そういう状態ではあるが、「九州は凄く温かいのであろう…」と想像する範囲を超えて温かかった場所も在った…宮崎県の飫肥である…
宮崎県という場所は、九州出身の方、九州各県で言葉を交わした方、その他九州各地の様子を知る方が「あそこは温かい…」と一様に口を揃えるような場所である。
宮崎から日南海岸に沿うように、時々内陸側にも入りながら延びる日南線の列車で飫肥を往復した。宮崎を発った時には多少雲が目立ったが、次第に天候が好転してくるような状況であった…然程の厚着はしていなかったのだが、静かな飫肥の街を歩いていて「多少暑い…」と思えて、上着を脱いで「半袖Tシャツの上に薄い長袖シャツ」というような、冬季であれば「屋内に居る場面」のような服装で歩き回ったが、それで汗ばむ程になった…列車本数が少なめな日南線の南宮崎行を逃したくないと速足で歩いた後には、結構な汗もかいた…あの時は飫肥駅の駅員さんも上着を脱いでワイシャツ姿だった位だ…多分15℃前後…否、20℃近くになっていたのかもしれない…氷点下で積雪も多々在るような地域から訪ねた身には驚くべき状態だった…
飫肥は、そういう「非常に温かかった場所」として記憶に残るのだが、同時になかなか雰囲気の好い小さな城下町であったことも記憶に残る…「地方の小規模な城下町」ということでは、飫肥は各地のそうした場所の中では、「大変に佳い型でその雰囲気を伝える場所である」と言って差し支えないであろう。
薩摩・大隅の島津家と争った日向の伊東家が拠点を置いていた飫肥は、豊臣政権期以降、伊東家の知行地の中心となった。伊東家は飫肥の城を所謂“近世城郭”と呼ばれるスタイルのモノにして城下町も整備した。そして江戸時代を通じて飫肥は伊東家の城が在る城下町だった。
飫肥はその城下町の面影を伝えるものが、然程広くは無い領域に多々残っていて、同時に“城下町”という雰囲気を大事にする街並みの整備が為されている…
そんな城下町の中心で在る城の側に近付くと、なかなかに雰囲気の在る建物が散見するのだが…「向こうに見えるのが城門??」という辺りに、なかなかに風格が在る旧い邸宅が見える…
そのなかなかに雰囲気の在る邸宅…それが豫章館(よしょうかん)である…
↓「何だろう??」と、思わず覗いてしまいたくなるような感じの入口である…
1869年(明治2)年の“版籍奉還”後、各地の大名は“知藩事”ということになった。飫肥で“知藩事”となった伊東祐帰(すけより)が飫肥城から城下の屋敷に移り住んだが、その屋敷が豫章館である。
豫章館は飫肥城の門を出て直ぐの場所に在る。庭の北側に大きな楠(予章木)が在ったことから、豫章館と名付けられたという。“楠”は古くは“樟”と書いたそうだ…
↓一見すると簡素な感じだが、丁寧な造作の「上級な人達が暮らした場所」という風格が在る…
↓建物の周辺も、「手入れに手間が掛かりそう…」と見える“枯山水”風を基調に纏められていた…
1871(明治4)年には“廃藩置県”が実施され、各地の“知藩事”は“華族”ということになり、原則的に東京に住むことになった。豫章館が「知藩事の邸」だったのは、極短い期間であったことになる。
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