『虹の彼方に』(上・下)

夢中になって読み進めた長編小説が終幕を迎え、本を静かに閉じた後、手元に飲み物が在ればそれを一口頂き、禁止されていなければ煙草を点ける…もの凄い勢いで頭の中に入り込んだ作品世界が、静かに整理整頓されるのが、少しばかり自覚出来る…ような気がする短い時間である…そんな時間に整理されたことを、何となく綴ってみることが、「面白かった作品を広く紹介してみたい」ということに通じるのだと思う。

↓どんなに長い物語にも終幕は在る…“最終章”は上下2冊の体裁になった『機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)』である…



虹の彼方に(上) 機動戦士ガンダムUC9





虹の彼方に(下) 機動戦士ガンダムUC10

↑朝・昼・夜と読む時間を設け続けた―思わずそうしてしまったが…―この『機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)』だったが、10冊目を読了した時は、時々ランチを愉しみに出掛ける近所のSホテル内に在るレストランのカウンターに居た…読み終わって、珈琲を啜り、煙草を点けたのだった…

『虹の彼方に』の副題の下、上下2冊で描かれるのは、<ユニコーン>の「最後の闘い」である…所謂“最終決戦”というやつだ…

探し続けた「ラプラスの箱」が在る場所の見当はついた…バナージはその「ラプラスの箱」を目指すが、彼と<ユニコーン>を搭載し、“独自行動”で進む宇宙艦<ネェル・アーガマ>の前には、“袖付き”ことネオ・ジオンの、全ての残存兵力が立ちはだかる。

<ネェル・アーガマ>と“袖付き”の戦力差は大きかったが、バナージの<ユニコーン>を先頭に、マリーダが乗る<クシャトリア>も出動し、彼らは必死に目標を目指す。

バナージの<ユニコーン>の前には、“袖付き”の領袖であるフル・フロンタルが乗る<シナンジュ>、彼に従うアンジェロが乗り、秘密兵器を搭載する<ローゼン・ズール>が迫る。更に<ユニコーン>の同型である<バンシィ>も迫る…

強敵との戦い…漸く辿り着く「ラプラスの箱」の真相…更にそれを抹殺してしまおうとする禍々しい暴威…それらに立ち向かうバナージ達…

ということで、「未読の方のお愉しみを妨げない」程度で筋書きに言及しようとすると、どうしてもぎこちない感じになってしまうことを免れられないのだが…

この『機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)』はアニメーション作品も存在するのだが、それは「小説を原案に制作」というものである。これはDVDまたはブルーレイが順次発売されていて、未だ“フィナーレ”には至っていない…

実は“ガンダム”関係の小説は非常に多く在るのだが、相当数「アニメーション作品を原案に執筆の小説」というものが含まれている。「原案の小説が先行」したのは、シリーズの30年を超える歴史―最初の『機動戦士ガンダム』が登場したのは1978~1979年頃である…―の中で初めてかもしれない。

更に、その「初めての型」の中、“小説”として「宇宙世紀」なるものに「一定程度“普遍化”された文学的なもの」を与えることに成功した作品であるように思う。“ガンダム”と名が付いた瞬間に、「一部のファン」という「特殊な人々」の手中のモノであるかのように即断―佳いモノと出逢う可能性を狭めてしまう在り様であると思うが…―する人が在るかもしれないが、本作を読んでみると、「決してそうではない」ということに思い至る…

本作の人類は、“宇宙世紀”なるものを創造する。創造に際しての、想い、決断、祈りというような様々な要素が「遠い記憶」、「受止め方が変容」という状況に、或いは「封じ込められた記憶」というような型になる程に時間が経った頃…それらに関連した“謎”を投げ掛けようとする人が現れ、“謎”に首を突っ込むことになった群像が描かれるのが本作である。

本作では“モビルスーツ”なる巨人型の兵器がが宇宙空間を飛び交ってみたりする。「だから面白い」という面は在るが、それだけではない…「“封じ込められた記憶”に関する“謎”を投げ掛ける人が現れたことを契機に、作中の群像がそれを巡って動く」ということなら、舞台が時代劇の世界でも西部劇の世界でも、古代でも中世でも現代でも、遠い未来であっても、どういう状況でも物語を創り、綴ることが出来そうである…

“小説”と“映像”との決定的な違いは「ディーテール」であると思う。劇中人物が、そこに現れる時点までに積み上げてきた様々なもの―経験、思考、感情などなど―を濃密に描き込むことが叶うのが“小説”である。本作は、その“小説”の特長を活かし、各劇中人物が濃密に描き込まれている。当然ながら、劇中人物達は作中世界として想定されている“宇宙世紀“の中での経験を重ねている訳だが、そうしたものや、そこから紡がれる各々の想いは、「現代世界の何処か」、更に「自分が住む国の何処か」で誰かが紡いでいるものに重なり合うと思わせる“説得力”が在る…これに加えて、これは本作が採った“SF”という様式の面白さでもあると思うが、劇中人物達が生きる“宇宙世紀”というものの歴史や、その結果として作品世界の時点で在る状況に、「私達が生きている時代」が巧妙に仮託されてもいるように感じる…

本作は、各劇中人物が各々に“光”を追い求めて交錯しているような印象を抱かせる…“光”に関しては、「各々の劇中人物にとってのモノ」が在って必ずしも簡略に説くことも難しいが、究極的にはそれが「人類にとって?」に拡がり、「そして、あなたにとって?」と読者に跳ね返ってくるような感になっていると思う。

或いは「対照的な劇中人物」を提示することで、本作は上述のような印象を強めているかもしれない。例えば…工作船<ガランシェール>のジンネマン船長の下に居る女性パイロットのマリーダと、“袖付き”の領袖であるフル・フロンタルに従うアンジェロが在る…マリーダもアンジェロも「かなり悲惨な境遇」としか表現のしようが無い状況から、各々が仕えているジンネマンやフル・フロンタルに出逢っている。マリーダは、曲折を経ながらも最終的に“光”を見出すが、アンジェロはそういうようにはならなかった…更に彼らが仕えるジンネマンとフル・フロンタルも対照的だ。兵士としての矜持、一家の父親としての幸福を打ち砕かれ、何かを求め続けながら年輪を重ねたジンネマンに対し…大衆の思惟を受容れる器になると称し、何処からどうやって現れたのかよく判らない、何やら“非人間”という印象のフル・フロンタルなのである…

かなりの勢いで10冊を読み進んだ…色々と得るものも在ったと思う。何となく思い付いて紐解き始め、かなり夢中になれた10冊だった…

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