『落日の宴』

前夜に読了した本のことを少々思い出しながら珈琲―今朝は最近入手して気に入っている<がりゅう>ブレンド―を頂くというのは、非常に心地好いことだ…

「興味深い史上の人物が劇中に登場」と覗えて、「気に入っている作品の作家の未読作品」と判れば…「是非、読みたい!!」ということになるものだが…

↓そんな大きな期待と共に出くわして入手した作品である。文庫として登場したばかり…“最近の本”なのでで文字も大きめで、上下2冊という割には酷いボリュームとも思えない…(旧版は1冊であって、新装版にする際に分冊したようだ…)或いは、夢中で読んでしまい、ボリュームが気にならないとも言える…

吉村昭/新装版落日の宴 上 講談社文庫


吉村昭/新装版 落日の宴 下 講談社文庫
↑紐解き始めると、「続き」が気になって、頁を繰る手が停まらなくなる…夢中で愉しく読了したが、深い余韻も残った。

本作の主人公は川路聖謨(かわじとしあきら)である。川路聖謨は幕末期に活躍した幕臣だ。

本作の冒頭は、この川路聖謨が勘定奉行に就任して日が浅かった時期、役目を帯びて旅をしている場面から始まる。各所で驚く程の丁重さで迎えられ、接待の申し出が限りなく在って―川路聖謨という人は、公務出張中は酒を控えるようにしていて、接待は極力申し出た側の面子を保つ程度に留めようとしていたという…―、大変に権威を持つ役職に就いたことに驚きながら旅を続けている。この旅の場面の詳細な描写が好い。読んでいると、川路聖謨勘定奉行様御一行の片隅で同行しているかのような気分にもなる…彼の旅路を追いながら、何か時間や空間を超えて、川路聖謨が活躍した場面に誘われる感である…

本作の前半の三分の二程度は、川路聖謨が関った「ロシアとの交渉」の経過に割かれている。“黒船”と驚かれた蒸気船を含む艦隊で来航した、かの米国のペリーより少し遅れて、ロシアのプチャーチンも来航している。最初に現れたのが長崎で、川路聖謨はプチャーチンと話し合う“応接掛”を拝命して長崎へ急いでいたというのが、本作冒頭の場面である…

長崎での談判から暫らく経って、日米和親条約の話しになっていた頃、プチャーチンは下田に現れて幕府との話し合いを申し入れた。ここでも川路聖謨は“応接掛”を拝命して下田へ急ぐ。「何時まで待たせる!?」と雰囲気も悪くなる中、川路聖謨一行は急ぐ…ここの描写も、「吉村昭の流儀」というような、精密で臨場感溢れるもので、引き込まれてしまう…

こういう旅の様子や、プチャーチンとの交渉の様子の隙間に、川路聖謨の人物描写や、伝えられる日頃の言行等が入る。川路聖謨はかの間宮林蔵と交流が在った。樺太探検で知られる間宮林蔵の経験談等を親しく聴いていたようで、方々を旅する役目であった間宮林蔵が「日に三十里を歩き抜いたことがございます」等と話し、タフに動き回れるように鍛錬もしているとしていたことに感化され、川路聖謨も鍛錬を怠らない一面が在ったという。旅の場面では、宿場町や城下町に出入りする場面では駕籠を使うものの、他では「歩く方が好い」としていたらしい。

前半のハイライトは、ここで発生した津波である…プチャーチン一行の乗る<ディアナ号>は下田沖に停泊していたが、そこに津波が襲い掛かった。沿岸部も大被害を蒙ったが、<ディアナ号>も荒波に翻弄されながら奮闘していた。そこに沿岸の住民が流されて来た…<ディアナ号>の乗員達は、彼らの中にも死傷者が発生してしまっていたにも拘らず、力が及ぶ限り彼らを救助し、船医が救助された人達の世話をするなどしていたという…

ここで、川路聖謨とプチャーチンとの交渉に新たな項目が加わった。津波被害で損傷した<ディアナ号>の修理の件である…曲折を経て戸田村に曳航する段取りが決まったのだが…曳航中に俄かに天候が荒れ、<ディアナ号>は沈んでしまった…今度は海に飛び出した乗員を、沿岸の住民が必死に救援し、乗員全員が無事だった…

やがて交渉は再開され、日露和親条約へと至るのだが、ここでロシア関係者の帰国を巡る問題が生じ、その経過が詳しく描かれる…<ヘダ号>建造の物語も在る…

後半は安政の大獄で左遷されるなどし、一旦は復活するものの、病を得て身体が利かなくなり、幕府崩壊の情勢下で失意の中で命を落としてしまうという最期までが描かれる…

吉村昭は「川路聖謨の物語…」という思いを永い間抱いていたようで、本作はそうした好い意味での思い入れが滲む秀作である。互いに譲り難いものを持っていて激しく言い争いながら交渉した川路聖謨とプチャーチンだが、互いに「人間として」の敬意を抱くに至っていた様子も描かれる。これは名作だ!!!

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