『山頭火句集』

↓出先の札幌で書店に立寄って見掛けた一冊だった。何か強く惹かれて入手し、ゆっくりと読了に至った。

山頭火句集 (ちくま文庫)




「句集」というような本は、自身の読書傾向の中では少し異色ということになるのかもしれない。

「読書傾向」と言えば少し大袈裟に聞こえてしまうかもしれないが、日頃読む本の分野、種類を想うと「句集」というモノに思い当たらない。

自身が読むのは、歴史上の様々な時代を背景にした時代モノ、作中で発生した事件の解決を図る警察モノや探偵モノというような感じの作品を中心とした種々の小説作品、何かの知識の紹介や何事かを巡る著者の見解が説かれるような各種の論、随想と呼ばれるモノというようなモノが専らであるように思う。

挙げたようなモノは「散文」である。対して「句集」となれば、詩歌の類で「韻文」である。「韻文」の範囲という感の「句集」は、余り顧みない。そういう意味合いで「読書傾向の中では少し異色」という程度に思った訳だ。

「少し異色」は排されるべきでもない。それでも珍しいので「何故、選んだ?」ということになる。

↓実は以前にも山頭火に関する本は読んでいた。これは御本人の随想(=散文)を集め、若干の解説が入った本だった。
>>『山頭火随想集』

この『山頭火随想集』に関する記事に綴ったのだが、中学生位の頃に気に入って愉しんでいた学園ドラマで、主人公の国語教師が山頭火作品を愛しているという設定で、作中にその名や一部作品に言及が在って記憶の隅に在ったのだ。今般の「句集」を見掛た時、何か「偶然に山頭火と再会?」というような気分にもなり、入手したのだった。

山頭火は独特な人生を歩んでいる。不運というのか、恵まれた境涯から少し様子が変わって行ったというような感で、結果的に僧侶として托鉢をしながら各地を巡るというような暮らし振りとなり、その中で独特な句を創ることになるのであった。

「陪堂」(ほいとう)という言葉が在るそうだ。本来は「 禅宗で、僧堂の外で食事のもてなし(陪食(ばいしょく))を受ける」という意味であるというのだが、転じて「物乞い」というやや否定的な意味合いで用いられる場合も在る感の語だという。山頭火は禅宗の僧侶ということではあったが、明確に何処かの寺に属するのでもなく各地を巡っていた。そして語の起りのとおりの「陪堂」という行動をしていた。が、1960年代頃に御本人に在ったことが在る方が未だ多く存命であったような時期、研究家が話しを聴いてみようとすれば「あの陪堂の…」と、「物乞い」をしていた人物というような話しが頻出したそうだ。

そういう活動、或いは「何らかの金銭や食料を施して頂きながら旅を続け、続ける旅の中で句を作る」ということが、山頭火にとっては「人生そのもの」という様相を呈していた。その作られる句というのは、俳句の約束事というようなモノを排した「自由律」と呼ばれる独特な、一行詩のような感である。何処かを歩きながら、ふと漏れる言葉のような、少し独特なリズム感が在るような句であると思う。

本書は、山頭火が発表している句の中から多数の作品を択んで掲載していて、後段に若干の随想が在って、選者による解説が添えられているという体裁だ。山頭火の句そのものをゆっくりと味わうことが叶うような感となる。

「どうしようもないわたしが歩いてゐる」という句が以前から気に入っていたが、他にも色々と気に入ったモノに出会った。幾つか挙げる。「分け入つても分け入つても青い山」、「また見ることもない山が遠ざかる」、「さて、どちらへ行かう風がふく」、「更けると涼しい月がビルの間から」、「おもひでがそれからそれへ酒のこぼれて」というような辺りが記憶に残った。

加えて、5行が一連のモノのようになっている「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆふべもよろし」というのも好かった。

本書には収録された句の索引が在る。辞書の方式に、50音順でキーワードが並べられている。例えば「と」で「どうしようもない」が在れば、「どうしようもないわたしが歩いてゐる」という句の掲載ページが示されているのである。これは便利だ。

もしかすると、この山頭火というのは「時々御会いしたい御仁」という具合に、何となく自身の眼前に作品等が現れてしまうのかもしれない。一頻り本書を読んで、何かそういう不思議な気分に包まれている。

本書は、手が届く場所に置いて、時々読むというような感じでも好い一冊だ。出逢って善かった。

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