九州の南北を結ぶ鉄道の開設が目指されていた中、1903(明治36)年に鹿児島から北上する鉄路が延びて吉松駅が開業し、八代まで延びた後に人吉に至った鉄路が、山間部をスイッチバックにしたりループ線を取り入れるなどの工夫で1909(明治42)年に吉松と繋がった。これが“鹿児島本線”ということになった…
他方、1912(大正元)年、宮崎県の小林からの鉄路が吉松と繋がり、同年に小林から都城に延伸された鉄路は1916(大正5)年に宮崎と繋がった。当初は“宮崎本線”、後に九州東部を南北に結ぶ“日豊本線”ということになった…
吉松は“鹿児島本線”と“日豊本線”という、九州の西岸、東岸をそれぞれ南北に行き交う幹線鉄道の交差点ということになった。こうした「交通の要衝」となった吉松には、機関区や保線区が設置され、多くの関係者が暮らす町を形成した…
そうした町の歴史を伝えるモノが幾分保存されているのだが…乗車予定の人吉行までの時間的ゆとりが在ったことから、辺りを少し見ていた…
↓思わず見入ってしまったのが、このC55である!!
↑駅の傍に屋根が設けられ、屋根の下に線路も敷いて在り、そこにC55が鎮座していた…
C55は1935(昭和10)年から1937(昭和12)年に計62輌が製造されている蒸気機関車だ…“1次型”、“2次型”、“3次型”と製造され、改良箇所が多岐に及んだ、当初は「C55 63」として着手されたモノが“C57”と新形式番号を名乗るようになっている。
C55は、200輌以上も製造されたC57よりも数が少ないことから、保存されている例は少なめである。梅小路蒸気機関車館、小樽市総合博物館、大分市の公園、そして吉松駅のみだという…
実は…稚内にも貴重な1輌が在ったのだが、屋外に永く置いていた間に風雪で傷んでしまい、「傷んだ大きな金属塊=大変に危険」という話しになり、取り壊されてしまった…動輪とプレートが残るのみである…そういう経過が在ることから、吉松でその姿を見掛けた時には「C55よ!!会いたかった!!」と懐かしい旧友、永く会っていない親類にでも再会したかのような気分になった…
保存例が多いC57は「動く」状態の機関車も各地で見ることが出来るのだが、C55も往時は、ポピュラーな機関車だったC57と「殆ど同じように扱える」ということで、殆ど全国各地―四国での運用例は無いらしい…―で見受けられたのだという…実際、稚内で急行列車を牽引していた例が知られているのと同様、鹿児島県内の吉松機関区でも活躍していた訳だ…
↓“パワー重視”の「動輪が4つ」在る“D型”ではなく、“速力重視”の「動輪が3つ」在る“C型”は大きく迫力の在る動輪が付いている…
↑大きさは…以前に見ているC57のモノと変わりないが、スポークの型に仕上げられたC55の動輪は美しい!!
特段にこれを視ようと「目掛けて」吉松駅を訪れたのでもなく、肥薩線で北上する道すがらに見掛けたC55だった…「会えて好かった!!」と思っている。次の機会が何時か、それ以前に次の機会というものの有無さえ判らないが、このC55には何時までもここに留まり、吹雪の北海道から鹿児島の山間に至るまで、全国で活躍した機関車の勇姿を伝え続けて欲しいものだ…
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