『鍋島直正』

最近、何となく思い出していたのだが…以前に佐賀出身の芸人が郷里の街が地味で垢抜けないと嘆くような、揶揄するような内容の歌を歌っていて、それが流行っていたことが在った…もしかすると…あれは“お笑い”として、文字どおり笑いながら聴いて「佐賀の宣伝になるから善い…」という雰囲気になるように“調整”が加わっているのかもしれない…九州7県の県庁所在地で、「地味な印象」だったのは確かに佐賀だった…

佐賀は、長崎と福岡の中間で福岡に寄った位置に在る。長崎・福岡間を動くような旅をするのであれば、「一寸寄る」というのは然程面倒なことでもない…

実は、佐賀は「地味な印象」ではあったのだが、「一寸寄る価値が在る」と思った。“佐賀城本丸歴史館”が非常に佳かったのだ!!

佐賀には「佐賀の七賢人」と呼ばれる人達が居るのだそうだ。幕末期から明治期に活躍した佐賀出身の人達の中から7人を挙げているのだが…出生順に挙げると…鍋島直正、佐野常民、島義勇、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信の7人である。“佐賀城本丸歴史館”は、こういう人達が活躍した時代の色々なことが、彼らの時代に鍋島侯の領内を統治する政庁であり、家中の公式行事を行う場で在った建物を再現した場所で紹介している。私は強い印象を受けた…

この“佐賀城本丸歴史館”は、佐賀出身で活躍した人達の事績や人物を論じたシリーズ本の刊行を手掛けていて、既にそのシリーズの本も一部読んだのだが…

↓「佐賀の七賢人」の筆頭に挙がるような、鍋島直正侯に関するものを入手して読んだ…



鍋島直正 1814-1871(佐賀偉人伝)


江戸時代までの人、殊に身分の在る人達は色々な機会に名前を変えること等が在ったようで、同じ人物に関して複数の名で知られている場合も見受けられる。“鍋島直正”は御本人が最後に名乗っていた名で、大名家の当主として彼は何度か名を改めている。彼について、最も通りが良い名は、“閑叟”(かんそう)という号であろう。私自身、この人物に関しては“鍋島閑叟”と記憶していた…

江戸幕府から明治政府へ移行する“幕末”と呼び習わされる時期は、1853年の“黒船”の後、1850年代、1860年代を指すことが多いように思う。が、実は1830年代頃には、江戸時代の200年間程を経て生じていた社会の変化の中で体制の機能が「やや不全?」という状態になっていて、他方では「“開国”への胎動」のような事態も色々と見受けられるようになっていたのだった。鍋島直正が佐賀鍋島家の当主の座を継ぎ、実権を握るようになっていくのは、この1830年代である。

この時代の「“リーダー”としての大名」というものを考えると、色々なタイプの人、色々な“器”の人が在ったことであろうが、鍋島直正は自身が新しい知識に貪欲で、様々な仕事に熱意を持って取組んだ、なかなかに評価の高い人物であったと同時に、当時の感覚では相当に大胆であったかもしれない「能力主義的人材登用」を武士達の“教育改革”と併せて、かなり徹底的に行ったようだ…

幕末期になって、鍋島直正は「あの佐賀の…」となかなかに注目される“大物”となっていたが、“対幕府関係”ということでは次第に先鋭的になる薩摩や長州に対して、寧ろ中庸的な立場を取ろうとしていたのかもしれない。幕府対朝廷・雄藩の競り合いが生じるような局面になり、鍋島直正は京都進出を画するが、代々課せられている“長崎警固”の任務が在ることなどを口実に各勢力から“牽制”を受けていたようにも見受けられる…

明治期になると…彼は体調を崩していて、実は余り動いていないようだ…1871年には他界してしまった…

明治に入って程なく、彼は北海道開拓の責任者に任命されたが、それも短期間で辞任している…その際に家臣であった、蝦夷地調査の経験者でもある島義勇を現地派遣グループの指揮を執る立場に推している訳である…

本書は、なかなかに色々な動きが在った時代を“リーダー”として駆け抜けた鍋島直正の歩みと、その時代の動きが手際よく纏められている。佐賀城本丸歴史館で所蔵しているモノに止まらず、豊富な図版が掲載されていて、なかなかに愉しい一冊だ。

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