『渡辺錠太郎伝: 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想』

過日、旭川を訪れる機会が在って、街を歩いて常磐公園に立寄った。

公園の入口に「常磐公園」という園名が刻まれた立派な碑が在る。昭和の初め頃に出来た碑だが、文字は旭川に司令部を設置していた陸軍の第七師団で当時師団長を務めていた人物が揮毫したのだという。往時の陸軍では「師団長」は中将の階級に在る者が務めていたようだが、「常磐公園」の揮毫をしたのは渡辺錠太郎という人物だった。

「渡辺錠太郎」の名に聞き覚えが在った。彼は旭川での任務の後、大将に昇任している。やがて教育総監という陸軍首脳部の要職に就くのだが、「二・二六事件」の際に自宅に在った時に襲撃され、殺害されてしまった。その「二・二六事件で害されてしまった人物」として「渡辺錠太郎」の名を記憶していた。

↓そういうことでこの「渡辺錠太郎」という人物について知りたいという興味が沸いた。そういう中で本書に出逢った。

渡辺錠太郎伝: 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想



↑揮毫したと伝えられる碑を偶々観たという小さな出来事を通じて「気付いた」人物について、本書を通じて色々なことを知ることになった。種々の史料・資料を、読み易さを意識した形で整理して引きながら、「渡辺錠太郎」という人物の歩みを巧みに纏めている一冊である。

表紙カバーに、軍服姿の男性と、未だあどけない感じの少女との写真が掲載されている。軍服姿の男性が陸軍大将渡辺錠太郎である。少女は末っ子の娘である。年季が入った職業軍人の厳めしい雰囲気ではなく、少女が「可愛がって下さる御父様」と慕っている、強く優しい父親という雰囲気が滲む写真であると思う。少女の側も、「御父様」の傍らに在るのが嬉しく誇らしいという様子が表情から伺える。

渡辺錠太郎は結婚後に娘を授かり、間隔が少し開いて2人の息子を授かった。更に年月を経て、本人が50歳代に入っていて、旭川での第七師団長であった頃、妻から妊娠を打ち明けられた。妻は産むべきか否かを迷っていたらしい。最初の娘は既に嫁いでいて、子を授かったというような話しが出ていた頃であったのだ。そんな中、渡辺錠太郎は妻に「産んでおけ」と告げたそうだ。そこで表紙カバーの写真の娘が産れている訳だ。孫であっても不自然でもない感じの娘を授かったということになる。50歳代が現在よりも高齢であるというイメージであった時代で、渡辺錠太郎は娘と過ごせる時間は余り長くないのかもしれないとして、娘を随分と可愛がっていたらしい。表紙カバーの写真は二・二六事件の何ヶ月か前であるようだ。渡辺錠太郎は62歳で、娘は9歳であったという。

実は渡辺錠太郎が襲撃を受けて最期を遂げてしまった時、一番近くに在ったのが写真の少女、娘の和子であったという。本書は最初の方に事件で渡辺錠太郎が最期を遂げてしまう様子等が、長じた娘の和子が綴ったモノ等も引きながら詳しく叙述されている。御本人に近い側から観た最期というような感じになるであろう。

それを踏まえて、少年期からの渡辺錠太郎の歩みが、高級将校として色々と説いていた論等が詳しく紹介されるのが本書である。少し夢中になる内容だ。

渡辺錠太郎は少し独特な経歴を歩んでいる。優秀な若者を見出して登用する仕組みに乗り、内部での研修を経て昇進という経過なのだ。

陸軍将校の多くが士官学校に学ぶ。士官学校については、幼年学校からという人達も在れば、現在の有名な大学の前身に相当する様々な学校へ進むようなコースに乗っている人達も在って、そういうエリートがなかなかに厳しい試験を潜り抜けて入学していた。渡辺錠太郎はそういうエリートというコースに乗っていない。農家の出で、最低限の義務教育、小学校を卒業しただけである。そこから「誰でも受験資格が在る筈だ」ということで受験可能な年齢になってから士官学校を受験し、見事に合格した。やがて、更に上席の参謀将校となり得る人材の研修を行う陸軍大学校に進む。これも将校と名が付く全ての者が進むのでもない。その陸軍大学校に学んだ渡辺錠太郎は、首席で研修を修了して将来を嘱望されたということだ。

陸軍で将官に昇進するという人達は或る程度限られる。その将官の中でも最高位の大将というのは更に限られる。当時のエリートと呼ばれる経歴と無縁で、「小学校の後に受験年齢になった」というだけで士官学校に入り、大将に迄昇進したというのは、渡辺錠太郎以外に例が無いかもしれないということのようだ。

陸軍大学校の後、渡辺錠太郎は日露戦争に従軍するが、負傷して戦地から退いている。その後は参謀本部に勤務し、元帥山縣有朋(1838-1922)の副官を務め、ドイツへ研修に出る機会も経験している。そういうような経過であったが、第1次大戦の欧州を視察する機会を得て、戦争や軍事ということに関して色々と考え、それらの論を纏めている。この第1次大戦を受けての、渡辺錠太郎の論が本書に詳しく紹介されているが、非常に興味深い。

日清戦争や日露戦争は、陸海軍の軍人が何処かの戦場で戦っているというような感であった。第1次大戦は、各国の国民の大半を広く巻き込む様相になってしまっている。そして航空機の利用で空爆が行われるようになり、各国になかなかに難しい防衛の課題を突き付けるようにもなっている。軍備を備えても、簡単に戦端は開けないものなのだと考えるべきであろうというのが渡辺錠太郎の説だ。

渡辺錠太郎は政治的な行動に出るのでもなく、派閥のようなモノに与しようとするのでもなく、飽く迄も軍人の役目を誠実に果たすという考え方であったとされる。が、所謂「皇道派」と「統制派」との争いに関わるような形になって行ってしまう。政治的な動き、派閥としての行動が目立つような感じになった「皇道派」の突出する傾向を牽制しようとしたのである。そうした経緯の中、二・二六事件に関わった人達の怨嗟の対象というようになって行ったようだ。

やがて本書は二・二六事件の様子等に関して、もう少し多面的に描き出し、事件で最期を遂げた渡辺錠太郎の遺族である和子や、事件に携わった青年将校の家族の年月というような話しを綴っている。

旭川で公園の園名碑の挿話に触れて出くわした人物の名が、史上の少し大きな事件に関わっていることに気付き、その人物の詳しい評伝に出逢うこととなった。何か凄く好かったと思う。

長い間、「渡辺錠太郎」という名は「二・二六事件で襲撃された人達の1人」というだけに留まっていた。が、本書の御蔭で大変な努力で身を立て、世界の歴史、文明の行方のようなモノを見詰め、職業倫理を飽く迄も全うしようと心を砕き、同時に子ども達の強く優しい父親であったという人物像が眼前に迫るようになった。そしてこの人物は、何となく訪ねる機会も在る旭川に所縁の人物ということにもなる。

今般、偶々本書に出くわし、本当に善かった。こういう感じで興味深い本に出くわすことを繰り返しながら、少しなりとも、より心豊かな人生が拓けるのだと思う。「渡辺錠太郎」はもっと知られて然るべき人物であると観る。そういう意味でも本書は広く御薦めしたい。

『シネマ・コミック 風の谷のナウシカ』

映像作品や小説作品等に関して、何度となく題名が耳目に触れて記憶に残っているにも拘らず、その内容を然程詳しく承知していないという場合が多く在ると思う。

題名を承知していて、内容を承知していないという状態に在ったとして、大きな問題は無いと思う。それでも或る時、「あの作品?」と気になる場合が生じると思う。

↓『風の谷のナウシカ』は、自身にとっては「題名を承知していて、内容を承知していない」の最たるモノかもしれない。他のアニメーション作品に関連する本の存在を知って、それを愉しもうとした際に本書の存在を知ったのである。

シネマ・コミック1 風の谷のナウシカ (文春ジブリ文庫) [ 宮崎 駿 ]



↑知られているアニメーション作品の物語の面白さと画の魅力を漫画のような感じで愉しむことが叶うシリーズを知り、何作かの本を愉しく読んだのだったが、シリーズはこの『風の谷のナウシカ』を契機として順次送り出されていたようだ。

作品は漫画作品を原案として創られたということである。恐るべき兵器を駆使した戦争で文明が損なわれてしまい、生き残った人達とその後裔達が生きる世界となって千年を経た頃が舞台というファンタジーだ。

こうした大胆な設定ということになると「説明」が多々必要になってしまうのかもしれない。が、本作ではそういう「説明」という要素が、作中人物達の言動、作中世界での出来事を介して観る側に順次伝えられる。観る側はゆっくりと作中世界に入って行くことが叶う。

冒頭部、作中人物達がガスマスクのようなモノを着用している様子が出て来る。恐るべき兵器を駆使した戦争で文明が損なわれてしまった後、「瘴気」(しょうき)という有毒ガスを発する「腐海」(ふかい)と呼ばれる森が散在し、その毒を恐れながら人々は暮していた。そして変異か進化かで巨大になった「蟲」が方々に棲息しているような様子だ。

こんな中、荒涼とした地域と、緑豊かな地域とが点在しており、人々は様々な共同体を築いて暮らしている。「風の谷」と地域の通称を冠した共同体では、指導的な人物の下で穏やかな暮しが営まれていた。その指導者の娘で、後継者と目され、住民達から「姫」と呼ばれているのがヒロインのナウシカである。父や年長者の技術や知恵を受け継ぎ、ナウシカは共同体の穏やかな暮しを護り、有毒ガスを発する「腐海」(ふかい)の影響力が弱まるように心を砕いていた。

やがて「風の谷」の穏やかな日々が脅かされる。軍事力を駆使して版図を拡げようと活動する「トルメキア帝国」が動いていた。彼らは「ペジテ市」へ侵攻して征服してしまって、或る重要なモノを輸送機で運ぼうとしていたが、その輸送機が「風の谷」の辺りに墜落してしまう。

この輸送機の墜落が契機で「トルメキア帝国」の軍勢が「風の谷」に現れる。そこに制圧されてしまった「ペジテ市」の関係者も絡み、争いが展開される。こういう状況を何とか解決しようとナウシカが奔走するようになる。

こんな本作の、物語と画の魅力が満載の1冊を夢中で読んだ。旧い作品ということにはなってしまうが、殆ど初めて作品に向き合った自身にとっては新作同然である。そういう意味合いで新作同然と感じてはいたが、本作は長い年月を経ても、断じて劣化等しないと思う。

本作の作中世界では、空を飛び回るメカが色々と使われていて、他方でダチョウのような鳥獣に乗って移動するというような様子や、一部に戦車も登場するが、「文明が損なわれてから千年を経た」という全くのファンタジーである。それでも軍事力を行使する勢力や、それに異論が在る勢力が存在し、「禁断の超兵器」(=文明が損なわれる主な要因になったと見做されるモノ)を巡る動き、毒を発するような、過酷な状態になってしまった環境への対応と、「1980年代に創られた」というように思い悪い程度に「今日的」であると感じた。或いは作品の登場から40年程度にもなる現在こそ「『風の谷のナウシカ』が暗示する何か」が「リアル」になっているような気さえしてしまう。

『風の谷のナウシカ』のアニメーション作品が登場したような頃の後、長く続いた体制が揺らぐような事態や、テロや軍事紛争が相次いだかもしれない。が、近年は巨大な軍事力が蠢き、他方で“無人機”のような威力の他方で手軽なような感じの兵器が平和な街を襲い、不吉な不発弾が多く残り、核兵器の使用を示唆というような話しが何度も伝えられ、恐らく酷い環境負荷が生じているであろう「戦禍」が見受けられるようになってしまっている。こういう禍々しい中であるからこそ、「風の谷」の穏やかな様子を護ろうと奮闘するヒロインの様子が描かれた本作の物語が心に刺さる。

題名を承知していて、内容を承知していないという状態に在ったとして、大きな問題は無いとは思う。しかし、この『風の谷のナウシカ』がそういう状況になっているのだとすれば、それは余りにも残念ということになるのかもしれない。

「今更…」と嘲笑の対象になるようなことかもしれないのだが、本作に出逢えて非常に善かった。

『鉄道アイドル伊藤桃 小田急全駅ものがたり』

↓偶々、本書の存在を知り、興味が湧いたので手にしてみた。非常に興味深い一冊であったと思う。

鉄道アイドル伊藤桃 小田急全駅ものがたり



↑一部に人気が高い女性タレントの名を前面に出している本書の題名である。が、内容としては単に「小田急全駅ものがたり」とでもして、著者名に「伊藤桃」で、「(鉄道アイドル)」という位で差支えなかったように思う。著名な著者の本だからというのでもなく、面白い内容なのでということで手にして読むべく一冊であるように思う。

鉄道利用で方々へ旅に出ることを好み、車輛や駅や沿線の様々な文物や各地の美味しいモノを取上げて紹介するというような活動を続けている著者である。そういう流れの中で小田急に取組むという話しが持ち上がって、その関係を纏めたということであるようだ。

小田急は新宿駅の西側で発着していると承知している。小田原への本線や江ノ島線と多摩線で70駅、傘下の箱根登山鉄道が4駅と意外に駅の数が多い。個人的にはそこまで駅が多数に及ぶとは知らなかったのだが。著者はあおれらの全駅について、路線の延伸や駅の開業や目立つ改装工事の経過というような事情を纏めているが、「実際に下車してみて感じることや見えて記憶に残るモノ」というような話題も織り込んでいる。“あとがき”から拝察すると、概ね1年程度の期間で、順次駅を訪ねて本書の取材をしていたのであろう。取材時の都合で季節が様々であったのであろうが、明るい時間帯に訪ねている駅の中に、陽が落ちた頃に立寄ったという駅も散見している。

路線の延伸や駅の開業や目立つ改装工事の経過、更に駅名の起こりや変遷は「調べると判る」という面も在る。が、各駅に著者が実際に立寄っての感というのが交じるのは基調だ。加えて、一部の駅、と言って38駅の周辺で「街の一寸した居酒屋」という風の御店に立寄って様子や、酒食を愉しんでみた感想が入っている。こういう感じの内容は貴重だ。

丁寧な取材での沿線紹介はなかなかに好い。更に別な路線のモノが出てシリーズ化というような感じになるのも面白いかもしれない。

小田急線に関して、個人的には、相対的に利用頻度が低いような気がする。本書を「余り知らない地域の紹介」という感覚で、また小田急の経過を紹介する内容として興味深く愉しく読んだ。何時か訪ねてみたいというような場所も本書の中に多く取上げられていた。なかなかに好い一冊と出逢えた。

『シネマ・コミック 天空の城ラピュタ』

旭川の美術館で展覧会を観た。アニメーション作品の美術で知られる山本二三の作品である。アニメーション作品で使われた画、その他の画と何れも非常に興味深かった。

それが契機で、画の魅力をもう少し愉しみ、同時に画が使われたアニメーション作品に関してももう少し知りたいと思うようになった。

↓そう思っていて出会ったのがこのシリーズである。知られているアニメーション作品の物語の面白さと画の魅力を漫画のような感じで愉しむことが叶う。

シネマ・コミック2 天空の城ラピュタ (文春ジブリ文庫) [ 宮崎 駿 ]



↑アニメーション作品のフィルムから起こした画を漫画風に組み合わせて創っている本である。読み始めると少し夢中になってしまう。

展覧会で観たこの『天空の城ラピュタ』に纏わる画は、「古い石造らしい壁、或いは城塞の壁の一部のようなモノが天の上と思しい、雲の手前の場所に見える」というような感じだった。正に「天空の城」という様子であったのだが、こういうモノが出て来る物語こそ、アニメーション作品によるファンタジーの真骨頂であると思う。見覚えの在る画を含め、本書で画の魅力を愉しむことも叶った。

少し野暮な話しになる。作中に様々な乗物が登場するのだが、何時の時代の何処の乗物なのか判然としない。何処となく20世紀の始め頃のような雰囲気が漂うのだが、「これは如何いう機構?」というような感じのメカ、「途轍もないモノ?」というような感じのメカも多く在る。地上を走り回る自動車や鉄道車輛も見受けられるが、多くは「天空の冒険」という感じで、飛行するメカである。映像表現として「飛び回る」という「三次元的」な動きが面白いので、そういうような設定をしたのかもしれないとも思った。

野暮な話しから物語に話題を戻したい。

冒頭、飛行船が空中を航行している。小型の飛行機のようで、バイクのように乗込んで飛び回るモノが飛行船に搭載されていて、それに乗込んで飛び回る者達が在る。

飛び回る者達は、別な大きな飛行船を目掛けて進む。そして手にした武器を使って大きな飛行船を襲撃する。襲撃を受けた大きな飛行船の中は混乱する。

飛行船の中に襲撃者達が入り込んで乗っている人達の中の一人を連れ去ろうとする。その人物は少女である。少女は恐ろしい襲撃者から逃れようと飛行船の船外に出た。襲撃者達に、少女が外に出たことが気付かれるが、少女は飛行船から天に飛び落ちてしまった。少女は気を失ったが、如何いう訳か勢いよく落下するのでもなく、身体が浮かぶようにゆっくりと降下していた。

その時、或る鉱山の町では機械工の少年パズーが親方の下で仕事をしていた。仕事の合間に、パズーは妙なモノに気付く。人間の少女のようなモノが天からゆっくりと降下しているのだ。パズーはその不思議な少女を抱えるようにした。生きているらしいので、自宅へ連れ帰った。

朝を迎えると少女は気が付いた。シータという名の少女だった。軍のムスカ大佐に連れ出され、飛行船で移動していたが、「空の海賊」である女ボスが率いるドーラ一家の面々に襲撃され、飛行船の中の混乱で落下してしまったというのだ。

やがてシータは、パズーが部屋に大事そうに飾っている写真を見詰めた。パズーの現在は他界してしまっている父が、飛行船に乗っていた時に目撃して撮影したという写真である。それは天に島が浮かび、島に古い城塞のようなモノが聳え立ち、それが半ば雲に覆われているというような様子だった。これが<ラピュタ>というモノであるという。パズーは父が視たという<ラピュタ>が何処かに必ず在ると信じていて、何時かこれを探しに行くのだと、飛行船を造って旅に出ることを夢見ていた。

やがてドーラ一家の面々が町に現れる。シータを探しているらしい。パズーは追われて困っているシータを援けようとする。そしてシータと共に<ラピュタ>の謎にも迫りたいと考えるようになる。

こんな物語だ。出逢ったシータと共に夢を追いたい、そして彼女を援けたいパズーが在る。思惑を秘め、実戦部隊の支援も受けながら活動するムスカ大佐が在る。軍隊が些か大袈裟な動きをしているので、何やら凄い宝物が絡むと観て、好機を狙うドーラ一家が在る。3者が絡み合い、謎の「天空の城」を巡る冒険が展開するのだ。眼を離せない活劇が展開する他方、<ラピュタ>の謎が次第に明かされる。そしてシータを援けようと、パズーが「男」になって行く様子が好い感じだ。

作中人物達が行き当たる<ラピュタ>の挿話は、「行方を見失うような様相を呈した文明」とその中に在った人々の命運というようなことを想わせた。が、天空を駆ける乗物で、ヒロインを援けようと奔走して、邪な思惑を挫くべく闘うという活劇は、理屈抜きに面白い。アニメーション作品の『天空の城ラピュタ』は小学生が観て愉しいというような企図で制作されたというような話しだが、これは「子ども達から大人迄、みんなで愉しい」という作品だと思う。

画が切っ掛けで触れてみた本作である。アニメーション作品の物語の面白さと画の魅力を漫画のような感じに纏めた本書は好い。本作を読んで、少しだけ「何かを夢中で追ってみたいと考えていたような頃」の気分を思い出せたかもしれない。不朽の作品という感であろう。御薦めだ。

『シネマ・コミック もののけ姫』

アニメーション作品の背景画等を手掛ける「美術」という分野が在る。その担い手の代表格が「美術監督」だが、そういう活躍を続けていた山本二三が在る。この山本二三の画の展覧会を旭川の美術館で観る機会が在った。惹かれる画に出逢ったことから、画が使われたアニメーション作品にも少し興味が沸いた。

↓このシリーズは、知られているアニメーション作品の物語の面白さと画の魅力を漫画のような感じで愉しむことが叶う。なかなかに佳い企画の本だと思う。

シネマ・コミック10 もののけ姫 (文春ジブリ文庫) [ 宮崎 駿 ]



↑美術館で観たアニメーション作品の『火垂るの墓』で使われた「昭和20年の街」というような画に強く惹かれ、アニメーション作品の物語の面白さと画の魅力を手軽に愉しみ易い何かと思い付き、この本のシリーズを知った。そういうことで本書も入手し、大変に興味深く読んだ。

『もののけ姫』関係の画も、美術館で観た山本二三作品の中で惹かれた画だった。屋久島か何処かで取材もしてイメージを膨らませて創った画であるらしいが、深い森の様子、独特な光の雰囲気が精緻に美しく描かれている画だった。

本作はそういう深い森という状況も出て来るファンタジーだ。

いきなり野暮な話しになる。「中世の日本」というようなことになっているらしい物語だが、時代設定はよく判らない。室町時代の半ば、15世紀頃かそれ以前という雰囲気も在る他方で、16世紀後半に用いられたような、作中で「石火矢」と呼ばれる鉄砲や、火薬を使う人達が在る。加えて、かなり古くから行われたという「タタラ製鉄」というようなモノが登場する。作中の用語にも「天朝」(天皇を頂く朝廷)、「鎮西」(九州を示す)というような日本の旧い言葉が出ては来る。侍が豊かな村を襲撃しようとするというような状況迄が在る。時代設定のようなことは、考えれば考える程に判らない。吹き飛んでいるような感じだ。

結局は「古い時代の日本の要素を舞台装置に採り入れたファンタジーの世界」で物語が展開するというように考えるべきなのであろう。

野暮な話しから物語に話題を戻したい。

或る村に、巨大な猪と一体化した怪物が現れた。「タタリ神」というモノだ。武芸に長けた勇敢な若者のアシタカはこの「タタリ神」を倒した。ところが「タタリ神」の「呪い」が身体に入り込んでしまった。「呪い」は時間を掛けて身体を蝕み、アシタカはやがて命を失ってしまう。

猪は大変な苦しみの中で絶命した時に「タタリ神」となって彷徨うようになり、アシタカの住む村に流れ着いたのだと推測された。この猪は西から来たと見受けられる。西の国へ出向いて、何が起こっているのかを見定めると「呪い」を解く方策が見付かるのかもしれない。アシタカは西の国を目指して旅立った。

旅を続けたアシタカは負傷してしまった人達と出くわした。その人達を援け、村へ送って行くということになった。そういう中、援けた人達が住む「タタラの村」は豊かな村だ。

その村の近くに巨大な山犬達、山犬達と何時も一緒の不思議な少女が居る森が在ること、森には「シシ神」なる得体の知れないモノが棲んでいるらしいことをアシタカは知ることになる。

「タタラの村」の指導者である女性のエボシは、タタラ製鉄の仕事のために森の木を伐採し、山の一部を崩すこともしていた。そういう様子を、山犬達と何時も一緒の不思議な少女は憎んでいる。この少女はサンと言うが、村人達は「もののけ姫」と呼んでいた。

エボシが指導者となっている村にやって来ている男達は、近くの森の「シシ神」を討取ることが叶えば森を完全に制することが叶う筈だと村人達を唆す。村人達は「シシ神」を討ちに出る。そして「もののけ姫」ことサンは、「シシ神」を討とうという動きに抗おうとする。

アシタカは村人達とサンとの間に立つことになって行く。如何するのか。そして「シシ神」が棲むという森や「タタラの村」は如何なって行くのかというのが本作の物語である。

自然という資源を利用して豊かになろうとするのか、自然は手付かずで護らなければならないとするのかという両者が対立する形になる。そして自然と人々との共存を図るというようなことが模索されて行く。そんな中で、生と死を司るという、森に棲む「シシ神」を巡る物語が展開することになる。

本作のような「或る古い時代」というような大昔から、現在に至る迄、異なる考え方の両者が対立する、やがて争うということは繰り返されている。そういうことであるからこそ、双方の考えを汲んで、双方の共存、更に共栄を図るキーパーソンが必要ということになるのかもしれない。

大きな猪、大きな山犬、そして少し不思議な生物も居るような世界で展開するファンタジーであるが、色々と示唆に富んでいる感じである。アニメーション作品の物語の面白さと画の魅力を手軽に愉しみ易い形式の本書で、作品に出逢えたことが善かった。

『灰色のミツバチ』

↓ウクライナの作家による小説である。原語はロシア語である。なかなかに興味深く読み進めて読了に至った。

灰色のミツバチ



↑一貫して主人公の視点で綴られている。何か「或る男の日記」というような内容を、作家が小説仕立てに整頓したかのような感もした。余り長くはない節が“1”から“74”迄、折り重ねられている。回顧するような場面や、別な場所での動きが出て来るというようなことはない。淡々と時系列に作中の状況は動く。

作中の出来事に関して、作中に年号は明記されていないのだが、2017年頃が想定されていると見受けられる。2018年にロシア語の初登場した後、順次各国で翻訳が登場したようである。恐らく、作者自身が思う以上に「示唆に富む」というような作品になっているのかもしれない。読み進めながらそんなことも思った。

「セルゲイ・セルゲーイチ」という男が本作の主人公だ。作中で「セールイ」や「セリョージャ」とニックネーム、愛称で呼ばれる場面も在るのだが、殆ど一貫して「セルゲーイチ」というように描写される。ロシア語は人の呼び方に関して何通りもの呼び方を使い分ける傾向が在るが、本作はスッキリしているように思う。

物語は冬の或る日から起こる。セルゲーイチが寒い部屋で過ごしているというような様子から始まる。

セルゲーイチはウクライナのドネツク州の小さな村に住んでいる。ウクライナでは「分離主義者」という呼び方をされたようだが、「ドネツク人民共和国」と号してウクライナからの独立を叫ぶ勢力が在り、ウクライナ政府が派遣する軍隊との間に交戦状態が発生している。その交戦状態の前線で両陣営が対峙している近くに空隙が出来る場合が在る。「グレーゾーン」というモノだ。誰かが明確に定めるのでもない存在でもある。セルゲーイチの村は、その「グレーゾーン」であった。

セルゲーイチの村が「グレーゾーン」というようなことになって3年にもなる。通電が停まって久しく、家電製品等は使えず、携帯電話のようなモノに充電というようなことも出来ない。石炭を蓄えてストーブを焚き、灯は蝋燭を使う。最早、村民は各々に他所へ移ってしまっている。村にはセルゲーイチと、幼馴染のパーシャの2人しか住んでいない。

セルゲーイチは養蜂家である。鉱山の仕事をしていたが、肺を少し傷めてしまって仕事を退いた。そして養蜂家として活動するようになり、少し久しくなっていた。冬は納屋に収めた巣箱でミツバチが冬ごもりである。花が見受けられるような春から盛夏がミツバチを使って蜂蜜を集める仕事が本格化するシーズンとなる。

村での冬の顛末を経て、セルゲーイチは交戦の最中も同然である「グレーゾーン」を少し離れて、もう少し悠然と養蜂家としての活動をしたいと思い付く。そして愛車でミツバチの巣箱を載せたトレーラーを牽引して出発するのだ。

本作は冬の村での出来事を経て、思い立ってミツバチの巣箱を抱えて旅に出るというセルゲーイチの行動の顛末である。ウクライナのパスポートを持ち、ロシア語話者であるセルゲーイチだ。2014年頃から大きく様変わりした「ウクライナ国内」を動き回って如何いう様子に出くわすのかということになる。

本作の中でも示唆されているが、本作の物語の背景にはロシア語話者等の一部が分離独立を叫んで内戦というようになってしまったという様子がある。「異なる」ということを「容認」でもなく、「排除」というような方向で動き、武力紛争迄生まれている。本作のセルゲーイチは、この戦争に関して「参加していない」として淡々としている。そして異文化に些かの居心地の悪さを吐露する場面も在るが、タタール人の同業者の家族と助け合うというような場面も在る。

黒と白というようにハッキリ分けようとするのに対し、何通りも在る灰色である。各々の灰色を容認し、淡々と生きるというようなことをセルゲーイチは志向しているのかもしれない。文化的なモザイクであるウクライナに関して、余り強く「黒か?白か?」と問うばかりでは、戦争のような様子にしかならないということであろうか。こういう様子が続き、そして現今の戦禍という様子にも通じている。

作者のアンドレイ・クルコフは「ソ連のレニングラード」で生まれ、子どもの頃に親の仕事の都合でウクライナに遷り、以降はウクライナで育って1990年代以降はウクライナ国籍である。「ロシア語話者のウクライナ人」である。そういう背景の作者は、2014年以降の諸情勢に関して、色々と「感じるところ」が在って本作を綴ったのであろう。

本作のセルゲーイチは常識的な普通な人のように思えるのだが、一部の人達の目線では異端ということになっている。加えて「異端」の意味合いも様々だ。こういう辺りが、作者による「読者諸賢への問い掛け」なのかもしれない。

本作に関しては、ウクライナの多くの人達の「深層」のような場所に導いてくれるような気がしないでもない。何通りも在り得る各々の灰色を容認するというような在り方が、実は求められるのかもしれない。この「灰色」の示唆が、現今の状況下で非常に重いようにも思う。

少しでも広く読まれるべきであると思いながら感想等を綴っている。広く御薦めしたい本作だ。

『アメリカひじき・火垂るの墓』

↓美術館でアニメーション作品に使用された画を観て『火垂るの墓』に関心を寄せた。アニメーション作品の雰囲気を伝える別な本にも触れたが、原案となった小説をゆっくり読んでみたくなった。そういうことで手にして読んだ。

アメリカひじき・火垂るの墓 (新潮文庫 のー3-3 新潮文庫) [ 野坂 昭如 ]



↑本書は短篇集ということになる。『火垂るの墓』、『アメリカひじき』、『焼土層』、『死児を育てる』、『ラ・クンバルシータ』、『プアボーイ』の6篇が収められている。各作品、各々の味わいが在って引き込まれるが、共通項のようなモノも強く感じた。

各作品は昭和40年代前半頃(1960年代後半)に登場しているようだ。作者自身、野坂昭如は1945(昭和20)年の終戦時に15歳であったそうだ。「焼跡闇市派」と自称したそうだが、戦時の様々な事柄、戦後の混乱期を潜り抜けて、その時期から20年余りを経て「自身の中で終わったような、終わっていないような“時代”の記憶」が何時も在ったのかもしれない。本書の各作品については、そうした作者自身の経験、想いの遍歴というようなことを細かく切り取り、適宜組み合わせて脚色する形で小説各篇の主要視点人物を編んでいるというように感じられた。

『火垂るの墓』はアニメーション作品でもよく知られている。14歳の寄る辺の無い少年が、神戸の三ノ宮駅で力尽きてしまう場面から物語は起こる。そしてそこへ至る迄の、戦禍の中で幼い妹と2人になり、妹を護って生きようとして果たせなかったという顛末が綴られている。何か、少年の魂が何処か遠い所、更に未来にでも在って、そこから自身の顛末を見詰めて語っているかのような、不思議な雰囲気が漂う文章であるとも思った。

『アメリカひじき』は会社を営む男が、妻をハワイ旅行に出したことが契機で、ハワイで知り合った米国人夫妻が来日するので自宅に迎えたいと言い出すという辺りから物語が起こる。戦時のこと、戦後の様々なことに想いを巡らせながら、米国人夫妻との交流というようなことになる顛末が綴られる。戦後20年程を経ている時期の物語だ。

『焼土層』は戦禍で少し身体が不自由になった実母により、親類へ養子に出されたという経過の男の物語となる。戦後20年程を経た或る日の出来事が在り、色々なことに想いが巡る。

『死児を育てる』は2歳を過ぎた娘を絞殺してしまったという若い女性が出て来る。そういう挙に出てしまう背後に何が在ったのか、その複雑な想いが解かれる物語だ。戦後10年余りを経ている時期の物語である。

『ラ・クンバルシータ』と『プアボーイ』とは1947(昭和22)年頃というような時期の物語である。『ラ・クンバルシータ』では、或る少年が少年院に収容されるということになり、そこへ至る迄が振返られる。『プアボーイ』は『ラ・クンバルシータ』の主要視点人物である少年と少年院で同房であった別な少年が主要視点人物となる。新潟で会社を営むようになっていた叔父夫妻に引き取られるのだが、少年院に入るに至った顛末や、新潟での顛末という物語となる。

6つの篇を大まかに振り返ったが、作者自身の経験、想いの遍歴が様々に反映された形で物語が創られている様子が凄く伝わった。戦禍という異常で過酷な様子、そうしたモノに何か捻じ曲げられたような人の心や人生、少し長い時日を経ても澱のように人の中に溜まっている何か、場合によって人を突き動かす何かというような共通項が6つの篇から感じられた。

6つの篇の中、『火垂るの墓』の少年は力尽きてしまって「戦後」を長く生きるのでもない。他の5篇は「戦後」の経過を各々に経ている。年代の設定が少しだけ違う、また『死児を育てる』は少年ではなく少女ではある。それでも『火垂るの墓』以外の各篇は、「力尽きることを免れた場合の人生」というようなことであるかもしれない。

作者の野坂昭如の名を聞けば、自身が中学生や高校生であったような頃、更に大学生位の頃に、様々な活動で耳目に触れることも在った「個性的な文化人」というようなことを思う。「みんな悩んで大きくなった〜♪」というようなCMソングも歌っていたと思う。そういうことではあるが、彼は常々「作家 野坂昭如」と紹介された。その「作家」としての仕事には、自身では触れたことが無かった。今般、美術館で観た画が契機で、「作家 野坂昭如」が遺した仕事に確り触れることになった。善かったと思う。

2025(令和7)年は「戦後80年」ということになる。戦禍の記憶等を忘れずに考えるというような問題意識も在るのかもしれない。そうした中、戦禍という異常で過酷な様子、そうしたモノに何か捻じ曲げられたような人の心や人生、少し長い時日を経ても澱のように人の中に溜まっている何か、場合によって人を突き動かす何かに「経験者」として向き合った作家が綴った作品に触れるのは価値在る営為であると観る。

更に言ってしまうと、「今でも激しい戦禍に見舞われている国や地域」というような例も見受けられる中なので、「戦禍」というモノと「人間」というモノに想いを巡らせなければならないようにも思う昨今である。そういうことで、本書は考えるための好い材料になり得ると観る。

御蔭様で好い読書体験をさせて頂いているというようなことを感じる。本作は手軽に入手して気軽に読めるような文量の文庫本であるので、広く御薦めしたい。

『悪が勝つのか?―ウクライナ、パレスチナ、そして世界の未来のために』

↓進行中の大変な事態であり、既に何年間か経てしまっているという事案を巡って、その推移を見詰めて見通し等を論じることを試みている一冊である。非常に意義深いと思う。

悪が勝つのか??ウクライナ、パレスチナ、そして世界の未来のために (法と哲学新書)



↑少なくとも現今のウクライナの事態は2022年以降のことだ。その事態を巡って、本書の中で「前著」と呼ばれる同じ著者による論考の本が出ているという。その出版後に発表した論考を収め、更に本書に独自の論考も加えている。本書ではウクライナの事態に加えてガザでの紛争、パレスチナの事態に関しても詳しく論じている。

2022年以降のウクライナでの事態に関しては、最近になって改めて「停戦」が模索されている様子だ。そういう中で、著者が少し納得し悪い論も色々と在るとして、その辺りを考えるというのが本書の趣旨である。

題名に在る「悪が勝つのか?」である。これは開戦に纏わる国際法や、交戦に纏わる国際法を度外視している勢力を“悪”とした上で、そちらの側が何らかの利益を得るかのようなことになるのは好ましくないという意味である。ロシアは自らの軍事行動を「特て軍事行動」というように称し、「戦争」とは呼ばない。そして開戦や交戦に纏わる国際法を度外視して侵攻を続けている訳である。

こうした前提に立ちながら、著者は2023年5月、2024年5月、2025年1月とリアルタイムに論考を2023年から2024年の論考に関しては、章末に補足を一部添えてはいるのだが、進行していた様々な事態を見詰める目線は熱い。そして「筋は通さなければならない」と切々と訴えていると思った。

ウクライナに関しては2022年以降の現今の事態に至る以前、2014年頃からの摩擦、武力衝突という問題も在る。そうしたことを交えて詳しく説いているので、本書は参考になる。

自身、パレスチナの件に関してはウクライナの件程に知識を蓄えているのでもないが、本書により色々な事を知った。パレスチナの人達に関して、何らの権利も護られないないような、「アパルトヘイト」で酷い差別を受けた人達のような立場に追いやられるかのようになってしまっていて、この問題に関しても様々な国々等も関って何とか好いように解決しなければならないということが判る。

「筋は通さなければならない」であろうが、ウクライナの事態は少しでも早く軍事行動の停止を達成しなければ、損なわれた様々なモノを取り返しようが無くなるばかりなのだと思う。困難は伴うであろうが、色々な人達の叡智が集められなければならないのであろう。実は2014年頃からの摩擦、武力衝突という問題が、当事国以外に伝わっている以上に酷く根深く、それ故に拗れた何かが2022年に暴発し、現今の事態に至ってしまっているのかもしれない。何れにしても、侵攻を始めた側が退かなければ、軍事行動は段落しないとも思うのだが。

重要で煩雑な問題に関して、或る程度リアルタイムで綴った論考を読み易い形で纏めた本書は非常に有益だと思う。結局、少しでも「色々な事を知ろう」として、それに基づいて考えることを続けなければならないように思う。こうした酷い紛争に関しては、「忘れてはならない」ということであるとも思う。少しヒステリックに感じられる程の取り上げ方も如何なものかと思わないでもないのだが、軍事行動が延々と続く中でウクライナの社会が損耗し続け、非常に多くの人達が幸福になり悪いということは覚えておきたい。

こういう種類の本は、眼に留まったら手にしたい。

『シネマ・コミック 火垂るの墓』

↓興味を覚えたタイミングで出くわし、入手した。そして夢中で読んだ。素早く読了に至ってしまった。

シネマ・コミック4 火垂るの墓 (文春ジブリ文庫)



↑アニメーション作品の『火垂るの墓』を基礎とし、映像の画等を使って編んだコミックである。「映画の漫画化」という体裁なのだが、アニメーション映画を想起出来るような感じに巧く編まれている。

映画の制作陣の中に「美術監督」として山本二三が名を連ねている。先日、その山本二三の画の展覧会を鑑賞する機会が在った。数多くの作品の中、『火垂るの墓』で使用された、昭和20年の神戸や西宮の街という背景画に何か凄く惹かれた。記憶に残ると思っていたところに、『火垂るの墓』の映像の雰囲気が判る本ということで本書を知ったのだ。

幼い妹の節子を護り、一緒に生きようとする清太であったが、それが果たせなかったという物語だ。無邪気な様子の節子だが、苦しい情勢の中で苦しさを吐露しないように堪えているような感である。何とかしようと、清太は少し頑ななのかもしれない。

社会が安定を欠いてしまうような、戦禍というようなことにでもなれば、最も辛いのは「力無き者」かもしれない。原案の小説もやや古く、加えてアニメーション作品もかなり事実を経ている。それでも本作は色褪せてはいないと思う。

色々と戦禍を巡る話題も聞こえるような昨今、こういう作品は忘れたくない。

『新書 昭和史 短い戦争と長い平和』

↓「昭和史」というような題名の本は、何やら難しそうと手に取らないという人も少なくないかもしれない。が、本書はそういうように敬遠する必然性は全く無い。普通の小説やエッセイのような感覚でドンドン読み進められる。そうした意味で素晴らしい一冊だ。

新書 昭和史 短い戦争と長い平和 (講談社現代新書 2767)



↑2025年が「昭和100年」で「戦後80年」ということを踏まえて、「この100年?」というようなことを想い、考える材料を提供しようというのが本書だ。

「昭和」と一口に言っても、「昭和XX年」と明確に言い得る期間だけでも1920年代から1980年代までの60年間余りに及び、色々な要素が在る。加えて、「昭和XX年」の出来事や、「昭和」の或る時期の動きが極々最近迄の様々な事柄に繋がっているというのも多い。本書はそういう問題意識で、1926年頃から2025年に至る迄の「昭和100年」を通史的に論じようとしている。

本書では「グローバリゼーション」、「格差」、「デモクラシー」、「戦争と平和」というような4つの柱を想定し、過去100年の各時期に関して、こうした柱に関連する話題を、様々な人達が遺した証言等を一定の基礎に据えながら論じている。

世界の国々との関係が築かれ、それが進展する「グローバリゼーション」というのは昭和期以降に拡大する。世界の国々や地域間での、また国内の社会の中での「格差」というようなことも、昭和期以降には様々な変化が在る。選挙とその結果というような「デモクラシー」ということに関して、昭和期以降には様々な話題が在り得る。そして実際に軍事行動に携わる、携わらないの区別と無関係に「戦争と平和」というような課題は在り得る。

こうした4つの柱という問題意識の下、種々の“証言”を拾い集めながら論じると、「100年間に国、社会、人々が辿った経過」というようなことを通史的に網羅出来ようというものである。

本書で引かれた種々の“証言”、更に本書そのものを材料とし、過去の世界に踏み入ることを試みて、自分自身の人生等に照らしながら考え、自分自身の言葉でその考えを整理してみるというようなことが「知って学んでみる歴史」ということに他ならないのであろう。本書の冒頭部に挙っている「目指すこと」に通じる話しだが、本書はその「目指すこと」を実現出来ていると観る。

極々個人的な内容にもなる。自身の場合、興味を持って歴史関係の本を読む、テレビニュースや新聞や雑誌で社会の動きに纏わることを知ろうとするということをするようになったのは、恐らく1979年や1980年頃、小学校の高学年であった頃以降であると思う。とすると、本書に在る1979年頃から2025年に至る迄の色々な事項は「自身の人生の記憶に重なる」ということにもなる。

こういうのは読者各々によって些かの差異は在ろうが、多くの読者が共有し得る感覚のように思う。本書は「昭和史」と称して最近100年間程度の通史を打ち出しているが、結局は「あなたの人生の背景」を問うようなことになっているのかもしれない。

本書は、非常に読み易いと同時に、非常に読み応えが在ると思う。2025年が「昭和100年」で「戦後80年」ということことで、歴史への問題意識が少し高まっているかもしれない中、広く御薦め出来る一冊だ。

『銀閣の人』

↓訪ねたことが在る場所に纏わる物語―2022年の夏に銀閣を訪ねている。―は興味が沸く。そういうことで手にした一冊である。

銀閣の人 (角川文庫) [ 門井 慶喜 ]



↑紐解き始めると少し夢中になる。頁を繰る手が停め悪くなり、素早く読了に至ったという感だ。

かの銀閣は、公式には慈照寺と称していて、相国寺の管轄下ということになる禅宗の寺院である。が、創建時は東山殿と称した。「銀閣」は後から出て来た通称である。本作はこの「東山殿」を築くことに情熱を傾けた人物を主要視点人物とする物語である。

「東山殿」を築くことに情熱を傾けた人物とは足利義政(1436-1490)である。足利義政は室町幕府の第8代将軍だ。第6代将軍の足利義教の子で、兄である第7代将軍の足利義勝が急逝したことから、弟であった足利義政が将軍となったのだった。足利義政が6歳であった頃、父で第6代将軍であった足利義教が暗殺されてしまった。そして後継者となった兄は急逝してしまった。足利義政は当時の慣例で寺に入るという予定であったのだが、兄の後継者ということに急遽決まったのである。

本作はその足利義政が将軍として成人し、色々と在って、やがて「応仁の乱」という事態になって行くというような時期から起こる。

足利義政が将軍であった頃に「応仁の乱」は起こっている。方々の大名家の後継者争いが重なったのだが、足利将軍家にも問題が起こりつつ在った。足利義政は後継者が居ないということで弟を後継者にしようとした。浄土寺の僧であった弟を還俗させた。弟は足利義視と名乗り、足利義政の後継者ということになった。が、そういうように決めて程無く、足利義政の妻であった日野富子が男児を産んだ。この実子をこそ後継者とすべきであると日野富子達は主張した。そういう波乱の予兆が強まった中で、東西の陣営に分かれた諸勢力の軍事行動、衝突が始まり、後に「応仁の乱」と呼ばれる通算10年間以上の戦乱ということになってしまう。

そういう戦乱の時期の最中、更に戦乱が段落した後ということにもなるのだが、足利義政は「東山殿」を築くことに情熱を傾けるようになる。足利義政の祖父は、その存命中は「北山殿」と呼ばれた鹿苑寺、所謂「金閣」を築いている。この祖父が築いたモノに対して、足利義政は自身が築くモノを模索するのである。

「侘び寂び」というような、何か“日本文化”のキーワードのような語句が在るが、これの「元祖」というような考え方を持つに至った人物は足利義政である。その境地に至る迄の経過が本作の物語の柱ということになる。

この時代の“将軍”というのは、言わば「王」である。その「王」としての存在感を示すには、政治、軍事、経済と様々な分野での活動ということが在るのであろうが、足利義政はその政治、軍事、経済の何れをも択ばなかった。足利義政は「文化」によって存在感を示した。そして足利義政が打ち出したモノは、現在に至る迄「和風な建築様式」の基礎で在り続けている。所謂「書院造」だ。

家屋等に関して、漠然と「集団」として屋内に在るという前提が在ったかもしれない中、足利義政は「個人」を前面に押し出すようなことをした。そこが画期的だ。そして「簡素」を演出するために驚く程の手間や経費を注ぎ込んでいるというのが「東山殿」の特徴という側面も在る。更に「寂び」という考え方には、「時を経た変化」で好さが増すというような想いさえ籠っているのだという。

更に足利義政が自身が過ごす場所として造った東求堂同仁斎の「四畳半」という建築様式は、茶室の源流となったとも言われるのだが、「室内に共に在る人達の間の関係性」を「新たな何か」にするような面さえ在ったかもしれないと本作では示唆されている。

本作は、足利義政が誰かと言葉を交わす、何らかの事柄に臨むということの他、回想や故人達との幻影を見ながらの遣り取りというようなことも交えて、「文化」によって存在感を示すことになった足利義政という人物を掘り下げた物語である。その足利義政本人の想いに加え、妻の日野富子や、息子ということになる足利義尚(第9代将軍)との想いの工作というようなことも描かれる。非常に興味深い。

『札幌誕生』

「御出身は?」とでも問われれば、自身は「札幌」というように応えるであろう。既に閉校してしまった、御厄介になった小中学校は札幌市立であった。その後、高校も札幌市内で、卒業後も暫く札幌に在った。その後は他の地域へ出ているが、それでも札幌へは年に何度も足を運ぶ、または立寄るという様子だ。札幌は自身にとって所縁が深い地域ということになる。

↓そういうことなので、本作の題名を見て、凄く興味が沸いた。加えてその作品を愉しく読んだ経過が在る作者による新作だ。

札幌誕生



↑新聞連載として発表されたモノを整理して本としたということのようだが、非常に興味深く、また勢い良く読み進めて読了に至った。

本作は5篇から成る。各篇は札幌に所縁の5人の人物を主要視点人物としている。5人の各々の物語を連結して、札幌という街が産れて育つ様を描こうという訳である。幕末期から大正期位の様子ということになる。

5人の人物達だが、事績等を或る程度承知している人物が1名、名前は聞いているという人物が2名、初めて聞いた人物が2名という様子だった。が、何れにしても本作を通じて5人の札幌に所縁の先人達に出逢えたということになる。

5人の人物達とは島義勇(1822-1874)、内村鑑三(1861-1930)、バチラー八重子(1884-1962)、有島武郎(1878-1923)、岡崎文吉(1872-1945)である。この5人が、5つの篇の各々の主要視点人物ということになる。

島義勇は佐賀鍋島家中の士であった人物で、北海道開拓に取組み始めた明治時代初めに、札幌の建設に着手した人物だ。内村鑑三、有島武郎、岡崎文吉は札幌農学校で学んだ経過が在る。バチラー八重子は有珠の村のアイヌであるが、アイヌの中に分け入って活動していた英国人宣教師の養子ということになって「バチラー」という姓を名乗った。「バチュラー」というように書く場合も在る。本作ではこれらの5人の人生、事績、生きた時代が描かれることになる。

島義勇については、札幌の小学校に在った頃に「札幌の街の建設を始めた人物」として聞いていたのだが、「佐賀の七賢人」としても名が挙がる人物で、色々と紹介されているのに触れたことも在った。(因みに「佐賀の七賢人」というのは鍋島直正、島義勇、佐野常民、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信の7人だという。更に、大隈重信、江藤新平、大木喬任、島義勇に影響を与え、副島種臣の実兄であった枝吉神陽を加えて「八賢人」とする場合も在るようだ。)島義勇については、幕末期に箱館奉行に従って蝦夷地、現在の北海道やサハリンを訪ねたという経過が在り、本作でもそういう様子が出て来る。

本作の3つの篇に札幌農学校で学んだ人達が登場する。往時の札幌農学校は、卒業後に北海道の官署等で勤務するということで、学費を払わずとも学ぶことが可能であったようだ。内村鑑三、有島武郎、岡崎文吉はその恩恵に与っている。内村鑑三や岡崎文吉は、出身家庭の経済状況が必ずしも好くなかった中、学費が要らないようだということで札幌農学校に進んだようだ。

5人の中、「初めて聞いた」はバチラー八重子と岡崎文吉であった。バチラー八重子はアイヌ語も交じる短歌を発表し、歌集も出版されて注目されたという女性だ。岡崎文吉は土木技師で、石狩川の治水工事等に取組んだ業績が知られるという。

本作は「誕生」と言っても「事の始め」にばかり目を向けているのでもない。豊かな精神文化が育まれるようになって行く様、「事の始め」とされている事の更に以前から在る色々なモノと折り合いをつけるようなこと、大自然と向き合って暮し易いようにして行くということ等を経て、札幌が建設開始当初に意図されたとおりに「北海道を代表する街」への道筋を付ける様が描かれているように思う。

飽く迄も個人的な感想だが、最近は札幌が何やら「散らかっている?」というような気もしている。そういう中で在ったので、躍進へ向かって行く、幕末期から大正期位の様子を描いた本作が一層興味深いというように思えた。広く御薦めしたい作品だ。

『室町無頼 下巻』

↓上巻を愉しく読了し、少し間隔が開いたのだが―他の小説に嵌っていた…―下巻も愉しく読了した。

室町無頼(下) (新潮文庫) [ 垣根 涼介 ]



↑1月下旬に映画を愉しく観た経過が在った。そういうことで原案になった小説を読んでみようと思い付き、上巻と合せてこの下巻を入手して読んだという訳だ。

少年から大人へという年代の若者である才蔵、才蔵と出会う骨皮道賢や蓮田兵衛、道賢や兵衛と関わる女性の芳王子が主要な人物達であると思う。彼らが視点人物になっているが、他に才蔵と縁が在り、「土倉」と呼ばれた貸金業を営む僧兵の法妙坊暁信が視点人物になっている部分も在る。順次視点人物が切替りながら綴られ、作中の出来事が力強く動くという感じだ。

作中で取上げられているのは、室町時代の半ばを過ぎ、室町幕府の体制下で社会が変化したことを受けて起こるようになった「土一揆」である。その「土一揆」も、食料や金銭を巡っての暴動的な感じであったのだが、「武家の出であるらしい指導者」として名前が残ったという蓮田兵衛は、或る種の暴力革命のような発想で「土一揆」の先頭に立ったのかもしれない。そういう感じで少し引き込まれる物語だった。

京都に立地した幕府は、京都に出て来ている方々の大名が様々な役目を担う機構という感じになり、モノの流れのネットワークが拡がる中で銭を使うことが普及し、銭の動きのネットワークも拡がりつつあったのが室町時代だ。そして銭を集めて豊かになる人達の他方、何かの契機で社会的地位を損なう人達も発生し、天候不順による農作物の不作や疫病というような要素も相俟って、困窮する人達が目立ち、酷い格差社会になっていたという時代である。為政者はそうした状況を如何にかしない、出来ない、する気もないという様子だった。そこで社会を如何にかしようとしていたというのが、作中の蓮田兵衛ということになるのかもしれない。

「人生と共に在る社会」ということ、逆に「社会の状況故の人生」というようことで主要な人物達の様子が描かれた上巻に対し、下巻は棒術を究めるべく師匠の下で修行する才蔵の事や、一揆の企てを進める蓮田兵衛の陣営、そしてその蓮田兵衛と個人的に通じていながらも幕府の治安維持の仕事を請け負う骨皮道賢の動き、そして「一揆」とダイナミックな感じになって行く。

「一揆」に関して、本作では次々と視点人物を切替えた節を積み重ねて、巧みに攻める一揆側と、苦戦を強いられる鎮圧を目指す側との戦闘が活写される。やがて一揆側の勢力も鎮圧され、最後の抵抗と首謀者たる蓮田兵衛達の逃走の顛末に入って行く。また戦いの様子等に関連し、高い場所から眺めてみるというような描写も適宜用いられ、何か「作中の時代の京都」という雰囲気が生き生きと伝わる。それらにより、少し夢中になった。頁を繰る手が停められない感じになって行ったのだ。

「無頼」というと、何か「悪漢」というようなことを思い浮かべないでもない。が、本作では「受け継がれた地位や財産等が在るのでもない」という者が、格差社会を何とか潜り抜ける、更に才覚でネットワークを築くようなことをして想いを遂げて行こうとする様子を「無頼」と呼び、それが現れ始めた時代を「室町時代」としているような気がする。「頼るべき何かが無い」という文字どおりの「無頼」な訳だ。そして蓮田兵衛や骨皮道賢は「無頼」を代表する者達として作品の主要人物に据えられているような感だ。

「室町時代」ということになると、時代モノの小説や映像作品は然程多くなく、何となく地味かもしれない。が、モノの流れや金銭の流れが発展してネットワークが拡がる中で“格差社会”が拡がり続けているような感というのが、何となく2010年代以降の様子に通じるような気もする。そうした意味で「室町時代」は少し注目すべきなのかもしれない。

映画か契機で出会った小説だ。読了して、映画制作の話しが持ち上がるというのに大いに納得する感じではあった。若い才蔵の成長と、才蔵が見上げる蓮田兵衛や骨皮道賢の不敵な生き様という様子が、京都の街で展開されるダイナミックな戦闘と絡まるという感じであるからそう思った。広く御薦めしたい作品だ。

『室町無頼 上巻』

↓映画を愉しく観たので、原案になった小説を読んでみようと思い付いた。上下巻から成る小説の上巻を手にして、愉しく読んだ。

室町無頼 上巻



↑本作は複数の視点人物が入れ替わりながら綴られるという物語であると思う。有名な「応仁の乱」に突入する少し前の時期を背景にした物語である。

主要視点人物は17歳の少年である才蔵、才蔵と出会う骨皮道賢や蓮田兵衛、道賢や兵衛と関わる女性の芳王子だ。蓮田兵衛に関しては、寧ろ他の主要視点人物達との関りで言動が見える感なのだが、本作で描かれて行く事態の鍵を握る人物として大きな存在感を示している。

上巻に関しては、才蔵が主人公的に感じられる。完全に零落した武家の出で、子どもの頃から苦労が絶えない生き方であったが、土倉の用心棒をするようになっていた。その土倉で骨皮道賢と出くわす。連れて行かれるのだが、結局は蓮田兵衛に貰われる。その蓮田兵衛は、才蔵が独習していた六尺棒を使う武術に関して、その道を究めるべく修行をせよと唐崎に在る師匠の下に送り込む。

この才蔵の物語の合間に、骨皮道賢の動きや、来し方を振り返りながら骨皮道賢や蓮田兵衛と関わる芳王子の様子が描かれるというような様子だ。

上巻は室町時代の半ばを過ぎたような頃の世相という中で、骨皮道賢や蓮田兵衛と出会って行く才蔵や、独特な生き様の芳王子を掘り下げるようなことで、「人生と共に在る社会」ということ、逆に「社会の状況故の人生ということがじわりと伝わるような物語になっているという気がした。

また蓮田兵衛が才蔵に色々と語る場面が在るのだが、そういう場面が何か好い感じだと思った。この蓮田兵衛が未だ17歳の才蔵に向って語る「世の中」という話しは、現代に在っても「言えている…」ということかもしれない。

映画で描かれた“事態”が発生して行く前の時期というような上巻である。下巻が愉しみだ。

『京都の歩き方:歴史小説家50の視点』

↓大変に愉しいエッセイ集だと思う。雑誌連載を基礎にした50篇にも及ぶエッセイが集められているのだが、ドンドン読み進めて素早く読了に至った。

京都の歩き方:歴史小説家50の視点 (新潮選書)



↑週刊誌で1年間という連載であったという。そうなると毎週掲載で50篇程度だ。そして雑誌の刊行時季を意識していたのか、または後から季節毎の話題というように整理をしたのか、「秋」、「冬」、「春」、「夏」というように章を設定している。

「歩き方」と称して、個別具体的に何処かを訪ねるというようなことを積み上げているという程でもない。「歴史小説家の視点」と称して、歴史に纏わる話題ばかりという程でもない。京都で暮らすようになった両親の下、京都で生まれ育って、そのまま京都に住み続けて活動しているという筆者が、普段動き回っている様子が伺えるような内容や、そういう普段着の中で思い出した話題を少し掘り下げるという感じの内容が本書であると思う。

生まれ育っていて、そのまま住み続けて活動しているということで、筆者は「京都」を「訪ねてみる場所」というように考えることをし悪い。そういうことで、実際に住んでいる人達の何倍もの人達が訪れて、「〇〇は京都で観たい」と拘りの在る人達も相当数になる筈だが、筆者は「住んでいる場所が深い歴史を持っている」という様子、長く歴史に興味を持っていて関連の題材を求めて小説も綴っているので歴史関係の事項を想い出す場合が多く在るというような、「自然体」で本作のエッセイ各篇を綴っているというように感じた。その筆者の「自然体」が実に心地好い。

「京都」は、或いは「“京都”というイメージが消費される場所」という性質が在るかもしれない。が、偶々そこで生まれ育って、大学迄卒業してそのまま住んで活動しているということであれば「“イメージの消費”と無関係な自身が居合わせている街」という目線が在る筈だ。本書のエッセイ各篇では、そうした目線で綴られたモノが大半であると思った。

或る程度の規模である他地域の街を訪ねると、その街や、街が含まれる圏域で「棲むように滞在して時間を過ごす」という意識で動くと愉しい場合が在ると個人的には思っている。そうした意味で「消費されているイメージ」と関連が薄い、「自然体」な本書のエッセイ各篇は、何か「響く」というような気もする。出逢えて善かった一冊であった。

『従属の代償 日米軍事一体化の真実』

↓詳しく語られているのか否かもよく判らず、通暁している人が多いとも思い悪いテーマだが、大変に大切な内容なのだと思う。そういうことを解り易く説く本書に出逢えたことが善かったと思っている。

従属の代償 日米軍事一体化の真実 (講談社現代新書 2754)



↑非常に「新書らしい」という感じの読書体験が出来たと思う。

防衛を巡って様々な用語が飛び交う場合が在る。そういう用語が一定期間飛び交うと、特段にその種の話題が出るでもない様子になってしまい、何時の間にか忘れている。そんなことが多いように思うのだが、本書はその種の用語に纏わる経過を少し掘り下げながら、1950年代という少し旧い辺りから2020年代の近年の新しめな様子迄を要領よく纏めていると思う。そうした中で「何時の間にかこういうような様子になっている…?!」という提起をしている。知っているような知らないを、広い層の読者が判り易いように纏めて伝えるという「新書」の感じというものだと思う。

結局、様々な経過を経て、日本国内に「対岸の敵性施設を狙い撃つ」という性能を有したミサイルが配置されるようになり、同盟国の指揮下で「何時でも撃てる」というような様子に「なっている?!」という様子な昨今である。「本当にこういうので善いのか?!」とううのが筆者の問題提起であるというようにも思う。

「シームレス」という「だ段差が無い」という用語の下で、実質的に「米軍の一元的な指揮の下」という状況で、「ミサイル」と呼ばれる「誘導弾」を方々に配置している日本の様子に関して、鳥瞰的に解説しているのが本書であると思う。こういうような事柄は「知っておくべき」というように思う。こういう一冊は貴重だ。出くわしたことを善かったと思う。

『歌舞伎町ララバイ』

↓愉しく作品を読んだ経過の在る作者による新作と聞き及んだので入手して読んでみた。頁を繰る手が停められなくなった。

歌舞伎町ララバイ



↑休業日に紐解き始め、昼と夕刻に時間を設けて読み、就寝前迄に素早く読了に至った。「続き」が気になって、待ち切れなくなるのだ。

15歳の七瀬という少女が登場する。2019年の或る日、彼女は東京の新宿の歌舞伎町に在った。

七瀬は所謂「トー横キッズ」である。行き場が無く、歌舞伎町にたむろしているティーンエイジャーの1人ということになる。群馬県の小さな町を飛び出して、歌舞伎町に辿り着いたのだという。

この七瀬の日常、そして関りを持って行く様々な人達、そんな中で或る出来事に巻き込まれて行く。

やがて5年の月日が流れた、2024年の歌舞伎町ということになる。

前半は専ら七瀬が視点人物というような感じだが、後半は事案に関わる様々な人達が視点人物になっている。

極若いヒロインの大胆さ、歌舞伎町に蠢く何かと、凄く引き込まれる。何か「続篇」のようなモノも期待してしまうような感じの終末だった。愉しいので御薦めだ。

『写真が語る満州国』

↓豊富な、そして貴重なモノと見受けられる写真を添えて「満州国」に纏わる事柄を語る一冊である。読み応え、写真の見応えが在った。

写真が語る満州国 (ちくま新書 1804)



↑日露戦争の辺りで大陸に権益を求めてそれを獲得して行き、中国大陸での様々な行動という前日譚のような事柄が在って、やがて満州国が建国されて行き、満州国での産業活動や文化活動や建設や入植が在り、日中戦争や太平洋戦争という局面になり、戦争に敗れて満州国の経過に幕が引かれる。そうした経過が非常に判り易く纏められている本文が在るが、本文の各章の始めに貴重と見受けられるモノも含む豊富な写真を説明を添えた形で示している。時間と空間を越えて「満州国」というモノが登場し、姿を消して行く迄の経過を眼で視ているような感じにもなると思う。

本書に関しては、写真部分と本文とのバランスが好いと思う。相互に補完して、「満州国」というテーマを身近にしてくれていると思う。個人的には街の建設が進められている様子、「あじあ号」のような鉄道、産業活動や文化活動に纏わる写真が興味深かった。加えて、一部に写真も在ったが、教育や移民という事柄は考えさせられた。

「五族協和」や「王道楽土」という満州国のスローガンだが、言葉自体は何時の時代にも目指されるべきことなのかもしれない。諸民族が手を携えて平和で豊かな国づくりを目指すということ、「覇道」の対極に在る「王道」というような善政が敷かれた体制を目指すということなのだから。が、満州国での実態は如何だったのか。その辺が本書では詳しく説かれている。

また本書では、満州へのソ連軍進攻で戦争が終結へ向かって行く頃の凄惨な戦いや混乱した様子というような事柄も詳しく説いている。「T34戦車に肉弾戦」というような無茶な様子、そうやって近在の村を護ろうと必死だった様等が伝えられる。そうした例の他方、方々へ軍隊を送り出してしまった後なので、無理矢理に人手を集め、普通は兵士が携行している銃の一丁も無かったというような様子や、引揚げようとした人達の苦難ということも伝えられていた。

所謂「戦後」も既に80年であるが、それ程に時間を経ても、本書のような形で伝えられるべき色々な事柄が在るのだと思う。なかなかに有益な一冊に出逢えたのは善かった。広く御薦めしたい一冊だ。

『室町幕府論』

↓「よく知られている用語」ではあるものの、その内容に関するイメージが些か不鮮明かもしれない対象について、研究の成果を一般読者にも読み易い「物語」のように提示していると思う。本書はなかなかに好い一冊だと思う。愉しく読み進め、素早く読了に至った。

室町幕府論 (講談社学術文庫 2767)



↑本書は、「室町幕府」が起こって日が浅い頃から、3代将軍の足利義満の頃、更に4代将軍の足利義満の頃迄の様々な事象、社会の仕組みや性質、経済活動の変化に着目して論じ、やがて戦国期へ向かって行くという「室町幕府の時代の特徴」を論じようという趣旨であると思う。非常に興味深い。細々とした様々な事象を「物語」として、「こういうようになった時代」という研究成果のようなモノを巧みに伝えていると思う。

京都の「大人気観光地」に挙る嵐山に天龍寺が在る。あれは室町幕府が起こって日が浅い頃に開かれた寺だ。室町幕府は起こったその時に「南北朝」という問題を抱える。室町幕府は北朝を後援するが、かの後醍醐天皇の南朝が抗う。その後醍醐天皇が崩御した際、大変な怨念を遺したとされた。それを鎮めようと天龍寺が起こされることになったのだった。

こういうような「大規模造営」というようなことが見受けられたのが室町幕府の時代だった。これは嵐山同様に「大人気観光地」に挙る鹿苑寺金閣の足利義満の時代迄は見受けられた傾向だ。鹿苑寺金閣を統括している相国寺という寺が同志社大学の近くに現在でも在るのだが、その相国寺も足利義満の時代に起こっている。

この足利義満の後継者であった足利義持は、異母弟を強く寵愛した父への反発なのか、父の政権下で非主流であった人達の後援を受けたからなのか、足利義満の路線を否定する。これは父の時代と色々な様子が変わってしまっていたということも在ったのかもしれない。が、何れにしても足利義持の時代には幕府として「大規模造営」というようなことは行わなくなった。他方で守護大名がその種の活動を行うようになり、守護大名の連合が将軍を擁立というような室町幕府の様子が構成されて行く。

更に守護大名が京都に常駐し、比較的京都に近い彼らの領国が「首都圏」というような様相を呈し、大名家や大名家に縁が在る寺院、加えて活動を拡げる商業者が都鄙を往来する中で金が動くというようになって行った。

また室町時代は「南北朝の混迷の中で起こった」ということと「“応仁の乱”で色々なモノが損なわれた」というように語られる。その“応仁の乱”で損なわれたモノとして古くからの儀式というようなモノが挙るが、それらに関しては室町幕府の時代に「復興」という動きが在った。「復興」していたが故に、戦乱の影響で「損なわれた」という話しになった訳である。

本書では、室町幕府の時代の経済活動や財政に脚光を当てていて、その辺が凄く興味深い。課税、または税というのとは少し違う感じの資金調達の様相が在って、それらの変遷で社会の様子が少しずつ変わる様が見える。そして何らかの庇護や権益を得ながら活動の幅を拡げる商業者達の活動が社会を変える様も見える。

本書の中、室町幕府の時代の商業者、貸金業者というような人達の活動が取上げられている部分が非常に興味深かった。室町幕府の時代には一定以上に「銭」が普及していた。銅銭だが、アレは1枚が4グラム程度らしい。「1貫文」というのが1000枚で4kg程度というようなことになるというが、それが多分「10万円程度」であるらしい。とすると「10万円程度」を持って何処かへ行くのに、「1リットル入りのペットボトル4本」という重さの「荷物!」を持つことになる。それでは不便だということで、「信用状」のようなモノを遠隔地に届けて資金を動かすというような仕組みが、この室町幕府の時代に起こって発展していたらしい。

前の時代である鎌倉幕府の頃、後の時代である江戸幕府の頃の何れとも違う「室町幕府の時代」のイメージが鮮明になるのが本書だ。そのイメージとして、本書では相国寺の辺りに聳え立っていたという「大塔」に関する話題が在る。

本書とは無関係だが、偶々観た映画『室町無頼』には京都の街に聳え立つ巨大な塔が登場している。現在も在る東寺の五重塔が高さ55mであるのに対し、相国寺の辺りに聳え立っていたという「大塔」は100mは在ったらしい。そういうモノが登場し、密かに姿を消してしまったという経過が興味深い。

造営事業、儀式というようなことで見える幕府と朝廷との関係性、商業活動の拡がりと課税というような幾つかの柱で論じ、「室町幕府」というモノが京都に在った時代を描き出そうというのが本書である。「ダイナミックな物語=歴史」という感じで実に面白い。人名、文物の呼称、年号を憶えるようなことに留まらない「有意義な学び」を供してくれる本書だと思う。広く御薦めしたい。

『「千羽鶴」で国は守れない 戦略研究家が説くお花畑平和論の否定』

↓程好い分量の文庫本で、素早く読了に至った。

「千羽鶴」で国は守れない 戦略研究家が説くお花畑平和論の否定 (光人社NF文庫 光人社NF文庫) [ 三野正洋 ]



↑戦後日本の軍事関係の事柄や、方々での戦争の経過を踏まえて論じるというエッセイである。なかなかに興味深かった。

題名の「千羽鶴」という語であるが、これは「平和や安寧を独善的な迄に只管に祈る行為」を象徴させている表現だ。「只管に祈る」だけでは平和や安寧が得られるのでもないのだから、色々な事柄を学んで考えることをもっとしなければならないという意図だ。加えて、紛争地や災害の地域へ祈りを込めて「千羽鶴」を贈るというのも見受けられるが、これは贈る側の独善であるという場合が殆どであろうという話題も提起されていた。

日本国内では「軍事」というような事柄は、特殊に過ぎるか、極一部の好事家が関心を寄せることであるかのような扱いかもしれない。が、存外に重要な事柄で、時には顧みる位の必要性は在るであろう。本書では「戦死」というような事柄を巡る事象や、過去の戦争の終幕というような事柄、更に日本の周辺で発生し得るかもしれない事象や、最近のガザやウクライナの件等に関しても論じられている。

「国防」という事柄や「国連の役割の経過」という事柄は非常に有益な情報であるように思った。例えば海保と海自が連携して輸送船段を護るというような想定の演習のようなことは聞かないが、想定すべきが余り想定されていないかもしれないのが「国防」かもしれない。そして、過大な期待は禁物だが、過小評価して無視する訳にも行かないのが「国連」なのだとも感じた。

本書は学び、考えるヒントを色々と与えてくれるエッセイである。広く読まれるべきであると思った。

『<ヴィジュアル版> ニッポン景観論』

↓<ヴィジュアル版>と敢えて題名に関して在るが、写真が豊富で、豊富な写真を見ながら本文を読んでいる中でドンドン進んでしまい、素早く読了に至る。

<ヴィジュアル版> ニッポン景観論 (集英社新書)



↑「進んでしまい」としたが、内容に引き込まれて、写真を観る眼の動きと、頁を繰る手の動きを停め悪くなってしまい、素早く読了に至るということなのだ。

この本は「2014年9月」に「第一刷」で、「2020年12月」に「第五刷」である。この辺りに少し驚いた。概ね10年も前に初登場で、それ以来何度か刷られている本ということになる。そういう状態だが、本書が提起する問題は「10年位も前の話し」というように看過することが出来ない、または看過しては「ならない」ようなことかもしれない。逆に言えば、10年位前に本書で提起されたような問題に関して、何らかの対応が為されたという話しが聞こえる、その以前に検討が重ねられることが在ったのか否かさえ不明確だと思う。著者が御自身で色々と考えて活動した例が本書に在るのだが、その話しを本書を通じて初めて知ったというような状況である。

本書で論じられているのは、何処の街でも電線等の埋設が進まない状況で、必要以上に看板や自販機が溢れ、周囲の景観を度外視した駐車場の配置や、奇抜な建造物が辺りの雰囲気をオカシイ感じにしてしまうようなことが何十年も罷り通り、なかなか改善されないということである。

電線等の埋設ということに関しては、各地に見受けられる「伝統的建造物群保存地区」等で見受けられる程度であろう。「古都」と呼ばれるような場所でも、必ずしも進んでいないようだ。ロンドン、パリ、香港、シンガポールというような世界の方々の都市で100%実施されているという電線等の埋設、「無電柱化」だが、日本国内では例えば東京23区で8%、大阪市内で6%という様子らしい。方々で計画は出ているようだが、速やかに進んでいるようにも見えない。

こういう問題に力を入れる、或いは妙な看板を外す、奇抜な建造物を増やさずに機会が在るなら壊す、古くからの建物等は可能な限り壊さずに「リノベーション」するというようなことで、そうやって「街の心豊かに、安らかに過ごせそうな景観を護る」ことに意を向けて然るべきだというのが本書の主張だ。

日本の人達は、或いは「自己肯定感」が低い、言葉を換えると「矜持に欠ける」ような面が在って、育まれて来た大切なモノを損なうようなことを繰り返し、積み重ねてしまっているというのが本書の主張に入っているが、これには大きく頷いた。本書のような問題提起に向き合って、問題意識を持つようにするというのは大切なことだ。

繰り返すようになってしまうが、初登場が10年位前という本で提起された「問題」が「縮小」や「前進」したとも思い悪い状態に在ると思う。或いは大規模催事や大規模な街の再開発のようなことが過去10年位で積上げられ、或いはこれからも突き上げられ続けて「問題」が「拡大」や「後退」ということになっているかもしれない。考えさせられる内容だ。本書は「読むべき一冊」だと思う。

『東大生に教える日本史』

↓大変に愉しく読了した。「教える」ということで、大学の講義の雰囲気で8つの篇を纏めている。順次読み進めると素早く読了に至ってしまう。

東大生に教える日本史 (文春新書 1483)



↑専門的な研究に携わる著者が、その知見を基礎にしながら、広く一般向けに話しを纏めて綴るというのは、凄く新書らしいと思う。

著者が東京大学に勤めているので「東大生に教える」となっているが、これは偶々であって、他大学に在れば「X大生」に替っていただけであろう。内容は寧ろ「誰にでも興味深く学ぶことが出来る日本史」というようなことなのだと思う。鎌倉時代以降の事柄が扱われ、8つの篇=講義が一冊に収められているのだ。

著者は大学の研究所で活動をしていて、御自身の御研究の半ば一環で、研究者を志す方が大半を占める大学院生の指導を行っているのだそうだ。そういう様子なので、日頃は学部の学生、研究者以外の様々な進路に向かって行くであろう新入生のような人達に講義をする機会は無いそうだ。

ところが、教養課程に学ぶ新入生に向けて講義を行うという機会が生じた。そこで著者は、大学新入生達が付き合って来た「受験の日本史」とは一味違う話しをしようと準備した。そういう講義の内容を読物として整理したのが本書である。

本書の8篇、8回の講義で扱われるのは所謂「武家政権の時代」である。契機となる出来事が幾つも在って、鎌倉幕府が成立して動き始める。本書では年号や用語を覚えるような方向に話しは展開しない。或る出来事や成立した体制の以前と、何が如何変わり、何故そういうようになったのかという推論を重ねる。著者は「歴史」というのは、史料を精読して積上げて行くモノに加えて、何らかの理由で欠けてしまった部分や、何かの思惑で敢えて綴られていない可能性も在る部分を「推理」しながら繋いで行く面が在るとしている。そしてその「推理」を巡って「諸説在る」というようなことになって論争のような感じにもなるのである。

本書では、鎌倉に武士、殊に御家人達の幕府が登場し、それまでの時代と何が変わったのかという辺りの話しから入る。やがて源頼朝が他界した後、後継者となった息子達が排されて、鎌倉幕府は維持されるが、それが何故だったのかというようなこと、承久の乱による揺らぎとその後の体制の強化という話し、更に元寇での変化とそれに対応しようとした勢力が排されて揺り戻しが在ったという事等が論じられている。こういうように「考えながら移り変わる時代を観る」ということが「歴史を学ぶ」ということなのだと示しているのが本書の内容だ。

鎌倉時代の後も、室町幕府は本拠地を何故京都にしたのか、どのように展開したか、更に織田信長の「革命的」な要素、戦国大名達と“権威”というモノの関係、豊臣秀吉の際立った特徴、彼らに対する徳川家康、そして江戸幕府の展開や江戸時代から明治時代への変遷、加えて宗教を巡る動きというようなことが本書の各篇では取上げられている。何れも「考えながら移り変わる時代を観る」という流儀で語られている。ここで余り諄く語るべきでもない。是非、本書を読んでみるべきだと思う。

本書は「歴史を学んでみる」というのは「こういうようなこと!」と教えてくれるような気がする。そして「現在に連なる様々なモノ」が時間を掛けて形成されたような所謂「武家政権の時代」の「肝要な要素」が或る程度網羅されてもいると思う。広く御薦めしたい一冊だ。

『飛脚は何を運んだのか 江戸街道輸送網』

↓なかなかに興味深い内容で、愉しく読んだ一冊だ。

飛脚は何を運んだのか 江戸街道輸送網 (ちくま新書 1841) [ 巻島 隆 ]



↑或る職業、業界に関する事柄を取上げて時代や社会を観ようというような事柄は面白いと思う。本作もそうした取組に相当すると思う。「飛脚」という仕事、またはそういう事業、事業を展開しようとした人達、その様子の広い範囲の事柄が本書では取り上げられている。少しボリュームが在る新書のような感じだが、全く飽きない。

「飛脚」という用語は、提供されるサービスや業種を表す用語としては明治時代に「郵便」や「運輸業」「運送業」という用語を使うようになって以降は用いられていない。(江戸時代の「飛脚問屋」の後裔と呼んでも差し支えないかもしれない運送会社というモノは在るというが。)そういう状況だが、それでも「街から街へモノや書類を届ける」という営為の「イメージ」としては社会の中に残っていて、運送業者でそのイメージのイラストをトレードマークにしていた例も思い当たる。

現代の種々のサービスに通じる様々な事業が方々で大胆に展開されていた江戸時代に「飛脚」というサービス、その事業の拡がりや様々な展開が在った。この「飛脚」という用語は意外に古い。源平合戦の頃に用いられ始めたのだという。

色々な国や地域の文明の展開の中で、馬で書類を携えた使いが往来するというような通信手段が登場していた。(極一部に例外も在るらしいが。)古代の日本でも「駅」という連絡拠点が設けられて、馬で使いが行き交って重要な通信を行うという仕組が現れた。そういう馬を前提とする通信の他方に「便りを届けて欲しい」と送り出されて、歩くか走るかで相手先を訪ねて書類を届けようとする例も見受けられるようになった。そういうのを「脚力」と呼んだのだそうだ。文字どおりに、脚の力で用事を足した訳である。

時代が下って源平合戦の頃となった。源氏陣営、平家陣営の軍勢が各地に展開し、各地で合戦が繰り広げられる状態になった。そうなると軍勢の動き、合戦の展開や結果というような情報が求められ、関係者はそれを発信しようとする。そんな中、「便りを届けて欲しい」と使いの者を送り出し、場合によってはリレー方式で陣営の中枢に情報を報せようと努力するようにもなる。そういうことで送り出した者を「飛ぶ鳥のように早く駆けて書状を届けよ」ということで「飛脚」というように称する例が現れたのだそうだ。

源平合戦の頃に「飛脚」という用語が現れたが、それは以降の時代にも受け継がれる。時代を下っても、各々の時代に「便りを届けて欲しい」という求めは生じ、それを受けて「飛脚」と称する者達が動いたのだ。そういう経過等も本書の最初の方には詳しい。

そして大掛かりな戦乱が続くのでもなく、現代の種々のサービスに通じる様々な事業が方々で大胆に展開されていた江戸時代に入って行くと「飛脚」という事業の拡大や発展が見受けられ、関係者が課題に直面してその解決への努力を重ねたというようなことが見受けられた。それが本書の「何を運んだのか?」または「街道の輸送網」という話しになるのである。本書の核心である。

現代とは勝手が違う江戸時代のサービスを論じるということで、本書では冒頭部に「飛脚を頻繁に利用し、その件を日記にも綴っていた人物」が登場する。かの滝沢馬琴である。『南総里見八犬伝』の作者として知られる滝沢馬琴は江戸の流行作家であって、その作家活動や活躍も長い年月に及ぶ。残念ながら消失してしまったモノが多いということだが、滝沢馬琴は几帳面に日常の様々を記録する日記を綴っていたことでも知られる。そこから伺えるのは「色々と細かい事に煩い親父さん」であった様子である。

本書と関係無いが、少し前に観た映画『八犬伝』で、創作された物語の映像化と、滝沢馬琴の暮らしや人生という描写が在った。本書の一部と、映画の滝沢馬琴の暮らしや人生の部分の画とが頭の中で交差して、少し迫って来た。更に江戸時代の宿場町の雰囲気や様子が伝わるような場所―滋賀県の草津、三重県の関、長野県の奈良井―を訪ねてみた想い出も在るので、本書で説かれる宿場町を巡りながら目的地を目指す飛脚の様子が頭の中に浮かんだ。

本書に戻る。取り上げられている滝沢馬琴は、作品を大坂の版元から出したという経過も在って、そうした版元とのやり取りに飛脚を多用している。その飛脚を利用した経過のことを紹介し、本論の飛脚の事業を紹介する辺りに巧く反映させているのが本書だ。また飛脚そのものを利用する以外に、色々な場所の様々な人達とのやり取りが生じるが、滝沢馬琴の様子を例にそうした「通信サービス」を紹介するような拡がりが在るのも本書の面白さだ。

飛脚は事業者が組合のようなモノを起こし、それらがネットワーク化されて各地の街で書状やモノが運ばれる体制が作られた。そして方面毎に馬に荷を積んで街道を行き、一部は途中から人が歩くか駆けるかでリレーをするというようなことで目的地の宛先を目指したのだ。そして少し驚く程に細かく「〇〇の街へはX日で届く」というような内容と料金が設定されていたようでもある。

江戸時代に街道を往来するとなれば、川の増水というような自然条件で動き悪い場面が在ったが、飛脚もそういう様子に悩んだ場合が在った。加えて飛脚の場合には馬や人の都合がつかずに困る場合も在った。またモノを水に落として濡らしてしまう、災害に巻き込まれて紛失してしまう、火災に遭う場合や、盗難に遭う場合も在ったようだ。

飛脚のネットワークによって、種々の商品や代金決済の為替や現金が行き交い、江戸時代を通じて発展した商品経済が支えられていた一面が在る。加えて災害や事件等の情報が行き交う場合にも飛脚のネットワークが活かされたようだ。

更に飛脚の、纏まった資金を預かって動かすというような仕事、或いは街道を走り回って様々な危難に出くわす場合も在りそうなことが色々と想像を掻き立てるということで、文学作品の題材に取り上げられている例も幾つも在るようだ。

現代とは勝手が違う江戸時代ではあるが、それでも現代の種々のサービスに通じる様々な事業が方々で大胆に展開されていた。そうした例の中で非常に大きな存在感を放っていたと見受けられる「飛脚」を詳しく広く論じた本書は非常に興味深い。飛脚を論じている本書だが、映画、小説、その他の本で得たような江戸時代に纏わる知識やイメージ、当時の様子や雰囲気を伝えるような各地での見聞を、街道を駆け抜ける飛脚のように結び付けてくれたかもしれないとも思う。広く御薦めしたい一冊だ。

『ロシア・ウクライナ戦争の行方 世界の運命の分岐点』

↓気になっている事案を巡る論なので興味深く読んだ。

ロシア・ウクライナ戦争の行方 世界の運命の分岐点 (扶桑社新書)



↑題名の中に「世界の運命の分岐点」と在る。ロシアとウクライナとの戦争の決着の如何によって、そこから先の世界の様子が大きく変わるというようなことも在るのかもしれない。そうした意味で「運命の分岐点」となるような出来事が進行しているということで「注視しなければならない」という意味を込めた表現なのであろう。

本書の著者はウクライナから来日して学んだ経過が在り、長く滞日して活動しているという方である。本書は既に3年を超えてしまっているウクライナでの戦禍を巡って、更に関連事項ということで国際情勢等を少し広く取り上げて論じている。

概ね、この3年余りのウクライナでの戦いの展開、ロシアに関する著者の観方、西側諸国に関する著者の観方、戦禍を巡って出回っている様々な観方に関する見解、「新冷戦」とでも呼ぶべき情勢下の世界、そしてウクライナでの戦禍の後に関する観方というようなことになるであろう。

全般的に「若い著者による思い切った論」というように受け止められるような雰囲気が色濃いと思った。大きく頷く部分も、少し首を傾げる部分も交じっている。が、3年余りに亘って必死に戦うことになったウクライナが大変な危難の中に在り、ロシアの行動が余りにも危険で、色々な形でこうした危険な行動は抑止しなければならないという核心部分は強く伝わった。

少し首を傾げる部分は特定の人達を「悪」と断じる部分だった。本当に「悪」ということで排除するか無視するべき存在の人達も在るとは思うのだが、特定の国等に帰属する人達全般をそういうようには言い切れないと個人的には思う。本書の中で「悪」ということになっている国々の人達にも、その限りでもない国々の人達にも「色々な人」が在る筈だと思う。

本書の中「速やかに十分な量の強力な武器が提供されていれば」ウクライナ側がロシア側を駆逐出来た可能性が在ったという話題が何箇所か出ている。「十分な量の強力な武器」というモノを送り込んだとしよう。誰が如何やって使うのだろう?車輛や航空機は訓練無しでは運用は困難で、準備期間が要る。如何いう装備品であろうと、モノが在れば事足りるのでもなく、効果的な使い方というモノが在って、それを心得た人達が指導しなければなるまい。そして「十分な量」というのも相対的なモノでよく判らない。それを「速やかに」となれば、「現にモノを装備品として使っている将兵が現場へ出向くのか?」ということになるのかもしれない。そうなれば「本格国外出兵」だ。方々の国で色々と考えて躊躇したのであろう。また、武器を国外へ動かすことに関して、歴史に鑑みて色々な制約を課している例も各国で存外に多いのだ。本書ではこの辺の話題は余り無いが。

読んでいて色々と考える本書だが、「ジェノサイド」という問題提起は刺さった。ウクライナ人を殲滅するかのような振る舞いがロシア側によってなされてしまっているとする問題提起だ。実際、多くの人達が生命を落とし、国外等へ出る人達も多く在り、新生児の数も戦禍の前後で大きく減少している。戦禍が続けば続く程、ウクライナの社会が損なわれて、そこを取り繕い難くなって行く筈だ。戦禍を少しでも速く収束させねばならないと観る。

現在のウクライナは1991年の「ソ連後」にソ連時代の共和国を版図とする独立国として歩み始めた。過去の経過の故に、各々に色々な要素を有する人達が寄り合って住んでいる「モザイク」のような国だ。そういう国が歩んで、「自分はウクライナ国民」というように思う人達が殆どという様子にはなっていたと観る。そういう国で何が如何なっていたか、何故にロシアが妙な介入をして武力衝突なのか、色々と「判らない」が「未だ」多く在るというのが正直なところだ。特定の人達の「悪」の故にややこしくなったとばかりも思い悪い。

現今の「ロシア・ウクライナ戦争」も既に3年以上で、話題の“鮮度”が低下した感で取上げられる頻度、密度が低下しているようにも見える。が、時間を経て「いい加減にしないと現場が再起不能に?」という程度に様々なモノが損なわれている様子になっているようにも見受けられる。そういう中であるからこそ、関連する様々な論に触れてみる必要性が高まっていると思う。そうした意味で、本書は有効であった。

『日本三大幕府を解剖する 鎌倉・室町・江戸幕府の特色と内幕』

↓愉しく読み進め、素早く読了に至った感の一冊である。

日本三大幕府を解剖する 鎌倉・室町・江戸幕府の特色と内幕 (朝日新書)



↑一般に「幕府」と呼ばれるが、その内容が異なり、また異なる時代なので時代毎に色々と在ったというのが、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府である。各々の特徴を判り易く説き、各々の時代の様々なことを紹介するというのが本書の内容だ。本書は鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の各々を「章」というように纏めている。3つの「章」で構成されていることになる。

「幕府」というのは所謂「武家政権」ということになるが、本書はその「武家政権」という時代のあらましが要領よく纏まっていると思う。鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の各々の成立経過や制度ということが各章に在るのだが、その他に「〇〇幕府の時代には…」という特徴的な挿話、その時代の社会や人々の様子が判るような内容も含まれていて、大変に興味深く読み進めることが出来た。「武家政権」という時代については、「面倒な用語や細々した年代をとりあえず覚えさせられた」という、敢えて申し上げてしまうが「知識の意義を踏み躙るばかりの“教育”を僭称する蛮行」の故に、一般的には印象が非常に悪いように思う。が、本書に関しては、社会の発達経過というモノも意識出来るような形で鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府の各々の時代の様子が物語として判り易いように纏まっていると思う。

「武家政権」の威光が完全に全国の隅々と言って差し支えない範囲に行渡り、その政権の下で各地の自治が在ったというのは江戸幕府の時代のことで、それ以前の鎌倉幕府や室町幕府は様子が異なっていたという事が本書を読むとよく判る。鎌倉幕府は関東での武士達の共同体という色彩が色濃いモノで、方々に必ずしも鎌倉幕府と関係が強いのでもない武士が存外に多かったということであるようだ。室町幕府は京都に幕府が設置されていたが、地方の統治を積極的に行っていたとは言い悪い側面も抱えていた。この辺は江戸幕府の様子とは違うが、その辺は正しく社会の発達経過というモノの故であろう。

鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府は各々それなりに長い年月に亘って存在していた。鎌倉幕府は源頼朝を核としたモノが次第に変容し、承久の乱を経た変貌も在るが、次第に北条家の“得宗”による専制という様相になる。この鎌倉幕府の後の室町幕府は南北朝の対立という要素の中で揺れながら成立し、将軍の権威が確立されるもののそれが弱体化し、応仁の乱を経て戦国時代に入って行く。江戸幕府は戦国時代の幕引きが図られた中で造られた体制であったが、大規模な戦乱が無い中での社会変化で色々な課題が噴出し、やがて幕末の動乱に突入する。本書ではこうした各幕府の“物語”が感じ取れる。

本書は「歴史を学んでみようとする愉しさ」に改めて気付かせてくれるような感じがする。広く御薦めしたい。

『明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか』

↓その名が知られた史上の人物について、種々の史料を掘り下げ、新たにその人物像を打ち出すという感の内容であった。

明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか (NHK出版新書 608) [ 早島 大祐 ]



↑大変に興味深く読み進め、素早く読了に至った一冊である。

「明智光秀」とでも言えば、本能寺で織田信長を討ち、やがて羽柴秀吉と争って敗れてしまった人物ということが真っ先に想い起される。「“本能寺の変”の人」ということになるのであろう。

しかしその“本能寺の変”に至る迄には長い経過も在る。織田信長の家中の将として頭角を現して活躍していた明智光秀だが、「それ以前」というのは余り明確でもない。織田信長の家中での活躍に関しては、それを伝える様々な挿話も在り、加えて様々な想いの中で活動をしていたことであろうし、史料に遺るその言行からそうした想いが読み取れる場合もあるであろう。そして一言で如何こう言えないのかもしれないが、“本能寺の変”に至った胸中というのも想定出来るかもしれない。

本書はそういうように、「明智光秀」という「人物」により一層の厚みを持たせるべく掘り下げているような感の内容だ。実に興味深かった。

題名に在る「牢人医師」という語である。「牢人」というのは定まった主家に仕えているのでもなく、方々を移動しながら世の中を渡っている武士階級に属するということになっている人物を指し示す。そうした人物は各地で何とか生計を立てようとするが、そんな中で「医師」という活動をする例が在ったのだそうだ。

「医師」というのは、主に居合わせた地域で負傷者の手当をし、体調を崩した人の相談に乗って助言をする診察のようなことをし、必要と診れば薬を用意するということになる。明智光秀が生きた16世紀、或いは更に後の江戸時代の前半頃迄、村落の住民が通じているという程でもない「医師」の知識を有しているのは「何処かからやって来て住み着く牢人」という場合が少なくなかったようだ。明智光秀もそうした形で、住んでいた村で「医師」の活動をしていたと見受けられる。

そんな位置から足利義昭に仕え、更に織田信長に仕えるようになって行く。立場が変わって行く中での様々な経過が本書では挙げられる。

殊更に興味深かったのは、「実際に会って言葉を交わすとどういう感じ?」というのが窺える史料が引かれていることだった。

明智光秀は多岐に亘る様々な仕事に携わっている。そういう中、大和国で起こった係争を巡る訴訟を裁いた経過が在った。興福寺と東大寺との係争で在ったが、これに関して報告を受け、関係者と話し合いながら結論を導いて伝えさせている。そんな中、明智光秀と会って話した人物が「このように仰った」というような調子の“直接話法”的な感じで、明智光秀の言う内容を綴っている。それを観て判るのは、明智光秀というのは伝わっていて把握している内容を「一つ…。一つ…」と箇条書きのように挙げて、問題について論じる理路整然とした話し方で、人名が聞き悪く曖昧な書き方になっている辺りから、話し口調は少し早口だったのではないかと本書ではしている。こういう辺りが、能吏であって、任された戦線を支えると同時に多彩な仕事を効率的にこなす、凄く頭の回転が速い人物というようなことを色濃く感じさせる。

そんな明智光秀が“本能寺の変”へ突き進むのは、色々な出自の人達を取り立てる自由闊達な織田信長の家中が、少し変質して硬直化した中、自身の立ち位置を確保するために行動を起こさざるを得ないと考えたのではないかと本書では纏めていた。

これらの興味尽きない話題に巡り合える本書は御薦めだ。色々な意味合いでの「変化」がもたらされた、明智光秀が生きていた時代、その少し後というようなことも含めて、示唆に富んだ内容が本書には詰まっているのだ。出会って善かった一冊でもある。

『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』

↓長い間に亘って綴られていたという貴重な史料を読み込んで判る内容が紹介されている一冊で、なかなかに興味深かった。

江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む (講談社現代新書 2757)



↑出先の書店で見掛けて入手し、ゆっくりと読んだ。

江戸時代の長崎には長崎奉行所という官署が在った。江戸時代には幕府が直轄した各地の主要な都市での仕事を行う「遠国奉行」と総称される奉行が任命され、その奉行が現地に入って仕事をする場所が奉行所だった。

この時代の奉行所では、警察、刑事裁判も含めて地域の様々な事柄に纏わる業務が行われていた。奉行所というのは、現代で言えば、地方の様々な役目の役所や官署を幾つも兼ね備えたような機関であったのだ。その割には奉行所の機構は小規模なのだが、その辺は町に色々な役目を担う人達が在って、奉行所はそういう人達を指導して色々な仕事を進めたということである。長崎奉行所の場合は、その場所柄の故に貿易の取り締まり、厳格な管理を図っていた外国船関係や外国人が滞在した場所(「出島」や「唐人屋敷」)でのモノや人の出入りを巡る事柄等も扱ったという。

その長崎奉行所には、様々な取締に纏わる事項を記録した文書が遺された。17世紀半ばから幕末期の19世紀半ばに至る迄の約200年間に亘る記録が伝えられているのだという。重大な犯罪、種々の規則に関する違反、人々の揉め事の始末、その他色々なことが在って、犯罪とその捜査や処罰の顛末が主要な記録内容となっている。綴り続けられ、編纂され、編纂されたモノが後代に再度編纂される場合も在って、幕府の体制が終焉した後も大切にされて様々な研究の材料となっている。それが<犯科帳>である。

本書はその<犯科帳>を紐解き、「江戸時代の長崎という都市と人々」の姿を読み取ろうとしている。都市と人々とを読み取る際のツールとして犯罪事案の記録を利用しているのである。色々な人達が在って、彼らの間での摩擦、抱えている悩みや色々な事情が噴出する時に犯罪事案が発生するというものであろう。そこに着目する訳だ。

本書では江戸時代の長崎で起こっていた様々な出来事が取上げられている。「抜荷」と呼ばれる密貿易、唐人屋敷等からのモノの持出しや持込みというような、長崎という場所柄の故の事案、その関連が多いのだが、様々な内容が在って興味深い。現代とは価値観や、価値観に関連する行動様式の違いが在る時代なので「そういうようになる?」という部分も多い。が、時代は変わっても人間は変わらないのかもしれないと変に納得するような部分も多く在った。

実は長崎を何度か訪れた想い出も在る。本書の中に出て来る地名を見て「あの辺りの江戸時代?」と思いも巡らせた。本書の末尾には江戸時代の街や周辺が少し判る折り畳み式の地図も付いている。こういうのを少し見ながら本書を読み進めるのも面白いと思う。

江戸時代の各地の都市だが、人の流動性が現代よりも低かったと見受けられる中、各々の地域の様々な事情が目立った筈である。長崎というのは「通商」が生業の核を成すような都市で、関連する様々な仕事を担う人達の流動性が非常に高い地域というのが特徴でもあった。そういう中での様々な人達の生き様が<犯科帳>からは垣間見える訳だ。

偶々出くわした本だが、なかなかに興味深かった。

『尹東柱詩集 空と風と星と詩』

一冊の本との出会いにも色々と在る。今般、少し不思議な経過で、日頃は余り着目しないような内容の一冊に出会うことが叶ったように思う。

少し前にネット上のニュースを見ていて「同志社大学」という文字が眼に留まった。別段に同志社大学に個人的な縁が在るというのでもない。少し前、京都を何度も訪ねた中、同志社大学の傍を歩き廻ったということを思い出し、勝手に親近感を覚えていたことを思い出し、ニュースを詳しく読んでみた。

ニュースの中には古い青年の肖像の写真が掲げられていた。写真の人物が尹東柱(ユン ドンジュ)という詩人であると判った。1945(昭和20)年2月16日に福岡刑務所で獄死してしまったとのことだが、同志社大学に在学していた経過が在り、同志社大学では没後80年ということで名誉文化博士の学位を贈ったのだそうだ。

↓その尹東柱(ユン ドンジュ)の作品を文庫本で読むことが出来ると知り、文庫本を入手してみたのだった。

尹東柱詩集 空と風と星と詩 (岩波文庫)



↑作品は朝鮮語で詠まれた詩で、その本来の詩も収録されているが、それの翻訳が本書の内容で、巻末に解説が在るという体裁だ。

自身は朝鮮語は全く知らない。その部分は読んでいない。日本語に翻訳の作品を読み、そして解説も読んだ。それ程に分量が多いのでもないので、素早く読了に至ったという感じになった。

尹東柱(ユン ドンジュ)(1917‐1945)は、現在では中国の一部になっている朝鮮語を話す人達が住む地方に産れている。その地方というのは、朝鮮半島の人達が移り住んだというような経過が在って、尹東柱(ユン ドンジュ)はそういう人達の後裔ということになる。やがて日本統治下の朝鮮半島に移る。そうやって成長して行った。そこから日本留学を志す。当初は東京の立教大学に学ぶことにしたが、従兄が京都に在ったことから京都に移ることを希望し、改めて同志社大学で学ぶこととしたのだ。その同志社大学に在った中で、朝鮮独立を企てる運動に関与という治安維持法に纏わる嫌疑で逮捕され有罪となって、収監された福岡刑務所で獄死してしまったのだった。

尹東柱(ユン ドンジュ)は少年期から詩を詠んでいた。長じて青年となっても詩作は続けていた。日本へ留学する直前、尹東柱(ユン ドンジュ)は自作詩による詩集を編んだ。可能であれば出版をすることを希望したが叶わず、3部の写しを用意し、恩師と友人に贈った。尹東柱(ユン ドンジュ)が獄死して10年を経て、友人が大切に持っていた詩集『空と風と星と詩』が韓国で出版された。そして大いに評価された。国語の教科書にも作品が掲載されているのだという。

本書にはその詩集『空と風と星と詩』に在る作品に加え、色々な形で伝えられていた尹東柱(ユン ドンジュ)の作品が集められている。御自身で編んだ詩集の作も、それ以外の作も、特段に区別なく興味深く触れることが出来た。

「戦時中に同志社大学で学んでいて、母語の朝鮮語で詩作もしていた青年が獄死という運命を辿ったが、その作品が伝わっている」という事だけで予備知識が無い状態、強いて加えると「学生を護る、援けることが叶わなかった」と大学がこの青年の件を記憶に留めていて伝え続けようとしていて、没後80年に改めて顕彰したという報に触れたというだけの状態で、「外国語から翻訳された詩に触れてみる」という以上でも以下でもない感じで本書を紐解いたのだった。

『序詩』と題された、自ら編んだ詩集の冒頭に掲げられた詩である。これは人生の最後の時迄、信じる道を歩み続け、詩作も続け、詩が風に乗って星のように高い天に至って遍く拡がるようにというような感じなのだと思った。青年詩人の、詩作への熱い想いを吐露したような内容であろう。

こうした「志」を掲げているが、各作品は穏やかで、宵や早朝の静寂を見詰めて綴られたような感じの作が多いような気がした。更にキリスト教や欧州諸国の様々な文学作品や哲学に通じていると伺わせるような内容も含んでいたと思う。「政治犯」というようなことで投獄されてしまったという経過が在る詩人だが、その作品は「若く瑞々しい感覚で、夢中で詩作に勤しんだ結果」という様子で、何等の政治的な内容も感じられない。何処かに社会の様子を見詰めての想いが滲んでいるのかもしれないが、「政治」という感は伝わらない。

尹東柱(ユン ドンジュ)は朝鮮語が母語だ。母語で詩を詠んでいて、それを愛していて、作品を書き留めていたというだけだ。そして真摯に文学を学ぼうとしていただけだ。本書を読むとそういうことが強く伝わる。調べて公正に観るというのではなく、「こうだ!」と勝手に決めて、決めた方向性「ということに」するという方式で、色々とやってしまうというような様子の中で、尹東柱(ユン ドンジュ)はよく判らない罪を負わされてしまったということになるのであろう。

尹東柱(ユン ドンジュ)は「異郷に移り住んで暮らす道を択んだ先祖」を持って、自身も朝鮮半島に移り、更に日本へ留学と「異郷に遷る」ということをしている。何かそういう「“異邦”を見詰める目線」を自ずと備えているかのような様子が、各作品から滲み出ているような気もした。先祖以来、物理的に幾つかの地域を移動しているということに加えて、その精神が何時も旅しているかのような様子が何となく思い浮かぶ。例えば『また別の故郷』というような作品に触れてそんなことを思った。そういった感じが、年月を経て如何なって行ったのかは、誰にも判らないというような経過になってしまったのだが。

詩集というようなモノ、それも外国語の翻訳というモノは殆ど読まないと思うのだが、今般は偶々見たニュースが契機で興味深い人物と作品に出会うことになった。非常に好い経験が出来たと思う。

『サハリン、ウクライナ、そして帰郷』

↓偶々出逢い、素早く読了に至った一冊だが、出逢えた事が非常に好かった一冊だ。

サハリン、ウクライナ、そして帰郷 (ユーラシア文庫)



↑或る程度年齢を重ねた方と同席し、その方による「子どもの頃は…」、「仕事を始めた頃は…、「知られているあの出来事の頃に自分は…」というような来し方を語る御話しに耳を傾けるかのような感じでドンドン読み進められる一冊であると思う。程好い分量で、また小さな纏まりを折り重ねたような体裁であるので、読み進め易い。

著者の降簱英捷(ふりはたひでかつ)さんは、現在は北海道の旭川に住んでいるというが、その来し方は複雑であった。1943(昭和18)年に樺太で生まれている。1945(昭和20)年の終戦後、1948(昭和23)年頃迄で樺太に在った日本の人達の多くが引揚げたのだが、降旗さんの御一家はその機会を逸してしまい、ソ連の中で生き続けていた。サハリンで成長し、ソ連市民として生きて行くことになったが、レニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)の大学に学ぶ機会が在って、そこで伴侶に巡り合った。やがて妻の出身地であるウクライナに移り、夫妻と1人息子とで人生を歩んだ。年齢を重ね、息子も伴侶を得て孫が産れ、更に曾孫も生まれるというようになって行った。そうした中で旗を下ろして行くことになるソ連の経過、ウクライナが独立国となった経過等が在って、2022年の戦争という事態になる。日本で避難民を迎えるとの報が出て、孫から提案が在った。(この時点で妻と息子は他界している。)「おじいちゃんに所縁の国に妻達を連れて行って欲しい」とである。日本で避難民を迎え始めて未だ日が浅かった頃、降簱英捷(ふりはたひでかつ)さんは来日して注目された。そして所謂「永住帰国」ということになって行く。(因みに一緒に来日した孫の妻達は少し経ってウクライナへ帰国している。)

正しく本書の題である「サハリン、ウクライナ、帰郷」という経過の降簱英捷(ふりはたひでかつ)さんの来し方が本書の内容である。本書は長野県の地方紙での連載が基礎になっている。降簱英捷(ふりはたひでかつ)さんの御両親は長野県の安曇野の御出身だ。そこから樺太へ仕事に出ていて、子ども達を育てても居たが、引揚の機会を逸してソ連で生き、帰国は叶わなかった。そういう長野県に所縁の降簱英捷(ふりはたひでかつ)さんの来し方に関して、長野県の地方紙で連載記事を組みたいということになって申し入れ、降簱英捷(ふりはたひでかつ)さんが承諾して作業が進められたということであるそうだ。

各々の事情により樺太から引揚げる機会を逸してサハリンで生きていた人達に関して、一時帰国をして親族との再会や所縁の地を訪ねることを目指すという運動は、概ね1980年代の最後頃から盛んになっていて、1990年代に入った頃から一時帰国が実現している。降簱英捷(ふりはたひでかつ)さんのサハリンに在った御兄弟はこうした動きで何度か来日し、やがて永住帰国ということで現在は日本国内に御住いだ。降簱英捷(ふりはたひでかつ)さんは、サハリン等に在る同胞との交流を進める団体の招きで日本国内を何度か訪れた経過は在る。が、それは「旅行」の範囲で、日本語が堪能な訳でもない。口を突いて出る言葉はロシア語だ。そういう様子なので、今般はロシア語で草稿を起し、日本語に翻訳し、編集者との話しで加筆や整理等も在り、やがて新聞に掲載する日本語文案をロシア語に訳し、降簱英捷(ふりはたひでかつ)さんが確認して新聞への掲載に至ったのだそうだ。大変に貴重な証言ということにもなる訳で、新聞の読者の反響も大きかったという。それを纏め、恐らく連載以降のことの加筆も在るのが本書だ。

自身が住む稚内の港では、サハリンに在った同胞が一時帰国をした際に船で入国し、船で出国して引揚げる場面が見られた経過が在る。そういう関係で、ソ連時代の経過でサハリンではない遠い地域に在るという人達も見受けられ、そういう人達の一時帰国が実現したというような話しも伝わってはいた。そういうことで、本書の事を知った時、著者を少し身近に感じた。加えて、個人的に「迫る」のは、降簱英捷(ふりはたひでかつ)さんは自身の両親より僅かに若いという「殆ど同年代」であり、既に他界したという息子さんは恐らく自身と同年代である筈だ。そういうことで「両親の世代の来し方」というような感じ方もしないではなかった。

御一家が引揚げの機会を逸してソ連で生きることになったが、そういう面倒な事情は第2次大戦末期のソ連の参戦と侵入に起因する訳で、降簱英捷(ふりはたひでかつ)さんには色々な想いも在る訳だが、それでも同じような年代の人達と同じように人生を歩んで来た。日本統治下の樺太で生まれてはいるが、様子としては「1940年代前半産れのソ連市民で、後にウクライナ市民」という形になる。そういう中での見聞、経験、感じた事、考えた事が判り易く綴られていると思う。この年代の「普通の人」の人生、その中での経験が判り易く語られているという本書のような内容は類例が豊富な訳でもないと思う。貴重だ。

降簱英捷(ふりはたひでかつ)さんにおかれては、80歳代の人に見受けられるような健康上の課題も在るようではあるが、心安らかに穏やかに御過ごし頂きたいと願いばかりなのだが、本書に在るように、豊かな大地に真面目な人達が暮らすウクライナが好い状態になって行くよう、平和を祈るばかりである。そして、こういう一冊になって行く新聞への連載を手掛けて頂いたことに深く感謝したい。

『日本史  敗者の条件』

上手く事が運び、類似事案に直面して「あの時に上手く運んだ」と繰り返して成功する場合が在る。他方に上手く事が運ばず、類似事案に直面して「あの時はうまく運ばなかったから少し考える」ということをして成功に到る場合が在る。

↓その後者の考え方で、史上の知られるような実績を上げた人物が「敗者」になって行ってしまった経過を考えるのが本書であると思う。

日本史  敗者の条件 (PHP新書)



↑「敗者」とは言え、その名や事績が伝わる成功はしている。それが何故上手く事が運べなかったのだろうかと考えるのが本書だ。非常に興味深い。

本書では源義経、西郷隆盛、山本五十六、明智光秀、石田三成、田沼意次、後鳥羽上皇、織田信長という史上の人物達に纏わる話題を取上げている。何れも「敗者」というイメージが強いということでもない人物達であると見受けられる。一定以上の活躍を知られている。が、最終的に巧く行かなかった面がある。そういう失敗に到った経過を考えるというのが本書なのだ。

「失敗に到る」ということ、「敗者」になって行くことに関して、3つの型を設定している。「現場主義・プレーヤー型」、「サラリーマン社長型」、「オーナー社長型」である。

源義経、西郷隆盛、山本五十六、明智光秀、石田三成、田沼意次、後鳥羽上皇、織田信長という史上の人物達の名を挙げれば、小説やドラマの作中人物として親しんでいようと、何かの本で色々と語られているのを読んでいようと、「昔の偉い人」というような「遠い存在」であることに変わりは無い。が、「現場主義・プレーヤー型」、「サラリーマン社長型」、「オーナー社長型」となると、急に何十倍も身近になる。こういうような類型ということなら、手近に幾らでも居そうで、場合によっては自身が該当する可能性さえ在る。「現場主義・プレーヤー型」、「サラリーマン社長型」、「オーナー社長型」ということで、何かが巧く行く例、巧く行かない例は非常に身近で、著名な史上の人物達が俄かに手近な存在になるかもしれない。

本書で取上げられている様々な時代の多彩な人達を巡る挿話等は本書を是非御覧頂きたい。「現場主義・プレーヤー型」、「サラリーマン社長型」、「オーナー社長型」と類型が設定されているのだが、何れにしても「リーダーシップを取る。または発揮する」ということの難しさは、時代を超えて人のテーマかもしれない。そして色々な意味合いが在るであろうが、「中途半端」では何かが破綻してしまう。そういうような共通項に気付かされる。

歴史というのは、用語や年号を強いられて記憶するという、学校での苦行の類ではない。本書のように、人生の色々を考える材料となるような話しを知って行く「学び」ということなのだと思う。そんなことにも思い至らせてくれる本書は素晴らしいと思う。

『江戸500藩全解剖 関ヶ原の戦いから徳川幕府、そして廃藩置県まで』

↓史上、少し長い期間に亘って大きな存在感を示していた事象に関する概説という内容の本で、興味深く読み易い。

江戸500藩全解剖 関ヶ原の戦いから徳川幕府、そして廃藩置県まで (朝日新書)



↑持ち歩き易い新書ということも手伝って、持ち歩きながら方々で短い時間に読み、何時の間にか読了に至った一冊だ。

本書で言う「藩」というのは、「幕藩体制」の「藩」だ。江戸幕府の下、各地の知行地を統治する存在の大名家、その家臣達や政治経済の機構を含めて言う概念だ。この「藩」については、長い江戸時代を通じて増減が在る。260台から280台という数で推移している。俗に「300諸侯」と呼ばれている大名家であった筈だ。こうした「藩」または大名家に関しては、長く続く場合も多いが、何処かの時点で廃絶してしまうという例も多く在った。そうしたモノを含めて「500程度にはなったであろう」というのが、本書の題名に在る「500藩」という語の意味であるらしい。

江戸時代の大名家に関しては俗に「300諸侯」と言うので本書の題名に在る「500藩」は気になったが、廃絶した例を含めて累積すると「500程度?」ということだが、それは何でも構わない。本書に関しては、関ヶ原合戦の頃から廃藩置県迄の長い江戸時代を通して、少し興味深い各地の大名家の様子を俯瞰し、殊に興味深い挿話を取上げて纏めているのである。聞いたことが在る例も、聞いたことが無かった例も、然程詳しくは知らなかった例も色々と交じっている。豊富な話題が提供されている。

こういうような、豊富な話題を巧く纏めて読ませてくれるというような一冊はなかなかに好いと思う。巻末の方に300の大名家の一覧のようなモノも在るが、全般的に方々の様々な大名家の挿話が網羅的になっているということではない。関ヶ原合戦、御家騒動の顛末、藩政改革、種々の事件、藩での教育、幕末期の揺らぎ、廃藩置県というようなテーマで色々と話題を供している。本書を読むと、「幕藩体制の藩」という切り口で、江戸時代の流れや、文化の一部が理解し易くなるようにも思う。

なかなかに愉しく読んだ。御薦めしたい。

『室町アンダーワールド』

↓なかなかに愉しく読み進めた。そして素早く読了に至った一冊である。

室町アンダーワールド (宝島社新書)



↑雑誌に掲載された経過も在るモノが含まれるそうだが、対談と普通のエッセイ、解説的な文章というような内容が収められている。纏まり毎にドンドン読める。そして興味深い内容なので頁を繰る手が停め悪くなってしまう。

本書に関しては、映画『室町無頼』を大変に愉しく観て、映画の原案になった小説を綴った作家に興味を覚えて調べようとすれば、新書新刊として紹介されていた本書の4人の著者の1人として挙がっていた。興味深そうな感じに、その興味を覚えた作家が関係しているということが相俟って手にした本書だ。

「アンダーワールド」という題名に在る語である。英語の「underworld」のことであろう。英和辞典で調べてみれば「社会の最下層」、「下層社会」、「暗黒街」というような語義が在る。

そういうことで、本書の題である『室町アンダーワールド』というのは、正しく映画または小説の『室町無頼』のイメージ、または題名の言換えのようである。室町時代を背景に、何らの財産も社会的な地位という程の何かが在るというのでもない人達が一揆を起こすというのが映画または小説の『室町無頼』で描かれる物語で、主要な作中人物達は「社会の最下層」、「下層社会」というような感じの場所に在るということになる。あの物語で殊に重要な蓮田兵衛や骨皮道賢というような人達が蠢く様子に関しては、何処となく「暗黒街」という雰囲気も無くはない。

本書は「室町時代」に纏わる研究を手掛ける皆さんや『室町無頼』の作家が、室町時代、殊に「応仁の乱」というような頃、そこから導かれる戦国時代に関することに関して対談し、或いは綴ったという内容を集めている。

「室町時代」というのは、多くの人達が親しむ“時代モノ”の映画やテレビドラマや小説等の題材になっている例が相対的に少ないかもしれない。時代の区分としては室町時代の末期の異称というようなことになる戦国時代については“時代モノ”の題材として人気が高いかもしれない。対して「応仁の乱」の辺りの時期に題材を求めている例は然程思い当たらない。そういうことで地味かもしれないのだが、「そこに着目した理由」というような事柄等が語られるのが本書だ。そして複雑な経過を辿って、長い期間に及んでしまった「応仁の乱」に関することを少し判り易く整理することを試みた文章も在り、なかなかに読ませてくれる。

『室町無頼』の世界は、銭が集まる京で貧富の差が酷く開いていて、飢饉や疫病という様子も見受けられる中で有効な手立ても無い中、行き場が無い人達を束ねて行動を起こそうとする蓮田兵衛が現れる。そういう作中の“時代”に「現代」が垣間見えるような気がするということが話題になっていた。富が一極集中し、人々の間の格差が拡がり、好からぬ情勢の中で有効な手が打たれているのか否かも判り悪いというのが「現代」で、『室町無頼』の世界に少し通じているかもしれない訳だ。

大変に興味深い本書だが、末尾に「応仁の乱」や関わった人達に纏わる史跡を紹介する部分が在った。何れも京都市内の比較的訪ね易い場所だ。極々一部は知っていて立寄った経験も在ったが、余り知らなかった場所も在って興味深かった。こういう内容は一寸嬉しい。

手軽に、気軽に「或いは現代に通じる?」という室町時代の様子を考える材料を提供してくれる本書は非常に好い。広く御薦めしたい。

『検証 大阪維新の会―「財政ポピュリズム」の正体』

↓一定程度の大きな存在感を示す他方、「イメージ」であれこれと言われているばかりで「実際?」という場合が在るのだと思う。本書はその「実際?」に踏み込んで行こうとする内容だ。大変に興味深い。

検証 大阪維新の会 ??「財政ポピュリズム」の正体 (ちくま新書 1802)



↑自身は北海道の小さな街の住民で、「地域政党」としての「維新」とは関係性が薄い。国政進出をしている「維新」ではあるが、全国の津々浦々で候補者が在るのでもないので、国政選挙でも関係候補と出くわさない場合の方が寧ろ多いかもしれない。それでも、結党して10年余りというような政党が一定以上の存在感を発揮しているということに注目はしてしまう。「アレは何?如何なっている?」という程度には漠然と思う。その「アレは何?如何なっている?」に一定の解を与えてくれるのが本書であると思う。

強力な発信力を持って絶大な人気を誇った知事が先頭に立って起した地域政党であった「維新」である。と言って地元の大阪での一時的な人気というような話しではない。一定の存在感を発揮し続ける政党ということになっている。そのことに関して、本書では「大阪の有権者?」、「主張していることと、展開している施策?」ということを探り、「維新」の路線を「財政ポピュリズム」という造語で呼んで纏めている。

大阪は、他の地域に比べると「大阪は!」という独立的な機運、他所とは一味違う力を持っているであろうという自負や期待のようなモノが大きく、少し個性的というように他地域からは見えると思う。そういう訳で、有権者が少し独特な傾向を帯びていて、それ故に地域政党が大きな存在感を発揮しているように考えてしまうかもしれない。が、実はそうではない。大阪の有権者が、他の地域の有権者と比べて特殊な傾向を帯びているとは言い悪いのだというのが本書が導いた、種々の調査を重ねた結論だ。

結局は是々非々で様々な政策が有権者に受け止められ、肯定的にも否定的にも評価されているのは「普通」なのだ。が、著者が「財政ポピュリズム」と呼ぶ路線で有権者を強力に掴む故に「維新」は存在感を大きくしている。それは大阪で始まったことだが、或いは少しずつ日本中に拡がって行こうとしているのかもしれない。

著者が「財政ポピュリズム」と呼ぶ路線は、従前の“既得権益”的な財政支出を批判、糾弾するようなことをして、財政支出を多くの有権者に再配分して支持を得るというようなやり方のことだ。本書の肝である。他方、従前の“既得権益”的な財政支出を批判、糾弾するような流れで、所謂「小さな政府」的な、財政の縮小を謳っているような印象は強い。しかし、実際には各地の大都市の中で大阪の財政支出の規模は、相対的に寧ろ大きい。

こういうような様々な事柄に関して詳しく調査を重ねて分析的に論じているのが本書だ。個人的に思ったのは、最近の有権者の志向に近寄った辺りの主張を新興政党として元気に展開し、それが一定の力を得て、継続的な支持を得ているというのが「維新」という「現象」なのかもしれないということだ。一定以上の存在感を示してはいるが、是々非々の有権者によって、必ずしも支持されていないかもしれない感じの路線、施策、または意見が二分するような事柄も在る。

「イメージ」ではない、「詳しく調べて考えるとこういう感じ」を打ち出す本書は、昨今の様々な動きを考える上で、大変に有益な材料となり得ると思う。出逢えて善かった一冊だ。

『大阪・関西万博 「失敗」の本質』

↓興味深く読了に至った一冊だった。

大阪・関西万博 「失敗」の本質 (ちくま新書 1808)



↑2024年8月に登場した本であるということだ。2025年の催事に纏わる話題なのだが、既に2024年8月の時点で「失敗」と問題提起をしようとしているのは如何いうことなのかと思いながら本書を手にした。そして催事そのものの成功、失敗を断じるには早いが、様々な問題が在る様子を論じておくべきで、加えて万博という催事に留まらない問題のようなモノも感じられるということになるのだと思う。

本が登場してから少し時日を経ているのだが、それでも自身が本書を手にして読了した2025年2月時点で「未だ始まっていない」という催事を題材にしている。万博の会場へ向かう場合に利用する地下鉄の駅が開業したという話題が耳目に触れたのが少し前で、「これから」なのだ。が、これに関して本書の冒頭に話題となっている。催事が終わった後では「善かった」に塗潰され、種々の問題を問題として論じ難くされてしまう可能性が高い。故に本が出る時点で「失敗」と見受けられる諸問題を論じておきたいとしているのである。

そういうことであるので、本書では目指した入場者数が在った、無かったというようなことや、現場での何らかの出来事というような、予め論じようが無いことは論じられていない。会場が決まって行く迄のよく判らない事柄、遅々として進まないというようなことになっていた建設を巡る様々な問題、万博という催事と問い組む様々な人達の様子、絡まる政治、喧伝される経済効果というような事柄に関して、詳しく掘り下げている。その内容に関して、肯ける内容が実に多い。

「経済効果」を「錦の御旗」のように大きな催事を進めることに関して、これは今般の万博に留まらないと思うのだが、「経済効果?」と随分掘り下げて論しているのが興味深かった。万博というような壮大な次元の事柄ではなくとも、「経済効果」を「錦の御旗」のように進めようかというような事例は在ると思う。そういう意味で本書の内容は拡がっていて活が在ると思う。

経験や知識が特定の会社にばかり蓄積され、諸般の事情で特定の会社が退いてしまうと途端に不具合が生じるという図式に関しても本書では詳しかったと思う。逆に言うと、万博のような諸外国の政府や団体が建物を建てて催しを行うようなことになると、酷く煩雑で、国内の建設業関係者が簡単に手を出せることでもないという様子、それ故の建設が遅々として進まない様子というのは当然なのかもしれない。

1970年の万博の後に関西は伸び悩んだという感なのかもしれない。或いは、その過去の上手く行かなかったが「繰り返される?」という見方も在るらしい。そんなことにも本書では触れられている。

また本書に関しては、この10年、15年の「大阪の政治」というような状況の故に万博を巡る様々な動きが在ったのかもしれないという問題提起、逆に言うと「最近の“大阪の政治”?」という問い掛け、更に「国内の政治?」という注意喚起につながる内容が在ると思った。

もう直ぐ万博は始まる。4月から10月であるそうだ。終わった後では確かに「善かった」に塗潰されるのであろう。故に「現在時点で“失敗?”という切り口で“問題”を挙げておきたい」という、本書の意図は有益だと思う。結局、終わってみて「善かった」に塗潰され、事前には「水を差すな!」で、疑義に関しては「黙れ!!消え失せろ!!」という話しになるのであろう。そういうことが長い間、随分と重ねられたのであろう。

色々な意味で1960年代や1970年代と時代状況が異なる中、五輪や万博というようなモノが社会や経済を好い方向に導くということになるのか否か、余りよく判らないような気もするのだが、本書は非常に有効な考える材料となるであろう。様々な事柄を巡って、疑義に関しては「黙れ!!消え失せろ!!」という話しになる傾向は間違いなく在ると観る。そういう観点でも本書は貴重だ。

『阪神電車ぶらり途中下車』

↓愉しく読み進めて、何時の間にか読了に至っていた。この種の本は、一頻り読んだ後も手が届く場所に置いておいて、随時眺めるように読み、本の中で取上げている地域を訪ねる際に改めて参考資料として詳しく読み返すという感じになるのだと思う。

阪神電車ぶらり途中下車



↑2019年に登場した本ということだ。未だ、中の内容が古くなってしまっているという程でもないと思う。

阪神電車に関しては、関西を訪ねた際に利用した経過が何度も在るのだが、最近関西に出た際、阪神尼崎駅傍の宿に連泊して、動く場合は何時も阪神電車を利用していて親しみが増したという出来事が在った。そういう経過を経て出くわした本書で、非常に愉しく読んだのだった。

本書は阪神の各路線の駅を取上げ、駅の経過や近隣の文物等を紹介している。加えて、沿線の歴史というようなことで旧い写真等も交えて様々な挿話が紹介されている。阪神本線、阪神なんば線、武庫川線、神戸高速線と51在るという全駅が取上げられている。「主だった駅」という雰囲気の場所に留まらず「全駅」ということで話題が提供されているということで、本書はなかなかに貴重かもしれない。

所謂「ガイド」という色彩も帯びる本書であるように思うが、「ガイド」とでも言う場合に登場する飲食店や商業施設というような話題は見受けられない。阪神・淡路大震災を含む災害を乗越えたことや、軌道の高架化というような改良等、阪神の列車が行き交う駅の経過と、駅名の由来を含めた駅の在る地域の歴史、場合によって大切にされているような社寺等を含めて、本当に「1日乗車券を手に阪神沿線を随意に動いてみる」というようなことでもする場合の参考書という感じの一冊になっている。

一寸面白い一冊なので、大事に活用したいと思う。

『ウクライナ わたしのことも思いだして: 戦地からの証言』

興味深い本を紐解く時、「頁を繰る手が停め悪くなる」という感を覚える場合が在る。

↓本書に関してはそういう感を少し通り越し、「頁を繰る手を停めてはならない」というような、何か強いモノを感じることを禁じ得なかった。英国人の著者による英語の本を訳したモノだ。

ウクライナ わたしのことも思いだして: 戦地からの証言



↑本論は24篇で編まれている。何れも淡々とした、著者が話しを聴いた人達が語った内容である。決して激越な調子でもない「普通な話し方」の素朴にも感じられるような談話の内容を書き綴っているのだが、読む側を強く掴んで離さないというような感だった。淡々と衝撃的な「戦禍の中での様子」が語られて、読む側に迫るのだ。

本書の題名に在る「わたしのことも思いだして」は、ウクライナを代表する詩人であるタラス・シェフチェンコの詩の『遺言』の英訳から持って来たそうだ。シェフチェンコの詩の訳の中で「忘れないでくれ」というように表現されている箇所であると思う。シェフチェンコがロシアに出て画を学んだ後に帰郷した際に詠んだ詩であるという。愛すべき故郷を再認識しているという感で、故郷から切り離せない自分という想いが溢れている。また、処断を覚悟でウクライナの農民の解放を訴えるという悲壮な覚悟も込められたようである。(因みに、『遺言』等を詠んだ時期の後、シェフチェンコはまた故郷を離れて過ごすということになる。)

本書の題名の中、「わたしのことも思いだして」は本書の中で証言をしているような多くの人達がウクライナの地に在るのだということを、読者に「忘れないでくれ」と呼び掛けるような感じになっていると強く思う。そして「忘れない」、「思い出す」と応えたい感だ。

著者はイラストレーターであるが、ジャーナリストというように方々に出掛けて、取材した内容と自作の画を組み合わせて発表という独特な表現活動を続けている方である。本書では2022年2月以降のウクライナでの戦禍という状況を受け、現地に入り込み、そこで見た様々な様子のスケッチ、そして話しを聴いた人達の風貌の面影を伝える肖像的なスケッチを纏めている。

出会った人達の肖像的スケッチに関しては、御本人達の承諾を得ている。ウクライナ語等の場合、ファーストネームは或る程度種類が限られるので、姓名を全て記すのでもなければ名前だけで個人を特定し悪いというようにも思うが、肖像的スケッチの場合は本人を知る人達や会ったことが在る人達には判る場合も在ろう。それでも承諾するという辺りに、想いを伝えたいという人達が胸の奥に持つ強く熱い何かが感じられる。

24篇で編まれているとしたが、著者はウクライナ国内の何箇所もの街で様々な人達に会ってその話しに耳を傾けている。1篇、英国に出ている若者に英国内で会っているという様子の内容も在った。取材時に99歳であったという高齢者から8歳の児童に至る迄、様々な年代の色々な仕事をしている人達が経験した事柄がその話しから伝わる。取材時期は2022年から2023年である。

様々な年代の色々な仕事をしている人達が経験した事柄だが、戦禍の混乱の中での種々の経験、戦闘の渦中に身を置く人達の想い、戦闘で重傷を負って治療を受けているという経過の人の想い、戦禍の以前と変わらずに大切な仕事を続けることに懸命な人達の想いというような感じなのだと思うが何れも読ませる。そして思う。戦禍は多種多様な人達に一様に襲い掛かり、各々の幸いを損なってしまうものだ。

本書の末尾に著者のコメントが在る。「あとがき」ということになる。ウクライナ現地での取材に協力して頂いた人達への感謝を表するという内容以外の部分が気になる。取材時に99歳と大変に高齢であった方は他界されたが、他の方達は皆さんが御存命で状況の変化の中で各々の暮らしを続けている。中には取材をした1年程度後に再度ウクライナ入りして再会したという方も在るそうだ。そういう人達の悲しみや苦しみが1年程度経っても変わらず、必ずしも救われていないことに著者は心を傷めたのだそうだ。

ウクライナでの事態に関しては、2014年頃から一部に軍事行動のようなモノが在って死傷者が生じてしまっていたという一面も在る。が、「特定軍事行動」と称する「侵攻」が2022年に始まって以降、「第2次大戦の1945年以降、欧州では例が無かった大規模な戦闘」が続き、死傷者の数などは2022年以前の比ではなくなっている。本書に在るような悲しみや苦しみ、著者が取材活動の中で見聞した「1年を経ても変わらない」という悲しみや苦しみが、彼の地に拡がった状態は延々と続いているのだ。

本書に24篇という型になって著者が出会った人達の話し、話した人達の面影を伝える著者によるスケッチ―或いは写真以上に「御本人の雰囲気」が伝わる作品だと思う―が在るが、これは彼の国での出来事の中の極々限られた断片かもしれない。しかし、本書に在るような事柄が無数に積上げられているのが彼の国の様子なのだ。

戦禍を巡って色々な話しはあるが、何と言っても「市井の普通の人達」に限りなく悲しみや苦しみがもたらされ続けている。何とか戦闘を停止して、悲しみや苦しみを和らげなければなるまい。と言って、本書の中で既に示唆が在る。夥しい地雷等によって足を失うような次元の重傷を負っている人達も少なくないという様子なのだという。戦禍で荒廃した国土で人々の暮らしや産業を再建するのも難しくなってしまっているかもしれない。そして戦禍が続けば続く程、そういう難しさは拡がってしまうかもしれない。

現下の状態は、間も無く「丸3年」ということになっている。3年も経って、ウクライナの様子が伝えられる頻度も落ちてしまっているかもしれない。そういう時期であるからこそ、本書は尊い。題名にも在る「思い出して」に応え、彼の国の人達の苦しみや悲しみを想い、それらが和らぐようになることを祈らずには居られない。本書の各篇を読み、読む毎に色々な事柄が思い浮かび、様々に想いも巡った。

或いは今だからこそ本書は「必読」かもしれない。御薦めだ。

『神戸―戦災と震災』

↓或る都市が辿った経過というのは興味深いのだが、神戸に関して街が辿った経過を巧みに纏めた一冊で少し夢中になって読んだ。

神戸 ??戦災と震災 (ちくま新書 1832)



↑頁を繰る手が停め難くなり、素早く読了に至った。

神戸という場所は瀬戸内海に面した場所で、古くから交易等の拠点となった経過は在る。例えばかの平清盛が日宋貿易のための港を整備したのも現在の神戸市内に相当する場所だ。そうした古くからの経過も在ることは本書の最初の方で触れられてはいるのだが、本書の主な内容は所謂「近代」、明治以降の経過である。現在の神戸港や神戸の中心的な市街は、幕末の開港の後に港の利用が伸びて行く中で発展したと言われている。そういう経過に関して過不足無く判り易い感じで纏まっている。

神戸は水害で大きな損害が生じて復興を目指した経過が在るのだが、その後はほんの題に添えられているように戦災が在って、1995年の震災を経験している。

戦災に関しては、殊に1945(昭和20)年頃に各地の都市が大きな空爆の被害を受けてしまっているが、神戸はそうした中で殊更に甚大な被害を受けた地域である。そうした被害の経過、復興を目指す動き、闇市、占領というような事柄、占領後の動きや、長く続いた戦後復興という流れの市街の整備というような事柄が説かれる。

そして震災である。震災の被害や震災後の動き、これに関して主に都市の整備の経過ということで語られ、加えて経験を伝えて行こうとする動き、その変遷というようなことが説かれる。震災も、個人的には遠い地域の出来事であったにも拘らず、凄まじい様子が伝えられて相当に驚いた記憶が在るのだが、既に30年経った。そうした中、「とりあえず災害前の様子に戻したい」から「時代の変化に合わせた都市空間の再整備」というような様子に変化していることも紹介されている。こういう「時代の変化に合わせた都市空間の再整備」というような様子について、個人的には何度か神戸を訪れて垣間見ていると思う。本書の記述について「見た様子かな?」と思いながら読んだ箇所も幾つも在った。

こうした内容に加えて、著者が携わっている仕事の一部でもあるようなのだが、「地域の歴史を伝える」、「資料や史料を整理保管して行く」というような重要なテーマに関しての言及、地域の歴史を纏めて伝える“自治体史”の編纂経過というような事柄に言及が在った。そうした辺りも非常に興味深く読んだ。

本書は「神戸市の歴史―都市整備篇―概要」というような感じで大変に価値が高いと思った。個人的には、少し前にコンディションが好くない様子で神戸に立寄って再訪を期したということも在ったのだが、そういう際にまた読み返すかもしれない一冊だ。何かで著名な方の言行を多く綴っているのでもなく、様々な史料や伝わっている証言等で読み解ける「街の様子」という観点で一貫して綴られている労作だ。

なかなかに佳い本に出合えた。余韻に浸りながら、本書を広く御薦めしたい。

『列車種別 探究読本: 特急・急行・快速・準急・普通』

列車に乗って方々へ出掛けて、出掛けた先で列車を利用して動き回るというようなことをすることを好む。何故?何か愉しいからということに尽きる。

そういうことをしていると、普通列車、特急列車というような何処の地域にも在るようなモノ以外に、準急だの快速だの、何やら慣れないので憶え難い色々な種別名を冠した列車が眼前に現れ、それらを利用する。

そういうことを繰り返すので、慣れないので憶え難い色々な種別名を冠した列車の変遷経過等にも少し興味を覚える。

↓そういう興味を満たしてくれそうな一冊と思って手にした本書である。

列車種別 探究読本: 特急・急行・快速・準急・普通



↑様々な種別が如何いう経過で登場し、また廃止されたのかというようなことで、各地の様々な列車を巡る話題を手広く取上げている内容で、「なるほど…」と読み進め、頁を繰る手が停まらなくなってしまい、素早く読了に至った。

開通した鉄道の各駅に列車が停車し、やがて幾つかの通過駅が設定されて急行という列車の運行が始まった。それ以降、色々な変遷が在って現在に至っているということが本書の中に在る内容である。こういうことは、鉄道による旅客輸送の変遷そのものにも通じる。各地の鉄道事業者が何に着目し、如何いう対応をして来たのかという経過が見えて来ることにもなる。そして「何故コレが在る?」、逆に「何故コレが無い?」を考えることで、事業者の思惑というようなモノが垣間見える場合も在る。

各地を訪ねてみた中、利用したことが在る鉄道会社の列車が色々と取上げられていたこともあり、色々と眺めながら列車を利用しているかのような気分になりながら本書を読んでいた。一寸愉しいので広く御薦めしたい。

『「俳優」の肩ごしに』

↓「文庫本が登場」と聞き、「是非!」と思って手にした一冊だ。

「俳優」の肩ごしに (文春文庫 や 30-4)



↑愉しみながら、少し夢中で読み進め、素早く読了に至った。

人には各々の来し方が在る訳だが、それを振り返ったような御話しに耳を傾ける、またはそれを文章として綴ったモノを読むのは概して面白い。本書は著者の話す声が聞こえるような、活き活きとした語り口で綴られた、著者の来し方をその「子ども時代」から「青年時代」、更に現在に至る迄の職業の世界に入ってからの経過を纏めている。著者は俳優の山崎努だ。

山崎努は1936(昭和11)年生まれだ。「子ども時代」は戦時中ということになる。本書はそういう頃の事等から始まり、俳優という仕事に入って、様々な取組をして来た経過、比較的近年の様子に至る迄の「自伝」という内容だ。「俳優」である御自身を、「肩ごし」というような感じの距離で見詰めて、「俳優」の来し方を文章に綴っているという風なのだ。

御本人が綴った本文に加えて、対談や他の方の寄稿も在って、「山崎努」という魅力溢れる「俳優」の姿が浮かび上がるような内容に纏まっている一冊だ。

山崎努が出演した作品で、古いドラマの『新必殺仕置人』というのが強く記憶に残るのだが、本書でも言及が在った。彼が演じた「念仏の鉄」は、着物の下に赤い襦袢を身に着けていて、黒っぽい着物からその赤が覗くという感じで登場していた。これに関して、子どもの頃の記憶が少し関係しているのかもしれないということだった。

独特な、考え抜いたような役作りの経過や、知られている作品への取組等、色々と読ませる内容だ。「俳優」として、「山崎努」という個人としての来し方が、この一冊に巧く纏まっていたと思う。

非常に愉しいので広く御薦めしたい。

『キーウで見たロシア・ウクライナ戦争 戦争のある日常を生きる』

↓出先の書店で見掛けて入手し、ゆっくりと読了に至った。或いは「こういうような内容が待たれていた」と思わせた。

キーウで見たロシア・ウクライナ戦争 戦争のある日常を生きる (星海社新書 318)



↑編集者から投げ掛けられる「こういうことに関心が寄せられていると見受けられる」という問いに答えるというような体裁の短いエッセイを折り重ね、全般的内容の前後に著者御自身のエッセイを加えるという体裁になっている。短い纏まりを順次読む感じで、読み進め易いと思う。そしてその読み進め易い内容は、より多くの方が触れてみる価値の在る内容であるとも観る。

著者はウクライナ国内に在って、通信社の仕事に携わっている。ウクライナの通信社は各国に向けた情報発信を行っているのだが、その中の日本向けの発信に携わっているという著者である。基本的に通信社の本社が在るキーウで仕事をしているので「キーウで見た」と題名に在る。2022年2月の戦争という情勢の少し後、キーウが危険と見受けられたということで、西部のリヴィウに少し写っていた時期も在ったという。その他、現在の仕事の以前からウクライナに在って、各地を訪ねてその様子も承知しているという著者だ。

本書の中にも言及は在るが、ウクライナでは、実は2014年頃から国内で軍事行動のようなことが繰り返され、「戦争」といういような様子は続いていた。2022年2月以降は、それが「全面的戦争」という様相になり、「全面戦争」、「大戦争」というような言い方になっているという。他の本で、2014年頃からの状況を「第1次ロシア・ウクライナ戦争」と呼び、2022年以降の状況を「第2次ロシア・ウクライナ戦争」と呼ぶような感と論じられていたのに触れたことが在った。現地でもそれに近い感じになっている訳だ。

如何いう仕事に携わっていようと、部外者にとっては少し特殊に見える面は在ろうが、結局は何処の国や地域でも、大統領や閣僚というようなかなり特殊な立場、圧倒的な知名度を誇る著名人というのでもなければ「市井の普通の人」である。著者は通信社の仕事をしていて、部外者にとっては少し特殊に見える面は在る。が、著者もまた縁在って携わるようになった仕事に取組んでいる「市井の普通の人」という以上でも以下でもない。そういう人が見詰め続けている「現今の情勢」が、或る程度判り易く纏まっているというような発信は、ここまで余り例が無かったように思う。そういう意味で本書は貴重だ。

もう直ぐ3年になろうというウクライナの現下のの様子だが、「現地の市井の普通の人の目線」での見聞は然程伝わるのでもない。こういうことは、何もウクライナの現下の様子に限ったことでもないとは思う。が、「酷い羽目に陥っている人達が何とかなるように」と願う中では、そういう様子が酷く気になるのだ。本書でそれに触れることが叶ったと思う。

ウクライナの人々に関して、「〇〇系」というような分け方をしようとする例が見受けられるようだが、著者はそれに少し疑義を覚えるようだ。ウクライナに在っては、その版図に在る、または帰属している意識を持っている、少し言葉を換えると「同胞」という意識が在る、他社がそういうように認める人が「ウクライナ人」で、「〇〇系」という民族的出自というような何かが然程重要でもないかもしれないという観方を示している。こういう事柄は、ウクライナが「文化や民族のモザイク」という版図が急に「独立国」となり、そこに在った人達が時間を経て帰属意識を育んだ、または強めたというような経過を想起させる。

本書の中、侵攻を仕掛けた側は軍を退けば直ぐに停戦だが、侵攻を受けた側は攻撃を凌いで動きを停めようと抵抗するので簡単に停戦に出来ないという話題が在った。こういう側面は大きいと確かに思う。

「戦時」という状況の中に陥った人達の様子を、可能な限り詳しく伝え、「忘れずに居る」ということの一助になろうというのが著者の意図であるようだ。これが大切なのだと思う。紛争当事者の一方を非難して如何なるのでもない。戦禍の中を複雑な想いで生きる人達を思いやる、人生の可能性を何とか拓こうと色々な動きをする人達の手助けをするというようなことが、とりあえず大切だと自身は考えている。

なかなかに価値が高い、「現地の市井の普通の人の目線」での見聞、加えて「縁在って現地に居て活動する“外国人”の視点」での記録である。著者の場合、“外国人”では在るが、交流が在る人達にとって「同胞」となっているようではある。「戦禍」と聞いて思う程度に危険が高いということではない面は在るが、或る日の朝に妙なモノが飛んで来て、著者は危険な目に遭ってしまうかもしれない。そういう危険が及ばないことを願うばかりだ。そして本書の様な事柄も含め、種々の発信を続けて頂きたいものだ。

『プラチナハーケン1980』

↓気に入っているシリーズである「桜宮サーガ」の最近の作品ということになる。

プラチナハーケン1980



↑題名に「1980」と在って「1980年の或る日」というような様子から物語が起るが、作中で5年程度の時日が経ち、最終盤の方では「1985年の或る日」という様子になっている物語だ。

所謂「桜宮サーガ」のシリーズというのは、東海地方の架空の街、東城大学と大学病院の在る桜宮市で展開するシリーズの作品である。ドンドン拡がる世界が描かれた様々な作品を「桜宮サーガ」というように呼ぶ場合が在るようだ。

「バチスタ」ということで、東城大学病院を舞台にした物語が登場して、以降の展開が在る。作品が登場した2000年代の物語が主な作品なのだが、1980年代末から1990年代初めという物語が登場した。『ブラックペアン』のシリーズということになる。

この『ブラックペアン』に、凄まじい手技を誇る手術職人のような渡海医師が登場する。1988年頃という『ブラックペアン』から更に遡り、1980年頃からの数年間の渡海医師という物語が展開するのが本作ということになる。

渡海医師が凄まじい手技を誇る裏に何が在ったのかということが少しずつ明かされる。そして佐伯教授の居る大学病院での活動が続くのだが、佐伯教授と父との因縁のような事柄に次第に気付いて行く。そういうことで1980年代の冒頭から数年間、1985年頃までの渡海医師と周辺の様子という物語が展開する。

本作に関しては、作中世界の設定年代である1980年代前半の様々な様子に纏わう描写も交じる。多分、作者御自身の若き日の様々な想いが渦巻く時代なのだとも思うが、そういう辺りも少し面白い。

或いは「桜宮サーガ」の「起こる頃」という感でもあるが、1980年代に入った頃に活動を始めた若き医師の物語という感じで、後の時代を描く各作品と無関係に面白い。愉しい作品だ。

『自民党本流と保守本流 保守二党ふたたび』

↓一寸した切っ掛けで興味を覚えた一冊であったが、出会って読了して善かったと思う。

自民党本流と保守本流 保守二党ふたたび



↑基本的には昭和20年代辺りから近年迄の日本の政治という内容だが、凄く興味深い。

本書の著者が参加した対談を読む機会が在った。その中で“自民党本流”、“保守本流”という表現を用いていた。それがそのまま題名になっている本に出会い、是非読みたいと思ったのだった。

「保守」とでも言えば、自民党に所属、自民党の流れを汲むグループに所属という政治家を想い起す。としても、「保守?」という感がしないでもない。本書はその「保守?」という問いへの一定の回答めいたモノを提示しているようにも思った。そういうことを説きながら、「保守」と呼ぶべきモノ、呼ばれているモノに大きく2つの潮流が在るとしている。その大きな2つの潮流が、昭和20年代以降の様子の中では、石橋湛山を始祖とするように見受けられる「保守本流」と、岸信介を始祖とするように見受けられる「自民党本流」とであるとしている。

大政党の「自民党」には、色々な考え方の人達が在って、目指したいと主張する事柄も似ているようで意外に幅が在る。著者が「保守本流」、「自民党本流」と大別している2つの潮流の間では「歴史観」、「憲法観」というようなモノが大きく違うということが指摘されている。近年の政権は、「自民党本流」の側の「歴史観」、「憲法観」を示しているようであるという。

こうした「現代史」を考える材料になる一冊だが、1990年代に選挙制度を換えて、何か「人」が政治の世界に輩出され悪くなってしまったというような話題も在る。そういう中で「行詰っている?」という雰囲気も色濃いような気がする。そういう辺りも「考える材料」として有益だ。そういうような内容に関しては、1990年代に政治の世界に在った著者が語る内容なので、真に迫る。

本書は2018年に登場していて、それ位の時期の話題迄は入っている。そこから数年経ているが、それでも尚、本書は有益だと思った。政治が揺れているような感、または何か大きく変わろうとしているかのような感が否めない昨今であるからこそ、「少し前迄を遡りながら、色々と知って考えてみる」というようなことが有効なのかもしれないと感じるのだ。

なかなかに有益な一冊で、1990年代頃等の記憶にも残る様々な経過等を詳しく解説している感で面白い。御薦めしたい。

『地中の星:東京初の地下鉄走る』

↓読み始めると停め悪くなった。そして素早く読了に至った。

地中の星:東京初の地下鉄走る (新潮文庫 か 99-1)



↑現代史というような範囲であるが、都市の歴史、産業の歴史というような色彩が濃い事項を背景とした、関係者達のドラマということになる。

表紙カバーのイラストは「地下鉄の電車」と判る。本作は、現在の東京メトロの銀座線の御話しだ。表紙カバーのイラストは初めて走った電車をイメージしていると見受けられるが、現在の銀座線ではこの最初期の車輛を意識したデザインの車輛が活躍中ということも在る。(2022年に久々に立寄った東京で、その銀座線の車輛を見掛けた。古風な外観を意識する鉄道車輛というのは凄く好いかもしれないと思って眺めた。)

「地下鉄」は、現在の大都市部では「在るのが当然の社会資本」で「便利な輸送サービス」で、大都市や周辺に住んで居る方にとっては「毎日のように利用」というモノだ。これが「国内では全く初めて登場する迄、或いは登場した頃」ということには想い等廻らないのが普通であると思う。そういう想い等廻らない、「当たり前なモノの初めて」というのは興味深いと思うのだが、本作は正しくそういう具合だ。地下鉄を建設して運行しようという想いを抱いた人が建設に向けて奔走し、やがて誰も実際に手掛けたことが無い工事の現場で奮戦する人達の動きが在って、工事が竣工して列車の運行が始まり、その後の様子が在る。本作は現在の東京メトロの銀座線が「初めての地下鉄道」として登場して行くような頃と、現在の東京メトロの銀座線の全体が姿を現して行くような頃の様子という物語である。

早川徳次(はやかわのりつぐ)(1881-1942)という人物が在る。本作の主要視点人物の一人だ。色々な経過で“浪人”というような立場になった中で英国視察という機会を何とか得る早川徳次はロンドンの地下鉄を知って、東京にその地下鉄を建設して運行する事業を起こすことを夢見るようになる。着工迄のの奮戦や、路線が順次延伸されて列車が動く中での色々なことや、晩年迄の様子が本作で描かれる。

早川徳次を主要視点人物の一人とした。他にも主要視点人物が在って、適宜それが切り替わり、現在の東京メトロの銀座線を巡る物語が展開している。

道賀竹五郎(どうがたけごろう)という人物が在る。大倉土木の社員で、初めての地下鉄道建設で現場総監督となった人物である。5つの部門を各々束ねる監督達を指揮しながら工事に勤しんだ人物だ。この竹五郎の目線で、工事に携わった監督達のこと、彼らの相互の関係や、「初めて」という仕事の中で起こる様々な事柄が描かれている。

五島慶太(ごとうけいた)(1882‐1959)という人物が在る。本作の最後に近い方で主要視点人物となっている。早川徳次の「東京地下鉄道」に対して「東京高速鉄道」という会社が登場する。浅草・新橋の「東京地下鉄道」に対して、渋谷・新橋の「東京高速鉄道」ということで、後に新橋で両者の路線が繋がって現在の東京メトロの銀座線が成立する。本作で、五島慶太は早川徳次が起そうとする事業に協力的だった官僚という立場から、“東横線”を起こして行く事業家になり、「東京高速鉄道」に関わって色々と在るという事柄が描かれている。

早川徳次はかない苦しい資金繰りで、色々な不利な条件を乗り越えて「東京地下鉄道」の経営を続け、「軌道に乗った」とも言い難いかもしれない中、御本人は「半ば燃え尽きた?」という様子になったと見受けられる。そこに年来の知人、更に友人である五島慶太が殆ど同年代ながらも「父を超えようとする息子」という感じで現れ、2社の路線を結び付けて直通運転にしてしまう。前半の「挑戦の物語」に対するこの後半も少し引き込まれた。

トンネルの彼方に輝く電車の前照灯は、地中に輝く星のように見えるかもしれない。そんな様子が当たり前になっていく現代への道筋を拓いた多くの人達の物語という本作はなかなかに面白い。広く御薦めしたい。

『八犬伝 下』

↓少し前に愉しんだ映画の原案であると知って手にした小説で、大変愉しく読み進めていた。上下巻の下巻だ。

八犬伝 下 (角川文庫)



↑頁を繰る手が停められなくなって、大変な勢いで読了に至った。そして深い余韻に浸る感だ。

本作は「創作そのもの」と「創作に打ち込む人の物語」とが螺旋状に組合さるような感じだ。「創作そのもの」が「虚」であり、「創作に打ち込む人の物語」が「実」である。

本作で「虚」ということになっているのが、よく知られる「八犬伝」の物語であり、「実」ということになっているのが、その「八犬伝」を28年間にも亘って綴り続けた滝沢馬琴(「曲亭馬琴」の号でも知られ、本作中でも「曲亭」と呼ばれている場面が在る。)の物語である。滝沢馬琴が「八犬伝」を綴っていた期間は、彼の後半生そのものである。最晩年の、他界してしまう少し前に長大な「八犬伝」は完結を迎えたのだ。

本作は一貫して「虚」の部分と「実」の部分とが交互に出て来る。滝沢馬琴が友人等に「八犬伝」の構想を語って聴かせているという内容が「虚」で、そして滝沢馬琴の人生の様子の「実」なのである。これが最終盤は本作の物語全般のエピローグのように「虚実冥合」という章になって行く。「虚実冥合」という章は、視力を失ってしまう最晩年の滝沢馬琴が、口述筆記で「八犬伝」を完成させて行く様、その口述筆記という方法で綴られているあらましということになって行く。

下巻に至ると、「実」の部分が深くなって行く感じだ。滝沢馬琴は老いて行くのだが、他方に病弱な息子が在り、息子が先立ってしまうというような展開が在る。そして滝沢馬琴の数少ない友人として登場する、葛飾北斎や渡辺崋山(息子と知り合って親しくなるが、家を訪ねている中で滝沢馬琴とも友人と言い得る間柄になった。)とのやり取りで「人生の“虚”と“実”」というようなことが語らわれる場面が在る。

或いは、本作は「日本の長篇ファンタジーの元祖」であるかのような「八犬伝」のあらましを紹介しながら、それを産出した作家である滝沢馬琴の人生や創作に打ち込む様と、「人生の“虚”と“実”」というようなことが真の主題なのかもしれない。「人生の“虚”と“実”」というようなことに関する「葛飾北斎の観方」と対になる「滝沢馬琴の観方」が在り、両者の何れとも少し違う「渡辺崋山の観方」が在る。「そして本作を御読みの、そこの方は如何か?」という訳である。

更に「虚実冥合」という終章は、先立ってしまった滝沢馬琴の息子の妻であった路の物語、また路が視力を失った滝沢馬琴の活動を手伝おうとする経過、滝沢馬琴の路を観る目線とその変化というような物語で、この章だけでも読み応えが在ると思う。

「日本の長篇ファンタジーの元祖」であるかのような「八犬伝」そのものを現代の小説としてアレンジして創るということに留まらない、「あの物語を創った作家の熱い想いとその人生を描き、螺旋状の構成にしてみたことで、本作は非常に余韻が深い作品になったと思う。

大変に愉しんだ映画が契機で、なかなかに素敵な小説に出会って、凄く善かったと思っている。

『八犬伝 上』

↓大変な勢いで読了した。頁を繰る手が停められなくなってしまっていた。

八犬伝 上 (角川文庫)



↑上下巻ということになっている作品の上巻である。下巻が待てないという前のめりな感じ、上巻の余韻に浸りたいという感じが交互に沸き上がり、何かこの作品に夢中になったことに気付かされる。

少し前に、最近公開の映画『八犬伝』を大変に愉しく観た経過が在った。そして映画の原案になっている小説の存在も知り、その小説の「改版第7版」というのが「程無く登場」、言葉を換えると利用している通販サイトで「少し待てば発送される」という状態になっていた。そういうのを見て、それこそ2秒後に申し込み、拙宅に本が届くのを楽しみに待っていて、届いて早速に紐解き始めた。

『八犬伝』というファンタジーの起こりが在って、やがて作者の滝沢馬琴と、友人で絵師の葛飾北斎が現れるという小説の感じは、映画で観たとおりだ。と言うより、映画の方がこの小説を参照して制作されているのだ。が、自身は映画を先に観たので、「小説では」という以前に「映画では」と思ってしまう。そういうように、馬琴が創作する物語である「虚」と、馬琴自身の人生、暮らしの一部という「実」の部分とが交差しながら展開する物語である。それを最初の方で確かめたような感じで、以降は小説の作中世界にドンドン入り込んで夢中になっていた。

小説を原案とする映画は多々在る。個人的な見解であるが、そういう作品は「映画を観てから小説を読む」という方が「小説を読んでから映画を観る」というよりも好ましいように思う。というのは、「映画」は「小説」以上に制約が多く、それの中で映像を見せて台詞の音声や音楽を聴かせるのだが、一定程度の上映時間で収まるように纏める脚本で物語が展開するので、小説で仔細を知り過ぎていると「物足りない」と思う場合も在るのだ。異なる表現方法なので、各々のそれぞれに愉しめば十二分ではあると思う。が、「物足りない」
という不満めいた何かが生じる確率が高いのは「小説を読んでから映画を観る」という方だ。

今般は「映画を観てから小説を読む」という形だった。映画の中では「何となく示唆」という様子だった滝沢馬琴と葛飾北斎との交友の経過、滝沢馬琴が作家になって行く迄や作家としての活動というような来し方という「実」が小説では充実している。それが在って、滝沢馬琴が熱い想いで綴る『八犬伝』が在る。本作では「虚」の部分になる『八犬伝』そのものだが、これも八犬士や周辺の人達の背景等が少し掘り下げられている。『八犬伝』は1週間程度というような時日で目まぐるしく事が展開するような部分の他方、少し時間を要する展開という部分も在る。

「虚」の部分は順次登場する八犬士の相互の出会いや共闘、そして個別に冒険をすることや苦難を潜り抜けるという場面等が折り重ねられる。「実」の部分では『八犬伝』の最初の方、物語の前半に相当する部分が好評を博している様子が示唆され、他方で色々な仕事を並行する滝沢馬琴は存外に『八犬伝』に時間が掛かっているという様子が出て来る。

「作家の物語」と「作家が創った物語」が螺旋状に読者に迫るという感じで、実に愉しいと思う。下巻が凄く楽しみだが、それはそれとして、とりあえず本作は広く御薦めしたい。

『サイボーグ009トリビュート』

↓なかなかに愉しく読んだ文庫本ということになる。

サイボーグ009トリビュート (河出文庫 い 42-2)



↑出会うことが叶って善かったと思っている。漫画に着想を得て綴られた小説を集めた一冊ということになる。9篇が収められているので、各篇毎に順次読み進めるというような感じで愉しんだ。

「石ノ森ヒーロー」というような表現が在る。この『009』を含めて、幾多の“ヒーロー”の作品を手掛けた石ノ森章太郎に敬意を表し、その創造物であるヒーロー達を呼ぶ言葉だ。

幾多の作品に親しんでいる自身としては、「石ノ森ヒーロー」というのは「期せずして得てしまった常人離れした能力を活かして闘う路を自らの意思で択んで行く」という特徴が在るように思っている。幼少の頃から親しんだ『仮面ライダー』がそういう形で、そして初登場の時期がそれよりも以前である『009』もそうである。『009』には少しだけ長じた小学生時代から親しんでいる。

『009』は色々な形で、何度も作品の休止と復活を繰り返し、結果的に石ノ森章太郎が最晩年辺り迄作品を創り続ける、または創ろうとしていた。聞けば、最晩年に「何とか描きたい」と構想を練り続けていたのがこの『009』の新作であったのだという。旺盛な活動を続け、夥しい作品を発表し続けていた漫画作家の石ノ森章太郎の「代表的作品」として、真っ先に挙げても差し支えないのが『009』ではないかと思う。

『009』は、世界の紛争に裏から介入し、非常識な迄の超科学で色々な兵器を製造し、人類を陥れるようなことをして利得を得ようとする「黒い幽霊団」(ブラックゴースト)が在って、「黒い幽霊団」(ブラックゴースト)が世界中から拉致した人間を改造し、様々な凄まじい能力を有してそれを駆使することが出来るサイボーグを産出し、自分達の活動に利用することを画策した。その企ての最初期に「00ナンバー」と呼ぶ一団が産出された。“001”から“009”の9人である。この9人の改造に纏わる事等に協力してしまった科学者のギルモア博士は、彼らを引き連れて「黒い幽霊団」(ブラックゴースト)を離れ、彼らの企てを挫かなければならないと考える。そして9人は闘う路を択んで行くのである。

こうして「黒い幽霊団」(ブラックゴースト)に関連する事案やその他の事案に向かう9人が描かれるのが『009』だ。各人が協力して総力で事案に立ち向かうという物語も、何人かが関わった事案に関して別の何人かが援けに行くという物語も、メンバーの誰かが出くわす出来事という物語も在る。そして時代のテーマや、人生のテーマが織り込まれる。常人離れした能力を有するサイボーグというSF設定と相俟って、色々と奇想天外な事案が展開する。そして9人が能力を発揮するアクションが在るが、9人と同等かそれ以上の能力を持つサイボーグ集団と対決するような物語も在る。そういう作品が長く送り出され続けていた。

本書はそうしたことを踏まえ、9人の作家達が各々に「トリビュート」として綴った9篇の小説を集めた一冊だ。過去の作品に見受けられた様々な形が巧みに組入れられている。過去の作品を踏まえて、その事後の事や裏側や側面というようなことを想わせる物語も在るが、過去の或る時期に展開した独立的な物語を創っているという作品も在る。更に「半世紀以上を経て」と、現代や現代に近い年代を想定し、そこで活動している9人に関する物語というのも在る。その現代や現代に近い年代の物語だが、「半世紀以上を経て」いても9人は陳腐ではなく、アップデートが図られており、更に「イマドキの…」という問題提起めいたことも含む「『009』というのはこんな感じ!!」という様子で凄く好い。

本書の各篇は何れも凄く好いが、個人的には赤ん坊の肉体に凄まじい頭脳と超能力が閉じ込められている“001”の目線で語られる1984年のレニングラードを舞台にした物語、全身の武器で戦う“004”が仲間達と共に「半世紀以上を経て」いても蠢いた「黒い幽霊団」(ブラックゴースト)の残党に立ち向かった物語、そして他界したギルモア博士の知識や人格に依拠したAIである“ギルモアシステム”に関連する事案に立ち向かう9人という物語が殊更に好かった。恐らく、読む方の数だけ、こうした「個人的に気に入った」が出て来る、秀逸な作品集になっていると思う。

石ノ森章太郎が他界して四半世紀を経ていて、『009』の最初の作品が登場して60年にもなるのだが、各々の背景と特徴を有する多彩な主人公集団を擁して様々な形の物語を綴った本作は非常に奥深く、存分にアレンジして「今日の世界」での物語にさえなり得る。改めて「作品の力」に心動かされる。『009』に懐かしさを覚える方、ファンを自認する方に限らず、作品を知らない方にも「過去の豊かな拡がりを有する作品の設定等を活用したSF的な描き方の、時代を問う長過ぎない作品」として本書の各篇を御薦めしたいというように思う。

『男女最終戦争 池袋ウエストゲートパークXX』

少し長く続いていて、愉しんでいるシリーズの小説の新しい作品が登場したのに出くわすと、「遠方の、暫く会っていない友人・知人の近況に触れる」というような、多少嬉しい気分になる場合が在る。

↓このシリーズについては、シリーズの新作が登場する都度に正しく「遠方の、暫く会っていない友人・知人の近況に触れる」というような、嬉しい気分になる。今般、最近登場した新作に出くわして愉しく読んだ。

男女最終戦争 池袋ウエストゲートパークXX



↑4つの篇で1冊という基本的な形は踏襲されている。本作では、秋、冬、春、夏と移ろう季節の中での出来事が描かれているのだが、こういう4つの篇を四季に合わせるという方式もこれまでと同様だ。各篇を1つずつゆっくり愉しもうとするが、頁を繰る手が停め悪くなってしまう。夢中になるのだ。そして1篇ずつ順次進み、あっと言う間に読了してしまう。

このシリーズは初登場から随分と経っている。登場して然程経っていなかった頃に、テレビドラマ化されてなかなかに人気だった。(小説の世界の色々なことが、実写ドラマではかなりアレンジされているのを後から知った。が、テレビドラマで主演した俳優の当時の風貌は、本作の主人公の雰囲気を凄く反映していたと思う。特定の俳優の風貌を思わせるような人物描写は作中には無いが、動き回る主人公の様子が頭の中に思い浮かぶ時、あのテレビドラマの俳優の風貌と重なる場合も在る。)それから随分と年月を経て、アニメ化ということが在った。そのアニメ化を記念して、「傑作選」というのか、アニメ化に際して原案として取上げた篇等を纏めたという文庫本が登場し、それを偶々読んだ。そして凄く気に入って、他の各作品を全部読み、以降は新作登場の都度に読んでいる。シリーズ登場の頃から年月を経て、シリーズの題名に採られている「池袋ウエストゲートパーク」こと、池袋駅西口の公園は様子が変わり続けている。シリーズの作中でその公園の改修工事が進んでいるというような描写が入る場合も在った。アニメ化の頃には現在の様子になっていた。その現在の様子の「池袋ウエストゲートパーク」こと、池袋駅西口の公園について、東京に出た時に眺めに寄ったことも在った。主人公が住んで居るとされているのは、モデルになる何かというモノは見受けられないが「多分、この辺」と推察出来、そこから歩いて公園を眺めたという訳である。

そういうように勝手な思い入れめいたモノも何時の間にか抱いているこのシリーズである。主人公は真島誠という若者だ。池袋駅西口の商店街で、母親が営む小さな果物店を手伝っている。池袋で育って、豊島区内の工業高校を卒業して現在に至っている。果物店の手伝いの他、雑誌にコラムを綴るアルバイトもしていて、こちらも少し好評で長く続けている。他方、街では「トラブルシューター」として少し知られている。困っている人に手を差し伸べたい、相談されると確り聴いて可能な範囲で助言をしたいというような情に厚い人物でもある。独自の人脈や、持ち前の観察力と構想力、話術、機転、胆力を駆使して困っている人達を手助けし、悪辣な者達を懲らしめようとする場合も在る。本作の各篇は、この「マコト」こと真島誠が、経験した出来事を誰かに語る、或いは書き綴って記録して誰かがそれを読むというような雰囲気に纏まっている。「一人称の語り」というスタイルの物語だ。

このシリーズも、最初の方の作品では主人公が明確に「19歳」と称するような場合が在って、次第に明示はしなくなったが、一定程度「年齢を重ねた」というようなことも伺わせるような表現が出ていたと思う。或る時期からそういうのを止めてしまったような気がする。寧ろ、「年齢を重ねた」で到った辺りを度外視しているかのようになっていったように思う。何やら「20歳代後半に差し掛かり、30歳代が見えるかもしれないような年代」という曖昧な感じで、「作品発表時点の、その年代の主人公の若者」という描かれ方になっているうような気がする。最初期の作品で「19歳」と称していたので、「昭和」の終わりの方に産れていると推定出来る。が、後年に「平成産れ」を思わせるような叙述が在る。その辺が、何やら判らないのだが、結局は「時代のテーマに向き合う市井の若者」ということで、その辺を丸めているのだと思っている。そしてそれで構わないと思う。本作は「主人公個人の人生の年月」というようなことではなく、「市井の若者」が「時代」と「社会」を覗く、向き合うという物語で、その物語が作者の「問題提起」でもあるように思う。

今作の4つの篇である。

第1篇は、マコトを訪ねて来た工業高校時代の恩師の相談を受ける。教え子達が、窃盗団に関わってしまったらしい。深みに嵌って行く前に関りを止め、禍根を何とか断ちたいということだった。マコトが奔走する。

第2篇は、マコトの長年の友人でもある「キング」ことタカシから手伝うように声が掛かった事案だ。タカシのグループが付き合いの在る弁護士事務所が受けた相談に纏わることだった。収益化して月々「三桁」という金を得ているというブロガーが在って、脅迫を受けているのだという。フェイクニュースのブログを綴っているという男の自宅が特定されて、脅迫状が直接足を運んだと見受けられる状況で投函されていた。その脅迫者の正体に迫るべく、マコトは動いた。

第3篇は、マコトが女子大生の相談に乗る。女子大生の唯一の親族である姉が、何やら悪質な店に嵌ってしまったのだという。売掛金が80万円にもなっているとして請求されたが、何時の間にかその債権が他の誰かに渡り、請求額が250万円にもなってしまっていた。マコトは女子大生終いを援けようとする。

第4篇が本書の題名にもなっている篇だ。池袋出身のお笑い芸人とマネージャーが、池袋では名が通っている「キング」ことタカシに相談した事案について、マコトが手伝うことになった。「女性嫌い」を「ネタ」にしていた芸人は、それをテーマにしたファンクラブ的なモノを結成していた。飽くまでも笑いの「ネタ」なのだが、ファンクラブ的なモノに集まる人達の中に、本当にオカシイ者が混ざっていた。フェミニスト団体関係者の女性に向かって硫酸を投げつけて大怪我を負わせるという者が現れたが、それを仕出かしたのが件の芸人のファンクラブ的なモノに集まる人達の中に在るという噂が出始めていたのだった。漸く成功への階段を上り始めた芸人は、悪評で機会を喪うということを避けたい。そこでマコトが動くことになった。

というような各篇である。このシリーズ各作品での篇は、以前から発表される時期の巷での問題や話題に絡めた事柄を取上げている。本作でもそれは健在だ。或いは本作の4篇には、何か共通項のようなモノも感じる。「分断」が煽られ、それが先鋭化するような感じや、「普通」な人達が禍々しい何かに巻き込まれて困るような様子が少し目立つような気がするという昨今の傾向を注視しているのではないだろうか。

何れにしても、時代の傾向のようなモノを覗き、その隙間で奔走して困惑する人達を援け、好からぬ連中を懲らしめるような場合も在るというこのシリーズは興味深く、そして愉しい。本作も間違いなく愉しめると思う。広く御薦めしたい。

『石橋湛山を語る いまよみがえる保守本流の真髄』

↓大変に興味深い一冊に出会った。そして素早く読了に至った。

石橋湛山を語る いまよみがえる保守本流の真髄 (集英社新書)



↑何かの雑誌に載っている「対談」というような感じで2人が語らったことを文字に起して読み易くしたというモノである。登場しているのは、現在御存命の人達の中、見聞や経験が非常に豊かで、論客で文章家としても知られる、なかなかに大きな存在感を放つ方達であるように思う。90年代の連立政権であった時期に<さきがけ>の理論的指導者であったという経過が知られ、深く広い学識を備えた論客にして文章家である田中秀征と、数々の著名な方達へのインタビューや様々な論で知られる佐高信の2人である。

田中秀征は石橋湛山の論を随分と研究している。石橋湛山御本人と接点の在った人達と接して活動もしていて“孫弟子”を自認しているのだという。佐高信も石橋湛山の論に触れていて、そして田中秀征との交流の中で色々と聞いているという感だ。佐高信がインタビュアー的に話しを振り、田中秀征が語るというような調子が本書の基調であるように思う。深く広い学識を備えた論客にして文章家である田中秀征が30歳代であった頃、「政界入りも目指す気鋭の論客」に原稿を求める20歳代後半の雑誌編集者として佐高信は出逢っている。そういう頃から半世紀を超える交流の在る2人の対談が本書である。本の題名のとおり「石橋湛山」という人物、その論、思想や行動様式から伺える様々な事柄等を語らうという内容も在る。が、「石橋湛山を敬慕する知識人として政界入りを果たして活躍した」という経過の田中秀征が来し方を振り返るような内容も多い。それらを全て纏めて「石橋湛山に刺激を受けた」というその内容を伝え、加えて「こういう時代になって行った経過」の一部を想い起し、「時代に問う」というような事柄を発し、同時に「未来へ向かう人達に遺したい言葉」という感じで本書の対談が在ったというように感じる。

自身は「石橋湛山」という人物については「教科書に名が載っている場合が在る過去の首相経験者で故人」ということしか知らないように思う。世の中に“内閣総理大臣”というモノが在ると判った子ども時代、今は亡き“親父殿”が、「期待されて総理大臣になって、その時々に色々と在って、次の人に替って行く。色々な人達が居たが、古くは病気で直ぐに辞めてしまった人が在った。何ヶ月も総理大臣の椅子には居なかった。本当に直ぐ辞めたことが記憶に残る。石橋湛山という人だ」と話してくれたことを記憶している。そういうことなので、“親父殿”に近い世代で学の在る田中秀征が石橋湛山が示していた考え方等を語り、現在の様々な様子を論じる基礎のように話題にするという感の本書の対談に少し強めに引き込まれた。

大学で哲学を、それも当時は主流でもなかった「プラグマティズム」というような事柄等を学び、雑誌記者、論陣を張る執筆者となって行く中で経済学を独学したという石橋湛山は、やがて政治の世界に身を投じる。哲学という土地に経済学という基礎を設け、政治という建物を建てようとしたというような在り方が石橋湛山の歩みなのだと田中秀征は説いていた。石橋湛山は、技術や知識を豊富に有する国となった「小さな日本」が世界の国々と上手く協調して進んで行くような様子を一貫して志向している。そういうような観点で「昨今の様子は如何なのか?」というのも本書の重要な論点であるように思った。更に自民党政権を担ったような人達の系譜を語る部分が在るが、田中秀征の用語では、「保守本流」というようなモノに対して「自民党本流」というようなモノという分け方が示されていた。こういうのは面白かった。

そうした「石橋湛山」を巡る論が本書の趣旨なのであろうが、それはそれとして、現在の様々な様子へ連なるような色々な動きが在った90年代の連立政権であった時期を振り返るような内容が、非常に興味深かった。「自社さ」というような時期、田中秀征は<さきがけ>の理論的指導者として自民党と社会党を結び付ける活躍も見せ、当時の指導者の傍らに何時も在った訳だ。結局、状況に振り回されて思うように動けなかった面も在った「自社さ」の政権だが、「余り言えないこと」としながら阪神淡路大震災の頃の挿話が少し入っている辺りは少し心動かされる。そういう事に加えて、現在の選挙制度に向かって行く辺りの事柄も少し読ませた。

最近、「政治」は少し揺れているかもしれない。そういう中であるからこそ、過去の「あの人は!」というような人物の考え、行動様式、事績を論じてみることや、過去の或る時期に纏わる回顧に触れることは重要だと思う。本書に触れられた善かった。

『戦争ミュージアム──記憶の回路をつなぐ』

↓頁を繰る手が停め悪くなり、素早く読了に至った一冊である。

戦争ミュージアム──記憶の回路をつなぐ (岩波新書 新赤版 2024)



↑程好い分量で方々の展示施設を核とした話題が展開する。各篇を興味深く読み進めながら、雑誌連載であると感じていたが、実際にそうであった。そしてその連載記事を下敷きに、幾分のコラムを加えているという構成だ。

本書では戦争に纏わる記憶を伝えようとしている各地の展示施設を14箇所取り上げている。「こういう展示施設が在ったのか?!」と少し驚いた内容が多かった。地元である稚内の、樺太の経過を伝える施設も交じっていたが、これらに関しては既知の内容を確認する感ではあったのだが。

14箇所に関しては、「戦争」に関する展示とでも言った場合に「最も有名」というような場所を取上げているということでもなく、「以外に知られていないかもしれない」を敢えて択んでいるようにも見える。

各展示施設が択んでいる展示テーマは多岐に亘っていて興味深い。毒ガス、予科練、回天、松代の“大本営”、対馬丸、戦争マラリア、満蒙開拓団、樺太という辺りが少し変わっているかもしれない。長崎原爆や東京大空襲というようなテーマも在る。更に美術作品を展示している例も取り上げられている。

何れも、色々な形で様々な世代の人達の命が損なわれる戦争の無惨な様を伝えるものである。同時に無惨な様を産出す「時代の狂気」というようなことを考える材料を提供しているとも言えると思う。そして紹介される、展示施設で伝えられている挿話の中には、気持ちに突き刺さる内容も少なくない。

結局、「戦争を知らない」という意味では、昭和20年代に生まれた70代の人達も、凄く若い10代の人達も同じかもしれない。幅広い年代の人達に、「現在を生きる人達が想像することすら困難かもしれない状況」を伝えるべく、多くの展示施設で努力が続けられているということが本書では紹介されている。

例えば、原爆で負傷者が溢れた状況下で「何故、病院へ行かない?」というように尋ねる人が在るのだという。病院のような医療機関も含めて、何もかも破壊され、当然のサービスが当然に受けられなくなり、破壊兵器の威力で負傷したような人達は途方に暮れる他無いような状態に陥ってしまうのが「原爆」というような状況なのだ。

色々な想いで「伝えるべきこと」を伝える努力を続けている本書で紹介されている施設である。これらに関しては、「未だ世界から戦禍が途絶えた訳でもない」という中であるからこそ、多くの人達に顧みられるべきなのだと思う。

本書で内容を知り、具体的な訪問方法等に関して少し調べて、各展示施設を訪ねてみたいと思うようになった。そういう意味でも、本書は好い内容であると思う。広く御薦めしたい。

『ナチズム前夜 ワイマル共和国と政治的暴力』

↓所謂「欧州近現代史」という分野の本だ。専門的研究による成果を一般読者に判り易く説くという「新書」らしい感じの興味深い内容である。

ナチズム前夜 ワイマル共和国と政治的暴力 (集英社新書)



↑全く知らないという程でもない「戦間期のドイツ」だが、「そこまで?」と驚く他無いような様子も見受けられたということで、本書の内容をゆっくりと読んだ。本書に出会って善かったと思う。

本書は題名に「ナチズム前夜」と在る。第1次大戦後、ドイツでは帝政が配されて共和国が起った。所謂「ワイマル共和国」である。そして1920年代の様々な経過が在って、やがて1930年代初めにヒトラー政権が登場し、ナチズムの体制ということになって行く。それを踏まえた題名で「主に1920年代頃の事柄や、ヒトラー政権登場への流れを論じているのであろう」と推定は容易だ。が、副題の一部に在る「政治的暴力」というのが少し判らなかった。

「政治的暴力」とでも聞けば、如何いう様子を思い浮かべるか。例えば、或る政党を背景とする集団が在って、その関係者が集まっている場所に、対立的な政党を背景とする集団の関係者が現れ、口論、罵り合いで騒然となって、そのうちに掴み合いの乱闘でも起こるというような様子を何となく想像する。その種の、纏まった人数での乱闘となれば、酷く重たい怪我を負う者が出る、更に死亡する者も出てしまうという場合も在るであろう。こういう感じでも「酷い暴力沙汰」というように思えるが、ワイマル共和国の時代にドイツで見受けられたのはこういう次元で済まない。

「こういう次元で済まない」としたが、起こっていたことは、例えば対立的なグループの関係者宅にピストルを提げて乗り込み、中に居た者を射殺するというようなことまで在ったのだという。こういうのは「マル暴が“ヒットマン”を放って敵対組織の者を消す」という映画か何かに在るような場面を思い浮かべる状況で、「政治的」も何も、単純に「暴力が荒れ狂っていた時期」が見受けられたという様子である。

本書は「ワイマル共和国の変遷」という糸と、「荒れ狂った暴力沙汰の変遷」という糸を組合わせて織り成した一冊であると思う。ワイマル共和国そのものは、第1次大戦後のドイツの国づくりという中、「帝政を廃して共和制とする」という宣言が出て起こった「革命」という状況の中から登場し、当時としては先進的な考え方も容れて歩み始めようとしていた。そこに「暴力」なのである。

本書ではワイマル共和国の局面に合わせて、性質が少し異なる「暴力」が在ったことを説いている。「暴力」にも変遷が在るのだ。1923年にナチスが起す「ミュンヘン一揆」の頃迄は、1918年に成立した共和国の体制が「未完の革命」であるとして体制転換を目指そうとする動きが左右双方から在って、それに伴う「暴力」が見受けられた。やがて各種の党派、党派を背景とする集団の行動の中で、「暴力」を伴う抗争事件が頻発し、街の一部の日常のようになって行くという時期が続く。そしてヒトラー政権の初期、ナチスの傘下である「SA」や「SS」が反対派、反対派らしいという人達を弾圧すべく「暴力」を行使している。

「ナチズム前夜」の政治の潮流の背後、または脇に「暴力」の変遷が在ったということを説く本書は興味深い。ベルリンの警察関係の記録や、同時代の人による日記や、様々な史料を駆使して「その頃のベルリン」を活写している感だ。対立する党派が抗争というような部分に関しては、街の日常に「暴力」が入り込み、酒場等が出来事の舞台となっているが、そういう様子が本書には詳しい。

ワイマル共和国が登場し、「未完の革命」を如何かしようという動きが在ったような時期は概ね100年も前だ。共和国が終焉へ向かって行く、ナチズムに覆われて行くような時期は概ね90年も前だ。そして荒れ狂った「暴力」という話しについては、寧ろ何かの映画でも思い浮かべるような状況だ。それ故に本書の話題を「遠い時代に遠い国であったという御伽噺」のように一蹴してしまうことも出来てしまうかもしれない。が、それは違うというようにも思った。

その辺に棍棒から刃物、更に銃に至る迄の武器を持っていて、対立する党派関係者と抗争を繰り返すというような者達が跋扈している様子こそ、現代のこの国では見受けられず、考え悪い。同時に、そんな様子は考えたくもないが。それはそれとして、何か「異見は許さない」というような空気感が高まる場合は無いだろうか。明確に「異見」と迄は言えずとも、何事かに関して「些かの疑問」を抱く場合は多々在ると思われるが、それさえも「押し黙らせようとする」というような場合は無いだろうか。或いは「ワイマル共和国」の経過は、「異見」を許さず、「疑問」も排除しようというグループが武装抗争をしていたという一面が在ったのかもしれない。そこから「独裁者」が育まれてしまい、色々なモノが破壊され、多くの不幸がもたらされてしまったのかもしれない。そういう様子を、「遠い時代に遠い国であったという御伽噺」と断じてしまうことが出来るであろうか。

本書は、取上げられている内容が或る種の「時代絵巻」のようで興味深い一面も在るのだが、それ以上に「遠い時代に遠い国であったという御伽噺」と断じてしまうことが出来るであろうかと、色々と考える材料が多いように思えた。最近は「政治が揺れる」というようなことも言われているのかもしれない。そういう中であるからこそ、こうした「酷く不幸になったと見受けられる」という時代の研究を基礎とする内容は尊い。広く御薦めしたい。