今般…近鉄奈良駅から近鉄の急行列車に乗車し、京都駅に着いた後、西本願寺を訪ねてみようと歩き始めた。“東”は寄ってみた記憶が在ったが、“西”には寄った記憶が無いというだけの理由で、何となく向かったのだった…
その途中…“島原”という地名が登場する案内を視て、「西本願寺そのものには立寄っていないが、直ぐ傍までは来ていた…」と気付いた。京都は方々に旧跡が在るので、そういうことも在るであろう…
寄ってみた西本願寺で、掲出された案内を視て新選組を思い出した。西本願寺の敷地そのものが、新撰組の屯所として利用された経過が在ったのだが、その事実以上に「強く響いた」のは、かの土方歳三と共に箱館の戦いに参加し、戦いに敗れた後には京都に住んで、晩年は西本願寺の太鼓楼で管理人をしていたという島田魁という人物に、掲出されていた案内は言及していた…
そんなことが在って…妙に島原に寄ってみたいと思った。新選組は「壬生浪士組」と呼ばれていた草創期には、西本願寺より少し北の辺りの壬生に屯所が在って、隊士が増えて行った中で西本願寺に移転している。その京都で活動した彼らが、一貫して出入りしていた歓楽街の一つが、西本願寺の少し南辺りに在る島原だ。
気に入っている小説の『輪違屋糸里』というのは、「壬生浪士組」が登場し、新選組として武名を馳せて行くようになるような時期の島原が舞台の物語だった。主人公は、島原の遊郭である輪違屋(わちがいや)に居た女性、糸里である…
物語は糸里や他の女性達の目線も交えながら、「壬生浪士組」が「新選組」と成って行く、体裁を整えて行く時期のことが描かれている…
清河八郎の献策により、「上洛する将軍の警護」を名目に集められた浪士隊に参加した者達は、京都に着いて間もなく、清河八郎の発案で江戸に引き返してしまう…その江戸へ引き返すということになった時、「それはおかしい!!」と強く異論を唱えた者達が在って、彼らは京都に残留し、「京都守護職御預」ということで、形式として京都守護職を務めていた会津松平家の指揮下で「壬生浪士組」を立ち上げた。
この草創期の「壬生浪士組」…大別すると“水戸派”と“試衛館派”とに分かれていた。後者の“試衛館派”は、江戸の道場である試衛館の関係者で、近藤勇や土方歳三等が居た。“水戸派”は芹沢鴨を中心とする一派だ。「壬生浪士組」は芹沢鴨の矯激な振舞い、蛮行というようなことが在って、怖れられ、同時に忌み嫌われる面も在る存在になって行った。そして、それが「行き過ぎ」ということになり、やがて“試衛館派”が“水戸派”を排除するようになる…
物語の中では、“試衛館派”は「真の武士になりたい男達」として描かれ、“水戸派”、殊に芹沢鴨は「“武士になりたい男達”が踏み越える壁のように存在する武士」という具合に描かれる。糸里の他、女性達は両派の男達の間で揺れ動いている…
少し長くなったが…上述のようなことを考えながら、西本願寺辺りから、途中で<鰊そば>を頂きながら島原を目指した…
↓これが島原の入口である大門だ…

↑恐らく、新選組の面々も、肩で風を切るかのようにしてここを潜ったことであろう…またこの場所には、西郷隆盛や久坂玄瑞というような人達も足跡を残しているという…
島原は、1641年に現在位置辺りに移転した。「島原」という呼び名は、移転した時の騒動が<島原の乱>の乱れた様子に似ていたためという説や、周りが田原であったため、島に譬えて呼ばれたという説等、諸説が在るそうだ。
↓これが<輪違屋>だ…

↑辺りが一般の住宅等になっている中、現在でも芸妓を擁して営業しているという…
↓江戸時代の造りを伝える建物が好い…

↓こちらは<角屋>だ…幕末期には、大きく立派な店として御馴染だったようだ…

↑新選組が集まりに使ったことでも知られる…
↓<角屋>は、現在「島原」と呼ばれる地区が成立した頃から在ることになる…

↓島原を抜ける辺りに、島原住吉神社が在る…

この島原住吉神社を抜けた辺りに鉄道の高架が見えて、京都中央卸売市場の一隅の脇を通って、JR丹波口駅に行くことが出来る…
何か、久し振りに「あの新選組の面々が動いていたであろう地区」を歩いてみて、何か幕末関係の小説を読んでみたいような気分になった…そういうことを想いながら、丹波口駅から京都駅へ移動し、私なりの流儀での京都市内巡りを続けたのだった…
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