『渡辺錠太郎伝: 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想』

過日、旭川を訪れる機会が在って、街を歩いて常磐公園に立寄った。

公園の入口に「常磐公園」という園名が刻まれた立派な碑が在る。昭和の初め頃に出来た碑だが、文字は旭川に司令部を設置していた陸軍の第七師団で当時師団長を務めていた人物が揮毫したのだという。往時の陸軍では「師団長」は中将の階級に在る者が務めていたようだが、「常磐公園」の揮毫をしたのは渡辺錠太郎という人物だった。

「渡辺錠太郎」の名に聞き覚えが在った。彼は旭川での任務の後、大将に昇任している。やがて教育総監という陸軍首脳部の要職に就くのだが、「二・二六事件」の際に自宅に在った時に襲撃され、殺害されてしまった。その「二・二六事件で害されてしまった人物」として「渡辺錠太郎」の名を記憶していた。

↓そういうことでこの「渡辺錠太郎」という人物について知りたいという興味が沸いた。そういう中で本書に出逢った。

渡辺錠太郎伝: 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想



↑揮毫したと伝えられる碑を偶々観たという小さな出来事を通じて「気付いた」人物について、本書を通じて色々なことを知ることになった。種々の史料・資料を、読み易さを意識した形で整理して引きながら、「渡辺錠太郎」という人物の歩みを巧みに纏めている一冊である。

表紙カバーに、軍服姿の男性と、未だあどけない感じの少女との写真が掲載されている。軍服姿の男性が陸軍大将渡辺錠太郎である。少女は末っ子の娘である。年季が入った職業軍人の厳めしい雰囲気ではなく、少女が「可愛がって下さる御父様」と慕っている、強く優しい父親という雰囲気が滲む写真であると思う。少女の側も、「御父様」の傍らに在るのが嬉しく誇らしいという様子が表情から伺える。

渡辺錠太郎は結婚後に娘を授かり、間隔が少し開いて2人の息子を授かった。更に年月を経て、本人が50歳代に入っていて、旭川での第七師団長であった頃、妻から妊娠を打ち明けられた。妻は産むべきか否かを迷っていたらしい。最初の娘は既に嫁いでいて、子を授かったというような話しが出ていた頃であったのだ。そんな中、渡辺錠太郎は妻に「産んでおけ」と告げたそうだ。そこで表紙カバーの写真の娘が産れている訳だ。孫であっても不自然でもない感じの娘を授かったということになる。50歳代が現在よりも高齢であるというイメージであった時代で、渡辺錠太郎は娘と過ごせる時間は余り長くないのかもしれないとして、娘を随分と可愛がっていたらしい。表紙カバーの写真は二・二六事件の何ヶ月か前であるようだ。渡辺錠太郎は62歳で、娘は9歳であったという。

実は渡辺錠太郎が襲撃を受けて最期を遂げてしまった時、一番近くに在ったのが写真の少女、娘の和子であったという。本書は最初の方に事件で渡辺錠太郎が最期を遂げてしまう様子等が、長じた娘の和子が綴ったモノ等も引きながら詳しく叙述されている。御本人に近い側から観た最期というような感じになるであろう。

それを踏まえて、少年期からの渡辺錠太郎の歩みが、高級将校として色々と説いていた論等が詳しく紹介されるのが本書である。少し夢中になる内容だ。

渡辺錠太郎は少し独特な経歴を歩んでいる。優秀な若者を見出して登用する仕組みに乗り、内部での研修を経て昇進という経過なのだ。

陸軍将校の多くが士官学校に学ぶ。士官学校については、幼年学校からという人達も在れば、現在の有名な大学の前身に相当する様々な学校へ進むようなコースに乗っている人達も在って、そういうエリートがなかなかに厳しい試験を潜り抜けて入学していた。渡辺錠太郎はそういうエリートというコースに乗っていない。農家の出で、最低限の義務教育、小学校を卒業しただけである。そこから「誰でも受験資格が在る筈だ」ということで受験可能な年齢になってから士官学校を受験し、見事に合格した。やがて、更に上席の参謀将校となり得る人材の研修を行う陸軍大学校に進む。これも将校と名が付く全ての者が進むのでもない。その陸軍大学校に学んだ渡辺錠太郎は、首席で研修を修了して将来を嘱望されたということだ。

陸軍で将官に昇進するという人達は或る程度限られる。その将官の中でも最高位の大将というのは更に限られる。当時のエリートと呼ばれる経歴と無縁で、「小学校の後に受験年齢になった」というだけで士官学校に入り、大将に迄昇進したというのは、渡辺錠太郎以外に例が無いかもしれないということのようだ。

陸軍大学校の後、渡辺錠太郎は日露戦争に従軍するが、負傷して戦地から退いている。その後は参謀本部に勤務し、元帥山縣有朋(1838-1922)の副官を務め、ドイツへ研修に出る機会も経験している。そういうような経過であったが、第1次大戦の欧州を視察する機会を得て、戦争や軍事ということに関して色々と考え、それらの論を纏めている。この第1次大戦を受けての、渡辺錠太郎の論が本書に詳しく紹介されているが、非常に興味深い。

日清戦争や日露戦争は、陸海軍の軍人が何処かの戦場で戦っているというような感であった。第1次大戦は、各国の国民の大半を広く巻き込む様相になってしまっている。そして航空機の利用で空爆が行われるようになり、各国になかなかに難しい防衛の課題を突き付けるようにもなっている。軍備を備えても、簡単に戦端は開けないものなのだと考えるべきであろうというのが渡辺錠太郎の説だ。

渡辺錠太郎は政治的な行動に出るのでもなく、派閥のようなモノに与しようとするのでもなく、飽く迄も軍人の役目を誠実に果たすという考え方であったとされる。が、所謂「皇道派」と「統制派」との争いに関わるような形になって行ってしまう。政治的な動き、派閥としての行動が目立つような感じになった「皇道派」の突出する傾向を牽制しようとしたのである。そうした経緯の中、二・二六事件に関わった人達の怨嗟の対象というようになって行ったようだ。

やがて本書は二・二六事件の様子等に関して、もう少し多面的に描き出し、事件で最期を遂げた渡辺錠太郎の遺族である和子や、事件に携わった青年将校の家族の年月というような話しを綴っている。

旭川で公園の園名碑の挿話に触れて出くわした人物の名が、史上の少し大きな事件に関わっていることに気付き、その人物の詳しい評伝に出逢うこととなった。何か凄く好かったと思う。

長い間、「渡辺錠太郎」という名は「二・二六事件で襲撃された人達の1人」というだけに留まっていた。が、本書の御蔭で大変な努力で身を立て、世界の歴史、文明の行方のようなモノを見詰め、職業倫理を飽く迄も全うしようと心を砕き、同時に子ども達の強く優しい父親であったという人物像が眼前に迫るようになった。そしてこの人物は、何となく訪ねる機会も在る旭川に所縁の人物ということにもなる。

今般、偶々本書に出くわし、本当に善かった。こういう感じで興味深い本に出くわすことを繰り返しながら、少しなりとも、より心豊かな人生が拓けるのだと思う。「渡辺錠太郎」はもっと知られて然るべき人物であると観る。そういう意味でも本書は広く御薦めしたい。

『シネマ・コミック 風の谷のナウシカ』

映像作品や小説作品等に関して、何度となく題名が耳目に触れて記憶に残っているにも拘らず、その内容を然程詳しく承知していないという場合が多く在ると思う。

題名を承知していて、内容を承知していないという状態に在ったとして、大きな問題は無いと思う。それでも或る時、「あの作品?」と気になる場合が生じると思う。

↓『風の谷のナウシカ』は、自身にとっては「題名を承知していて、内容を承知していない」の最たるモノかもしれない。他のアニメーション作品に関連する本の存在を知って、それを愉しもうとした際に本書の存在を知ったのである。

シネマ・コミック1 風の谷のナウシカ (文春ジブリ文庫) [ 宮崎 駿 ]



↑知られているアニメーション作品の物語の面白さと画の魅力を漫画のような感じで愉しむことが叶うシリーズを知り、何作かの本を愉しく読んだのだったが、シリーズはこの『風の谷のナウシカ』を契機として順次送り出されていたようだ。

作品は漫画作品を原案として創られたということである。恐るべき兵器を駆使した戦争で文明が損なわれてしまい、生き残った人達とその後裔達が生きる世界となって千年を経た頃が舞台というファンタジーだ。

こうした大胆な設定ということになると「説明」が多々必要になってしまうのかもしれない。が、本作ではそういう「説明」という要素が、作中人物達の言動、作中世界での出来事を介して観る側に順次伝えられる。観る側はゆっくりと作中世界に入って行くことが叶う。

冒頭部、作中人物達がガスマスクのようなモノを着用している様子が出て来る。恐るべき兵器を駆使した戦争で文明が損なわれてしまった後、「瘴気」(しょうき)という有毒ガスを発する「腐海」(ふかい)と呼ばれる森が散在し、その毒を恐れながら人々は暮していた。そして変異か進化かで巨大になった「蟲」が方々に棲息しているような様子だ。

こんな中、荒涼とした地域と、緑豊かな地域とが点在しており、人々は様々な共同体を築いて暮らしている。「風の谷」と地域の通称を冠した共同体では、指導的な人物の下で穏やかな暮しが営まれていた。その指導者の娘で、後継者と目され、住民達から「姫」と呼ばれているのがヒロインのナウシカである。父や年長者の技術や知恵を受け継ぎ、ナウシカは共同体の穏やかな暮しを護り、有毒ガスを発する「腐海」(ふかい)の影響力が弱まるように心を砕いていた。

やがて「風の谷」の穏やかな日々が脅かされる。軍事力を駆使して版図を拡げようと活動する「トルメキア帝国」が動いていた。彼らは「ペジテ市」へ侵攻して征服してしまって、或る重要なモノを輸送機で運ぼうとしていたが、その輸送機が「風の谷」の辺りに墜落してしまう。

この輸送機の墜落が契機で「トルメキア帝国」の軍勢が「風の谷」に現れる。そこに制圧されてしまった「ペジテ市」の関係者も絡み、争いが展開される。こういう状況を何とか解決しようとナウシカが奔走するようになる。

こんな本作の、物語と画の魅力が満載の1冊を夢中で読んだ。旧い作品ということにはなってしまうが、殆ど初めて作品に向き合った自身にとっては新作同然である。そういう意味合いで新作同然と感じてはいたが、本作は長い年月を経ても、断じて劣化等しないと思う。

本作の作中世界では、空を飛び回るメカが色々と使われていて、他方でダチョウのような鳥獣に乗って移動するというような様子や、一部に戦車も登場するが、「文明が損なわれてから千年を経た」という全くのファンタジーである。それでも軍事力を行使する勢力や、それに異論が在る勢力が存在し、「禁断の超兵器」(=文明が損なわれる主な要因になったと見做されるモノ)を巡る動き、毒を発するような、過酷な状態になってしまった環境への対応と、「1980年代に創られた」というように思い悪い程度に「今日的」であると感じた。或いは作品の登場から40年程度にもなる現在こそ「『風の谷のナウシカ』が暗示する何か」が「リアル」になっているような気さえしてしまう。

『風の谷のナウシカ』のアニメーション作品が登場したような頃の後、長く続いた体制が揺らぐような事態や、テロや軍事紛争が相次いだかもしれない。が、近年は巨大な軍事力が蠢き、他方で“無人機”のような威力の他方で手軽なような感じの兵器が平和な街を襲い、不吉な不発弾が多く残り、核兵器の使用を示唆というような話しが何度も伝えられ、恐らく酷い環境負荷が生じているであろう「戦禍」が見受けられるようになってしまっている。こういう禍々しい中であるからこそ、「風の谷」の穏やかな様子を護ろうと奮闘するヒロインの様子が描かれた本作の物語が心に刺さる。

題名を承知していて、内容を承知していないという状態に在ったとして、大きな問題は無いとは思う。しかし、この『風の谷のナウシカ』がそういう状況になっているのだとすれば、それは余りにも残念ということになるのかもしれない。

「今更…」と嘲笑の対象になるようなことかもしれないのだが、本作に出逢えて非常に善かった。

『鉄道アイドル伊藤桃 小田急全駅ものがたり』

↓偶々、本書の存在を知り、興味が湧いたので手にしてみた。非常に興味深い一冊であったと思う。

鉄道アイドル伊藤桃 小田急全駅ものがたり



↑一部に人気が高い女性タレントの名を前面に出している本書の題名である。が、内容としては単に「小田急全駅ものがたり」とでもして、著者名に「伊藤桃」で、「(鉄道アイドル)」という位で差支えなかったように思う。著名な著者の本だからというのでもなく、面白い内容なのでということで手にして読むべく一冊であるように思う。

鉄道利用で方々へ旅に出ることを好み、車輛や駅や沿線の様々な文物や各地の美味しいモノを取上げて紹介するというような活動を続けている著者である。そういう流れの中で小田急に取組むという話しが持ち上がって、その関係を纏めたということであるようだ。

小田急は新宿駅の西側で発着していると承知している。小田原への本線や江ノ島線と多摩線で70駅、傘下の箱根登山鉄道が4駅と意外に駅の数が多い。個人的にはそこまで駅が多数に及ぶとは知らなかったのだが。著者はあおれらの全駅について、路線の延伸や駅の開業や目立つ改装工事の経過というような事情を纏めているが、「実際に下車してみて感じることや見えて記憶に残るモノ」というような話題も織り込んでいる。“あとがき”から拝察すると、概ね1年程度の期間で、順次駅を訪ねて本書の取材をしていたのであろう。取材時の都合で季節が様々であったのであろうが、明るい時間帯に訪ねている駅の中に、陽が落ちた頃に立寄ったという駅も散見している。

路線の延伸や駅の開業や目立つ改装工事の経過、更に駅名の起こりや変遷は「調べると判る」という面も在る。が、各駅に著者が実際に立寄っての感というのが交じるのは基調だ。加えて、一部の駅、と言って38駅の周辺で「街の一寸した居酒屋」という風の御店に立寄って様子や、酒食を愉しんでみた感想が入っている。こういう感じの内容は貴重だ。

丁寧な取材での沿線紹介はなかなかに好い。更に別な路線のモノが出てシリーズ化というような感じになるのも面白いかもしれない。

小田急線に関して、個人的には、相対的に利用頻度が低いような気がする。本書を「余り知らない地域の紹介」という感覚で、また小田急の経過を紹介する内容として興味深く愉しく読んだ。何時か訪ねてみたいというような場所も本書の中に多く取上げられていた。なかなかに好い一冊と出逢えた。

『シネマ・コミック 天空の城ラピュタ』

旭川の美術館で展覧会を観た。アニメーション作品の美術で知られる山本二三の作品である。アニメーション作品で使われた画、その他の画と何れも非常に興味深かった。

それが契機で、画の魅力をもう少し愉しみ、同時に画が使われたアニメーション作品に関してももう少し知りたいと思うようになった。

↓そう思っていて出会ったのがこのシリーズである。知られているアニメーション作品の物語の面白さと画の魅力を漫画のような感じで愉しむことが叶う。

シネマ・コミック2 天空の城ラピュタ (文春ジブリ文庫) [ 宮崎 駿 ]



↑アニメーション作品のフィルムから起こした画を漫画風に組み合わせて創っている本である。読み始めると少し夢中になってしまう。

展覧会で観たこの『天空の城ラピュタ』に纏わる画は、「古い石造らしい壁、或いは城塞の壁の一部のようなモノが天の上と思しい、雲の手前の場所に見える」というような感じだった。正に「天空の城」という様子であったのだが、こういうモノが出て来る物語こそ、アニメーション作品によるファンタジーの真骨頂であると思う。見覚えの在る画を含め、本書で画の魅力を愉しむことも叶った。

少し野暮な話しになる。作中に様々な乗物が登場するのだが、何時の時代の何処の乗物なのか判然としない。何処となく20世紀の始め頃のような雰囲気が漂うのだが、「これは如何いう機構?」というような感じのメカ、「途轍もないモノ?」というような感じのメカも多く在る。地上を走り回る自動車や鉄道車輛も見受けられるが、多くは「天空の冒険」という感じで、飛行するメカである。映像表現として「飛び回る」という「三次元的」な動きが面白いので、そういうような設定をしたのかもしれないとも思った。

野暮な話しから物語に話題を戻したい。

冒頭、飛行船が空中を航行している。小型の飛行機のようで、バイクのように乗込んで飛び回るモノが飛行船に搭載されていて、それに乗込んで飛び回る者達が在る。

飛び回る者達は、別な大きな飛行船を目掛けて進む。そして手にした武器を使って大きな飛行船を襲撃する。襲撃を受けた大きな飛行船の中は混乱する。

飛行船の中に襲撃者達が入り込んで乗っている人達の中の一人を連れ去ろうとする。その人物は少女である。少女は恐ろしい襲撃者から逃れようと飛行船の船外に出た。襲撃者達に、少女が外に出たことが気付かれるが、少女は飛行船から天に飛び落ちてしまった。少女は気を失ったが、如何いう訳か勢いよく落下するのでもなく、身体が浮かぶようにゆっくりと降下していた。

その時、或る鉱山の町では機械工の少年パズーが親方の下で仕事をしていた。仕事の合間に、パズーは妙なモノに気付く。人間の少女のようなモノが天からゆっくりと降下しているのだ。パズーはその不思議な少女を抱えるようにした。生きているらしいので、自宅へ連れ帰った。

朝を迎えると少女は気が付いた。シータという名の少女だった。軍のムスカ大佐に連れ出され、飛行船で移動していたが、「空の海賊」である女ボスが率いるドーラ一家の面々に襲撃され、飛行船の中の混乱で落下してしまったというのだ。

やがてシータは、パズーが部屋に大事そうに飾っている写真を見詰めた。パズーの現在は他界してしまっている父が、飛行船に乗っていた時に目撃して撮影したという写真である。それは天に島が浮かび、島に古い城塞のようなモノが聳え立ち、それが半ば雲に覆われているというような様子だった。これが<ラピュタ>というモノであるという。パズーは父が視たという<ラピュタ>が何処かに必ず在ると信じていて、何時かこれを探しに行くのだと、飛行船を造って旅に出ることを夢見ていた。

やがてドーラ一家の面々が町に現れる。シータを探しているらしい。パズーは追われて困っているシータを援けようとする。そしてシータと共に<ラピュタ>の謎にも迫りたいと考えるようになる。

こんな物語だ。出逢ったシータと共に夢を追いたい、そして彼女を援けたいパズーが在る。思惑を秘め、実戦部隊の支援も受けながら活動するムスカ大佐が在る。軍隊が些か大袈裟な動きをしているので、何やら凄い宝物が絡むと観て、好機を狙うドーラ一家が在る。3者が絡み合い、謎の「天空の城」を巡る冒険が展開するのだ。眼を離せない活劇が展開する他方、<ラピュタ>の謎が次第に明かされる。そしてシータを援けようと、パズーが「男」になって行く様子が好い感じだ。

作中人物達が行き当たる<ラピュタ>の挿話は、「行方を見失うような様相を呈した文明」とその中に在った人々の命運というようなことを想わせた。が、天空を駆ける乗物で、ヒロインを援けようと奔走して、邪な思惑を挫くべく闘うという活劇は、理屈抜きに面白い。アニメーション作品の『天空の城ラピュタ』は小学生が観て愉しいというような企図で制作されたというような話しだが、これは「子ども達から大人迄、みんなで愉しい」という作品だと思う。

画が切っ掛けで触れてみた本作である。アニメーション作品の物語の面白さと画の魅力を漫画のような感じに纏めた本書は好い。本作を読んで、少しだけ「何かを夢中で追ってみたいと考えていたような頃」の気分を思い出せたかもしれない。不朽の作品という感であろう。御薦めだ。

『シネマ・コミック もののけ姫』

アニメーション作品の背景画等を手掛ける「美術」という分野が在る。その担い手の代表格が「美術監督」だが、そういう活躍を続けていた山本二三が在る。この山本二三の画の展覧会を旭川の美術館で観る機会が在った。惹かれる画に出逢ったことから、画が使われたアニメーション作品にも少し興味が沸いた。

↓このシリーズは、知られているアニメーション作品の物語の面白さと画の魅力を漫画のような感じで愉しむことが叶う。なかなかに佳い企画の本だと思う。

シネマ・コミック10 もののけ姫 (文春ジブリ文庫) [ 宮崎 駿 ]



↑美術館で観たアニメーション作品の『火垂るの墓』で使われた「昭和20年の街」というような画に強く惹かれ、アニメーション作品の物語の面白さと画の魅力を手軽に愉しみ易い何かと思い付き、この本のシリーズを知った。そういうことで本書も入手し、大変に興味深く読んだ。

『もののけ姫』関係の画も、美術館で観た山本二三作品の中で惹かれた画だった。屋久島か何処かで取材もしてイメージを膨らませて創った画であるらしいが、深い森の様子、独特な光の雰囲気が精緻に美しく描かれている画だった。

本作はそういう深い森という状況も出て来るファンタジーだ。

いきなり野暮な話しになる。「中世の日本」というようなことになっているらしい物語だが、時代設定はよく判らない。室町時代の半ば、15世紀頃かそれ以前という雰囲気も在る他方で、16世紀後半に用いられたような、作中で「石火矢」と呼ばれる鉄砲や、火薬を使う人達が在る。加えて、かなり古くから行われたという「タタラ製鉄」というようなモノが登場する。作中の用語にも「天朝」(天皇を頂く朝廷)、「鎮西」(九州を示す)というような日本の旧い言葉が出ては来る。侍が豊かな村を襲撃しようとするというような状況迄が在る。時代設定のようなことは、考えれば考える程に判らない。吹き飛んでいるような感じだ。

結局は「古い時代の日本の要素を舞台装置に採り入れたファンタジーの世界」で物語が展開するというように考えるべきなのであろう。

野暮な話しから物語に話題を戻したい。

或る村に、巨大な猪と一体化した怪物が現れた。「タタリ神」というモノだ。武芸に長けた勇敢な若者のアシタカはこの「タタリ神」を倒した。ところが「タタリ神」の「呪い」が身体に入り込んでしまった。「呪い」は時間を掛けて身体を蝕み、アシタカはやがて命を失ってしまう。

猪は大変な苦しみの中で絶命した時に「タタリ神」となって彷徨うようになり、アシタカの住む村に流れ着いたのだと推測された。この猪は西から来たと見受けられる。西の国へ出向いて、何が起こっているのかを見定めると「呪い」を解く方策が見付かるのかもしれない。アシタカは西の国を目指して旅立った。

旅を続けたアシタカは負傷してしまった人達と出くわした。その人達を援け、村へ送って行くということになった。そういう中、援けた人達が住む「タタラの村」は豊かな村だ。

その村の近くに巨大な山犬達、山犬達と何時も一緒の不思議な少女が居る森が在ること、森には「シシ神」なる得体の知れないモノが棲んでいるらしいことをアシタカは知ることになる。

「タタラの村」の指導者である女性のエボシは、タタラ製鉄の仕事のために森の木を伐採し、山の一部を崩すこともしていた。そういう様子を、山犬達と何時も一緒の不思議な少女は憎んでいる。この少女はサンと言うが、村人達は「もののけ姫」と呼んでいた。

エボシが指導者となっている村にやって来ている男達は、近くの森の「シシ神」を討取ることが叶えば森を完全に制することが叶う筈だと村人達を唆す。村人達は「シシ神」を討ちに出る。そして「もののけ姫」ことサンは、「シシ神」を討とうという動きに抗おうとする。

アシタカは村人達とサンとの間に立つことになって行く。如何するのか。そして「シシ神」が棲むという森や「タタラの村」は如何なって行くのかというのが本作の物語である。

自然という資源を利用して豊かになろうとするのか、自然は手付かずで護らなければならないとするのかという両者が対立する形になる。そして自然と人々との共存を図るというようなことが模索されて行く。そんな中で、生と死を司るという、森に棲む「シシ神」を巡る物語が展開することになる。

本作のような「或る古い時代」というような大昔から、現在に至る迄、異なる考え方の両者が対立する、やがて争うということは繰り返されている。そういうことであるからこそ、双方の考えを汲んで、双方の共存、更に共栄を図るキーパーソンが必要ということになるのかもしれない。

大きな猪、大きな山犬、そして少し不思議な生物も居るような世界で展開するファンタジーであるが、色々と示唆に富んでいる感じである。アニメーション作品の物語の面白さと画の魅力を手軽に愉しみ易い形式の本書で、作品に出逢えたことが善かった。

『灰色のミツバチ』

↓ウクライナの作家による小説である。原語はロシア語である。なかなかに興味深く読み進めて読了に至った。

灰色のミツバチ



↑一貫して主人公の視点で綴られている。何か「或る男の日記」というような内容を、作家が小説仕立てに整頓したかのような感もした。余り長くはない節が“1”から“74”迄、折り重ねられている。回顧するような場面や、別な場所での動きが出て来るというようなことはない。淡々と時系列に作中の状況は動く。

作中の出来事に関して、作中に年号は明記されていないのだが、2017年頃が想定されていると見受けられる。2018年にロシア語の初登場した後、順次各国で翻訳が登場したようである。恐らく、作者自身が思う以上に「示唆に富む」というような作品になっているのかもしれない。読み進めながらそんなことも思った。

「セルゲイ・セルゲーイチ」という男が本作の主人公だ。作中で「セールイ」や「セリョージャ」とニックネーム、愛称で呼ばれる場面も在るのだが、殆ど一貫して「セルゲーイチ」というように描写される。ロシア語は人の呼び方に関して何通りもの呼び方を使い分ける傾向が在るが、本作はスッキリしているように思う。

物語は冬の或る日から起こる。セルゲーイチが寒い部屋で過ごしているというような様子から始まる。

セルゲーイチはウクライナのドネツク州の小さな村に住んでいる。ウクライナでは「分離主義者」という呼び方をされたようだが、「ドネツク人民共和国」と号してウクライナからの独立を叫ぶ勢力が在り、ウクライナ政府が派遣する軍隊との間に交戦状態が発生している。その交戦状態の前線で両陣営が対峙している近くに空隙が出来る場合が在る。「グレーゾーン」というモノだ。誰かが明確に定めるのでもない存在でもある。セルゲーイチの村は、その「グレーゾーン」であった。

セルゲーイチの村が「グレーゾーン」というようなことになって3年にもなる。通電が停まって久しく、家電製品等は使えず、携帯電話のようなモノに充電というようなことも出来ない。石炭を蓄えてストーブを焚き、灯は蝋燭を使う。最早、村民は各々に他所へ移ってしまっている。村にはセルゲーイチと、幼馴染のパーシャの2人しか住んでいない。

セルゲーイチは養蜂家である。鉱山の仕事をしていたが、肺を少し傷めてしまって仕事を退いた。そして養蜂家として活動するようになり、少し久しくなっていた。冬は納屋に収めた巣箱でミツバチが冬ごもりである。花が見受けられるような春から盛夏がミツバチを使って蜂蜜を集める仕事が本格化するシーズンとなる。

村での冬の顛末を経て、セルゲーイチは交戦の最中も同然である「グレーゾーン」を少し離れて、もう少し悠然と養蜂家としての活動をしたいと思い付く。そして愛車でミツバチの巣箱を載せたトレーラーを牽引して出発するのだ。

本作は冬の村での出来事を経て、思い立ってミツバチの巣箱を抱えて旅に出るというセルゲーイチの行動の顛末である。ウクライナのパスポートを持ち、ロシア語話者であるセルゲーイチだ。2014年頃から大きく様変わりした「ウクライナ国内」を動き回って如何いう様子に出くわすのかということになる。

本作の中でも示唆されているが、本作の物語の背景にはロシア語話者等の一部が分離独立を叫んで内戦というようになってしまったという様子がある。「異なる」ということを「容認」でもなく、「排除」というような方向で動き、武力紛争迄生まれている。本作のセルゲーイチは、この戦争に関して「参加していない」として淡々としている。そして異文化に些かの居心地の悪さを吐露する場面も在るが、タタール人の同業者の家族と助け合うというような場面も在る。

黒と白というようにハッキリ分けようとするのに対し、何通りも在る灰色である。各々の灰色を容認し、淡々と生きるというようなことをセルゲーイチは志向しているのかもしれない。文化的なモザイクであるウクライナに関して、余り強く「黒か?白か?」と問うばかりでは、戦争のような様子にしかならないということであろうか。こういう様子が続き、そして現今の戦禍という様子にも通じている。

作者のアンドレイ・クルコフは「ソ連のレニングラード」で生まれ、子どもの頃に親の仕事の都合でウクライナに遷り、以降はウクライナで育って1990年代以降はウクライナ国籍である。「ロシア語話者のウクライナ人」である。そういう背景の作者は、2014年以降の諸情勢に関して、色々と「感じるところ」が在って本作を綴ったのであろう。

本作のセルゲーイチは常識的な普通な人のように思えるのだが、一部の人達の目線では異端ということになっている。加えて「異端」の意味合いも様々だ。こういう辺りが、作者による「読者諸賢への問い掛け」なのかもしれない。

本作に関しては、ウクライナの多くの人達の「深層」のような場所に導いてくれるような気がしないでもない。何通りも在り得る各々の灰色を容認するというような在り方が、実は求められるのかもしれない。この「灰色」の示唆が、現今の状況下で非常に重いようにも思う。

少しでも広く読まれるべきであると思いながら感想等を綴っている。広く御薦めしたい本作だ。

『アメリカひじき・火垂るの墓』

↓美術館でアニメーション作品に使用された画を観て『火垂るの墓』に関心を寄せた。アニメーション作品の雰囲気を伝える別な本にも触れたが、原案となった小説をゆっくり読んでみたくなった。そういうことで手にして読んだ。

アメリカひじき・火垂るの墓 (新潮文庫 のー3-3 新潮文庫) [ 野坂 昭如 ]



↑本書は短篇集ということになる。『火垂るの墓』、『アメリカひじき』、『焼土層』、『死児を育てる』、『ラ・クンバルシータ』、『プアボーイ』の6篇が収められている。各作品、各々の味わいが在って引き込まれるが、共通項のようなモノも強く感じた。

各作品は昭和40年代前半頃(1960年代後半)に登場しているようだ。作者自身、野坂昭如は1945(昭和20)年の終戦時に15歳であったそうだ。「焼跡闇市派」と自称したそうだが、戦時の様々な事柄、戦後の混乱期を潜り抜けて、その時期から20年余りを経て「自身の中で終わったような、終わっていないような“時代”の記憶」が何時も在ったのかもしれない。本書の各作品については、そうした作者自身の経験、想いの遍歴というようなことを細かく切り取り、適宜組み合わせて脚色する形で小説各篇の主要視点人物を編んでいるというように感じられた。

『火垂るの墓』はアニメーション作品でもよく知られている。14歳の寄る辺の無い少年が、神戸の三ノ宮駅で力尽きてしまう場面から物語は起こる。そしてそこへ至る迄の、戦禍の中で幼い妹と2人になり、妹を護って生きようとして果たせなかったという顛末が綴られている。何か、少年の魂が何処か遠い所、更に未来にでも在って、そこから自身の顛末を見詰めて語っているかのような、不思議な雰囲気が漂う文章であるとも思った。

『アメリカひじき』は会社を営む男が、妻をハワイ旅行に出したことが契機で、ハワイで知り合った米国人夫妻が来日するので自宅に迎えたいと言い出すという辺りから物語が起こる。戦時のこと、戦後の様々なことに想いを巡らせながら、米国人夫妻との交流というようなことになる顛末が綴られる。戦後20年程を経ている時期の物語だ。

『焼土層』は戦禍で少し身体が不自由になった実母により、親類へ養子に出されたという経過の男の物語となる。戦後20年程を経た或る日の出来事が在り、色々なことに想いが巡る。

『死児を育てる』は2歳を過ぎた娘を絞殺してしまったという若い女性が出て来る。そういう挙に出てしまう背後に何が在ったのか、その複雑な想いが解かれる物語だ。戦後10年余りを経ている時期の物語である。

『ラ・クンバルシータ』と『プアボーイ』とは1947(昭和22)年頃というような時期の物語である。『ラ・クンバルシータ』では、或る少年が少年院に収容されるということになり、そこへ至る迄が振返られる。『プアボーイ』は『ラ・クンバルシータ』の主要視点人物である少年と少年院で同房であった別な少年が主要視点人物となる。新潟で会社を営むようになっていた叔父夫妻に引き取られるのだが、少年院に入るに至った顛末や、新潟での顛末という物語となる。

6つの篇を大まかに振り返ったが、作者自身の経験、想いの遍歴が様々に反映された形で物語が創られている様子が凄く伝わった。戦禍という異常で過酷な様子、そうしたモノに何か捻じ曲げられたような人の心や人生、少し長い時日を経ても澱のように人の中に溜まっている何か、場合によって人を突き動かす何かというような共通項が6つの篇から感じられた。

6つの篇の中、『火垂るの墓』の少年は力尽きてしまって「戦後」を長く生きるのでもない。他の5篇は「戦後」の経過を各々に経ている。年代の設定が少しだけ違う、また『死児を育てる』は少年ではなく少女ではある。それでも『火垂るの墓』以外の各篇は、「力尽きることを免れた場合の人生」というようなことであるかもしれない。

作者の野坂昭如の名を聞けば、自身が中学生や高校生であったような頃、更に大学生位の頃に、様々な活動で耳目に触れることも在った「個性的な文化人」というようなことを思う。「みんな悩んで大きくなった〜♪」というようなCMソングも歌っていたと思う。そういうことではあるが、彼は常々「作家 野坂昭如」と紹介された。その「作家」としての仕事には、自身では触れたことが無かった。今般、美術館で観た画が契機で、「作家 野坂昭如」が遺した仕事に確り触れることになった。善かったと思う。

2025(令和7)年は「戦後80年」ということになる。戦禍の記憶等を忘れずに考えるというような問題意識も在るのかもしれない。そうした中、戦禍という異常で過酷な様子、そうしたモノに何か捻じ曲げられたような人の心や人生、少し長い時日を経ても澱のように人の中に溜まっている何か、場合によって人を突き動かす何かに「経験者」として向き合った作家が綴った作品に触れるのは価値在る営為であると観る。

更に言ってしまうと、「今でも激しい戦禍に見舞われている国や地域」というような例も見受けられる中なので、「戦禍」というモノと「人間」というモノに想いを巡らせなければならないようにも思う昨今である。そういうことで、本書は考えるための好い材料になり得ると観る。

御蔭様で好い読書体験をさせて頂いているというようなことを感じる。本作は手軽に入手して気軽に読めるような文量の文庫本であるので、広く御薦めしたい。

『アクトレス』

↓テンポ良く進む物語に夢中になり、素早く読了に至った一冊である。

アクトレス (光文社文庫 ほ 4-21)



↑何人かの視点人物が作中に在り、各々の視点人物の部分が順次展開し、拡がり、または収斂して作中の事態が動いて行く。何か「映像」が読みながら思い浮かぶような感じでもある。或いは、この作者の作品では多く見受けられる雰囲気かもしれない。

奈緒(なお)、希莉(きり)、琴音(ことね)という視点人物にもなっている作中人物達が在り、更に別な視点人物達も幾分設定されている。

奈緒、希莉、琴音は栃木県内の街の出身である。5年程前の高校生の頃に、奇妙な事件に巻き込まれた経過が在った。互いに友人同士でもある。

前半の2割5分程は、彼らの歳月が語られる感である。高校生の年代であった女性達が、20歳代に入って、各々の路を歩んで行くまでの物語が在る。そして各々の路がまた交差して行くこととなる。

彼らの中、希莉は東京の大学に進んで演劇や脚本の執筆、更に小説を綴るというような活動をしている。色々な経過で大手の芸能事務所に一応所属するようになるのだが、少し変わった話しが起こる。希莉が過去に綴った小説の習作に関して、同じ事務所の人気女優の作品として、出版を前提にウェブ配信で発表するというようなことになったのだった。言わば「ゴーストライター」である。希莉は複雑な想いを抱く。

小説は怪異な事件が次々に起こるミステリー仕立ての内容である。連載というような体裁で発表されるのだが、第1回の配信後に小説に在るのと似たような、猫の死体が出て来る騒ぎが起こった。更に第2回の配信後、また似たような騒ぎが在った。

1回騒ぎが起こったのであれば偶然ということになるのかもしれないが、続けて2回である。何者かが小説を模倣する騒ぎを起こしているのかもしれないと気になった希莉は、独自にこの件を調べてみようとするのである。

希莉が調べ始めた一件は意外な展開を見せて行く。その行方を探ることが物語の核となるのだが、視点人物達の様々な物語が交差しながら事態は推移して行く。

事件の謎を解くという核は在るのだが、本作は女性達の仕事、家族、友人関係や男女の交際等、様々な「人生」が描かれる。加えて、作中に小説等を綴る希莉や人気女優、その関係者が登場するので、「表現すること」というようなテーマも入り込んでいるように思う。これが非常に面白い。そういう部分が少し深い余韻になる。

序に言えば、同じ作者の別な人気作品に関係する人物が一寸登場するので、にやりとしてしまった部分も在った。

もしかすると本作に登場している仲間達の、更に何年か後というような物語も登場するのかもしれないというような淡い予感も抱かせるような幕引きにもなっていた。なかなか愉しかった。

『悪が勝つのか?―ウクライナ、パレスチナ、そして世界の未来のために』

↓進行中の大変な事態であり、既に何年間か経てしまっているという事案を巡って、その推移を見詰めて見通し等を論じることを試みている一冊である。非常に意義深いと思う。

悪が勝つのか??ウクライナ、パレスチナ、そして世界の未来のために (法と哲学新書)



↑少なくとも現今のウクライナの事態は2022年以降のことだ。その事態を巡って、本書の中で「前著」と呼ばれる同じ著者による論考の本が出ているという。その出版後に発表した論考を収め、更に本書に独自の論考も加えている。本書ではウクライナの事態に加えてガザでの紛争、パレスチナの事態に関しても詳しく論じている。

2022年以降のウクライナでの事態に関しては、最近になって改めて「停戦」が模索されている様子だ。そういう中で、著者が少し納得し悪い論も色々と在るとして、その辺りを考えるというのが本書の趣旨である。

題名に在る「悪が勝つのか?」である。これは開戦に纏わる国際法や、交戦に纏わる国際法を度外視している勢力を“悪”とした上で、そちらの側が何らかの利益を得るかのようなことになるのは好ましくないという意味である。ロシアは自らの軍事行動を「特て軍事行動」というように称し、「戦争」とは呼ばない。そして開戦や交戦に纏わる国際法を度外視して侵攻を続けている訳である。

こうした前提に立ちながら、著者は2023年5月、2024年5月、2025年1月とリアルタイムに論考を2023年から2024年の論考に関しては、章末に補足を一部添えてはいるのだが、進行していた様々な事態を見詰める目線は熱い。そして「筋は通さなければならない」と切々と訴えていると思った。

ウクライナに関しては2022年以降の現今の事態に至る以前、2014年頃からの摩擦、武力衝突という問題も在る。そうしたことを交えて詳しく説いているので、本書は参考になる。

自身、パレスチナの件に関してはウクライナの件程に知識を蓄えているのでもないが、本書により色々な事を知った。パレスチナの人達に関して、何らの権利も護られないないような、「アパルトヘイト」で酷い差別を受けた人達のような立場に追いやられるかのようになってしまっていて、この問題に関しても様々な国々等も関って何とか好いように解決しなければならないということが判る。

「筋は通さなければならない」であろうが、ウクライナの事態は少しでも早く軍事行動の停止を達成しなければ、損なわれた様々なモノを取り返しようが無くなるばかりなのだと思う。困難は伴うであろうが、色々な人達の叡智が集められなければならないのであろう。実は2014年頃からの摩擦、武力衝突という問題が、当事国以外に伝わっている以上に酷く根深く、それ故に拗れた何かが2022年に暴発し、現今の事態に至ってしまっているのかもしれない。何れにしても、侵攻を始めた側が退かなければ、軍事行動は段落しないとも思うのだが。

重要で煩雑な問題に関して、或る程度リアルタイムで綴った論考を読み易い形で纏めた本書は非常に有益だと思う。結局、少しでも「色々な事を知ろう」として、それに基づいて考えることを続けなければならないように思う。こうした酷い紛争に関しては、「忘れてはならない」ということであるとも思う。少しヒステリックに感じられる程の取り上げ方も如何なものかと思わないでもないのだが、軍事行動が延々と続く中でウクライナの社会が損耗し続け、非常に多くの人達が幸福になり悪いということは覚えておきたい。

こういう種類の本は、眼に留まったら手にしたい。

『シネマ・コミック 火垂るの墓』

↓興味を覚えたタイミングで出くわし、入手した。そして夢中で読んだ。素早く読了に至ってしまった。

シネマ・コミック4 火垂るの墓 (文春ジブリ文庫)



↑アニメーション作品の『火垂るの墓』を基礎とし、映像の画等を使って編んだコミックである。「映画の漫画化」という体裁なのだが、アニメーション映画を想起出来るような感じに巧く編まれている。

映画の制作陣の中に「美術監督」として山本二三が名を連ねている。先日、その山本二三の画の展覧会を鑑賞する機会が在った。数多くの作品の中、『火垂るの墓』で使用された、昭和20年の神戸や西宮の街という背景画に何か凄く惹かれた。記憶に残ると思っていたところに、『火垂るの墓』の映像の雰囲気が判る本ということで本書を知ったのだ。

幼い妹の節子を護り、一緒に生きようとする清太であったが、それが果たせなかったという物語だ。無邪気な様子の節子だが、苦しい情勢の中で苦しさを吐露しないように堪えているような感である。何とかしようと、清太は少し頑ななのかもしれない。

社会が安定を欠いてしまうような、戦禍というようなことにでもなれば、最も辛いのは「力無き者」かもしれない。原案の小説もやや古く、加えてアニメーション作品もかなり事実を経ている。それでも本作は色褪せてはいないと思う。

色々と戦禍を巡る話題も聞こえるような昨今、こういう作品は忘れたくない。