公園の入口に「常磐公園」という園名が刻まれた立派な碑が在る。昭和の初め頃に出来た碑だが、文字は旭川に司令部を設置していた陸軍の第七師団で当時師団長を務めていた人物が揮毫したのだという。往時の陸軍では「師団長」は中将の階級に在る者が務めていたようだが、「常磐公園」の揮毫をしたのは渡辺錠太郎という人物だった。
「渡辺錠太郎」の名に聞き覚えが在った。彼は旭川での任務の後、大将に昇任している。やがて教育総監という陸軍首脳部の要職に就くのだが、「二・二六事件」の際に自宅に在った時に襲撃され、殺害されてしまった。その「二・二六事件で害されてしまった人物」として「渡辺錠太郎」の名を記憶していた。
↓そういうことでこの「渡辺錠太郎」という人物について知りたいという興味が沸いた。そういう中で本書に出逢った。
![]() |
↑揮毫したと伝えられる碑を偶々観たという小さな出来事を通じて「気付いた」人物について、本書を通じて色々なことを知ることになった。種々の史料・資料を、読み易さを意識した形で整理して引きながら、「渡辺錠太郎」という人物の歩みを巧みに纏めている一冊である。
表紙カバーに、軍服姿の男性と、未だあどけない感じの少女との写真が掲載されている。軍服姿の男性が陸軍大将渡辺錠太郎である。少女は末っ子の娘である。年季が入った職業軍人の厳めしい雰囲気ではなく、少女が「可愛がって下さる御父様」と慕っている、強く優しい父親という雰囲気が滲む写真であると思う。少女の側も、「御父様」の傍らに在るのが嬉しく誇らしいという様子が表情から伺える。
渡辺錠太郎は結婚後に娘を授かり、間隔が少し開いて2人の息子を授かった。更に年月を経て、本人が50歳代に入っていて、旭川での第七師団長であった頃、妻から妊娠を打ち明けられた。妻は産むべきか否かを迷っていたらしい。最初の娘は既に嫁いでいて、子を授かったというような話しが出ていた頃であったのだ。そんな中、渡辺錠太郎は妻に「産んでおけ」と告げたそうだ。そこで表紙カバーの写真の娘が産れている訳だ。孫であっても不自然でもない感じの娘を授かったということになる。50歳代が現在よりも高齢であるというイメージであった時代で、渡辺錠太郎は娘と過ごせる時間は余り長くないのかもしれないとして、娘を随分と可愛がっていたらしい。表紙カバーの写真は二・二六事件の何ヶ月か前であるようだ。渡辺錠太郎は62歳で、娘は9歳であったという。
実は渡辺錠太郎が襲撃を受けて最期を遂げてしまった時、一番近くに在ったのが写真の少女、娘の和子であったという。本書は最初の方に事件で渡辺錠太郎が最期を遂げてしまう様子等が、長じた娘の和子が綴ったモノ等も引きながら詳しく叙述されている。御本人に近い側から観た最期というような感じになるであろう。
それを踏まえて、少年期からの渡辺錠太郎の歩みが、高級将校として色々と説いていた論等が詳しく紹介されるのが本書である。少し夢中になる内容だ。
渡辺錠太郎は少し独特な経歴を歩んでいる。優秀な若者を見出して登用する仕組みに乗り、内部での研修を経て昇進という経過なのだ。
陸軍将校の多くが士官学校に学ぶ。士官学校については、幼年学校からという人達も在れば、現在の有名な大学の前身に相当する様々な学校へ進むようなコースに乗っている人達も在って、そういうエリートがなかなかに厳しい試験を潜り抜けて入学していた。渡辺錠太郎はそういうエリートというコースに乗っていない。農家の出で、最低限の義務教育、小学校を卒業しただけである。そこから「誰でも受験資格が在る筈だ」ということで受験可能な年齢になってから士官学校を受験し、見事に合格した。やがて、更に上席の参謀将校となり得る人材の研修を行う陸軍大学校に進む。これも将校と名が付く全ての者が進むのでもない。その陸軍大学校に学んだ渡辺錠太郎は、首席で研修を修了して将来を嘱望されたということだ。
陸軍で将官に昇進するという人達は或る程度限られる。その将官の中でも最高位の大将というのは更に限られる。当時のエリートと呼ばれる経歴と無縁で、「小学校の後に受験年齢になった」というだけで士官学校に入り、大将に迄昇進したというのは、渡辺錠太郎以外に例が無いかもしれないということのようだ。
陸軍大学校の後、渡辺錠太郎は日露戦争に従軍するが、負傷して戦地から退いている。その後は参謀本部に勤務し、元帥山縣有朋(1838-1922)の副官を務め、ドイツへ研修に出る機会も経験している。そういうような経過であったが、第1次大戦の欧州を視察する機会を得て、戦争や軍事ということに関して色々と考え、それらの論を纏めている。この第1次大戦を受けての、渡辺錠太郎の論が本書に詳しく紹介されているが、非常に興味深い。
日清戦争や日露戦争は、陸海軍の軍人が何処かの戦場で戦っているというような感であった。第1次大戦は、各国の国民の大半を広く巻き込む様相になってしまっている。そして航空機の利用で空爆が行われるようになり、各国になかなかに難しい防衛の課題を突き付けるようにもなっている。軍備を備えても、簡単に戦端は開けないものなのだと考えるべきであろうというのが渡辺錠太郎の説だ。
渡辺錠太郎は政治的な行動に出るのでもなく、派閥のようなモノに与しようとするのでもなく、飽く迄も軍人の役目を誠実に果たすという考え方であったとされる。が、所謂「皇道派」と「統制派」との争いに関わるような形になって行ってしまう。政治的な動き、派閥としての行動が目立つような感じになった「皇道派」の突出する傾向を牽制しようとしたのである。そうした経緯の中、二・二六事件に関わった人達の怨嗟の対象というようになって行ったようだ。
やがて本書は二・二六事件の様子等に関して、もう少し多面的に描き出し、事件で最期を遂げた渡辺錠太郎の遺族である和子や、事件に携わった青年将校の家族の年月というような話しを綴っている。
旭川で公園の園名碑の挿話に触れて出くわした人物の名が、史上の少し大きな事件に関わっていることに気付き、その人物の詳しい評伝に出逢うこととなった。何か凄く好かったと思う。
長い間、「渡辺錠太郎」という名は「二・二六事件で襲撃された人達の1人」というだけに留まっていた。が、本書の御蔭で大変な努力で身を立て、世界の歴史、文明の行方のようなモノを見詰め、職業倫理を飽く迄も全うしようと心を砕き、同時に子ども達の強く優しい父親であったという人物像が眼前に迫るようになった。そしてこの人物は、何となく訪ねる機会も在る旭川に所縁の人物ということにもなる。
今般、偶々本書に出くわし、本当に善かった。こういう感じで興味深い本に出くわすことを繰り返しながら、少しなりとも、より心豊かな人生が拓けるのだと思う。「渡辺錠太郎」はもっと知られて然るべき人物であると観る。そういう意味でも本書は広く御薦めしたい。





