今朝も<Qグレード認証 エチオピア>を淹れた。名古屋の業者から取寄せていたモノで、所謂「フルーティーな珈琲」と括られそうな味わいが気に入っている代物だ。
漸く「午前6時」に「些かの明るさ」を感じるような按配になって来たが、今朝の場合は何となく断続する雪が交っている。雪の粒子はやや細かい。氷点下5℃を伺うような気温帯に温度が低下している様子だ。こういうような次元の温度の上下が、未だ暫くは続くことであろう…
どういう仕事に携わっていようと、勤めている場所で何をしていて、どんな立場であろうと、「公的な場」=仕事を離れてしまえば、「誰しもが対等な一個人」という以上でも以下でもないのではないだろうか?少なくとも自身ではそういうように思っている。
「誰しもが対等な一個人」とは?誰しもが住んでいる場所、例えば誰しもが「〇〇町△丁目のXXさん」という何処かの住所に在るという以上でも以下でもないであろうし、両親から視れば息子や娘という以上でも以下でもないであろうし、お子さんが在るなら「XXちゃんのお父さんまたはお母さん」という以上でも以下でもない筈なのだ。
そういう意味では「誰しも同じ」という面は在るが、人には各々の職業上の、職業以外の経験や知識や見聞や技能というようなモノが各々に備わっていて、それらが寄り集まって社会が形成されているという面が在る。そしてそれは、各々に長さや形が異なる指が組み合わさって手が好く機能するように、色々な人が居るから社会が機能している筈なのである。
そんな中、「誰しもが対等な一個人」ということで、「公的な場」=仕事を離れて色々な人達が入り交じって話し合うようなことをすることに関して、特段に躊躇する理由は無いような気がする。「誰しもが対等な一個人」ということで、便宜的に「A対B」という感じなのであれば、AやBが何であっても差し支えないと思う。
仮令、Aが霞が関の官僚で、Bが官僚が担当する分野に関連する業界の会社の幹部であろうが、「誰しもが対等な一個人」ということで、各々の経験や問題意識で語り合うということが、「公的な場」=仕事を離れて行われることに関して、それが夕刻から夜に酒食を伴おうとも、そのこと自体には「問題?」は然程無いような気もする。互いが何者であろうと、人には縁というモノが在る。近所に住んでいる、学校が同窓、同じ地方の出身、子どもの学校が同じ、同じ映画のファン、同じミュージシャンの作品を好んで聴く、同じ小説を面白いと思った、その他に幾らでも話題になるようなことは在る筈だ。更に、所謂“立場”が変われば、同じ事象に関して「目の付け所」が異なるというような例は多々在る筈で、公的な立場を離れて話してみれば、互いにそういうことに気付いて後から意外に役立つというようなことさえ多々在るであろう。
だからAが霞が関の官僚で、Bが官僚が担当する分野に関連する業界の会社の幹部で、AとBとが夕刻から夜に酒食を伴う席を設けたとして、そのこと自体を如何こう言わなければならないとも思わない。が、Aが許認可に関与していて、Bがその許認可を求めるということで、両者が話し合おうというのであれば、それは日中に仕事の場で話し合う筋合いだ。そしてBの側が酒食の支払をする“接待”でAを招いたということになれば、「Aの官庁が有する許認可の権限に関することで、許認可を求めようとする関係者全般が話し合いの席を設ける権利」を歪めてしまうことになるのではないか?そういう意味で「それは所謂“接待”だよね?」という事案が明らかになった時点で、既にAの官庁による行政は少々歪められてしまっているのではないだろうか?そういう意味で、「それは所謂“接待”だよね?」という事案が出て来たと、「行政が歪められていないか調査」という話しは“不可解”である。
例えばAとBとが酒食を共にして、勘定が9千円であったような時、Bが5千円紙幣を取り出して「釣りは要らん…」とでも言えば、Bが割勘を多く払う形になる。この場合で、どちらかが1万円紙幣を取り出して「ここは自分が…」とでも言えば、どちらかの“奢り”ということになる。そういうのは日常に溢れているような気がする。「それは所謂“接待”だよね?」という事案はその限りでもない様子だが…
そういう「溢れている日常」の範囲のやり方で、霞が関の官僚であるAと、官僚が担当する分野に関連する業界の会社の幹部であるBとが同席したとして、「何やら誤解が生じましたかね?」ということになる可能性は排除しない。が、最近話題の官僚が担当する分野に関連する業界の会社の幹部であるBは、当該官庁を所管する大臣を務めた経過がある政治家の息子で、大臣秘書官を務めたというような経過も在り、大臣を退いた後も別な非常に有力な位置を占めている政治家との強い関係性を示唆しながら活動していたのではないであろうか?
であるとすれば、ハッキリそう言わないにしても、Bは「言ううことを聞かなければ、あなた達の1人や2人は親父に言ってどうにでも出来るのだからな…」という恫喝、脅迫と同然の卑劣な事をしたということにならないか?「前職の関係で、関連官庁の主な幹部と顔馴染みで、話し易い」というBが或る会社に入って活動するとして、それ自体は「会社が有為な人材を採った」という以上でも以下でもないかもしれない。が、「やり方」によっては「オカシイ?」ということにもなって行くのではないか?
ここまでの中でAとしていた霞が関の官僚の名前が出て、要職を占めていたということで随分話題になっていたが、何やら体調不良を来し、当該の役職を退いたというような話しが伝わっていた。体調不良を来した場合?療養ということで休んで、職に復するということは容易であるようにも思うのだが、何やら少し釈然としない。
申し上げたいのは、何がどういうように行われたのか、その退いた方は言葉を尽くして語るべきではないかということだ。多分、外部の人には判り悪い、部内の色々が在ったことであろうから、それが判らない限り「それは所謂“接待”だよね?」という「オカシイ…」に関わったという不名誉だけが歴史になってしまう…「それで本当に好いのか?」という気がしてならないのだ。「それは所謂“接待”だよね?」という「オカシイ…」に関わったという不名誉は在るにせよ、その方はその方として永く真面目に仕事を続けていた筈で、色々と佳い事績も残されている筈である。不名誉だけに塗れて退く筋合いか?
というようなことを最近のニュースから考えた。時には、静かな朝に珈琲を啜りながら、考えたことを少々整頓しておきたくなるというものだ。
そんなことをしていた間に<Qグレード認証 エチオピア>を満たしていたマグカップが空いた…
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