『現代日本語訳 空海の秘蔵宝鑰』

最近は空海に纏わることを知ることが叶う本にも少し関心が高まっている。

その契機は色々なのだが…空海自身が生まれた頃には「既に在った」と伝わる巨大な楠も見受けられる、空海の「生地」の辺りに在るという善通寺を訪ねる機会も在って、非常に関心が高まっていたということが在る。

↓そんな中で出くわしたのが本書である…『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)という書名そのものは少し前に読んだ本に言及が在ったので知ったのだが…

現代日本語訳 空海の秘蔵宝鑰



↑精力的に様々な活動に取組んだことが伝えられる、御自身が生きた時代に在って「大きな存在感を示した文化人・知識人」であった空海が、晩年に著したと伝わる本を、読み易いように工夫して上梓したという一冊である。

所謂「古典」というモノは「読むに値する内容を含む」として永く受継がれている著作である。『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)は、空海が唐で学び、日本に伝え、その道場を興して教団を組織し、後継者を育てて行った「真言密教」が何を目指そうとしているのかを、晩年に至って綴ったという一冊で、色々な人達に永く読み継がれて現在に伝わっている。正しく「古典」ということになる。

その「古典」だが、言葉遣いや字句の使い方は年月を経て変わることから、「そのままの形」では「如何にも敷居が高い…」ということになってしまう。そういう訳で、本書は現代の一般読者が関心を覚えた際に繙いてみることが叶うように、「解り易い現代語に訳する」ということを試みている。実際、読んでみて「何処かの方の講演」とか「文化人の対談」というような性質のモノを読む状態に近い感覚で本書に接することが叶ったと思う。

『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)は『秘密曼陀羅十住心論』―一般に『十住心論』(じゅうじゅうしんろん)と呼び習わされる…―と併せて登場したのだという。

因みに『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)という題名だが、これは「尊い教えの詰まった宝箱」(=秘蔵)を「開ける鍵」(=宝鑰=「宝箱の鍵」)という程の意味であると言う。題名自体が「真言宗の考え方への“鍵”」ということになるのだと思う。

『秘密曼陀羅十住心論』は文化史の中で「天長六本宗書」と呼ばれるモノの一つであるという。これは天長年間、西暦で言えば830年頃というが、時の淳和天皇が主だった仏教宗派へ勅命を下し、各宗派の各々の考え方、特長を解説したモノを著すことを指示した。これを受けて各宗派の代表者が本を書いた。それが「天長六本宗書」と呼ばれるモノで、真言宗に在っては空海自身がそれを著したという。

『十住心論』(じゅうじゅうしんろん)は膨大な引用を含めた大部であったのに対し、『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)はシンプルである。そうしたことから、「本論の『十住心論』に対し、概略版の『秘蔵宝鑰』」と目されているらしい。

これに対し、本書の冒頭部、“前書き”のような箇所で「本論の『秘蔵宝鑰』に対し、詳細資料の『十住心論』」という観方が示されている。或いはこれは解り易い、好い観方になるのかもしれない。

真言宗の考え方として『十住心論』や『秘蔵宝鑰』が説くこと?人間の心を10段階に分けてみて、その段階を上がって行くことで、真言宗が目指す境地に至ることが叶うとする考え方だ。各々の段階で、必要に応じて、儒教や他宗派との相違点や共通点を交えている。「解り易い現代語」の形で、本書を介して触れた『秘蔵宝鑰』には、そうした考え方が巧く要約されている。

「10段階」というモノには、各々の呼称と定義が与えられている。が、それを一読して直ちに覚えられるのでもないとも思う。

要は?「単純に何も考えずに生きている」という人間が在って、少しずつ「より善い社会に参加する」というような方向に気付き、「個人的に独力で至ることが叶う境地」というモノを知るが、更に「正しい教え」を追い続けることで、「自身に留まらず、他者をも導く」ということも出来るようになり、他宗派が説く段階の「少し先」である筈の「真言宗が目指す境地」に至る筈であるという考え方であるように思った。

特段に真言宗に帰依するとか、真言密教の研究をしようというようなことでもなくとも、本書で説かれているようなことは、「人の在り方」、「生き様」というようなことを考えてみる上でなかなかに有益であるように思う。

本書に関しては、枕元にでも置いて、随時思い付いた時に読み返すというような感じにするのが好いかもしれない。価値在る古典を、身近に触れ易い形に纏めた一冊は価値が高いと思う。

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