ケルベロスの肖像 (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)



↑シリーズ各作品に共通となるが、読み始めると頁を繰る手が停め難くなってしまい、素早く読了に至った。

本作は「難しい手術が鮮やかに行われて来た現場で、何か不自然な事態?」という謎を解こうとする『チーム・バチスタの栄光』から起こったシリーズである。

第1作の「バチスタ」の一件は東城大学病院で発生している。物語の舞台は、この東城大学病院が在る桜宮市という、東海地方の架空の街となっている。

この東城大学病院の神経内科で、「不定愁訴外来」という場所を担当する医師の田口が本作、またはシリーズの主要視点人物というようになっている。本作の場合、田口が場に在る場面では田口が視点人物となっていて、居ない場面では別な人物に視点人物が適宜切り替わっている。本作については、大半が「田口の回顧」、「田口が臨む事態」というような筆致になっていると思う。

作中に「アリアドネ・インシデント」という表現が出て来る。これは前作である『アリアドネの弾丸』で描かれた事件を指し示している。その「アリアドネ・インシデント」から1ヶ月程を経た頃からの出来事が本作の物語ということになる。

東城大学では、遺体をCTやMRIで撮影して画像診断データを残し、死因の判断やその他の事情を知るために生かす「Ai(オートプシー・イメージング)」という技術を研究、活用することを目指し、「Aiセンター」の開設を準備しようとしていた。

技術そのものに関すること以上に、各々の立場で様々な考え方を前面に押出すグループが幾つか在り、新たに設ける「Aiセンター」のセンター長の選任は難航していた。そういう中、東城大学病院の中で「リスクマネジメント委員会」の委員長を務めている田口が推され、センター長に就任することとなった。

センター長を引き受けることになった田口が奮戦する中、東城大学病院に搬入され、稼働に向けて準備が進められていた新しいMRIの場所で忌まわしい事件が起こってしまった。その事件が「アリアドネ・インシデント」で、それの解決を図るというのが前作だ。

その「アリアドネ・インシデント」を乗り越え、いよいよ「Aiセンター」の建物が姿を現し、関係者による協議が重ねられて開設への歩みが早まる。

他方、田口や高階院長が気に懸けたのは、「東城大とケルベロスの塔を破壊する」という奇怪な脅迫状が舞い込んでいるということだった。関係情報の収集を試みるが、捗々しく進まない。

脅迫状の件が懸念はされるが、「Aiセンター」には関係スタッフが揃い、新たな目玉となる最新鋭の巨大なMRIがやって来ることになった。高階の学生時代の仲間でもあり、米国で研究活動を続け、MRIの権威として高名な東堂がやって来て「ウルトラスーパーバイザー」と号して積極的に活動し始めたのだ。

40トンも在るという巨大な最新鋭機器を運び込むという一騒動―「“アレ”を使った?!」と少し驚いた乗物が登場した…―まで在って、新たにオープンする「Aiセンター」の講堂で公開セミナー(講演会)を催すという運びになる。

「Aiセンター」としては、遺体の画像診断を通じて、死因不詳ということになってしまった例の死因を解明する成果を示すことも出来て、その活動への期待も高まっていた。そういう中、何処か「文化祭」的な愉しく華やいだ雰囲気の公開セミナーの準備が進む。

「そして如何なって行く?」というのが本作の肝である。

東城大学病院に怨恨を抱く人達、「Aiセンター」の活動に否定的な人達と、色々な人達が暗躍し、センター長に担がれた田口や、御馴染の厚生労働省の白鳥技官、彼らに協力する人達が立ち向かう。最後の最後迄、目が離せない物語であると思う。

少し長く続いたシリーズな訳だが、シリーズ最初期から続けて登場している田口や白鳥は少しずつ変わり、高階院長というような人は様々な面や、その来し方を見せるようにもなっている。そういう様子、「シリーズならでは」な愉しみ方も在るであろう。更に言えば、作者は或る作品で仄めかす、または明かす来し方に関するようなことについて、順次別作品として綴り続けるというようなこともして、シリーズの「ワールド」を創り続けていると言えるかもしれない。

現在となっては「少し以前の…」ということにもなる本作だが、全く色褪せてはいない。かなり愉しんだ。広く御薦めしたい。

『アリアドネの弾丸』

↓最近、凄く愉しんでいるシリーズの一冊である。

新装版 アリアドネの弾丸 (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)



↑読み始めると「続き」が凄く気になり、頁を繰る手が停められなくなってしまう。素早く読了に至った。

本作は、御自身も医学者であるという作者による、大学病院の様子や医学関連の話題が織り込まれている物語のシリーズである。所謂「バチスタ」のシリーズだ。

東海地方の架空の街、東城大学を擁する桜宮市が物語の舞台である。物語は主に東城大学病院で展開することになる。

この東城大学病院の神経内科で、「不定愁訴外来」という場所を担当する医師の田口が本作、またはシリーズの主要視点人物というようになっている。本作の場合、田口が場に在る場面では田口が視点人物となっていて、居ない場面では別な人物に視点人物が適宜切り替わっている。そして作中人物達が色々と話していて、田口がそれを聴いている場面になると、話しを聴いて田口が思っている事が綴られるのだが、寧ろ多くの台詞を話している別な作中人物の視点になっていると錯覚する場合も在る。言い方を換えると、一般にはやや馴染みが薄いような、医学関係の話題が入り込むという様子であるにも拘らず、読んでいて昨夕世界に入り込み易い筆致であると思う。そんな訳で、東城大学病院で始まったシリーズは次々と書き継がれ、作者が創る作中世界は拡がり、多くの作品の劇中人物が「相互競演」という様子の物語も登場するようになって、興味深いことにもなっている。

本作の題名に在る「アリアドネ」について、作中にも劇中人物の台詞として言及が在るのだが、ギリシア神話に因む言い方であるそうだ。ミノタウロスを倒すべく迷宮に入り込むテセウスに、アリアドネは糸玉を渡した。迷宮の入口に糸を結び付け、糸を繰りながらテセウスは進んだ。ミノタウロスを倒した後、テセウスは糸を伝って入口に無事に戻った。そういうことから「謎を解く道筋を示す」という程の意味で「アリアドネ」という表現が出て来る。本作は、奇妙な事態を解いて行くという物語になる。

本作の物語は、少し衝撃的な場面から起こる。

東城大学病院に、身体を横にしてというのでもなく、身体を起こした座って居る状態で検査が出来る「縦型MRI」というモノが設置されることになった。この設置作業を進めるため、関係業者が派遣した若いエンジニアの友田が、連日のように朝から夜迄、MRI診断を担当する医師の島津や、技師の神田と共に、熱心に仕事をしていた。

或る朝、神田が現場に行くと友田が倒れている。深夜迄作業に打ち込んで眠ってしまったのであろうと思って起こそうとすれば、友田は冷たくなっていた。島津は田口を伴って、友田が死亡したことを確認した。

こういう衝撃的な出来事が起こる少し前の様子に遡り、一連の経過が在って、友田の死という出来事に至り、出来事の展開、更に別な出来事というように物語は動く訳である。

このシリーズに何度も登場している「Ai」というモノが在る。これは遺体をCTやMRIで調べて、死因の特定等に役立てる、または詳しい画像データを保管することで不審な事が在る場合に後から調べられる可能性を残すというようにして行こうという動きだ。(医学者としての作者が、実際にこうした関係の研究に携わっているようである。)

友田の突然の死より以前を振り返る部分の冒頭、田口は高階院長から辞令を渡される。辞令に「Aiセンター長」と在り、田口は驚く。

東城大学病院では「Ai」に取組む「Aiセンター」を設けるということになった。準備のための会合で「センター長」を選任することになった。MRIを駆使した画像診断の専門家である島津、法医学の教授である笹井という有力候補が挙がっていたが、なかなか纏まらない。そういう中、医療事故等に対応する、そういう場合の死因特定というようなことに取組む「リスクマネジメント委員会」が在って、それの委員長を務めている田口が適任であるという話しが沸き上がった。

不承不承、田口は「Aiセンター長」を引き受けることになった。そして、やがて施設が竣工する「Aiセンター」の活動に向けてセンターを指導する組織を構成し、色々な意見の調整を図って行かなければならないこととなった。

田口はその「Aiセンター」の準備に向け、自身が恃みに出来る人材を招き入れようとした。そしてオブザーバー資格で、厚生省の白鳥技官を加えた。シリーズの最初の作品から登場している不思議な人物である。

「Aiセンター」の準備に向け、携わることになった、各々の様々な思惑を有する人達が意見を戦わせるような展開が続く。そういう中、友田の突然の死が在り、数日後には更に奇怪な事件が生じてしまう。

「Aiセンター」の準備について、法医学や司法に関する見地から警察庁の元局長である北山が迎えられていた。この北山が、友田が携わっていたMRIの場所で死亡していた。銃で撃たれた、他殺と見受けられる状態だった。そして容疑者として高階院長が拘束された。

北山殺害の容疑者になってしまった高階院長だが、動機は収賄の隠蔽という話しになり、近日中に警察が病院の家宅捜索に踏み込むという話しにもなった。そういうことになれば、簡単に立ち直ることが出来ないことになると、田口は苦慮する。そして白鳥と共に状況の謎を解き、高階院長の嫌疑を晴らそうとする。

真実へと導く糸を、如何にして掴むのか?本作では、白鳥が殊の外冴えている。“名探偵”風で爽快だった。

MRIのような特殊な装置を物語の舞台装置として大胆に使う面白さが在るのだが、他方で「死因が詳しく判らないままというのが多く、少しでも改善した方が?無理な負担が生じるという程でもないやり方も在る」という問題提起も交るように思う。

非常に愉しい作品で、広く御薦めしたい。

『ルポ スマホ育児が子どもを壊す』

保育所に在って、子ども達の様子の中に、懸念を抱くような状況が見受けられるという話題を綴った記事が耳目に触れたことが在った。凄く気になったのだったが、詳しく関連の話題を纏めた本が登場したという情報も在った。そこでそれを読んでみようと思い立った。

↓そうして入手した一冊だが、休業日の昼前に届き、早速に昼頃から紐解き始め、午後から夜、早朝とドンドン読み継いだ。と言うより、本当に頁を繰る手が停められなかった。そして素早く読了に至った。

ルポ スマホ育児が子どもを壊す



↑正直、何か「衝撃的な内容」というように思った。薄々に感じていたことが可視化されたような感じだ。読後に余韻というのか、大きな溜息のようなモノが漏れる。それでも、こういう話しは知っておくべきなのであろう。

便利な道具が登場し、それが人々に歓迎されて普及すると、その道具が在ることが当然化し、やがてその道具が在ることが前提であるかのように社会の様々な仕組みが変容して行くということが在ると思う。史上、そういうようなことが繰り返され、積み重ねられて来たと観る。自身の生きた時間の中、そういうような例として顕著なのは、携帯電話やその発展形ということになるスマートフォンことスマホが普及し、在ることが当然化し、在ることが前提であるかのように社会の様々な仕組みが変容して行ったという例を思い浮かべる。そしてそのことにより、他の要素とも相俟って、人々の性格や心情や行動様式も変貌してしまうのかもしれない。本書には、そういう状況が描かれる。本書は、保育所や幼稚園、小学校、中学校、高校というように、所謂「教育の現場」を広く取材した状況を整理している。スマホの普及という中、加えて感染症の問題を受けての社会の変化という中、子ども達の間に起こっていることを観て考えるという内容である。

極個人的なことだが、自身はスマホは使っていない。持ってもいない。殆ど触ったことさえもなく、使い方が判らない。現在の電波に対応して利用可能ながら、旧い型の携帯電話はとりあえず所持はしているが、使用可能性が生じる旅行の様な場合に持ち歩くのみで、日頃は電源さえも入れずにその辺に置いている。と言うのも、携帯電話の普及の少し以前、深夜に拙宅の電話が不意に鳴り出し「ここへ来て、何とかしてくれ!」と呼ばれてしまうというような例が相次いだ。「馬鹿野郎!」と断る訳にも行かないので対応する。運が悪いと週に複数回、そういうのが発生する。そういうことが在って止むを得ずに動いた旨の話しになると「余計な事をしている」というニュアンスを滲ませたモノの言い方をする方も現れる。では「馬鹿野郎!」と断れば善いのか?そういうことにもなり悪い。そんなことが在ったので、普及し始めた携帯電話等を使えば、深夜の拙宅に限らず、何処に居ても「ここへ来て、何とかしてくれ!」と呼ばれてしまうということを危惧した。そこで携帯電話を持たずに居た。何処か、他地域へ旅行に出るのでもなければ、居所は在る程度限られる訳で「用が在ったらここへ電話してくれ」で済む。年月を経て、携帯電話がスマホに換っても、自身のやり方は変えていない。他方、パソコンは愛用し、ネットは利用してはいる。自身はそれで不自由は感じない。因みに、不意に「ここへ来て、何とかしてくれ!」と呼ばれてしまうというような展開は見受けられなくなって久しい。が、一頃は「何やら他所から色々と言われて、自身の安寧な暮らしが破壊されかねない」という程度にも思った一時期が在ったことは確かで、それが契機で携帯電話等から何となく距離を置いたという経過ではあった。

こういう「昭和50年代以前位の遺物」というようなこともしている関係上、本書に挙がる様々な様子は驚きの連続だった。

インターネットが普及して行こうというような1990年代の末ころだった。或る方が言っていた。「何事かに興味を抱き、調べて考えようとすれば、資料を探し出すようなことに労力の8割やそれ以上を要する様子だったと思う。ネットが在れば、そういう資料を探し出すようなことに要する労力は1割や2割になることであろう。より広く深くモノを考えるようになるのだと思う」とである。自身はそれに賛同していた。実際、「これは何?」とでも思えば気軽に手軽に調べて、何かを考える材料にして行くことが可能で、知識はドンドン拡がって、色々と考えも深まると思う。個人的にはそういう程度に感じて、現在に至っている。

そういうことが、本書によれば「必ずしもそうではない」ということであるらしい。様々な幅広い情報をドンドン得るのではなく、極々限られた範囲の話しに触れ、限られた範囲の話しを共有し得る細切れな人間関係を構築し、その中でゴチャゴチャとしているというようなことになっているらしい。加えて「何でも一律」に「するな!」の、感染症の問題の中での行動様式が何時までも尾を引いていて、一寸した文化活動での成果を顕彰するようなことまでも「浮く」と忌避するような、訳が判らない様子が生じて拡がっているようだ。そういう状況が、様々な例を通じて描かれるのが本書である。

「多様性」を容認することが勧奨されてはいる。が、実際には「多様性」が辺りに存在するものの、「少しでも違えば判らんから一切関知しない」という様子にもなっている。「多文化共生」とよく言う。何処か遠い場所から偶々辺りにやって来た人達について、少しなりとも解り合って、互いに好いように暮らそうという考え方の筈だ。が、何処か遠い場所から偶々辺りにやって来た人達について、「解らんので放って置け」が大手を振ってしまうような様子かもしれないと本書では指摘されていた。

スマホが普及し、在ることが当然化し、在ることが前提であるかのように社会の様々な仕組みが変容したことにより、他の要素とも相俟って、人々の性格や心情や行動様式も変貌している。それが「思いも寄らない」というのか、「首を傾げたくなる」という様相を呈している。そうした傾向に、感染症の問題での対応で「壊してしまった?」というような様々な様子が様々な影響ももたらしている。

「個人的にはお子さんが在るのでもなく、こういう問題は無関係では?」とでも言われそうだが、自身ではそういうように思わないので本書を手にした。「出来ない」を連呼でもなく、「可能な範囲で出来るように」という考え方であるべきだと思っているが、世間は「出来ない」の連呼かもしれないと観ている。そういう意味も在って、本書で取上げているような話題は知っておく必要が在ると思ったのだ。

読んでいて些か暗澹たる気分になる場合も在ることを否定しないが、本書に在るような現実が手近な所にも在るのかもしれない。「詰まった様子」に絡め捕られてしまう、そういう状況が期せずして促されているという様子が在るのかもしれない。本書に在る情報は「とりあえず知っておく」という必然性が高いように思う。そうした意味で御薦めしたい。

『夫婦善哉・怖るべき女 - 無頼派作家の夜』

↓興味を覚えた作家の作品の選集を読んでみて、名前が通った作品が無かったという経過が在った。そうして気にしていると、その気になった作品が入った別の選集が在った。そこで手にしてみたのである。

夫婦善哉・怖るべき女 - 無頼派作家の夜 (実業之日本社文庫)



↑昭和10年代頃に大いに注目され、1947年に若くして逝去してしまった織田作之助の作品を集めた一冊で、興味深く拝読した。

織田作之助(1913‐1947)は大阪生まれで、現在の京都大学の前身ということになる旧制の三高を中退して作家活動をしていた。大阪をはじめとする関西地域の街を主要な舞台として人間模様が展開する短篇、中篇で知られる作家だ。

織田作之助が作家としての地位を確立していく契機となったとされ、「戦前以来の大阪の文物」というようなことに話題が及ぶと話題に上る機会が在る『夫婦善哉』という作品が在る。本書にはこの作品が収められている。そこで手にしてみたのだ。

『夫婦善哉』は1940(昭和15)年に登場した作品である。その時代、映画や演劇は盛んではあったと思う。言葉の掛け合いで愉しい内容を伝えるラジオドラマや演芸というようなモノは在ったであろう。が、そういうモノを通り越した、昭和後半や平成に入って以降にも見受けられた「短めな時間で回を重ねる連続テレビドラマ」を想起させるような感の雰囲気に驚かされた。

『夫婦善哉』には「うまいもん食いにいこか」と、外食に出て、現在にも続くような様々なモノを食べるというような場面が在り、それが大阪の文物を語る場面で引き合いに出て来る場合も在る。基本的には、芸者をしていた女性と、女性に入れあげて過程を棄ててしまった商家の男という2人が、色々な商売をやって、今一つ伸びずに商売を畳み、また新たな商売に勤しんでというような感じの一代記であるが、商売の様子を含む暮らし振りや、作中の時代の街の感じ等が実に活き活きと描かれていて引き込まれる。

本書には『夫婦善哉』を含め、10篇の小説と2篇のエッセイ或いは評論が収録されている。何れもなかなかに興味深い。何となく思った。織田作之助は、未来の在る時期からやって来て、奔放に生きながら幾多の作品を遺し、短い期間で何処かへふらりと去ってしまったというような、そんな様子で生きたのではないかということだ。

そういう作家との対話が愉しめるような一冊で、なかなかに興味深い。

『第三阿房列車』

↓既に「第一」と「第二」とを読了していて、「第三」が在るので「是非!」と手にしてゆっくりと読了した。

第三阿房列車 (新潮文庫)



↑1954(昭和29)年から1955(昭和30)年に雑誌等に掲載され、1956(昭和31)年に纏まった本として登場したという本作である。勿論、最近とは随分と異なる事情の中での行動や出来事を基礎とする、「小説的な気分で綴る随想」という風の文章なのだが、「変な旧さ」は感じず、自身の来し方や、自身が生きて来た時代を少し突き放しながら見詰め、「聴いた人達が少し笑うようなことを大真面目に語ろうとしてみる」というような風情で実に愉しい。

本作は内田百閒(1889-1971)が、全くの思い付きのように列車に乗り、東京を離れて方々を訪ねてみるという経過を綴ったというシリーズで、纏まって本として登場した3作目ということになる。

最初の作(『第一阿房列車』)で「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」と冒頭近くに書いている。この、用と言うようなモノは無いが、移動してみること自体を愉しみ、何という程のこともしない旅の様、湧き起る想いを綴り続けた。独特な筆致の紀行文ということになると思う。1950年代から現在に至る迄、長く読み継がれている本作のシリーズは、紀行文の「古典」と言っても差し支えないと思う。

本作『第三阿房列車』では、長崎方面、房総半島、四国方面、松江方面、静岡県(興津)、熊本県方面というような旅をしている。実際の旅は1953(昭和28)年の10月や12月から、翌1954(昭和29)年、最後の篇は1955(昭和30)年の旅であるようだ。

結局、このシリーズは「1950年代(昭和20年代後半から昭和30年頃)」の社会や人々の変遷を、若い友人を引き連れて気儘に各地を巡ってみることを愉しむ内田百閒の目線で、自身の来し方に纏わる様々な想いも込めながら綴っているのだと思う。そんな訳で「紀行文の古典」であると同時に「小説的な気分で綴る随想」という風情なのだと感じる。

想い起すと、このシリーズの最初の作(『第一阿房列車』)では、急速に発展していた鉄道網の活動が戦時中というような事情で抑え込まれてしまい、漸く新たな歩みを始め、新しい列車や新たな強力な機関車も登場したというような「復興する鉄道」というような様子を眺めている様が感じられた。やがて鉄道網は、戦前の最も発展していたような頃のヨスを取り戻し、更に新たに色々と再編成されて行っている。本作『第三阿房列車』では、そんな再編成されつつあるような様子が少し出て来ると思う。

列車に乗って出発して、乗り続けるが“区切り”が必要なので到着地に入り、とりあえず宿を取って泊っていると内田百閒は嘯く。少し名前が通った作家が当地へやって来たと、報道関係者が「是非、御話しを!」と現れる場合も少なくない。内田百閒は、少し億劫そうに対応をする。その辺りが読んでいて笑った。

「当地の印象?」とでも問われれば「着いたばかりで判らない」と応じ、「訪ねる場所は?」とでも問われれば「特段に決めていない」と応じ、「何方かに御会いになる?」とでも問われれば「当地に知り合いという程の誰かが在るのでもない」と応じる。それでも写真付きで新聞記事になり、教員を務めていた頃の、嘗ての学生が「新聞を見た」と宿に訪ねて来るというようなことも在る。

こういう大真面目に惚けたことをしながらの各地への旅というのが面白いが、当時の列車の運行の様子や列車内でのサービスの様子、誘われて少しばかり動き廻ってみた時の雑感も面白い。

内田百閒は岡山出身で、このシリーズに綴られているだけでも何度も九州へ向かっているので、その都度に岡山を通っていると見受けられるが、岡山に滞在するという挿話は無い。本作にそういうことへの言及が在る。時間を経て故郷の街の様子が変わるのは在り得るが、岡山は戦禍で街の多くの部分が破壊されてしまい、何もかもが記憶に在る様子と変わっているから敢えて立寄らないのだという。「古里は記憶の中」ということのようだ。

このシリーズの全般を通じて、朝早くから動くことが不得手、というよりそんなことはしたくないとしている内田百閒であるが、本作『第三阿房列車』には朝の列車に乗込んで動くという様子が登場している。

個人的には、本作『第三阿房列車』に登場の九州各地の路線、山陽地方や山陰地方の路線、静岡県内や千葉県内の路線で列車に乗車した経験も在る。本作を読んでいて、そういう様子、自身の旅は内田百閒の旅よりも何十年も後ではあるのだが、沿線の雰囲気が頭の中に蘇った。軽妙さと精緻さが兼ね備えられ、抒情的な作中世界が描き込まれるというような作風だと思った。

「自分の流儀」を飽く迄も貫き、「心の自由」というようなモノと共に各地を随意に動き廻っているという様子を感じずには居られない、「小説的な気分で綴る随想」という風情の「紀行文の古典」が本作のシリーズだと思う。出逢えて本当に善かった。広く御薦めしたい。

追伸

↓読了している「第一」、「第二」に関して綴った記事を出したリンクを挙げておく。
>>『第一阿房列車』
>>『第二阿房列車』

『ジェネラル・ルージュの凱旋』

↓気に入ったシリーズの作品をドンドンと読み進めている。

新装版 ジェネラル・ルージュの凱旋 (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)



↑本作も、頁を繰る手が停め難くなり、素早く読了に至った。

本作は「バチスタ」のシリーズの第3作ということになる。第1作が在って、約9ヶ月を経たという第2作が在る。そして第3作は第2作で描かれる出来事と並行的に起こっている出来事が描かれている。故に第2作で描かれている事項も一部に出て来る。

東海地方の架空の街、東城大学を擁する桜宮市が物語の舞台である。物語は主に東城大学病院となる。この東城大学病院の神経内科で、「不定愁訴外来」という場所を担当する医師の田口が本作、またはシリーズの主要視点人物というようになっている。が、本作は視点人物を適宜切り替えながら好いテンポで進む。本作では、題名に在る「ジェネラル・ルージュ」、「血塗れの将軍」という綽名も在る、田口の学生時代からの仲間でもある、救急部門の担当部長である医師の速水が重要である。また速水が指揮を執るICUで勤務していて、前作の重要人物だった浜田小夜と仲が良い看護師の如月冴子も出番が多い。また、前作でも出番が在ったが、MRIを担当している、学生時代からの田口の仲間である医師の島津の出番も在る。加えて「バチスタ」の件で縁が出来た、厚生労働省の白鳥技官も登場している。というより、前作の物語と同じ頃に並行して起こっている出来事なので、前作に現れている白鳥技官は本作の出来事の時にも東城大学病院に居合わせているということになる。

前作では、或る夜にライブハウスで激しく吐血して昏倒した伝説的な女性シンガーの水落冴子が、ライブハウスに居合わせた如月祥子達の奔走で東城大学病院に救急搬送され、神経外科病棟の空いていた特別室に強引に収容され、忘年会の故に当直を代わって現場に在った田口が主治医を担うということになった一件が詳しく描かれた。本作では、この一件の際に、意識が戻った冴子が暴れてしまい、速水が応援に現れるというような様子が描かれている。

シンガーの水落冴子の件と、彼女や彼女のマネージャーで楽曲のアレンジャーを兼ねている音楽家の城崎が小児科の看護師である浜田小夜と交流する件や、浜田小夜の勤める小児科での問題に関連して、田口の出番が生じ、やがて事件が起きる件が前作の物語だった。対して本作は、その頃に生じた或る疑惑を巡り、田口が苦慮するという物語である。

忘年会の故に、少し若い兵藤医師に頼まれて当直を代わることになった田口医師は、自身が委員長を務めるリスクマネジメント委員会に宛てられた匿名の「告発文」について気に懸けていた。救急部門の速水部長が、特定の業者と癒着して不正を働いているのだという内容で、共犯者としてICUの看護師長である花房の名も挙げていた。

この件について、田口は高階院長と相談して院内のエシック・コミティ(倫理審査委員会)で速水の一件を審査するというように動く。このエシック・コミティ(倫理審査委員会)では、島津が手掛けようとしている、遺体をMRI等で検査し、死因の特定やその他の様々な分析の基礎となる有効な情報を得て行くという研究に関することが問題となっていて、何時までも結論が出ない状態になっていた。田口は、提出した速水の案件に取組むが、島津の件の様子を見ることにもなる。そしてその場面に白鳥技官も現れる。

本作の物語は「えっ?そういうことになる?」というような意表を突く形で展開する。同時に、近年の風潮で「無理?」なことを押し続けているかもしれない、「そもそも何故そういう話しになるのか?!」というような事柄、「極簡単に出来る大変に有益なことを手掛けてみるようなことが、よく判らない理屈で阻まれてしまっているかもしれない」というようなことを、小説作品という形で告発しているような側面も在るかもしれない。何か引き込まれた。

本作に登場する速水はなかなかに魅力的な男であると思う。何か独特な“磁場”のような何かを放って、場を仕切ってしまえるような雰囲気を放ち、強い信念と自信で仕事に邁進するが、細かいことに関してやや不器用かもしれないという人物だ。戦場で軍勢の先頭に立って、返り血を浴びることも一顧だにせずに果敢に戦う男というイメージで「ジェネラル・ルージュ」、「血塗れの将軍」という綽名が在るのであろうが、そういう綽名が登場するに至った挿話も本作には登場する。この速水の傍で長く働く花房や、彼を密かに慕う若い如月という様子も何となく好い。

更に本作では、ここまでの作品で「名前だけの登場」に終始していた、白鳥技官の部下である姫宮が姿を現す。この人物も一寸面白い。

不正とは無縁と見受けられる、熱い仕事振りが知られる、誰もが一目置くような人物の意外な一面が明かされて行き、同時に近年の風潮に疑問も投げかけられるような、なかなかに興味深い作品であると思う。御薦めだ。

『ナイチンゲールの沈黙』

↓愉しく読了したばかりの作品に「続篇」が在ることを知れば、酷く強い興味を抱く。

新装版 ナイチンゲールの沈黙 (宝島社文庫 「このミス」大賞シリーズ)



↑なかなかに興味深い展開で、頁を繰る手が停め難くなり、素早く読了に至った。

『チーム・バチスタの栄光』の続篇ということになる。あの作品の舞台となった、東海地方の架空の街である桜宮市に在る東城大学の大学病院が本作でも主な舞台となっている。本作の序盤で作中人物の台詞という形で言及が在るのだが、『チーム・バチスタの栄光』で描かれた出来事の9ヶ月後ということになっている。『チーム・バチスタの栄光』での出来事は3月頃ということだったが、本作は12月の出来事ということになっている。

本作にも東城大学の大学病院で神経内科に在って、不定愁訴外来の担当ということになっている田口医師が登場する。この田口の視点で進む感の物語なのだが、本作は適宜視点人物が切り替わりながら進行する。そういう感じで登場する人物に、看護師の浜田小夜が在る。本作では、田口が神経内科の仕事を進めていて、その病棟の当直に入る等しているが、東城大学の大学病院では救急対応のICUと小児科が入っている病棟が在り、本作ではそこの様子や関係者が登場する。浜田小夜はその小児科に勤務する看護師で、救急対応のICUに勤務する看護師の如月祥子と仲が良い。

田口は、忘年会の司会役を引き受けているという少し若い同僚の兵藤に頼まれ、大学病院の12階に在る神経内科の病棟で当直を代わって務めることになった。そんな夜から物語が起る。

忘年会の後、看護師の浜田小夜と如月祥子は街へ出て繁華街を歩き廻った。或る男に声を掛けられ、ライブハウスに入った。水落冴子という、伝説的な女性シンガーの、広く告知するのでもない幻のようなライブが催されるということで、2人はそのライブを聴いていた。2人に声を掛けた男は城崎といい、水落冴子のマネージャーで、楽曲のアレンジを手掛ける音楽家でもあり、ライブでもピアノを弾いた。歌が得意な浜田小夜をステージに引っ張って、一緒に歌おうというようなことをしていたが、そんな時に水落冴子が倒れてしまった。酷く吐血もしている。

救急対応のICUに勤務している如月祥子は、水落冴子を何とか助けたいと救急車を呼び、職場でもある東城大学病院と連絡を取る。そして浜田小夜も協力し、付き添う城崎も同行し、救急車で東城大学病院を目指した。

東城大学病院では満床状態で新たな患者を迎え難いということではあったが、如月祥子は各病棟に次々と照会電話を入れ続ける。12階に在る神経内科の病棟の特別室が空いていると判り、そこに受け入れを依頼した。そして吐血して倒れた水落冴子に救急措置が施され、神経内科の病棟の特別室に収容された。病棟で彼女を迎えたのが田口だった。

長年の過度な飲酒というようなことが在って、肝臓を患い、状況が非常に悪い水落冴子である。意識が醒めて、いきなり暴れるような状況で、病室が混乱した。田口の指示で救急の担当の速水が呼ばれた。田口と速水は学生時代の仲間でもある。本当に措置が必要になれば速水が援けるが、田口が水落冴子の主治医ということになって対応するという相談になった。

この一件で水落冴子と城崎と関わることになった浜田小夜は小児科病棟で、少し難しい状況の2人の患者の対応をしていた。5歳のアツシと14歳の瑞人は2人で1室に在る。眼球の底に癌のような腫瘍が生じ、眼球摘出手術をしなければならないような状況下である。色々な意味での“問題”が多々在る中、浜田小夜は懸命だった。小児科では、この5歳のアツシと14歳の瑞人のような難しい事例に纏わる患者、児童生徒のメンタル面での対応という課題が急浮上する。要請を受けて、田口は「不定愁訴外来」という対応を、彼らを対象に行うというようになって行く。

そんな時、街で殺人事件が発生した。殺害されたのは14歳の瑞人の父親だった。桜宮の警察では、警察庁から出向中の加納が部下である玉村警部補を引き連れて捜査活動を始める。彼らが東城大学病院にやって来るような頃、別な場所からも現れる者が在った。厚生労働省の白鳥技官であった。

こういうことで、大学病院の日常、訳アリな患者達を迎えて関係スタッフが懸命に活動しているという感の物語、他方で関係者側も少しばかり訳アリで色々な物語の中で活動という話しの感じなのだが、「14歳の瑞人の父親の殺害」という非常事態を受け、「謎解き」ということになって行く。

本作はその「謎解き」の面白さも在るのだが、寧ろ14歳の瑞人の物語、実は色々と訳アリな看護師の浜田小夜の物語という感じである。田口は、勤務している病院と周辺で起こっている状況を真摯に見守る感じで、傍らに現れた白鳥は卓越した調査力で問題解決に協力という感じだと思う。殊に14歳の瑞人の物語は何か心動く。

「ミステリー」を前面に押し出していて、それはそれで結構だが、訳アリな心優しき看護師と、複雑な事情を抱えながら人生を拓こうと、淡い恋のようなモノも経験しながら歩む少年の物語を主役コンビが見守るというような雰囲気に思った。少し御薦めしたい物語だ。

『チーム・バチスタの栄光』

↓少し前に大好評であったという作品なのだが、未読に終始してしまっていた。それを入手して紐解いてみた。

新装版 チーム・バチスタの栄光 (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)



↑なかなかに夢中になってしまい、頁を繰る手が停め難くなり、素早く読了に至った。

本作、『チーム・バチスタの栄光』は2006年に単行本が登場し、2007年に上下巻の形で文庫化されている。2015年に上下巻を一冊に合わせて「新装」の文庫が登場している。その「新装」を入手した訳だ。

本作を読もうと思い立った契機は、最近読んだ『コロナ黙示録』、『コロナ狂騒録』、『コロナ漂流録』である。この3作は、作者の過去作品に登場した様々な作中人物が、モデルが判るような多様な作中人物達と共に登場し、近年の動きを強く意識した作中世界の中で色々と在るのだが、核となっていたのが「バチスタのシリーズ」の2人の主要人物だった。そこで2人が初めて登場した作品である本作に強く興味を覚えたのだ。

本作、『チーム・バチスタの栄光』は東海地方の架空の都市である桜宮市に在る「東城大学」が舞台となっている。医学部を擁する大学で、大きな大学病院が在り、様々な医療活動や研究活動が展開している。

本作の物語はその東城大学病院の院長室から起こる。

神経内科に在って「不定愁訴外来」を担当する講師である田口医師は、月曜日の朝一番に院長室に来るようにと呼ばれて落ち着かなかった。地位等に執着が在るのでもなく、万年講師で淡々と「不定愁訴外来」の仕事を続ける田口は、院長室に立寄る機会は然程多くもないのである。

現れた高階院長は、田口に妙な依頼をする。非公式に「チーム・バチスタ」の調査を行えというのである。

「チーム・バチスタ」というのは、「バチスタ手術」という心臓の手術に取組むグループのことである。東城大学では、米国での豊富な経験を有している桐生を助教授として招聘した。桐生が「バチスタ手術」を手掛けるため、助手を務める外科医、麻酔医、人工心肺を扱う工学士、看護師という班を編成して取り組んでいる。このチームは難病の治療ということになる手術に成功し続けていて、大変な評判だった。田口が妙な依頼を受けた時点で30例の手術が行われていた。その30例の中、3例で術中死が発生してしまっていた。

外科手術のようなことと縁薄いままに活動を続けているものの、医師である田口の目線では「30例の中で3例の死亡」は、大変に難しい心臓の手術では「残念ながら避け難い」という範囲で在ると見受けられた。が、それでも調べなければならないと高階院長は言う。それは、執刀する桐生自身が「術中死が起ってしまうような様子に思い当たる何かが全く無く、判らないので客観的に調査を試みて欲しい」と高階院長に相談して来たからなのだという。

田口は調査を始める。「チーム・バチスタ」の面々に1人ずつ訊くという所から着手し、手術現場も観る。田口は、紛争が続くアフリカの国から搬送された心臓疾患の少年に対する手術が成功した場面を観た。結論が出せない調査だったが、未だ続けることになった。

そんな時、奇妙な男が現れた。高階院長が協力要請した厚生労働省の局長が寄越した男であるらしい。技官の白鳥であった。国外へ出張し、帰国した足で東城大学の病院へやって来て、院内の部屋に居候して活動を開始という、押し出しが強い、省内では食み出し者という風情の男だった。田口はこの白鳥を補佐するというようなことになり、「チーム・バチスタ」の調査を続けることになるのだ。

田口と白鳥が探り当てる真実は?という物語だ。現在読んでも色褪せない魅力が在ると思う。物語は主に田口の目線で綴られて展開する。前半は田口が懸命に関係者の聴取を続ける様子で、後半は白鳥が田口を従えて聴取を続け、やがて事の真相に近付いて行く。

実は顧みられているのでもない非常に重要な事柄、大病院の中の院内政治というようなこと、人の運とキャリアと、生命の価値、手術室のような特殊な場所での事件の意外な真相を明かすこと等、興味深い要素が詰まっている本作である。結局、登場から少し年月を経てはいるが、それでも面白い。

『コロナ漂流録 2022銃弾の行方』

興味深く読んだ小説に「続篇」が存在すると知れば、その作品にも興味が湧く場合が多い。

↓本作はそういう「続篇」ということになる。

コロナ漂流録 2022銃弾の行方 (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)



↑本作には、前々作、前作の内容を踏まえた事項も在るとは思うが、各々が独立作品なので、各々に愉しく読むことが叶うと思う。

2020年頃の様子を基礎とした『コロナ黙示録』、2021年頃の様子を基礎とした『コロナ狂騒録』と続き、更にその後となる2022年6月頃からの様子が描かれているのが本作ということになる。3作について知り、3作続けて読んだ。そうやって読んで思った。「巷の様子は何?こういうので善いのか??」という程度の湧き起る何かに、作者は衝き動かされるかのように次々と作品を綴ったのではないかというようなことだ。

「未知のウィルス」に揺らぎ、何か腰が据えられないような様相で混乱が続き、長期政権下の様々な弊害のような何かと相俟って、社会の劣化してしまったかのような様子が突き付けられ、やがて「銃弾」に戦慄したというような様子だ。これが3作を通じて描き出された物語だと思う。

前々作や前作と同様、本作にも作者がこれまで綴って来た種々の作品の劇中人物達が多数登場し、そしてモデルが何となく判る様々な劇中人物達も多く登場し、実在地名と架空地名が混在する「作中世界の日本」で、現実の動きを少し反映した情勢が在る中で展開している。“核”としているのは「バチスタ」のシリーズであることも前々作、前作から変わっていない。

本作でも「東城大学」が主要な舞台の一つになっている。「東城大学」は東海地方の架空の街、桜宮市に在る。医学部を擁し、大学病院が在る。この大学病院に在る医師の田口や、少し古い付き合いになっている厚生労働省の型破りな技官である白鳥が物語の鍵となっている。

ところで、本作の田口医師は「東城大学」の病院で神経内科の「不定愁訴外来」という場所の担当というのが本職だ。「不定愁訴」というのは「身体への明らかな異常が無いにも拘らず、様々な症状を訴える状態を指す医療用語」ということだ。そういうことで「丁寧に患者の話しに耳を傾ける」というのが、本作の田口医師の仕事なのだ。3作読み続けて、少し気になったので思わず調べた。(個人的には医療活動、診療科というようなことに明るいのでもない…)田口医師は、この本職の他方に、色々と病院内で役目を与えられて奔走するような感じにもなっている。登場作品ではそういう様子が描かれて来たことになる。

本作の物語は「東城大学」の病院に若手の医師が着任し、田口の部下という形になるのだが、考え方の違いで田口が苦慮しているというような様子が序盤に描かれる。やがて大学病院の敷地にヘリコプターが現れ、大きく状況が動く。

参議院議員選挙の運動期間であったが、候補者の応援演説をすべく桜宮市を訪れた元首相が街頭で銃撃を受けてしまったのだった。銃で元首相を撃った男は直ぐに現行犯逮捕された。

街頭で撃たれてしまった元首相はヘリコプターで「東城大学」の病院に緊急搬送されたのだった。しかし助からなかった。

この「元首相銃撃」の一件の後、「国葬儀」の問題、様々な不正が明らかになって行くようなこと等、色々と事態は動く。濃密な時間が流れ、最終盤は2023年1月に入っている。

濃密な時間の中では、「元首相銃撃」の一件の容疑者と宗教団体との問題、推し進められている万博に纏わること、「効果性表示食品」というようなモノに纏わる話題、株式等を巡る経済犯罪等、随分と情報量が多い。

「物語」として、多少の誇張と抽象で些か戯画化もしながら、「2022年頃?」と問い掛ける興味深い中身になっていると思った。そしてこの「2022年頃?」は、前々作の「2020年頃?」、前作の「2021年頃」に押出される、または牽引され、作者が「書かずに居られない」という様子になって綴ったのだと思う。

本作はノンフィクションではない。が、殆どリアルタイムで世の中の様子を見ながら綴った創作という本作(加えてシリーズの前々作と前作)の中には、「現実以上に現実味が在る真実に近い何か」が宿っているかもしれない。そういう意味で「あの何でも“コロナ”と言っていた時代?」ということで、後世に読み継がれるべき作品なのかもしれない。

一寸思うのは、或いはこの先の数年間の世の中の動きを受け、作者は衝き動かされてこの“コロナ”のシリーズのような、新たな作品を送り出すかもしれないというようなことだ。「或いは?」と頭の隅に入れておこう。