Web写真展 『美瑛の風景』 / 2024/08/10 ~ 2024/08/31

京都写真美術館「Web写真展」は、過去にも利用した経過が在る。写真を販売するのでもなく、展示のみであれば、ハードルは低い。

今般、「Web写真展」に「空き」が在るので「より利用し易い?」と思い付いて問い合わせると、拙作Web写真展を素早く開催することが叶った。大感謝である!

↓8月10日から始まったWeb写真展である。御愉しみ頂ければ幸甚だ。カラー写真である。
Web写真展 『美瑛の風景』 / 2024/08/10 ~ 2024/08/31

「地元(稚内)に不在らしい?」ということにでもなれば「美瑛に居る?」という冗談が出た。実際、毎年のように美瑛を訪れてしまっていると思う。年に複数回に及ぶという場合も在る。

美瑛でも他の何処でも「景色が好い場所」には「よく知られている感じ」というような画が在るように思う。が、その画と同じような感じという様子には意外に出会えない。そして各人が各々に訪ねた際、「各々が観た様子」に出会う。その「各々が観た様子」が尊いのだと思う。これは何度も美瑛に立寄った中で考えるようになったことでもある。

その「各々が観た様子」に関してだが、同じ場所を観たにしても、季節、天候、時間帯というような状況が異なれば見え方が異なる。そして木々、花、畑の作物というような植物関係のモノが絡まると、同じ場所の見え方も異なる。

そんなことも頭の隅に置きながら、「各々が観た様子」を求めて、終いに何時訪ねて何度目であるのかが頭の中で曖昧になってしまっている程度に美瑛を訪れ、愛用のカメラを提げて動き回っている。極最近ということになる、2024年8月初めの機会に至る迄に随分と「自身」の「各々が観た様子」という画が集まったように思う。

こうした画が集まる中、美瑛やその周辺の文物等に纏わる話題にも触れるようになって来たと思う。そうした話題に纏わる情報も一定程度集積されて来たような気もしている。

美瑛ではモノクロ写真も多々撮っているが、カラーも在る。このカラーの画から気に入ったモノを択んだ。

↓それがこれである。
Web写真展 『美瑛の風景』 / 2024/08/10 ~ 2024/08/31

季節毎、時間帯毎、天候の違いで様々な表情を見せる美瑛である。爽やかで鮮やかな夏季、厳しい寒さの冬季、そういう移ろう季節の狭間と見所は溢れる。酷暑の時季にこそ、各地の皆様にこういう風景を贈りたい。

護る…

過日、偶々古くからの友人と会う機会が在って、旧交を温める愉しい一時を過ごすことが叶った。互いにスポーツ観戦好きで、「随分と以前に札幌でアイスホッケーの国際試合が催され、会場で出くわした…」という想い出話しになった。

↓友人と話題にした、「札幌でアイスホッケーの国際試合」の際に撮っていた写真が出て来た。2008年4月のことだった。
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↑ウクライナのチームのゴールキーパーだ。

対戦する両チームの選手達が交わる競技の場合、ウクライナのチームは黄のユニフォームと蒼のユニフォームとを用意し、両者を適宜使い分けるようだ。この日は蒼だった。

黄と蒼とはウクライナの国旗の色である。写真は国章―現行のモノは、古くからの三叉戟(さんさげき=三又の槍)の紋章を参考にした1918年頃のデザインらしい…1992年から使われているそうだ。―と「Україна」(ウクライナ)とウクライナ語の国名が入った蒼のユニフォームに身を包み、防具を着用してゴールを護るキーパーだ。

「ウクライナを護る」というようなことに通じるような画だ…彼の地で、生命が損なわれるような事態になってしまって気持ちが曇っているのだが…この古い画を一寸掲出したい。

ウクライナの国歌は、1917年のロシア革命後にウクライナが共和国として発足した後に採用された歌が1922年まで使われていたという。パヴェル・チュビンスキーが1862年に作詞し、ミハイル・ヴェルビツキーが1863年に作曲したという。この古い国歌が、1992年から使われるようになったのだという。2003年に歌詞の一部を修正し、正式に「ウクライナの国歌」ということにしたそうだ。

この歌の題が「Ще не вмерла Україна」(多分「シェ ニェ ヴミェルラ ウクライーナ」と読むと思う…)というそうだが、これの意味が「ウクライナは滅びず」ということであると聞いた。

↓そしてこういう歌詞であるそうだ…

ウクライナの栄光も自由も未だ滅びず、
若き兄弟達よ、我らに運命はいまだ微笑むであろう。
我らが敵は、日の前の露の如く亡びるであろう。
兄弟達よ、我らは我らの地を治めるのだ。

何か…現下の情況で思い浮かべたいような詩かもしれないというように感じた。人々が自由で平和に暮らしたいという想いは不滅な筈だ。それを脅かす何事かは打ち払われるべきなのだ。

生命が損なわれるような事態に気持ちが曇る中、古い写真に「護る」というイメージを強く感じ、一寸引っ張り出したのだった。

『沈める滝』

少し前に『直面(ヒタメン)三島由紀夫若き日の恋』という一冊を興味深く読んだ。あの三島由紀夫に所縁が在った女性の話しの聴き書きを軸とした“実録”という体裁で、「“作家 三島由紀夫”という何かを演じ続けようとした、“平岡公威”という表現者」の姿を明らかにしようとするような内容だった。

↓それが切っ掛けで入手し、紐解いてみた三島由紀夫作品である…

沈める滝 (新潮文庫)



↑昭和30年頃を舞台に、当時の三島由紀夫自身と遠くない年代と見受けられる主人公による物語が展開している。独特な心象世界のようなモノを有する青年の、或る女性との交流による「揺れ動き」というような物語かもしれない。そして、作品の発表当時に女性と交際していたという経過が、作中の描写に大いに繁栄されているという説も在るらしい作品だ。

主人公の昇は、電力会社に勤める土木技師である。発電所の建設等に係るという仕事だ。

この昇は、電力会社の会長を務めていた祖父の下で育ったという生い立ちだ。大学で学んで技師になって安定した給与も得ているが、一定の財産も持っている。「付合いが悪い…」とはよく言われたが、昇は自身としての愉しみ、人生を謳歌していると言えた。「一夜の関係」という感で、色々な女性との交流が在り、そういうことを愉しむことを専らとしていた訳だ。

そんな或る時、昇は顕子と出会う。「感動しない女」と称する、少し変わった個性の若い人妻である顕子に、昇は強く惹かれたようだ。

その顕子と知り合った頃、昇の周囲では建設が始まったダムの仕事で現場に入るという話しが在った。雪深く、冬季には近くの街との往来が困難な現場での“越冬”という話しも在った。昇は、そのダム建設現場の“越冬”に参加する間、可能な手段でとりあえず連絡を取ることを顕子と約し、そして現場へ向かった。

昇と顕子との関係が如何いうようになって行くのか?更に2人の各々の人生は如何なるのか?そういう物語だ…

“越冬”という状況も含めて、昇が動く辺りの描写が色々と出て来る本作だ。それらに凄く強く惹かれる。そして、この少し変わった性格、感じ方の顕子が昇との関係で様相が変わって行く。そんな物語がなかなかに興味深い。

愉しく本作に触れながら、何となく「こういう作品がドンドン世に問われていた時代が在った…」と複雑な想いも湧き上がった。何か「不思議な魅力」の一冊になっているような気もした。

存外にお薦めな作品を見出したというように思う…

偶々振り返った…

<鳥海流 四柱推命 無料命式作成サイト>というモノに出くわした。

自身の生年と「6月6日の朝6時…」と性別とをサイトに出て来た欄に入力してみた。

何やら色々と出て来て、説明書きが色々と在った…一人の人間は様々な“星”の下に在って、それらが生き様に反映されているらしい。

出て来た“星”の説明を一寸写して考えてみたのだが…自身の「タイプ」というのか、「傾向」というのか、そういうモノとして合致しているであろうか?自身では些か評価し悪い…

「丁」、「比肩」、「傷官」、「食神」、「建禄」、「冠帯」、「沐浴」というような“星”が自身の頭上に在るようだ。

それらが示す「タイプ」というのか、「傾向」というのか、そういうモノだが?何か「職人」のイメージも「遊び人」のイメージも同居しているらしい。が、それらの様々が同居して「大きく矛盾?」という程でもないのかもしれない…

読んだ内容を敢えて要約すると…楽天的でおおらかあると同時に、美意識が高く、華やかさを好み、自立心が強くマイペースでありながら、愉しいということを殊更に大事にし、ハッキリとモノを言いたがり、他方で安定と発展の双方を求めて努力をする傾向も強く、存外に強運…という感じになるであろうか?自身は「こういう男」なのか?

近年は、何となく「我が人生は“何だった”?“如何だった”?」というような問題意識が沸き起こることが無いでもない。「ハッキリとモノを言いたがる」という傾向は多分外れておらず、これまでを振り返れば「存外に強運」というのも多分当たっているような気もする。

この種のモノ?性別や生年月日と“星”の無数の組合せが記録されていて、入力した性別や生年月日に対応して示される仕組みになっているというプログラムなのだろうが…「来し方」に想いを巡らせる材料としては悪くないかもしれない…

何れにせよ、少し思うのは「現在まで、とりあえず普通に生きている」という「そのこと自体!」が、考えてみると「なかなかに強運」なことで、そういうことを「何者かに感謝…」という気分を忘れない方が善いかもしれないということだ。

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月曜日早朝…

<クリスタルマウンテン>の香りと味わいが愛おしいと感じる。「今朝の1杯目」を速やかに淹れて愉しんでいる。

土日の休日は、漫然と読書に興じるような感で過ごした。日曜日には日中の居眠りも見受けられた…そして漫然と月曜日を迎えてしまった感である。

先月辺りには「3月末?<青春18きっぷ>が使える?何処かへ出掛けようか…」というようなことを思っていた。が、3月末に「唾棄してしまいたい次元の雑用」が生じていて、「であれば<青春18きっぷ>を発売終了の3月31日までに入手し、使用可能な4月初めの時期に…」と思案していた。しかしながら…方々で週末までの段階に「桜の見頃」に突入、またはその状態で何日間か経過している。ということは?4月初めに方々を訪ねても「出遅れ…」という感になってしまうことであろう。

一昨年や昨年は3月末から4月冒頭に時間を設けて方々を訪ねるということをやってみた。それが「好かった!」ということで、「3月末?<青春18きっぷ>が使える?何処かへ出掛けようか…」というようなことを思っていたのだったが、何か「タイミングがズレてしまった…」という感で、時間を設けて出る気分が萎えてしまった。

「何処かへ出掛けようか…」は<青春18きっぷ>の“夏季”が登場する頃、4月下旬頃、6月頃と「何れ機を視て…」というようなことにしようと思うようになった。それまでは漠然と「旅に纏わる情報」というようなモノにでも触れるか、過去写真でも眺めるようなことになりそうだ。

最近は日中の気温がプラス5℃程度になる感じだ。寒さは和らいだが、それでも温かいとも言い悪いかもしれない。未だ暖房器具は使用している。

そういうことで<クリスタルマウンテン>をゆっくりと愉しむ早朝となっている…

「旅に纏わる情報」とは?

「何処かへ出掛けてみたい…」と思っても、「思うに任せ悪い…」という昨今の“事情”というようなことは在る。が、それでも色々と「旅に纏わる情報」に触れること自体は一寸愉しい。で、そういう「旅に纏わる情報」というようなことで、一寸考えることも在る。

何時の間にか「やや旧聞…」とはなってしまっているのだが…以前に、国外旅行のガイドブックに関して、執筆や編集を手掛けている方の御話しを伺ったことが在った。

近年のロシアでは「極東の振興に努力を傾注」という流れが在る。“特区制度”のようなモノを設定し、「経済活動の活性化」という見地で「少しでも有利になるように」という制度の設立、導入が漸次続いている。

日本でも「国外の旅客を積極的に迎える」ということに熱心であるが、それはロシアでも変わらない。ロシアでは外国の旅行者がロシアに入国する場合に求められる査証(ビザ)に関して、「より簡便な手続きで、より早く取得可能」ということを目指し、「電子査証」という新しい制度を設立、導入した。

国外へ旅行する際、日本国と多くの国々との間では政府間の取り決め等により、日本の入出国管理関係の用語で“短期滞在”と呼んでいる「一寸した旅行」という感じの入国に際して「事前の査証取得手続を省略」という例が多く在る。日本とロシアとの間では、そうした取り決め等は無い。日本の人がロシアに「一寸した旅行」をしようとする場合、必ず査証取得手続を行わなければならない。

従前は、この査証取得手続に多少大きな手間も必要で、やり方によって経費も発生するということであった。対する「電子査証」という新しい制度は、インターネット上で自力で手続をして、取得する査証が発効するまでに数日で、航空券や宿泊先をこれもインターネット上のサービスを利用する等して自力で手軽に取ってしまえば、「かなり気軽にロシア旅行へ出発」ということになる。

少し以前に御話しを伺った方は、この新しい制度に注目し、「これまでに馴染みがやや薄かった“周辺諸国”」、「“周辺諸国”への旅という範囲に収まる、(東京から)2時間程のフライトで着く先で“本当に異文化”な状況を体験可能」ということになるウラジオストクのガイドブックを手掛けてみた経過が在るということだった。

ウラジオストクは、「極東の振興に努力を傾注」という流れで設けられた<ウラジオストク自由港>という制度が適用され、「電子査証」も他所に先駆けて導入された。

こうした状況下で、ウラジオストクを訪ねる旅行者は、従前の倍以上にはなっていると言われていた。そしてウラジオストクのガイドブックも、出版社の想定を超える売上で好評を博したようである。

このウラジオストクのガイドブックが好評なことを受け、更に「電子査証」が極東各地へ導入されたことを踏まえ、「“周辺諸国”への旅という範囲に収まる、(東京から)2時間程のフライトで着く先で“本当に異文化”な状況を体験可能」というウラジオストクに加えてハバロフスクやユジノサハリンスクやその他の地域の内容を加えたガイドブックを手掛けてみるということになったのだと聞いたのだった。

そういう経過で、ガイドブックを介して色々な読者の皆さんに「サハリンの情報」を御提供というようなことであったが、実際的な、例えば「〇〇でこういうモノが話題になっていたのが気になって…」、「それなら△△に在るアレのことで、行くとすれば□□を目印で…」という次元の話しもしていたが、それ以上に「或る程度“公約数的”な、より多くの人達に供すると好い、または供すべき情報とはどういうようなモノか?」ということで、貴重な御意見を伺うことが出来たと思っている。

ロシアでも「国外の旅客を積極的に迎える」ということに熱心で、日本国内で催される「日本からの誘客を望む諸外国の観光振興関係機関、旅行会社等」が集まる催しでは、「ロシア各地のグループが最も目立つ?」という状況で在ったという例も見受けられたらしい。そうした中、「ロシアの関係機関が発信しようとしている情報」と「日本の旅行者の“多数派”が知りたいかもしれない情報」とに“落差”のようなモノが「在るかもしれない?」という御話しを伺ったのだった。そして、この“落差”は、もしかすると日本国内での「大都市圏の旅客を迎えることに熱心な地方の諸地域」と、「大都市圏の“時には地方の小さな町へ”という程度に思っている旅客」との関係でも見受けられるかもしれないとも聞いた。

「ロシアの関係機関が発信しようとしている情報」の中、高目な割合を占めている場合が多いのは「雄大な自然」や「アウトドア活動」に関連する内容だという。それはそれで好いのかもしれないが、その「雄大な自然」に出会うためには、訪ねる地域の主要な街から何時間も移動する必要が、場合によっては「朝から夕方の日帰りではキツいかもしれない」ということさえ在る。「アウトドア活動」にしても、入念な準備が必要な場合も在り、それだけで「丸一日掛かり」というのも多い。こういうようなモノを知りたい方も少なくはないのであろうが、それが「日本の旅行者の“多数派”が知りたいかもしれない情報」と「言い得るのか?」という御意見を伺った。

「日本の旅行者の“多数派”」というのは、実は「何かの用事で或る街を訪ね、少し時間が在るので、変わったモノを頂く、音楽演奏でも愉しむ、興味深い展示でもされている場所に立寄るというようなことをしてみたい」という、「手軽に“一寸、普段とは違う”を経験してみたい」と思う人達なのではないかという御話しを、ガイドブックを手掛けている方から伺った。

こういう一連の御話しを通じて、「漠然としていた何か」に関して、「形」を得たように感じたので、「やや旧聞…」とはなってしまっても記憶に留めているのだ。

ウラジオストクに加えてハバロフスクやユジノサハリンスクやその他の地域の内容を加えたガイドブックを手掛けるというようなことで耳にした話が記憶に留まっている。そこでユジノサハリンスクを一寸思い浮かべてみる…

サハリンのユジノサハリンスクというような場所に関しては、「現地の基準」で「特殊?」というモノ、「需要が極めて少ない」と見做されているモノ、単に「不人気…」ということになっているモノ以外は何でも在る。それでも時々、サハリンに関して「モノは在るの?」と訊ねられるような状況が未だに見受けられる…

ユジノサハリンスク市自体で20万人程度、サハリン島南部の日常的にユジノサハリンスク市内との往来が見受けられるような地域の人口が30万人程度ということを思った時には「驚異的?」とさえ感じられる程度に、厚みや拡がりの在る各種文化活動、スポーツ活動も見受けられる。それらが「普通…」な程度に紹介されているであろうか?甚だ心許無い状態であるように思う。

「手軽に“一寸、普段とは違う”を経験してみたい」と思う人達の方を向いたモノ?多数派の方を向いているというのはどういうことか?

恐らくは「こんなモノに出くわした」とか、「こういう催しを観た」とか、「花が咲いた、雪が降った」という次元の自然現象等、「とりあえず思い至った“話しのタネ”」を「可能な範囲で出来るように」というやり方で頻繁に紹介し続けることではないだろうか?十分にそういうことが行われているであろうか?

敢えて「無用!」とまで力を込めて申し上げはしないが、「何か特別」は然程強く必要でもないと思う。その場所の「普通…」が解れば、「旅に纏わる情報」というようなことでは「とりあえず十分…」なのではないだろうか?これは何となく思い浮かべていたユジノサハリンスクに限ったことでもないようにも思うのだが。

何処の街でも、何かの催事等で何処かの一隅が飾り立てられるというような次元の「何か特別」は、色々と見受けられると思う。「何か特別」というのは、本当に「特別」であって、1年の365日の中では「その限りでもない普通…」という日の方が圧倒的に多い筈だ。だから「知らない街…何となく惹かれた…」と、何時か訪ねることを想い描いて「旅に纏わる情報」に触れるような場合、飾り立てられるというような次元の「何か特別」という画を視るようなことよりも、「普通…」な様子を視る方が「或る時、念願叶ってここに辿り着けばこういう様子か…」という「リアル」な情報になるのではないか?

そういうのが、「普通…」が解れば、「旅に纏わる情報」というようなことでは「とりあえず十分…」とした意味だ。

こういう具合に「旅に纏わる情報」というモノが「如何在るべきか?」という面倒なことを時々考えてしまうのだが…それはそれとして、「旅に纏わる情報」というようなモノに、具体的に何処かを訪ねるような計画と無関係に触れるようなことは一寸愉しい。

出羽守推参…??

巷では「出羽守」(でわのかみ)なる言い方が在るようだ。

「出羽守」と聞けば、自身は時代モノのファンでもあることから、古くは朝廷が任じた官職の呼称について、時代が下って武士の呼び名に用いられていたというようなことを思い浮かべるのだが、最近巷で使われている「出羽守」は一寸意味合いが違う。

色々な事案に関して、他所の場所や他分野での事例を持ち出して「○○では」というような言い方をする、そして論じる内容が「難癖?」に聞こえるという事例を捉えて「出羽守」と称するのだそうだ。自身、比較的最近になってそういう言い方が流布しているらしいことに気付いたのだった。

何かに関して「難癖?」というのは少し困るのかもしれない。が、或る事柄について思い出した他所の場所や他分野での事例を持ち出してみるというのは駄目なのだろうか?例えば、巧く事が運んでいるようにも見えない事柄に関して、「他所でこういう具合に巧く運んでいる事例が在った…」と話題にしてみるようなことが不都合であろうか?

こういうことに思いが至ったのは、「○○では」というような言い方になる事をふと思い出したからだ。

以前に、サハリンのネべリスクに在る学校を訪ね、日本の中高生に相当する年代の生徒諸君に迎えて頂き、催事に参加したということが在った。

サハリンを含むロシアの学校では、6歳から17歳の児童生徒が一貫した11年教育の学校に通うことになっている。その中、9年生から11年生が参加対象で、参加を熱望した8年生も紛れていたらしいという催事に参加したのだった。正しく中高生相当年代の生徒諸君と対面したことになる。

ロシアというのは、実は「意外に多民族な国」だ。民族という意味で、色々な背景の在る人達が交じり合っている。その中で“ロシア人”という多数派が在る訳だが、北方の人達の血が濃いと見受けられる人達も、南方の人達の血が濃いと見受けられる人達も、中央アジアや東アジアの血が入っていると見受けられる人達も在って、その風貌も様々である。

サハリンのネべリスクに在る学校で出くわした、中高生相当年代の生徒諸君の様子も多様であった。中高生相当年代の生徒諸君に関しては、大人びて見える人も、子どもっぽく見える人も在って、纏まった人数が集まった場合に各人が醸し出す雰囲気は様々なのだと思うが、サハリンのネべリスクに在る学校では更に「意外に多民族な国」であるが故の要素も感じられた。

ネべリスクの学校の生徒諸君も「意外に多民族な国」の各々の家庭から来ている訳だが、髪の毛の色、眼の色、肌の色が様々だった。だからと言って、それが特別なことでも何でもなかった。髪の毛の色、眼の色、肌の色がどうであろうと、生徒達は各々に学校での活動に勤しんでいて、自身が迎えて頂いた際の催事にも各々が積極的に参加していた。生徒諸君の髪の毛の色、眼の色、肌の色が様々だからと言って、学校生活に何らかの支障が生じているというようにも見えない。

こんな「サハリンのネべリスクでは」というような事をふと思い出したのは、少し前の国内での出来事を取り上げたモノを何となく読んだからである。

国内の高校で、髪の毛が少し茶色味を帯びているという生徒が在って、「茶髪を染めろ!!」と言われ続け、無理をして黒く毛染めをして頭皮が異常を来す等の健康被害も生じ、執拗に言われ続けて鬱屈してしまって不登校に陥ってしまったということが在ったのだそうだ。そして不登校に陥れば、生徒名簿から退学もしていないのに氏名を削除されてしまったのだそうだ。

その生徒の側が、学校側に賠償を求める訴訟を起こして4年程係争していたそうだ。不登校に陥った際に氏名を名簿から削除したという行為に関して、裁判所は違法と判定し、そのことに関する賠償を命じたが、不登校に陥るに至った経過に関する主張は容れられず、賠償ということにはならなかったのだそうだ。

或る高校の或る教室という程度の人達が何となく集まっていた場合、敢えて染髪しているという人が誰も居なくても、人の髪の毛の色はよく見れば様々であるものだ。一口に「黒」と称する範囲だけに限っても、明るい、暗いと色々で、主に明るい部類の中には茶色味を帯びて見える例も少なくはないと思う。「自分で選んだ好きな色に!」と敢えて染髪でもしない限り、髪の毛の色というようなモノは、選べる訳でもない筈だ。それを学校で教職員が如何したこうしたと言うこと自体、何か変な事のような気がする。

髪の毛が少し茶色味を帯びているという生徒が在ったとして、入学した頃からそういう状態で、暫くして髪が伸びた場面や、髪を切った場面でも様子が変わらなければ、それは自然な状態であるということが判りそうなものである。しかしそういうように様子を観察するのでもなく、「茶髪を染めろ!!」なのである…

結局、数ヵ月でも様子を見れば判る事について、直ぐに決着が着かなければならないと執拗に迫るというような、上述の訴訟を起こした生徒が在学していた学校でのやり方は「提供者側の自己都合の押付け」という以上でも以下でもないような気がしてならない。

一寸考えてみると、様々な分野でこの「提供者側の自己都合の押付け」という以上でも以下でもないようなモノが、必要以上に幅を利かせて、何処となく「窮屈?」というような空気感が拡がっているというような気がしている。

「意外に多民族な国」の各々の家庭から生徒諸君が集まっている学校では、髪の毛の色、眼の色、肌の色が様々だったが、それが学校での諸活動に何らかの支障となっているようにも見えなかった。それを思った時、偶々髪の毛の色が茶色味を帯びていたという当該生徒が鬱屈して不登校になるまでに「茶髪を染めろ!!」という学校は「何?」と思うことを禁じ得ない。

国内でも、既に一部の街や、一部の地区では、例えば「両親か、親の片方が外国人」という家庭が一定以上の割合になっていて、各々の家庭から生徒諸君が集まっている学校で、髪の毛の色、眼の色、肌の色が様々という事例も見受けられるような気がする。そういう場所で?流石に、偶々髪の毛の色が茶色味を帯びていたという当該生徒が鬱屈して不登校になるまでに「茶髪を染めろ!!」と言い続けるということになるであろうか?

「サハリンのネべリスクでは」としながら国内の話題に言及したが、こういうのを巷で「出羽守」と称するのかもしれない。しかしながら、「他所ではこういう様子だから、ここもそういう様子であっても差し支えないじゃないか?」と考えてみることは自由である筈だ。或いは、「出羽守」と称する言い方自体が「提供者側の自己都合の押付け」というようなものを「甘受しなければならない」という「押付けの極め付け」であるような気がする。

何れにしても、最近思うのは「年を追って、月を追って、日を追って“窮屈”と感じる頻度が高まっている」というようなことなのだ。時には、そういうような漠然とした想いを整理してみたくなる。

心地好かった夕べ…

<スマート珈琲店オリジナル>を「今朝の2杯目」として淹れた。「1杯目」の<Qグレード認証 エチオピア>とは異なり、「老舗の解答」という感の「珈琲らしい」とでも言うべき味わいであるような気がする。静かな朝にゆったりと頂くのには、こういう感じも酷く好いものだ。

<スマート珈琲店オリジナル>は京都から、<Qグレード認証 エチオピア>は名古屋から取寄せている。京都・名古屋間はJRの最短距離で147.6km、新幹線の列車は40分余りで往来しているようだ。京都と名古屋とだが、多分、「147㎞で最速40分の距離」とは思えない程度に、各々が個性を持っていると思う。偶々手元に在る各々の街から取寄せた珈琲の味の違い以上に、個性の差は大きいかもしれない。

こんなことを不意に思ったのは、北海道内の様々な街に関しては、「京都・名古屋間=147㎞」を「超える距離」という例が多々在るということに思い至ったからだ。

「京都・名古屋間=147㎞」を「超える距離」の北海道内の様々な街という、自身としては判り切ったことを改めて思い出したのは、昨夜偶々「偶々滞在することになった北海道で、折角なので時間を設けて列車に乗って方々を一寸巡ってみている」という方と言葉を交わしたからだ。

その方…札幌で「窓から鉄道の高架線=高架線を走る列車が一寸視える」という部屋に御泊りだったということだが、深夜に線路の除雪をしていた様子を垣間見て、「多くの関係者が努力していることに感謝せねば…」と強く思われたとしていたが同感である。

何かの知り合いに出くわしたということでもない。御近所の居酒屋のカウンターに居合わせたに過ぎない。互いに一寸食事を愉しんでいた。自身は、既に別な店で食事をした後、もう一品気に入っているモノを摘まみたいと、序でに居酒屋の店主氏が流しているビデオでも拝見してという程度の思い付きで道草した。居合わせた方から、北海道内の特急列車のことで話し掛けられて「あの車輛…この車輛…」と話しが合い、更にもう一方在って、何やら列車で翌日か翌々日に移動するようなことを考えていたらしく、列車の話しを始めた方が話し掛けている。「連れ立って?」と尋ねれば「先程ここで出くわして…」ということだった。そんな訳で、自身と居合わせた二方と御店の方達で何となく話しが盛り上がった。

最初に話し掛けて来た方は、御住いの地域で貨物列車を眺めたのだそうだ。何時も眺める列車のコンテナを視て、気になって調べれば、北見でタマネギを詰め込んでいるコンテナであったという。件のコンテナは北見から紅いディーゼル機関車が牽引する貨車に載せられ、峠を越えて旭川に出て、更に北海道を南下する。函館の近くで電気機関車に交代で、青函トンネルを潜って、貨物列車は本州を縦断する訳である。大勢の人達がそうした輸送網を護り、活用し、日頃の暮らしで使うタマネギのようなモノが広く国内に行き渡っているということに、その方は想いを巡らせているようだった。そして、その貨物列車が遠い西日本を目指して出発し、峠を越えるような辺りの様子を眺めに出掛けたことも在ったそうだ。

こういう御話しは酷く面白いが、話しが盛り上がったのは、何となく話しが大阪圏の鉄道網に及び、「西日本方面に所縁の人達に、稚内の人が説明している…」という「奇妙な事態?」になったからだ。「人口が多い吹田市にJRの新快速が停まらない…」、「だから阪急は頑張る…」、「天下茶屋の地下鉄は阪急なのか?」、「天下茶屋・天神橋筋6丁目は地下鉄で、そこから先は阪急…阪急の列車が地下鉄に乗入れている。天神橋筋6丁目の向こうの淡路で阪急の京都線に乗換えられる…」、「奈良から難波に出て、大阪ドームの傍を通って、尼崎に通じ、神戸三宮行なら甲子園にもそのまま行ける…」と、何かよく判らないことで盛り上がった…それらに加えて「稚内でドライブ?日本海側コース?宗谷岬を越えてオホーツク海側へ向かうコース?」ということや、「小さな駅に寄りたい…でも途中下車をすると次の列車が…来ないので動けなくなる…」ということも話題にした…

居合わせた人達で少しだけ話しが弾んだという程度のことだが…こういうのが、何やら酷く愉しい…“オフ”というのは、或る意味では「かくありたい」という感でもある。

心地好かった夕べを思い出していると、紅いマグカップを満たしていた<スマート珈琲店オリジナル>が残り少なくなった…

昨夜の段階で、既に「好くない路面」であったが…今日は「とりあえず気を付けろ!」という感だ…

また気温が下った…

今朝も<Qグレード認証 エチオピア>を淹れた。名古屋の業者から取寄せていたモノで、所謂「フルーティーな珈琲」と括られそうな味わいが気に入っている代物だ。

漸く「午前6時」に「些かの明るさ」を感じるような按配になって来たが、今朝の場合は何となく断続する雪が交っている。雪の粒子はやや細かい。氷点下5℃を伺うような気温帯に温度が低下している様子だ。こういうような次元の温度の上下が、未だ暫くは続くことであろう…

どういう仕事に携わっていようと、勤めている場所で何をしていて、どんな立場であろうと、「公的な場」=仕事を離れてしまえば、「誰しもが対等な一個人」という以上でも以下でもないのではないだろうか?少なくとも自身ではそういうように思っている。

「誰しもが対等な一個人」とは?誰しもが住んでいる場所、例えば誰しもが「〇〇町△丁目のXXさん」という何処かの住所に在るという以上でも以下でもないであろうし、両親から視れば息子や娘という以上でも以下でもないであろうし、お子さんが在るなら「XXちゃんのお父さんまたはお母さん」という以上でも以下でもない筈なのだ。

そういう意味では「誰しも同じ」という面は在るが、人には各々の職業上の、職業以外の経験や知識や見聞や技能というようなモノが各々に備わっていて、それらが寄り集まって社会が形成されているという面が在る。そしてそれは、各々に長さや形が異なる指が組み合わさって手が好く機能するように、色々な人が居るから社会が機能している筈なのである。

そんな中、「誰しもが対等な一個人」ということで、「公的な場」=仕事を離れて色々な人達が入り交じって話し合うようなことをすることに関して、特段に躊躇する理由は無いような気がする。「誰しもが対等な一個人」ということで、便宜的に「A対B」という感じなのであれば、AやBが何であっても差し支えないと思う。

仮令、Aが霞が関の官僚で、Bが官僚が担当する分野に関連する業界の会社の幹部であろうが、「誰しもが対等な一個人」ということで、各々の経験や問題意識で語り合うということが、「公的な場」=仕事を離れて行われることに関して、それが夕刻から夜に酒食を伴おうとも、そのこと自体には「問題?」は然程無いような気もする。互いが何者であろうと、人には縁というモノが在る。近所に住んでいる、学校が同窓、同じ地方の出身、子どもの学校が同じ、同じ映画のファン、同じミュージシャンの作品を好んで聴く、同じ小説を面白いと思った、その他に幾らでも話題になるようなことは在る筈だ。更に、所謂“立場”が変われば、同じ事象に関して「目の付け所」が異なるというような例は多々在る筈で、公的な立場を離れて話してみれば、互いにそういうことに気付いて後から意外に役立つというようなことさえ多々在るであろう。

だからAが霞が関の官僚で、Bが官僚が担当する分野に関連する業界の会社の幹部で、AとBとが夕刻から夜に酒食を伴う席を設けたとして、そのこと自体を如何こう言わなければならないとも思わない。が、Aが許認可に関与していて、Bがその許認可を求めるということで、両者が話し合おうというのであれば、それは日中に仕事の場で話し合う筋合いだ。そしてBの側が酒食の支払をする“接待”でAを招いたということになれば、「Aの官庁が有する許認可の権限に関することで、許認可を求めようとする関係者全般が話し合いの席を設ける権利」を歪めてしまうことになるのではないか?そういう意味で「それは所謂“接待”だよね?」という事案が明らかになった時点で、既にAの官庁による行政は少々歪められてしまっているのではないだろうか?そういう意味で、「それは所謂“接待”だよね?」という事案が出て来たと、「行政が歪められていないか調査」という話しは“不可解”である。

例えばAとBとが酒食を共にして、勘定が9千円であったような時、Bが5千円紙幣を取り出して「釣りは要らん…」とでも言えば、Bが割勘を多く払う形になる。この場合で、どちらかが1万円紙幣を取り出して「ここは自分が…」とでも言えば、どちらかの“奢り”ということになる。そういうのは日常に溢れているような気がする。「それは所謂“接待”だよね?」という事案はその限りでもない様子だが…

そういう「溢れている日常」の範囲のやり方で、霞が関の官僚であるAと、官僚が担当する分野に関連する業界の会社の幹部であるBとが同席したとして、「何やら誤解が生じましたかね?」ということになる可能性は排除しない。が、最近話題の官僚が担当する分野に関連する業界の会社の幹部であるBは、当該官庁を所管する大臣を務めた経過がある政治家の息子で、大臣秘書官を務めたというような経過も在り、大臣を退いた後も別な非常に有力な位置を占めている政治家との強い関係性を示唆しながら活動していたのではないであろうか?

であるとすれば、ハッキリそう言わないにしても、Bは「言ううことを聞かなければ、あなた達の1人や2人は親父に言ってどうにでも出来るのだからな…」という恫喝、脅迫と同然の卑劣な事をしたということにならないか?「前職の関係で、関連官庁の主な幹部と顔馴染みで、話し易い」というBが或る会社に入って活動するとして、それ自体は「会社が有為な人材を採った」という以上でも以下でもないかもしれない。が、「やり方」によっては「オカシイ?」ということにもなって行くのではないか?

ここまでの中でAとしていた霞が関の官僚の名前が出て、要職を占めていたということで随分話題になっていたが、何やら体調不良を来し、当該の役職を退いたというような話しが伝わっていた。体調不良を来した場合?療養ということで休んで、職に復するということは容易であるようにも思うのだが、何やら少し釈然としない。

申し上げたいのは、何がどういうように行われたのか、その退いた方は言葉を尽くして語るべきではないかということだ。多分、外部の人には判り悪い、部内の色々が在ったことであろうから、それが判らない限り「それは所謂“接待”だよね?」という「オカシイ…」に関わったという不名誉だけが歴史になってしまう…「それで本当に好いのか?」という気がしてならないのだ。「それは所謂“接待”だよね?」という「オカシイ…」に関わったという不名誉は在るにせよ、その方はその方として永く真面目に仕事を続けていた筈で、色々と佳い事績も残されている筈である。不名誉だけに塗れて退く筋合いか?

というようなことを最近のニュースから考えた。時には、静かな朝に珈琲を啜りながら、考えたことを少々整頓しておきたくなるというものだ。

そんなことをしていた間に<Qグレード認証 エチオピア>を満たしていたマグカップが空いた…

“29”→“1”…

<Qグレード認証 エチオピア>を「今朝の1杯目」として淹れてみた。芳香が立ち込めているのだが、この味が気に入っている。スッキリしているような、ボンヤリしているような早朝に、個性的かもしれない味わいの、自身で気が済むようにハンドドリップで淹れた濃い珈琲は非常に好い…

愛用している腕時計の文字盤<3>の辺りに曜日と日付のカレンダーが表示される。曜日の“MON”は問題無いのだが、日付が“29”になっていた。摘みを操作して「クルッ…」と数字を回して、“30”、“31”を経て“1”というようにした。これで愛用中の腕時計は、「3月1日(月) XX時YY分」と表示してくれていて、日付が改まれば「3月2日(火) XX時YY分」となって行くことになる。

以前、こういう操作をしないままにして、表示について「訳が判らん…」というようになってしまったことが在ったので、何時の頃からか配意するようになったのだ。「30日までの月」に関して「“31”→“1”」という操作は年に何度か生じるのだが、「“29”→“1”」は年に一度「2月から3月」にだけ生じる操作ということになる。

全く「だから?」という話しではあるのだが、「少し前に年が改まった…」という感で、未だ「2019年の出来事」を指し示して「去年…」と言ってしまう場合―「4月から翌年3月」という単位の1年が生活感覚の基礎になっている学生等では、こういう傾向は更に強いかもしれないと思うが…―さえ多いかもしれないなか、「2021年」が何時の間にか「丸2ヶ月間」も過ぎてしまったのである。これに些か驚く昨今なのだ。

昨年の2月末頃、「何を考えていたであろうか?」と当時綴ったモノを一寸引っ繰り返してみた…色々な状況に触れた中で「<感染症>そのものの以前に<感染症過剰警戒症候群>が蔓延?」というような感じ方をしていた。「<感染症>の被害は然程でもなく、<感染症過剰警戒症候群>というようなモノが“酷い影響”をもたらしてしまうのかもしれない?」という程度に考えていた。こういう観方に関して、最近でも「余り変わらない?」と思っている。或いは1年前に何となく思った<感染症過剰警戒症候群>というような感のモノによって、世の中が些か「荒んだ?」というような感じ方をする場合も在る。

そういう中、バタバタと時間は過ぎて行くが、個人的な日常は至って平穏である…

少し前に「0℃を挟む気温帯」から「氷点下5℃を挟む気温帯」に温度低下が見受けられたのだったが、土曜日の朝等は低温が継続し、日曜日は気温が少し上昇していたようだった。日曜日は「プラス側」に気温が上昇し、積雪が多少融けて、何やら湿っている、濡れているという様子が拡がっていた…そして迎えた月曜日の朝であるが、気温は然程下がっていない。降水が交れば“雪”にはなるような、プラス2℃や0℃というような程度と見受けられる。そして雲が多目で薄暗い…

何時の間にか「今朝の1杯目」の珈琲が空いてしまった…「今朝の2杯目」でも淹れたい気分だ…

少々冷えている…

<Qグレード認証 エチオピア>の「或いは個性的?」という味わいが好い。拙宅の居室で珈琲を淹れて頂くという、別段に特別ではないことをしているのだが、少しだけ間隔が開いた感なので「久し振りに好いことをした…」というような感覚も湧き上がる。

「月曜日に所用」ということで出掛けた。或る程度定例的になっている所用で、他の機会では月曜日に所用を足した直ぐ後から北上開始で、旭川駅を夜に出る列車に乗車し、稚内駅には日付が改まるような頃に着くという具合だった。今般は「火曜日が祝日」ということであったので、月曜日の夜は旭川に陣取り、火曜日の午前中の列車で北上した。

祝日の火曜日に関しては、週末以来の「早寝早起きをしながら活動」の流れで、酷く早い時間帯に些かの眠気も憶えたので、暗くなり始めるか未だかというような頃から居室で寛ぎ、何時の間にか休んでしまっていた。そしてまた、「夜の残滓」が色濃く感じられるような早朝に起き出したということになった。

最近少し思うのは、「動き回る」という後に、余り使いたくない表現ながら“ダメージ”というのか、「少し時間を使って回復を図るべき疲労」を覚える場合が増えたかもしれないということだ。10年位かそれ以上前にやっていたことを振り返ると、随分と強引なことをしていたかもしれない。が、最近は例えば「月曜日に所用を足して、日付が変わる辺りに着くような具合に引揚げ…」ということ程度で何やらキツいと思うようになっていた。これは今般「月曜日に所用を足して、一息入れて火曜日に引揚げる」ということを試行し、益々鮮明になった感だ。自身の身体の様子も、何となく「移ろっている」ということか?

戸外の様子を少し伺うと、少し続いた「0℃を些か割り込む辺り」の気温帯から一段階下がって「氷点下5℃を挟む辺り」という状態になったように見受けられる。休んでいた間に降雪や積雪、地吹雪は無かったように見えたが…「行ったり、戻ったり」という具合に季節が少しずつ進むのであろう…

最近は方々で花が咲き始めているというような話題も聞こえてくるようになったと思うが…当地は「マダマダ先…」という感じだと思う。そういう中なので「一寸何処かへ行って花を愛で…」というようなことばかり思ってしまう…

とりあえず今日は「穏やかな天候で寒さが少しだけキツいか?」ということになりそうな気配だが…<Qグレード認証 エチオピア>を満たしたカップが空になりそうだ…「今朝の2杯目」でも用意したい気分である。

少し明るいが…

紅いマグカップを満たしている<スマート珈琲店オリジナル>の芳香と味を愛でている。「今朝の1杯目」だ。

とりあえず拙宅内で「口に入るモノ」というのは?酒類と珈琲豆しか無い…その珈琲豆を引っ張り出して、必要な分を挽いて珈琲を淹れる。何時の間にかかなり慣れたとは思う。何時でも「こんな感じであろう…」という程度の珈琲は淹れられるような気がする。

午前6時になるか、ならないかというような時間帯で、「夜の残滓」というような感が「薄まって行き始める…」という様子が感じられるようになった。雲が多少多い場合には空は暗めにはなるが、それでも宵闇の調子が、日出が多少近付く頃には変わる。少し前まで、午前6時には「全然判らない…」という感であったが、今朝はそれが「一寸判る…」というようになっていたことに気付いた。

こういう具合に着実に季節が動いているのだが、昨日触れたニュースには驚いた。

国内の「降雪・積雪が見受けられる地域」とでも言えば?北海道…東北地方の殊に日本海側と山間…信越方面…北陸地方…山陰地方…という程度のことを思う。他に標高が高めな、限定的な場所という程度か?

昨日は上述の「降雪・積雪が見受けられる地域」ということで思い浮かぶ範囲を超えてしまっているような、瀬戸内海沿岸の山陽地方や四国や九州で降雪・積雪が見受けられたことが伝えられていた。

過去の経験では、宮崎県、熊本県、鹿児島県の県境が入組んでいるような、宮崎県の山側になるえびの市の辺りで雪が降った場面に出くわし、そこから鹿児島に移動して「雪を頂いた桜島」という光景を視たことが在った。あれは12月中で、あの辺りで降雪・積雪が稀に見受けられる場合は2月頃ということが多いとは聞いた…

その「2月頃」の強力な寒気で、雪と縁が薄そうな地域に降雪・積雪である。九州の方々、立寄って眺めた覚えも在るような景色に雪が在る様子が伝わっているのを視て驚き、更に山陽地方の高速道路が通っている箇所の周辺に雪が薄く積もっていて、道路上で車が詰まって動き悪くなってしまっている様子も視て更に驚いた。

各地で「不慣れな雪…」の故か、事故が発生したというようなことも伝わったが、御見舞い申上げたい。雪の影響は、少しばかり時間が経てば和らぐものではあると思うが…とにかくも「戸外を歩く場合には少し慎重に」ということに尽きる。これは、雪に「慣れ切っている…」という地域でも配意すべきだ。(現に、雪と氷の時季が始まろうかというような頃に“アクシデント”という経験もしている…)

この辺りも2月16日から17日の荒天で交通機関が影響を蒙った。稚内駅だが…16日から列車の発着が見受けられない。列車は軒並み運休である…昨日辺りからは「冬季の普通な天候」という以上でも以下でもない感じなのだが?今日も各列車が運休である…どうなっているのか?気に懸っている…多少時間が経てば、大雪からの復旧作業も進み、荒天の影響も和らぐと思うのだが…「今週は駄目…」というような、妙な具合になってしまっている…

そんなことを思っていた間にマグカップの珈琲が少なくなってしまった。「今朝の2杯目」でも準備したい気分だ…

荒天への注意喚起の中…

「今朝の1杯目」は<Qグレード認証 エチオピア>としてみた。珈琲の味の中、苦味以外の要素が色々と交ざり合っているような感の、少し個性的な味わいと言い得るかもしれない感じが気に入っている。所謂<モカ>の系譜の豆なのだと思うが、エチオピアという産地国に何となく勝手な親近感も抱いている。出くわしたこの<Qグレード認証 エチオピア>については、そんな色々な理由で酷く気に入っている。

何となく「0℃からプラス1℃」という気温が続いている。晴れれば「(相対的に)温かい」と感じる場合も在ろうが、昨日はその限りでもなく、時々風が冷たい感じにもなり「気温の割に寒いような気がした」という感だった。

そういう状況を経て、早朝から湿った雪が交り始めている。寧ろ“霙”(みぞれ)という状態なのか?ベタベタした、何となく「半端に融けたかき氷?」という状態のモノが降って、辺りに積もり、道路面等を覆って行っているかのようである。

起き出してから何度か戸外の様子を伺っているが、“霙”と“雪”の境目のようなモノが降り続けている。

昨日、何気なく視たサハリンのニュースで「16・17日は吹雪模様が予想される」と注意喚起が為されている例が在った。当地でも昨日辺りからそういう話題が出ている。天気図を視れば「風が強めになる、等圧線の間隔が狭い状態」という「天気図のルールの説明用見本?」のような状態になっている。北海道内からサハリン州の範囲、更にもう少し広めな範囲で今日から明日位は天候が優れないのであろう。そして「荒天!」という程でもないにしても、以降も暫くは余り天候が好くなさそうだ…

近年は「荒天への注意喚起」が為されて、「如何なる?大変なのか?」と思っていれば、運休や欠航になる交通の利用と無関係なのである分には「普通な風雪(または風雨)…??」という場合も存外に多いような気がしている。或いは?荒天による災害というようなことになって、交通機関の動き等に支障が出る場合、大勢の利用者を支援し悪いような場合も在るので、「警戒すべき?」という状況が見受けられるなら遠慮せずに「警戒!!」とするような傾向になっているのであろう。

とりあえず…「荒天!警戒!!」ということなので、注意深く様子を見守りながら過ごす他に出来ることも無いとは思うが…少なくとも、拙宅では「暖を採って珈琲でも飲む」という程度のことは何時でも出来る状態ではある。

そう思っていれば、<Qグレード認証 エチオピア>のマグカップが空いてしまいそうになっている。「今朝の2杯目」に向けて湯でも沸かそう…

多少気温が上昇している朝に…

<スマート珈琲店オリジナル>を淹れて、ゆったりと頂いている。「立寄って、珈琲を頂く…」という“喫茶店”という業態が起こり、各地に拡がるというような事象が見受けられた昭和の初め頃、時代毎の新しいモノを導入して永い歴史を重ねた京都の街に起こった店の流れを汲むという老舗から取寄せたブレンドの豆だ。或いは「老舗の解答」というような、バランスが好い味のブレンドに仕上がっていると思う。

俄かに気温がプラス3℃というような次元に急上昇するような状況も見受けられた週末を経て、静かな曇天の月曜日朝を迎えている。積雪の嵩が減っているような状態で、中途半端に凍結箇所や水が溜ったようになっている箇所も在るという、積雪期終焉周辺を想わせる感だ。が、未だ積雪期の終焉には間が在る。気温が高下しながら、量を変えながらも雪は降る。気温高下の“高”の側がプラスに入り込む場合が次第に増え、やがて降水が雪にならずに雨になるという状況が交り、そして積雪期は終焉へ向かう。時には、終焉と思っていれば、不意に現れる強力な寒気の影響で雪が降り積もるような場合も無いではない…

そういう様子を想いを巡らせるが、最近になって「明るい時間がやや長くなった?」と漸く多少自覚し易くなったような気がしている。朝、少し前までは「夜の残滓」が色濃いと思っていたような時間帯に「漸く始まる朝」というような雰囲気が感じられる。夕刻にしても、夕闇の訪れがやや遅くなって、時計を確認しないで居ると、時間帯を思い違いしてしまう…確か「〇月を31日にしろ!」という恣意的な話しが何度か重なる中で、「2月」が短くなってしまって、通常28日間に定着して行ったと聞く。その2月も半ば、15日になった。28日間の2月の場合、15日は「既に折り返しを過ぎた…」ということになる。

2019年の2月半ば頃?自身はサハリンに身を置く場面も在ったが、日本国内では「来る2020年に東京五輪!」ということで、何となく「ウキウキ?」という空気感も在ったように思う。

1年経って2020年の2月半ば頃?自身は稚内に在ったが、日本国内は「例の“事情”…」の影に覆われ始めていたような感で、「今年の東京五輪?!」という感になって、やがて「1年延期」という五輪の歴史の中では少し異例な措置が講じられることとなった。

そして2021年の2月半ば頃?「延期になっていた東京五輪??」という感だ。未だ「出来る?出来ない?」か「やる?止める?」という感だと思う。他方に2022年に予定の「次回冬季五輪」について、「いよいよ1年後!」という話題も散見しているような感である。

五輪に限らず、あらゆる催事は、最終的には「やる?止める?」ということになるのだと思う。が、「出来る?出来ない?」という「問題…」が生じてしまう場合も在る。五輪に関しては、「例の“事情”…」の影で延期になった経過も在って、その関係で「出来る?出来ない?」が今でも在って、「やる?止める?」とはなっている。しかし、現在は「例の“事情”…」の影と「無関係かもしれない?」という次元で、「真面でもない連中が大きな顔?善いのか?善くないのか?」という話しになって、「寧ろそちらの意味」で「出来る?出来ない?」という「問題…」が生じていないだろうか?

2019年頃の「ウキウキ?」という空気感は雲散霧消してしまって既に久しい感だが…「影に覆われ…」の「影」が「次々と変質…」で、次第に広く深く巷を「蝕んでいる??」というような気がしないでもない。

方々でよく在る「〇〇振興のための催事」というようなことに関して、個人的には「実は様々な意味で、転んでしまいかねない程度に背伸びをして、催事そのものが目的であるかのようになっている例が多いから、大多数は直ぐに止めても構わない?」という観方をしている。もしかすると、五輪のような「国を挙げて!」というような催事に関しても「無理はしなくても??」というようなことが在るのかもしれないと、最近になって思うようになった。

何となくそんなことを思っていた間に<スマート珈琲店オリジナル>を満たした紅いマグカップは空いてしまっていた…とりあえず…好い月曜日になることを祈念しながら過ごす朝である…

紅いマグカップで珈琲を啜りながら…

紅いマグカップを満たす珈琲が揺れ、芳香が拡がる中、微妙な苦味の周りに些かの他の要素が絡まるような味わいなのだが、これが「老舗の解答」とでも呼ぶべき味なのであろう。

「今朝の1杯目」は、京都の<スマート珈琲店オリジナル>というブレンドの豆である。1932年創業という老舗の喫茶店ということになる。「立寄って珈琲を頂く」というような業態の店が方々の街で拡がり、流行って行くというのが、1930年代前半頃、昭和の初めの方に相当する時代なのだと思うが、そんな頃に起こった店の伝統を確かに受継ぐという店が<スマート珈琲店>だ。

京都に滞在した経過の中、「所謂“老舗喫茶店”で朝を…」と思い立ち、滞在していた宿から散策的に歩いて訪ね易い範囲に所在するということで<スマート珈琲店>を訪ねたということが在った。好い想い出なのだが、店のオリジナルブレンドの豆が通販されていて、遠くに在っても入手可能と判り、既に何度か入手し、拙宅でも愉しんだ経過が在った。極々最近、久し振りに入手してみたのだ。

想い出の味であり、同時に居室で一寸頂くお気に入りでもある<スマート珈琲店オリジナル>を満たした紅いマグカップを手に、<スマート珈琲店>を訪ねた時のことを思い出していた。

店は<寺町>という商店街の一隅に在ったのだが、直ぐ傍に寺が在った。その見掛けた寺が在るから<寺町>という地名になったのか否かは承知しない。が、<スマート珈琲店>が「寺の視える<寺町>に所在…」というように酷く記憶に残った。

京都の街では方々に大小様々な寺が在るので、漠然と「寺が在って…」という話しでは訳が解らない。で、<スマート珈琲店>の直ぐ傍に在った寺の名を確認した。<本能寺>である。

<本能寺>?<寺町>という商店街の、色々な店が並ぶ辺りにも境内への出入口が在った寺なのだが、あの『本能寺の変』の<本能寺>だったのだ。京都に関しては「無造作に史跡が…」という感なのだが、少々意外ではあった…

かの織田信長が討たれてしまったという『本能寺の変』の当時、寺が在った場所は現在地から少し離れた場所であったそうだ。当時の最高実力者であった織田信長が京都に滞在する際に居館のようにしていた本能寺であるが、当時の下京の端側の、平坦なようでありながらも坂道になるような高低差も在る京都のやや低めな場所に所在したという。敷地は概ね130メートル四方という具合であったようだ。

<本能寺>を襲撃した軍は、かの明智光秀が率いた訳だが、丹波亀山城から中国地方を目指すとして集結していた軍勢は1万3千人程度であったと伝わる。「1万3千人の軍勢」と言うが、多分半数程度は食糧、陣地構築の資材、将兵の装備品、消耗品となる鉄砲の弾薬や弓矢の矢、その他の傷み易いモノの換えというような「軍勢の必需品」を輸送することが主任務になる人達であったであろう。そういうことで、半数の6千人から7千人を「号令一下で敵に向かって突進する」ための戦闘要員と想定してみるが、「概ね130メートル四方」という<本能寺>であれば、この人数なら「一分の隙も無い…」という程度に囲んでしまえるということになる…

そんな事態を映像化した作品…ドラマ『麒麟がくる』の最終話を録画したモノを、祝日であった昨日の午前中に拝見した。休日になればよく寄る喫茶店で、店主氏が録画していたモノを拝見する訳だが…

あのドラマでは、象徴的な棟梁を擁して平和に統治される体制を築いて行こうという想いを抱き続けた明智光秀が、同志と恃み、主君ということにした織田信長とは共闘を続けて行けないと決断して事件を起こすというような感に纏まっていた。なかなかに好かったと思う。イマドキの作品なので画も美しかった…

『本能寺の変』に関しては、創作に携わる人達が想像の翼を羽ばたかせる余地が随分と大きいように思う。自身でも様々な時代モノの小説で、あの『本能寺の変』を巡る物語に触れている。最近読んだ中、「酷く説得力が?」と思ったのは…中国地方の大勢力である毛利家との抗争の渦中で、明智光秀はより好い体制を構築するため、方々に根回しをして織田信長の討死を画策するが、織田信長に対して激しい私怨を抱く者が本能寺に侵入して襲撃、殺害しようとしているという情報が入り、慌てて軍勢を率いて乗込んで…という物語だ。

極々最近のテレビドラマでも話題の<本能寺>を、現在の場所の近くに在る老舗の喫茶店によるブレンド珈琲を頂きながら想ったが…実は<スマート珈琲店>を訪ねた折り、<本能寺>には寄らずに、次の動きに向けてとりあえず滞在していた宿に引揚げたのだった…何れ、立寄る機会は設けてみたい感だ…

そうしていた間に、<スマート珈琲店オリジナル>を満たした紅いマグカップは空いてしまった…

また雪交じりな早朝…

<Qグレード認証 エチオピア>を「今朝の1杯目」として淹れた。<しゃちブレンド>の豆を使い切った後、大切に未開封で取って置いたモノを開けた訳だ。

2月も「9日」ということになってしまっていた。「暦の上では春でございますが…」の“立春”も通り過ごし、何時の間にか迎えた2月も「第1旬」が過ぎようとしている。

「氷点下5℃程度」という気温帯が続いているような気がする。時々その線より低くなっている気もするが…今季は「青空!」という様子が視える時間が短めで、何となく「雪交じり」も多いような気がしている。昨夜の眠っていた間に雪が交り始めていた様子で、暗い早朝にも若干の降雪が見受けられる。

不意に思い出したことが在る。

稚内から転出して、何時の間にか久しくなっていて、長く会っていない友人が在るのだが、その友人と夕刻にラーメン店に入ったというようなことが何度か在った。そんな時、友人は何となくブツブツと「少し変わっている?」とも思える場合が在ることを言い始める場合が在った…

「俺達が座っているこの辺り…周りのテーブル…あそこのカウンター…椅子は32個在る。ということは、この店では30名程度が入ると、何となく“満員”という感じになる。今の時点で俺達2人が座っているだけだが、混み合う昼食時間帯は席が埋まるであろう。11時半頃から13時半頃で、“2回転”で60名程度来店か?その後、夜の閉店まで、俺達のように三々五々来るというのが在って、1日に100人程度の来店が見込まれるのだろうか?ラーメンの平均価格が700円とすれば、1日平均で7万円の売上だ。10日で70万、20日で140万、30日で210万だ。実際には短い時間のアルバイトも居るだろうから、この店で働く人達の数は存外に多いかもしれない。が、視たところ店舗を切り盛りするのに2人から3人という感じのようだ。ということは、30日間毎日営業するとすれば、フルタイムの月給20万円の人を5人程度雇う資金、100万円程度の人件費は要るであろう。で、残りの110万円程度で店を切り盛りして、開店した時の投資を回収し、利益が出るか?そういうことなんだな…」

ということを言っていれば「お待たせしました」と頼んだラーメンが出て来る…そんな感じだった。

訳も無く、少し古い時期の些細なことを思い出してしまうというような場合も在って、この話しを思い出したというのも、そういう例の一つに過ぎないのかもしれない。が、今般は「思い当たる節」も在る。

多分、世の中の“店”と名が付く場所の多くは、上述の雑談のタネのように、「1日平均の売上見込み、月額見込み、各種の支出の見込み」というようなことに関して、仮令大雑把であっても「色々な見込み」が在って、そこから余り大きく外れると「営業継続困難」になってしまう。最近、「こういう程度のことが真面目に顧みられているのであろうか??」と時々思う場合が在る…

随分と以前から「何となく在る問題意識」というようなモノなのだが、「余りにも呆気なく“仕方ない”というような“ことにする”のが多くないか?」と感じることが在る。ゆっくり考えるという程でもない「誰かの雑談」という程度のことで気付くような「一寸したこと」を「普通に考えてみた?」という程度に思うことが次々と行われ、「“事情”である。仕方ない」で済まされてしまう。世の中に大きな影響を与えそうなことから、卑近な事柄に至るまで「悉く??」という気さえしないでもない。

こういうような「何となく在る問題意識」というようなモノも記憶に留めておきたいような気がする。

そんなことを想い起していた間に「今朝の1杯目」の<Qグレード認証 エチオピア>を満たしたカップが空いた…

注意喚起??

<しゃちブレンド>の程好い苦味が、暗い早朝には酷く心地好いような気がする…その以前に、「美味い一杯」を期待してゆったりと珈琲を淹れてみるという事自体が、何となく心地好いということも在るのだが…

昨日から「荒天への注意喚起」ということになっていたと思う。どうも午後9時頃に「29日明け方から29日昼前まで暴風雪に警戒して下さい」と警報も発せられていたようだ…

が?昨夕は「冷えた天に月が輝く…」という穏やかな感じで、辺りを歩き廻る場合に「凍った足元…」が散見するので要注意ではあったが、「普通な冬の日」という以上でも以下でもないと思っていた。

その他方で、市内小中学校は昨夕時点で今日の休校を決め、列車や飛行機の運休・欠航も発表されていた…

迎えた早朝に、玄関前で戸外の様子を視た。本当に「些か…」という程度に、夜間の眠っていた間に雪は降っていた痕跡は認められるが、「だから?」という程度に留まっている。些か風が強めであるというようには感じられたが、時々見受けられるような「異様な感じ」は認め難い…

「今の時点」の様子、少なくとも拙宅の周囲は「当地の普通な冬季の様子」という以上でも以下でもないようにしか思わないのだが…如何なるのか?

とりあえず悠然と静かな朝の一時を過ごしたい…

雪交じりな早朝に…

<エチオピア・ゴティティ>を「今朝の1杯目」ということで淹れた。「珈琲…」とでも聞いた時に多くの人が思い浮かべる「“公約数的”な感じ?」とは「少し違う?」という味わいの珈琲であると思う。札幌の店で頂いた「苦味以外の諸々な珈琲の味の諸要素」が複雑に交じり合ったような感じを愉しんでいる訳だが、少量の豆を土産感覚で求めて持ち帰ったということで、既に残量はやや少なくなっている…

先日、話題にしていた方が在ったのだが、最近は「“午後4時”が“少し明るい”ということに、不意に気付いて驚く」という場合も在るかもしれない。冬至となって行くような頃、「外が暗くなったな…」と窓辺を視て、時計に目を落とせば「未だ午後4時少し前…」という様子だったのだ。

何かで聞いた。“クリスマス”というのは、「冬至が終わって、少しずつ明るい時間が長くなり始めることを寿ぐ」という古い祭祀に、キリスト教関係の色々な事柄が入り込んで成立したらしいというようなことだ。確かに冬至が終わり、少しずつ明るい時間は長くなっているのかもしれないが、個人的には、未だそれ程強く意識するような変化でもないような気がしている。

夕刻の日没に対し、朝の日出は、当地では未だ午前7時を少し過ぎるような感だ。早起きな性分なので、明るい時間が「一段階…」という程度に早くならなければ、「冬至が終わって、明るい時間が少しずつ長くなり…」を意識し悪いかもしれない。

拙宅の辺りは「極々短い散策」と称して少しだけ歩けば、東寄りな空が視える海岸に至る。こういう場所に在れば、何時でも「天候が好く、その時間帯に他の都合が無いのなら、日出時刻周辺の様子を眺めたい…」というように思う。そういうことで、思い付いて様子を眺めてということも、年間ではそれなりに多い回数になっているかもしれない。

そういうことをしている他方、拙宅の周辺で「初日の出」を眺めた記憶は無い…例年、「1月1日の日出時刻の辺り」は他地域に在る場合が多い。そして当地に偶々在った場合も、天候が悪かったと記憶している。

「1月1日の日出時刻の辺り」は他地域に在るとして、その「自身が偶々在った地域」で「敢えて眺める」という感じで「初日の出」を視たという記憶も薄い。偶々、日が高くなる様子を眼にして「そう言えば…“初日の出”ということか…」と思うという場合は在ったかもしれない。

何か「日出の勢いにあやかり…」という程の想いを抱くということでもなく、自身では何処となく「初日の出」の「素っ気無い??」かもしれないが…他方で日出時刻周辺の風景を眺めるようなことは好んでいる…一寸、不思議だ…

そう思う他方、「初日の出」に強い思い入れを示す人達も在るようだ。そういう人達は、思い思いに、訪ねてみたい場所で眺めてみようとされている。そういう人達が一定数在るという状況を受け、「イベント!」というのも各地で見受けられるとは聞く。が、今年は“事情”でそれらを中止した例ばかりらしい。

そんなことを耳にして…「初日の出」に強い思い入れを示す人達が随意に「初日の出」を眺めれば、それで十分な筈で、どうしても「イベント!」が「必要なのだろうか??」と思った。更に…考えてみると「どうしてもしなければいけない…」が、実は世の中には「意外に少なかった?」というようなことに思い至らないでもない。

特別な「イベント!」ということ等が何も無くても、「或る朝、日出時刻周辺の光景を眺めると素晴らしかった!」という程度のことは周辺に幾らでも在るように思う。そういうことに気付く、眼を向けるというようにすれば、「少しばかり心豊かに」というように過ごせるような気がする。

そんなことを思っていると、暗い早朝から「御苦労様…」という感なのだが、拙宅の極近隣の駐車場で除雪作業が行われ始めていた…

今季…何となく雪は多いように感じる。昨季は「異様?!」と思える程度に少なかったからというのも在る。或いは「昨季の未達分を遅ればせながら御届けしています。今季の分は、一寸遅れていますがこれからです…」という具合に雪が降っているというような、妙な想像さえしてしまう。

当地は、北海道内の色々な場所と比べて、相対的に然程雪が多いというのでもないような気はしている。寧ろ“吹き溜まり”で少々按配が悪いという感じだ。海に開かれた地形で、海水が温度調整をする機能を果たすためか、内陸部のように極端な低温にもなり悪い。が…冬季は、他地域とを結ぶ交通に、何やら“運休”が生じ易く、多少不便に思う場合も在る。と言って、極めて個人的に考えれば、他地域との間を常時往来するのでもないので、然程の深刻な影響も被っていないかもしれないのだが…

当地に在って、何となく雪は多いように感じてはいたが、驚くのは色々な形で伝わる他地域の様子だ。明らかに当地より多い雪という例を多々聞く…「御見舞い申上げます」という以外に言葉も無い。

雪は厄介だが…時季を過ぎればどうということもなくなる…厄介な他方で、雪が降った後の夏は水不足にはなり悪いという恩恵も在るかもしれない…そういうようにでも思う他無いような気もしている…

色々と考えていた間に<エチオピア・ゴティティ>のマグカップが空いた。「今朝の2杯目」として<しゃちブレンド>を淹れた。これは「バランスが好い感じ」で、「珈琲…」とでも聞いた時に多くの人が思い浮かべる「“公約数的”な感じ?」に近いように思う。

「今朝の2杯目」を淹れていた間に、極近隣の駐車場でやっていた除雪作業も終わって、車輛が引揚げていたようだ…それにしても…「夜の残滓」というような時間がマダマダ長い…

天候が下り坂な朝に…

<しゃちブレンド>のバランスの好い感じの味わい、「適当に濃い…」というのが好ましいと思う。名古屋の業者が、街のシンボルのような「名古屋城の鯱」に因んで命名したらしい、彼らが自信を持って送り出しているブレンドだ。もう何度も取寄せて使っているが、なかなかに好い感じだ。

その珈琲豆が送り出された名古屋に少しだけ立寄った経過が在った。名古屋城の鯱を仰ぎ見るような場所、名古屋城を眺めるような場所に足は運ばなかったが、城に関連する由来の地名と見受けられる「丸の内」という辺りに滞在したのだった…

最近は「不要不急の外出は控えるべきだ」という声も大きいと思うが、自身としては「出たい…」と思って出るのは、自身にとっては「要」だから出るに過ぎない話しで、それを「不要不急だ!」とでも言われるなら…「自身の人生そのものが“不要不急”か?!」というようなことを思う。「自身の人生そのものが“不要不急”か?!では、何処で如何なろうと、随意で構わないであろう…」という気分にさえなる…

「不要不急の外出は控えるべきだ」という声がまた少し、更に大きくなっている様子が伺える。感染症を巡る事情な訳だ…

何となく思うのは、感染症そのものが冬季に活性化してしまう、冬になると流行るインフルエンザの亜種のような感じのモノであれば、「感染症が拡がる=感染したと見受けられる人が増える」というのは「免れる術が無い」というように思う。「気を付けよう!」とか「拡大防止に努めなければならない!」と「煩いぞ!!いい加減にしてくれ!!!」という程度に言っているように思うのだが、「それでも!!!」と感染者の数というのが「“記録更新”…」で全然減らないのだ。

生身の人間が簡単に逃れられるのでもない感染症への感染である。「こういう人達が原因!」と特定出来るのでも何でもない。「犯人捜し」、「悪者呼ばわれ」を「したくて仕方がないのか?」というような言辞が随分と聞こえるような気もするが…生身の人間が簡単に逃れられるのでもない、或る種の「天災」であるモノに関して「こういう人達が原因!?」と声を大にしても、何か「心荒む」というようになるばかりではないかと思う。そしてそういう「荒み」は、或いは快復困難な次元に入ってしまっているような気がしている。

「こういう場所で感染が発生しました」という事例は色々と在るが、正しく「色々」であって、「これを何とかしろ!」と特定出来るのでもない。そこで「これ!」とやれば、それは「悪者呼ばわれ」というもので、名指しされた分野に直接間接に携わる人達を「結果的に迫害…」というようなことになるのではないか?本当にそんなことで構わないのか?

感染症関係の事情を巡り、何やらまた「緊急事態宣言」なるものが首都圏で出たようだが…上述のようなことを思わざるを得ない感じで、何となく釈然としない。

そういうことも気になるが、昨日から「荒天への注意喚起」が為されている。当地に関して、早朝に戸外の様子を少々伺う限りでは、数日来の「降る…」という感じであった雪が「吹く…」という、「上空から降り注ぐというより、辺りに少し積もったモノが風に舞う」というような感じに変わっていた。降雪量自体、気にする程のものでもないように視えた…

「荒天への注意喚起」という中、既に方々で列車の運休というようなことも発表されている。個人的には、年末年始に色々と動き回った後で、何となくゆったりと過ごす意向なので、交通の状況は然程気にはならないが…それでも、強風や多目な降雪は少し警戒すべきであろう…

そう思っている間に<しゃちブレンド>のマグカップが空いた…

年が改まって…

<Qグレード認証 コロンビア>の味と芳香とを愉しむ朝…「日本時間+2時間」な「サハリン時間」のような時間帯に眼を開けてしまって、「そういう時には…」と美味い珈琲を淹れてみた訳だ。もう少しでこの<Qグレード認証 コロンビア>を使い切ってしまうが…豆は何種類か確りと用意して在る…

少し稚内を離れ、戻ってから数日、何となくゆっくりとするというような段取りにして好かったと思っている。拙宅に在って珈琲を淹れて愉しむ他、少しばかり出るということも在るが、それでも拙宅に在って「随意な時間帯に、覚えた眠気に抗わずに…」と“寝て曜日”的な過ごし方をしてしまう…

何処かの人が何かを仕出かして、その結果として好ましくない状況に陥ったのであれば、「仕出かした本人」が明確なのだから、その人に関して「余計なことを仕出かしてくれた…」というようなことになってしまうのかもしれない。

他方、地震、津波、強風、豪雪、豪雨というようなモノが発生して、その結果として好ましくない状況に陥ったのであれば、「仕出かした何処かの奴」など見付かる筈も無い。発生した被害状況を見て、「さて如何しようか?」と対応する他無い。何処かの人に向かって「余計なことを仕出かしてくれた…」と非難する筋合いではない筈だ。地震、津波、強風、豪雪、豪雨というようなモノに関して、寄って集って「余計なことを仕出かしてくれた…」とでも非難されるような人が現れれば、非難されてしまった人は激怒することであろう。筋違いも甚だしい。

地震、津波、強風、豪雪、豪雨というようなモノと、感染症のようなモノに「違い」等在るのだろうか?世の中には“細菌兵器”なるモノも存在するらしいから、そういうオカシイモノが使用されたとでもいうことなら、「仕出かした何処かの奴」が出て来るかもしれない。そういう“特殊事情”でもない限り、感染症のようなモノが流行して少々困るという事態は、地震、津波、強風、豪雪、豪雨というようなモノと一寸似ていて、「気を付けましょう…」という漠然とした話しにしかならない筈だ。

地震、津波、強風、豪雪、豪雨というようなモノで、負傷してしまった、不幸にして亡くなってしまったとして、そういうように被災した方が「悪い」という筈も無い。感染症に罹患した、発症して苦しんだ、残念ながら亡くなってしまったとして、その方が「悪い」という筈も無い。生身の人間は、些か残念ながら感染症を患ってしまう場合も在り、それから完全に免れるということは、恐らく出来ないのであろう。

このところ思うのは、半年やそれ以上の長きに亘って、生身の人間である限り逃れ悪い感染症に罹患するようなことに関して、「悪者呼ばわれ」、「犯人捜し」というようなことが延々と続き、快復困難な程度に「気持ちが荒む?」というような空気感が溢れているのではないかということだ。

昔、<魔女狩り>なるものが在ったのだそうだ。「邪まな!!」と誰かが言い立て、言い立てられた者が捕えられ、拷問を受けて処刑されてという酷い話しだが…生身の人間である限り逃れ悪い感染症に罹患するようなことに関して、「悪者呼ばわれ」、「犯人捜し」というようなことが続いている状態に、明確な形での拷問や処刑こそ無いかもしれないが、「魔女狩り的な不穏さ」を感じないでもない。

何となく思うが、インフルエンザの類のような感染症は冬季には活発化して感染する人が残念ながら増えてしまうものである以上、最近の感染症罹患者の数が減らないということは“当然”なのであって、簡単には減らないということではないか?そういう中で、何か「悪者呼ばわれ」、「犯人捜し」を強化するかのような動きが感じられなくもない…

何やら首都圏の4都県で「非常事態!」と言い出しているようだが…日本国内に住む人間の25%前後が集まっている4都県で、感染症罹患者が他所より多いのは“当然”ではないのか?それ以外の場所で「何やら多い?」となれば「特殊な事情が生じてしまっている?」と危惧する必要性も在るであろうが、生身の人間が患うことを免れ悪い感染症に関して、「国内で最も人が多く集まっている?」という地域で多いのも免れ悪いのではないか?

更に何箇月間に亘って、些か苛立つ言辞が飛び交っているとも思う。「自粛要請」という表現に触れると「二三日は気分が悪い!!」とでも罵ってみたい気分になる…

“自粛”というのは「今日は日が悪いから止めて、他日を期そう」というように「何かをやる当事者が自主的(=勝手、随意)に行う」というものである。誰かに“要請”される筋合いではない!

“要請”ということなら「〇〇をしないように御願い申し上げます」とストレートに“要請”すべきなのである。「自粛要請」とは、「如何いう意味なのか!?」と思うのだ。

「あんたが悪い」的なことを言われても困ってしまうような、天災と大差が無いかもしれない感染症の罹患に関して、「自粛要請」なるオカシイ言辞が飛び交って、何やら誰かへの「悪者呼ばわれ」、「犯人捜し」のような“荒んだ”空気感が渦巻き続けている…年が改まっても全く気分が改まらない…

「世の中の“荒んだ”ような感じ?」というのが好くないとでも思えば、何もそんなモノに付き合う必然性は全く無い。「とある地方で気楽に身軽に暮らすおっちゃん」ということで、好き勝手にしていればそれで構わないような気がしている昨今だ…

今朝も気温が上がらない…氷点下5℃を超えないような状態が、稚内に戻ってから継続しているような気がする。昨日から今朝は少々降雪も交っている感だ。

<Qグレード認証 コロンビア>の1杯目が空いたので、さり気なく2杯目を淹れた…未だ…暗い早朝である…

氷点下の気温…

<Qグレード認証 コロンビア>の芳香と味わいを愉しむ早朝である。

何処となく、居室内の暖房の効き具合が悪いような気がしている…「気のせい」に過ぎないのだと思うが、それでも戸外の気温が一段階下がっている…

「0℃やその周辺…時々0℃を割り込んでいる」という気温帯だったが、何やら「マイナス5℃を伺う」という様子になってしまっている。玄関前に出て戸外の様子を伺ってみたのだが、この「マイナス5℃を伺う」という様子に至れば、「かなり寒い…」というように感じてしまう。然程強くはないが、吹き込む風がこの寒気を掻き回すかのようで、佇むのがややキツいことを否定出来ない…

「氷点下の外気」というようなモノは、強く吸い込むと「意外に刺激的」である…口の中から喉が急に冷えて、軽く咳が出てしまう場合も無いではない。他方、降水が在れば「粒子が細かい雪」になることは確実で、そういう場面では「雨に濡れる」という状態よりも凌ぎやすい。身に着けているモノにサラサラの雪の粒子が載るばかりで、何処かで一寸払ってしまえば何も気にならない。雨水で湿るような状態とは違う…

あれは3月末だった…冷たい雨の中で戸外を歩き廻り、着衣が濡れてしまっていた。やがて多少気温が下がって、多分3℃程度になっていた中、「身体が…酷く冷えて…」と妙な気分になった。逆に、状況を数多く経験している「氷点下の気温」では、その種の辛い感じは生じ悪い。勿論、何かの理由で少し長い時間黙って戸外に立っているようなことにでもなれば、「氷点下の気温」はキツい訳だが、そういう状況は生じ悪い…

国内各地の気象情報に何となく眼を向けた。当地で「氷点下の気温」となってしまっているが、これから数日の各地は、恐らく各々の地域なりに「寒い…」ということになりそうな気温になるらしい。寒気が入り込んでいるのであろう。

各地で「寒いですね…」が挨拶替りになりそうな感ではあるのだが…自身の感覚としては「朝早くにプラス一桁気温で好天」というような条件なら、「歩き廻っても然程汗をかかないであろうから、好いかもしれない…」という位に思ってしまう。流石に「氷点下の気温」では、戸外を活発に歩き廻るようなことは「遠慮…」ということにもなってしまう…「朝早くにプラス一桁気温で好天」というような場所にでも、何となく乗込んでみたいような気がしてしまう…

少し明るくなったので、改めて玄関前で戸外の様子を伺えば…休んでいた間に雪が多少積もって、凍っていた路面が少し雪で埋まった。こういう低温の下での雪はやや滑り悪い感でもある。それは歓迎出来る…

<Qグレード認証 コロンビア>のカップが何となく空になってしまった…

静かな早朝に…

<Qグレード認証 コロンビア>をゆったりと淹れた。芳香と味わいが心地好い。

明るくなるのが早い時季に比して、少しだけ眼が開く時間帯が遅くなっているかもしれない。が、飽くまでも「少しだけ」であって、「早寝早起き」の傾向に大きな変化は無い。

前日夕刻に気に入っている酒を多少嗜み、御近所で夕食に何か気に入ったモノを愉しみ、特段に時間帯を確かめるでもなく「眠い…」と感じた時点で眠ってしまうというようなことをすれば、自ずと「早寝早起き」になってしまうというものだ…前日に、余程エネルギーを使ったとか、何やらで深夜帯に漸く寝付いたというようなことでもなければ、大概は「午前7時には寝て“居られない…”」というような具合だ。他方で、休日などは日中の妙な時間帯に居眠りに及んでしまう場合も在るのだが…

そうして向かえた早朝は12月10日だ。特段に12月10日に思い入れが在るというのでもない。「2020年最後の月」ということになったと思えば「既に月の“三分の一”が過ぎた」と、「12月10日」という日付に意が向いた訳だ。

12月になれば、何となく「今年は…」と振り返ってみたい気分にもなる。

「今年」ということで、最も頻繁に耳にしたことは?「感染症」という語であり、それに絡まって「感染X人」という話題だったことに間違いは無いと思う。その他に催事等の「中止」という話しが非常に多かったと思う。

「中止」に関しては、多分、本来の語義を少し逸脱しているような気もする「自粛」なる、最近では耳目に触れると些かの不快感を禁じ得ない表現の連呼で、何やら「圧力」のようなモノが発生して、続々と「中止」に「追い込まれた?」というように感じる側面も在る。

原則的には、催事のような事を計画していて、他方に“事情”が色々と在るなら、準備に必要な期間等に鑑みて「悪くてもこの時期に開催可否を確定しなければ、色々と面倒…」という時点に至って「如何しよう?」で差し支えないというように思う。が、「自粛」なる「圧力」というようなモノで、「中止」を「当然視」するかのような事も、変に多かったのかもしれない。

何か、これまでに在ったような、無かったような、少し変わった状況が生じていたと観ていたのだが、他方に想うことも在った。

様々な催事が「中止」というようなことになったというのは、社会の或る側面が“リセット”されてしまったと視ることは出来ないだろうか?“リセット”されて「しまった」とも言えるが、“事情”の「圧力」でして「しまった」かもしれない他方で、「敢えて何も無い“原初”に回帰」という考え方は出来ないのか?そんなことを少し思った。

関係者や辺りの人々が覚えている程度の「何年か前」に始まった新しい催事であれ、「相当な昔…」から受継がれているらしいという伝統を誇る催事であれ、「初めて始めてみた」という出来事の以前に相当する“原初”には存在しなかった訳だ。それらが“事情”の「圧力」で「中止」ということになったが、結果論としては“原初”に戻っただけではないか?

現在時点の状況?「相当な昔…」から受継がれているらしいモノも、「何年か前」に始まった新しいモノも、何もやっていないような感で、正しく“原初”だ。だから、これから先は「多くの人が“価値在る”と心から思う、認めているモノ」とか、「やりたい人達が可能な範囲で出来るようにやって、関わった人達が心から愉快だと思うモノ」だけが“復活”というのか、半ば“新設”というような感で開催されるようになって行くのではないだろうか?

何処かの地域で催事が催されることに関して、催事“そのもの!”が「多くの人が“価値在る”と心から思う、認めているモノ」とか、「やりたい人達が可能な範囲で出来るようにやって、関わった人達が心から愉快だと思うモノ」ということになっているのか否かという以前に、何やら「経済効果」というようなことが論じられる場合が非常に多いような気がする。そういう傾向に少し疑問を持っている。

開催する催事が「多くの人が“価値在る”と心から思う、認めているモノ」、「やりたい人達が可能な範囲で出来るようにやって、関わった人達が心から愉快だと思うモノ」ということになっているのであれば、自ずと色々な意味での“参加”の我が拡がる筈で、「経済効果」というのは「結果として生じる」のではないか?「結果として生じる」という「経済効果」とやらに関しては、有難く享受すれば善い筈だ。「経済効果」は「目指す」というモノなのだろうか?

振り返ってみて…何処かの地域の催事を目掛けて訪ねてみたということをした記憶は余り無い。訪ねてみれば、偶々何かの催事を開催中だったという例が些か在ったかもしれない。そういうことで、それ程多いでもない「催事との邂逅」という中で、「好かった!」というような感じなのは「やりたい人達が可能な範囲で出来るようにやって、関わった人達が心から愉快だと思うモノ」と「傍目にも感じられる」というモノであるように思う。「経済効果」を「目指している」と「傍目に透ける?」というような雰囲気のモノは、「とりあえずあの辺りが混雑していた…」に終始するばかりだ…

もしかすると?「中止」の催事の多くは「やりたい人達が可能な範囲で出来るようにやって、関わった人達が心から愉快だと思うモノ」ということでもなく、「可能な範囲」を些か超えていて、「出来るように」でもないのに無理をしているモノであったかもしれない。そういうように観ると?現下の状況は「禍」ではなく「好機」ではないのか?

「禍」が「好機」となって、催事に関しては“原初”に回帰で、「半ば新たに設ける…」という程度の感じで、「多くの人が“価値在る”と心から思う、認めているモノ」、「やりたい人達が可能な範囲で出来るようにやって、関わった人達が心から愉快だと思うモノ」だけが残って行けば…多分、それで十分のような気がする。

何れにしても、何やら“事情”で大変であることに対応しようという「感染X人」系統と感じられる話題が多く聞こえて来るが、もう少し「で?こうなってしまった時代?如何しよう?」という話題を聞きたいような気がする。

そういうことを想っていた間に<Qグレード認証 コロンビア>の1杯目が空いてしまった。さり気なく2杯目を淹れてみた…

夕刻に…

夕刻…錫のタンブラーを出して、ニッカがウイスキー造りのノウハウを応用して造ったという麦焼酎を注ぎ、それをゆっくりと頂く…無限に好い…

戸外では足下が凍っている状態が続く…「大きな敷地の端と端」という程度の短い距離を歩くにも少々気を遣い、無事に帰宅すれば気に入った酒でも呑みたくなってしまう…

積雪が気温上昇で融けかかった中で気温が下がってそれが凍り、「路面に硬い氷を確り貼り付けてしまった…」かのようになってしまった。そこから気温が低めな状態が続き、纏まった量の降雪・積雪で凍った箇所が隠れてしまうのでもない感じである。街灯が灯るような時間帯には、灯りの光を氷が跳ね返して不気味だ…

戸外を歩き廻れば、非常に滑り易い。滑って転倒し、そこで「人生の幕引き」となってしまうような「呆気無い…」という展開も在るかもしれない…そして、「自身の人生の幕引き」というようなモノも、存外にその種の「呆気無い…」に終始するような気がしてしまう場合も在る。

何時の間にか「年単位…」の時日が過ぎたが、アクシデントで負傷した時も、本格的に積雪が多くなる前の時季、凍った箇所を踏んで足を滑らせたというアクシデントの故に負傷してしまったのだった…そのアクシデントで負傷したような場合に関しては、「傷めてしまった…少し大きなダメージ?」というのは直ぐに自覚出来る。そして「耐え悪い…」という程度の痛みが在って、やがて治療を受けて落ち着く。そして快癒にやや時間を要してしまう訳だ…

不意にそんな余計なことまで思い出したのは?最近は「病気を患ってしまう」というようなことに関連して、「こういう状態=症状が生じる場合に要注意」というような話が耳目に触れるからだ。

「負傷したような場合」は、残念ながら経験も在れば、負傷の原因になる動きが在り、更に「耐え悪い程度に痛み…」というのは直ぐにでも、嫌でも判る。他方、何かの病気に関連して「こういう状態=症状が生じる場合に要注意」となっても、件の「こういう状態」が「実際に如何なる?」のかが皆目見当も着かないのだ…

件の「こういう状態」が、「経験の範囲で、何となくであっても、思い浮かぶ状態」ということなら、素直に「あのような状態か…そうなったら注意だ!」と思って話しを聴けば善い。が、「思い浮かばない状態」であれば、「とりあえず如何する?如何なる?」と訳が判らない。

例えば、最近何かと話題の感染症に罹患してしまうと「嗅覚・味覚障害が生じる」というようなことが聞こえて来る。こういうようなことに関して、「嗅覚・味覚障害」という状態について「とりあえず如何する?如何なる?」と訳が判らない。例えば、少しの間“刺激臭”に触れた―ペンキ塗りをするとか、模型用塗料の一部の種類を使うというようなこと―後に臭いが判り悪くなるとか、極端に辛いモノを口にして―何かの料理に辛味調味料を点け過ぎてしまうような事―しまった少し後に別なモノを口にして味が判り悪いという程度なら、時には在るかもしれない。が、そういう状態を、恐らく「嗅覚・味覚障害」というようには言えないと思う。だから、状態が判らないのだ…

「問題が在る」ということには間違いが無い。しかし「問題が在る」ということが、自覚し得るのか否か、全く想像が出来ない…「何でも経験…」とは言うが、体調が悪くなってしまうような類の事柄に関しては、出来れば御免である…

「個人の体調」というような次元のことなら、或いは「“問題が在る”ということには間違いが無いが、“問題が在る”ということが自覚し悪い」という状態に陥っても「それはあんたの勝手…御随意に…」ということになるのかもしれない。

しかし、こういうことが思い浮かぶと、何となく思い至ってしまうことが在る。

様々な事案に関して、「これはこういう意味で“問題”なのではないか?」と誰かが気付いたとする。そんな時、「“問題が在る”ということには間違いが無いのかもしれないが、“問題が在る”ということが自覚し悪い、または“問題”を黙殺する、更には“問題?”と言う者に“黙れ!!!”と言う」という場合が、大袈裟な事柄から手近な一寸したことに至るまで、実は非常に多くないだろうかということだ…

何れにしても、戸外で足下が凍っている状態は、色々な意味合いで酷く按配が好くない…凍った状態が少しばかり落ち着くことを期待すると同時に、「妙な不運」を自身に招き寄せてしまわないように配意せねばならないであろう…

12月に…

ゆったりと淹れた<Qグレード認証 コロンビア>を啜ってみる早朝…“特別”ということではないが、「特別に好い感じ」というようにも思うのが、こういうような時間であるような気がする。一杯の珈琲には、色々な要素が交じり合っていて、そういうのが酷く佳い訳なのだが、この<Qグレード認証 コロンビア>もなかなかに好い感じである。

月曜日に所用が在り、日曜日に南下する必要が在った。それに先駆けて土曜日に“道草”ということにしていたが…そうやって月曜日に無事に所用を足すと、旭川に北上して夜の列車に乗込んで稚内へ引揚げた。列車内では、座り心地が好かった新しい車輛の椅子で眠ってしまってはいたが、到着が遅れて日付が改まった後に稚内駅に着き、室内が冷えた感じの拙宅に引揚げた後には直ぐに眠ることが出来ずに居た。

そういう経過で何時の間にか火曜日の朝となっていて、何となく怠いままに1日を過ごした。夕刻には酷く眠い感じになっていて、夕食を愉しんで、時間帯を確認せず、早めに横になって休んでしまっていた。

そして水曜日の朝、何となく早めに眼を開けると「“普通”に何となく早寝早起きで迎えた朝」という感覚だった。動き回った後の感じ、眠り方が不規則なようになった後の感じという「身体の中に燻る“不自然さ”」とでもいうようなモノが巧く退いたような気がする。

そういう、比較的好い状態で、気に入っている珈琲を啜る早朝というのは好い感じだ…

月曜日の夜に列車に乗り、「遅れて到着?日付が改まった…」と稚内駅へ向かう車内で愛用の腕時計を視て、日付表示の「31→1」という調整を直ぐにやっておいた。こういうことは気付いた時に、直ちに行うべきで、でもなければ少し長い間に亘ってそのままにしてしまって、何やら判り悪くなってしまうものだ。

そうやって、列車内で居眠りし、そういう中で起きて、乗っていた列車の到着が少しばかり遅れてという間に日付が変わっていて、月も改まっていた。「12月」だ。2020年はこの「12月」を残すばかりである。

最近は「〇月を迎えた」というようなことに意識が向き、直ぐ後に「だから?」という程度に感じる場合が多くなっているかもしれない。「12月を迎えた」と言ってみて、何ら「特別」という感は薄い。

土曜日の朝、当地では積雪は無かった…月曜日から火曜日に日付が改まったような頃、積雪に覆われた感じになっていて、火曜日も降雪が断続した。そして水曜日も辺りが積雪で覆われた状態が続いている。気温は?0℃を割り込んだ感じになってしまっている。

「12月」に、何となく「0℃を割り込む気温=氷点下」が目立つ感にはなった。が、「だから?」という感だ。当地では、概ね例年そういう感じで「特別」ということではないのだから…

今年の場合、「〇月を迎えた」というようなことに意識が向く都度に、「だから?」という程度に加えて、「月が改まったと言って、“事情”がどうこうなるのでもない…」というようなことにも思い至るようになっているということに気付く。

自身では敢えて“事情”と表現するが、これは所謂「感染症」に関連する問題のことだ。何故“事情”と表現したいのか?それは「感染症そのもの」を巡る、健康やら医療の問題ではなく、「無用?」と思える程度に恐怖めいたモノが煽り立てられ続け、何やら「心が荒んだことが常態化し、荒んでしまっているかもしれないということに思い至ることさえ叶わない程度にまで荒んでいる」というように見えるからだ。

最近になって聞こえて来るのは、「会食は4人以内」とか「2時間以内」というような次元の話しだ。自身では直ぐに思った。「4人?3人の場合、5人の場合と何がどう違う?!」とか「2時間?1時間半の場合、2時間半の場合と何がどう違う?」というようなことだ。こういう“違い”を或る程度判るように説いた話しを、自身では耳にしたことはない。

もしかすると、上述のような“違い”を判り易く説いた何かが、何処かに在るのかもしれない。が、少なくとも自身の耳目には現時点で触れていない。更に、触れることは無いかもしれないと思っている。何故なら、「意味不明な“精神論”の類」としか感じられないからだ。「意味不明な“精神論”の類」としか感じられないような話しが真顔で語られているのが聞こえる程度に「荒んでいる」というように思えてならない。

敢えてここに加えておきたいが、最近の感染症で亡くなったという方よりも、自殺者の数の方が多いらしいというのがこの国の様子である。最近の“事情”というモノの「正体」がこの辺に潜んでいるのかもしれないと感じる。

巷の“事情”がどうであれ、自身としては迎えた12月を平穏に、出来れば心豊かになれそうな時間でも設けながらゆったりと過ごしたいものだと思っている。

そう思っていた間に<Qグレード認証 コロンビア>のマグカップが空いた。2杯目を淹れた。<しゃちブレンド>である。バランスが好いブレンドで、なかなかに好い感じだ…

早朝に想う…

「今朝の1杯目」となったのは<Qグレード認証 コロンビア>だ。先日使い切った<Qグレード認証 エチオピア>と同時に入手していたが、<Qグレード認証 エチオピア>を先行して使っていたので、開封せずに暫く保管して在って、<Qグレード認証 エチオピア>を使い切ったということで開封した豆だ。

<Qグレード認証 コロンビア>もまた、高品質であると認められた「Qグレード」なる認証を受けているというモノだ。<Qグレード認証 コロンビア>は、「苦さ以外の、珈琲の味の諸要素」が色々と交った、少し個性的な味わいが好いと思う。

夕刻に、何となく<花春 粕取焼酎>を愉しみ、「自宅のダイニングも同然…」と勝手に思っている御近所の店で食事を愉しみ、「さて、一日が暮れた…」と横になって、時間帯は承知しないが眠ってしまった。そして眼を開けた…

「日本時間+2時間」の“サハリン時間”であれば、「早起きな傾向の人が何となく起き出す」というような時間帯であると思うが、“日本時間”では「少し異様?」な時間帯に起き出してしまった。が、改めて眠ってみようというのも、何となく「苦行…」というものである。であれば?美味い珈琲でも淹れて、悠然と過ごすのが好い…一応、平日なので、後刻に居眠りに陥った場合、寝過ごさないように時計のアラームはセットしておいたが…

また「GoTo」なるモノが頻繁に耳目に触れるような感だった…

何度か綴ってもいるが、自身では「GoTo」と何処かの方に命令形で言われるまでもなく、「I go to XXX」と必要が在れば、或いは思い立てば何処へでも出掛ける。当初から、「利用の激減等で維持困難な施設、関係者の雇用、その関係者が不利益を被ることがないような“セーフティーネット”のようなことへの目配り」とでもいうような支援を行うことと、「金を注ぎ込んで、正規の価格を度外視したような形で利用可とし、とりあえず利用を増やすこと」というような取組とは「少し違う?」と思っていて、前者は必要かもしれないが、後者は然程に急は要さないというような気がしていた。

また「GoTo」なるモノが頻繁に耳目に触れるというのは、「札幌・大阪市を除外」というような話しになったからだ。

個人的には、「GoTo」なるモノについて「札幌・大阪市を除外」というような話しに関して、「とにかく哀しい」という感を抱いている。こういうように「名指し!」を受けたことで、札幌や大阪が「不幸の巣窟?」とか「正常に暮らすことが出来ない毒物でも蔓延?」というような“イメージ”になってしまう。そういうのは「XX人やって来て、XXXの売上が見込まれ、それが損なわれ…」というような問題の比ではない、「“プライスレス!!”なネガティヴイメージ」で、金額換算不可能な程度に大きなダメージのような気がする。札幌や大阪に関して、例えば「高い場所から落下して、相当なダメージを受けている人が苦しそうにしている場所に駆け寄って、木刀のようなモノでも持ち出して無茶苦茶に殴打して…」というような、無情にして悪辣な所業に晒されたというような憤りのようなモノさえ禁じ得ない…

とりあえず“国”の事案と思えるモノに関して、「それは…」と“都道府県”の事案であるかのようなことが呟かれる。そして“都道府県”に問うと「あれは“国”の…」である。こういうような「スタートラインが全然判らない??」が蔓延していた中、何となく「GoTo」なるモノについて「札幌・大阪市を除外」というような話しに至ってしまった。

こういうようになると、「名指し!」を受けた地域の側では「他所から余計なモノが持込まれて不幸になった」というような感じ方が拡がり、それ以外の地域では「名指しされている辺りは拙い…」とか「名指しされている辺りの者は出入りしてくれるな!」、または「誰でも彼でも、その辺と往来した経過の在る者は避けろ…」というような感じ方が拡がることであろう。或いは、「既に!!」そういうようなことになって、そして半年以上も経って、そういう感じ方が蔓延、浸透しているのかもしれない。

「GoTo」なるモノは、「人々が行き交って結び付く」というような「“普通”な営為」を、曲がりなりにも支えようとしたモノだったのではないか?しかし、「他所から余計なモノが持込まれて不幸になった」とか「ややこしいかもしれない辺りの者は出入りしてくれるな!」というような感じ方を推し拡げてしまうばかりになっていないか?「人々が行き交って結び付く」というような「“普通”な営為」とは逆の、「人々を分断する」というようなことを促進してしまっていないか?

そういうように見える中、俗に言う<コロナ禍>というモノによる「最大最強の“被害”」は「人々の心を荒ませたこと」に他ならないような気がするのだ。「他所から危険が持ち込まれている!?」と「他所=危険の要因=排すべし」とするメンタルは、「日頃は然程意識しないかもしれないような、地域間のゆるやかな繋がり」のような「普通」を排してしまうような「荒んだ」考え方のように思う。そういう「荒んだ」ような考え方を「普通」な程度にするには?幾ら金を遣っても、足りないかもしれない。

それにしても、そういう具合に「荒んでいる?」ような時に、「札幌・大阪市を除外」というような「名指し!」が在ると、“北海道”とか“大阪府”という中での「域内での地域間のゆるやかな繋がり」というようなモノを、「頑丈なハンマーで叩いて粉々に…」ということになってしまわないだろうか?

“北海道”の中に在って、既に“札幌”について「あそこは!?」という感じ方は拡がっているように、何となく思わないでもない。「他所から危険が持ち込まれている!?」として「他所=危険の要因=排すべし」となってしまうような場合の“他所”に“札幌”が「最も身近で最大の脅威」とでもいうような位置づけで入り込んでいるかもしれない。

他所の県に関して、現行の県の枠組みが定まって行く過程の以前の時期に「各々が別々であった」という経過が在って、それの故に「A地方とB地方とは、何となく張り合っているような感」という「県の一体性?」というようなことが在ると聞いたことが在る。“北海道”は如何であろうか?

自身の祖父母、伯父や伯母等は“内地”という表現を時々口にしていた記憶が在る。彼らより頻度が低いが、自身の両親やそれに近い世代、または叔父や叔母に相当するような世代位までは“内地”という表現を口にするかもしれない。明確な定義が在るのでもないが、“北海道”に対して「それ以外の日本国内」を“内地”とする訳だ。こういう表現は、古くから、恐らくは明治期から何となく使われて来たのであろう。

“北海道”に対して「それ以外の日本国内」を“内地”と何となく一括的に称しているというのは、逆に言えば“北海道”というモノに「漠然とした一体感」を多くの人が感じているということなのかもしれない。しかしながら、“北海道”の中で、何となく人口が集まる「一寸した街」は相互に「過ぎる?」という程度に遠く、そういう意味で各々の「一寸した街」に在る分には、「〇〇?あれは他所…」と北海道内の他地域を感じてしまう面が在るかもしれない。

例えば…稚内・旭川間は250㎞余り…稚内・札幌間は370㎞程…稚内・函館間は700㎞余りである。稚内がマイナーなので、これを東京に見立てれば、250㎞余りの旭川は浜松辺り、370㎞程の札幌は名古屋周辺、700㎞余りの函館は姫路の少し向こうというような感じになる。

自身は学生の頃に東京都新宿区に住んでいた。4年間程の住んでいた期間を通じて、浜松、名古屋、姫路の何れへも足を運んだ経過は無かった。各地に観たいモノは幾らでも在るが、機会を設け損なっていた。そして何かの催事に参加するというような場面も偶々生じなかった。

そうやって思うと、例えば稚内に在って、旭川、札幌、函館というような他の街に関しては「そう言えば何年も全然行っていない…」が最初から幾らでも在るような感である。“北海道”というモノに「漠然とした一体感」は在ったにしても、「あそこ?あれは他所…」という感じ方も否定し悪いのだ。

例えば“札幌”に関して、「GoTo」なるモノ関連で「名指し!」を受け、他の都府県で「北海道?」とややネガティヴなイメージが拡がっていたとする。そういう時、“北海道”ではあっても、“札幌”との距離が東京・名古屋間という程度に離れた場所に在れば「一緒にしてくれるな!!」という感じ方も免れ悪い。そういう中で、北海道の内側で“札幌”が「最も身近で最大の脅威」でもあるかのような考え方が精錬されてしまっているような感がしないでもない。

本当に最初から「利用の激減等で維持困難な施設、関係者の雇用、その関係者が不利益を被ることがないような“セーフティーネット”のようなことへの目配り」とでもいうような支援を行うことと、「金を注ぎ込んで、正規の価格を度外視したような形で利用可とし、とりあえず利用を増やすこと」というような取組とは「少し違う?」と思っていて、前者は必要かもしれないが、後者は然程に急は要さないというように考えていて、「GoTo」なるものに関しては「?」と感じていた。名状し悪い嫌な感じも排除出来ないと思っていたが、何やら「とんでもない“荒み”の悪循環?」というようなモノが生じてしまっているかもしれない。

或いは不穏な世情かもしれないが、それはそれとして心穏やかに過ごしたい。<Qグレード認証 コロンビア>のマグカップが空いてしまったので、「今朝の2杯目」も淹れてみた…

深く長目に眠った後に…

「朝の1杯目」として<しゃちブレンド>を淹れた。芳香が好ましく、そして味も好い。未だ色濃い「夜の残滓」という感の早朝は、好みの珈琲でも頂いてゆったり過ごすという程度が好い。今朝は些かの雨が交っているような感じになっている…

一昨日は何やら「確り眠った」と言い得る時間が短かったような感で、昨日は夕刻に眠さと怠さを覚えていた。その関係で、早目な時間帯に休んでしまった。そして、少し長目に休んだようだ。一昨日と昨日との眠った時間を均せば、多分「何時もの感じ…」なのであろう。

昨日、早めに抗い悪い眠気を憶えたのは、一昨日に確り眠った時間が短めであったという「理由らしいモノ」が判り易い。そういう判り易いことに他方に、「理由らしいモノ」が「判り悪い?」という事案も多く在る。或いは「理由らしいモノ」が「判り悪い?」という方が、身の周りのあらゆるモノを眺めた場合に、比率が高いのかもしれない。

自身には、何となく挙げてみたい「気に入っている街」というモノが在る。それらを思い浮かべて、「気に入っている」とする理由を考えてみると、「理由らしいモノ」が判り易い場合も、判り悪い場合も在る。

そういう中で「札幌」は非常に判り易い。長く住んでいた。自身の住まいの場所の変遷を顧みると、現在住んでいる街の次に長いのが札幌である。「育った街」ということになり、「御出身は?」とでも問われれば「札幌」とでもするのが妥当だと思う。自身に関しては、東京の大学に御厄介になっていて、そこから現在も住んでいる街へやって来た経過が在るので「東京出身」と思っている方が周囲に何となく在って、自身でそれを一寸知って驚いたことも在る。また、札幌方面へ移動する場合に、旭川を経由する列車を好んで利用しているので「あの人は旭川出身」と思っていたという人も在った。

昔、青森県の情景の歌詞が入った楽曲をヒットさせた歌手が「青森県出身」と方々で思い込まれていて、実は歌手御本人が「熊本県出身」だったという例が在ったと聞く。そういうようなもので、実は「札幌出身」である自身が「東京出身」、「旭川出身」と思われようが、長く稚内に居るので「稚内出身」と思われようが、そんなことはどうでも構わない。自身としては、出身地と言い易い場所で、現在も縁が切れていない札幌に関しては「気に入っている街」というモノの一つに何時でも挙げたいというだけだ。

「気に入っている街」に関して、美しい季節毎の風景が紹介されるとか、何やら楽しそうな場所が出来たというような話しを聞くのは嬉しい。が、妙な犯罪、死傷者が多く生じた事故、災害、その他の「好ましくない感じ」の報は、本当に気持ちが曇るばかりである。

現在、札幌に関しては毎日のように「好ましくない感じ」の報で取沙汰されている。自身では「例の“事情”」と呼び習わしている事象の関連だ。

何か「危険だ」の「異常だ」のと連呼されている。少し大袈裟な例えに聞こえるかもしれないが、「無実の罪を被せられて凄惨な拷問を受けている」という状態に陥った「愛すべき存在である誰か」の姿を眼前に突き付けられる、半ばフィクションのような程度の酷い不快感を、殆ど毎日のように覚えている。

札幌は「人の往来」が基礎に在る街だと思う。(何処でも街にはそういう要素は濃いが…)何かの仕事であれ、物見遊山の観光であれ、方々の夥しい数の人達が出入りする、そしてそうし易くしながら発展し、人の往来を支える様々な雇用が在って社会が成り立っている。社会を支える人々が暮し易くなるように、“積雪地”というネガティヴな条件にも屈せずに社会資本を整備して来た経過も在る。それが札幌だ。

そういう「人の往来」が基礎に在る状況であるが故に、敢えて申し上げるが、冬季のインフルエンザの流行というようなモノの話しは毎シーズンのように聞こえて来る。「例の“事情”」に関連する事象も、或いは「少し似たような感じ?」という風に個人的には感じる。北海道の人口の半分近くは、札幌市内と、市外ながら小一時間で札幌都心部と往来出来るような範囲に集まってしまっている。インフルエンザにせよ、例の“事情”にせよ、感染症のようなモノが拡がる場合には被害が集中してしまうことは逃れ難いかもしれない。

何か「危険だ」の「異常だ」のと連呼されているので「札幌と往来?危険だ!」ということになる。そういうのは色々と在って「<GoTo>とやらで他地域の人達が出入りして、危険なモノが持ち込まれた!止めてしまえ!」というような論も拡がっている感だ。それは何となく「自身が今居る地域以外は悉く危険!ダメ!」というような、よく判らないメンタルが涵養されているばかりではなかろうか?

既に4月末や5月初めの時点で、「地域間の往来が感染症を拡げるので危険」というような話しになり、「県境でチェックだ!」ということになってしまい、立場の在る方が「来てしまったことを後悔させてやれ!」という趣旨に受け止め得る発言―アウトローな世界を描く小説や映画で、「敵役の頭目」のような役が口にする台詞のようで、現実とも思い悪かった…―をしたとかで物議を醸した事例も在った。何やら、その種の「他所=危険の要因=排すべし」というメンタルが、現在のこの時点に至るまで涵養され続けて、或いはその純度や密度が高まっているかのような気がしないでもない。

誰かが病気を療養ということなら、「早く快復すると好いですね」と見守る他に出来ることなどない。例の“事情”(=感染症の問題)で「殊に好ましくない状態」の他所の街に関しては、病気を療養という身内、友人、知人を見守る程度に見ていれば、それで十分というような気がしないでもない。

少し前から何となく思っていたことでもあるが、「例の“事情”」、俗に言う<コロナ禍>というモノによる「最大最強の“被害”」は「人々の心を荒ませたこと」に他ならないような気がしている。「自身が今居る地域以外は悉く危険!ダメ!」とでもいうような、「他所から危険が持ち込まれている!?」と「他所=危険の要因=排すべし」とするメンタルは、「日頃は然程意識しないかもしれないような、地域間のゆるやかな繋がり」のような「普通」を排してしまうような「荒んだ」考え方のように思う。そういう「荒んだ」ような考え方を「普通」な程度にするには、幾ら金を遣っても、足りないかもしれない。

色々と考えてしまっていた間に<しゃちブレンド>のマグカップが空いた。「今朝の2杯目」に<Qグレード認証 エチオピア>を淹れた。この1杯で、在った豆を使い切った形になったが…<Qグレード認証 エチオピア>の味わいも非常に好い。

そして「夜の残滓」は何時の間にか拭われたが、雨が「何時でも降りますよ!待機中です!」というような状況、天が厚めな雲に覆われてしまっている薄暗い朝だ。

過ぎる程の早起き??

<しゃちブレンド>の色々な意味でバランスが好い感じの味が素晴らしい。延々と「夜の残滓」という感である早朝の時間帯に似合うのは、自己流でも何でも構わないと気が済むようにゆったりと淹れて頂く珈琲という感だ。暖房を程々に利かせた居室から、少し「怖いもの見たさ」に近い気分で玄関前の戸外に出て様子を伺えば…風がやや強く冷たい。“体感”は「ハッキリと冬」という気がした。

何時であったか?偶々出くわした<しゃちブレンド>は名古屋の業者が送り出しているモノだ。そういうことで「名古屋」が何となく頭の隅に在る。それに少々関連するが、2月に名古屋方面から当地を訪ねて来た皆さんと会う機会が在り、何となく頭の隅の「名古屋」が少しだけ大きくなっている。

頭の中で何処かの地域の存在が少々気になっていると「行ってみたい場所の“分厚いリスト”」というようなモノの中で急速に「開くと直ぐ出て来るような頁」に出て来るようになる。「名古屋」もそういうような感ではあるのだが、今年設けた「ふらりと出掛ける」というような時間の中では、何となく通過してしまった。3月はかなり前向きに寄ろうとしていたが、最初に上陸した辺りで半ば雪のような冷たい雨で濡れてしまって、少し弱ったので、一気に西へ動いてしまった。8月には、何となくで最初から西に上陸し、更に西を巡るということをしてしまった。

「ふらりと出掛ける」というような時間の中では、「確定的予定」は“出国・帰国”と呼びたいような、自身の住まいを出て戻るという部分「だけ(?)」に近い感じだ。「ふらりと出掛ける」というような時間というモノは、そういう程度が程好いのだと思っている。変な回り道ばかりしているかもしれないが、例えば頭の隅の「名古屋」というような場所にも、そのうちにきっと辿り着くことであろう。

何か近年は「ふらりと出掛ける」というような時間を設けることが叶うと、西日本方面に何となく足が向く。ほんの少し動くと、「異なる伝統が積み重ねられたような経過が在る諸々の地域」と出くわすことが出来る。「色々な要素の様々な場所」が「連なっている」という感じなのだ。何処かに何となく滞在する中で「変な回り道」が無制限に出来てしまう。そういうのが「無限に好い」と感じてしまう。

「ふらりと出掛ける」というような時間を設けることが叶って、自身のような流儀で動き回るというのは?或いは「コストパフォーマンスが悪い」ということになるのかもしれない。コストパフォーマンス?略してコスパ?「最小限の投下資本で最大限の利益を…」というようなことであろうか?そういう見地でモノを考えるのなら、自身のモノも含めて、多分圧倒的多数の人達の「人生そのもの」に関して、「然程好くないコスパ」なのではないかという気がすることが多く在る。

実は今…多少「厄介(?)」な情況になっているかもしれない。

例によって、適当に夕食を愉しみ、眠気に抗わずに眠ったのだが、深夜帯に眼が開いた。何となく起き出して、また横になり、眠ったような、眠っていないような感じになり、そのうちに最近読んでいるシリーズの小説を読み始めた。やがて、小説は読了に至ってしまい、「夜の残滓」が非常に色濃いとは言え、時間帯は早朝に移ろってしまっていた。そして<しゃちブレンド>を淹れてみたという訳だ…

或いは?時計の“アラーム”をセットし「朝の居眠り」に備えるべきなのかもしれない。

そういうのを「厄介(?)」な情況になっているかもしれないとした訳だが、体調が悪いとか、身体の何処かを傷めてしまったとか、自由に行動出来ない程度の異常な事態が生じているという程でもない。

そんなことを考えていれば、「夜の残滓」が少し拭い去られ、<しゃちブレンド>のマグカップも空いた…

休日の朝に…

「長閑な休日の朝」という感だ。戯れに「正しい休日には…」と称している、コインランドリー利用というような用事も無く、本当に「居室で悠然と…」という過ごし方になっていて、何時の間にか眠気でも覚えたなら、遠慮も会釈も無しに居眠りに陥ってもどうということもない訳だ。「真の休日」という具合か?

不意に思ったのだが、“未来形”の表現というのは、些か難しい。例えば「2週間後」というような場合、「少し先」と表現すべきか、「一寸だけ先」と表現すべきか、少し迷う。2週間という程度の時間は、存外に直ぐに過ぎるので「一寸だけ先」と感じるが、それでも「色々と展開が在る筈の1週間」を挟むので「少し先」という感じ方も強い。素直に「2週間後」とでも称すれば何ら疑念は湧かないのかもしれないのだが、少し気になった。

実は、定例的な所用で他地域に出掛けるという予定が以前から決まっている。傍目には「そんなモノは不要不急!!!!!」とでも喚かれそうだが、自身にとっては、何処の誰が何をどういうように言ってみようと“予定”は“予定”なのだ。或る程度、切実に足したい用事が在るのだ…

定例的な所用で他地域に出掛けるという予定が月曜日に発生するので、その前の週末に多少ゆっくりとしたい。そうなると、自ずと何処かで宿泊施設を利用するというような段取りになる。

宿泊施設の利用?自身の中では「4桁の価格」という程度が「概ね適正」であると思っている。場所、時期によって色々と事情は在るのであろうから「X千円程度」という限定を敢えてしないようにしている。「5桁の価格」となれば、何となく「高い!?」と感じる。というのも、自身の場合は早朝から張り切って移動する場合も多いので、「或る程度限定的な滞在?とすれば?高い宿泊料金を出すなら、何処かでゆったりと酒でも呑む?または、“休憩所”的な場所に?」と思ってしまうのだ…

一頃、国内外の来訪者がこの国で溢れ返っているというような状況で、「4桁の価格」という程度の「概ね適正」が「何となく不足」ということも多かった気がするのだが、最近はその限りでもない。極々個人的な感じ方として「好ましい!」という程度には思う…

「4桁の価格」という程度で利用可能な宿泊施設の側でも、“需給バランス”というような要素に鑑みて価格帯が上下するというのが普通だ。この「上下幅」について、大きめな場所と小さ目な場所が在る。自身では、一部の有名チェーンについて、この「上下幅」の大きい傾向の場所と、然程でもない場所は何となく判った気にはなっているのだが…最近に関しては、この「上下幅」の「下寄り」で利用可能な場合が少し増えているようにも見受けられる…

こういう「4桁の価格」という程度で利用可能な宿泊施設に関して、幾つかのネットのサービスを利用して予約し、そして実際に利用もする。予約時点で、施設内容と価格とに納得していて、実際に利用して「大いに期待外れ」という事例は殆ど無い。逆に「気に入った!!!」と、同じ街を訪れる場合に、勝手に「〇〇の別邸」と称して繰り返し利用する場合さえ在る…

そんな感覚で、「実質的に初めて立寄る街」(随分と以前に通り過ぎていながら、方々を見て廻ることや、宿を求めるに至った経過が無いので「実質的に初めて」と表現したくなる場所だった…)で宿を求めてみた経過が在った。街で最も大きな鉄道駅の直ぐ近く、宿の前に佇むと、駅の大きなビルの一隅が何となく見えるというような場所だった。宿の部屋で飲むモノを求めるような店や、食事を愉しむような場所も近くに多々在り、景色が好い場所までも至近であった。宿の館内も快適で、汗で汚れた衣類を洗うランドリーも利用可能だった。

その宿を利用した際だが、チェックインの際に「GoToキャンペーン」なるものも御案内を頂いたことを記憶している。

「実質的に初めて立寄る街」で一夜の宿を求めようと思い立った時、利用し慣れているネットのサービスを駆使し、宿泊料金の支払も事前に完了という体裁で利用した。チェックインの際、当時は始まって日が浅かったらしい「GoToキャンペーン」なるものの“適用”という話しが、フロントの方から出たのだ。

何やら書類に必要事項を記載し、「ネットのサービスを駆使しして、宿泊料金の支払も事前に完了という体裁」という場合にはそのネットのサービスの関係で領収書を態々用意し、それらを所定の場所へ送って、後日に金が振り込まれるということらしい。利用した宿は…「樋口女史」を1人引っ張り出すと「ドクター野口」が戻って来るというような価格帯だった。ということは?「ドクター野口」が2人に届くか否かの金額が、何時も残高が少ない自身の銀行口座に送り込まれるまでに1時間や2時間も手間を掛けることになる…「そんな価値が?!」と思った。

自身は「Go to XX!」と命令形で誰かに指図されるまでもなく、「小遣いが捻出可能で時間が設けられる」ということで、随意に出掛けたまでのことだ。宿泊施設の利用に関しても、自身で随意に予約して、予約した際に「妥当!」と思える料金を普通に支払ったまでのことだ。何やらで1時間かそれ以上もかかるかもしれない手続きをすることを強いられる何物でもない。「キャンペーンの適用になったので払戻が…」と、その場で勝手に「ドクター野口」でも寄越されるなら、御近所で美味そうなモノでも夕食か朝食に見繕うか、御近所の店で気に入ったモノでも在れば土産に求めるということになるだけのことだ。

「GoToキャンペーン」なるものに関して、その「実質的に初めて立寄る街」で一夜の宿を求めようと宿泊施設を利用した時に、宿の方の話しを聴いたというだけで特段に関係も無いままに推移しているのだが…極最近になって、何やら少し頻繁に耳目に触れるようになった気がする。

最近耳目に触れるのは?「“GoTo”の見直し否定」というような言辞だ。責任在る立場の人達が、実施中の「GoToキャンペーン」なるものに関して「そのまま続ける」としているのだそうだ。

思うに「見直し」という表現は、「完全に歪んでいる」と見受けられる。「見直し」というのは、ハッキリ言って「止めてしまえ!」とか「止める筋合い!」という意味で、場合によっては「止めないのは人倫に悖る!!!!」という含意さえ在るかもしれない表現だ。

「GoToキャンペーン」なるものに関して、責任在る人達が「見直し否定」という言い方?そこには「そんなモノは止める筋合いであるにも拘らず、止めないとほざいている!如何よ?!この外道共は!?!」という意図を感じないでもない…

自身としては、「巧く機能しなくなった各種のサービス、その関係施設を何とか維持するための支援」と、「ドンドンと金を出して正しい価格を度外視してとりあえず誰かが利用するように仕向ける」というのは「似て非なるもの??」と当初から思っている。そういう意味で、この「GoToキャンペーン」なるものに関しては、「何となく判らないのですが…」とは思っていた。そして今でもそういう想いは変わらない。

「最近の“事情”」という中、「GoToキャンペーン」なるものに関して、止めるだの止めないだのと今更ガタガタ言って、何か得られるであろうか?「止めう筋合い!」という感じ方と「アレはアレ、コレはコレ」という感じ方との“分断”が推し進められるばかりだ…

「GoToキャンペーン」なるものは「国の事案」である。“国”に向かって「どうしますか?」と問えば、「各々の都道府県の事情で御判断頂き…」という話しになる。これを受けて都道府県の代表に「どうしますか?」と問えば、「アレは国の進めていることで…」となる。だから、何処まで行っても「〇〇の現場でこうなっている?ではこのように…」ということにはならない。

この「哀れな国(?!)」にはこういうのが溢れているような気がする、とりあえず“国”の事案と思えるモノに関して、「それは…」と“都道府県”の事案であるかのようなことが呟かれる。そして“都道府県”に問うと「あれは“国”の…」である。更に…“都道府県”の事案と思えるモノに関して、「それは…」と“市町村”の事案であるかのようなことが呟かれる。そして“市町村”に問うと「あれは“都道府県”の…」である。色々な事案に関して、“スタートライン”のようなモノが何時までも引かれないのだ。

こういう「客観的に観て、考えて、考える程に意味不明!!」が、実は溢れていて、そういうモノを容赦、容認している余りにも情けない状態が見受けられる…「哀れな国(?!)」とでも呼んで納得してみる以外に何が出来ようか??

そういう「相変わらず…」な傾向の中で、よく判らない「GoToキャンペーン」なるものが論じられている。が、そんなモノはそんなモノとして、「最近の“事情”」に纏わることが多少小五月蠅い感じになっている中、「また“分断”が煽られていないか?」というようにも思えて、何となく警戒感を抱く…

平和な休日に不穏なことを考えざるを得ないような感も否定しない…それにしても風が強めで冷たい状態が続いている…

積雪も見受けられるようになった朝に…

<しゃちブレンド>が酷く美味い…

珈琲のような嗜好品は、色々と種類が在って、各々の美味さが在って当然だが、<しゃちブレンド>は「広く受け容れられる、好い意味で“公約数”的な、バランスが好い珈琲」という感じで気に入っている。有名な城の鯱に因む名称を冠し、名古屋の業者が自信を持って送り出しているモノである。

珈琲そのものの佳さということも在ろうが、居心地が好い程度に暖房が効いた居室で、朝の時間帯に悠然と頂いているというような「状況…」という要素で、一際美味いような気がすることも在るのであろう…

「11月11日」ということになった…1月1日、2月2日、3月3日、4月4日、5月5日、6月6日、7月7日、8月8日、9月9日、10月10日、12月12日と並ぶ、毎月1回在る「月の数字と日の数字が重なる」という日である。「だから?!」というどうでもいいことなのだが、この「重なる数字」が何となく好きなのだ。何か「好いことでも在るだろうか?」という気分になる。別段特別なこと等無いままに終始するというのが普通であるのだが。

積雪の白色が、画像・映像撮影時の“レフ版”のような働きをするので、暗い冬には暗い冬なりに明るい感じがする場合が在る。現在、そういう様子が見受けられる…

11月9日の夕刻から積もり始め、翌朝までになかなかの量が積もった。日中に道路を除雪していて、些か溶けてはいたが、気温が然程上らずに積雪が存外に残った。そして夜間に少々の降雪、積雪が在ったようだ…

現在はプラス1℃、プラス2℃という次元で、戸外は“冷蔵庫”のような具合だ。やがて晴れ間の光線や、些かの気温上昇でこの積雪もとけるであろう。温暖な地域では、プラス5℃前後の気温になると「雪?!」という話しになると聞いたことが在ったが、5℃であれば間違いなく「冷たい雨」である。現在の1℃、2℃という次元から5℃に気温が上昇すれば、積雪は相当に溶け、雨が降れば洗い流されるようにもなってしまう…

気温の上下に一喜一憂するかのような真似は、何となく「詮無き事」のようにも思うのだが、積雪が見受けられるような時季、一喜一憂に近い気分になる場合が在る。歩く箇所の表面が凍って滑り易くなるのだ…2017年の積雪期の始まるような頃だったが、思わぬアクシデントで、少し難儀もする羽目に陥ったので、それ以降は殊に気に掛けるようになった。滑り易い箇所では注意したい…

アクシデントで難儀するような羽目になって、その原因を探って「善くない!!」と非難したい気分にならないでもないが、そんなこともまた「詮無き事」だ。アクシデントの状況にもよるが、「それでもそこに在る」を感謝するようにした方が好いというような気がしているというのが「近年の気分」だ。

そんな「近年の気分」という中、何となく気になる。多分「21世紀に入ってから?」というように思うのだが、何となく「“敵”を規定して、その“敵”を非難する」ということばかりが前面に出てしまってはいないだろうか?

誰しも心当たりは在ると思うが、例えば「楽しみにしていた催事が悪天候で中止」とか「楽しみにしていた催事の時に風邪で体調が酷く悪くなって欠席」というような事態である。天候やら病気やらというのは、「仕組みがよく判らない“魔法”=漫画『ドラえもん』に登場する道具のようなモノ」でも駆使しない限り、多分人が制御することは出来ないように思う。

私は「例の“事情”」と呼び習わしているが、最近の感染症の流行というようなことについて、問題意識を持って気を付けましょうという以上に、「“敵”を規定して、その“敵”を非難する」かのような振る舞いが酷く目立つような気がする。話題の“芯”を抜き出すと「〇〇業界が拡大の温床だ!何とかしろ!」とか「〇〇しない者は悪い!」というようなことが溢れているような気がして、何か気持ちが曇る。

例の“事情”により、「21世紀に入ってから?」というように感じられる「“敵”を規定して、その“敵”を非難する」という傾向が、非常に強まっているような気がする。或いは「荒んでいる?」というような気もするのだ…自身としては?運悪く妙な疫病に罹患して、不意に他界するような羽目になっても「最期に〇〇したかった!!」が少しでも少ないように、日々ここに自身が在ることに感謝しながら、穏やかに暮らしたいというだけである…

そんなことを想っていた間に、<しゃちブレンド>のマグカップが空いた…

スコッチを啜りながら…

<ティーチャーズ>というのは、「拙宅の冷蔵庫のような存在…」と言ってみたくなるような極々近所の店に並んでいる酒類の中で、安価な部類に入るウィスキーだ。スコットランドのグラスゴーで起こった会社によるモノなのだが、安価な割にはなかなかに美味い“ブレンデッド”のウィスキーだ。

「夜の残滓」が色濃いというよりも、時計を視ずに居れば「深夜と区別し悪い早朝」の時間帯に、錫のタンブラーに<ティーチャーズ>を注いで、ストレートで頂いていると、居室に在りながら「居心地の好い、気に入っているバーで時間を過ごす」というような気分がしないでもない…

この数日は、米国の大統領選挙の話題が随分と頻繁に耳目に触れる。

日本国内の国政選挙、地方選挙に関しては、投票日の翌日朝には「開票終了 A候補XXXX票 B候補XXXX票…」という少々詳しい情報が開示され、当落は明らかになっている。更に、随分以前からのことながら、投票所での出口調査というようなことなどを通じた状況分析、判断というモノに拠って、「投票終了…開票が始まります」というような頃に、直ちに「A候補が当選確実!」と報ぜられるような場合も少なくない。結果がどうしたこうしたというのでもなく、当確情報の「速さ!」に驚き呆れる場合も多い…

そういうことを想うと、米国の大統領選挙の話題が何日も続いている様子が些か不思議に思うのが率直な感想だ。しかし、二大候補の何れが当選するのか、接戦で明確になり悪いという状況でもあるということなのであろう。

米国の大統領選挙は、長い経過の中で成立して現在に受継がれている、やや煩雑にも見える制度だ。米国は州が集まった連邦国家で、州毎の選挙結果を集めて全体の結果が出るということになる。州毎に少しずつルールが違うようだ。が、総じて「各州に割り当てられている“選挙人”を取り合う」という争いで、各州は「1人だけ当選の小選挙区のようなモノ」になっているというのが殆どであるらしく、優勢な候補が州に割り当てられた“選挙人”の人数を獲得出来るというようになっている。それが積み重なって、「過半数を二大候補の何れが?」ということが続いている訳だ。

“大統領”を戴く国は数多在る。国によっては「〇年間の任期をX期まで」と規定している。「終身」というようなことになってしまっている例も見受けられるようだが…米国に関しては「4年間の任期」は明文化されているようだが、「X期」は明文化されていないのだという。しかし初代のワシントン大統領が2期で勇退した故事に因み、「2期」が慣例化している。多分、唯一の例外と見受けられるのは、第二次大戦の頃のルーズベルト大統領が4期務めようとしたという例だ。ルーズベルト大統領は4期目の任期に入った後に逝去し、トルーマン副大統領が大統領に就任したのだったが。

そういう米国の大統領だが、大概は2期務めている。1期4年間の後、対立候補が4年間の在り方を批判する、または4年間の在り方が不人気という場合、新しい大統領が登場している。

現職の大統領の前、オバマ前大統領は人気が高かったようで、2期8年間を務めた。その後は現大統領が選任された選挙だった。落選した側の候補の前評判は高かったようだが、「この数十年の政治?もう沢山だ!」というモノが有権者の中に実は強く在ったらしい。そんな訳で「型破り!」とされた現職が選任された訳だ。

そして1期4年間の後に今般の選挙である。

現職大統領の対立候補は、「この数十年の政治?もう沢山だ!」の「一部!」ということになる、前大統領の下で副大統領を務めていたという方だ。その方が主張したとする「この4年間で国が“分裂”してしまったのではないか?何とかしよう!」という事が伝わったが、それには頷いてしまった。

最近、米国の色々な問題が伝えられている。問題というのは俄かに発生して、俄かに何やら騒がしくなる場合も在ろうが、或る程度は「長く潜在」ということなのだと思う。それが顕在化するというのは、切っ掛けが何処かに在る筈だ。それが、或いは“分裂”を助長するような現大統領であった可能性を否定し悪いような気がするのだ。

米国というのは、色々な出自の人達、各々の後裔に相当する人達が集まり、より豊かな社会を目指そうと統合した連邦国家であった筈だ。前大統領は複数の人種の血を引く人物で、様々な出自の人達が暮らしている国の人々が戴く指導者のイメージを存在だけで体現していたかもしれないような感も在るが、大量破壊兵器の封印を主張してみるようなことで諸外国の人達からも賞賛されていた。対して?現大統領は国内外に“敵”を規定して、“敵”を非難する言辞を吐き続けるばかりなのではないか?

日本では、「この人には投票する権利が在る」ということであれば、住民登録の情報に依拠して勝手に選挙の投票の案内が送付される。米国はそうではないのだという。選挙で投票する権利が在ることの確認を求める行為、「有権者登録」を自らした上で投票を行う。だから「この地域の問題を訴える候補を応援しましょう!」ということになると、街で色々な人達に「有権者登録をして下さい!」と促すのが所謂“選挙運動”の第一歩であるらしい。そんな米国で、「嘗て無い程度に投票が多い」、「郵便投票制度の利用者が想定を遥かに凌駕している」という今般の米国の大統領選挙である。その事実だけで「問題意識が滲み出ている」とか「噴出している」というようにも感じられる。

自身と米国と?米国のプロスポーツのネタが好きであるという位の係りしか無く、たった2回、シカゴやサンフランシスコに降り立った想い出が在るというのに過ぎない。それも、降り立った頃に子どもでも生まれたとすれば、既に子どもが大学に進学するような年恰好という位に以前だ…「そんなあんたにあの国の何が判る?」と言われればそれまでだ。しかしながら、「周辺の建物が建てられている過程を殆ど悉く眺めていた幼少期」という「新興の中の新興という住宅地」で育った自身は、何処となく「大西部の開拓村で育った…」という「19世紀の米国人?」のようなメンタルが奥底に在るのかもしれない。故に「色々な出自の人達、各々の後裔に相当する人達が集まり、より豊かな社会を目指そうと統合した連邦」というようなことに、殊更に浪漫のようなモノを感じて、最近のニュースに触れているのかもしれない。

何やら「大接戦!」な中で、劣勢と言われる現職大統領が投開票への不満をぶちまけているらしい。放送局が、そういう発言が連呼されていた会見の生中継を、聞くに堪えず、後から嘘の垂れ流しで批判に晒されかねないと打ち切ってしまうという異様な事態まで生じているらしい。ここで揉めても“分裂”が拡がって固定されるばかりで、米国の人々の幸福には全く役立たないことは明白だ…

色々と思いながら<ティーチャーズ>を啜っていた。休日の早朝…何をどうして過ごしたものか…

タイミング?

<Qグレード認証 エチオピア>の独特な味のバランスが好ましいと思う。今朝の1杯目として淹れたが、この豆の残量が乏しくなって来た。他のモノが在るので、居室に在って珈琲を淹れる術が無くなると慌てるという程のことも無いが…

土曜日、日曜日は所謂「寝て曜日」に近い感も在ったかもしれない。午前中や午後や、何処となく妙な時間帯に眠気を覚えて眠ってしまい、何となく夜の就寝や朝の起床のタイミングがズレて、月曜日の朝に至っても何となくスッキリしないような気がする。

「タイミングがズレる」というようなこと?考えてみると、存外に多いのかもしれない。

そういうように思うのは、結果として「タイミングがズレる」というようなことが在って、得られたかもしれない何かを得られないままに逃してしまっているというような可能性が認められる事項を時々想い起さないでもないからだ。

そういうような「タイミングがズレる」という中で「逃した?」が多い他方、「ズレているタイミング」の中に在るが故なのか、思いも掛けずに成功した、または成功したような気がするという事項も想い起さないでもない。

総じて、他所の多くの人達が逃していないことをアッサリと簡単に逃してしまったままである場合が多いような気がしている他方で、他所の多くの人達が縁薄いというように思っているかもしれない事柄に何となく縁が在るという場合が見受けられる。自身の人生というのは、そういう感じかもしれない。

「タイミングがズレる」というようなこと?自身の色々なことを何となく振り返って、「あのタイミングであのようではなく、このようであったなら?」という程度の事柄であれば、個人の勝手な夢想や妄想であって、何ら影響が何処かに及ぶのでもないであろう。だが、多くの個人や団体等が絡まる何らかの取組で、例えば決めた期日に結論や方向性を示すことが出来ないとなれば、そういうのは迷惑というものだ。

何かを新たに始めようとする時期が想定されている中で、そういう具合に事を進めようとするために、或る時点で何かを実施するというのも在る。これも「タイミング」だ。

こういう方向にも想いが至ったのは、大阪で、大阪市を4つの特別区に再編して大阪府と一体化してしまうということの賛否を問う住民投票が催され、その案が否決されたというニュースを聞いたからだ。新制度実施を目指す時期から逆算で、このタイミングでの投票実施だったのであろう。

「大阪市を特別区に再編して大阪府と一体化」という件は、以前にも住民投票を行って否決された経過が在った。推進しようとする勢力への支持は、以前の住民投票の辺りから現在に至るまで低い訳でもない中、この住民投票は連敗であるというのは些か不思議な現象のように見える。

推進しようとする勢力への支持が低いのでもなく、大阪市長や大阪府知事がその勢力を背景とする人が選任されている状況だ。であれば、住民投票をして新制度に移行することに拘泥せず、「大阪市の行政区を再編して合理化」とか「“二重行政”とされる様々な事柄を順次解消」ということに関して、市長や知事の任期の中で順次取組めば好いのではないか?

「大阪市の行政区を再編して合理化」と称して区の数を減らして仕事を進め、住民サービスの利便性等が何ら変わらないというのであれば、「特別区へ再編?」としても「構わないのではないか」ということになるような気がする。現状では「A区が消える?」とか「あのサービスはどうなる?」という考え、または感情が前面に出るのではないか?

「“二重行政”とされる様々な事柄を順次解消」と称して、“府立〇〇”と“市立〇〇”とを統合する、一本化するということを進めるというようなことについて、どうしても並立しなければならないモノというのは、多分無いと「他地域の部外者」ながら思わないでもない。これは、北海道のように“道立〇〇”が在って“市立〇〇”が見受けられないという例が多く在る場所なのであれば「問題?」かもしれない。北海道では、例えば札幌市内に“道立〇〇”と“市立〇〇”とが並立しているという例は在るかもしれないが、他では余り聞かない。

それにしても、「他地域の部外者」の勝手な言い分であるが、大阪は「大阪市を特別区に再編して大阪府と一体化」という新制度を採ろうが、現行の大阪府と大阪市とであろうが、「何時でも、何時までも“大阪”」という個性や魅力を放つ地域である。或いは在って欲しい。

何やら「タイミング」ということから話しが弾んだが、“大阪”というニュース関連のことに想いが至ってみると「また…大阪辺りにふらりと…」というような想いが沸き起こる。“何処かへ行きたい症候群”が疼く…

そうしている間に<Qグレード認証 エチオピア>のマグカップは空いた。更に…何時の間にか「11月2日」と月が完全に改まってしまったということに思い至った…

暖房…

<しゃちブレンド>を淹れてみた。気に入っている、バランスが好い感じの味わいが素敵だ。

今朝は居室が「より快適」という感だ。昨夕…とうとう「暖房点火!」ということにした。

“前回”は3月下旬であったか、4月に入っていたか、記憶が曖昧になってしまっているが、久し振りに暖房器具にも用いる灯油を買い足した。拙宅の暖房器具で持ちることが叶うように給油し、「点火!」である。暖房器具も4月頃以来の稼働な訳だが、無事に動いた。

温度設定をして、それを目安に灯油の燃焼を調整するという仕組みの器具である。20℃を切る程度に設定しておいて、常時稼働ということにしておけば、冷え込む夜間などにやや強い燃焼で、室内は「居心地が好い程度」に保たれるという次第だ。

例年のことながら…「こういう時季」だ。例年、拙宅では「暖房点火!」は10月末から11月だ…昨日から今朝の感じは、気温が10℃程度で、やや風が冷たいという感じか?今朝は昨日の早朝のような雨は免れている…

御陰様で快適な居室に在って、悠然と<しゃちブレンド>を頂く。実に好い!!

休日の朝の「妙な事態」…

過日試した「我流のアイリッシュコーヒー」―丁寧にハンドドリップで淹れた珈琲に、目分量でアイリッシュウィスキーを注ぐというモノ…―が酷く美味かった。秋を追い立てるような強風の中を少しばかり歩き、何となく寒々しい感じがするので、それを頂こうかと思ったのだが…珈琲を淹れる以前に、アイリッシュウィスキーの<ブラックブッシュ>の、「中身が少しばかり残っている…」という状態のボトルが眼に留まり、愛用のタンブラーに中身を「ドボっ…」と注いでしまった。

そしてボトルが空に…結果的には「湯茶の替り」に<ブラックブッシュ>ということになったが…湯気こそ立たないが、寒々しい感もする休日の朝に、悠然とアイリッシュウィスキーを啜るのも悪くはない。

「正しい休日」と戯れに言うが、早朝からコインランドリーを利用して、洗濯に勤しんで、作業を終えて引揚げたところである。選択したばかりのスウェットシャツを半袖Tシャツの上に着てみたが、屋内ではこれでジーンズ穿きという位で好い按配だ。戸外に出るには、風除けに上着や帽子は必須だと思う…

休日に利用するコインランドリーは、<市内線>と称する路線バスが行き交う通と、鉄道の軌道を跨ぐ橋のようになっている通が低い辺りに下りて交差する地点の直ぐ傍に在る。大正時代に初めて稚内の街に鉄道が敷設された頃には、「稚内の停車場」が設けられていたという場所に相当する辺りだ。

そこを目指し、洗濯モノを乱暴に詰め込んだ、ネットを自宅で利用するようになるより以前にエアメールで発注した記憶が在る米国の会社による通販で入手した筈の、変に大きなバッグ―想うと、コインランドリーを往復する場合の“専用”になっている…―を提げて「風ニモ負ケズ…」とゆっくり歩いた。

コインランドリーまで…拙宅からは15分程度の道程ということになるか?<市内線>と称する路線バスが行き交う通―それに因んで「バス通」というのが通称だ…―の歩道に出てゆっくりと進み、「もう少し!!あのコインランドリーの前に到ると…実に好いタイミングで“営業開始”の頃合いで、出入口のロックが解かれる筈…」と近付いた。

何か様子が変だった。普段見掛ける範囲では最大級の、大型のトラックとしか思えないモノが見えた。相当な重さの様々なモノを詰め込める、半ばコンテナのような形の大きな箱状の後部が、強力なエンジンを搭載している背が高い運転台を備えた先頭部の下に埋め込まれているアレだ。そういう車輛の後ろ側が「不自然?」と思える角度で「停められている?」というように見えた。

その大型トラックが見える辺りの手前には、「昔の“駅前旅館”の後裔」ということになるらしい宿泊施設が何件か在り、施設の建物前に慎ましい規模の駐車場が設えられ、宿泊施設に滞在するグループを乗せているらしい大型バスが停まっている場合が在る。が、そういう大型車輛が「コインランドリーへ向かって歩道を歩いている」という状態で視える訳でもない。「歩道を歩いている」という辺りで大型トラックの後部が見えるのは、少し変なのだ…

やがて「赤い回転灯」に気付いた。赤い回転灯を灯しているのは、白と黒とのツートンカラーの軽自動車だった。警察車輛である…その警察車輛に乗っているのであろう、制服姿または関係者であることを第三者に伝える目印になるモノを身に着けた人物の姿は視えなかったが…

「事故??」と思いながら、「直ぐ傍のコインランドリーを利用すべく、洗濯モノを詰めたバッグを提げて歩いている」という自身が、警察車輛に乗っているであろう人達―警察官…―にどうこう言われる“不審者”であるのでもないのだから、特段に気にせずに進んだが…唖然として数瞬だけ足を停めてしまった…

大型トラックが交差点近くに在った住宅と見受けられる建物に「突っ込んでいる」という状態で、建物は破壊されで“トンネル”のようになり、大型トラックは「トンネルから頭を出した」という感で泊まり、建物の脇に停めて在ったらしい乗用車の側面が傷だらけになっていた。

流石に驚いたが、そのまま進めばコインランドリーは普段どおりに営業していたので、そのまま普段どおりに歩み寄って利用したのだが…そこは深夜から早朝に発生した、見掛けた人が驚いてしまう程度な事故の現場であった訳だ…

様子を視る限り、鉄道の軌道を跨ぐ橋のようになっている通を進んでいた大型トラックが、その通が交差する<市内線>と称する路線バスが行き交う通に入り損ねて、相当な勢いで直進して住宅と見受けられる建物に突入してしまっていたようだった。大型トラックは“形”が殆ど留まってはいたが…シートベルトを着用していたにしても、運転していた人や助手席に乗っていた人には「一定以上のスピードで走行する、一定以上の自重を有するモノが建物と突き抜けた向こう側の車輛に激突」という衝撃が加わった訳で…相当な負傷という状況であることは想像に難くない。そして、大型トラックが突入した建物の中に在った人達?あの壊れてしまった、大型トラックが通り抜けるトンネルのような様相になってしまった部分で、眠っていたような人でも在れば?それは“悪夢”という以上に表現すべき言辞が見当たらないことに苛立ってしまう…

コインランドリーで、洗濯の終了を待つ間にも、直ぐ傍の異様な状況は眼に入っていた。何処かの放送局のカメラがやって来て、ニュースコンテンツ向けに画も撮ったいたようだった。全く予期しない中、そういう変な状況を偶々目撃というのは、余り気持ちの好いものでもない…

「正しい休日」と戯れに言う「どうでもいいような日常」に、何やら「とんでもない事態??」が刺さり込んでしまったような気がする…寒々しい中で動いて温まりたかったと同時に、「ほんの少し整理しながら、視てしまった異常な事態を少し“客体”のように扱ってしまいたい」という気分が強かったかもしれない…

何となく振り返りながら…<ブラックブッシュ>を満たした愛用のタンブラーは空いた…

何やら「妙な感じ」で始まった休日の土曜日だ…

曇天の朝に想う…

<Qグレード認証 エチオピア>は「今朝の2杯目」となった…芳香と、独特な味のバランスが非常に好い…

「エチオピアの珈琲」と聞けば、何となく「エチオピアへの親近感」というようなことを想い起す。親近感を抱くこととなった最大の切っ掛けは、何時の間にか「かなり以前」ではあるものの、エチオピア出身の方と親しく言葉を交わす機会が在ったということだが、もう一つは鎌倉の禅寺にエチオピアの有名なマラソン選手の言を引いたモノが在ったということだった。ローマ、東京と五輪のマラソン競技を連破―当時は「初めて!」であったらしい…―したエチオピアのアベベ選手は「他の選手と競走しているのではなく、自分との競走なのだ」としていたということで、その言が「自身と向き合う」という“禅”に通じるとして禅寺で紹介されていたのであった。昨日、10月21日…1964年の出来事であるが、そのアベベが「マラソン連破」を達成した日であったということだ…エチオピアの方と言葉を交わした時にも、「日本ではマラソンのアベベ選手が、非常に有名で、彼の母国がエチオピアであるというのも知られている」と話題にすれば、「アベベはエチオピアでは“真の英雄”とされている人物」とのことだった。そんなことを想い出す。

そんなことで<Qグレード認証 エチオピア>を啜って美味いと思っているが、今朝は何となく曇天という朝である。気温は10℃を超えているらしいが、最近の「多少肌寒い…」という傾向に変わりは無いように思う…

このところは、「〇〇のクーポン」だの「〇〇の商品券」だのというモノが色々と出回っているようだ。そういう類のモノに関して、現金と同様にあらゆる場面で使えるのでもないということで、自身では敢えて入手していない。故に使っているのでもないが…最近は色々な場所で発行される様々なモノが出回っているようで、商品やサービスの代価としてこれを受取る人達が、なかなかに煩雑で大変なことになってしまっているかもしれない…

昨今の「〇〇のクーポン」だの「〇〇の商品券」だのというモノに関しては、所謂“経済対策”ということで登場しているモノも色々と在るようだ。

「金は天下の廻り物」ということが在る。「〇〇のクーポン」だの「〇〇の商品券」だのというモノを発行し、それが使われることで「金は天下の廻り物」という状況を創出しようと考えられているのであろう。

「金は天下の廻り物」?であれば、所得税を減らすとか、消費税を期間限定で止めてみるとか、「個々人が使える金を多少増やす」ということを図れば好いような気がする。個人的には、そういうのが有難いような気もするが、こういう考え方は排されるらしい。

理由は?人々が随意に使える金を手にすれば、「貯蓄になる」ということで、「金は天下の廻り物」ということになり悪いというのだ。

こういうことに関して、少し思うことが在る。

人々が随意に使える金を手にすれば、「貯蓄になる」というのが、忌み嫌われなければならないことであろうか?

これは裏返せば、「とりあえず金を預けておく」と誰もが安心して金融機関を利用し得るということに他ならず、「金融機関が信用し悪い=タンス預金」ということよりも、余程好いのではないだろうか?

そういうように思うのだが…他方で「随意に使える金」を「敢えて使わない」ということで「貯蓄」なのであれば?それは「未来」が「不安」ということだ。

「本当に!」という次元で「貯蓄ゼロ」を是認する人は極めて少数派になってしまうと思う。誰しも、思いも掛けずに「少々纏まった支出」という事例は在り得るので、そういうことに備えることを誰も否定し悪い筈だ。が、そういうことで貯める分を「とりあえず増やす…」という傾向ばかりが目立つのであれば?それは「未来」が「不安」という傾向が酷く強いということに他ならないのではないだろうか?

「未来」が「不安」という傾向は、「抑制的な消費」ということに直結しているかもしれない。「抑制的な消費」ということに関しては、或いは「既に必要な色々なモノが備わっているので、敢えてより以上の消費をしなければならない必然性も?」という側面も在るのかもしれない…

「とりあえず金を預けておく」と金融機関に預金が集まれば、金融機関は色々な活動をしようとしている顧客へ融資を行う筈だ。が…有望な融資先が見出し悪くなってしまっているのかもしれない…

「とりあえず金を預けておく」と誰もが安心して金融機関を利用し得ること自体は非常に好いと思う。が、「未来」が「不安」であるが故に、「不意な纏まった支出に備えよう」という次元を通り越した感じで、貯金に精を出すというメンタルが在るなら、それは大きな問題だ。金融機関で、とりあえず預金が集まったにしても、「金は天下の廻り物」と融資が巧く出来ないのであればそれも問題だ…

結局?「金は天下の廻り物」ということになり易いようにと「〇〇のクーポン」だの「〇〇の商品券」だのというモノを色々と出したにしても?効果は限定的なのではないか?

「未来」が「不安」だと「必要以上?」に思わず、随意に使える金を手にすることでもあれば、「自身が心豊かに生きたと思えるように金を遣おう!」とでも「考えられるようになる」というように仕向けることが求められているのではないか?

「〇〇のクーポン」だの「〇〇の商品券」だのというような話しだが…個人的には、話しを聞く都度に「発行することや、発行する仕組みを構築すること等“自体!”が真の目的??」と感じないでもない。

そんなことが思い浮かび、何やら珈琲の苦味が心持ち増したような気もしたが…<Qグレード認証 エチオピア>のマグカップが空いた…

暗い朝…

今朝の1杯目は<Qグレード認証 エチオピア>ということにした…芳香が心地好いが、苦味以外の珈琲らしい味の諸要素が交った感じが美味い…

何時の間にか10月も「後半」になり、直ぐに「下旬」ということになってしまう…最近はこういう具合の「何時の間にか〇〇になってしまった」という表現が出て来る場面が増えたような気がする。「〇〇をした」という充足感のようなモノを得られる事例が少なくなっているという裏返しなのかもしれない。が、他方で「何をしたということでもなく…」という“無為”が、或いは「生物の中で人間だけが持ち得るのかもしれない?」という、「尊い?」かもしれない時間と思わないでもない。そういう時間が重ねられ、「何時の間にか〇〇になってしまった」となるのかもしれない。

過日、言葉を交わした方は九州地域に縁が深いということだった。彼の地での12月から2月頃の「明確な冬季」の気温、感じる寒さというようなモノが、「最近の稚内の状況」と話し合って笑っていた。そんなことも在ったが、何やら不意に「季節が動いた」というように感じる昨今だ。

「季節が動いた」というように感じられる事項としては、「明るさ」が在る。自身では「夜の残滓」と表現するが、「早朝の暗い時間」が「少し長い?」と思うようになった。夏至を過ぎれば、日出の時刻は少しずつ遅くなっている訳だが、長くそれを然程意識しない。そして「如実に?」という程度に変わった頃に至って漸く「早朝に明るくなる時間帯が遅くなった」と明確に自覚する訳である。

そういうことで…夏季までの“早寝早起き”な傾向は然程変わらず、夏季に眼を開けていたような時間帯に起き出すが、「夜の残滓」と表現したい状態が続く訳だ…

そんな中でとりあえず「美味い珈琲」ということになる…そしてマグカップの中身は空いた…

早朝に…

<Qグレード認証 エチオピア>を挽いて淹れた「今朝の1杯目」が酷く美味い気がする。居室の中で立ち昇る芳香と、苦味以外の「珈琲の味の様々な要素」が華やかに交じり合ったというような感が心地好い…

今朝は何となく雨が交っていた。昨日より少しだけ雲は薄いかもしれない。が、最近は天候が変わり易く「秋」の深まりを多少意識せざるを得ない。

随分以前に“親父殿”が、伯父の言に「なるほど…」と思ったとして話していたことが在った。「昔…“飛行機で出掛ける”とでも言えば、総理大臣か何かから勲章でも頂くかのように確りと礼服を着て出掛けなければならないというような“大事”だったような気がする。最近?その辺の店に牛乳を1本買いに行くような普段着姿にサンダル履きで空港に出掛けて、そのまま飛行機に乗って旅行して差し支えないというような感じかもしれない…」とである。

本当に「空の旅」は手軽に、気軽になっていると思う。“親父殿”や、その兄である伯父の世代が言う「昔」とは、昭和30年代、昭和40年代というような感、1960年代に入る前後から1970年代の前半位までを指し示しているような気がする。そこまで遡らない、そういう時代を「昔」と感じる世代の息子であり甥である私自身の世代が「昔」と感じるような1980年代や1990年代辺りと比べても「空の旅」は手軽に、気軽になっていると思う。近年は、とりあえず“正規”ということになっている運賃よりも安価な料金で、ネット予約等で航空券を入手して、訪ねた先で改まった席が在るというのでもなければ、「近所を一寸動き回る普段着そのもの」で特段に荷物らしい荷物さえ持たずに、酷く気軽に空港に行って「近所でバスや鉄道を利用する」ということに近い感覚で飛行機に乗って出掛けることが出来てしまうように思う。

こういうようなことを不意に思い出したのも、LCCの<エアアジア>という会社のニュースを視たからだ。<エアアジア>は残念ながら利用したことは無い。LCCの範疇になるモノでは<ジェットスター>を何回かと、<ピーチ>を一度利用したという感じだ…

この会社は国内線3路線と国際線1路線を運航しているのだというが、12月にそれらを「廃止」とする手続を進めているのだという。飛行機を運航する、路線の権利を返上してしまうということになるのであろう。

会社が合併したり、破綻の危機で再建というようなこと等、色々と在ったが、古くからの大手航空会社が在る。そして元号が平成になったような頃に現れた新興航空会社が在る。更に低価格を前面に押し出したLCCと呼ばれる航空会社が在る。近年はこのLCCに勢いが在ったように見えていたが、今般「(路線の)廃止」ということに踏み切ったのはこのLCCの一つだ。

LCCは低価格で高い搭乗率が維持されることを前提にして運営されているのだという。最近の諸事情により、その「前提」が崩れてしまったということなのであろう。

LCCに関しては、旅客の往来を増やす一因になり得ると注目されていた、或いは―最近の諸事情で目下は動きが余り無いにしても…―現在でも注目されているのかもしれない。しかし、この<エアアジア>の例のような「路線を維持出来ないので運航そのものから手を引く…」という話しが出て来ると、「これからどうしようか?」ということにもなって来るであろう。

LCCは「かなり極端?」な運賃の券も一部に売っているようだが…空路に限らず「交通費は知れている」ということなら、旅客が動き回り易くなる契機とはなるのかもしれない。そうやって動き回った旅客がどうするのか?

少し前まで、北海道内では札幌や旭川に用事で出る場合、「宿泊が…取れない!取れそうなのは、なかなかに高級な場所か、値段が随分と跳ね上がっている場所…」ということが余りにも多かった。そういうようになるので「思い付きのような形では、敢えて出掛けない」という感覚になってしまっていた。最近は宿泊施設の数がさり気なく増えたとか、「最近の諸事情」で需要が鈍化しているという感の中、「思い付きのような形」で出るようなこともやり易くなったかもしれない。

何かこの例に限らず、少し前まで例えば「4万人定員の野球場に、無理に5万人入れた。グランドに人を入れたので試合は出来ない」というような状況を思い浮かべる程度に、とりあえず旅客の数がドンドン増えるばかりで、「旅行?意外にやり悪いなぁ…交通費は知れているが…」というように、或いは「旅行?混まない時期は何時??」ということばかり思うようになってしまっていたような気もする。

何時の間にか「随分と時間を経た」というような期間に亘って、もしかすると「旅客の往来の“数”を増やす」ということにばかり眼が向いていて、「で、動いた人達はどうする?どうなる?」は後手に回ってしまっていたのではないだろうか?低価格で高い搭乗率が維持されることを前提にして運営されているLCCのようなモノが「運営が…」というようになる程度に旅客の往来が落ち込んだのであれば、今こそ「で、動いた人達はどうする?どうなる?」を考えようとするべきなように思う。

とりあえず「旅客の往来の“数”を増やす」ということにばかり眼を向けていたかの感な中、最近の諸事情で“数”が従前程に伸びないようになっている。であれば?「用事が在ってどうしても動く」という以外の「思い付きのような形」で動くことが許容されるような雰囲気を創るとか、「一寸出掛けてみようかな?」という想いを盛り立てるとか、尊重するというような、そんなことを考えてみるべきではないのか?

そんなようなことを想っていて…<Qグレード認証 エチオピア>のカップが空いたので、さり気なく「今朝の二杯目」でバランスが好い<しゃちブレンド>を淹れて頂き始めている…

曇天の早朝に…

<Qグレード認証 エチオピア>という、昨夕に名古屋から拙宅まで届いた珈琲豆を挽いて淹れているのだが、これが酷く好い!このところは気に入ったブレンドを色々と愉しんでいたが、久し振りに「シングルオリジン」(「特定し易い単独の起源」という程の意味であろう…)というようにも呼ばれる「〇〇の豆」と限定されたモノを使っている。今般は「エチオピアの豆」ということになる。

エチオピアに関しては、何時の間にかかなり古い話しになったが、親しく言葉を交わした方がエチオピアからやって来た方だったということが在って、勝手に親近感を持っている。更に、学生時代に訪ねた鎌倉の禅寺で、他の選手と競い合うのでもなく、自身と競うとしていたという、エチオピアの有名なマラソン選手の言が紹介されていて、“徳”の一つとされるかもしれないような「克己」というような考え方に国や地域や人種は無関係だと気付かされたということが在って、何となくエチオピアに敬意のようなモノも抱いている。

そのエチオピアから幾つもの海を越えて日本国内にやって来た珈琲豆…気に入っている<しゃちブレンド>を手掛けている名古屋の業者で焙煎されて、それがまた海を越えて拙宅に届いた訳だ。所謂「エチオピアのモカ」というモノで、苦味以外の「珈琲の味の様々な要素」が華やかに交じり合ったというような感だ。「公約数的な珈琲の味」とは少しだけ異なるような気がするというのがこの豆であるが、私はこういうのも好きなのだ。今朝は早朝から既に2杯目である…

耳目に触れた些細なことが少しばかり気に掛り、何度か何となく思い起して考えている間に、「こういうモノは概して?」と或る程度「“一般論”??」というような体裁に考えが纏まる、または纏まったような気になる場合が在る。

どういうような業種の、どういうような業務であれ、「人の異動」ということは「特殊な例外」でもなければ必ず生じる。

その「異動」に際して「(前任者の)継承」というようなことを耳にする場合が非常に多いように思う。

例えば、「前任者が気に入らないから!」と何でも「止めろ!」、「変えろ!」ということでも始めると、無駄な混乱が生じて方々に御迷惑というだけのことに陥るかもしれない。勿論、異動を契機として「少し立ち止まって考える」というようなことをして、「こういう悪いことをやってしまっている…」というようなことでも在るなら、それは「とりあえず止める。そしてより好いやり方に改める」ということをしなければならないのであろうが。

そういうように思う他方、「異動」に際して「(前任者の)継承」というようなことを耳にする時に思うのは、「“継承”を謳う程に価値が高いことが積み重ねられていた訳か?」ということである。

恐らく様々な事柄は、「間違ってはいないのかもしれないが、と言って好いとも思い悪い」という例と「間違いが在るかもしれないが、それでも好いと思える」という例に大別し得るのだと思う。

極個人的には、多分“後者”を「より善い」と考える傾向が強いかもしれない。しかしより広く採用されるのは「間違ってはいないのかもしれないが、と言って好いとも思い悪い」の側であろう。「間違ってはいないのかもしれない」のなら、それで「善い」という訳である。

だからこそ、「異動」に際して「(前任者の)継承」というようなことを耳にする場合が多いのであろう。

無駄な混乱や御迷惑というのは無用かもしれない。が、「異動」ということを契機に「それが善いか?」、「より佳いことが在るのでは?」、「本当に好いか?」と「少し立ち止まって考える」というようなことが、もっと在っても構わないのではないだろうか?

更に踏み込めば…「明確に“間違い”とも言い悪い」ということであれば「だからこれはこれで善い」という「ことになっている」というのが、余りにも多いのではないだろうか?そういうような気がして、「異動」に際して「(前任者の)継承」というようなことを耳にする場合、殊に「継承」を「謳っている?」というように感じられると「?」と何となく思うのだ。

このところ、広い意味で「異動」に類する話しが何件か耳目に触れた中で、何となく考えていた。

曇天の故か、少し暗い早朝であるような気がするのだが、一寸調べれば、何時の間にか日出時刻が5時半を伺うような時間帯になっているのが最近の状況である。少し前の感覚が残る中での「少し暗くないか?」という感じ方でもある訳だ。

何となく考え事をしながら啜っていた<Qグレード認証 エチオピア>の「2杯目」…もう直ぐカップが空いてしまう…

天候が多少好転?

<大阪ストロング>は今朝の2杯目となった…奈良で求めた「テイクアウトの珈琲の容器」という外観のカップに注いで頂いているが「喫茶店で珈琲を頂く…」というようなことが流行り始めた昭和の初めの方に大阪の喫茶店の関係者が工夫したという「非常に濃い感じ…」のモノの流れを汲むという苦味が気に入っている…

「大雨への注意喚起」ということが為されていたが、今朝の現在時点では「やや明るい曇天で、些か雨が交る場合も…」という感じだ。昨夕から夜遅くに雨が断続したというのは、空き地や道路の少しばかり凹んだ辺りに小さな水溜りが見受けられることや、道路が湿っているという痕跡が在るので察せられる…

気温は15℃程度であるようだ。居室内ではジーンズ穿きに長袖Tシャツというような感で寛いでいるが、戸外に出るとなれば「もう一枚何かを引掛けて…」という感ではある。が、何を選ぶべきなのか、些か迷う…

迷うと言えば…最近は理解に迷う「カタカナ語」というようなモノが酷く増えているような気もする。外国語を学んでみようと、見聞きした単語等をノートに書き出すというようなことをした覚えが無いでもないが、或いはそういうようなことでもしなければ最近の溢れる「カタカナ語」に追い付けないかもしれない。

自身としては極最近に耳にしたのだが…<ワーケーション>という表現が在るらしい。「ワーク」と「ヴァケーション」であれば何となく判る訳だが、この両者が合わさって「ワーケーション」なのだそうだ…

どうもこの<ワーケーション>というモノは<テレワーク>が前提になっているようだ。

<テレワーク>は特定の職場に関係者全員が一定の時間帯に集まっているということでもなく、通信回線を介した<オンライン会議>で打ち合わせをして、必要な資料や報告やその他諸々を自身が居る場所から送信する、また受信するというようなことで仕事を進めるという概念である。

この<テレワーク>で、特定の職場に足を運ぶ必然性が殆ど無いということであれば?気が向いた時に、普段の住まいを離れて、何処か居心地の好さそうな地方に行って滞在し、そこで仕事をしても差し支えない筈だ。更に、仕事そのもの以外の時間に滞在する土地で好きなことをして過ごす、更に休み中の家族等を呼び寄せて共に過ごすというような、ヴァケーションのような感覚が入り込む余地も在る筈だ。

そういう訳でこの<ワーケーション>なる概念が出て来たようだ。

<ワーケーション>なるものが盛んになれば?人口減少も見受けられるような方々の地域へ、大都市圏に住んで働いている人達が積極的に行くようになるであろうか?それを期待して方々の地域で「誘致合戦」でもするのか?

その種の論も聞こえるような気がしているのだが、或いはそれば「過大な期待」で「時期尚早」というように思える。そして「耳慣れない語」というモノが含む「実際以上に新奇に視える」という妙な効果が強過ぎるのかもしれない。

最近の、殊に大都市圏での<テレワーク>なるものの流行りは、人が沢山集まることが少し好ましくないという考え方の中、通勤等の交通手段が混み合い悪くなるようにという意図等で急速に導入されている感である。が…通信関係の技術発展という中、ずっと前から「個人的な事情が在る人達が仕事に参加し易い仕組み?」と<テレワーク>的なことを一部容れるような考え方は在ったのではないだろうか?そしてそれが少し大掛かりに拡がったのが最近の様子なのではないだろうか?

更に「職場から数百キロメートル、それ以上も離れた場所に半ば常駐で差支えが無い」という程度に、抱えている事案等の殆どを<テレワーク>ということにして差し支えないという事例?実は然程多くないのではないだろうか?

そのやや数が少ないかもしれない「抱えている事案等の殆どを<テレワーク>ということにして差し支えない」という人達の一部で、「仕事そのもの以外の時間に居心地の好い場所で好きなように過ごしたい」と、何処かの地方に乗り出してしまうという例が発生し、それを誰かが<ワーケーション>なる表現で呼び始めたというのが「正体」のような気がしている。

<テレワーク>なるものが実施されている場合の多くは、「一定頻度で職場に集合」という枷が在る筈で、「事案等の殆どを<テレワーク>ということにして差し支えない」ので「職場から数百キロメートル、それ以上も離れた場所に半ば常駐で差支えが無い」とはならないのではないだろうか?

「<テレワーク>の普及」とでも言えば、「事案等の殆どを<テレワーク>ということにして差し支えない」ので「職場から数百キロメートル、それ以上も離れた場所に半ば常駐で差支えが無い」ということになるような気がしてしまう。この「気がしてしまう」に依拠して、「お宅の<テレワーク>をこの地方に来てやってみませんか?」とでも問い掛ければ、「その地方で営業が…」と企業誘致の呼び掛けに関する返答のような話しが在る筈だ。

「ワーク」はどうでも構わないが、何となく「夏は涼しい北海道に在って、秋は紅葉の美しさを追い掛けて各地を巡り、冬は風雪が厳しいでもない西日本に春まで居て、暑さを避けながら夏に向けて北海道へ」というような、「何時でも居心地が好さそうな場所に在るような暮らし」が叶うのであれば、実に好いのであろう等と思う場合も在る…

そういうことを想っていた間に<大阪ストロング>が空いてしまった…今日は一寸戸外へ出る予定も在るが、天が少し明るくなって来ている。好いことだ…

曇天…

<しゃちブレンド>は今朝の2杯目となっているが、相変わらず好い感じのブレンドであると思う。

1杯目は<アロママグ>と称する、旭川で仕入れた赤いマグカップで頂いた。2杯目は奈良で仕入れた、「持ち帰り用カップ」のような感じになっている黒いカップで頂いている。器を変えて気分はほんの少し変わっているのだが、味わいに差異は無い…「淹れ方」も少し安定しているということかもしれない。或いは好い傾向だ…

今朝は雲が多く薄暗い。昨日のように一部に日出時刻前の朝陽の光による天への干渉が見受けられたというのでもない。敢えて天の様子や海の様子を眺めに「極々短い散策」に出るまでもないと考え、何となく珈琲を淹れて頂きながら過ごしていた。何か、眠っていた間に些か雨が交ったという痕跡も認められる朝だ。戸外の様子を伺うと、道路面が少し濡れていた…

少し前に、少し知られた俳優が他界したという報が伝えられていた。こういう報に触れる時、時々気になるのは故人の享年だ。自身の年齢より若いような場合には殊に気になる。「XX歳?その頃はどうだったか?」という程度に何となく思うのだ…

他界するという場合、その事由は様々であろうし、個人差も色々と在るのだと思う。80歳代半ば以降であれば、広い意味で老衰ということになるのだろうか?他は疾病、負傷ということか?稀にそれらに該当しない場合も在るのかもしれない…

何処かの方の訃報や享年ということに触れ、「XX歳?その頃はどうだったか?」と何となく思うと同時に、「手近な人達の悲嘆」を想像して気持ちが曇る場合も在る。敢えて「手近な人達」と表現したが、そこには家族や親族の他に、他界した方の生涯を通じて少しなりとも縁が在った様々な人達を含んで考えたいという意図だ。

少し以前まで、自身ではこういうような問題意識を殆ど持たなかったと思う。2017年11月に、一寸不手際というのか、不運な状況が生じて負傷してしまった経過が在って少し経った頃から、こういうことに意識が向くようになったのかもしれない。

正直、少し前に眼に留めた、少し知られた俳優が他界したという報のようなことに関して、従前は眼に留めることも無かったと思う。かなり好きな作品に出演していた著名な俳優や、大好きな楽曲で知られるミュージシャンの訃報ということなら「残念!それでも、或る時に何処かにふらりと現れてくれそうな気がする…逝去が受け容れ悪い」という程度に思う場合は在った。が、それは寧ろ例外的な感じ方だったように思う。

2017年11月に負傷してしまった際には、傷そのものが癒えた後、「こんなモノであろう…」という程度に恢復し、医師に「大きな問題は無い」と断じて頂いて一件落着になるまでに想像以上に時間は要した。が、その間は些かの不自由は強いられたものの別段に不都合という程のこともなく暮らしていた。そしてそういう中で、「あの時の状況?もっと面倒な負傷という場合も在り得た?であれば未だに治療中??変な場所を強打して落命した場合も?!」という変な事も思い浮かんだ。

そういうことを通じて、何となく「“今、ここに在ること”に関して、何かに感謝の意を表することもしなければなるまい…」という程度に思うに至った。或いは、時にそういうことを思い出すということで、より平穏に「少しなりとも心豊かに」という程度に思えるようになっていると、自身で勝手に考え得るようになっている気がする。文字どおりの「怪我の功名」というモノか??

それにしても、或る程度注目されるような方が「XX歳?その頃はどうだったか?」と思うような年代で他界ということ自体が残念だが、疾病や負傷に該当しない場合らしいと伝えられているというのは非常に気持ちが曇る。

少し位気持ちが曇っても、可能な限り晴れやかな気分で過ごしたいとも思うが…雲が多い感ながらも、一部に明るい天が視えるような感じに天候が移ろいつつ在る様子が伺える。悪くはない…

そんなことを想っていた間に、2杯目の<しゃちブレンド>の残りが少なくなって来た…3杯目は<大阪ストロング>とすべく、湯を沸かし始めた…

俄かに…

<しゃちブレンド>の芳香、適度な苦味、その奥に拡がるような諸々の要素の何れもが好い感じだ。朝にゆったりと気に入っている豆を挽いて、ハンドドリップで淹れてみて、珈琲を啜るのは心地好い。

雨が交る次元ではないが、雲が多く薄暗い朝を迎えている…

戸外の様子を伺おうとし、少し「吃驚!」という感だった。半袖Tシャツを着て裏地の無い上着を引掛けて戸外に一瞬出て、「寒い?」と瞬時に屋内に引っ込み、その辺に在った長袖で生地が少し厚いパーカーを着て、改めて戸外に出てみて「まぁ、こんな按配…」と落ち着いたという状況だった。

いきなり15℃程度の気温になり、少し冷たくも感じるような風で、数日来の温く湿った空気が吹き飛ばされてしまったかのような感だ…今朝はやや暗く光が解き放たれた感は薄いが、日出時刻は5時を過ぎるようになったようだ。夕刻の日没は午後6時を待たないという辺りになっている。何時の間にかではあるが、着実に季節は動いた訳だ。

昨日は、強弱の幅が広い変化を伴いながら、雨が断続していた。そういう状況下、何となく戸外へ出ようとすると、そのタイミングで「少し雨の降り方が?強まった?濡れる?」ということになる場合が在った。

雨中に戸外に出れば濡れてしまうのは当然で、厭う程のことでもないと個人的には思う…「雨の中を歩いて濡れない」ということであれば?昨日、不意に思い出して笑い話になったのが『妖怪人間ベム』という古いアニメ作品だ。ハットを被ってコートを着込んだ劇中のベムが雨が降り頻る夜に歩き廻っている様子が出て来ると、何やら「雨中を歩く身体が雨を弾いてしまっている?」というように見える画になっていた。あの劇中人物が「雨には濡れない」という設定になっていたか否かは記憶しないが、「雨の夜に降り頻る雨を弾いてしまうような感で歩き廻る」というのがあの劇中人物のイメージのように思う。

昨日も夜に至ってしまえば、日中から夕方までの断続する雨が止んでしまい、濡れていた路面は直ぐに乾き、そして朝に至っているような感だ。

最近、時々思う。

「間違い」と「間違いではない」というモノが在る。「間違いではない」ということであれば、それが「好い」のか「好くない」のかということになるであろう。更に、殊に「好くない」と感じられたような場合には「正しいのか?」というように考えてしまう場合も在るかもしれない。

例えば…或る事案に関して100人の人の耳目に触れたとする。多分100人中の10人位は、事案に全く無関心で、数の中に入らない感になってしまうことが多いであろう。残る90人の中で、80人位が「十分なモノではないのでは?」と思い、10人位は「十分だ」と思ったとする。

こうなると多数派の「十分なモノではないのでは?」という論が容れられ、何か手が施されるというように思えるが、その限りでもなく「十分だ」という「ことになっている」というのが存外に多いのではないだろうか?「十分なモノではないのでは?」も「十分だ」も、少なくとも「間違いではない」ということではあろうが、「何れが正しい?」は、何れも「間違いではない」という状況である以上、結論は何時までも出ない。

「十分なモノではないのでは?」という論に依拠して、何かの手を施すという経過が生じても、「十分だ」という「ことになっている」として途中で施す手を停めるようにしてしまい、「十分なモノではないのでは?」という論が封殺という場合さえ在るかもしれない。これも「十分なモノではないのでは?」も「十分だ」も、少なくとも「間違いではない」ということで、「十分だ」を「正しい」という「ことにしてしまって」も差し支えないという訳だ。

少なくとも「間違いではない」として、「正しい」という「ことにしてしまって」というのが少し多い状況?こういうのを変な“同調圧力”が高い状態と呼ばなければならないのではないか?

今日は9月11日だ。多くの人が「何の映画かと…」と驚き、「“現実”の出来事のようには思い悪い…」という程度に感じた<同時多発テロ事件>が発生した日だ。2001年のことだった。あの事件は米国での出来事なので、精確を期せば、日本時間の9月12日なのだが…

21世紀を迎え、<同時多発テロ事件>のようなオカシな事態も発生した中、何処となく「変な“同調圧力”」とでも呼ぶべきモノが「高まり易い」というような、何か名状し悪い違和感のようなモノが「世界情勢のどうしたこうした」という辺りから、「極々手近な辺り」に至るまでに少しずつ拡がり、浸透して行った…というような気がすることが在る。

オカシな事態を引き起こしてしまった連中は憎まれて当然かもしれない。が、その連中と近い地域の出身であるとか、近い人種であるとか、そういう地域の出身者や人種が有している文化を受継いでいるということで、憎しみめいた眼差しを向けるのは不当だ。が、それも可であるかのような「変な“同調圧力”」があの頃は在ったかもしれない。他方、そういう中で「それはオカシイと思う」と発言した、何かの分野で一定程度の知名度を有するような人達も在った…

こういうようなことを「簡単に忘れないようにしよう」というように何となく想う…

そんなことを考えていた間に<しゃちブレンド>を満たしたカップは空いてしまった。

温く湿った朝に…

<しゃちブレンド>が好い感じだ…バランスが好いブレンドだと何時も思う。

居室内に、温く湿った感じの空気が籠っていた感であったが、早朝から窓を開けて換気を試みると、程好い感になって来た。気に入った珈琲を淹れて、ゆっくりと啜るにも心地好い程度かもしれない。

昨夕は<黒白波>を多少頂いてから夕食を愉しみ、早めに休んだが、深夜に眼が開いた。そして何やら居室内の空気が温く湿った感じであったので、少しばかり戸外の空気に触れてみた。そして直ぐに休んだが、また眼が開いた…

そういうことを何度か繰り返していると、“深夜”と言うよりも“早朝”と言う方が似つかわしい時間帯に入った。やや雲が多いような感の天候だ。気温は20℃を少し超えているらしい。暑さに倦むような地域へ行けば、「冷房設定温度より低い?」という次元かもしれない。戸外の空気に触れるにしても、ワークパンツ穿きでタンクトップをアンダーウェアに長袖シャツを着るというような服装で、とりあえず程好い感じだ。

このところは、何となく多目な枚数の写真を撮り、ゆっくり整理をしている中で更に別な機会を設けて多目な枚数の写真を撮り、「整理が追い付かない」というような具合になっている。何も「後ろ」というのか、「締切」が在る事案でもないので、どうでも構わないのだが。「後ろ」というのか、「締切」が在る事案でもあれば、それは「おい!〇日までに何とかしてくれ!!」ということにもなるであろうが…

何時の間にか酷く定着していて、「そう言えば…何時頃から、盛んになった?」と不意に思い、思うのは構わないが結局「何時頃から?」が判らないというモノが色々と在るような気がしている。

例えば…「内閣支持率」というのは如何か?用語や概念は在ったのかもしれないが、高校生位の頃には聞かなかった気がする…その後も「全く聞かない…」という程でもないが、然程頻繁に聞いたのでもない気がしている。それが何時の間にか、随分な頻度でこの用語が登場し、何処となく「支持率の上下に一喜一憂?」というような感さえ抱いてしまうようになっていた。

最近、内閣制度というモノが登場して以降として最長の期間に亘って任に就いていた首相が退任を決めた。そういう事情で、次期の与党代表を選出する過程が始まって、現在はその各候補者に関する支持率というようなことが話題になっている場合が目立つように思う。が、少なくともその首相の任期であった7年間余り、更にその少し前位の別な首相達の任期には、半ば定例的に、方々から色々と出て来る関係で「かなり頻繁?」というようにも感じたが、「内閣支持率」ということが論じられていたような気がする。

しかしこの「内閣支持率」とは何なのか?実を言えば…自身、よく判らない。判らないので「そう言えば…何時頃から、盛んになった?」と不意に思ってみたりするのだ。

結局、「移り気な大衆の中での人気度」というモノの域を出ない指標のような気がしてしまう。「人気度」は「何に着手したか?」、「何を成し遂げたか?」、「何が出来なかったか?」、「何をしなかったか?」という材料と、実は然程関係が無いのではないか?そして、政府のやる事というような次元になると、着手して、その影響や成果とか効果と呼べるモノ、或いは不始末と言わざるを得ない結果に至ってしまうまでに時間も要する筈だ。

そんなように漠然と思うので、何時の間にか酷く定着している「内閣支持率を論じている様子」に、「知らない外国語の会話が漫然と耳に入り込む際に似た“雑音感”」というようなことを感じてしまう。

極最近の、次期の与党代表を選出する過程の中での、各候補者に関する支持率ということに関しては、この種のモノは「移り気な大衆の中での人気度」という域を出る筈が無いと教えてくれるような気がする。好意的な人物紹介が少し盛んに流れたと見受けられる候補者が支持率を急上昇させているというのが明らかであるからだ…

時々戯れに言う…「数字は嘘を吐かないが、嘘吐きは数字を弄ぶ」とである。

そんなことを漫然と想っていれば、<しゃちブレンド>を満たしたカップの残りも少なくなって来た…温く湿った空気という朝…ゆったりと過ごしたい感だ…

朝?

<しゃちブレンド>が非常に美味い…方々で美味い珈琲を供する場所を見出して、そこで珈琲を愉しむということもするのだが、それはそれとして、拙宅で豆を挽いてハンドドリップで淹れて、愛用している<アロママグ>に注いでからゆったりと頂くのも格別だ…珈琲のようなモノは、「各々に美味い」をそれぞれに愉しめば好いという性質のモノだと思っている。

札幌に出て所用を足して、交通事情ということもあるが、日付が変わるような頃に稚内に到着する列車で移動し、拙宅に引揚げて程無く日付が変わったというような中、昨日は何やら一日中「多少の消耗感…」のようなモノから免れ悪かった。そして、夕刻は何となく軽いモノを摘まんで、今時の小学生が宿題に勤しむか、何事かに興じているかであろう時間帯に就寝してしまった…

そして…「深夜の残滓」というような雰囲気の時間帯に何となく起き出してしまった…そういう中で<しゃちブレンド>をゆっくりと淹れた訳である…

最近の様子は「夏の残滓」というのか、「不意に“帰省”している夏」というような気がする。「冷涼」を常とする稚内に在っても、何となく7月や8月の「夏」という範疇に入っている時季以上に「夏??」と感じるような空気感が漂っている気がする…8月に「20℃以下」が続いていたのだったが、9月の現在は「20℃超」という感じだ。そして、何となく空気が湿っている状態でもある…

このところは“台風”というニュースが随分と伝えられていた。あの種のモノは続く時には続く…「冷涼」を常とする稚内に在っても、何となく「当地として」気温が少々高目に思えるのは、その台風の影響なのかもしれない…

そういうことを想っていれば9月9日であった。

「9月9日」というのは、時代モノの小説等には一定程度の頻度で登場するのだが<重陽の節句>ということになっているそうだ…

古来、奇数は縁起の良い陽数、偶数は縁起の悪い陰数と考え、その奇数が連なる日を祝うようにしていたという。3月3日、5月5日、7月7日、9月9日というような日が該当する…

9月9日に関しては<重陽の節句>と称し、平安貴族達は、薬草としても用いられ、延寿の力が在るとされる菊を愛でながら過ごしたという。旧暦では9月9日は現在の10月頃で、菊の花が好い時季でもあった訳だ…

貴族ということではない庶民の間では「9日(くにち)」が転訛して「くんち」となって、秋の収穫を祝う祭りになって行ったのだという。9月9日を由来とするが、現在では10月に<くんち>という祭りを開催している地域も在る。

<重陽の節句>と言ってみても…「だから?」という感も否めないのだが、とりあえず「古くは何やら祝い事をやっていた日」ということを何となく思い出したというだけのことだ…

そんなことを思い出していた間に<しゃちブレンド>のマグカップが空いた…今日は…朝の時間をゆったりと過ごしたい感だ…

深夜に…

中途半端な温度の缶入りアイスコーヒー(無糖)を啜る…旭川駅周辺で、列車に乗る前に3本求めた飲物の1本が残っていた。稚内駅で下車後に拙宅に持ち帰ったのだ。

湿って温い空気が拙宅の居室内に籠っていた…窓を開けて換気をしている。

午後8時頃に旭川駅を出る列車に乗ると…日付が改まる少し前に稚内駅に着き、拙宅へ引揚げて一息入れると、何となく「日付が改まって少し経って…」という時間帯に入る。

或る程度定例的な所用を足しに出掛けたのだったが…所用が月曜日であることから、例によって週末を絡めて多少の「御愉しみ」という過ごし方もした。今般は…出先が少々暑い感じで「無理は避けよう…」という気分が働いたかもしれない。

列車の中では眠ってしまった…士別駅を出た後…天塩中川駅の辺りまでの記憶が無い…深く眠ってしまった感だ。そんなことも在って、居室に帰着後に直ぐには眠れない感だ…

何となく啜っていたアイスコーヒー…空になってしまった…

雨交じりな休日の朝…

<アロママグ>に満たした<しゃちブレンド>を静かに啜ってみる。美味い…そして、一つ用事を足したことと、やや悪い天候の中を歩き廻って戻ったことの安堵感が加わり、何時ものバランスが好い感じの<しゃちブレンド>がより美味く感じられる。

「強めな雨?」というような予報で、昨夕辺りは「注意喚起?」という話しも一部に在ったと聞く。眠ってしまったような頃から雨が降り、そのまま現在に至るまで、強弱を変えながら断続しているということのようだ。曇天の薄暗い感じが昨日から継続中だ。気温は然程上っていないが、何やら湿度は少々高めで「シャワーを何分間か使用した後のバスルーム」という感じのやや穏やか目な状態が普通の室内に生じているという具合に感じている…

休日の朝…余りに雨が強ければ諦めようとも思ったが、結局は「開店=6時」を目掛けて朝からコインランドリーへ足を運び、ゆったりと洗濯に勤しんで拙宅へ引揚げた。早目な時間帯から「真面目に働いた」という気分だ…と言って、洗濯から乾燥まで一貫して可能という機械に洗いたいモノを放り込んで、料金を投入してしまえば、後は読書に興じる、直ぐ傍のコンビニで朝食らしきモノを求めて一寸頂くというだけのことだ…それでも、日頃から怠惰な暮らしぶりなので、「真面目に働いた」という気分で居るのは失笑してしまう…

昨日の午後辺りから少々話題になっていたが、何やら首相が辞任することにしたらしい。所謂「引責辞任!」というようなことを一部に声高に叫ばれたというようなことは多々在った気がするが、健康上の理由という御話しだ…「そうですか…」という感だ…

「後」はどうなるのだろうか?間もなくその件で少しばかり賑やかになって行くのであろう。最近の様々な事柄に関して、漠然と「或る日感じた、名状し悪い“違和感”のような何かが拡がり、染み込み、状態がかなり進展している?何時の間にか、そういうのが随分長くなった気もする…」というように感じている面が在る。更に拡がり、染み込むのか?“違和感”のような何かが拭われるのか?その辺は未だ全然判らないような気がするが…

未だ「休日の朝」という気配に包まれているが…それでも「休日に少し好いことを既にやった…」と安堵と満足の中に在る感だ…

それにしても<しゃちブレンド>が美味い…

解き放たれない光…:早朝…:稚内港北防波堤ドーム(2020.08.17)

↓雲が多い早朝であった…雲に光が遮られてしまい、何やら暗いような気がしたが…戸外が酷く暗いという感でもない…
17-08-2020 morning (8)

↓厚めな雲が滞留している脇をドンドン雲が流れ、時折、雲の間に下弦の月が覗いていた…
17-08-2020 morning (13)

↓日出の時刻辺りを過ぎたが…雰囲気は変わらない…光が雲に封じ込められ、解き放たれない感であった…
17-08-2020 morning (17)

こういう早朝ではあったが…少し時間が経てば「夏らしい好天」という雰囲気になって行った…

クールな曇天…

<スマート珈琲店オリジナル>が酷く美味い!京都から取寄せて在ったモノが1袋残っていたので開けたのだ…基本的に苦味が少し前面で、「らしい!」という感じの、老舗が辿り着いた“回答”というようなことを思わせるブレンドだ…

京都に寄って、<スマート珈琲店>を再訪することは叶えられなかった。「実は初めて…」という、泉涌寺、智積院、仁和寺、勧修寺を巡り、勧修寺では「拝観受付終了間際」という時間帯だったので、滞在していた奈良へ引揚げる段取りにしたのだった。酷く汗をかいて、傍目に「大変そう…」と見られていたのであろうと思える状況で、「この際、行けるとなれば、行きたい場所は悉く…」というような無理は避けていた。そういう事由だったので、<スマート珈琲店>は「また何時か…」ということにして、取寄せた豆を愉しむ訳だ…

稚内は20℃程度のようだ。時々、20℃を切っている…四国や関西で、宿の居室の冷房は23℃とか25℃というようなことにしたが…それより低温だ。一寸驚かされる…

昨夕…例によって近隣を徘徊して夕食を愉しむというようなことをしていて気付いたが…方々から稚内を訪れているという人達の姿が何となく目立つようになっていたと思う。8月半ばに至り、「人の動き」が見え始めたという具合であろうか…悪くはないと思う。

曇天である…やや湿気が強い感でもあるが、今朝は少しクールな風が吹き抜けている。30℃程度の場所では出番が無い、長袖シャツやジャケットに出番が巡る感だ…

そんなことを思いながら、<スマート珈琲店オリジナル>をまた一口啜る…

日常へ…

<サードウェーブテイスト>を<アロママグ>に注いだモノを静かに啜る。

居室の窓を開けてみれば、少し涼しい空気が室内の湿った空気と入替るというのが身体で判るような気もする。当地は20℃を挟むような気温で、雨が交って空気が湿っていたのだ…

過ぎる程に静かな感じだ。時折、遠くの鳥の声が聞こえ、車輛が通過する音が多少聞こえるという程度だ。窓を閉めてしまえば、そういう音も然程気にならなくなるが…

何やら“日常”に戻って、少しずつ“日常”に「改めて馴染んで行く」という途上に在るような気がしている。

結果的に体力を費やすようなことをし続けていたのであろう。何やら酷く「眠くなり易い」という気もしている。前夜も早めに休んだ。朝は気付けば少し明るくはなっていた。同時に曇天で綺麗に明るくもないが…

「特段に何かで取り込むという程でもない昨今…」と思い付いて、時間を設けて出掛けてみることにしたのだった。「見慣れぬ路の向こうの見知らぬ街」という具合に、方々を随意に動き、そんなことの繰り返しで「少しばかり馴染んだ(というつもりになっている)かもしれない」という場所も在るので、そういう場所での滞在も含めながら時間を過ごした。

後から振り返れば、しぶとく梅雨の状況が続いて雨勝ちであった状況が落ち着いた少し後であり、激烈に気温が上昇して熱中症のようなことへの強い注意喚起がなされているという時期の少し前という期間に動き回っていた。冷涼に過ぎるかもしれないような地域に在って、(飽くまでも!)「時には“らしい!”感じな夏を…」と思い付いた。30℃を少し超えるような程度で晴天という状況が続いて、一部に35℃に届いたという状況も交ったようだ。

(飽くまでも!)「時には“らしい!”感じな夏を…」という意味では、「或いは好適な状況」だったかもしれない。が、一寸コンビニで飲物を求めるような場面で、店員さんが「暑いですね…」と敢えて声を掛けてくれる場面が頻発したのだった。客観的には「哀れな程に、尋常でなない程度な酷い汗をかきながら、飲物を求めに店に寄ったおっちゃん」という状態であったのであろう…

方々に在った際、深夜や早朝に「何処を訪ねる?こんな所も…あんな所も…そんな所も…それから…更に…」と色々と立寄る事も可能であると思いを巡らせた。しかし実際には「こんな所…更に…」という程度で、「暑いから…無理は止そう…」というようにしたことが多かった…

それでも(飽くまでも!)「時には“らしい!”感じな夏を…」という中で様々な文物に触れる機会が設けられたことには「大感謝!」という感に浸っている。

この何年間か、何処かへ出掛ける用事が在った際に「何やら宿泊が…」というような状況に頻繁に出くわした中で思ったことが在った。

例えば…「4万人収容の野球場」というような場所に「6万人」が押し掛けたとする。2万人は入ることが出来ない。それでも1万5千人を無理に野球場に入れる。するとグランドに人が入ることになるので試合は開催出来ない。とりあえず人が集まっているだけで、訳が判らない…

何か日本中の方々で、上述の図式のように「収容可能人員を少し超えた人数が犇めいて、本来のその場の機能が何なのか判らなくなっている」というのが在ったのかもしれない。

それが最近は、例えば「4万人収容の野球場」というような場所に「4万人を超えない人達」というようなことになっている訳だ。であれば?思い付いて何となく立寄れば、各々にその場所を普通に愉しむことが叶うのではないだろうか?

例に使った「4万人収容の野球場」というような場所に「4万人を超えない人達」というようなことについて、4万人どころか「4千人」とか「4百人」というようなことになって、「流石に場所やサービスを維持し悪い…」となっているのかもしれない。そういう「場所やサービスを維持する。そのために何らかの支援を行う」ということと、「サービスについて金をばらまいて値下げをして利用を促す」ということとは、実は「意味が違わないか?」と最近思うようになった。

色々と思うのだが…とにかくも今は「好い時間を過ごすことが叶った!」という満足感に溢れている。「無理は止そう…」という程度だと思いながら動いたが、それでも収拾困難な程度に多くの写真も撮った。ゆっくり整理したい。そしてそうしながら、「今回は“積み残し”が…何れ…」と考えるのも好いであろう。

そういうことを思っていれば、<サードウェーブテイスト>を満たした<アロママグ>が空いた…

<WELCOME TO ZENTSUJI>…:善通寺駅の辺り…(2020.07.31)

四国に縁が薄い状態が永く続いた感であったことから「何時か…」とは思っていた。そしてその「四国上陸」という機会を設けた…

かの弘法大師こと空海が生まれたと伝えられる地に寺が在って、所在地の街の名前がその寺に因むモノになっているということを知り、何やら強く興味を覚えた…

前夜には姫路に陣取り、朝から列車で岡山へ向かい、瀬戸大橋を越え、坂出で乗換えて善通寺に至った…

↓駅前へ出てみればこんな看板…自身のような来訪者を歓迎してくれている訳だ…
31-07-2020 Zentsuji City vol01 (1)

↓振り返り…様子を何となく見入ってしまった…
31-07-2020 Zentsuji City vol01 (2)

↓「夏の雲」という感…「夏の光」という感…そして30℃を挟むような「夏の気温」…
31-07-2020 Zentsuji City vol01 (3)

やや縁が薄かった四国に、「夏らしい」にやや縁薄いかもしれない地域から辿り着いた自身が、「夏らしい!!」という風情の中に在る…妙に気分が昂る…

やや肌寒い…

<鹿児島限定 アサヒ>を愛用の<大阪錫器>のタンブラーに注いで一口…酷く好い!

「休日の朝」という感だが、既に“一仕事”…開店と同時にコインランドリーに入って洗濯をして、済ませてしまって帰宅である。未だ朝なのに「充実した休日を過ごし…」と夕刻と錯覚するかのような気分まで湧き上がってしまう。

15℃程度だと思う。屋内ではジーンズ穿きに長袖Tシャツというような服装で程好いような気もするのだが、曇天でやや強い風が冷たく感じる戸外では「風除けに1枚…」という感だ。その辺に在ったパーカーを引掛けて、コインランドリーを往復した。

札幌と小樽とで所用が在るということで、「俄かに小樽の住民」ということにして、小樽に滞在しながら所用を足した。その小樽入りの前に美瑛に寄って旭川に一寸滞在し、引揚げる途中にも旭川に道草した。

昨日は旭川を午後1時35分に出て、稚内駅に午後5時23分に着くという「昼の特急列車」を利用した。これで稚内に到着すれば、到着する列車が折り返しで「夜の札幌行の特急列車」ということになるので、稚内駅は程々に賑わっているのが通例だ。夏季はそういう傾向が強いが…昨日は、その「夏季らしい」と思えるような按配であった。

昨夕は、列車が着いて、ゆっくりと拙宅へ引揚げた後、近所で夕食を摂ってみたが…立寄った店の席が粗方埋まっている状態になり、それでも来店者が続いて、店主氏が何度も「申し訳ないです。一杯です…」と言わざるを得ない場面が何度も在った。そういう程度に来訪者が見受けられる状況の当地だ…

7月18日の美瑛でも少し旅行者風な人達や、好天の休日を愉しむという風な近隣の人達を存外に見掛けたが…少しずつ「人出」は見受けられるようになっているのかもしれないと随所で思った。

昨日は夕食後に程無く、今時の小学生でも宿題に勤しむか、何事かにでも興じていそうな時間帯に寝入ってしまった。眠りは深かったと思う…所用を足しに出ていながらも、用事の前後や合間に小樽で街を歩いてみるようなこともしていた。そして稚内・旭川・札幌・小樽を往来してエネルギーを使っている…そういう訳で、確り眠ってエネルギーを充填しようと身体が欲したのであろう…

それにしても、出先で「やや暑い…」という状況も在った中、今朝の稚内は相対的に「寒い…」というように感じてしまう…

愛用のタンブラー…空きそうだが、追加は夜にしよう…

既に??

<しゃちブレンド>のバランスが好いような感じが心地好い。

静かな居室内は普段と何ら変わりも無いのだが、窓を開けて換気をしている最中であれば、戸外の音が多少は聞こえる。換気ということになるが、多少湿った空気が身体に貼り付くかのような気がしたので、外気を室内に採り入れようとした訳だ。クールな日も多いが、こういうような「一寸、窓を開けてみよう…」という日も見受けられるようになった昨今である。

今朝は、やや雲が多めで朝陽が上る様は視えていなかったが、それでも「流れるやや多めな雲の間に光と青空」という程度、「好天の範疇」と言い得る天候で、気温は20℃に届くか否かというような程度で、概して爽やかだ。心地も悪くはない。

他所の地域の方であれば「少々勝手が違う?」と戸惑うのかも知れないが、これがこの地域が「何となく夏を迎えた」という時季の様子なのだと思う。

何か<GoTo>なる用語が頻繁に耳目に触れる。

“事情”により旅行関係の消費が限りなく「無」のようになってしまっている中、政府が旅行商品を格安で提供することを可能ならしむるべく資金を投下するということなのだそうだ。そのキャンペーンに<GoTo>と名付けられたようだ。

この<GoTo>に関して、最近になって“事情”が一部地域でまた「少々好くない?」という状態になっていることが眼に留まる状況になっていて、「本当にやるのか?」という話しになっていたようだ。で、“事情”が「好くない?」の箇所を「外して実施」ということに決まったと報じられている。

「外して実施」ということを巡って、色々な意見も出ているようではあるが…結局、国内では「大都市圏に住んでいる人達」が比率として非常に高く、「(国内の)旅行」という行動を取る人達の行動内容として「大都市圏から何処か別な地域を訪ね、また戻る」というのが数として圧倒的に多い筈だ。

「大都市圏から何処か別な地域を訪ね、また戻る」という、最も数が多いと見受けられる行動パターンの人達が“除外”となれば、<GoTo>なる取組みは、所期の数量の利用に達しないという可能性が高くないか?

既に…「親の死に目」のような切羽詰まった状況で大都市圏から出身地を訪ね、「出入りしてくれるな!」と訪ねなければならない場所で言われ、その人に身近な家族等も「濃厚接触」なる妙なレッテルを貼り付けられて「出入りしてくれるな!」扱いを蒙ってしまうというような、何やら首を傾げたい話しも散々聞く。大都市圏と他地域との間で「来るな!」、「行くな!」という話しが「もう沢山だぁ!!」というだけ延々と繰り返されている。この国の中では「何処かへ行ってみよう」という気分自体が「完全に萎えている?」というような気がする。

そんな中、「<GoTo>ということで、格安で利用出来る旅行商品を用意しますから!」と言われて、直ぐに「そうですか!」とそれを利用する「気が起きる」のだろうか?“事情”に「鑑みて…」ということで、未だに「来るな!」、「行くな!」という系譜の話しは大きく聞こえる。大きな顔で「今度〇〇へ行くんだ!」と「愉しみ!!」とでも言うことが「邪ま…」とでも言われるかもしれないような空気感が満ち溢れていないか?

或る日、思い付いて何処かへ出掛けてみて、出掛けた先で新しい見聞を得ることや、気に入る文物に触れること、そういう想い出を大切にして行くようにすること…こういうのが「邪ま」なのか?!そんな筈は無い!!が…何か「随意に動き回る」ということ「自体」が、何やら問題視される空気感が在ると思う。

そんな中、<GoTo>なる取組みは「中途半端に、やや大きな資金を費消」という以上でも以下でもなく終始するのではないか??

“事情”と綴っているが、所謂「感染症」である。感染症に罹患し、苦しんでいる方達やその身近に在る皆様には御見舞い申し上げる。が、何時も思っている。多くの人達は、感染症を患ってどうこうということでもなく、勝手に心を病んでしまって、簡単に快復出来なくなっているのではないかとである。

些か不愉快なモノも込み上げたところで、<しゃちブレンド>のマグカップが空いた。少なくとも、気に入っているブレンド珈琲の芳香と味が普通に愉しめるのだから、健康状態は普通の範疇に在るであろう。